六 愛とツッコミ

  六 愛とツッコミ


 日曜日の朝、あらかじめ父に事情を話していたノッポは、父から借りた紺のスーツに袖を通した。サイズは少し窮屈だったが着られないほどではないし、ネクタイも制服がブレザーだからそつなく結べた。

 かくして身支度を整えたノッポは姿見の前に立った。長身ということもあいまって高校を出たてのサラリーマンに見える。そしてツンデレに「どこがイケメンなのよ!」と突っ込まれた顔だが、どの角度から見ても疑いようのない男前だ。

 あのあとノッポは気を取り直し、インターネットカフェのテーブルを使ってルーズリーフに漫才の筋書きを書き付けていった。発想も展開も熱い泉のように湧き出してきて、筆の運びに迷いはなく、筆致は力強く明快だった。かくして出来上がった台本を、ふじのんに監督されながら雨上がりの路上でさっそく試してみた。手応えはあった。優勝間違いなし、とまで楽観はできないが、先日の漫才よりは上等だろう。

「ほな、行ってくるわ」

 午前十一時、ノッポは家族にそう挨拶をして、意気揚々と家を出た。

 今日は一段と寒いが、昨日と違って朝から快晴である。

「なんか縁起がええ気がしてきたで」

 ノッポは翼を広げたような雲の形に吉兆を見た想いがしてそう独りごちると、浮き立つような足取りで会場へ向かった。


 ノッポたちが住んでいる町の地元商店街には、店と店とに挟まれた小さな広場があった。公園と呼ぶには少し物足りないが、ベンチなども配されていて座ることができる。商店街の催しものはこの広場で行われるのが常だ。

 今は広場の奥に特設のステージが設けられ、その前に客席となるパイプ椅子が並べられていた。さらに広場の両側、つまり個人商店の外壁に紅白の幕で飾り付けがなされている。お笑い大会の開催は本日正午からで、ノッポが会場に辿り着いたときにはまだ三十分以上の時間があったが、すでに客は入り始めていた。

「さすがに爺ちゃん婆ちゃんばっかやなあ」

 とノッポはぼやいたが、返事をしてくれる者はいなかった。ツンデレとは楽屋で待ち合わせているので、今は一人なのだ。

 ステージ前には審査員席が設けられており、彼らが出演者たちの優劣を決定する。顔ぶれは町内会長であったり商店街の有力者であったりだ。

 こうして会場の様子を一通り目に収めたノッポは、ツンデレと落ち合うべくその場を後にし、商店街から道を一本外れた、いわゆる裏通りに足を運んだ。通りの右手には広場の特設ステージの裏側が見える。そして左手には駐車場があり、そこに塩化ビニールの白い屋根を張ったテントが建てられていた。これが急造の楽屋である。一月の冷たい風を遮る壁はないので、ずいぶんと不親切な楽屋だと思いながら、ノッポは足を踏み入れた。

 楽屋には長机とパイプ椅子が用意されており、本日の出番を待っている出演者たちが肩を寄せ合って座っていた。顔ぶれは商店街の男性や地元の大学生などが大半だが、なかには若手の芸人もいるようだった。ノッポにそれが判ったのは、当の本人がそう名乗って周りに挨拶をしていたからだ。ツンデレの姿はない。

「なんや、まだ来とらへんのか」

 ノッポはそうぼやいて、長机の上に積んであった書類を一枚手にとった。それには今日の出演者の一覧と出演順、出演予想時刻が表に打ち出されていた。出演者は全部で十八組おり、ノッポとツンデレは十六番目、出演予想時刻は十二時四十五分である。

 ツンデレは携帯電話を持っていないので、こういうときに連絡が取れない。まさか遅刻はしないであろうが……と、ノッポがその書類を手に考え込んでいた、そのときだ。

「ごきげんよう」

「うおっ!」

 ノッポは文字通りに飛び上がって驚いた。音も気配もないまま、すぐ背後に濃い紫色のドレスで美しく着飾ったお嬢が忍び寄っていた。

「こんにちは、ノッポさん」

 と、メイド服姿の黒江がお嬢の後ろから現れた。

「なんや、お嬢たちか。びっくりしたわ」

 ノッポはどきつく胸を抱えつつ、手にしていた書類を机に戻すと、お嬢の姿を頭のてっぺんから爪先までつくづくと眺めた。率直に云って美人である。佳人である。窈窕ようちょうとさえしている。これで胸さえあれば文句ないのだが、とノッポはお嬢の胸元に視線を注いだ。そのドレスは胸元が開いておらず、ぴったりと閉じた衿合わせが右脇に向けて斜めの線を描いている。

「ずいぶん不躾な視線ね」

 不愉快そうに眉宇をひそめたお嬢がなにかをノッポの鼻先に突きつけてきた。ノッポは身を仰け反らせて、突きつけられたものに焦点を合わせるや目を剥いた。

「お嬢、おまえ、それ鞭やないか!」

「しかも乗馬鞭ですぅ」

 黒江が同情を乞うような声色を使ってうったえかけてきた。ノッポは固唾を呑んで尋ねた。

「ハリセンはどないしたんや?」

「あんな美しくないもの、わたくしには似合わないのよ。だからこちらに持ち替えたの」

 お嬢は輝くような笑みを浮かべて、乗馬鞭を目の高さに掲げた。白い優雅な指尖ゆびさきに携え持たれているその鞭は、黒い革製の上等な短鞭で、先端が四角く凝っていた。

「こっちの方がよっぽどわたくしに相応しいわ」

 ふふふふ、とお嬢は愉快そうな笑い声を立てた。

「それでメイドさんをぶつんか」

 ノッポの頭には当然SMというアルファベットの二文字が濃く浮かび上がっていた。そこから広がる卑猥な妄想に鼻の下を伸ばしたとき、閃光魔術が炸裂した!

「なにすんねん」

 地面に這いつくばったノッポは、そう低い声で唸りながら、自分を蹴倒した人物を仰ぎ見た。

「敵と仲良くしてるからよ」

 憤然たる面持ちでそう云い放つ彼女の姿を目に映じるや、ノッポは顎を落として固まった。そこにはツンデレではなく、金髪をツインテールにした謎の美少女が立っていた。生地の薄そうなジャケットに、真冬という季節を無視した膝上丈のスカート姿だ。

 ノッポはその少女の足元から、聖者にすがる物乞いのような目をして問いかけた。

「どちら様ですか?」

「寝ぼけてんじゃないわよ!」

 閃光魔術が炸裂した!

 テントの屋根の下から蹴り出されてごろごろと道に転がったノッポは、いま車が通りかかっていたら死んでいたと思いつつ立ち上がり、謎の少女に信じがたい目を向けた。

「この蹴りは、間違いあらへん。ツンデレの閃光魔術や。しかしおまえ、その髪は……」

 ノッポだけでなく、お嬢と黒江も目を丸くしている。ツンデレは三人の視線を浴びながら、照れくさそうな顔をして云った。

「カツラよ、カツラ。ステージ衣装ってことで、あのあとふじのんにアキバのコスプレショップに連れてってもらって、そこでレンタルしてきたの。ツンデレったら金髪ツインテールが主流みたいだからね」

 ツンデレは金髪の毛先を指に絡め取って微笑んだ。ノッポはようやく衝撃から醒めて立ち上がると、ツンデレの前に立って、半ば呆けたような顔でしみじみと云った。

「おまえも本気なんやなあ」

「当然! 生活がかかってるからね!」

「しかしレンタル料はどこから出したんや?」

「あんたの財布」

「なんやて!」

 閃光魔術が炸裂した!

「その言葉はボケと見なすって云ったでしょ」

 地面に叩きつけられたノッポに、ツンデレが目に軽侮の光りを宿して云う。しかしノッポはめげずに起き上がると、スーツの内隠しから財布を取り出して中身を確認した。

「ない! ないで!」

 ノッポは指で菱形になるほど大開きにした財布の札入れを食い入るように見て愕然たる声をあげた。財布に一枚忍ばせておいた、虎の子の万札が消えている。今の話をそのまま受け取るなら、ツンデレがやったのだ。

「昨日、別れ際にちょちょいとね」

 ツンデレが指を魔法でもかけるかのように動かして云った。

 ノッポは財布を地面に叩きつけると、肩を怒らせてツンデレに食ってかかった。

「おまえ、泥棒やないか!」

「るっさいわね。コンビでしょ? あんたのものはわたしのものよ」

「だったらおまえの乳もケツもピーも俺のものってことやな! 今すぐ触らせえ!」

 強烈な存在感を持つツンデレの乳房を目がけてノッポが両腕を迸らせた瞬間、閃光魔術が炸裂した! ノッポは放物線を描いて空高く舞い上がり、背中からアスファルトに叩きつけられて激しく咳をした。

 テントの下から出てきたツンデレがノッポを見下ろして微笑む。

「まあ、そのうち返してあげるわよ。出世払いってことで」

「おっぱい。一揉みでええんや」

 ノッポは息も絶え絶えながらそれだけ云うと、黒いニーソックスに包まれたツンデレの足にすがりつこうとした。

「優勝したらね」

 ツンデレは微笑み、ノッポの頭を無慈悲に踏みにじった。ノッポは今度こそ沈黙した。そこへ優雅なせせら笑いが小波のように寄せてきた。お嬢だ。

「今日はいつにもまして浅ましいわねえ」

 ツンデレはノッポの頭から足をどけると、はっきりと敵意の籠もった目をして振り返った。ちょうどお嬢が黒江を従えてテントの屋根の下から道端に出てきたところである。

 お嬢はツンデレのスニーカーの爪先を踏むか踏まないかといった距離に立つと、唇を薄く伸ばして嗤った。

「泥棒の真似事までしなきゃならないなんて、庶民は本当、哀れだわ」

「あんたはどうして、わたしにやたら絡んでくるのかしらね」

「おっぱいが小さいことをひがんでるからですよねえ」

 とつぜんの黒江の曝露に、ツンデレもお嬢も二人打ち揃って目を丸くした。ようやく息が整って立ち上がったばかりのノッポも、「へっ?」と気の抜けた声をあげた。

 時間の止まったような沈黙のなか、黒江がふしぎそうに瞬きをして小首を傾げる。

「あれ? 私、外しましたか?」

 するとお嬢の体が小刻みに震え始めた。

「外したとか、そういうことじゃなくて……黒江ー!」

 お嬢の手にしていた鞭が閃き、黒江が咄嗟に顔をあげて庇った腕に、容赦ない打擲ちょうちゃくが浴びせられた。ノッポはその聞いている方が痛くなるような音に首を縮めたが、黒江はにこやかな笑顔を絶やさなかった。お嬢はなおも鞭を振るう。

「このお馬鹿! 馬鹿馬鹿! どうしてばらしてしまうのよ!」

「あん。お嬢様、痛い。痛いですぅ」

 黒江の腕が二度三度と鞭で打たれる。しかし痛いとうったえる黒江の声には奇妙な色香が滲んでおり、ノッポはまたぞろSMやら女王様といった単語を思い浮かべるのだった。

 と、そのときツンデレが鼻先で笑った。それは短かったけれど、たしかに勝者の威風を吹かせるものだった。お嬢はそれを聞きとがめたらしく、素早い反応を見せて振り返った。そこを捉えてツンデレが云う。

「なんだ、そういうことだったの。つまりあんたは、この胸が!」

 云って、ツンデレはジャケット越しに自らの巨乳を下から鷲掴みにし、寄せて上げるようにしてことさら見せつけた。その肉感的な光景にノッポはもちろん目が離せない。そしてツンデレが鋭い微笑を浮かべる。

「羨ましいってわけね」

 今や二人の立場は逆転していた。今までは恵まれた家庭環境に裏打ちされた優越感の上に脚を組んで座っているお嬢を、ツンデレが火の瞳で睨みつけているのが常だった。それがそっくり入れ替わっている。ツンデレがお嬢の財力に嫉妬していたように、お嬢もツンデレの乳房に嫉妬していたのだ。

 ノッポはいつぞや明かされなかったお嬢がツンデレに挑みかかる理由の答えを得てすっきりしていたが、同時に呆れ返りもした。

「お嬢。そんな理由でツンデレにちょっかい出しとったんか」

「ほんと、呆れるわ」

 ツンデレがノッポの尾について云った。そのときお嬢がついに癇癪を起こした。

「うううっ、おだまり! 貧乏のくせにお乳ばっかり育って! そんなんだから頭が悪いのよ!」

「るっさいわね! 毎日いいもの食べてるくせにAカップ未満なんて信じらんない! このド貧乳!」

「ド? ドって云ったわねえ!」

 にわかに高まり合う二人の感情の火花にあてられたノッポは、二人がこのまま取っ組み合いの喧嘩を始めるのではないかと思った。互いの柔肌を爪で引き裂き合い、金切り声を立てて女同士の論理の無い闘争へと傾倒していくのではないかと危ぶんだ。ツンデレとお嬢、二人の顔が接近していく。

「あかん!」

 ノッポは咄嗟に後ろからツンデレを羽交い締めにしてお嬢から引き離した。一方、黒江も「まあまあ、お嬢様」と穏やかな声でお嬢を宥めにかかっている。

 暴れる気配を見せたツンデレの耳元へ、ノッポは余裕のない声を吹き込んだ。

「手ぇ出したらあかんで、ツンデレ。決着はステージでつけようやないか。な?」

「お嬢様、お笑いで勝負ですよ。お笑い」

 黒江の落ち着いた声と笑顔は、お嬢のささくれだった心を癒したらしい。

 一方、お嬢が冷静に復していくのを見て、ツンデレも理性を取り戻したようだ。

「放して」

 ノッポは云われた通りにしたが、ツンデレがいつお嬢に掴みかかっても対応できるよう身構えていた。

 ツンデレは腰に手をあて、お嬢は腕組みをして、お互いしばし無言で睨み合っていた。

 そのとき乗用車が通りかかって、道の真ん中に立っているノッポたちにクラクションを鳴らしてきた。お嬢はその車にすがめをくれたあと、ツンデレに向かって云った。

「また叩きつぶして差し上げるわ」

「こっちこそリベンジよ!」

 二人の少女はもう一度強く睨み合うと、競うように肩をぶつけ合って、楽屋となっているテントの屋根の下へ入っていった。


 正午になっていよいよお笑い大会が始まった。客の入りは上々で、フリーアナウンサーの司会者が挨拶もそこそこに手際よく場を取り仕切り、最初の出演者をステージに立たせた。ノッポは彼らの漫才を尻目に客席をざっと見渡し、目当ての人物の姿を見つけ出せぬままその場を後にした。

 楽屋に戻ると、パイプ椅子に脚を組んで座っているツンデレがノッポに声をかけてきた。

「どこ行ってたのよ?」

「いやな、客席見てきたんやけど、さよちゃんがおらへんねん」

「そう」

 ツンデレは素っ気なく呟くと、ノッポのおごりで買ったペットボトルの紅茶を口に含んだ。

 ノッポはツンデレの隣の席に腰を下ろすと、しばしの沈黙を挟んで云った。

「やっぱり、医者の許可が降りんかったんかな」

「かもね」

 ノッポの気持ちは二つに割れていた。あんなに無邪気に自分たちの漫才を観たいと云ってくれた子が、結局観に来られなかったのは残念だし、可哀想だ。しかしこれで自分たちの漫才がつまらなかったとして、さよちゃんをがっかりさせることはない。

 思考がそこに及んで、ノッポは頭を抱えた。

「なんや俺、えらい後ろ向きになっとるわ」

「緊張してるの?」

「そうかもわからんな。さよちゃんえへんで、正直ほっとしとる俺がおるねん」

「単に遅れてるだけかもよ」

 ノッポは息を呑み、頭を起こしてツンデレに顔を振り向けた。自分たちがステージに立ったとき、さよちゃんは客席にいるのかもしれない。その光景を想像したら、なぜだか腹が据わった。

「それならそれで、ええわ。さよちゃんを笑わしたる」

「その意気よ」

 ツンデレは満足そうに頷き、またペットボトルの飲み口を唇に寄せた。

 ノッポはお嬢たちの方に目を向けた。お嬢と黒江は離れたところに座っていて、なにやら真剣な顔で話し合っている。今日の漫才についてだろうか。ノッポは、もうツンデレと打ち合わせをする気にはなれなかった。昨日のうちにネタはすべて纏めたし、持ち時間に収まるかも計った。今さらやることはない。万事は尽くした。あとは天命を待つだけである。

 そして時間は流れ、係員の男性がテントのなかに向けて何度目かの声を張り上げた。

「次、『お嬢とメイド』さん。準備お願いします」

「はーい」

 と、のどかな声をあげた黒江が、次にお嬢が、椅子から立ち上がった。

 ノッポの手元の出演者一覧表によると、お嬢たちの出番は十八組中の十一番目である。ノッポたちより五組早い。

 お嬢はまっすぐテントを出て行くかと思いきや、ノッポたちの方へ歩み寄ってきた。またかとノッポが椅子の上で身構えたとき、お嬢がツンデレに微笑みかけた。

「それではお先に失礼するわ。悪いけれど勝たせてもらうわよ」

「あっそ、せいぜい頑張るのね」

 その短い応酬のあと、ツンデレとお嬢はまたしても視線をぶつけあった。先刻のような一触即発の気配はないけれど、剣呑な空気は傍で見ているノッポの肌を切り裂きそうである。

「お嬢様」

 やがて黒江にそう急かされて、お嬢はつんとそっぽを向くと、二人でテントを出て行った。それを見送るやツンデレは紅茶の残りを急いで飲み干し、そわそわと立ち上がる。

「行くわよ、ノッポ」

「おう」

 当然、お嬢たちのステージを客席から観させてもらうのである。


 テントを出るとお嬢と黒江は骨組みもあらわなステージ裏が見える道端に立たされていた。ステージに上がるとっつきの階段があり、マイクを通した声が裏手のこちらまで聞こえてくる。ノッポたちはお嬢たちと目を合わせたが言葉は交わさず、裏通りから商店街へと道を回り込んで広場の客席に足を運んだ。

 ステージでは、九番目に出演している大学生トリオが漫才に励んでいた。もう終わりごろと見える。ノッポはステージではなく客席に目を凝らしたが、やはりさよちゃんの姿はない。

「ノッポ」

「おう」

 ツンデレに促され、ノッポは後ろの席に二人並んで腰掛けた。

 やがて九番目、十番目の出演者の出番が終わり、司会者がよく通る美声で十一番目の出演者の名前を呼んだ。

「次、エントリーナンバー十一、お嬢とメイドさんです。どうぞ!」

 すかさずお嬢と黒江が上手からあらわれ、マイクスタンドの前に立ち、漫才は拍手とともに幕を開けた。


        ◇


 拍手が鳴りむと、お嬢が優美な笑顔を作って口を切った。

「ああ、感じるわ、黒江! ご町内の殿方の視線が集まっているわよ!」

「私が可愛いからですよねー!」

「ちっがーう!」

 お嬢の乗馬鞭が黒江のお尻に叩き込まれた。それは思いのほか凄い音をさせた。一瞬凍りつきかけた客席は、しかし黒江の「あん」という艶を帯びた声によってただちに温められた。

 お嬢は乗馬鞭の先端を摘んで、鞭をたわませながら云った。

「わたくしは深窓の令嬢、あなたはメイド。どっちが花かなんてわかりきってるじゃない」

「あははー、さすがお嬢様。お胸ぺったんこなのに自信満々」

「胸のことは云うな!」

 お嬢に本気の鞭を浴びせられた黒江が、またぞろ艶やかな声をあげて崩れ落ちた。


        ◇


 笑いの起こる客席のなかで、ノッポはツンデレの耳にささやいた。

「台本、ちょっと変えてきてんな」

「今のはアドリブでしょ。お嬢、ちょっとキレてたじゃない」

 ツンデレはそう答えながらも、舞台から目を離さない。


        ◇


 お尻をぶたれてステージに手をつき、打ちひしがれたように座っていた黒江だが、やがて何事もなかったかのように立ち上がると、涙を溜めた目でお嬢を見つめた。

「お嬢様、もっと優しくしてくださいぃ」

「おだまり。まったく」

 お嬢はまだ憤懣やるかたないといった様子だったが、客席の方へ顔を戻すと傲然と云った。

「とにかく、わたくしが拝謁の栄を与えてあげたのだから感謝なさい」

「すみません、この人ちょっと変なんです」

「黒江!」

 お嬢の鞭がふたたび黒江のお尻をぶった。

 客席から笑いが起こり、それが収まったところを見澄まして、お嬢がため息をつきつき切り出した。

「もういいわ。ところで黒江、せっかくこういう機会を得たのだから、おまえが一つ彼らに語って聞かせておあげなさい。わたくしがいかに高貴で優雅で完璧かということを」

「短気で遊惰で高慢ちきかってことをですね!」

「ちっがーう!」

 空を裂く鞭の音がして、背中を打たれた黒江が嬌声とともにくずおれた。

「全然違うじゃないのよ!」

「あうう、ひどいです、お嬢様」

 黒江はステージに膝をついたまま恨みがましい目でお嬢を見上げたが、もちろんお嬢は取り合わない。つんと顎を持ち上げると、殊更に人を見下ろす目つきをして憤然と吐き捨てた。

「おまえがあんまり馬鹿なことを云うからよ。さあ、回り道はやめにして、話を先へ進めなさい」

「はーい」

 黒江はスカートの埃を払いつつ立ち上がると、客席に体を向け、こほんと咳をしてから話し出した。

「それではお集まりいただいた皆さんに、今日はお嬢様がいかに愛に溢れた人物であるかということを、お話ししちゃいますねー」

 そして黒江はすらすらと淀みない語り口で話し始めた。

「あれはお嬢様が中学一年生のときです。ちょうど梅雨の一番深い時期で、気の塞ぐような雨が何日も降り続いておりました。そんなある日のこと……」

 暗い空の下を、お嬢と黒江はそれぞれ傘を差して、学校からの帰途を辿っていた。雨はちょうどお嬢たちの帰宅に合わせるようにして、熱帯のスコールのような強烈なものへと変貌した。さながら銀色の檻に閉じ込められたようで、視界も利かないほどだったという。

「当然、雨音がうるさくてうるさくて仕方なかったのですが、それでも私たちはそんな雨のなかでみゃあと鳴く子猫の声を聞いたのです。私とお嬢様ははっと目を見合わせ、声の主を捜しました。果たして、その子は電信柱の根元にいました。拾って下さいと書かれた段ボール箱に入れられて、強烈な雨に打たれながら、金色の瞳でこちらを見上げています。それは黒い子猫でした」

 お嬢は子猫を見つけると駆け寄って座り込んだ。子猫は存外に元気そうだったが、このような強い雨に打たれていては体力を消耗するのも時間の問題だと思われた。とはいえ、連れて帰ることはできない。捨て猫や捨て犬をいちいち拾っていてはきりがない。

 そこでお嬢は「黒江」と云って手を差し出した。黒江はただちにお嬢の考えを理解し、その手に自分の傘を手渡した。お嬢はその傘を子猫が雨に濡れないように立て掛けてやってから、子猫の頭を撫でて「誰かいい人に拾ってもらえるといいわね」と、云ったのだ。

 そこで黒江は涙ぐんだ。

「おかげで私はずぶ濡れになって帰りました。ひどい話ですよね」

「お待ち!」

 鞭が閃き、黒江の肩のあたりを打った。

「そういう締め方をするとわたくしが悪人みたいじゃないの。打ち捨てられている子猫に傘を差し掛けてあげたのだから、もっと美談のように語りなさいよ!」

「はあ。でもご自分の傘を差し上げればよろしいのに、私の傘を取り上げるなんて……長年お嬢様に一途に仕えて参りましたのに、猫より大事にされなかったなんてショックでした」

「おだまり! それよりその話には続きがあるでしょう!」

「はい」

 黒江はこほんと咳をすると、あらためて客席に向き直った。

「まあそんなこんなで無事の帰宅を遂げたわけですが、私、お嬢様に云いました。あの子、いい人に拾ってもらえなかったら保健所に連れていかれて殺処分ですよねえ、って。そうしたらお嬢様ったら青ざめられてあたふたされたあげく、結局あの子猫ちゃんを保護することに決められて、雨のなかに私を走らせたんです。ひどい話ですよね」

「黒江!」

 お嬢は今度は鞭を使わず、強烈な踏み込みとともに黒江の胸ぐらを掴み上げた。そして息のかかりそうな距離から、低くひび割れた声で云う。

「だからそういう語り口じゃ、わたくしの美談にならないって云ってるのよ! わたくしの愛情の深さよりおまえの哀れさの方が強調されてるじゃないの!」

「だって、子猫ちゃんを保護して差し上げるならご自分で走りにいけばよろしいのに、ずぶ濡れの私をまた雨のなかに行かせるなんてひどいです」

「使用人が主人の手足となって働くなんて当然でしょう!」

 お嬢は黒江を放すと、鞭をもった手を高く構えた。

「もういいから、その後の顛末を皆さんに聞かせておあげなさい。さあ!」

 お嬢の鞭がぴしゃりと黒江のお尻をぶった。黒江はちょっと顔をしかめたが、すぐに笑顔になって口を切った。

「といっても、もう語ることはほとんどないんですけどね。その後、私がその子猫ちゃんを保護して、子猫ちゃんはめでたくお屋敷の飼い猫になったというだけのお話です。ちなみに名前はくろぴーって云って、今も元気にしてますよ。お世話は主に私がやってます。朝夕の餌やりもトイレの砂を替えるのも毛繕いもぜーんぶ私の仕事です。お嬢様はなにもしてらっしゃいません。なのに……」

 と、そこで黒江はまた目に涙を溜めた。大きな黒目が月を映した夜の湖のように光る。

「なのにくろぴーったら、私よりお嬢様に懐いてるんですよ。ひどい話ですよね!」

「だから、黒江ー!」

 お嬢がこれまでで一番大きく腕を振り、咄嗟に顔をかばった黒江の二の腕に鋭く強烈な鞭をあてた。

 そして沸き起こった笑いが収まると、メイド服のスカートの前で手を合わせた黒江が、横に立つお嬢に向けて云った。

「ところでお嬢様」

「なによ?」

「そろそろ持ち時間が迫ってきましたよ」

「そう? ならそろそろ締めの挨拶といきましょうか」

「はい」

 こっくりと頷いた黒江は、横に動いてマイクの前を空けた。そしてお嬢がマイクを独り占めして話し出す。

「今日はわたくしたちの漫才を観ることができたのだから光栄に思いなさい。こんな機会は二度となくてよ。皆さんに笑っていただいて、素晴らしい舞台になったわね。これもひとえに――」

 そのとき、脇に控えていた黒江がマイクの前に顔を割り込ませて云った。

「私のおかげですよねー」

「黒江ー!」

 お嬢の鞭が黒江を一撃した。

「あなたって人は最後まで!」

「まあまあ、お嬢様。皆さん笑ってくださってるんだから、いいじゃないですか」

 お嬢がどれだけ憤っても、黒江の笑顔の壁を崩すことはできなかった。

 ……。

 黒江がお嬢を宥めるまでにいくらかの時間を要し、二人は持ち時間を少々超過したあと、「ありがとうございましたー!」と頭を下げ、拍手に送られてステージを後にした。

 ノッポもまた拍手をしていた。ツンデレは腕を組んでむっつりとしていたが、お嬢たちの漫才を観て何度か笑っていたのをノッポも目と耳で確かめている。ノッポはわざと意地悪な声色を使って尋ねた。

「どや、ツンデレ? 勝てそうか?」

「あったりまえじゃない。わたしたちの漫才の方が絶対面白いわ」

「頼もしいな。ほな行こか」

 ノッポはスラックスのポケットに両手を突っ込み、椅子から立ち上がった。


        ◇


 その十分後、ノッポたちは上手の舞台袖で出番を待っていた。ステージではノッポたちの直前の出演者が、今まさに芸の真っ最中である。そのマイクを通した声が聞こえるのはもちろん、客席の気配までもが生々しく感じられた。

「緊張してる、ノッポ?」

 と、金髪のカツラをつけたツンデレが話しかけてきた。

「してるけどしてへん」

「なによ、それは」

 ツンデレがノッポの向こう臑をこつんと蹴ってきた。かくいうツンデレこそ、表情も声も仕草も、なにもかもが硬いのだから、きっと緊張しているのだろう。無理もない。客席はまるで海のようだ。観客は立ち見を含めても百人程度しかいないはずなのに、広く深くつかみ所がなく、ときどき起こる笑い声は波に似ている。

 今の出演者の芸が佳境を迎えたのを見ながら、ノッポはツンデレに云った。

「なあツンデレ。決めギャグの話、憶えてるか?」

「ふじのんに云われたやつでしょ。がちょーんとか、アイーンとか」

「せや。俺、実は思いついたねん。それもたった今や」

 ノッポはにやりと笑ってツンデレの耳に口を寄せて囁き、その髪から立ち上るシャンプーの香気に少しだけうっとりとしたあと、頭を起こして得意気に鼻孔をふくらませた。

「どや? 開幕で云わへんか?」

「それ、すべらない?」

「そんなこと云わんと、勇気出して行こうや。緊張解けるで」

 するとツンデレの可憐な顔に微笑が咲いた。

「ま、あんたに必要だって云うなら、仕方ないわね」

「よう云うわ、ほんまに」

 ノッポが苦笑を漏らしたとき、今の出演者の芸が終わった。拍手が鳴るなか、司会者が簡単な感想を述べた。十五番目の出演者は客席に向かって一礼したあと、下手の舞台袖へと姿を消した。

 そして司会者がバリトンの声を高らかに張り上げる。

「次、エントリーナンバー十六、ノッポとツンデレさんです。どうぞ!」

 拍手が起こった。

「行くで」

 ノッポはそれだけ云うと、ライトのあたるステージへと飛び出していった。ステージの中央にはスタンドマイクが立てられており、そこにツンデレと二人並んで立つ。上手がツンデレで下手がノッポだ。

「どうも、ノッポでーす」

「ツンデレでーす」

 そして二人合わせてこう云った。

「オッパラペッポー!」

 これこそがノッポの閃いた決めギャグであった。しかし客席の反応はなかった。いや、決して皆無だったわけではないが、薄かった。ツンデレがノッポを振り仰いで、笑顔の裏に怒りを滾らせて云う。

「オッパラペッポーってなんなのよ!」

「そんなことはどうでもええんや」

 ノッポは苦笑いで答えるほかなかった。

「まったくもう」

 ツンデレはぶつくさ云いながら、台本に戻ってひとまず挨拶を始めた。

「はーい、本日はお寒いなかわざわざここまで足を運んでいただいてありがとうございます。さてさて、今日のお題は『愛とツッコミ』……愛とツッコミってなんなんでしょうね? このノッポの考えることは、わたしにもさっぱりわかりません――」

 それを聞きつつ、ノッポは客席にざっと視線を走らせた。奥の方にお嬢と黒江が立っている。わざわざ足を運んでくれたとおぼしきクラスメイトたちが歓声をあげてくれていた。

 ふじのんもいる。彼女は「がんばってー」と、声をかけ、手まで振ってくれていた。

 だが、さよちゃんの姿はない。

 やはりさよちゃんは病院からの外出を許されなかったのだ。ノッポの胸には、先ほど感じた安堵などなかった。ただ自分たちの漫才を観て貰えないことが残念だった。それでももう台本に戻らねばならない。ノッポはこれみよがしにスーツのポケットに手を入れると、なにかを取り出す仕草をした。実際にはなにも持ってはいない。ふりだけだ。そして段取り通り、ツンデレがそれに気づく。

「ん?」

 今まで一人で話していて観客の視線を集めていたツンデレが、急に挨拶を打ち切ってノッポを見れば、観客の注意もそちらに向かうのが道理だ。ノッポは注目されているのを感じながら、「あむ」という声をマイクに拾わせて、なにかを口に入れる仕草をした。そしてくちゃくちゃと口を鳴らす。ここに至ってツンデレが顔色を変えた。

「ちょ、ちょっとあんた、今ガム食べた?」

「うん」

「うんじゃないでしょ! 本番中に、なにやってるのよ!」

「いや、食べたいから」

「食べたいからって、そんなくちゃくちゃやったら失礼でしょ、お客さんに。吐き出しなさいよ」

「いや、ガム食べたいから」

「失礼でしょって云ってるの!」

「ガムが食べたいんや!」

 ノッポが熱の籠もった声でうったえると、ツンデレは困ったように失笑した。

「どうしても?」

「どうしてもや」

「まったく、しょうがないわね。じゃあ特別に見逃してあげるから、わたしにも一枚ちょうだいよ」

 手を差し出してくるツンデレに対し、ノッポは一歩さがって小憎らしい顔でそっぽを向いた。

「いやや」

 ツンデレがにわかに憤然とした顔をし、声に怒りを孕ませる。

「ちょうだいよ」

「いやや」

「ちょうだいって云ってるの!」

「いやや、云うてるねん!」

「なによ、ケチくさいわね! ガムの一枚くらい、いいじゃないのよ!」

「じゃあ口移しで」

 蛸のように唇をとがらせたノッポに、閃光魔術が炸裂した!

 笑いが沸き起こるなか、のっそりとした動きで立ち上がったノッポに、ツンデレがため息をつきながら云った。

「ほら、もういいからガム吐き出しなさい。ほら、銀紙に」

 ノッポは銀紙を出す仕草をした。

「包んで捨てる」

 ノッポはその声に従った。

「気をつけ」

 ガムを捨てたノッポは気をつけをする。ここまではツンデレに忠実な犬のようだ。しかし。

「右向け、右! そっち左!」

 お約束通りに左を向いて客席にお尻を向けたノッポを、ツンデレが慌てて百八十度回転させた。だがノッポはちょっとしたアドリブを思いついてツンデレに顔を近づけた。

「なあ、俺の息の匂い嗅ぎたくない?」

「ないわよ!」

「ミントの香りやで?」

「しつこい! ほら前向いて」

 ツンデレはノッポの顎を持って無理やり前を向かせた。ノッポは客席に向き合って大人しく気をつけをすると、台本に従ってツンデレの台詞を待った。ツンデレがふたたびマイクの前に立って口を開く。

「えー……」

 そのまま声が途絶えた。台本にない展開だ。

「おい、どないした?」

 ノッポがすかさず問いかけても、ツンデレは返事をしない。

「ツンデレ?」

 肘でつつくと、目に角を立てたツンデレが顔を真っにして叫ぶ。

「あんたのせいでなに云おうとしてたか、わかんなくなっちゃったじゃないのよ!」

 閃光魔術が炸裂した!

 蹴り飛ばされたノッポは、しかしアドリブが入ったのだと思って立ち上がった。幸い、客席からは笑い声があがっている。ノッポはこの波に乗らねばならないとして感覚を研ぎ澄ませた。一方、ツンデレは怒りに満ちた目をノッポから客席の方へ向けた。

「なに笑ってんのよ!」

「そうや! こいつの不幸がそんなにおもろいか!」

「待てェ!」

 ツンデレが素早くノッポの胸ぐらを締め上げる。

「勝手に人を不幸にするんじゃないわよ!」

「だっていつもうちは貧乏や、云うとるやん」

「貧乏すなわち不幸じゃないわよ!」

「そうか。強く逞しく生きとるもんな」

「そうよ!」

「まるで野性のイノシシや」

「こらあ!」

 閃光魔術が炸裂した!

 ノッポが起き上がったとき、ツンデレは肩で息をしていた。ノッポはツンデレから、どこか手のつけられない炎の気質を感じて、思わずステージの上だということも忘れて顔を引きつらせた。

「おう、ツンデレ。大丈夫か? 過呼吸ちゃうか?」

 ツンデレは唾を飲むような息継ぎをしてから、火を吹くように云った。

「あんたのせいでいつまで経っても先へ進まないじゃない」

「わかった。すまん。ほな俺はもう口出さへんから、はよ進めてくれや」

「ふんっ」

 ツンデレはノッポを視線で切りつけたあと、マイクに向き直った。ところがである。

「えーっと、えーっと」

 そのままツンデレは息をするのも忘れたように口を噤み、だんだんと顔をあかく染めていく。それを端で見ていたノッポは、まさかと思って尋ねた。

「おい、ツンデレ。おまえほんまに台詞忘れたんか?」

 言葉の後半は、笑い声に呑み込まれそうになっていた。ノッポは失笑していた。客席からも微妙な笑い声が起こる。

「ぐぐぐ……」

 ツンデレはいよいよ満面朱を注ぐといったていだ。ノッポはそんなツンデレの背中に大きな手をあてた。

「落ち着け、落ち着け。まず深呼吸しよ、深呼吸」

 ツンデレはノッポを一睨みしたが、云われた通り、大きく息を吸った。

「すー、はー」

「もういっちょ、深呼吸」

「すー、はー」

「ほな次はスカートめくってみよう」

「おい!」

 閃光魔術が炸裂した!

 ステージに這いつくばったノッポの頭を、ツンデレが容赦なく踏みつけにする。

「どさくさに紛れて、わたしになにさせる気よ?」

「すんまへん、すんまへん。見たかったんです」

 ノッポはこの体勢ではマイクに声が入らないだろうと素早く察して、力の限りに声を振り絞って謝った。

「ったくもう」

 ツンデレはノッポの頭から足をどけると、それまで吊り上げていた目を急に和ませて手を差し伸べてきた。

「ほら、顔あげて。しっかりしなさい。あんたはわたしの相方なのよ」

 そんなツンデレの手を借りて立ち上がりながら、ノッポはここから漫才を建て直す一筋の活路を見出していた。ツンデレのデレをオチにするという当初の台本とはもう違ってきていてしまって、今さら本筋には戻れない。だが戻れないなりに、寄り添うことはできる。その分岐点が今なのだ。

「おおきに」

 まずそう礼を述べたノッポは、そこで仕切り直しとばかりに切り出した。

「しかしなんやな、ツンデレ。俺はおまえにさんざん蹴り飛ばされてるけど、おまえのツッコミにはいつも愛があるよな」

「えっ? 愛?」

 台本とは異なる流れに、ツンデレは目を丸くした。そんなツンデレにノッポは一つ首肯を返す。

「せや。おまえは手でツッコミ入れてくるときは痛いけど、脚でツッコミ入れてくるときは全然痛ない」

 そこで言葉を切ったノッポは、客席の方へ顔を向けた。

「ほんまですよ。こいつに蹴られるとえらい吹っ飛ぶんですけど、全然痛ないんです」

 そしてノッポはツンデレに目を戻した。

「それはツッコミに愛があるからやと思うねん」

「な――」

 ツンデレの顔が一瞬で燃え上がる。瞳もうろたえて潤みながら右に左に機敏に動いていた。それが自分の心の火照りを冷ますように早口で云う。

「ば、馬鹿じゃないの! なにが愛よ! 愛って、愛って……」

 ツンデレは羞恥の炎に呑み込まれながら、威勢の良さが崩れていくかのようだった。一方、ノッポは逆にツンデレを覆わんばかりの声を張り上げる。

「いや、俺はおまえのツッコミに愛を感じるんや。ドMとちゃうで? ただおまえの豪快な蹴りに少しも痛みを感じへんのは、おまえの優しい心のなせる業やと思うねん」

 その言葉にツンデレが目も口もまん丸にする。

「わ、わたしが優しい……?」

「優しいやろ?」

 ノッポがねじ込むように云うと、ツンデレは胸の前で両手をもじもじさせながら、真っな顔を笑み崩れさせて云う。

「かかか、勘違いしないでよね! わたしは別に優しくなんて……だってわたしはわたしの野望のためにあんたを利用してるだけなんだから! だから、だから――」

「はい、デレました!」

「えっ?」

 瞳を抜かれたがごとくに目を丸くするツンデレを指差しながら、ノッポは客席に向かって見よ、見よ、と云わんばかりの笑顔である。

「皆さん、見ましたか? このデレっぷり。ちょろい! ちょろいなツンデレ! そんなんやと悪い男に騙されるで。って、俺にもう騙されたんやけどな。かっかっか」

 皓歯もあらわに呵々と笑うノッポを、最初は信じられぬように見ていたツンデレは、やがてからかわれたのだと理解し、顔を真っ赧に燃え上がらせ、噴火する火山の鳴動のように体を震わせて――。

「こ、こ、このアホおっ!」

 怒りの閃光魔術が炸裂した!

 舞台袖まで蹴り飛ばされたノッポは、平気の平左といった顔でふたたびステージに現れた。そのとき思いがけなく客席から拍手が起こったので、ノッポは客席に手を振って無事をアピールしたのちツンデレに云った。

「ところでツンデレ」

「なによ?」

「この際や、おまえに折り入って頼みがある」

「云ってみなさいよ」

「結婚してくれ」

「なんでやねん!」

 閃光魔術が炸裂した!

「わかった。俺も男や。離婚する」

「だから結婚してないってば!」

 ステージの床を思い切り踏み抜いて詰め寄ってくるツンデレに、ノッポはならばとわらいかけた。

「ほんなら一緒に漫才でもやるか」

「もうやってんじゃないのよ!」

 ツンデレは閃光魔術を炸裂させたあとで、金髪のカツラを苛立たしげに掻き毟って云う。

「まったくもう、ほんとにもう。あんたいったい、ここに何しに来てんのよ」

「ガムやるから落ち着けや」

「いらないわよ!」

 ガムをあげるふりをしたノッポに閃光魔術が炸裂したところで、漫才は幕引きとなった。


        ◇


「ありがとうございました」

 拍手喝采の沸き起こるなか、ツンデレと声を合わせて客席にお礼を述べたノッポは、そそくさとステージを後にした。下手の舞台袖からステージ裏に回り、そこにある階段を駆け降りると、陽ざかりの太陽に顔を照らされた。冬の一等寒い時期とはいえ、太陽の光りを直に浴びれば温かく、また今のステージの好感触もあいまって、ノッポは体を熱くしながら破顔した。

「おう、ツンデレ。結構、笑ってもらえたんとちゃう?」

「まあね」

 ツンデレは金髪の一房を指尖ゆびさきでいじりながら素っ気なく答えたものの、その頬が上気しているのは隠しきれない。

「ところで結局、さよちゃんはいたの?」

「いや、おらへんかった」

「そう、残念ね。わたしたちが優勝するところ、見せてあげられなくて」

 ノッポは目を丸くしたが、それも一瞬のことで、すぐに満面に笑みを広げた。

「強気やないかい」

 それからノッポはふとした思いつきに鼻の下を伸ばして云った。

「ほんならもう優勝は決まったも同然やな。っちゅうことで」

 ノッポの眼差しはツンデレの胸に注がれていた。その視線から邪なものを読み取ってか、ツンデレがほとんど反射的な動きで長い脚を閃かせる。

「それはだめ!」

 閃光魔術が炸裂した!


 午後一時を少し過ぎたところで、十八組の出演者すべての出番が終了した。持ち時間は一人あたり三分ということだから、全体としては少し時間が押したことになる。とはいえ一時間弱だ。観客もこのくらいなら集中して観られるし、途中で帰ってしまう人も少なく、このあと入賞者の発表があるとアナウンスがされたときにも、まだ大勢の人が会場に居残ってくれていた。

 審査は短く、最後の出演者が楽屋に戻ってきてから五分と置かずに、係員が楽屋に顔を出した。

「これから入賞者発表と審査員の先生の総評がありますんで、皆さんステージにお集まりください」

 椅子に座っていた出演者たちが一斉に立ち上がり、出口に向かって列をなした。

 ノッポは自分の前に立つツンデレの小作りな頭を見下ろしながら云った。

「なんや、楽屋で気を揉む暇もあらへんな」

「てっとりばやくていいわ」

 ツンデレが勝ち気にそう答えると、今度はノッポのすぐ後ろからお嬢の声がした。

「結果が楽しみねえ。ま、優勝は決まってるけど」

 振り返って横顔を見せたツンデレが、むっとした様子で眉をひそめている。

 ノッポもまた肩越しに後ろを振り返ってお嬢と黒江を見下ろしながら、口角に笑みを刻んだ。

「せやな。優勝は俺らがもろた。お嬢たちに目はないで」

 するとお嬢は面白くなさそうに眉をひそめた。

「ずいぶん自信があるのね」

「自信やないで、確信や!」

「どこかの野球選手のようなことを云わないで。ほら、後ろが詰まってるわよ」

 ノッポたちはお嬢に急かされて楽屋を出た。


 出演者全員がステージに横一列に並ばされたあと、司会者がさっそく本題に入った。が、それほど性急ではなく、少し遊びを持たせて、出演者の一人に「自信のほどは?」などと心境を聞いている。

 ノッポの左隣に立っているツンデレがじれったそうに身じろぎをして、刺々しく呟いた。

「早くしなさいよね」

「ちょっとくらい待てんか、ツンデレ」

 呆れたように云ったノッポの右隣で、話を聞いていたらしいお嬢が鼻先で嗤った。

「本当、落ち着きのない娘ね」

「なによ」

 むっとしたように眉間に皺を寄せて、なにか噛みつこうとしたツンデレの肩に手を置き、ノッポは低声こごえで云った。

「お客さんの前やで」

 ぐっ、とツンデレが歯を食いしばる。一方のお嬢は優雅に髪を掻き上げて余裕の笑みを浮かべていた。

「お嬢様、そろそろですよ」と囁き声で黒江が云う。

 二、三人の出演者から話を聞き終えた司会者はステージの真ん中に立ち、係の女性から一枚の紙を受け取ってそれを開いた。マイクががさごそとした音を拾う。その紙に審査員が選んだ優勝者の名前が記されているのだ。

「それでは発表します!」

 司会者の張りのある声がノッポたちを一斉に緊張させた。このときばかりはステージに立っている全員の顔から笑みが消え、全員が同じ精神の檻に入れられているようであった。

「第一回、町内お笑い大会最優秀者は――」

「カップラーメン」

「勝つのはわたくしよ」

 司会者の声に重なって、ノッポの両側でツンデレとお嬢がそれぞれ祈りを込めて呟いた。そしてノッポはスポットライトの光りのなかに自分が溶けていくような時間のなかで、優勝者の名を告げる司会者の声を聞いた。


        ◇


 表彰が終わり、審査員のややくだくだしい総評も終わり、ステージは祭りの後の寂しさを呈していた。客席にもはや観客の姿はなく、パイプ椅子も商店街の男性たちの手で次々に片付けられている。実際の日はまだ高いが、会場からは太陽の掴み取られたような物寂しさを感じた。

 そんな広場の入り口に、お嬢が一人ぽつねんと立っていた。寒風に揺れるドレスの裾が、傷ついた鳥の羽根のような憂いを帯びている。そのお嬢を、ノッポと黒江は少し離れたところから見つめていた。

 と、ツンデレが遠くから「ノッポ!」と明るい声を投げてきた。

「おう」

 と、片手をあげて応えたノッポの前に、まもなくツンデレが走り込んできた。二人はそのままハイタッチを交わした。ツンデレがきらきらしい笑顔をノッポに向ける。

「カップラーメン一年分、家に送ってくれるってさ。五百食よ、五百食!」

「そか。よかったやないか」

 ノッポは顔をほころばせてそう答えた。ツンデレは今、商店街の会所を尋ねて、優勝賞品を受け取る手配をすませてきたのである。

 そう、優勝したのはノッポとツンデレだった! そしてお嬢とメイドは、三組選ばれた特別賞にも入れなかった。

「どうして、かしらね」

 お嬢が独り言のように呟いた。敗北が決まってからずっと口を利かなかったお嬢が、ようやく発した第一声であった。

「お嬢様」

 黒江がお嬢に駆け寄っていく。

 お嬢は力ない動きで黒江を振り向き、次にノッポたちに眼差しを据えた。

「わたくしたちの方が、面白かったと思うのだけど」

「せやな」

 ノッポは頷き、なにか云い返そうとしたツンデレを片手で制してお嬢に歩み寄った。

「ネタだけなら、お嬢たちの方がおもろかったかもしれん。それに俺らの漫才は、ツンデレが台本を忘れよったせいでアドリブに奔って、途中がぐだぐだになってもうたからな。持ち時間もオーバーするし、よう建て直せたもんやわと、自分で自分を誉めたりたいわ」

 事故はライブに付き物とはいえ、せっかく考えた台本は半分も機能しなかった。そこへいくと、お嬢たちはそつがなく見事だった。

「なら、どうして……」

 お嬢は目を伏せ、長い睫を震わせて云った。

「あなたたちの方が勢いがあったという、ただそれだけのこと?」

「いや、それはちゃうな」

 ノッポたちに優勝が転がり込んできたのは、お嬢の云う通り、予期せぬ事態が却ってうねるような勢いを生んだというのが功を奏したのだろう。また時の運もあるだろう。そしてなにより、台本を逸脱したことでツンデレのデレが真に迫るものになったのだ。しかしお嬢たちが特別賞にも入れなかったのには、別の理由があるとノッポは睨んでいた。

「お嬢、俺が思うに、お嬢たちの敗因は鞭や」

「鞭?」

 お嬢は手にしたままだった乗馬鞭に視線を走らせ、切れ長の目を大きく瞠った。ノッポもまた同じように鞭に視線をあてた。小さいとはいえ、馬を走らせるための、人間に対して振るうにはあまりに過酷な道具だ。

「あのな、お嬢。鞭の音はハリセンの音と違って笑えんのや。痛いんや」

 お嬢たちの漫才が始まって最初に鞭が振るわれたとき、そのあまりの痛々しい音に客席が凍りつきかけたのをノッポは肌で感じ取っていた。

「黒江ちゃんがああんとか悩ましい声出すし、全然痛がる素振りを見せへんから救われてたけど……」

 ノッポは黒江に目を向けた。

「黒江ちゃん、あれ、ほんとはかなり痛いんとちゃうか?」

 びっくりしたように目を丸くした黒江は、目を泳がせたりごまかすための方便を探したりしているようだったが、やがて観念したのかへらりと笑って白状した。

「実はそうなんですよー、ノッポさん」

 黒江はにこにこしながらカフスボタンを外し、おもむろにメイド服の袖をまくりあげた。あらわれた腕を見たツンデレが「うわっ」と声をあげた。

 黒江の白い腕には幾筋もの赤い傷跡が浮かんでいて、まるで鋭い刃物で切りつけられたかのようだった。お嬢の振るった、鞭の痕だ。

「黒江」

 お嬢の声は色褪せるほどに掠れていた。

「ほれみい」

 ノッポは口をへの字に曲げた。

「ツッコミも度が過ぎればただの暴力や。暴力はあかん。やってる方は楽しいかもしれんが、見てる方は笑えんで」

 そしてノッポは、わななくお嬢に向かって居丈高に指を突きつけながらずばりと叫んだ。

「ツッコミにも愛がいるんや!」

 お嬢はその頭に落雷を受けたように目を見開き、そして膝からがっくりと崩れ落ちた。そのまま愕然と両手をつかえて、なにか燃え尽きたようである。どうやら本当に落ち込んでしまったとみえて、ノッポは慌てて付け加えた。

「ま、まあ、そないなわけで、お嬢の獲物がハリセンのままやったら、また結果はちごうたかもわからんな。ちゅうわけで元気出せや」

 しかしお嬢は顔を上げない。まるで奈落の底にいるようだ。と、そのとき黒江が動いた。

「お嬢様」

 素早くメイド服の袖を戻した黒江はお嬢に寄り添って膝をつくと、お嬢の肩に励ますように手を置いた。するとお嬢はやっと顔を上げ、涙を溜めた目で黒江を見つめて云った。

「黒江、ごめんなさい。わたくしが間違っていたわ」

「いいんですよ。私、お嬢様のメイドですから」

 その温かな微笑が却って堪えたのか、お嬢の目から真珠のような涙が溢れて零れた。

「ああん、泣かれてはいけません。ぺろぺろしちゃいますよ?」

 黒江はお嬢に顔を近づけると、犬のように舌を出してお嬢の涙を舐め取った。

「あっ、こら!」

 弾かれたように顔を背けたお嬢は、黒江の額に勢いのついた手刀を打ち込んだ。


 そんな二人の姿を眺めて、なんだか閉め出されたような気持ちでいたノッポに、ツンデレが不機嫌そうな目を向けてきた。

「ずいぶんお優しいわね」

「別にええやろ。俺はおまえとちごうてお嬢にはなんも含むところはあらへんのや。胸がないのがあれやけど、顔だけ見れば超美人やしな!」

「あっそ」

 ツンデレの足がノッポの足を軽く踏みつけにした。痛くはなかったので、ノッポは気にせず、お嬢と黒江の会話が途切れたところを見澄まして声を投げた。

「ほなな、お嬢。黒江ちゃん。俺らもう行くわ。また明日」

 するとお嬢はノッポたちの存在に今気づいたように慌てて涙を拭い、黒江とともに立ち上がると、唇を噛みしめてノッポたちを殊更に睨みつけてきた。

「ふんっ、さっさとお行き」

 そんなお嬢の隣で黒江が深々と頭を下げる。

「ノッポさん、ツンデレさん、さようなら」

「行くわよ、黒江」

 お嬢は黒江がまだ頭を上げないうちから、踵を返して早足で歩き出した。きっと落涙したところを見られたのが恥ずかしく、一刻も早くこの場を離れたかったのだろう。頭を起こした黒江は、お嬢を顧み、またノッポたちに顔を戻して目顔で別れの挨拶をすると、お嬢の後を追って小走りに駆けていった。

 本当はノッポの自宅もお嬢たちの歩いていった方角にあるのだが、いま同じ道を歩けばお互い気まずい思いをすることになるのは目に見えていたので、ノッポは敢えて反対側に足を向け、ツンデレを誘った。

「ほな行こか。優勝祝いや、飯でもおごったる」

「ほんとに?」

 ツンデレの顔にぱっと笑みが咲いた。その笑顔を見て、ノッポは虎の子の一万円札を盗られたことも、全部水に流してしまいたくなった。

 そうして二人で歩き出そうとしたとき、突然、横合いから女性の声がかかった。

「あの」

 その声に顔を向けたノッポは、そこに立っていた妙齢の婦人を見るや「あっ」と声をあげて背筋を伸ばした。ツンデレはそんなノッポの様子を見て訝しげに小首を傾げた。

「知り合い?」

「さよちゃんのお母さんや」

 ずっとノッポたちに話しかける機会を窺っていたのであろうか。さよちゃんのママは眉を曇らせ、淡い笑みを浮かべてノッポたちに眼差しを注いでいる。その顔は困っているようにも、嘆いているようにも見えた。


 折り入ってお話があるんです、というさよちゃんのママに快い返事をしたノッポは、ツンデレを含めた三人で商店街の外れにある喫茶店に入った。

 珈琲の香りが漂う、落ち着いた雰囲気の店だった。老夫婦が二人で経営しているらしく、ごましお頭の婦人は、ツンデレの現実離れした金髪のカツラにちょっと驚いたような顔をしながらも、四人掛けの席に案内してくれた。

 ノッポはツンデレと隣あって、さよちゃんのママは反対側に一人で座った。店内にはピアノジャズの音楽がかかっていて、椅子のクッションは硬すぎず柔らかすぎずちょうどいい。ツンデレはクリームソーダを頼み、ノッポとさよちゃんのママはそれぞれ珈琲を注文した。

「今日の漫才、拝見させてもらいました」

 さよちゃんのママはそう口を切って、ノッポたちの漫才について感想を述べてくれた。ノッポもツンデレも面映ゆそうにそれを聞いており、ときには質問を交えたりして、話はそこそこに盛り上がりをみせた。

 やがて注文した飲み物が届いたところで、さよちゃんのママは声の調子を落とした。

「それで実は、こんなことお願いしてもいいのかわからないけど、さよにあなたたちの漫才を観せてあげられないかしら」

 ノッポは明敏に察して早手回しに云った。

「病院でやれ、っちゅうことですか?」

 さよちゃんのママはこっくりと頷き、さよちゃんのことを語って聞かせてくれた。

 さよちゃんは早生まれの七歳で、本当なら小学二年生として赤いランドセルを背負って学校に通っているところだ。しかし先天性の心疾患により入院中だという。心臓の病気なのだから、体への負担を考えると終日ベッドの上で大人しくしていなければならない。とはいえじっとしていられるような年頃ではないし、一日中病室に閉じこもっていては精神衛生上もよくないから、走らないことという条件付きで院内を自由に行動できると云う。

 ツンデレはバニラアイスが溶けゆくクリームソーダに手をつけずに、掠れ声でさよちゃんのママに尋ねた。

「さよちゃんって、そんなに悪いんですか?」

「長生きはできないと」

 さよちゃんのママは涙こそ見せなかったが、沈痛な面持ちで目を伏せた。ノッポもツンデレもそれ以上深く尋ねることができずに、黙ってさよちゃんのママが顔を上げるのを待った。そんなに長くはかからなかった。

「さよは、ノッポさんたちの漫才をとても楽しみにしていました。でも、やっぱりお医者様から外出の許可が下りなくて、すごく残念がっています。だから」

「わかりました」

 ノッポは皆まで云わせず、声を大きく張り上げた。

「病院で漫才、やらせてもらいます!」

「ちょっとノッポ!」

 肘でつついてくるツンデレに、ノッポは驚いた目を向けた。

「なんや? まさかあかん云うんちゃうやろな?」

「いや、そうじゃないけど……」

「なら、ええな?」

 ノッポが笑顔とともに片目を瞑ると、ツンデレは諦めたようにため息をついた。

「もう、しょうがないわね」

 口ではそう云いつつも、ツンデレの目にはどこか安心したような色があった。


 そのあとノッポはさよちゃんのママに携帯電話の番号を教え、喫茶店の前で別れた。

 ノッポとツンデレは二人して帰途に就いていたが、赤信号にぶつかって立ち止まったとき、ツンデレが盛大なため息をついた。吐息は冬らしく白く濁っていた。

「なんや、ため息なんかついて」

 ノッポがツンデレの肩にれ狎れしく肘をおいた。ツンデレはそれをうるさそうに振り払って、金髪のカツラを乱暴に剥ぎ取った。いつもの栗色のおかっぱ頭が現れる。吊り目がちの目が下からノッポを射抜いてきた。

「また責任重大なこと引き受けちゃったわね」

「ええやん。俺ら町内お笑い大会の優勝者やで? 自信もって行こうや」

 するとツンデレは少しだけ目を和ませて云った。

「まあ、これでそのさよちゃんって子を喜ばせてあげられるんなら、よかったけど」

「おっ、優しいな」

 するとツンデレの顔が赧くなった。

「な、なに云ってんのよ」

 言葉は尻すぼみで、ツンデレ自身、恥ずかしそうに俯いてしまう。

「その上、恥ずかしがり屋さんか。おまえ結構、可愛いなあ」

 晴れやかにわらってツンデレの肩を叩いたノッポは、顔を真っ赧にしたツンデレが、恥ずかしさも極まったように脚を動かすのを見て目を丸くした。

「そんなんじゃないわよっ!」

 閃光魔術が炸裂した!

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