机上の烏龍

 彼女について、僕は机上の空論ばかり展開していた。



 中学校の時に初めて同じクラスになってから、どうにも視界に入る彼女が気になってしかたなかった。すらりとしたスタイルに、肩まで伸ばした黒の艶髪。すれ違えば女の子の良い香りがしたし、同い年とは思えないほど大人びて整った顔つきの真ん中で輝く焦げ茶の瞳は、どんな宝石よりも魅力的に見えた。


 でも僕は自他共に認めるヘタレだから、いきなり声なんて掛けられない。できることといったら彼女を遠目で眺めることと、そんな彼女ともし話せたらどんな話題がいいか考えるくらいだった。互いの好きな音楽の話、部活の話。色々と想像は膨らむが、すぐにそれを行動に移すことはできなかった。


 チャンスがきたのは三年生の時。委員会決めで僕は彼女と同じ図書委員になれた。


「よ、よろしく……」

「えぇ、よろしく」


 初めて交わした、彼女との会話。僕に向けて喋った、彼女の最初の言葉。それだけでも僕の心臓は高鳴った。彼女の春の陽光のような暖かい笑顔に、僕はこの気持ちが恋だと確信せずにはいられなかった。


 といっても、僕はすぐに告白できるようなタマじゃない。まずは友達になって、そこから少しずつ距離を詰めていこうと決めた。話のネタなら、たくさん考えたじゃないか。会話、相互理解、進展。一方通行の矢印で繋げると皮算用をしていたのは誰だ。


 彼女と共に図書当番をするのは、毎週金曜の昼休み。そこが僕に与えられたチャンスだった。事務的な会話だけで満足せず、もっとプライベートに踏み込んだ話をする……そうしているうちに、彼女と仲良くなれるに違いない。


 いざ。


「あ、あの、さ……」

「ん?どうかしたの?」

「ご、ごめん何でも……!」


 そう頭では分かっていても、実際に会話するのは過酷を極めていた。彼女と目が合っただけで心臓が跳ね上がり、前夜から用意した言葉が全て吹き飛んでしまう。散乱した言葉は、いったいこの図書室のどの本に挟まってしまったのだろうか。


 幸運に恵まれたのは、図書委員になってから3ヶ月経ってからだった。


 僕と彼女だけがいる、夏の図書室。


 クーラーの使用は禁じられ、そこには本の匂いと蒸した暑さが蔓延していた。

 他の図書委員が持ち込んで置いていったらしい団扇うちわで気を紛らわしながら、僕はどうやって話そうかと悩んでいた。


 持ち込んだペットボトルの烏龍茶を、勢いで飲み干す。汗を掻いたボトルの中身が喉を潤し、心地よい感覚が食道を下っていった。舌に、微かな甘味と渋味が貼り付く。


 さりげなく隣に座る彼女に目をやる。書店のブックカバーを付けた文庫本を黙々と読む彼女は様になっていて美しかった。熱さに赤らんだ彼女の首筋を、汗の粒が伝う。それが妙になまめかしくて、僕はいけないものを見ているような気がした。


 彼女が本のページをめくる。そこにふと、覚えのある一文を見た。あれは確か……


「銀河鉄道の夜……?」

「ん?そうだよ。賢治好き?」


 指を挟む形で本を閉じると、彼女の視線が僕に向けられる。


「えっと、好きと言われると……いくつか読んだことがあるくらいで」

「へー、何読んだの?」

「えっと、他には――」


 喉の奥から言葉を絞り出し、会話を繋げていく。どうやら僕に足りなかったのは最初の一歩だったらしく、そこからは思っていた以上にスムーズに話せた。好きな作家、昨日見たテレビ、来週のテスト。他愛もない、それでいて至福の時間だった。


 それから僕達は、幾らか話をするようになった。相変わらずドキドキは止まらなかったが、彼女は優しく接してくれた。


 やがて教室でも話すようになった。互いに本の貸し借りもするようになったし、一度だけ休日に一緒に買い物に出掛けたこともあった。といっても本当に買い物しただけで、終えるとすぐに解散になってしまったが。


 友達……といっても良いのだろうか。彼女は交友関係が広い。別に僕だけが本の貸し借りをしていたわけではないし、他の男子とも笑顔で話す。彼女から見れば、僕は一介のクラスメイトに過ぎないのかもしれないと考えると、怖くて夜も眠れなかった。


 それでもやっぱり、僕は彼女の特別になりたかった。


 それ以上の進展もないまま、僕達は同じ高校に入学した。クラスも部活も分かれてしまったため、自然と僕達の距離は生まれていく。それに反比例して、僕の気持ちは強まっていくばかりだった。


 一年経ち、進級の文理選択。僕は数学が得意だったが、彼女と同じ文系に進むことを決めた。二分の一のクラス替えも成功し、僕は彼女と同じクラスになった。


 すぐに行われる委員会決め。彼女は図書委員に挙手した。だから僕もそうした。そして偶然にも、僕は彼女と同じ日の当番になった。


 二人並んで座る、図書室の受付。


 中学校のよりも広く、より堅苦しい本が揃っている。それでも感じる空気はあの時と同じもので、座っているだけで幸せな気持ちになれた。


 それでも緊張はした。

 喉が渇く。潤すために、持ち込んだ烏龍茶を飲む。


「――くんってさ、烏龍茶好きだよね」


 横からの不意を突く言葉に、僕はついむせてしまった。


「げほっげほっ……!そ、そう見える?」

「うん。何か飲んでるの見るとき、大体烏龍茶だもん。中学の時だって、図書室にいつも持ち込んでた」


 出会ったときから変わらない、魅力に溢れた笑顔。化粧を始めた彼女は、より一層大人びて見えた。


「そうだったね。あまり考えたこと無かったかも」

「私は、紅茶がいいかな」

「へぇ、そうなんだ」


 彼女が紅茶を飲んでいるところを見た事がないが、きっと家で本格的なのを飲んでいたりするのだろう。手入れされた芝生の広がる庭。そこにテーブルを出し、アフタヌーンティーを嗜む彼女を想像する。なるほど、様になっている。


「――くんとは、もう長い付き合いだね」

「他の友達はほとんど別の高校行っちゃったから、そう感じるのかな」

「そう、かもね……」


 すると彼女は俯き、手元に視線を下ろす。組んだ両手に力を入れたり抜いたりして、何か考え始めたようだった。


 そして小さく頷き、彼女は顔を上げた。


「知ってる?緑茶も烏龍茶も紅茶もさ、原料は全部同じ茶葉なんだよ?」

「どこかで聞いたことがある。確か発酵の差だっけ」

「そう。発酵させないのが緑茶で、完全に発酵させたのが紅茶。烏龍茶は、丁度その間くらい。……これってさ、人で例えたらどうかな」

「人で?」


 先の読めない彼女の話に、僕は首をかしげる。


「うん。その人とどんな関係でいたいか、って考えた時にさ。緑茶が他人で、烏龍茶は友達、みたいな――」


 次の瞬間、僕の視界から彼女が消えた。


 それと同時に感じる、柔らかく温かな感触と、嗅覚を刺激する芳醇な匂い。彼女が、僕に身体を預けていた。


「私は、――くんとは紅茶がいい」






「どう?完璧でしょ!!」

「完璧、ってあんた、全部机上の空論じゃない。なーにが『紅茶がいい』よ。あんたは一生雨水でも飲んでなさい」


 僕の熱弁を聞いた幼馴染みは、かなり口汚く否定してきた。


「なんだよ!僕の計画の何がだめなんだよ!」

「まずあんたね、まだ一言も話してもいない相手でそんな妄想すんじゃないわよ、無駄に描写が細かいのよ最高にキモいわもうキモい以外の何者でもないわ」

「同じクラスに気になる美少女が来たんだ、計画を立てて何が悪い!」

「はっ、もう話にならないわ」

「こっちのセリフだ、僕はやってやるんだ!」


 そう決意を固め、僕はさらに綿密な計画を組み立て始めた。




「私だって、紅茶がいいわよ……」

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