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 一階には応接間があり、そこがメリーの寝ていた所だ。窓側に小さな台所と水場があり、中央に大きな木製の円型の机がある。普段この机を囲んで食事をとると言うが、生活観のにおいはしない。入口から入ってすぐ右側に棚があるのは、もちろん収納のためだろう。そのガラス戸から覗いてみると、食器から鍋まできれいに上から小さいものから大きいものと順に並んでいた。

 メリーは一生懸命に一階の他の部屋や収納場所を説明していたが、俺の悪さを発見するや否や、恥ずかしそうに前に立ちふさがった。

「お客様。台所と二階には触れないでくださいませ」

「ごめんなさい。あ、お客様じゃなくて名前でいいですよ」

「はい。オーソネ様」

「様はいらないですって。「おにいさん」くらいでいいですよ。言葉も普段のように気楽にしましょう。俺も疲れます」

「おにいさんですか」

 メリーは不思議そうな顔をして、首を傾げた。冗談が通じるわけないよな。

「ねえ、俺っていつサンタランドに来たのかな」

「昨晩の十一時九分でした」

「その時の様子はどうだった」

「とても疲れている様子でした。思い過ごしかもしれませんが、顔が赤かったような」

「そうですか。ありがとう。一晩お世話になりました。こちらの都合で申し訳ないのですが、もう帰ります。明日は学校があるので。ではまたお会いできましたら」

 ずいぶんと急なお礼と別れになってしまったが、そう言って頭を軽く下げた。

 しかしメリーは見送る言葉すらない。それどころか、嬉しそうに笑っている。変だなと思いながら、サンタの家を出た。俺は帰りたくて仕方がなかった。メリーとの言葉を信じるなら、間違いなく俺は自分の足でここにきていたのだ。ならば、帰り道もわかるはずだ。


 外は一面の白銀で、遠くの山も砂糖の塊のようだ。まだ出て間もないのに鼻の中から痛くなってきていた。スキーをするために新潟に行ったときを思い出した。苦し紛れにジャケットとシャツのボタンを全部閉めても、寒さは変わるはずがなかった。早く帰ろう。 

 ふと、メリーの顔があたまに浮かんだ。帰り道を聞けばよかったのか。しかし今更聞きなおすのはカッコワルイ。とにかく歩いていれば、思い出すだろう。

 少し歩くと土地が急に斜面になる境に着いた。丘というよりも斜面の下は谷のように 深かった。それにしてもここの雪は宝石を粉にしたような美しさと輝きを持っている。太陽の光に反射してきらきらと目に飛び込んでくる。快晴のゲレンデを思い出した。見るかぎり、この傾斜は中級者程度の角度だ。まさか、これを上ってきたわけがない。そう思って進路を変更しようとしたら、谷の端にこっそりと小屋が建っているのが見えた。ぐぐっと踏み込んで、身を乗り出して更に確認した。よく見ると湖の向こう側に二軒の小屋が並んでいる。奥側の小屋の煙突からはケムリが出ている。誰か住んでいる、少なくとも人がいる。もしかしたら、サンタの知り合いで、この辺りや日本に精通しているかもしれない。ほんの少し希望が湧いた。やや浅はかだが、この際、誰でもいい。俺にヒントをくれ。

 傾斜角度四十五度、狙い定めて、いざ降りよ。ゲレンデに革靴で挑むバカがここにいる。思ったとおり、靴と粉雪の相性は最悪だ。踏ん張りが利かず、ずるずると谷に引きずり込まれる感覚がした。いい予感はしなかった。もう一度足を安定している場所に戻し、小屋の真上の辺りまで横に移動した。そこには小屋まで続く手すりがあった。雪に埋もれていてわからないが、階段があったのだろう。もはや雪の坂となっているが。手すりがあれば、握力でなんとかなる。そう高をくくって、一歩を踏み出した。二歩目も慎重に固定させた。しかし三歩目で前足がずるずると静かに滑った。また後ろ足で踏ん張り、前足を固定する。その繰り返しだった。さて慣れてきて、中間地点というところで、足はスキー板に化けた。ついに堪えきれずに転がるように谷底へ落ちていった。灰色の空と雪の白が交互に見えたが、そのうちにどちらが天か地かわからない状態になり、気がついたら体中が痛かった。仰向けで、体は止まった。頬や手の平は熱く、雪の冷たさが染みた。手の平でブレーキをかけたのがまずかったなあ。

 頭がぼんやりとしている。雪の冷たさで鈍になってしまったのかもしれない。このままでは眠ってしまう。生命の危機を感じたので、急いで体を起こし、頭を振ってビキビキと氷かけたものを払った。

「あぁ」

 谷側を振り返ると、我ながらよくぞ無事だったなと思う。見上げると思ったより傾斜があった。首をまわして、痛みをほぐしながら前を向いた。目の前には湖があった。湖は小さな風波が立って、山のふもとまで広がっているように見えた。山も土地も凍てついているのに、この湖だけ関係ないようにさざめいていた。湖面には山がはっきりと逆さに映っている。腰を上げて近づいてみた。するとそこに俺の顔も映った。顔や髪が雪まみれで、鼻は真っ赤だった。

「トナカイみたいだ」

 面白くなって、映ったほうの赤鼻を指で突いた。丸い波が俺の上半身を包んだ。うっとりしている間に波はだんだん小さく消えていった。歪んだ像が中央に集まり、また俺を形づくった。するとどうだ。再び現れた俺はどこか幼い表情をしていた。まさかと思い、体を起こしてまつげの雪を掃った。改めて映してみると、やはり印象は変わらなかった。頭を強く打ったのかもしれない。それともとうとう目までおかしくなったのだろうか。

 ザクッと雪を踏む音がした。だんだんに音が近くなる。後ろから誰かが寄ってくる。振り向こうか、と悩む間に影が見えた。そして足音はすぐ傍で止まった。カランと鈴のような音がした。ふいに脇の下がかゆくなった。

「こんにちは」

 丸い影からのぞく耳が印象的だった。それは脇の下をぬけて顔を出した。

「どうも、こんにちは」

 やはりトナカイだ。しかし断定できない。何故かといえば、毛から鼻まで淡いピンク色をしているからだ。俺の顔をしげしげと眺めてから、口元をぺろっと舌でなめた。

「あなた、新顔ね。何していたの」

「湖と内緒話だよ」

「あらあ、あんまり関わらないほうがいいわよ。人の弱みにつけこむから、コイツ」

 すこしオバサンくさい口調のトナカイを改めて見た。濃く、ふさふさしているまつげを、何度も大げさに動かしている。トナカイのくせに色目でも使っているのか。

「俺は大曽根。君の名前は?」

「あらいやだ、アタシはレディ・ローズ。まあ、あなたならレディでいいわよ」

「ありがとう、レディ。ねえ、話を聞いてくれないかな」

「もちろんいいわよ。いくらでも」

 レディはうれしそうにしっぽを振った。

「俺は今から帰りたいんだ。電車でも飛行機でもいい。移動できる場所か乗り物はないかな? もしくは違う町につながる道はないかな?」

「屋敷ならば、歩いて帰れるわよ」

 レディはさらりと言った。それ以外あるのかといった表情をして。

「わかってる。今しがた滑って来たからね」

「じゃあ今度は飛んでいきなさいよ」

 話がまったく通じていないようだ。困ったな、俺はトナカイ語なんて知らないよ。

「サンタの屋敷じゃなくて、俺の住んでいる所に帰りたいんだ」

「え? 帰るって、屋敷のほかに帰る場所があるの? アタシ、知らないわ」

 なるほど。ここの住人にとって「帰る」とは、あの屋敷に行くことなのだ。だからメリーもレディも俺の言葉がわからなかったのだ。

「うん、そうだよね。俺の帰り先は俺の住んでいる場所だ。日本という小さな島国の中に、千葉っていう県があるんだ。更にその中の本八幡という地域のボロアパートだ。今までそこに住んできた。だから、そこに帰りたい」

「アタシ、勘違いをしていたわ。ごめんなさい。日本なら行ったことがあるわよ、あなたの住む地区かは覚えてないけれど」

「ほんとうにっ?」

「そうよ。ダーリンと仲間と一緒にね」

「それで、どう行ったのさ」

 俺はレディの目を見つめた。少し見つめあったが、レディはすぐに目をそらした。

ふうとため息をつき、足をまげて座り込んだ。

「あなたが知らなくてもいいことよ」

「いや、俺には必要な情報だ」

「どうしてもと言うならば、トナカイ番になることね」

「トナカイ番だって? 俺は帰りたいんだ。なんでここに残らなきゃいけない。ましてや君の世話なんてっ」

 俺はこの理不尽な状況で、たまったウップンを吐き出した。

「トナカイの使いっぱしりになるくらいなら、自分の力で帰るよ」

「どこに? もう行っちゃうの。もっとアタシと話しましょう」

「いや、もう充分だ。君に用は――」

 俺が言い終わる前に、レディは俺のジャケットの袖に噛み付いた。かわいい口元には似合わない、平べったい歯でがっちりと。二万円もしたジャケットなのに! 

もはや価値はなくなってしまった、と気が遠のいた。

「君のような積極的なレディに、頭がクラクラするよ」

 レディはにたりとくわえたまま微笑んだ。

「わかった、わかったよ。もう少しだけなら、傍にいてあげる」

「そうこなくっちゃ!」

 レディはうれしそうに袖を離した。ジャケットには無残にも歯型が食い込んでいた。

「あなたを助けられるのは、アタシしかいないのよ。わかった?」

「はい、よくよくわかりました」

 トナカイなんかのご機嫌をとって、情けない。と思う反面、もとの場所に帰ったら、絶対に鹿肉を食ってやると誓った。

「そこで、お願いがある。君にしかできないことなんだ」

 レディは初めこそきょとんとしていたが、言葉を理解していくうちに、みるみる顔が赤くなっていった。かく言う自分も言葉に照れていたが。

「俺のことで、手助けをしてくれないかな。トナカイ番になるのを、メリーに伝えたいのに、屋敷へ戻れない。谷を越えたいんだ」

「アタシが?」

「そう。君が」

 レディはどういうわけか涙ぐんでいるようにも見えた。

「じゃあ、アタシからもお願いね」

 芝居くさい成り行きだが、こうでもしなければもう一度屋敷に戻れないだろう。やはり情報はメリーがつかんでいる。だがしかし、谷から落ちた痛みがまだ回復していない。だからレディにお願いするほかなかった。そういう訳でレディと俺は妙な約束を交わした。これから期間未定で俺がトナカイ番になる。エサはすべて俺が運び、小屋掃除から管理までやることになった。ついでにレディの話し相手になることもあった。これは、帰るための最善策と思い込んだ。

「みんなのところに行って、さっそく報告しましょう。きっとダーリンも喜ぶわ」

「ありがとう。ところで、ダーリンって誰のこと?」

「ふ・ふ・ふ」

 レディは新しい仲間を祝して、そして愛する人のもとへと飛んだ。それは歩くことと同じで、かかとからグッと力を入れて重心を前に移動し、足先で蹴るだけの自然なことだった。小さな背中にしがみついていた俺もレディと一緒に浮き上がった。あっという間に地面の影が遠く離れていた。まるで雲になった気分だった。すーっと空に溶け込んでしまいそうに、俺たちは青くなった。手を伸ばせば、空の果てに触れられそうだった。今度はレディをみた。背中からは表情は見えないが、耳がしゃんと立っていた。ふと頭から鼻先が見えた。鼻がかすかに赤らんで見えた。

「す、すっごい」

 トナカイは本当に空を舞うのだ。気がつくと手が振るえていた。寒さでなく、感動で。それでも必死に腕で、足でレディにしがみつく。

「すごいよ、レディっ!」

「アタシ……役に立つかしら」

 レディの声は戸惑っているように聞こえた。それとも風で声がかすれているのだろうか。鼻が赤くなったり、ピンクになったり点滅しているようだった。

「もちろんだよ! ほら、屋敷が見える」

 俺は下を指さして、もう片方の手はぎゅっと首を抱きしめた。

「ダーリン」

 鼻はついに真っ赤になり、風に乗って透明な玉がぽろぽろと飛んでいった。

 屋敷のほうを見降ろした。屋敷の周りには白い樹が群生している。その右側を二本の線で区切られた幅の広い道が通っている。屋敷からおよそ百から二百メートルのまっすぐな道だ。途切れていることから、そこまで雪かきがされているとわかる。谷のほうを振り向くと、中央に湖があり、湖畔に先ほどのトナカイ小屋が見えた。

 観察をする間に、高度は下がっていってしまった。まだ周囲を見たいと思っていただけに残念だ。降下は飛行機とは違って、直接ほおに空気が通り抜けていく。ぶるぶると皮が押されるようだったけれど、気持ちがよかった。浮遊感を楽しむ間もなく、屋敷の前に到着した。時間が止まればよかったのに。

「ちょっと、重いよ」

「ごめん」

 レディはすっかりピンクのもとの鼻に戻っていた。俺は落とされるように、背中から降りた。レディは扉をじっと見つめている。

 突然、レディの耳がぴくんと立った。その後、扉は静かに中に開いた。現れたのは、メリーと老人だった。二人ともにっこりと微笑んで迎えてくれた。俺はレディを見た。すると一歩後ずさりして、俺の後ろに隠れるしぐさをした。俺も下がりたかった。どの言葉で、どのような挨拶をすればよいかわからなかった。しかし、老人の正体については別だった。

「お待ち申し上げておりました、オーソネ様」

「ようこそ、サンタランドへ。私がサンタだ。君のイメージと同じかね?」

 赤と白の服。白い髪にひげ。赤ら顔のやや肥満体型、だが服越しに筋肉が見える。年齢は還暦くらいだろうか。しかし、ぱんぱんに張った頬の赤みで若いようにも見える。

「……はい」

 確かにイメージどおりだ。申し分ない。けれど、信じられない。空想が現実になるのか? 目の前にいるのはただの老人じゃないか?

「そうか、うれしいね。日本から来たのでは疲れただろう。ゆっくりしていきなさい」

 サンタは大きな手を出して、俺の手を握った。その手は雪を溶かすほど熱かった。

「ねえ、聞いて。オーソネがトナカイ番になってくれるんですって。

お祝いをしましょうよ、メリー」

「レディ、それは良い知らせね。オーソネ様、本当によろしいのですか」

「はい」

「そうですか。いかがなさいますか、サンタさん」

「予定はどうだね」

「進捗状況は順調です。今日の分は五十ですから日程よりも早く完成します」

「よし。オーソネくんのために、今夜は盛大にパーティだ!」

 サンタが叫ぶと、屋敷の中からクラーンのケタケタ笑う声がし、谷底からはトナカイの鳴く声が聞こえてきた。

 この世界は一体なんなのだ。耳の中でこだまする声が、頭痛を呼び起こす。

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