第六十五回 漢兵は退きて平陽に回る
漢将たちは夜陰に乗じて逃れるだけで精一杯、汲桑たちが晋兵に囲まれたと知る者はない。
四更(午前二時)の頃には漢将たちは
それを知ると趙染が言う。
「
曹嶷が不安を打ち消すように言う。
「四人一緒なら心配はいるめえ。まずは軍営に入ってからのことだぜ」
漢将たちは武水河畔に置いた軍営に向かった。
※
武水の軍営にある
迎え入れたところ、二人は大哭して言う。
「撤退せんとしたところ、苟晞が
曹嶷と
「汲桑は吾が腹心の家将、挙兵より数多の勲功を建ててきた。それが一戦に落命するとは悔いても及ばぬ」
趙染の哭声を聞き、一軍は粛然と汲桑の死を悼み、桃豹たちは兵に兵糧を配ることも忘れて苟晞への罵言を言い募った。
※
この時、苟晞の将の
頃合と見るや、晋兵たちは大いに鬨の声を挙げる。
軍営の漢将たちは鬨の声を聞くと慌てて馬に乗った。軍営を出ても夜陰に紛れて敵の姿は見当たらず、ただ鬨の声と鉦鼓の音が聞こえるばかり。
その中で晋将らしき声が響いた。
「
漢の将兵は苟晞の大軍が追いついてきたかと懼れ、我先に軍営から逃れ出ようと道を争う。軍営を飛び出せば、すでに周囲は火の海になっていた。
張雄が叫んで言う。
「この火の回り方からすると消し止められるものではない。ただちに対岸に逃れよ」
曹嶷と張敬をはじめとする諸将はその言葉に従い、軍勢とともに武水を渡る。葉禄と林潤は寡兵であるために敢えて追わず、ただ逃げ遅れた漢兵を討ち取るのみであった。
※
武水の河畔に挙がる火の手から、苟晞は漢軍が計略に陥ったと知った。それより軍勢を率いて向かったものの、着いた頃には漢兵はすでに対岸に逃れている。
出迎えた葉禄と林潤が言う。
「漢賊どもは軍営を焼かれて混乱に陥りました。焼死する者が多く、逃げ遅れた者たちはことごとく討ち取りました。その他の者たちは
「お前たちの功績は大きい。先に吾らは汲桑を討ち取って漢賊どもの肝を奪った。さらに火計に陥り、吾らに囲まれぬかと怖れて逃げ去ったのだ。この勢いに乗じて東平を奪い返すこともできよう」
諸将は苟晞の計略に感嘆して言う。
「主帥の奇謀は鬼神もよく測り得ますまい。漢賊どもは怖れて二度と
苟晞は武水の河畔に軍営を置くと、祝宴を開いて将兵を慰労した。
※
武水を渡った曹嶷たちは一散に東平に向かい、城を守る
曹嶷が張雄に方策を問う。
「汲桑は勇を恃んで諫言も聞かず、ついに軍勢を喪って自らも討ち死にしちまった。苟晞の野郎は勝った勢いで東平の奪回に乗り出してきやがるに違いねえ。どうやって防ぎゃいいか」
「先の一戦で士気は低く、糧秣や器械の多くは失われました。東平の孤城を守っても無益です。官府や富商の財を収めて軍勢を返すのが上策でしょう」
曹嶷はその策に従い、
城内の財貨を集めると、養子の
▼「外甥」は妻の兄弟姉妹の子、または、他家に嫁いだ姉妹の子を言う。
それより四日の後、苟晞の軍勢が東平に到着した。
すでに漢兵が逃げ去ったと知ると、城に入って民を慰撫する。ふたたび
※
この戦の論功にて賞賜を下されなかった
「出陣にあたって兵に不安を与えた罪が一つ、汲桑を包囲したにも関わらず取り逃がした罪が二つ、論功にあたって怨言を放った罪が三つ、お前を斬刑に処さねば将兵に示しがつかぬ」
軍門の外で首を斬るよう命じると、傍らにあった
「高淵を殺してはなりません。兄の
▼「高鶏泊」は原文では「
面を冒した諫言に、苟晞は怒って机を叩く。
「お前は勲功を恃んで舅を庇い、吾を誹謗するつもりか」
ついに高淵のみならず夏陽までも斬るように命じたものの、葉禄たちは跪いてその命に従わない。苟晞はついに兵に命じて高淵と夏陽を斬らせた。
苟晞の部将の
「主帥は強を恃んで功臣を殺した。敗亡の日も遠くはあるまい」
その言葉のとおり、これより苟晞は麾下の者たちの信を失い、威勢は衰えていくこととなる。
※
夏陽の子の
「夏陽に罪過はありません。父を殺してその子まで殺すには及びますまい」
「殺したいわけではない。ただ青州に行って吾が児を殺さぬかと懼れておるのだ」
「
「それならば、夏国相を追うには及ばぬ。吾は鄴に還って様子を見るとしよう。夏国相と夏国卿が悪事を働くようであれば、一将を遣わして擒とすればよいだけのことだ」
▼「廣固」が青州の治所であるかのように記されているが、晋の初めの青州の治所は
濟水へ
││
│├───┐
┌┘│鉅定湖│
菑 └─┬─┘
水 独
┌┘ 水
臨菑●│ ┌┘
┌┘ ┌┘
│ ┌┘
─┘
◆廣固
苟晞はそう言うと、瑯琊に還る夏侯成に賞賜を下し、自らは鄴に凱旋したことであった。
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