第9話 フィーが約束を破った時の話
フィーがこの山に来て一つ目の冬を迎えたころのことだった。
その年の冬は何年かに一度の記録的な厳寒で、ぼたぼたという大きな雪が何日も何日も灰色の空から降り注いで、どんどん山に降り積もった。降り積もった雪は、山と土、草と石の境界線を曖昧にして一面を銀世界に変化させた。それこそ、前年養護院を抜け出してきた幼いフィーが倒れていたあの雪世界など比較にならないそれほどに。
分厚い絨毯のように地面に広がった雪景色は、まるで高級な毛布のようにふかふかと柔らかくこの世に二つとない珍しい真珠のようにきらきらと美しく輝いていたのだけれど、雪の上を歩くには頑丈な長靴を履かねばいけないし、それを履いて雪の上を歩くとしても大量の雪が足の周りに絡みついてしがみ付いて、かなりの体力と根気を要した。冬が深くなるに連れ雪もどんどんひどくなって、山歩きもろくにできない日々が続いた。山に住んでいるフィーとポポは勿論の事、麓の村の住人だって例外ではなかった。
雪の降り積もる冬の間、小さなフィーは祖父と共に、秋の間に準備をしておいた野菜や果実、干し肉などの保存食を食べ、パンを焼き、数日に一度、太陽の出た日に町へ出向いて買い物をし、慎ましく簡素な、それでいて幸せな日々を送っていた。
そして、その日はやってきた。
その日は止むことのなかった雪が数週間ぶりに降りやんで、雲と雲の間から眩しい太陽が顔を出した。実に数日ぶりのことで、フィーもポポも両手を叩いて喜んだ。移り気なお天道様が機嫌を損ねないうちに洗濯でもなんでもできることをしてしまおうと、大いに張り切っていた。
さて、溜まってしまった汚れた衣服を洗い布団と共に外に干そうと意気込んでいると、この足が沈むほどの積雪の中、予期せぬ来客がやってきた。
訪ねてきたのは山の麓の村で薬屋を営む、ダフエルという夫婦だった。夫婦とも人が良く、品ぞろえが良い村で唯一の薬屋なので、フィーもポポも村に降りた際必ずお世話になっていた。
「こんな雪の積もった中、わざわざこんなにも不便な山奥に訪ねてきて、一体なんの用事なのか」
と問いかけると、
「一人娘のナンが、昨日の夕方ミルクを買いに出てから帰ってこない。村の住人に聞いても、どの店にもナンは訪れていないというし、仲の良い友人たちも全く何も知らないという。ナンはここには来ていないか」
とそう言った。
ナンのことは二人も知っていた。フィーよりも二つほど年上の、明るいブラウンの髪をおさげに結わいた面倒見のよい少女だった。
二人は、村の青年団と共にナンを探すことにした。麓の村は小さな酒屋や宿があるだけの質素な錆びれた村であったが、時に都の視察団や身売りが通りかかることすらあった。皆が危惧していたのは身売りだった。身売りは、値打ちにつきそうな小さな子供や女を買い取り時に誘拐し、強欲に塗れた金持ちに売り払うのだ。
ポポ達青年団は、丸一日以上かけてナンを探した。ナンがいつも遊んでいる空地や川、泉、山の中まで。心辺りは隅から隅まで探したけれど、一向にナンは見つからなかった。見つかったのはナンが普段つけていた片方の赤いリボンであり、凍った泉の傍に落ちていた。貧しい薬屋の夫婦は、それを見てその場で泣き崩れた。
そのうち、空の上でにこにこと笑っていたはずの太陽は機嫌を損ね、厚い暗雲の陰に隠れてしまった。その雲の隙間からはちらほらとまたしても雪が降り始め、それはどんどん強くなり、吹雪に代わった。山の神は気まぐれだった。
数メートル先も見えない吹雪の中、山歩きに慣れた青年団たちは村長の支持の元村の役場に集まって深い深いため息をついた。
「こんな天気じゃあ無理だ」
「狐の一匹も見えやしねえ」
「これたけ探しでも見つがらねえっていうことは、ナンはきっともう……」
「ダフエルさん、こんなこと俺もいいたくねぇが……」
ダフエル夫婦に温かいスープを差し出す心優しい青年団の男達は、皆が皆、なんとも悲しい切ない表情をしながら口々にそう言った。
暖炉の前の椅子に座り、真っ青な顔で愛娘の帰りを待ち望んでいた母親はひどい悲鳴を上げて両手で顔を覆いながら、そのままその場に泣き崩れた。
他の青年と共に娘を探していた父親は、雪まみれのコートと厚手の帽子を被ったまま仁王立ちになり、氷のように冷えた冷たい手袋で力強く壁を叩いた。
ポポもまたとても悲しかった。薬屋の娘のナンは、幼い頃からとても気の利く気立てのよい少女であり、ポポのような老人にもフィーのような不器用な少年にもいつだって優しくしてくれたのだ。運命とはなんと残酷なのだろうとポポは思った。こんなに探しても見つからないということは、もう、身売りか何かに攫われてしまっているのか、それとも割れた泉の中にでも転落をしてしまったのか、もしくは山の獣に襲われてしまったのか。
どの可能性にしても生きているのは絶望的だった。外を見ると、吹雪はどんどん強くなっている。こんな中外に出たら、それこそ寒さで凍えてしまうしそのまま風に吹き飛ばされてしまうだろう。立っているだけでも至難の業だ。数メートル先もろくに見えないし、大量の積雪で足を取られただ歩くだけでもままならない。
ポポも決して諦めたくはなかったのだけれど、この吹雪の中うっかり外に出てしまったら、それこそ自分が遭難をしてそのまま凍死をしてしまうだろう。
「フィー、もう、しゃあんめえ。ナンのことは諦めろ。二日もすれば吹雪も止むべから、そうしたらまだナンを探しで、山さある家さ戻ろう」
外から帰ってきたフィーは、役場の食堂の窓にへばりついて、じっと外を眺めていた。吹雪はどんどんひどくなる一方で、一向に止む気配はない。
氷のように冷たくなっている窓ガラスには、フィーが触った掌分の形ができて、たらたらと水滴は滴っていた。
ポポはフィーの異変に気が付いたのはその時だった。
それまで大人しく外の景色を眺めていたはずのフィーが、ポポがミルクの入ったマグカップを差し出したことを合図にしたかのようにして、ぽつんと呟いたのだ。
「じいちゃん」
「どうした?」
「ナンはまだ、死んでねえ」
フィーはそういうと、座っていた椅子から飛び降りて、ハンガーにかけてあったコートと帽子を手に取った。
「一体どうしたんだ、フィー」
「ナンはまだ死んでねえ。まだ、ちゃんと生きてるんだ」
言うが早いか、小さなフィーはコートを着込み手袋をし帽子を被り、そのまま外に飛び出そうとして扉を開けた。
あと一秒で出るという瞬間に、ポポはフィーの細い腕をぐいと掴んだ。
「どごさ行くんだ、フィー」
「ナンを迎えさ行く」
「だめだ。こんな雪ん中、ナンをめっけるどころかお前も遭難して死んじまうのがオチだ」
「離せじいちゃん」
「だめだ」
ポポは気が付いた。フィーは「あの力」を使ってしまったのだ。そして、ナンを助けるために、名前もわからないような未知で不可思議なあの力を使ってしまうつもりなのだ。
「駄目だ駄目だ、俺はそうたごど許さねえぞ。お前、俺との約束を破っただっぺ。そしで、まだ破るつもりだっぺ。駄目だ。俺はそうたごど、絶対に許さねえからな」
ポポは何のことも大切だったが、フィーのことはそれ以上に大事だったし心配していた。
なにせ、長い間ひとりであったポポの元にやってきた子供なのだ。お金が無くなることよりなにより、フィーがいなくなってしまうことの方が恐ろしかったのだ。漸くの事、村の衆や暮らしに慣れてきたフィーが「未知の力」を開放させてしまうことにより、大事な子供が奇異の目にさらされて軽蔑をされ、嫌われてしまうことが嫌だったのだ。
けれども、銀の髪と紅玉の瞳を持った子供は言った。
「じいちゃん、なんでだ。じいちゃん、前に言ってたじゃねぇが。命は大切にしなきゃいけねえって。むやみに、殺しちゃいけねえって。弱いものは助けでやれって、そう言ってたじゃねぇが。ナンはまだ生きてるんだぞ。俺が行けば、ナンはまだ助かるんだ」
「フィー、俺はな」
「じいちゃんは、俺のことが皆にばれちまうことと、ナンが死んじゃうこと、どっちの方が大切なんだよ!」
フィーは小さな体に似つかわしくない強い力でポポの腕を振り切ると、そのまま吹雪の中に駆け出した。
「フィー!」
ポポはすぐにフィーを追いかけた。周りの景色がろくに見えない、歩くこともままならない吹雪の中を追いかけて、手を伸ばした。あと数センチで掴まえられるというその距離。その瞬間、間違いなく目の前を走っていたはずの小さな子供は、吹雪の中溶けるかのようにしてふっと姿を消したのだ。霧の中に現れた幻想か、吹雪の攫われてしまったかにも見えた。
ポポは雪を掴んだ格好のまま固まって、積雪に転がった。騒ぎを聞きつけた村の衆が大急ぎでポポを救出してくれたのだけれど、「どうしたんだ」「何があったんだ」「フィーは一体どこにいったんだ」という問いかけに、ポポは答えることができなかった。ポポには、二人が無事に帰ってくることを祈り、待つしかできなかったのだ。
吹雪は次の日までひどく吹き荒れ、三日目の晩漸く収まり静かになった。四日目の朝に太陽が出て、それまでずっと待機をしていた村の衆は子供たちを探すために、再び山に繰り出すための準備を始めた。
フィーとナンが村の役場に戻ってきたのは、さぁ行こうと青年団の輩が集合し、今までの経過と今度の予定などを話し合っていた時だった。
フィーもナンも、所々擦り傷や切り傷を負っていたのだけれど、その他大きな怪我や凍傷の跡は全くなかったし、精々腹が減っている程度だという、寧ろ腹がなるほど元気で健康な様子だった。
薬屋の夫婦は、もう駄目だと思われていた娘が無事に帰宅をしたことを大層喜び、抱き合って、天の上から見守る神に感謝した。
村の衆もまた、皆が皆とても驚いて、それからとても喜んだ。そして皆不思議がり、同じ疑問をナンにぶつけた。
「お前、今まで一体どこにいたんだ? 一体何があったんだ?」
ナンは、差し出されたジャガイモのスープとソーセージを口いっぱいに頬張りながら健康的な笑みを見せて、こう答えた。
「おら、ミルクを買いに出かけだだっぺ? でも、途中で怪我をした兎さんをめっけで丁度良く持っていだ薬を付けてあげただ。それだけじゃばい菌が入っちゃうかもしんねえから、兎さんにリボンをつけで包帯代わりにしてあげただよ。それで、ミルクを買うべど思ったんだけど途中でお金をおっこどしっちまったことに気が付いて、ずっとそれを探してたの。そうしたら雪が降ってきで、おうちさ帰っぺど思ったんだけどお金をおっこどしたのがおっかあにばれたら、おら怒られちゃうべ? どんどん雪が強くなって、気が付いたら知んねえ所にいただ。それで、とりあえず丁度いい洞穴をめっけてじっとそこにいたんだけど、いつになっても雪が止む気配はねえし、おら、どんどん怖くなってきちまったの。そうしたら、フィーが助けさ来てくれたのよ。びっくりしたけど、おらすごく嬉しかった。それから? それから、フィーがおらをフィーのお家まで連れで行ってくれたのよ。それでずっとフィーのお家に居て、雪が止んだから帰ってきたんだ」
ごめんなさいごめんなさい、心配かけてごめんなさいという愛娘の体を薬屋の夫婦はきつくきつく抱きしめた。
村の衆はこの出来事に首を捻り、「不思議なこともあるものだ」と口を揃えてそう言った。
そして、薬屋の少女を助けるために身の振り構わず吹雪の中を飛び出していった銀色の子供に「男気のある、勇敢な子供だ」「偉いぞ、将来が楽しみだ」と皆口々に褒め称えた。
小さなフィーは、自分を引き取り育ててくれている祖父の前に立つと、じっ、と下を見て唇を噛み、迷うようにして両手を合わせ、呟くようにこういった。
「じいちゃん」
「……」
「じいちゃん、怒ってっけ? 怒ってるのか? ごめんなさい、あんなこと言ってごめんなさい。じいちゃんとの約束破ってごめんなさい。もう、あんな、ひでえこと言わねえし、約束を破ったりもしません。だから、だから……」
俺のこと、捨てねえでください。
フィーはナンを助けたことは後悔していなかったのだけれど、吹雪の中、ポポの言うことを聞かずに山に飛び出していったことを後悔していた。ポポとの約束を破り、口答えをしたことも後悔していた。
嫌われてしまったかもしれないと思った。とても怒らせてしまったかもしれないし、養護院にいたときのようにひどいお仕置きをされてしまうのかもしれないともそう思った。もしかして、もうこんな子供はいらないと言われ、このまま捨てられてしまうかもしれないとさえ予感していた。
けれどもポポは、不安げに揺れるフィーの瞳をじっと見て、それからきつく抱きしめた。
「誰がこんな、素晴らしい子供を捨てるというんだ。フィー、お前は全く素晴らしかっぺ、自慢の子だ。すまんかったなぁ、フィー。じいちゃん、どうやら自分のことしか考えられてなかったみてえだ。んだげんど、約束してくれよ。じいちゃん、ナンのことも大事だけんどお前のことも大事なんだ。だがらな、絶対に危険なことはしねえと言ってくれ」
触れた人の暖かさとその腕の体温に、フィーはポポの胸の中に抱かれたまま熱い熱い涙を流して何度も何度も頷いた。
その一件により、ポポは自分がとても大きな思い違いをしていたことに気が付いた。
例え、得体の知れない未知の力があろうとも、フィーはとても立派な子供であったしそれと同時に一人の男ですらあった。また、くだらないことを気にして何の罪もない一人の少女を見殺しにしようとしていた自分の事が恥ずかしくなった。
フィーの「力」のことを何も知らない村の衆は、小さなフィーを英雄として褒め称え、以前よりもより一層受け入れた。
「こんにちはフィー。買い物けえ?」
「うめえ林檎が手さ入ったんだ。よかったら食べていくか?」
慣れない人とのコミュニケーションに最初のうちは戸惑っていたはずのフィーも、少しずつ村に溶け込んでいった。以前は殆ど自分から話しかけなどしなかったのに、そのうち買い物帰りに薬屋の家でお菓子を食べたり、村の子供たちと遊んだりとどんどん交流を深めていった。村の子供がフィーに連れられ、山にあるポポの家に遊びにくることもあった。
よい傾向だと思っていた。得体の知れない不思議な力を持った銀色の子供は、決定的に人との絆や愛情、繋がりに飢えていたのだ。これからこの子は、更にもっと、どんどん立派に成長する。とても大きくなるだろう。
ポポはそれがとても楽しみであったし期待をしていた。そしてそれとは正反対に、とあることにも気が付いていた。
人間が、生き物が生き、生きていく限り絶対的に避けることができない自然の論理。連鎖。
フィーが大きく成長するということは、自分自身が老いるということだ。
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