第5話 戸惑い


 ヴァレンツと川で偶然会った日の翌日。

 日が半分ほど落ちて空が赤く染まるころ。カランカランとベルを鳴らし、雑貨屋の扉を開ける。商品整理をしているヨルンと目が合う。この時間帯は丁度お客さんが家に帰っていく時間帯なので、店にはヨルン一人だった。


「ソフィアちゃん、いらっしゃい。顔色が少し悪いけど、大丈夫かい? ちゃんとご飯食べて眠ってる?」


 顔を合わせた瞬間、矢継ぎ早に問われて苦笑する。今から実行することが、果たして成功するかどうか、その不安が顔に出ていたのだろうか。


「大丈夫ですよ。パウル君の様子はどうですか?」

「前より元気さ。自分のやる事ができたからだろうなあ。パウルの母親も少しずつ食べることができているし……ソフィアちゃんのおかげだよ。ありがとうな」


 そう言って笑うヨルンの目元には、薄い隈がある。おそらくここ数日、夜通し看病をするために出向いているのだろう。理由は、私とヴァレンツが動いているのに俺だけ何もしないわけにはいかないから、といったところか。

 そのお人好しなところは、死ぬまで変わりそうにない。


「いいえ、私、まだ何もできていませんもの。あの、それで……ヴァレンツさんはまだ来ていませんか?」

「いや、まだだよ。森の巡回でもしているんじゃあないかな? 朝見たっきりだから、詳しいことはわからないんだ。ごめんな」

「そう、ですか。分かりました、ありがとうございます」

「え、ソフィアちゃん?」


 呼び止める声を無視して、そのまま早足で森へ向かう。ヨルンが追いかけてくる様子はないので、きっと首をかしげて不思議に思っている程度だろう。

 それにしても、ヴァレンツが私と「朝と夕方、ヨルンの店に行く」という約束を交わしていることを、把握していないことが、少し引っかかる。彼は昨日の夕方と今日の朝、ヴァレンツと会っているのにも関わらず、だ。

 ヴァレンツはどうして言わなかった? その必要性を感じなかっただけ?


 森の入り口に着いたとき、頭上で小鳥が鳴いた。


〈狩人がお店に着いたよ!〉

〈店主と話してる〉


 多くの小鳥たちの仲介によって運ばれてきた報告に、計画通りに事が進んでいることが分かり、小さく笑いがもれる。


「ありがとう、あとで甘い木の実をあげるわ、小さな協力者さん」


 木々の周りを飛び回る小鳥たちにそう呟き、早足のまま森の奥へと向かう。

 ここからはタイミングが重要だ。身体に少しの緊張が走る。ぎゅっと握りしめるのは、エドナおばあちゃんから借りてきた、祖母の墓までの地図だ。

 奥へ、奥へと進む。知らず、息が上がる。


〈狩人が店を飛び出したよ!〉

〈森へ向かってる〉


〈足跡を探してるみたい!〉

〈まっすぐこっちに走ってくるよ〉


〈すごい速い!〉

〈ぼくたちを見つけた〉


 その瞬間立ち止まる。辺りを見渡し、戸惑い、不安そうに、しかし決意して一歩踏み出した――



 そのタイミングで強く腕を引かれる。


 たたらを踏むも、すぐさま支えられ、動かないように、逃げ出さないようにと抱え込まれた。


「っ、何やってんだ!」


 森がビリビリと震えるような声だった。

 息を整えるヴァレンツと、目が合う。腰と肩に回った腕が熱い。

 返事をしようと、口を開く。だが、用意していた言葉が――なぜだろう、出てこない。


「あ、の」

「何故俺を待たなかった!」


 噛みつくような視線に、小さく息をのむ。

 ――呑まれそうだ。

 ひとつ、ふたつ、小さく深呼吸をして、やっと、その視線を受け止める。ここで逸らしてはいけない。


「眠り花が、見つかるかもしれないんです。資料に混ざった、地図を見つけて」

「それでも、何回も言っただろう、一人で行くなと!」

「一刻も、一刻も早くあの子の母親を元気にしてあげたかったんです! 母親を失ってしまうなんて、あの子にあんな悲しい思いをさせたくないの!」


 その剣幕に圧されないよう、負けじと言いつのる。ヴァレンツは再度口を開く。だが何も言わずに唇を噛みしめ、そして私の腕を引いてゆっくり歩き出した。私の家の方向だ。


「ここは危険だ。特に今の時間からはな。

 薬草を探しに行くのは明日だ。

 俺もお前も、少し頭を冷やすべきだろうよ」


 ヴァレンツは前を向いたまま、唸るようにそう言った。くすぶる激情を抑えるためだろう、彼は大きく息を吐く。

 その息に圧されるように、俯く。腕は未だ、掴まれたままだ。ちらり、と大きな手を見やる。そして、さっきの事を思い返した。


 腕を引かれた後、いや、目が合ったときだろう。あの時どうして私はひるんでしまったのか。想定内だったはずだ。いや、想定外だった。あの男、あの目に浮かんでいたのは、怒りだけじゃあなかった。

 あの感情を私は知っている。祖母が、エドナおばあちゃんが、幼馴染が、ヨルンが……あの目をしていたことがある。

 あれは、親しいものを”心配する”目だ。

 いったいどうして?

 あなたと私は、家族でもないのに。


「大丈夫か? さっきは腕引っ張っちまって悪かったな……焦ってたんだ。痛めてはいないか?」


 いつの間にか歩く速度をおとし、横に並んでいるヴァレンツは、私の腕をいたわるように撫でている。そうして何故か、今度は手をやんわりと握った。


「痛く、ないです。大丈夫……あの、ごめんなさい。一人で突っ走ってしまうなんて……あなたの言う通り、冷静に判断するべきでした」

「ああ、ソフィアの焦りは、俺にも分かる。石化病ってのは治療薬を飲まない限り、治ることのない奇病だからな。

 だが、焦ると何も見えなくなる。大事なことを見逃すことになる。

 それを知っていてくれ」


 まるで自分に言い聞かせるように、ヴァレンツはそう言った。はい、と頷くと、満足そうに彼は笑う。

 気のせいだろうか……この男は、こんなにも感情を見せる人だっただろうか。

 さきほどの、この男の瞳が頭をよぎる。


「その握っている紙が、例の地図か?」

「え、あ、はい。祖母の眠り花についての資料の中に、混ざっていたんです。きっと、自生地を記したものに違いないと思って……」

「なるほどな、少し見せてくれ」


 未だ握っていた地図をヴァレンツに渡すと、くしゃくしゃになったそれを、器用に片手で広げてから見はじめた。

 未だに手は握られたまま、私の家に向かっている。なぜ離してくれないのだろう。私が地図を持っていることを少しの間忘れてしまったように、この男、私の手を握っていることを忘れているのでは?

 いやそれよりも、薄暗くなり始めたこの森の中で、その地図が見えるのだろうか。


「これはまた、随分と遠いな。帰りも考えることになると、朝から行くことになるだろう」

「本当にその場所にあるかは、分からないんです。でも……私、行きます。行かずにはいられないんです」

「そう言うと思ったぜ。だが、身一つで行くわけにもいかないんだ。これだけ深部にあるとなると、獣も出てくるだろうからな……食料と水をヨルンのところで調達して、明日の朝行くことにしよう。なに、昼過ぎには帰ってこれるだろうさ」


 それでいいか?

 と見下ろす男に、頷いてみせる。

 良し、と頷き返したヴァレンツは、その地図を自分のポケットに仕舞った。返してはくれないようだ。


「っと、隠し扉はこの辺だったか?」

「はい。あの、また明日」

「ああ、今日は早めに寝ろよ」

「分かりました。おやすみなさい」

「おやすみ」


 別れの挨拶の後、そっと手を離される。そして昨日と同じように、ヴァレンツは扉が閉まるまでじっと見ている。視線はずっと、外れない。軽くお辞儀をして、ゆっくりと閉めた。

 暗闇でも鮮明に見えてしまうこの目を、煩わしく思えたのは今が初めてだ。

 完全に閉まった扉をじっと見つめる。その向こうに、もう誰の気配も感じられない。

 扉が閉まる瞬間の、薄暗い森の中に浮かぶ彼の目を、鮮明に思い出す。その瞳は、腕を掴まれ引き寄せられたときに見たものとは、また違うものだった。

 彼の瞳に映るその感情は、一体なに?



 夜、ベッドに横になりながら、腕をそっと撫でる。最初は思いっきり掴まれたが、勢いがあっただけで、痛むほど強くはなかった。私は人狼だから、人間よりは頑丈にできている。少し雑に扱っても怪我はしないし、死にもしないのに……。

 あの男は、見た目からは想像できないくらい、私を丁寧に扱う。彼はヨルンに対してもそうだっただろうか。他の人間にも、そうなのだろうか。

 他の人間と同じように、接してくれているのだろうか。


「私は人狼。彼は、人間」


 窓の外に浮かぶ、三日月を見上げる。

 彼はただの人間。私は、オオカミ。変わらない事実だ。悩むことなど、そこには存在しない。

 それよりも、明日は早いのだ。むしろ本番は明日。些末なことに頭を悩ませるより、眠って英気を養う方が有意義だ。

 窓に背を向けて、目を閉じる。得体の知れない感情も、見ないふり。

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