三 さよちゃん

  三 さよちゃん


 週末の土曜日、ノッポとツンデレは昼下がりに二人して町内会の会所を訪ね、正式にお笑い大会への出場を申し込んできた。そのあと、今は二人で商店街を漫ろ歩いている。

「持ち時間は三分か。短い気ぃもするけど、五分や十分もたせえって云われてもきついからな。ちょうどええわ」

「そうね」

 ツンデレはジャケットのポケットに手を突っ込み、寒さに震えながら素っ気なく呟いた。今日はあいにくの曇り空で、雨や雪こそないが風が強い。ノッポは暖かなダウンジャケットを着込んだ上にマフラーを巻いていたが、ツンデレはあちこちすり切れて毛羽だった生地の薄そうなジャケットにジーンズという格好だ。

「ツンデレ、おまえそんなかっこで、寒いんちゃうか?」

「冬なんだから寒いに決まってるでしょ」

「コンビニのおでんでもおごろか?」

「憐れみなんかいらないわよ。それよりお笑いのネタ、なにか考えついた?」

「それがなかなか難しいねん」

「台本早めに作らないと、本番で失敗するわよ」

「他人事みたいに云うなや」

「わたしだって考えてるわよ」

 そのとき通りかかったラーメン屋から漂ってくるいい匂いに、ノッポとツンデレは思わず足を止めてしまった。ツンデレが店の入り口を食い入るように見つめながら、ノッポに素っ気なく尋ねてくる。

「あんた、お昼ご飯食べた?」

「いや、まだやけど」

 するとツンデレは顔をぱっと輝かせてノッポを振り返った。

「じゃあラーメンでも食べながらゆっくり考えましょうか。もちろんあんたのおごりでね」

「たった今、憐れみなんかいらんて云うたばかりやないかい」

 ノッポのぼやきが聞こえなかったのか黙殺したのか、ツンデレは意気揚々としてラーメン屋の暖簾をくぐっていった。


 出汁がとんこつな上にチャーシュー麺だと、ラーメンは相当こってりしたものになる。それをあらかた平らげたノッポが、さらにスープを半分ほど飲み干してふくふくとしたため息をついたとき、カウンターの隣り合う席に座るツンデレが声をぶつけてきた。

「で、結局いいネタが出なかったんですけど」

「せやな」

 醤油の匂いが立ち込める温かい店に入ってから、ラーメンが出来るまでの数分を話し合いにあてたが、良案には恵まれなかった。

「まあ町内のお笑い大会やし、そんなレベル高いわけあらへん。優勝狙っていくにしても、そこそこ面白けりゃ――」

「そんなのだめよ。わたし、中途半端は大嫌い!」

「ほうか」

 気のない返事をするノッポを尻目に、ツンデレは腕を組み、背もたれに体を預け、椅子の前足をわずかに浮かせて続けた。

「明日は日曜日ね。朝から集合。一日かけて台本完成させるわよ」

「いや、明日はあかん。俺ちょっと用があるねん」

 するとツンデレがカウンターに小さな拳を打ちつけた。

「あと一週間しかないっての!」

「ばあちゃんの見舞いや!」

 ツンデレはきょとんとして目をまたたかせた。

「見舞いって、病院? あんたのおばあちゃん、入院してるの?」

「もう歳やからなあ」

 ノッポはそれきり口を閉ざしかけたが、たちまち気まずい沈黙が押し寄せてくるのを感じて、強いて快活にわらった。

「まあ、あれや。俺の有り余るエネルギーをばあちゃんに分けたるねん。そんなにこまめには行かれへんけど、ときどきは顔見せたらなな」

 そんな軽口が功を奏したのか、ツンデレも笑顔になって頬杖をついた。

「じゃあ仕方ないわね」

「おう」

 頷き、ノッポはどんぶりを両手で持って、スープの残りをごくごくと飲み干していった。それを見たツンデレが呆れたように云う。

「そんな油っこいの、よく飲めるわねえ」

「こってりした方が好きやねん」

 どんぶりをカウンターに置き、口元を手の甲で拭いながら、ノッポは云った。ふとした思いつきが頭を過ぎったのはこのときだ。

「せや、ツンデレ。チラシ持っとるか?」

「チラシ? お笑い大会の?」

 ツンデレは手持ちの年季の入ったトートバッグから、四つ折りにした例のチラシを取り出してみせた。今日、お笑い大会への出場登録をする際に、これを見せれば手っ取り早いというので持ってきたものだ。

「くれ」

 云うと、ノッポはツンデレの了承も取らずにチラシをひったくった。ツンデレは少し気を悪くしたらしく、顔を強張らせてねめつけてくる。

「そんなのどうするのよ?」

「決まってるやろ。ばあちゃんに見せたるねん」

 ノッポは皓歯もあらわにまたわらった。


 明けて日曜日の午後、町内お笑い大会のチラシはノッポの手を介してその祖母の手に渡っていた。

 病院の白い清潔なベッドは現代らしく機能的で、寝台の底が谷となって、病人が労せずして身を起こせるようになっている。その谷折りになった寝床を背もたれとして、ノッポの祖母は老眼鏡をかけた目でチラシをのんびりと眺めていた。

「へえ、あんたがお笑いかい。偉いねえ」

「いや、別にえろうないけどな」

 ベッドの横の椅子に座っているノッポは、関西風の発音をして朗らかに笑った。

 この病室は広々とした個室で、光りに溢れ、掃除は行き届いており、設備は最新のものばかりだ。白いレースのカーテンに縁取られた、人の姿がくっきり映る窓ガラスの外には、突き抜けるような青空が広がっており、その下には緑豊かな都市公園が見渡せる。景観はすばらしく、今は冬だから窓を開けるわけにはいかないが、春になれば気持ちの良い薫風が吹き込んでくることだろう。奥には座敷まである。このような至れり尽くせりの部屋は、もはや回復の見込みのない人が残された時間を心安らかに過ごせるようにと用意された、特別な病室であることをノッポも承知していた。祖母ももちろん、わかっている。

 祖母は老眼鏡を外して、細い目を和やかにしてノッポを見つめてきた。

「芸人になるのかい?」

「なわけないやん。このステージに立ったら、それでしまいや」

「そうかい。でも人生って、意外とこういうことがきっかけで決まったりするからねえ」

 ないない、とノッポが再度手を振ったとき、とつぜん部屋の扉が外側から開かれた。そして可愛らしい女の子の声が元気よく飛び込んでくる。

「おばあちゃん!」

「なんや?」

 ノッポは思わず椅子から腰を浮かせた。その横で祖母が破顔する。

「あら、さよちゃん」

 部屋に入ってきたのは、赤いランドセルが似合いそうな可愛らしい女の子だった。黒い髪を肩より少し下で切り揃えている。弾けるようなその笑顔だけを見ればいかにも元気な女の子だが、入院患者の着ているサックスブルーの寝間着姿であることが、ノッポにこのさよちゃんと呼ばれた少女もまたなにかの病気で入院しているのだと素早く理解させた。

 さよちゃんはノッポに気づくと、立ち止まって口をぽかんと開けた。

「だれ?」

 ノッポは心を掠めた哀れみの情を拭い去ると、椅子から立って野性味のしたたる笑顔を浮かべた。

「わいはノッポや!」

「ノッポ?」

「でかい奴のことをノッポ云うねん。でかいやろ?」

「うん……」

 ノッポが小腰を屈めて覆い被さるような構えを見せると、さよちゃんはちょっと怯えたように後ずさった。

 すぐにノッポの祖母が癇を立てた。

「こら、さよちゃんを怖がらせるんじゃないよ」

 祖母はさよちゃんに顔を振り向けると、一転して柔和な笑顔になった。

「ごめんね、さよちゃん。うちの孫が横着で」

「孫なの?」

「そうや。でも遠慮することなんかあらへんで」

 ノッポは自分の座っていた椅子をさよちゃんに勧めると、自分は窓の桟に腰を預けて立った。椅子に座ったさよちゃんは足をぷらぷらさせながらノッポと祖母をかわるがわるに見ている。祖母がさよちゃんに温かいまなざしを注ぎながらノッポに説明してくれた。

「おまえは初めてだったね。この子はさよちゃん。ときどきここへ遊びに来てくれるんだよ」

「ほうか。おおきにな、ばあちゃんと仲良うしてくれて」

 ノッポはさよちゃんの前に回り込むと、その小さな手をとって勢いよく握手した。それでさよちゃんの警戒に固く閉ざされていた心が、みるみる花開いていくのが、ノッポにはその笑顔とともに感じられた。

「さよちゃん、幾つや?」

「もうすぐ八歳!」

「ってえことは、今七つか。可愛いなあ」

 ノッポはさよちゃんの頭を撫でて、柔らかな黒髪をくしゃくしゃにした。さよちゃんは気持ちよさそうに目を細めると、尋ねてきた。

「ノッポは大阪の人?」

「いや、東京生まれや」

「じゃあなんでお笑い芸人みたいなしゃべりかたするの?」

 どうやらさよちゃんの頭のなかでは、お笑い芸人はみんな大阪出身ということになっているらしい。それはともかく、ノッポは胸を張って云った。

「お笑い芸人だからや。今度ステージデビューするねんで」

 ノッポは祖母に手を差し伸べた。心得たもので、ノッポの祖母は例のチラシをノッポに返し、ノッポはそれをさよちゃんに手渡した。

 さよちゃんはチラシを、匂いでも嗅ぐように顔に近づけて見た。

「お笑い大会?」

「これに出るねん」

 ノッポは椅子の後ろに回ってさよちゃんの手元を覗き込みながら、チラシに書いてあることの概略を関西弁で述べた末にこう結んだ。

「伝説が幕を開けるで」

「ふうん」

 さよちゃんはしばらくチラシにじっと目を注いでいたが、やがてぱっと花が咲くように笑ってノッポを振り仰いだ。

「観に行きたいな」

「ええよ。おいで」

 ノッポは先ほどそうしたように、またさよちゃんの頭を撫でた。そのときまたしても部屋の扉が外側から開かれ、今度は妙齢の婦人が顔を出した。

「ああ、やっぱりここにいた。さよ!」

 眉をつりあげて部屋に入ってきたその女性は、しかしノッポに気づくと目を丸くして足を止め、軽く会釈をしてきた。

「こんにちは」

「あ、どうもどうも」

 ノッポは小腰を屈めて礼をし、さよちゃんに聞いた。

「お母さんか?」

「うん!」

 さよちゃんは椅子から滑り降りると、チラシを手に母親のもとに歩み寄り、そのスカートの前身頃に華奢なからだをもたせかけて、「ねえねえ」と少し鼻の詰まったような声で母親に訴えかけた。

「ママ、わたし、これ観に行きたい」

「どれどれ?」

 さよちゃんのママはしゃがみこんでさよちゃんと目線の高さを等しくすると、さよちゃんと一緒にチラシを覗き込んだ。

「町内お笑い大会。へえ、もうすぐね」

「ノッポはお笑い芸人なんだって」

「ノッポ?」

 声の調子を高めたさよちゃんのママに、ノッポは照れくさそうに名乗りをあげた。

「僕のことです。背丈があるんで、綽名がノッポ」

「うちの孫」と、ノッポの祖母が付け加えてくれた。

 さよちゃんのママはチラシとノッポを交互に見ながら云う。

「あなた、これに出るの?」

「はい、まあ、一応。相方がカップラーメンが欲しい云うて、僕はその付き添いで。でもせっかくやから伝説を作ろうと」

 するとさよちゃんのママは小さく吹き出した。

「せっかくだから伝説って」

 笑うさよちゃんのママを、さよちゃんが横から揺する。

「ねえママ、観に行っていい?」

 するとさよちゃんのママはどこかすっぱそうな顔をして立ち上がり、さよちゃんの頭に手をかぶせた。さよちゃんはそんな母親を、ずっと高い空を横切る、名も知らぬ鳥を見るような目で見上げていた。

「お医者様がいいっておっしゃったら、連れていってあげるわ」

 するとさよちゃんはそのあどけない顔に失望をあらわして横を向いてしまった。顎を鎖骨にくっつけたその姿は、いかにも臍を曲げている。ノッポは少し迷ったが、思い切って口を開いた。

「さよちゃん。察するに、今もお母さんに黙ってここに来たやろ」

 だから姿の見えない娘を捜してさよちゃんのママはこの部屋にやってきたのだ。さよちゃんは目だけを動かしてノッポを見たが、そのまなざしには、怒らないでという願いが正直に込められていた。

「お母さんとお医者さんの云うことは聞かなあかんで」

「うん……」

 潮垂れたさよちゃんが今にも泣き出しそうになるのを見て、ノッポは慌てて云った。

「ええ子にしてたら病気なんてすぐ治るから大丈夫や。観に来れるよ。俺も相方もおもろいネタぎょうさん仕込んどくから楽しみにしとき! な!」

 するとようやくさよちゃんは機嫌を直したように満面に笑みを広げた。

「うん!」

 ノッポはほっとして思わず椅子に腰を落ち着けてしまった。

 さよちゃんのママがさよちゃんの小さな手を掴んだ。

「ほら、行くわよ」

 しかし、さよちゃんはその場に踏みとどまろうとした。それを見てさよちゃんのママが眉宇を曇らせる。

「せっかくお孫さんが来てるんだから邪魔しちゃだめよ」

「あ、ええですよ。そんな気ぃ使わんでも。ばあちゃんも賑やかな方が嬉しいやろし」

「そうですか?」

 さよちゃんのママはすまなそうな顔をしつつも、こちらの提案を受け容れてくれる気色を見せた。

 ノッポは椅子から立ち上がると、予備の椅子も持ってきてさよちゃん親子に座ってもらった。それから十分ほどは楽しく朗らかに話をしていたのだが、だんだんと祖母の表情が硬くなっていくのを、ノッポは素早く見て取った。具合が悪いのだ。さよちゃんのママに目を向けると、彼女の方でもそれを察していたらしく、彼女は話に区切りがついたところを見澄まして立ち上がった。

「さあ、さよ。そろそろ帰りますよ」

「ええっ」

「さよちゃん、ごめんな。ばあちゃん、薬の時間やねん」

 さよちゃんは納得した顔をしなかったが、母親とノッポの二人に追い立てられてはどうしようもない。

 部屋の戸口に行きかけたところで、さよちゃんのママが手に持ったままだったチラシに気づいた。

「このチラシ……」

「あ、どうぞ持ってってください」

 ノッポたちがそんな会話をしている下で、さよちゃんがノッポの祖母に手を振る。

「またあとでね、おばあちゃん」

「うん、またね」

 ノッポの祖母はなんとか笑顔を作って手を振った。さよちゃんは、今度はノッポを見上げてきた。

「ノッポもまたね」

「おう、またな」

 ノッポはにっと笑ってさよちゃんに応えた。


 さよちゃんが去ったあと、ノッポは祖母に水差しで水を飲ませてやり、ベッドを操作して祖母を寝かせた。それからカーテンを閉めると、薄暗くなった部屋で椅子に座って少しだけ話をした。

「さよちゃん、やっぱりどっか悪いんか?」

 すると祖母は眉を曇らせて云った。

「難しい心臓の病気らしくてね。このままだと長く生きられないそうだよ。治すには移植手術しかないってんだけど、ドナアっていうのかい? 心臓を提供してくれる人の順番があるし、手術をするのには、大変なお金がかかるっていうからねえ。気の毒だよ」

「ほんまになあ」

 ノッポはふと薬品の匂いを嗅いだ気がした。病院に入ってしばらくすると鼻がこの匂いに慣れてしまったはずなのに、おかしなものだ。


        ◇


「――ってことが、昨日あってん」

 翌月曜日の朝、ホームルーム前の空いた時間にノッポは教室の自席でツンデレにさよちゃんのことを話して聞かせていた。話に一段落がつくとツンデレは半眼になって、椅子に横座るノッポを見下ろしてきた。

「あんた、それ責任重大じゃないのよ!」

「は? なんでや?」

「本番まで残り一週間切っててまだ台本も出来てないのに、俺も相方もおもろいネタぎょうさん仕込んどくから楽しみにしとき! って、云ったのよね、あんたは。病気のちっちゃい女の子に。なんの根拠もなしに」

「いや、それは」

 ノッポは返事に詰まりながら、さよちゃんが自分たちのステージを観に来てくれるかもしれない、来週の日曜日のことを思い描いた。全力は尽くす。尽くすが、その結果ネタがすべったら、寒かったら。それは仕方ない。自分たちが悪いのだ。悪評は甘んじて受けよう。

 だが病身を押して会場に足を運んでくれたさよちゃんに笑ってもらうことができなかったら。その想像にノッポは戦慄した。

「うおお……なんかとんでもないこと云ったような気がしてきたで」

「ほらみなさい! どうすんのよ!」

「どうするって、おもろいネタ考えるしかないやないか」

 こういうとき、燃え上がるのも腹を括るのも早い。

 ノッポは右拳を左の掌に叩きつけた。

「おう、ツンデレ」

「なによ」

「本気出すで」

「あったりまえよ! カップラーメン、取りに行くわよ」

「おう! そしておっぱいや!」

「でかい声で云うな!」

 閃光魔術が炸裂した!

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