第五十七回 漢兵は洛陽を攻めて反って破らる

 漢将の王彌おうび呼延晏こえんあん、晋将の張騏ちょうき張驥ちょうきは翌日も陣頭に戦ったものの、またも勝敗を見ずにその日を終えた。

 報告を聞いた王衍おうえんは二将の力戦を喜び、大司馬だいしば大司寇だいしこうといった大官を引き連れ、戦功を慶賀するとともに賞賜の品を授けるべく軍営まで到った。元帥の上官己じょうかんきは自ら迎えに出て幕舎に招じ入れる。

 上座に着いた王衍が言う。

「王彌は驍将ぎょうしょうとして名を知られており、これまで大晋の部将で防ぎきった者はない。張騏と張驥の二将軍にはじめて防ぎ止められ、上には上がいる者と思い知ったであろう。援軍があれば漢賊どもを退けることもできように」

 それを聞いた張騏が言う。

「この度の戦では、いまだ敵将を討ち取るどころか、旗さえ奪い取っておりません。軍営までご足労頂いた上に過分の褒賞まで受けられましょうか。明日にもまず王彌を生きながらとりことして漢賊どもを退けてこそ、太尉のお望みにわずかばかり適うと申せましょう。今日のような有様では軍功とも言えません」

 王衍たちは口を揃えて誉めそやす。

「張将軍兄弟の威力によってこそ百姓を安んじられよう。用心の上にも用心して漢賊の陥穽かんせいに嵌らぬように注意されよ」

「非才の身とはいえ大任を委ねられましたからには、自ずから方略は考えております」

 張騏がそう言うと、上官己は宴席を設えて来駕の高官たちを饗応した。酒盃が一巡すると、王衍が席を立って言った。

「漢賊どもを前に鉾先を争う際のこともでもあり、酒に耽って事を誤ってはならぬ。敵に不意を突かれぬよう警戒は厳になされよ」

 王衍は軍営に長居せず、そのまま辞去する。上官己は護衛の軍勢をつけて送り届けると、王衍の言葉のとおり厳戒態勢を敷いて漢兵の奇襲に備えた。


 ※


 一夜が明けると晋将は軍営を出て平地に布陣し、漢兵も陣を布いて対峙する。

 張騏は陣頭に馬を立てて王彌と呼延晏に言う。

「お前たち二人が漢賊の首将と聞くが、昨日の戦では張志遠ちょうしえん(張騏)兄弟の英雄ぶりを目にしたであろう。進退を知らずなおも抗うつもりか。投降するか、さもなくば軍勢を退いて戦場の露となるのを免れるがよい」

 王彌が馬を出して言い返す。

「賊将めが大言をほざくな。吾らはこのあたりの地理に暗く、それゆえ激しく攻めたてなかっただけのことよ。今日こそ生きながら擒としてその身を微塵に砕いてくれよう」

 言うが早いか、馬を拍って大刀を手に晋の陣前を駆け抜けた。張騏も鎗を振るって架け支え、両陣の兵士は約束したように退いて二人の戦場を広く空ける。


 ※


 馬につけた鈴を高く鳴らしつつ縦横に馬を駆け、二将は威を奮って互いの首級を付け狙う。一連の戦は六十合を過ぎて終わる気配さえない。

 晋陣の張驥が痺れを切らせて討って出ると、昨日に変わらず漢陣からは呼延晏が鎗を捻って突きかかる。四将は再び一団となって左右に馬を廻らせ、馬頭は東に転じたかと見ればすぐさま西に還り、一瞬も止まらない。馬蹄が揚げる黄砂は滾々こんこんと天に揚がり、広くとった戦場もわずかな先が見透せないまでになった。

 晋陣からは上官己と王秉忠おうへいちゅうが馬を出して加勢に向かい、それを見た漢陣の王如おうじょ呼延攸こえんゆうも飛び出して、行かすまいと斬り止める。


 ※


 戦場が混沌としはじめたところ、西北の方角から鬨の声が地を震わせて鉦鼓の音が天に響いた。

 砂塵を割って姿を現したのは、涼州りょうしゅう刺史しし張軌ちょうきが遣わした、北宮純ほくきゅうじゅん令孤亜れいこあ田迥でんけい王豐おうほうの諸将が率いる涼州の軍勢であった。

 晋帝の詔を奉じるや、張軌はすぐさま洛陽に援軍を送っていた。涼州軍が洛陽近郊に到って天に揚がる戦塵を見ると、漢兵との戦であろうと見当をつけて突き進んできたのである。その勢いは潮の如く、砂塵を捲いて漢陣に襲いかかる。

 漢陣の楊龍ようりゅう呼延顥こえんこう、それに王彌に従う張杰ちょうけつ徐杲じょこうは軍列を厳しく締めて勢いを殺しにかかる。涼州軍は北宮純と令孤亜が両翼となり、先頭を切って漢陣に突っ込んできた。漢の軍列はその勢いを支え得ず、軍列は大いに乱れて混乱が中軍にまで及ぶ。

 楊龍は乱れる軍列を支えて奮戦し、北宮紳ほくきゅうしんを討ち取った。涼州兵はこれに恐れをなして勢いを失い、漢将の張杰と徐杲、それに張昶ちょうしょうも勢いを盛り返して踏み止まる。

 楊龍が北宮紳の首級を挙げんと向かうところ、北宮純が仇に報いるべく斬りかかる。吼えるような大声とともに大斧を軽々と振り回し、楊龍も防戦一方で付け入る隙がない。この時、張杰と徐杲は令孤亜のほこを受けて落命し、張昶は田迥の矢を左目に受けて逃げ奔っていた。

 涼州兵は勢いを取り戻し、王豐が率いる一軍が楊龍を包囲する。楊龍は北宮純を相手に手負って戦にならない。ついに囲みを衝いて逃れ出た。

 北宮純たちは楊龍を追わず、軍勢を返すと呼延晏の軍勢に横ざまに衝き入った。張驥との戦をつづける呼延晏が傍から衝かれては支えきれず、涼州軍は易々と漢陣を蹂躙する。その最中に呼延晏の乗馬は北宮純の大斧で馬頭を刎ね飛ばされた。呼延晏は馬の背から飛び降りると、逼る北宮純に歩戦を挑む。

 呼延攸は呼延晏の窮地を見ると馬を飛ばして馳せ向かい、張驥も首級を挙げんと駆けつける。呼延顥こえんこうは馬鞭を振るって張驥の前を阻み、その隙に呼延晏の子の呼延鏡こえんきょうが駆けつけると、馬を譲って父を馬上に扶け上げた。

 呼延晏が呼延顥とともに張驥を退けたところ、さらに令孤亜と田迥が攻め寄せる。馬を失った呼延鏡は討ち取られ、ついに呼延晏と呼延攸も歯噛みしつつ軍勢を退けた。


 ※


 王彌もまた上官己と張騏に挟撃されて動くに動けず、王如は王秉忠に斬り止められて包囲を抜けられない。呼延氏の兄弟は涼州軍を破れずついに軍勢を返し、北宮純は馬頭を返すと張騏の加勢に向かった。

 上官己と張騏に北宮純が加わってはさすがの王彌も支えきれず、ついに漢兵は潰走を始める。晋兵は軍を二つに分けて追い討ちに討ち、漢兵の屍が道を埋めて血が河となる有様であった。

 呼延晏は敗卒をまとめると西河せいかに軍勢を返し、王彌は敗戦を愧じて蒲子縣ほしけんに退いて軍勢を留めた。この一戦に漢兵は初めて洛陽を攻めたものの、晋兵の反攻を受けて大敗を喫した。

▼「蒲子縣」は『晋書しんじょ』地理志では司州の平陽郡に属する。平陽は劉淵の本拠地である。同じく西河は西河國となっており、郡の治所は離石である。洛陽近郊から距離だけを考えると、平陽郡の蒲子より西河郡の離石の方が遠い。概念図は以下のとおり。

 ┃  太原 │     ▲

 ┃   ● │    太▲

 ┃西河   汾    行▲

 ┃ ●   水    山▲

 黄     │    脈▲

 河  平陽●│     ▲

 ┃     │     ▲

 ┃    ┌┘     ▲

 ┠────┘     ▲▲

 ┃         ▲▲

 ┃         孟津

 ┗━━━黄河━━━━И━━━

        洛陽●


         轘轅關◇


 上官己は戦勝を喜び、北宮純たち涼州軍とともに捷報を告げるべく、洛陽に凱旋した。王衍は捷報を受けると、百官や楽隊とともに城外まで迎えに出る。

 北宮純の手を執って言う。

「将軍の援軍がなければ、一戦に漢兵を退けることなどできなかったであろう。この戦功は古今に例を見ない大功である」

 王衍は尚膳監しょうぜんかん光祿司こうろくしに命じて酒宴を開かせ、慰労をおこなった。

▼「尚膳監光祿司」という官名は晋代にはない。『明史』職官志の宦官條によると、「尚膳監、掌印しょういん太監たいかん一員、提督ていとく光祿こうろく太監たいかん一員、總理そうり一員、管理かんり僉書せんしょ掌司しょうし寫字しゃじ監工かんこう及び各々牛羊等の房廠ぼうしょう監工かんこうは定員無し。御膳ぎょぜん及び宮內の食用しょくようならびに筵宴えんせきの諸事をつかさどる」とあり、尚膳監や提督光祿太監といった官にあった宦官が筵宴、つまり宴会の諸事を取り仕切ったことが分かる。本條は明代の官制によったのであろう。

 さらに、張騏を車騎しゃき将軍に任じ、張驥を驃騎ひょうき将軍に任じ、上官己は京營きょうえい大都督だいととくに任じ、北宮純を中外ちゅうがい效忠こうちゅう護國ごこく大將軍に任じ、王秉忠と令狐亞をはじめとする十将の官位を二級進め、戦死した北宮紳には忠烈侯の爵位を贈ることと定め、諸将は恩を謝して退いたことであった。

▼「京營大都督」は洛陽周辺の軍事を総括する官と考えればよい。

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