#10 黒影

(あれ、これってまた…)



 気分転換に、何かいい本でもないかと城下町に来ていたはずだった。それが、以前ブラックを見かけた路地裏の方にまで迷い込んでいたらしい。



(さすがにぼんやりしすぎてたのかな)



 いくら本屋が大通りから外れたところにあるといっても、こんな迷い方をするのは、気が抜け始めている証拠かもしれない。

 心理学はあまり詳しくないが、夢で迷子になるというのは、何かの深層心理の表れなのだろうか。



(迷う…何か、迷ってることでもあったっけ?)



 思い出そうとするが、特に思いつかない。敢えて言うなら、家族に構ってくれない父親のことが悩みの種であることくらいだ。



“ アリス… ”



「えっ?」



 突然名前を呼ばれた。

 周囲を見渡してみるが、人はいない。



「気のせいかな…?」



“アリス…”



 まただ。はっきりと位置まではわからないが、路地裏のもっと奥から聞こえてきているような気がする。



(路地裏ってあんまり近づくなって言ってたよな…でも呼ばれてるし…)



 アリスではなくシエラだと、言ってやらなければ。

 声のする方へと足を進める。路地は奥に進めば進むほど入り組んでいて、本当にこちらであっているのか、不安になってしまう。

 聞こえてくる声を頼りに進んだ先は、行き止まりだった。ただの行き止まりではない。文字通りの行き止まり──道がない。



(はぁ?!)



 どういう仕組みか、空間が途切れており、そこに大きな穴があった。ヴィッセルの作った穴との大きな違いは、その全体が真っ黒に染め上げられているということだ。



(まさか、これが黒影シャドルタ…?)



 言われてみれば、黒い影にも見える。ただ、それは特に動いているわけでもなければ、僕に襲いかかってくる様子もない。



“アリス…”



 声は相変わらず、黒影シャドルタのある方から聞こえてくる。まるで、この黒い影の奥に、誰かがいるかのように──



“アリス…”



「誰かいるのか…?」



 返事はない。ひたすらアリス、アリス、と繰り返している。

 一体何があるのかと、黒影シャドルタの奥に目を凝らす。



(あれって…家?)



 よく見ると、家のようなものが見える。その前で、まるで何かを探しているかのように、動き回っている人たちがいる。どこかで見覚えのある、その姿は…



(ね、姉さん?!それにイーディスも…!)



 僕が不思議ワンダーワールドにいるということは、本来いるべき世界に僕がいないということだ。心配性な姉さんや、甘えん坊のイーディスが、僕を捜し回っていてもおかしくない。



(帰らなきゃ)



 黒影シャドルタに向かって足を進める。近づくにつれて、彼女たちの声も大きくなっていく。



(姉さん…イーディス…)



 黒影シャドルタへと手を伸ばした。

 もう少しで触れられるという瞬間、背後から思い切り腕を引っ張られた。



「なっ…!」



 何をするんだと言おうとした視界に飛び込んできたのは、蛍光色の服に身を包んだヴィッセルだった。

 険しい顔で僕の前に飛び出し、黒影シャドルタに手を伸ばす。それを掴んだヴィッセルは、まるで紙で出来た作り物を破くかのように、簡単に破壊してしまった。



「姉さん!」

「…にゃは、しっかりしろよ。あんたの姉さんは、ここにはいないだろ?」



(ここにはいない…)



 黒影シャドルタがいなくなったことで、少し冷静さが戻ってくる。もう僕を呼ぶ声は聞こえない。行き止まりだと思っていた通りの先にも、普通に道は続いていた。路地裏にいるのは、ヴィッセルと僕だけだ。



「今のが黒影シャドルタ…?」

「そうだぜ。あんた、結構危ないところだったみたいだな」



 冷静に考えれば、姉さんやイーディスが、僕のことを『アリス』と呼ぶのはおかしい。だから、あれは黒影シャドルタに見せられた幻だったのだろう。



(だけど…)



 元の世界に僕がおらず、家族に心配をかけているというのは、逃れられようもない事実だ。



「全く、この地区の宰相は何してるんだか」

「…なぁ、ヴィッセル」



 あの時、ブラックには聞けなかったことを、今聞いてみる。



「もし黒影シャドルタに飲み込まれたら、どうなるんだ?」

「ん~…それを教えるのはルール違反だからなぁ」

「え?そうなのか?」

「そうそう。俺はあんまりルールとか、縛り厳しいのは好きじゃないから、別に話してもいいけど…勝手にそういうことすると、黒い方の宰相が怒ってくるんだよ」



 黒い方──ブラックのことだろう。

 交流があったというのは驚いたが、自由に行き来していると言っていたし、ウサギたちとも多少は交流があるのかもしれない。



「そういえば、ヴィッセルはこんなところで何をしてたんだ?」

「さっきの今でそんなこと気にする…?意外と図太いんだな…」



 実際ヴィッセルがここに来なければ、僕は間違いなく黒影シャドルタに飲み込まれていたと思う。来ていた理由くらい、当然知っておきたい。



(うわっ…今更になって震えてきた)



 恐れは後から来るなんて言うが、本当らしい。それに気付いているのかいないのか、ヴィッセルはいつもの調子で答えた。



「猫の勘ってやつだぜ。何となく、危険な臭いがしたからな~」

「か、勘って…よく逃げなかったな、それ」

「俺は逃げようと思ったら、いつでも逃げられるし?」



(それは、そうだ)



 あの穴があれば、自分の身に危険が及びそうなら逃げることも出来るだろう。安心して好奇心の赴くまま、好きなところに行けるということか。



(ちょっと羨ましい…)



「にゃはは!そんな顔しても、これはチェシャ猫の特権だからな~」

「べ、別に羨ましくなんて…!」

「とにかく、しばらくは黒影シャドルタも出ないだろうけど、早めに城に戻りなよ?後は、今あったことを女王か宰相に伝えておくこと」

「わ、わかったよ」



 言っていることは真っ当だ。ウサギたちにも注意されていたのに、警戒を怠ったのだから、本当に飲み込まれていてもおかしくなかった。



「ありがとう、ヴィッセル」

「にゃ、にゃはは…お礼とか、そういうのはいらないって」



 お礼は言われ慣れていないのかもしれない。慌てた様子で、ヴィッセルは路地から出て行ってしまった。

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