四 前哨戦

  四 前哨戦


 水曜日になった。ツンデレにお笑いコンビを組む話を持ちかけられてから今日で一週間になる。朝から生憎の雨模様で、どこへ行っても雨音がつきまとう陰気な一日であった。

 お笑いの台本は月曜日と火曜日の二日間で仕上げることができた。ツンデレは諸処の事情で携帯電話を所持していないので、ノッポのおごりで喫茶店に入り、夜遅くまで額を付き合わせての作業であった。そういう次第で二人なりに苦労して完成させた台本だが、これが面白いかどうかとなると別問題である。

 放課後、ノッポが自分の席でルーズリーフに書き付けた筋書きに目を通しているところへ、ツンデレがやってきた。ノッポはルーズリーフから目を上げて云った。

「やっぱり、これ誰かに観て貰ったほうがええな」

「そうね」

 短い台本なので、台詞はもう覚えてしまっている。

「今日これから稽古。明日、みんなに観てもらって感想を募る、ってことでいいわね?」

「おう。それと小道具はどないすんのや?」

「もちろん、あんたが用意するのよ」

「だと思ったで」

「ならいちいち訊かないの」

 ツンデレは明るい微笑でノッポを照らしつつ、ノッポの手からルーズリーフを取り上げると、軽やかな身のこなしでノッポの机にお尻をのせた。まだ教室にはクラスメイトたちが何人か居残っている。彼らが全員帰ったら、ここで稽古を始めるのだ。しかし、とノッポは思い直してツンデレを仰ぎ見た。

「なあ、別に稽古を人に観られてもええやろ。もう始めよう」

「そりゃ構わないけど、あんたちゃんとできるの?」

「三分くらいの短い台本やで。暗記しとるし、正直ぶっつけ本番でも出来ると思うわ」

「大した自信ね。いいわよ」

 ツンデレが勝ち気に笑ったそのとき、教室の戸口から鈴を転がすような声がかかった。

「失礼」

 そう断って教室に入ってきたのは、お嬢と黒江である。彼女たちはノッポとツンデレを目指してまっすぐ歩いてきた。そのお嬢の右手に携えられているものを見て、ノッポは軽く目を瞠った。

「お嬢、ええもん持っとるやないか」

「ツッコミには必要だからって、黒江が無理やりわたくしに持たせたのよ」

 お嬢は渋い顔をして右手に持っているものを立てた。それは真新しい、白すぎて輝くようなハリセンであった。

「お嬢様にぴったりのアイテムですよ」

 微笑みながら云う黒江に、ノッポも二度三度と首肯する。

「いや、ほんま、黒江ちゃんは目利きやなあ」

「いやん。本当のこと云わないでください」

 黒江が恥ずかしそうにお尻を振った。その直後、スパァン! と小気味良い音がした。お嬢が黒江にハリセンを叩き込んだのだ。

「痛いです」

 黒江は涙目になって傾いたカチューシャの位置を、両手でさっと元に戻し、手櫛で髪を整えた。お嬢は眉間に縦皺を刻んで、いかにも不愉快といった顔つきだ。

「わたくしはこれ、気に入っていないのだけれど」

「なんでやねん? お嬢にぴったりやと思うで」

 またぞろスパァン! と小気味のよい音がして、今度はノッポの頭にハリセンが叩きつけられた。

「この華麗なわたくしに、こういう品のない形と音を立てるものは似合わないと云ってるのよ」

 スッパァン! スパコン! と、ノッポは三度もハリセンで叩かれた。当たり前だが、叩く強さや手首の角度によって、ハリセンの音は微妙に変わるらしい。それが四度目に及ぼうとしたとき、ツンデレが二人のあいだに体を割り込ませてきた。

「ちょっと、人の相方に勝手にツッコミ入れないでくれる?」

「あら、これは失礼。わたくし、こんなノッポには一ミリたりとて興味なくてよ」

「そうですか? ノッポさんて意外とお嬢様のこの」

「おだまり!」

 スパコォン! と、これまでで一等キレのある会心のツッコミが黒江の顔面を一撃した。黒江はさすがに痛かったとみえて、顔を伏せて声もなく、鼻を片手で覆っている。

「黒江ちゃん、大丈夫か?」

 ノッポは椅子から腰を浮かせたのだが、黒江は顔を背けたまま、ノッポに掌を向けて接近を遮った。ノッポは黒江に気遣わしげな視線をあてながらも、仕方なく椅子に座り直した。ツンデレがお嬢に対して口を切ったのはそのときだ。

「で、いったい何の用よ? まさか顔を見せに来たなんて云わないわよね?」

「そうそう、忘れるところだったわ。黒江」

 お嬢は言外に用件を説明するよう、黒江に要求した。すると黒江はツンデレたちに顔を振り向けて、もはやハリセンで打たれたことなどなかったかのように、にっこりとした柔和な笑顔になって話し始めた。

「ツンデレさん、ノッポさん。漫才の台本はもうそろそろ仕上がったと思うのですが」

「おう。ばっちり出来たで。そっちはどないや?」

「それはもう万全です。ですがやはり人様の反応を確かめたいと思いまして。そこで本番前に一度、クラスメイトのみなさんの前でネタ披露といきませんか?」

「つまり勝負よ!」

 そう高らかな声を張り上げたお嬢が、ノッポとツンデレにハリセンを突きつけてきた。ツンデレはたちまち負けじ魂を燃え上がらせたようだった。

「上等よ、受けて立とうじゃないの」

「よろしい」

 お嬢とツンデレが互いに顔を接して、あたかも仁義を切るように胸を張る。一方、二人の美少女が胸を突きつけ合う姿を横から見ていたノッポは、彼我の胸乳むなちの圧倒的な物量差に瞠目していた。

 ――お嬢にも、もうちょっと胸があったらなあ。貧乳なんてもんやないで、俎板やん。カップサイズはトリプルAやな。いや、そもそもブラなんていらんか。

 もしこのような思考がお嬢に伝わればノッポは半殺しの憂き目に遭っていたであろう。しかしお嬢はその瞳でツンデレのみを射抜いていたし、また超能力者でもない。だからノッポがそんなことを考えているとはまったく勘付かぬ様子で黒江に顔を振り向けた。

「黒江」

「はい、お嬢様」

 以心伝心、黒江はにわかに威儀を正し、小さくこほんと可愛らしい咳をすると、まだ教室に居残っていたクラスメイトたちを見渡してカナリアのような声を張り上げた。

「えー、みなさん。これからこちらの二人がちょっとした芸をして勝負します。ほんの十分くらいですし、よかったら観ていってくださいな」

 クラスメイトたちの反応はよかった。感嘆の声と、驚き、期待に膨らむ顔があちこちにある。お嬢とツンデレは二人とも美人で目立つので、二人が云い合っているのを見て好奇心をそそられ、帰るに帰れず様子を窺っていた者も多数いるとみえる。

 ツンデレの顔がさっと強張った。

「ちょっと、これから? 今すぐここで?」

「あら、怖じ気づいたの?」

 お嬢が小馬鹿にしたような流し目をくれると、ツンデレはすぐに顔つきを改めた。

「冗談云わないで」

「そう、よかった。安心したわ。逃げ出されたら張り合いがないもの」

 それからお嬢は黒江や周囲の男子に指示して机を運ばせ、教室の前に空間を作った。その様子を尻目に、ノッポはツンデレに低声こごえで訊いた。

「おい、ツンデレ。稽古はどないすんねん?」

「ぶっつけ本番でも出来るって云ったの、あんたでしょ?」

「せやけど」

 ノッポがなおも逡巡を示すと、ツンデレは不快そうに眉を寄せた。

「なに、できないの?」

 そう云われて、できないと答える男がいるだろうか。

「できるわ、アホ! 俺をなめんな!」

「最初からそう云えばいいのよ」

 ツンデレは視線を前に向けた。そこでは教卓が脇にのけられ、教壇がそのまま即席のステージに様変わりしている。十人ばかり残っていたクラスメイトが観客となった。お嬢がハリセンをノッポたちに突きつけ、高らかに云う。

「さあ、用意は整ったわ。先番はどっちにする?」

「もちろん、わたしたちよ。文句ないわね」

「よろしくてよ。オーッホッホッホ!」

 お嬢が口元に手の甲をあて、いつもの高笑いをする。ツンデレは鋭く呼気を吸い込むとともに肩を怒らせた。それがいかにも力んでいたので、ノッポはツンデレの肩を軽く叩いてやった。

「肩の力抜けや」

 するとツンデレはノッポを振り返って咲き出すように笑った。

「了解。行くわよ、ノッポ」

「よっしゃ」

 ノッポは勢いよく椅子から立ち上がった。

 図らずもこれが自分たちの初陣になる。観客はわずかに十人ばかり。いずれも気心知れたクラスメイトだから、優しい舞台になるはずなのに、妙に緊張する。みんなは笑ってくれるだろうか。それとも白けてしまうか。舞台袖にあたる位置にはお嬢と黒江が立っている。この二人に勝てないようでは、お笑い大会でも優勝はできないということだ。

 ノッポとツンデレはステージとなった教壇の真ん中に立ち、観客に向き直った。

「よろしくお願いしまーす」と二人口を揃えて挨拶をしたことで、ノッポは自分のなかでなにかが切り替わるのを感じた。普段の自分が奥に沈んで、代わりに役者としての自分、漫才師としての自分が浮かび上がってくる。

 そして漫才が始まる。


        ◇


「事件よ、ノッポ!」

「なんや?」

「盗まれたのよ!」

「なにがや?」

「わたしの心がよ!」

「なんやて! それ犯人は俺やな!」

「そんなわけないでしょ!」

 閃光魔術が炸裂した!

 派手に吹き飛ばされたノッポは、小さな笑いが起こったのを聞いて、掴みは上手くいったと内心で喜びながら起き上がった。ノッポが元の立ち位置に戻るや、ツンデレはため息をつきつき云った。

「とにかく、一日中なにも手につかなくて困ってるのよ。なんとかしなさい」

「なんとかせえ云われてもなあ。どないしたいねん?」

「決まってるじゃない。盗まれたわたしの心を取り戻すのよ!」

 ノッポはふうっとため息をついて首を振った。

「しゃあないな。他ならぬツンデレの頼みや。一肌脱いだる」

 ここで本当なら鳥打ち帽を被ってパイプを咥えるのだが、今日は突然のことだったからその用意がない。そこでノッポは咄嗟にブレザーの上着をその場で脱ぎ捨て、切り替わりを演出した。

「俺は昔、名探偵やった」

 そこで微妙な笑いが起こった客席へ、ノッポはびしっと指を突きつけた。

「犯人は俺が見つけたる!」

「変なポーズ決めてんじゃないわよ」

 首筋に手刀を打ち込まれたノッポは、それが思いのほか痛かったことに驚きながらも先を続けた。

「で、誰に心を奪われたんや?」

「それを突き止めるのが名探偵の仕事でしょ」

 ツンデレは当然のように云ったが、ノッポはいかにも呆れたようにため息をついた。

「自分の心を盗んだ奴がわからんのかい。それほんまに恋か?」

「恋だなんて云ってないでしょうが」

「まあ、そういうことにしといたるわ。それで名探偵の俺の推理によるとやな……」

 そこでノッポは間を取り、目一杯しかつめらしい顔をして云った。

「犯人は地球におる」

「みんなそうじゃないのよ!」

 ツンデレが上履きで教壇を思い切り踏み抜いた。景気のいい音がする。

「もっと的を絞りなさいよ、狭く!」

「わかった。犯人はずばり、女の股から出てきた奴や!」

「だから、みんなそうだっつってるでしょ!」

 閃光魔術が炸裂し、ノッポは教室の後ろまで蹴り飛ばされた。

 まもなく前に戻ってきたノッポは、教壇に上りながらツンデレに上目遣いで笑いかけた。

「でも俺、今ちょっと哲学的なこと云うたんちゃう?」

「るっさい! 真面目にやりなさい!」

「なにを?」

「捜査よ! わたしの心を盗んだ犯人を捜すの!」

「そうか」

 そこでノッポは顔つきを真面目なものに改め、声色も変えた。

「わかった、ツンデレ。ほんなら俺が今から云うところに電話をかけてくれんか」

「いいけど」

 ツンデレは戸惑った様子を見せながらも、携帯電話を取り出す仕草をした。ツンデレは携帯電話を持っていないから、もちろん手振りだけだ。

「番号は?」

「一、一」

 ノッポの言葉に合わせて、ツンデレがボタンを押す真似をする。

「〇や」

 ボタンを押そうとしていた指を止め、ツンデレは弾かれたように顔をあげた。

「警察にかかっちゃうじゃないのよ!」

「せやかて泥棒いうたら警察やないかい」

「あんた名探偵でしょ!」

「ああ……」

 ノッポは小腰を屈めてブレザーの上着を拾うと、埃を払い落としてからそれを羽織り、ツンデレに快活ないい笑顔を向けて爽やかに云った。

「あれは嘘や」

「もういいわよ!」

 閃光魔術が炸裂した!


        ◇


「ありがとうございました」と二人揃って礼をすると、温かな拍手が沸き起こった。

 お嬢たちと入れ替わりに舞台袖に引っ込むツンデレに、「面白かったよ」と女子の一人が声をかけてくれる。

「ありがと」

 そう声を返すツンデレの顔は安堵一色だった。ノッポも同様である。大成功とは云い難いが、初めての漫才にしては上出来だったのではないか。

 教壇を横から下りたノッポは、そこで回れ右をしてツンデレと横並びに立ち、お嬢たちを見ながら云った。

「なんとかなったな」

「まあね」

 ツンデレは嬉しげに頷きながら、お嬢と黒江に物見高い眼差しを注いだ。

「あいつらがどんな漫才するか、楽しみね」

 そのお嬢と黒江が教壇の真ん中に立ち、「よろしくお願いしまーす」と口を揃えて挨拶をするや、拍手が起こった。

 そのときノッポは、ここがお嬢と黒江にとって敵地であることに気づいた。ノッポたちにとってこの観客はクラスメイトなのだが、お嬢たちにとっては違うのである。しかしお嬢は気後れした様子もなく、拍手が収まった頃合いを見澄まして威風を吹かせた。


        ◇


「ああ、観客たちの視線を感じるわ! 特に殿方の視線が集中して……」

「私が可愛いからですよねー!」

「ちっがーう!」

 ハリセンが閃き、スパァン! と音を立てて黒江の頭を打った。その途端、どっと笑いが起きる。

「メイドが令嬢を差し置いて注目されるなんてありえないわ。この視線はすべてわたくしのもの。そうでしょう、黒江?」

「はい、私が間違っておりました。皆さんのこの冷ややかな眼差しは、たしかにお嬢様一人に向けられているものですねー」

「わかればいいのよ。――ってお待ちなさい!」

 スパァン! とハリセンで黒江が一撃されるや、また笑いが起こった。

 その笑いがまぬうちから、お嬢は腕を組み、観客たちに向かって傲然と胸を張った。

「黒江」

「はい、お嬢様」

「せっかくこういう機会を得たのだから、おまえが一つ彼らに語って聞かせておあげなさい。わたくしがいかに高貴で優雅で完璧かということを」

 すると黒江の顔から温かい微笑が剥落して、荒んだ素顔が露わになった。

「まーた始まったよ。このお嬢様はほんと自慢が好きだな」

「黒江!」

 スパァン! と爽やかな音とともにハリセンを閃かせたお嬢は、そのまま目を剥いて黒江に詰め寄った。

「台詞が違うわ、黒江! そこはかしこまりました、って殊勝に返事をするところじゃない! どういうことよ!」

 観客の笑いが沸き起こるなか、黒江は猫を思わせる大きな瞳を丸く見開き、心外と云わんばかりに揃えた両手の指尖ゆびさきで口元を覆った。

「いやですねえ、お嬢様ったら。これはアドリブですよ?」

「アドリブ?」

「はい。ラテン語で自由にを意味するアドリビトゥムを語源とする外来語です。台本通りにやるばかりが能ではありません。場の雰囲気に合わせて、台本にない台詞を臨機応変に盛り込んでいくのも、大切なことですよ」

「そ、そう? ということは、今のは本心からの言葉ではないわけね?」

「当たり前じゃないですか。私はお嬢様のことを尊敬しています」

「……まあ、そうよね」

 頷いたものの、まだ釈然としていない様子のお嬢に、黒江がぱちぱちと拍手を捧げた。

「それにしてもナイスツッコミ。さすがお嬢様。私のアドリブに実に的確な反応をなさいましたね。観客の皆さんにも受けがよろしかったようですよ」

「ふふん、当然ね」

 自尊心をくすぐられたお嬢はわだかまりも消えたらしく、鼻孔をふくらませると改めて黒江に命令した。

「では黒江。続きを」

「はい。かしこまりました、お嬢様」

 黒江はこほんと小さな可愛らしい咳をすると、観客へ向かってにこやかに語り始めた。

「私がお嬢様にお仕えするようになったのは六歳のときのことです。父がお屋敷の庭師として住み込みで雇われまして、お母様と私もメイドとして働くことになったんですよ。私は同い歳ということでお嬢様の専属になりました。お嬢様と初めてお会いしたときのことは今でも忘れられません。可憐で清冽、お小さいながらも美が際立って、まるでお人形のようでした」

 黒江の流暢な語りにお嬢は満足げに聞き入っている。しかしお嬢が優越の頂に押し上げられたころを見計らって、黒江が云った。

「ま、実際はわがままで高飛車で好き嫌いが激しくて、手に負えないお嬢様だったんですけどね」

「黒江!」

 スパァン、とハリセンの音がする。お嬢はそれだけでなく、空いている手を使って黒江の豊頬を思い切りつねりあげた。

「どうしてあなたは、そう余計なことを口走るのかしらねえ」

「ごめんなさい、ごめんなさい」

 黒江が詫びを入れると、お嬢は「ふん」と鼻を鳴らし、黒江の頬を放してまた腕組みをした。

「聴衆に続きを聞かせてあげなさい、黒江」

「はい、お嬢様」

 黒江はつねられた頬を痛そうにさすったあと、メイド服のスカートの前身頃に両手を重ねて、一同に眼差しを据えた。

「それではここで、お嬢様の気高い人格を偲ばせるエピソードを一つ、語っちゃいますね」

 黒江が語るところによるとこうだ。

 小学三年生のとき、教室でとある男子が二人の男子に意地悪をされて、筆箱を取り上げられていた。

「その男子は、返してよう返してよう、と泣きそうな声でうったえながら、ぴょんぴょん飛び跳ねておりました。しかしその手は届きません。相手の男子たちの方が背が高かったからですね。そのうち男子たちは、お互いでその筆箱をキャッチボールでもするように投げ合い始めました。そこでとうとう、その男子が泣いてしまったんですね。そのとき立ち上がったのがお嬢様です。お嬢様は男子たちの方へ歩み寄ると、どうしたと思います? はい、もうおわかりですね。そうです、泣いている男子の方をぶったんです」

 そこで話し手がお嬢に代わった。

「仮にも男子が人前で泣くなど恥を知りなさい。男子なら奪われた筆箱くらい、自力で取り戻すのよ」

「……と、まあ、このようにおっしゃったわけです」

「そしてわたくしの言葉に心打ち震えたその男子は、涙を拭いて立ち上がり――」

「いえ、それは違います」

 黒江がきっぱりとした声を割り込ませるや、お嬢が不思議そうにまばたきをした。

「黒江? またアドリブなの?」

 黒江はその問いかけを無視して口を開いた。

「それからあとはもうひどいもので、お嬢様に平手打ちをされた男子は火のついたように泣くわ泣くわ。しかるにお嬢様はその男子を容赦なく殴り蹴り、男なら立ち上がれと、まるで走れない馬に走れと鞭をくれるような無体。そのあんまりな所行に見かねたのは、他でもない、いじめていた方の男子たちです。彼らは口を揃えて云いました。筆箱は返す、こいつには謝る、だからもう許してやってくれ、と。そんな彼らにお嬢様はこう云いました」

「おだまり!」

 スパコォン! とハリセンの音が響き、どっと笑いが起こった。


        ◇


 窓の外ではまだ雨が降っていた。その上、暮色が漂い始めている。一月は日の沈むのが早い。

 二組の漫才が終わって、ノッポたち四人はステージとなった教壇の中央に立って客席に向き直っていた。そこでは十人ほどのクラスメイトが声援とともに拍手を送ってくれている。その拍手がむと、黒江が率先して口を切った。

「えー、短いステージでしたが、みなさんいかがだったでしょうか? 楽しんでいただけましたか? 一人一人に感想を聞いて回りたいところですが、その前にまず、私たちとツンデレさんたちと、どちらが面白かったかざっくり聞いちゃいましょう!」

 ツンデレが顔を強張らせた。ノッポも少し緊張している自分を感じる。自分たちの漫才も感触は悪くなかった。しかし今の客席の反応を見た限りでは、と疑問符を付けざるを得ないのが苦しいところだ。一方、お嬢は余裕の面持ちで構えている。黒江がいよいよ本題に踏み込んでいった。

「じゃあ先番の、ノッポさんとツンデレさんの方が面白いと思う人、拍手ー!」

 拍手が起こったのは二人だけだった。遅れてもう一人。十人あまりの観客中、ノッポたちに軍配をあげてくれたのはわずかに三人だ。この時点でお嬢が口角に笑みを刻んだ。黒江が元気よく尋ねる。

「じゃあ、私とお嬢様の方が面白かったと思う人、拍手ー!」

 三人を除いた全員が拍手をした。

「まあ、当然ね」

 お嬢が云って、心地よさそうに黒髪を掻き上げた。一方のツンデレはスカートに押し当てた拳をぎゅっと握りしめ、屈辱の火に顔を焼かれてわなないている。

 そんなツンデレの姿を見たノッポは、自分のなかの落ち込んでいた気持ちに自分でけりをつけてツンデレの肩に手を置き、その耳元で力強く囁いた。

「これは前哨戦や。本番当日で勝てばええ」

 ツンデレはぎこちなく頷いた。


 そのあと黒江が二組の漫才について、生徒一人一人に手際よく感想を求めていくのを、ノッポとツンデレは一言半句も聞き漏らすまいと耳を傾けていた。今日は敗れたが、明日の勝利の糧とするため、一つでも多く手がかりを得ようと思っていたのである。

 そしてクラスメイトが口々に語るばらついた感想の中で特にノッポの心に突き刺さったのは、ふじのんと呼ばれている少女が口にした次の言葉だった。

「うーん、どっちも面白かったんだけどね。ツンデレちゃんたちのオチには、なにか逃げを感じたの。最後の方、苦しくなって無理やり終わらせた感じだったよね。そこへいくとお嬢さんたちは上手くオチてたなあと思って、だから芸術点込みでお嬢さんたちに票を入れました」

 ……。

 感想を聞き終えると、ノッポたちはお嬢を除く全員で教室の前の机の位置を元に戻していった。それが済むとノッポは皆に礼を述べて、逆に激励の言葉を返されたりしていた。その会話に一段落がついたとき、お嬢が突如ノッポにハリセンを突きつけて云った。

「今日はわたくしの勝ちね」

「ああ、せやな」

 ノッポが首肯うなずくと、お嬢はハリセンを横に動かして、雨の降る窓辺に立つツンデレに狙いを定めた。ツンデレは先ほどから元気なく、一人また一人とクラスメイトの去っていく教室の様子を眺めていた。そんなツンデレにお嬢が云う。

「本番でもこのように叩き潰してさしあげるわ」

 するとツンデレの顔に、ようやくの勝ち気な笑みが兆した。

「冗談。絶対リベンジしてやるから」

 それを聞いてお嬢は安心したように微笑み、それからその微笑みを韜晦とうかいするようにどこか急いで口を開いた。

「それは楽しみねえ。オーッホッホッホ!」

 お嬢はそんな高笑いを残してハリセンを片手に去っていった。黒江がその後を追って教室を出て行く間際に、こちらを振り返って一礼する。

「今日は皆さん、ありがとうございました。お嬢様の分も私がお礼を云っておきますね。ノッポさん、ツンデレさん、お笑い大会の本番、楽しみにしてますよ」

「おう。黒江ちゃんも油断しとると足を掬われるで」

「はい、油断しません。ではでは」

 黒江は自分とお嬢の二人分の鞄を持って、教室を飛び出していった。

 時刻はもう午後四時を回っている。

 他のクラスメイトたちが次々に帰路へ就くなか、ノッポは一人の少女を教室に引き止めていた。ふじのんだ。

 ふじのんは眼鏡をかけた丸顔の少女で、少し癖のある黒髪を首筋まで伸ばしていた。なかなか可愛らしく、ぽっちゃりとした体型をしているためか、乳房もそれなりにおおきい。が、今はさすがにそれどころではなかった。

「なあ、ふじのん。さっきの漫才の感想について、もうちょっと詳しく話してほしいんやけどな。オチに逃げを感じる云われたけど、やぱり逃げるのはあかんのやろうか?」

 するとふじのんは黒縁眼鏡の奥の瞳を意外そうに見開いたあと、ふるふるとかぶりを振った。

「ううん。私の好みと違っただけで、逃げオチが駄目なわけじゃないよ? テレビなんかに出てるお笑いコンビの漫才でもよくあるし」

「ふじのん、お笑い好きなの?」

 と、窓辺に腰を預けて立っていたツンデレが口を挟んできた。ふじのんはツンデレに顔を振り向けて微笑んだ。

「うん、結構漫才とか見るタイプ。ライブも行くし。でもそんなにアドバイスとかできないよ? 素人だし、自信ないし……」

「そっか……」

 ツンデレが諦めたように目を伏せる。それきり沈黙が教室を占めた。すると雨の音がいや増し、教室は一段と冷え込んだような気がする。

「あ、でも」

 ふじのんは人差し指を唇にあて、教室の天井を仰ぎ見ながら云った。

「手っ取り早く笑わせたいなら、決めギャグとか作るといいかも」

「決めギャグ?」

 鸚鵡返しに呟いたノッポに目を戻し、ふじのんは一つ頷いた。

「ほら、あるでしょ? なぜか一言だけで笑いが取れちゃうの。ちょっと古いけど、がちょーんとかアイーンとか」

「おお!」

 ノッポは思わず手を打ち合わせた。一方、目を上げたツンデレは眉宇を曇らせて胡乱げに小首を傾げる。

「でもああいうのって、何年かすると廃れるわよね。流行語みたいなもんでしょ。狙って作れるの?」

「うーん、わかんない。でもやってみないと始まらないよ? なにか思いついたら、試してみたらいいんじゃないかな」

「一言だけで笑いが取れるやつか……」

 ノッポは顎に手をあてながら考え込み、自然と目線を下にやった。すると目の前に立っているふじのんの乳房の膨らみが目に飛び込んでくる。ツンデレほどではないが、なかなか立派な巨乳だ。

「おっぱい」

 その直後、ふじのんがノッポの頬を平手打ちにした。

「ノッポくんのエッチ!」

 ふじのんはそう叫ぶや、羞恥に顔を灼かれながら教室を飛び出していった。

「あーあ、この馬鹿……」

 ツンデレがノッポをきつく睨んできたが、ノッポは至極真面目に考えていたのだ。ふじのんに平手打ちにされたのも蚊に刺されたほどしか感じず、一人ぶつぶつと呟いている。

「おっぱい、オッパイ、オッパオ、オッパラ……うーん……」

 そんなノッポに業を煮やしたのか、ツンデレが窓辺を離れて歩み寄ってきた。

「ほら、ノッポ。反省会といくわよ」

「お、おう」

 ノッポは益体もない考えを打ち切り、ツンデレの手招きに応じて自分の席へ向かった。


 自分の席に着いたノッポと、その前の席の椅子を跨いで逆向きに座ったツンデレは、ノッポの机で額を付き合わせて、台本を書き付けたルーズリーフを肴にああでもないこうでもないと話し合いをしていた。それが行き詰まりを見せたとき、ツンデレがため息をついて立ち上がった。

「このネタは駄目ね。一から作り直しましょう」

「なんやて!」

 ノッポが椅子から腰を浮かせた途端、その横に回り込んできたツンデレの閃光魔術が炸裂した!

 まもなく立ち上がったノッポは、椅子に座り直すとツンデレに恨みがましい目を向けた。

「なあ、ツンデレ。俺は今ボケたわけやない。なんやて、と云っただけや。なのになんで蹴りツッコミを入れるねん?」

「なんとなく、その『なんやて』っていう反応自体が、わたしのセンスじゃボケてるように聞こえるのよ」

「なんやて!」

 閃光魔術が炸裂した!

「理不尽や」

 教室の後ろの黒板に叩きつけられたノッポは、自席に戻ってくると疲れ果てた声を振り絞って、ふたたび椅子に座り直した。そんなノッポを見下ろしながらツンデレは高らかに云う。

「とにかく! この脚本は全部練り直し! 明日から……ううん、今日から死ぬ気で考えるわ。それからストリート漫才をやりましょう」

「なんやて!」

 閃光魔術が炸裂した!

 放物線を描いて窓際まで吹き飛ばされたノッポを、ツンデレが蹴りを放った片脚立ちの姿勢のまま、呆れた目つきで見下ろしている。

「いい加減、学習しなさいよね」

「おまえがストリート漫才なんて云うからや」

 ノッポはぶつけた頭を押さえながら勢いよく立ち上がった。

「それってあれやろ? 路上でギター弾くみたいに漫才やるってことやろ?」

「そう!」

 ツンデレは脚を下ろすと、豊かな胸の前で腕組みをしてノッポを見据えた。

「わたしが思うに、わたしたちに必要なのは場数を踏むことよ。それに笑ってもらえるかどうかなんて、お客さんに観て貰わないとわからないもの。とにかく思いついたネタ、片っ端からぶちこんで行くわよ。カップラーメンと、さよちゃんと」

「そしておっぱいのためにやな!」

 ノッポがガッツポーズを作って力強く宣言したところ、走り込んで来たツンデレの閃光魔術が炸裂した!

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