モ寄り駅
気が付くと、電車が知らない駅で停車していた。
……完全に寝過ごした。
電灯に照らされた車内には、もう誰もいない。ホームの明かりがチカチカと点滅し、それに小さな羽虫が寄って
全く、4日ぶりの帰宅となると真っ直ぐ家にも帰れんのか、俺は。
降りるはずだった自宅マンションの最寄り駅は、終点の3つ手前。他にもアパートやマンションが建ち並ぶ、労働者の詰め所みたいな地域の中心にある。近辺では数少ない居酒屋やスナックが周囲に集中しているため、終電の頃には一仕事を終えたサラリーマンの喧噪が聞こえてくる。
それに対し、今いる駅は奇妙な程静かだった。何というか、
このまま乗っていてもしょうがないので、とりあえずホームに降りようとする。
しかし電車から踏み出した最初の一歩目で、ヌルッとした何かを踏んだ。そしてそのまま足を滑らせ、盛大に尻餅をついてしまった。
「痛っ!」
いい歳してこんな大袈裟な転び方をするのかと、心底恥ずかしくなる。幸い、人がいないのが救いだった。
転んだ場所を見ると、何か濡れた深緑の物体に足跡が付いていた。
そしてその異様な光景に、俺は驚かずにはいられなかった。
「何だよ、これ……」
踏んだ所だけでなく駅のホームの足場全てを埋め尽くす、緑のカーペット。じんわりと冷たくなっていくお尻に驚いて飛び上がると、スーツがすっかり濡れていた。
風が吹いた。頬を撫でる初夏の風は湿っている。さらに鼻腔を刺激するのは、磯のようで森のような、何とも言えない濁った緑の臭い。
まさか、これ全部藻なのか……?
明かりに照らされ見える範囲全ての地面が、繁茂した藻に覆われていた。
一体ここで何が起きたんだ?どうすればこんな事に……。
周囲を見渡す。壁への浸食は無いらしく、視線を下げない限りは少し古びた程度の駅に見える。
辺りは真っ暗で、駅の周りに建物があるのかどうかすら分からない。闇の中に駅が浮いているように錯覚し、それがこの状況の気持ち悪さを増幅させていた。
プシュー。
聞き慣れた音に振り向くと、電車の扉が閉まりかけていた。
「……ッ!おい!ちょっと待ってくれ!」
このままここで置いて行かれるのが怖く、必死に手を伸ばす。
しかし藻のぬかるみに足を取られた分動作が遅くなり、扉は無情にも閉じてしまった。そしてそのまま電車は汽笛を鳴らし、元来た方向へと走り出して消えていった。
「えぇ……」
やるせない気持ちで後部車両を見送ると、駅に再び静寂が訪れた。
改めて周りを見直す。やはり、この状況は異常だ。藻も確かに異常な光景だが、それ以外にも変なところが多い。
例えば、駅名の書いた看板が見当たらない。藻のせいで基準がおかしくなってしまってるが、駅としてはかなり違和感のある光景だ。だからここかどこなのか、いまいちよく分からないでいた。
終点なのか、それとも乗り間違えたのか。終点まで来たことがない上に、極度の疲労からかどうも電車に乗り込んだ時の記憶が曖昧だ。
腕時計で時間を確認する。時刻は12時を回っていた。
どちらにしろ、終電に乗ったことには間違いないだろう。ここから帰るのは、徒歩なりタクシーなりになるのか。
そうか、グーグル先生に聞いてみよう。
そう思いスマホで検索しようとしたところで、自分が手ぶらであることに気が付く。まさか、あの電車に忘れたのだろうか。財布もないということは、かなり面倒なことになっている。このままじゃ誰かと連絡を取れないし、タクシーも拾えやしない。
「はぁ、マジかよ……」
ついたため息は、下を覆う藻に吸収され掻き消される。
今日は四日ぶりの帰宅だったのだ。納期ギリギリの案件で担当の奴が急な病気(それも怪しいが)で会社を休んだため、人員の埋め合わせ要員として散々こき使われた後なのだ。
明日は休みだ。だからさっさと帰って寝まくろうと思っていたら、現在のこの状況である。死体蹴りも良いところだ。
「どうしましたか?」
「うわっ!?」
突如聞こえた声に驚き、またも尻餅をつく。濡れたパンツが貼り付き、とても気持ち悪い。
「すいません、驚かせてしまいましたか」
目の前に差し出された、白手袋を付けた手。そこから腕伝いに視線を上げていくと、それは随分とステレオタイプな車掌の制服に身を包んだ男性のものだった。恰幅が良くて、ぱっと見では自分より幾つか年上に見える。さっきまで誰もいなかったのに、一体どこから出てきたのか。
その手を借りて立ち上がる。すると自分の手に付いていた藻が、綺麗な白手袋を汚してしまったのだと遅れて理解する。
「ああ、すいません」
「いえいえ、よくある事ですから」
良くある事、という言葉が妙に引っかかる。それもだが、取り敢えずはここがどこなのか知りたい。
「あの、ここは何という駅でしょうか?」
「ここですか?色々呼び名はあるんですけどね、多くの方は『モ寄り駅』と呼んでおります。そして、私はここで働く駅員でございます」
「モヨリ、というと、その、最寄りですか」
「まぁ、貴方が今考えているであろうその意味もありますね。当駅の俗称は、他にも意味が込められておりますので。例えば、これですとか」
駅員が指差したのは、オールグリーンな真下。
「……藻、ですか」
「ええ。何分昔からこの駅はこうですので。もはや駅じゃなくて藻そのものだな、いやしかし駅としての機能は果たしている。駅寄りの藻というよりは、どちらかというと藻寄りの駅だろう。そんな下らない洒落でございます」
「なるほど」
何がなるほどなのかは分からないが、藻寄り駅というのは言い得て妙だと思った。
「最寄り、というのは、何に最寄りなのでしょうか?」
「そうですね……少し座って話しましょうか。今着替えをお持ちしますので、少々お待ちを」
「いえ、別にそこまでしていただかなくても」
「手前の好意ですので、お気になさらず。それに、もう終電ですので急いでも仕方ありません」
笑顔で消えていった駅員は、数分して着替えを持って戻ってきた。何だかユ○クロで揃えたみたいな、普通のジーンズと白無地のYシャツ、俺も持っているようなパンツだった。
どこで着替えればと聞いてみたら、明かりの付いた待合室へと案内された。待合室も床にはびっしりと藻が繁茂していて、椅子の上で着替える羽目になった。外から丸見えだったのではないだろうか。人がいないから良いものを、見つかったら逮捕事案だ。
駅員の言葉に従い、線路を向く年季の入った椅子に並んで腰掛ける。照らされる視界の半分が均一な緑で、残りはコンクリートと砂利の灰色だ。
「ここについて話す前に、貴方について質問しても構いませんか?」
「と、言いますと」
「ここに来た経緯です。何分、今日ここで降りたのは貴方一人でして。話相手が恋しくなっていたのであります。こんな仕事をしていてあれですが、黙り込むのは苦手でして」
俺、一人。
ここはどんな田舎なんだ。そんな路線があっただろうか。だとしたらそんな駅にどうして人が常駐しているのだろうか。そんな疑問がどんどんと浮かんでくるが、着替えまで用意してもらって対応しないのも何だか申し訳なかった。
「まぁ、少しなら」
「では、お願いします」
「と言っても、経緯……あまり覚えてないんですよね。気が付いたらここに着いてたと言いますか。仕事が終わって、やっと家に帰れると思いながら駅まで行って――」
一瞬、電灯の点滅に合わせるかのように呼吸が止まった。
語り始めた途端、自分の取った行動がはっきりとした記憶として蘇り始めたのだ。そしてフラッシュバックする情景に、体の震えを抑えることができなかった。震える唇で、続きを話し始める。
「仕事、大変だったんです。三晩会社に寝泊まりして、すごく疲れてて。それで、歩きながら、何だか眠いなーって」
「ほうほう、それで?」
「早く寝たいなーって。ホームで立ってる時に、どうしたら寝れるかなーって。そしたら丁度、そこに電車が来て……」
「電車が来て?」
「あ、これだ。って思って。そのまま、線路に向かって、歩き出して」
飛び降りたんですよ、僕。
知らない女性の悲鳴、鈍い衝突音、記憶はそこで途切れる。次に意識が戻ったのが、さっきの電車の中だ。
隣に座る駅員の顔を見る。彼は全く何事も無いような様相で、反対側のホームを見つめていた。
「なるほど、そういうことでしたか。では、私も貴方の質問に答えましょうか」
そういって駅員はこちらへと視線を戻し、落ち着いた口調で続けた。
「この駅に来るのは、貴方のような列車での飛び降り自殺者だけです。なのでここに来る人は皆、死んだ人間です。ですのでどこの最寄り駅かと聞かれると、ズバリあの世の最寄り駅、人生の終点です。まぁ、あえて洒落込むとしましたら」
喪寄り駅、ですかね。
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