七 笑いの響き《スマイルハウリング》

  七 笑いの響き《スマイルハウリング》


 さよちゃんの前で漫才を披露するのは二月の第一土曜日と決まった。

 当日の昼過ぎ、ノッポとツンデレはそれぞれ学生服姿で、二人して病院にやってきた。二月の薄曇りの日で、天気予報によると午後から雪が降るらしい。鼻の粘膜が凍りついて、匂いも嗅ぎ分けられないほど寒かった。

 病院のロビーに入ると、すぐに長椅子からさよちゃんのママが立ち上がった。どうやらここでノッポたちを待っていてくれたものと見える。

 ノッポたちは挨拶もそこそこに彼女に案内されて、病院の奥へと踏み入っていった。

 入院患者が多数いる大きな病院では、憩いの場とも呼ぶべき広場が屋内外にある。ノッポたちが連れていかれたのはそういう場所で、屋内だからまずなんといっても温かく、壁と天井がガラス張りであるから今日のような曇天の日でも非常に明るい。てっきりさよちゃんの病室でさよちゃん一人を相手に漫才をするのだと思っていたノッポは、この広場に予想だにしないほど大勢の人が集まっているのを見て度肝を抜かれた。同時に膝まで震えてきた。

「ノッポー!」

 と、高い声がした。見ると父親とおぼしき男性に手を引かれているさよちゃんが大きく手を振っているところだった。同時に車椅子に座っている老人や、足にギプスを嵌めている若者や、清潔な白い制服に身を包んだ看護師からも拍手や歓声が送られる。

 ノッポは広場の入り口で立ち尽くしたまま一歩も動けず、隣でやはり凝然としているツンデレに訊いた。

「どないしよ」

「どうもこうも、やるしかないじゃない!」

 ノッポが尻込みしているのを見て、却って闘志に火がついたのか、ツンデレはもはや臆した様子もなく入院患者たちの環のなかへ勇んで踏み込んでいった。

「ノッポ?」

 不思議そうな声が足元からした。顔を下に向けると、さよちゃんがほとんどノッポと身を接するようにして立っていた。ノッポは反射的に莞爾と笑いかけていた。

「今日はいっぱい笑わしたるわ」

「うん!」

 ノッポに頭を撫でられたさよちゃんは目を細めて笑った。それは宝石の光りのような笑顔で、ノッポは胸に熱いものが込み上げてくるのを感じながら一歩を踏み出した。


        ◇


 漫才は盛況のなかで幕を閉じた。

 ノッポは安堵に抱かれて座り込みたい気持ちと、やり遂げた誇らしさに胸を張っていたい気持ちとのあいだで揺れていた。さよちゃんは笑顔でまだ拍手をしてくれている。

「よかったわ、ほんまに」

「そうね」

 答えたツンデレの声にも、安堵が滲んでいた。

 いったい、入院生活というものは、それが長引けば長引くほど虚しく退屈で仕方がないのだろう。また行く末に不安もあるに違いない。だからか、集まってくれた患者たちは素人の漫才にもよく笑ってくれ、それがノッポには嬉しく、そしてほんの少しだけ哀れだった。

 それからノッポたちはさよちゃんの病室に場所を移した。そこは個室で、ノッポの祖母の病室と同じような明るい快適な部屋だった。さよちゃんがベッドに乗ると、さよちゃんのママが手際よくなにかの機械のスイッチを入れ、チューブやらケーブルやらをさよちゃんの体に取り付けていった。

 さよちゃんはあっという間に機械に繋がれ、ベッドの上で大人しくなってしまった。

 少し離れた場所からその痛々しい光景に目を注いでいたノッポとツンデレに、さよちゃんが笑いかけてくる。

「ほんとはね、ずっとこうしていなきゃいけないの」

「大変やな」

 ノッポの目にも声にも同情が滲んでいた。だが同情があからさまでは却って傷つけることになるだろうかと思い直し、急いで無表情を取り繕った。

 と、ツンデレが明るい声で口を切った。

「さよちゃん」

 さよちゃんが含羞の滲んだ淡い微笑でそれに応える。ツンデレはベッドの横に立ち、小腰を屈めてさよちゃんと目線の高さを合わせながら続けた。

「ちゃんと話をするのは初めてね。わたしツンデレ、ノッポの相方よ。よろしく」

「うん」

 軽く握手を交わした二人の少女は、それから黄色い声でお喋りに打ち興じはじめた。最初はツンデレが会話の綱をぐいぐいと引っ張って、それに戸惑い気味なさよちゃんだったけれど、次第次第に順応してきたと見えて、五分と経たないうちに自分からよく話すようになった。さらにさよちゃんのママも会話に混ざり始め、女三人寄れば姦しいということわざが再現される。

 ノッポはそんな三人を遠巻きにして眺めていた。口を挟む機会もないではなかったが、なんとなく女性の環に踏み入ることが躊躇われて、かなわんなあと思いながらさよちゃんのパパに顔を振り向けると、彼もまた微苦笑を浮かべていた。

 ノッポの視線に気づいたさよちゃんのパパは、指で黙って病室の戸口を示した。ノッポはひとつ頷き、夢中になってお喋りをしている三人に「便所や」とだけ告げて、あとは振り返らずに病室を出た。


 病室の並ぶ廊下の一隅にはソファとテーブルが設けられていた。見舞客と談笑するためのスペースだろう。壁はガラス張りで、五階のここからは灰色の街並が霞んで見える。近くには自販機もあり、ノッポはさよちゃんのパパに缶珈琲をおごってもらった。

「いただきます」

 缶を受け取ったノッポは、その熱さにしばらく缶を手の中で転がしていた。同じ缶珈琲を買ったさよちゃんのパパは、蓋を開けて中身を一口すすると、缶を音の立つようにしてテーブルに置き、柔和な目をしてノッポの顔を覗き込んできた。

「今日はありがとうね」

「いや、大したことはなんも」

「そんなことないよ。さよは楽しそうだった」

「はあ」

 ノッポはようやく手の平が熱さに慣れてきたのを感じて、缶の蓋を開けた。珈琲を飲みながら、さよちゃんのパパに視線をあてる。若い男性だった。さよちゃんのママもそうだが、二人ともまだ三十を過ぎていくらも経っていないと思われる。

 さよちゃんのパパはまた珈琲を飲み、苦そうな顔をして云った。

「あの子は長生きできないだろうから、一つでも楽しい思い出を作ってあげられたなら、よかったよ」

 ノッポは缶を取り落としそうになった。

「そんな、弱気な」

 だがノッポにはそれ以上なにも云えない。目の前にいるこの男性はさよちゃんの父親なのだ。娘を救うために八方の手を尽くしてきたはずである。

「そんなに厳しいんですか?」

「どうかな」

 さよちゃんのパパは朗らかに笑って、ついにノッポの問いには答えなかった。手のなかで珈琲の缶が徐々に熱を失っていく。さよちゃんのパパは不意に顔の笑みを消した。

「でも代われるものなら、代わってやりたいよ」

 切実な響きを帯びたその声に、ノッポは返す言葉を見つけられなかった。

 そのあと気詰まりな沈黙が続くかと思われたが、そこはさすがに相手が大人なだけあって、さよちゃんのパパはノッポたちの学生生活や先日のお笑い大会のことに話題を変えてきた。それに応えて話をしていたノッポは、胸中にわだかまっていたはずの重たいものが溶けてなくなっているのを、ふとした瞬間に気づいた。

 缶珈琲が尽きたころ、ノッポはガラス張りの壁の外に白いものが舞っているのに気づいて声をあげた。

「雪や!」

 灰色の暗い空から白い雪が降ってくる。風に踊るそれらのいくつかは血迷って、ノッポの目の前の透明な壁にぶつかってきた。

「傘、持ってきてるかい?」

 さよちゃんのパパのそんな問いかけに、ノッポは首を振って答えた。

「ないです」

「そりゃ困ったね」

 さよちゃんのパパは笑って、空き缶をノッポのものと一緒にごみ箱に捨てた。


 本格的に吹雪いてくる前に帰った方がいいかもしれない。ノッポはそう考えて病室に取って返した。ドアノブを握り、扉を押し開け、開口一番に「ツンデレ、さよちゃん、雪やで!」と云うつもりだった。

 しかし病室に入ったノッポは、部屋のなかが妙に静まり返っているのを肌で感じて愁眉を作った。

「なんや。どないしたん?」

「ノッポ、どこ行ってたのよ」

 ツンデレが、いつの間にかベッドの横に置いてあった椅子から腰をあげて、ノッポをねめつけてくる。

「便所や、云うたやろ」

「聞いてないわよ」

「ちゃんと聞いとけや」

 そんな云い合いをしているノッポの傍らを通り過ぎていったさよちゃんのパパが、さよちゃんのママに訊いた。

「どうした?」

「それが……」

 さよちゃんのママは泣きそうな目をして、夫から娘へと視線を転じた。さよちゃんは窓の外に降る雪を、睫も動かないほどじっと見つめていた。

 ノッポはツンデレを押しのけると、さよちゃんの傍に歩み寄って尋ねた。

「おう、さよちゃん、どないしたんや?」

 さよちゃんはノッポには一瞥もくれずに、唇だけ動かして答えた。

「雪」

「おう、雪やな」

 ノッポは体をねじり、窓ガラスの向こうで風に遊ばれている雪を見た。

「せや」

 ノッポは自分の思いつきに顔を輝かせて、勢いよくさよちゃんに顔を振り向けた。

「明日も休みやし、また来たるわ。上手い具合に雪が積もったら、雪だるまでも作ろうか」

 だがさよちゃんは目も動かさなかった。まるで雪の舞う空に魂を半ば引き込まれてしまったかのようだ。やがてさよちゃんはうっそりと云った。

「雪、見てて思ったの。死んじゃうんだなあ、って」

 ノッポは咄嗟に否定しようと口を開いたが、さよちゃんの顔を見ているうちになにも云えなくなってしまい、声を発することなく目を逸らした。ツンデレもまたかける言葉を見失っている様子だ。たださよちゃんのママだけが、気まずい沈黙をなんとかしようとさよちゃんに笑いかけた。

「馬鹿なこと云わないの。ほら、飴舐める?」

 さよちゃんのママはサイドボードに置いてあったのど飴の袋を手に取り、音が鳴るように振った。

「うん……」

 さよちゃんは聞いているのかいないのか、曖昧に頷いたまま、やはり雪の舞う窓外の景色に視線を注いでいた。

「さよ! 聞いてるか?」

 と、今度はさよちゃんのパパが、おどけたような声をあげてベッドに腰掛け、さよちゃんの肩を抱いた。さよちゃんはさすがにくすりと笑って父親を振り仰いだが、その手をそっと押しのけると、また窓の方を向いてしまった。そのまま、しばらく沈黙が流れる。

「最近、思うの。このまま死んじゃうんだとしたら、私、なんのために生まれてきたんだろうって」

 ノッポは目を丸くし、ついで小さく吹き出した。

「ははっ。さよちゃんはちっちゃいのに、難しいこと考えよるねんな」

 するとさよちゃんは気分を害したらしく、ノッポを睨みつけてきた。睨むといっても迫力はなく、子供が拗ねたときの可愛らしい目つきである。

「私、真剣よ」

「せやかてそんなもん、俺でもわからんで。なあ、ツンデレ?」

「まあ、ね」

 ちょっと云い淀んだのは、ツンデレなりにさよちゃんの期待に応えられそうな言葉を探していたからであろう。しかし常日頃からそういう考えを繰り返し自問自答しているのでもないかぎり、言葉にできるものではない。それでもツンデレは答えようとしたのだ。

 ノッポはそこにツンデレの誠意を見た。すると自分が恥ずかしくなってくる。さよちゃんは七歳で自分の生まれてきた意味を問わねばならないのだ。自分が七歳のときなどなにも考えていない坊主だったのに、いったいどうしてこんなことになったのだろう。死の一文字がすぐ傍らにあると、人の心は肉体よりも高次に上昇していくのだろうか。

 そこまで考えて、ノッポはわらった。

「さよちゃん。自分がなんで生まれてきたのかとかは、そう難しく考えるもんちゃうで」

 するとさよちゃんは少しだけ唇をとがらせた。

「じゃあ、簡単なの?」

「もちろん、簡単や」

「でもノッポ、さっきはわからないって云ったじゃない」

「さっきはさっき、今は今や」

 ノッポはその場にしゃがみこんで、ベッドに座るさよちゃんよりも低い位置に目線をもってきた。そしてさよちゃんの両手を双の手で包み持って、熱い声を注ぐ。

「あのな、さよちゃんの人生はオッパラペッポーや」

 閃光魔術が炸裂した!

 蹴り飛ばされて床に叩きつけられたノッポを、さよちゃんはびっくりしたように目を丸くして見つめている。ノッポは床に這いつくばったまま呻き声をあげた。

「おまえ、後頭部はあかんやろ」

「あんたがワケわかんないこと云うからよ」

 ツンデレはノッポを蹴った脚を床につけると、憤然と胸を張った。一方、さよちゃんはベッドの上から少し身を乗り出してノッポに尋ねてきた。

「ねえ、オッポラペッポーってなに?」

「そうよ、説明しなさいよ」

 ノッポは頭の後ろを押さえながら立ち上がると、ツンデレとさよちゃんを交互に見て首を振った。

「オッパラペッポーは口で説明できるようなものやあらへん。考えるんやなくて、感じるんや。ほら、さよちゃん、手を貸してごらん。外に出よう」

 さよちゃんに手を差し伸べたノッポに、横からツンデレが食ってかかった。

「雪降ってるわよ!」

「あ」

 ノッポはさよちゃんに手を差し伸べたまま、首を巡らせて肩越しに窓を見た。灰色の空から降る雪は、吹雪に変わりつつある。窓が閉め切られている暖房の効いた部屋だからつい失念していたが、外は風も強く、相当に寒いであろう。

「だいたいさよちゃんは基本的に安静にしてなきゃいけないのに、外に連れ出そうとするなんて本当に馬鹿ね!」

 ノッポは返す言葉もなく、諦めて手を引っ込めようとした。しかしそれより一瞬早く、さよちゃんの手がノッポの手を捕まえた。

「さよちゃん?」

 ノッポはさよちゃんの手の小ささと冷たさに驚いて振り返った。ベッドの上から、機械に繋がれたさよちゃんはうんと首を伸ばすようにしてノッポを見上げてくる。

「でも、ベッドの上で大人しくしてたって、どうせ死んじゃうんだわ」

「いや、でもやな」

 もしものことがあったら責任もてへんし、と云おうとしたノッポに先回りして、さよちゃんが云う。

「私がどうして生まれてきたのか、教えてくれるなら、今日死んじゃってもいいわ」

 ノッポは濃密な花の香りを嗅いだ気がした。そして同時に、この手を決して振り解いてはいけないのだと感じた。ノッポはさよちゃんの手をきつく握りしめ、自分の方へ引いた。

「わかった。ほな行こか」

「ノッポ!」

 ツンデレの声には本気の怒りが籠もっていた。ノッポは反射的にさよちゃんの両親を見た。さらにさよちゃんもノッポの視線を追いかける。

「パパ、ママ、行っていい?」

 さよちゃんのママは厳しい表情をつくった。きっと、だめに決まってます、と云おうとしたのだろう。しかしそれを、さよちゃんのパパが片手をあげて遮った。

「いいよ」

 ツンデレとさよちゃんのママの二人が、揃って目を丸くする。しかしさよちゃんのパパは朗らかに笑って、さよちゃんの頭を撫でた。

「さよの好きにするといい」

「うん!」

 そのときのさよちゃんの笑顔は、小さな太陽のようだった。


 ノッポは厚着をしたさよちゃんの手を引いて、病院の敷地内にある芝生の丘にやってきていた。枯れた色の芝には今、薄い雪化粧がなされている。

「マジ寒い!」

 ツンデレがノッポたちのすぐ後ろで自分自身を掻き抱きながらそう声をあげた。

 さよちゃんは空を仰ぎ見ると、小さな口を大きく開けて雪を食べた。

「美味いか?」

 ノッポが尋ねると、さよちゃんははにかんだように頷いた。それを見てノッポは全身の粒立つような昂揚を覚え、自身も大口を開けて舞い散る雪のひとかけらを口に含んだ。

 そんな二人の後ろから、ツンデレが揶揄するような声で云う。

「あんたら、雪って結構汚いわよ?」

「ロマン壊すこと云うなや」

「ふふっ」

 さよちゃんは気にした様子もなく、また口を開けて雪をひとつ食べた。

 ノッポは丘の一番高いところでさよちゃんの手を離した。それから後ろを振り返り、さよちゃんとツンデレ、さらにその後ろに立つさよちゃんの両親を順に見てから、またさよちゃんに目を戻す。

「ええか、さよちゃん。オッパラペッポーを感じるには体使わなあかんで」

「からだ?」

「せや。今から俺が見本みしたるさかい、ちょっと待っとき」

 ノッポは云うが早いか、制服の上着を脱いで芝生の上に放った。さらに防寒用のベストを脱ぎ、ネクタイも外し、ワイシャツはおろか肌着まで脱ぎ捨てて上半身を剥き出しにする。よく日焼けし、筋肉のついた逞しい胸や背中に落ちた雪は、すぐに溶けて消えた。

「うわ、ほんとに脱いだら凄い……」

 いつかの言葉を憶えていたのか、ツンデレがノッポの裸形を見てそう呻いた。一方、さよちゃんはノッポをびっくりしたように見ている。

「ノッポ、寒くない?」

「平気や」

 ノッポはさよちゃんにわらって答えた。実際、体が寒さに震えたのは裸になった直後だけで、今は冷気に身の引き締まる想いがした。

「ええか、さよちゃん。よう見とき」

 ノッポは大きく息を吸うと、天に向かって声の柱を立てるように絶叫した。

「オッパラペッポー!」

 それはともすれば空に垂れ込める雲に穴を空けてもおかしくないほどの叫びだった。そしてノッポはその場で高々と跳躍する。さよちゃんが目を丸くして見上げる先で、ノッポは実に一メートルも垂直に跳んだ。のみならず両手を大きく広げ、脚も百八十度近くにまで開脚した。その一瞬、人間は鳥に化けた。

「ふっ」

 そんな呼気とともに着地を決めたノッポは、その勢いに負けて片膝をついた。滞空時間は短かったが、さよちゃんの精神に流れる時間ではずいぶんと長く感じられたことだろう。

「どや?」

 ノッポはさよちゃんに問いかけたが、さよちゃんは胸の前で指を組み合わせて、なんと云っていいかわからない様子だ。

「えっと……」

 ノッポはさよちゃんが返答に窮していると見るや、すぐさまツンデレに目を向けた。

「ツンデレ、おまえもやらんかい!」

「わたしにそれをやれっての?」

 ツンデレは顔を真っ赧にして拒絶の色を声に濃く漂わせていたが、ノッポは立ち上がり、拳を掲げて声を大きく張り上げた。

「なに恥ずかしがっとんのや! お笑い芸人やろ?」

 ツンデレはなおも反駁しようとしたが、すんでのところで思い直したらしく、歯を食いしばってノッポを睨みつけてきた。次に口を開いたときには、その目に決意の光りが宿っていた。

「わかったわよ」

 ツンデレはいかにも仕方なさそうにノッポの横に立つと、さよちゃんを見下ろしてにこりと笑いかけた。

「それじゃあ、見ててね。あ、でもノッポみたいに服は脱がないわよ?」

「俺は脱いでくれた方が嬉しいけどな」

 すかさずそうくちばしを入れたノッポに閃光魔術が炸裂した!

 それからツンデレは何事もなかったかのように大きく息を吸って叫んだ。

「せーの、オッパラペッポー!」

 雪の降るなか、弾けんばかりの輝く笑顔を浮かべたツンデレが高々と跳躍する。スカート姿だからさすがに開脚はしなかったが、その代わりに膝を畳んで、踵でお尻を蹴りつけるほどだった。

「高っ!」

 閃光魔術で蹴り飛ばされたノッポは、雪に濡れた芝生の上に尻餅をついたまま、ツンデレの跳躍の高さに度肝を抜かれていた。やはり彼女の脚力には、端倪すべからざるものがある。

 そして見事な着地を決めようとしたツンデレだったが、足元に降り積もっていた雪がノッポに踏み固められていたのも祟って、派手に滑って転んでしまった。

 ノッポとさよちゃんは腹を抱えて笑った。顔を赧くしながら身を起こしたツンデレが喚く。

「もう、なに笑ってんのよ」

 笑っているのがノッポ一人なら容赦のない罵声を浴びせただろうが、さよちゃんまで笑っているので、ツンデレの声には迫力がけていた。

「ああ、おもろ」

 ノッポは目に浮いた涙を指で払うと、立ち上がってさよちゃんの許まで歩いていき、小腰を屈めて云った。

「さよちゃんもやってごらん」

 するとさよちゃんは不安そうに顎を引いた。ノッポは笑みを深めて、安心させられるようにと祈りを込めて続ける。

「オッパラペッポーは見てるだけじゃわからんのや。自分でやってみんとな。踊る阿呆に見る阿呆、同じアホなら踊らにゃ損々。そこのあなたもご一緒に」

 すると不安に陰っていた目に、徐々にではあるが輝きを取り戻し、さよちゃんは顔をあげた。

「オッパラペッポー、私にもわかる?」

「わかるよ。教えてあげるから、おいで。人生はオッパラペッポーやで」

 ノッポの差し伸べた手に、さよちゃんは手を重ねた。ノッポはなにか大切なものを託されたような気持ちでさよちゃんの手を握りしめ、歩き出した。

 ノッポはさよちゃんを自分とツンデレのあいだに立たせると、

「ええか?」

 と、三人のあいだで呼吸を計った。ツンデレとさよちゃんの自分を見上げる目に準備ができていることを見て取ったノッポは跳躍のために屈みながら音頭をとった。

「ほないくで。せーの」

「オッパラペッポー!」

 三人は同時に跳んだ。ただ方向はばらばらで、ツンデレは垂直だが、ノッポは斜めに、さよちゃんは前に向かって跳んだ。

 さよちゃんは勢い余って転んでしまったが、雪の冷たさに目を輝かせて笑うばかりだ。ノッポは白い息を吐きながらさよちゃんに駆け寄った。

「さよちゃん、高さが足りへんで」

「そうなの?」

「そうなんや。そういうわけでな」

 ノッポはさよちゃんの華奢な腰を後ろから両手で掴み持つと、その小柄な体を楽々と担ぎ上げて肩車にした。

「きゃっ」

 さよちゃんは最初驚いて両足を高く上げたが、暴れはしなかった。ノッポはさよちゃんの小さな手が自分の頭を抱える感触に目を細めながら、踵を返してツンデレの横まで走っていった。

「ツンデレ、もういっぺんや」

「了解」

 ツンデレの頬は上気していた。当初身に纏っていた恥じらいの衣を脱ぎ捨てて、今は身も心も軽くなっているように思える。ノッポはもちろん火の玉のようだ。

「早く、早く」

 さよちゃんは目をきらきらさせながらノッポを急かしてきた。

「よっしゃ、いくでえ。せーの」

「オッパラペッポー!」

 三人の楽しげな声が雪の降る空に吸い込まれて消える。地上ではノッポとツンデレが力の限りに跳躍していた。三人の笑顔は風船のように舞い上がったが、やがて体ごと重力に絡め取られて落下し、着地した。

「ふふふふふっ」

 さよちゃんは満面の笑みを浮かべて明るい笑い声をあげていた。ノッポもツンデレも華やぐような笑顔だ。それを見ていたさよちゃんの両親も、つられて笑っている。雪のなかに笑い声が反響していく。

「ノッポ! もっと高くして!」

「任しとき!」

 もはや目を合わせてタイミングを計るまでもなく、ノッポとツンデレは心が通じ合っているかのように同時に膝を屈めた。そこにさよちゃんの声が加わり、また三人で合唱する。

「オッパラペッポー!」

 ノッポは生涯で一等高く跳んだ。だがこれでもまださよちゃんには足りないらしい。

「もっと高く!」

「しゃあないな。ほんなら、こうや」

 ノッポは肩車していたさよちゃんをひょいと持ち上げて一度下ろすと、反対を向かせてまた持ち上げた。いわゆる、高い高いの格好だ。ノッポの太い両腕に支えられているさよちゃんは、灰色の空を背にノッポを不思議そうに見下ろしている。

「いくで、さよちゃん」

「うん!」

 さよちゃんの顔は期待にはち切れんばかりだ。長く待たせるつもりはなく、ノッポはただちに口を切った。

「せーの」

「オッパラペッポー!」

 ノッポたち三人の声とともに、ノッポはさよちゃんを大きく真上へ放り投げた。

 さよちゃんは空を飛んだ。笑い声を響かせながら。

 やがてノッポは落ちてきたさよちゃんをしっかりとその胸で抱き止めた。さよちゃんは釣られたばかりの魚のように身をくねらせて、首を伸ばしてノッポに勢いよく話しかけてくる。

「ノッポ、もう一回オッパラペッポー!」

「よっしゃ、もっかいオッパラペッポーや! いくでツンデレ」

「はいはい、オッパラペッポー!」

 もはやそれで意志の疎通が可能であるかのように、ノッポはもう一度さよちゃんを空に向かって放り投げた。

「オッパラペッポー!」

 さよちゃんは今や全身で笑っていた。顔も手も声もすべてがオッパラペッポーだった。

 次にノッポの両手に受け止められたとき、さよちゃんは自分の両親に輝く顔を振り向かせて、精一杯の声を振り絞って云った。

「パパ! ママ! わたし、わかったの! わたしオッパラペッポーなのよ!」

「そうか! オッパラペッポーか!」

 さよちゃんのパパは笑顔になって走り寄ってくると、ノッポの手からさよちゃんを受けって高く掲げた。

「今度はパパがやってやる」

「うん!」

 大きく頷いたさよちゃんだが、ふと気づいたように視線をあらぬ方に向けた。そこにはさよちゃんのママが一人で立ち尽くしている。さよちゃんのパパはそれに気づくと、妻の目を見て声を投げた。

「おまえも来い!」

 さよちゃんのママは泣き笑いのような顔をして目元を拭うと、こちらに駆け寄ってきた。さよちゃんのパパがさよちゃんに目を戻して云う。

「いくぞ、さよ。せーの」

「オッパラペッポー!」

 宙高く舞い上がるさよちゃんを祝福するように、ノッポとツンデレが息を合わせて跳んだ。

 さよちゃんはついに到達した。

 笑いの響きのなかで答えを得た。

「オッパラペッポー!」

 今度はツンデレがさよちゃんを宙に舞わせた。そのあとさよちゃんのママが、次にまたノッポが。四人は代わる代わるさよちゃんを空へ放り投げる。そのたびにさよちゃんは笑う。

 生まれてきた意味はオッパラペッポー。

 人生は笑いの風に舞う花びらの如し。


 いったい、さよちゃんは何度宙を舞っただろうか。

 ノッポがさよちゃんを受け止め、その体をさよちゃんの父親に渡そうとしたときだ。さよちゃんが息の詰まったような声をあげて胸を押さえた。

「さよ」

 さよちゃんのママが一転して張り詰めきった声をあげる。

 ノッポは凍りつきそうな想いでさよちゃんを芝生の上に下ろしたが、さよちゃんは自力で立っていることができず、体を傾かせた。ノッポは慌ててさよちゃんを支えて芝生に横たえ、腕を枕にしてその顔を覗き込んだ。

「さよちゃん」

「にゃあ」

 さよちゃんは猫のような声をあげて苦しんだが、最後の瞬間には苦しみさえ和らいだのか、自分を覗き込む四人の顔を見てわらった。

 さよちゃんは八歳の誕生日を目前にして死んだ。

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