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2018年6月14日 23:34
>あら、祖逖は入りませんかそうですか。>まあちょっと違いますかね。ほぼ側にいませんし。前回のコメントのこれは、祖逖・陶侃・劉琨はすでに「西晋十六傑」に選んでいるからです。指原がHKTとAKBを兼任しないようなものです。「西晋十六傑」の方が「元帝十六翼士」より基本的に格上ですね。第六十九回の王澄の荊州刺史解任への王導の反対は、魂胆が見え透いている感じですな。中央の王衍の関係もあるし(笑)。周顗が司馬睿の参謀として成り上がると同時に、王導の意見に反駁していることにご注意を。司馬睿の命令を無視して杜弢を討伐する陶侃も、十六翼士には相応しくない感じですな。王敦は、羅尚を諫めた同名の人物と同一人物とされ、司馬熾に東海王の異心を告げたり、先見の明がありながらも聴かれず、自立心を高めていくキャラに描かれているようです。史実では、永嘉三年(309)三月の王敦の揚州刺史赴任、四年(310)二月の建威将軍・銭璯の叛乱と王敦の逃亡、周玘による鎮圧、五年(311年)正月、杜弢の叛乱が起きる、同月の寿楊にいた揚州都督・周馥の甘卓による討伐、さらに同月の王敦の揚州刺史の再任用を経て、やっと東晋の基盤作りの端緒につくわけです。なお、下位の都督である揚州都督・周馥が従っていないため、この頃までは上位の都督であるはずの司馬睿が江南豪族の軍事力に頼らざるを得なかったでしょう。杜弢の叛乱は本来なら、建興三年(315年)まで鎮圧にかかるのですが、ここでは短期間で鎮圧したことになっています。史実でここまで時間がかかったことで、王敦がかえって荊州地域における軍事の掌握が可能となります。王敦は軍事能力よりも軍における人心掌握に長けているようです。
作者からの返信
こんばんは。〉「西晋十六傑」そうでした。刺史、郡太守クラスの有力者はこちらでしたね。第五十一回以来なので失念しておりました。キャラ萌えがほぼないタイプではありますが、これはヒドイ。どっちが訳者なんだか。。。〉周顗が司馬睿の参謀として成り上がると同時に、王導の意見に反駁しているふうむ。王導には王導なりの打算があったわけですよね。まあ、個人ではなく一族の利害の代弁者と考えなくてはいけませんから、これはあくまで北来貴族というより瑯琊王氏と江南豪族の勢力争いであって、個人的な闘争ではないんでしょうね。〉陶侃佐藤さん『世説新語』を読んで、渓狗と蔑まれた陶侃は五渓蛮だといいなあ、と思っております。三国志の王平みたいな感じで。やはり彼は彼で何らかの勢力を代表しており、個人としての行動ではなく、利害に沿って行動していたと考えたいものです。だから、晋に忠実ではないと言われると、逆に納得感があります。〉王敦たしかに。あれだけ諫言を無視されたら自立したくもなりますよねー。逆に匈奴出身と思しき陳元達の方が漢人的というか、君は君たらずとも臣は臣たれ、という言葉を地でいく感じですよね。〉周馥「第七十五回 漢は洛陽を囲むも克くせずして退く」では亳州の守将として登場しますね。キャラ付けは晋に忠義な人として現れますから、なかなか興味深いです。〉王敦の揚州刺史の再任用実は苦労されていたのですね。なんとなく良家のボンかつ腕利きで、苦労人のイメージはあまりないのですが。瑯琊王氏の功徳ですかねえ。〉都督調べ直してみるのがいいんでしょうけど、官職の詳細にはあまり興味がないんですよねえ。。。なぜなら儒教国家は法治国家ではなく人治国家だから。この場合、人により特例が認められ、かつ、それが特例であることが必ずしも示されないため、規定の意味が薄くなるんですよね。先輩でテーマにされていた方がいらっしゃいましたが、おそらく藪の中だろうと仰っていた記憶があります。そういえば、王敦さんは桓温、桓玄親子と比して軍事的に秀でた印象はないですね。人気があったというのが実際かも知れませんね。
>あら、祖逖は入りませんかそうですか。
>まあちょっと違いますかね。ほぼ側にいませんし。
前回のコメントのこれは、祖逖・陶侃・劉琨はすでに「西晋十六傑」に選んでいるからです。指原がHKTとAKBを兼任しないようなものです。「西晋十六傑」の方が「元帝十六翼士」より基本的に格上ですね。
第六十九回の王澄の荊州刺史解任への王導の反対は、魂胆が見え透いている感じですな。中央の王衍の関係もあるし(笑)。周顗が司馬睿の参謀として成り上がると同時に、王導の意見に反駁していることにご注意を。
司馬睿の命令を無視して杜弢を討伐する陶侃も、十六翼士には相応しくない感じですな。
王敦は、羅尚を諫めた同名の人物と同一人物とされ、司馬熾に東海王の異心を告げたり、先見の明がありながらも聴かれず、自立心を高めていくキャラに描かれているようです。
史実では、永嘉三年(309)三月の王敦の揚州刺史赴任、四年(310)二月の建威将軍・銭璯の叛乱と王敦の逃亡、周玘による鎮圧、五年(311年)正月、杜弢の叛乱が起きる、同月の寿楊にいた揚州都督・周馥の甘卓による討伐、さらに同月の王敦の揚州刺史の再任用を経て、やっと東晋の基盤作りの端緒につくわけです。
なお、下位の都督である揚州都督・周馥が従っていないため、この頃までは上位の都督であるはずの司馬睿が江南豪族の軍事力に頼らざるを得なかったでしょう。
杜弢の叛乱は本来なら、建興三年(315年)まで鎮圧にかかるのですが、ここでは短期間で鎮圧したことになっています。史実でここまで時間がかかったことで、王敦がかえって荊州地域における軍事の掌握が可能となります。
王敦は軍事能力よりも軍における人心掌握に長けているようです。
作者からの返信
こんばんは。
〉「西晋十六傑」
そうでした。
刺史、郡太守クラスの有力者はこちらでしたね。第五十一回以来なので失念しておりました。キャラ萌えがほぼないタイプではありますが、これはヒドイ。どっちが訳者なんだか。。。
〉周顗が司馬睿の参謀として成り上がると同時に、王導の意見に反駁している
ふうむ。
王導には王導なりの打算があったわけですよね。まあ、個人ではなく一族の利害の代弁者と考えなくてはいけませんから、これはあくまで北来貴族というより瑯琊王氏と江南豪族の勢力争いであって、個人的な闘争ではないんでしょうね。
〉陶侃
佐藤さん『世説新語』を読んで、渓狗と蔑まれた陶侃は五渓蛮だといいなあ、と思っております。三国志の王平みたいな感じで。
やはり彼は彼で何らかの勢力を代表しており、個人としての行動ではなく、利害に沿って行動していたと考えたいものです。だから、晋に忠実ではないと言われると、逆に納得感があります。
〉王敦
たしかに。
あれだけ諫言を無視されたら自立したくもなりますよねー。逆に匈奴出身と思しき陳元達の方が漢人的というか、君は君たらずとも臣は臣たれ、という言葉を地でいく感じですよね。
〉周馥
「第七十五回 漢は洛陽を囲むも克くせずして退く」では亳州の守将として登場しますね。キャラ付けは晋に忠義な人として現れますから、なかなか興味深いです。
〉王敦の揚州刺史の再任用
実は苦労されていたのですね。なんとなく良家のボンかつ腕利きで、苦労人のイメージはあまりないのですが。瑯琊王氏の功徳ですかねえ。
〉都督
調べ直してみるのがいいんでしょうけど、官職の詳細にはあまり興味がないんですよねえ。。。なぜなら儒教国家は法治国家ではなく人治国家だから。
この場合、人により特例が認められ、かつ、それが特例であることが必ずしも示されないため、規定の意味が薄くなるんですよね。
先輩でテーマにされていた方がいらっしゃいましたが、おそらく藪の中だろうと仰っていた記憶があります。
そういえば、王敦さんは桓温、桓玄親子と比して軍事的に秀でた印象はないですね。人気があったというのが実際かも知れませんね。