第六十四回 苟晞は漢を拒んで汲桑を殺す

 苟晞こうきたちが瑯琊ろうやの城に入って人馬を数えてみれば、林濟りんさいをはじめ二千の将兵を喪っていた。

 曹杯そうはいが言う。

「今日また漢賊どもに一戦を譲ってしまいました。いよいよ志を得て跋扈ばっこしかねません」

「虚実を測る緒戦に過ぎず、言うにも及ばぬ。明日ふたたび将軍たちを煩わし、計略をもって敵を破るだけのことよ。まずは休んで戦意を養い、吾が計略を案じるのを待たれるがよい」

 苟晞の言葉を聞いて夏侯成かこうせいが言う。

「主帥(苟晞)は此処までの進軍でお疲れでしょう。まずは酒宴を開いていささか労を散じ、明日の軍議に備えましょう」

 それより論功と賞賜の後に酒宴となり、歓を尽くすと諸将は退いて休んだ。


 ※


 翌早朝、苟晞は幕舎に入って諸将を召し出した。

「昨日の一戦は林濟が汲桑きゅうそうを支えきり、吾が馬が彼奴を畏れなければ、漢賊どもに一勝を譲ることはなかった。吾が観るところ、漢将に汲桑ほど凶暴な者はおらぬ。歩戦を善くする上に大斧を振るい、騎馬で討ち取ることは難しい。王彌おうび劉霊りゅうれいとてあれほど扱いにくくはない。吾も四度に渡って危地に陥れられており、難敵である」

 葉禄しょうろくが言う。

「汲桑は匹夫に過ぎず、力を争ってはなりません。詭計により陥れるべきです。昔、孟観もうかんは詭計によって一戦に齊萬年せいばんねんを討ち取りました。汲桑が齊萬年ほどの難敵であるとは申せません」

「将軍の言うとおりである。兵は詭計を厭わぬ。汲桑を陥れるなどたなごころかえすようなものよ」

 苟晞はそう言うと、臆したよう見せかけるべく城の堅守を命じて出戦を厳に禁じた。


 ※


 曹嶷そうぎょくたち漢将は城内からの突出を防ぐべく瑯琊の城を囲むに止め、軍議を開いていた。

 汲桑が言う。

「苟晞は林濟を斬られて戦を怖れ、軽々しくは出戦するまい。城を包囲すれば城内の兵は一心になって堅守に努め、一方で洛陽らくように救援を求める。包囲を緩めて出戦を誘い、一戦に苟晞を擒とするのが上策である」

 汲桑の策を聞くと、張雄ちょうゆうが進み出て言う。

「苟晞は老練にして狡猾窮まりなく、知略は尽きることがありません。出戦を避けているのも何らかの計略と観るべきです。付け込もうとすれば術中に落ちる虞があり、どのような詭計を案じているかを見極めねばなりません。観るところ、軍勢を東平とうへいに返して上党公じょうとうこう石勒せきろく)と吾が父(張賓ちょうひん)の出馬を願えば、苟晞と渡り合えましょう。幸い、王浚おうしゅん劉子通りゅうしつう(劉霊)との戦の真っ只中、襄國じょうこくを狙う暇はありますまい」

 その言葉を汲桑は取り合わない。

「小将軍(張雄)はまだ年若く老練に至らず、苟晞の名に臆しておられるのであろう。吾らは苟晞と刃を交えること多く、手並みはよくよく承知しておる。謀主ぼうしゅ(張賓)が自ら来られるなど、『鶏を断つに牛刀を用いる』というものであろう」

牧馬帥ぼくばすい(汲桑)の勇力に敵はありませんが、知略では苟晞に敵いません。千慮の一失という言葉を忘れてはならぬのです」

「論じるに足りぬ。諸将軍の助力があれば、吾一人で苟晞を生きながら擒とすることもできる。明日には瑯琊を陥れて大漢の国威をあらわさねばならぬ」

 汲桑はもはや張雄を見ず、軍議に居並ぶ諸将にそう宣言した。

「牧馬帥は先鋒の任を受けておられる。その命とあれば従わぬはずもない。戦となって力を尽くさぬ者など吾が軍にはおらぬ」

 叔父の張敬ちょうけいがそう言えば、甥の張雄としても意を押し通すわけにはいかない。諸将は翌日の戦に備えて座を退いた。


 ※


 翌日、汲桑は瑯琊の城下に布陣すると陣頭に立って挑発する。

 苟晞はそれに応じず、ただ城を守って出戦を許さない。汲桑は怒って城門に攻めかかるも、百人以上の死者とそれに倍する負傷者を出しただけであった。日が暮れかかり、得るところなく兵を返さざるを得ない。

 軍営に帰ると張雄が言う。

「苟晞が出戦を避けているのは、企てるところがあるためです。何らかの形で軍営を脅かすか、あるいは、東平を襲って吾らの帰路を断つのが定石です」

 曹嶷が策を案じて言う。

「軍営を武水ぶすいの畔にも置いて津を押さえちまやいい。そんなら、東平には行けねえ。それに、いざって時に東平に逃げ戻るにも具合がいいじゃねえか」

▼「武水」は原文では「沂水きすい」とする。沂水は北の東安郡とうあんぐんに発して瑯琊の治所である開陽かいように到る。ただし、開陽の南で沂水は西から来る武水ぶすいと合流してさらに南に流れる。南武陽なんぶようは武水の上流にあり、その先に東平があることを考えれば、ここで沂水というのは誤りと考え、武水に改めた。概念図は下の通り。

          上流が東安郡

              │

 ◆東平          │

   ─┐         │

   ◆└武水┐      沂

   魯  ◆└┐     水

     南武陽└┐ 費  │

         └┐◆  │

          └┐開陽│

           └┐◆│

            └┐│

             └┤

 汲桑たちはその言に従い、桃豹と鈄剛とうごうに二万の軍勢を与えて武水の津に軍営を置かせ、万一の事態に備えた。


 ※


 晋の斥候は漢軍の動きを瑯琊の城に報せ、それを聞いた苟晞が言う。

「天与の機である。吾らが出戦せぬため、東平を襲って帰路を断たれるかと懼れたのであろう。全軍で攻めあぐねておるにも関わらず、兵を分けて武水を守るとは愚かなことよ。漢将は用兵を知らぬ。今こそ詭計をおこなう時である」

 葉禄と林潤りんじゅんを呼んだ。

「お前たちは一万の軍勢を率いて間道から武水の河畔に向かい、漢賊の背後に回って十里(約5.6km)ほど離れたところに潜んでおれ。それまでに草葉と硝石を集め、束にして油を注いだものを五千人に一束ずつ持たせよ。もう五千人には火器を持たせておけ。明日の黄昏時をその期限とする。二更午後十時より後に漢賊の軍営が騒がしくなろう。攻めかけて周囲を焼き払い、鉦鼓の音と鬨の声を挙げよ。それだけで漢賊どもは浮き足立つ。その時には別軍が漢賊の軍営を襲う。お前たちは何も考えず策を行えばよい」

 二人が出ていくと、葉福しょうふく苟元こうげん苟亢こうこう夏國相かこくしょうの四人に言う。

「お前たちは五千の精鋭を率い、今夜中に城を出て東に向かえ。明日の午後までに硝煙を仕込んだ柴草の束を作って漢の本営のあたりに潜んでおれ。黄昏時になれば、二将は柴草を漢の本営の西に敷き、二将は軍営の背後の柳林中に柴草を隠せ。一更には計略を行う。漢の本営には吾が自ら向かうゆえ、怖れるには及ばぬ」

 さらに童礼どうれい夏陽かよう、曹杯、夏侯成の四人に命じる。

「お前たちは火器を与えた七千の軍勢を率い、明日の黄昏時に密かに城を出よ。漢の本営の西に出れば、葉福らが柴草を敷き終わっていよう。一斉に火器を放って焼き払え。漢賊どもは手もなく乱れよう。乱れに乗じて攻めかければ、破れぬはずもない」

 諸将は命を受けてそれぞれの任に向かった。


 ※


 翌日の黄昏時、童礼、夏陽、曹杯、夏侯成の四将が密かに城を出る。苟晞と高淵こうえんもそれに続いた。

 高淵が諌めて言う。

「あまりに早く出られては、漢賊どもが吾らの策を覚った際に対応できません」

「兵を惑わす言を吐くな。漢賊の軍営を襲うのは二、三更(午後十時から午前零時)になろう。まずはすみやかに行って諸将が軍期を違えぬようにするのだ。漢賊どもが備えていようとも、火に遭えば平常心ではいられぬ。必ず乱れよう。その隙を突く計略も考えてある。将兵の士気は高い。必ずや漢賊を打ち破れよう」

 高淵は黙然として答えず、人知れず呟いた。

「それほど審らかに敵を謀ることなど、できようはずもない」

 その呟きを苟晞に報せる者があり、それを聞いた苟晞は怒りを押し隠して軍勢を発する。一更(午後八時)になる頃には、漢の本営に近づいていた。

 葉福たちが率いる五千の兵が漢の軍営に攻め寄せ、柴草を敷き詰めた。夜襲を覚った漢将たちが馬に乗った頃には、童礼、夏陽、曹杯、夏侯成の軍勢が火箭を発していた。乱れ飛ぶ火箭が地に落ちると、一帯の柴草が燃え上がって火の海となる。晋兵たちは鉦鼓を鳴らして鬨の声を挙げた。

 晋の夜襲を知った漢兵たちは大いに乱れ、軍営を飛び出した曹嶷の前は一面の火、晋兵を蹴散らそうにも進めない。同じく火に面した汲桑が呻く。

「小将軍(張雄)の善言を納れず、苟晞めに謀られたか。こうなっては命を捨てて一人でも多くの者を救い出すのみ」

 言い捨てると攻め寄せる苟晞の軍勢に向かい、開山大斧かいざんたいふを振るって晋兵の攻め入るを許さない。


 ※


 この時、曹嶷や張雄たちは燃え上がる軍営を脱していた。汲桑は漢の将兵が危地を脱したと見るや、自ら晋の軍中に飛び込んでいく。

 それを見た苟晞が叫ぶ。

きんで頭を包んで大斧を持っているのが汲桑だ。取り逃がした者は斬刑に処する」

 晋の将兵が包囲するも、汲桑は大斧を振るって近づくことを許さない。

 この時、漢の軍営には劉景りゅうけい逮明たいめい呂律りょりつの三将が残っていた。晋の将兵が円形に包囲の陣を布いたことから漢将がその内にあると知り、指揮する高淵を襲って陣を割ると汲桑を包囲から救い出す。曹杯と夏侯成が逃げるを許さず後を追う。

 四将は戦いつつ包囲から逃れ、逮明と劉景は満身創痍となって軍営背後の柳林に逃げ込んだ。初冬の柳葉は枯れ果て、軍営の火が燃え移った木々が盛んに炎を上げる。

 汲桑と呂律は柳林の前で踏みとどまっていたものの、苟晞が攻め寄せてくると、やむなく柳林に逃げ込んだ。晋の将兵も後を追い、燃える柳林に踏み込んで乱戦になる。

 柳林では汲桑が葉福と苟元を斬り殺し、呂律は苟亢を討ち取ってなお諦める様子がない。

「一斉に矢を放って射殺せ。絶対に逃がしてはならぬ」

 苟晞が命じると、晋兵は一斉に矢を放つ。

 矢は雨のように降り注ぎ、呂律は腹に三矢を受け、汲桑は満身に十を超える矢を受けた上、目にも一矢が突き立った。

「これほどの傷を負っては生き延びられまい。功業を成し遂げずに死ぬとは口惜しい限りだ」

 そう叫ぶと、汲桑と呂律は慟哭の声とともに火中に身を投じたことであった。

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