第10話 フィーが一人になったときの話
フィーがポポの元にやってきて二度目の春を迎えた辺りから、それは間違いなく決定に、ポポの体に現れ始めた。
最初は微かな予兆だった。以前は平気で歩いていた山道を歩くと、数時間もしないうちに息を切らし、足が震えて進めなくなる。料理をしていると火をつけたことを忘れてしまう。軽々と持つことができたはずの荷物が持てなくなる。包丁を持つとぷるぷると手が震えて、それをそのまま落としてしまう。
ポポは温厚な老人であったが、頑固な老人でもあった。最初のうちは認めたくなく、意地を張りフィーに見つからぬよう振る舞っていたのだけれど、そのうち見栄を張ることもできなくなるほどになっていった。
フィーは、頑固な祖父を気遣い、丁寧に身の回りを手伝った。
ポポが持つことが困難な思い物は率先をしてフィーが持ったし、狩りなどの山歩きはもっぱらフィーの専門になった。
川で釣った魚を裁いて料理をして、パンを焼き、スープを作った。掃除だって洗濯だって何でもできた。
風邪の一つ引くことのなかったはずの丈夫な祖父が季節の変わり目で体調を崩し、ベッドから起き上がることが出来なくなったときでさえ、フィーはいつでもポポの傍に居続けた。
「じいちゃん、じいちゃん。見てくれ、今日は卵のおかゆを作ったんだ。シュミットのおじさんがうめえ卵をくれたんだ。これを食べたら、じいちゃんきっと元気になっと」
「今日はな、川に魚を捕りにいったんだ。こーんな、大きな魚をめっけたんだけど、あど一歩のところで逃がしちまったんだ。んだけんど、本当にもうちっとだったから、次は絶対とっ捕めえるんだ」
フィーはいつもそうやって、今日はあんなことをしたこんなことをしたと、楽しそうに雄弁に、寝たきりになってしまった祖父に対して語り続けた。するとポポは、首を動かし目を細め、嬉しそうに楽しそうに相槌を打ち笑みを浮かべた。それからゆっくり手を伸ばして、真っ赤に火照ったようになっているフィーの頬を撫でてから、くしゃくしゃに銀色の頭を撫でた。
フィーは、優しい自分の祖父が早く良くなり、また剣や弓矢を教えてくれることを切望していた。そしてまた共に山に出て、狩りや果実の収穫をすることを心待ちにしていた。
「じいちゃんは、今ちっと病気になってるだけなんだ。もうちっとしたら元気になって、また俺に剣を教えてくれるんだ」
フィーがそう語るたび、ポポは悲しい表情をした。それから「そうだな。早く元気になんねえど、お前も剣を忘っちまうがもしんねえな」と、決まって言ったのだ。
しかしポポはすでに、自分がもう長くないことを悟っていた。自分だけではない、時にやってくる薬屋の主人も、山の麓の村医者さえも、悲しそうな顔をしていた。
死ぬことは怖くなかった。ポポは生きていく上で死ぬことは避けられない運命であることを知っていたし、宿命であることもわかっていた。自分が死んだ後には、お金も財産もなにもなかった。今までの人生は何もかもすべてやりたいように、自由気ままに生きてきた。妻は亡くなり子もいない。未練など何もないはずだった。
たった一人、小さな子供を残しては。
じいちゃんじいちゃんと寝たきりの自分に纏わりついてくる銀色の子供。雪に埋もれて凍えていた、凍死寸前の痩せた子供。栄養失調でがりがりで、ひどい仕打ちを受けてきたのか目を背けたくなるほどの傷や痣を体中に付けた可哀そうな子供。殆ど表情を変えることなく、赤い瞳を常に雄弁に輝かせている小さな子供。感情の起伏がとても少ないこの子供は、スプーンを落としただけで体を震わせ、雷の音でびっくりとして、泣きながら夜中、自分の部屋にやってきた。
いつの間にか筋肉が殆どなくなってしまった両手を伸ばし、フィーの体を抱き込んだ。
初めて会ったときより、ずっと大きく、たくましくなった。体中を模様のように覆っていたたくさんの傷は、もうなくなってしまっただろうか。ナイフもスプーンも上手に扱えるようになったのだろうか。夜中に響く雷の音にも光にも驚いて涙を流すことはないのだろうか。
もしかしてこの子供は、財産など何もない自分に対して、神様が唯一与えてくださった宝物なのかもしれないとポポは思った。そうだとしたら、それはとても素晴らしい。お金や家や、他のどんな宝物でも比較にならないほど素敵なことだ。
「フィー、こっちにおいで。今日は、久しぶりに何か話でもしであげっぺ。何の話がええ?」
「本当か? なぁ、俺、東の国の話がええ。あと、命の花の話がええ」
「ははは、お前は本当に、その話が好きだなぁ」
「ああ、俺、この話大好きだ。俺、大人になったら旅さ出て、色んな冒険をしでぎっと東の国さ行くんだ。それで、絶対に命の花をめっけっんだ」
「ほお」
「なぁじいちゃん。もし俺が命の花をめっけたら、真っ先にじいちゃんに教えてあげんな。それで、じいちゃんに見せてやっからな」
「そうかそうか、そりゃあ楽しみだなぁ」
もはやフィーは、老いぼれたポポにとってたった一つの希望であり夢であった。
きらきらと輝く銀色の髪はまるで太陽のようだったし、赤い瞳はこの世にふたつとない素晴らしい宝石のようでもあった。
ポポはすでに、生きていくために大切なことをたくさんフィーに教えていた。まだまだ教えたりないことや教えていないこともたくさんあったのだけれど、それらをすべて教えるためには、ポポに残された時間はあまりにも少なすぎた。フィーが扱う弓矢は未だに方向が不安定だし、剣を持つ手もままならない。村に買い物に出てそのまま山で迷子になってしまうこともあったし、パンに砂糖と塩を入れ間違えてしまうこともあった。
けれど、フィーはすでに「出来損ないの子供」ではなかったのだ。
ポポもそれはわかっていた。
フィーがやってきて、三年目の冬だった。
その年の冬は、昨年、ナンが遭難をした時のような激しい吹雪が起こることはなかった。
ただただ静かに、音もなくしんしんと積もる白い雪を見て、まるで自分がこの山にやってきた年の冬のようだとフィーは思った。
「なぁじいちゃん、俺、ちっと村にいってくんな。ダフエルさんのところにいって、お薬をもらってくる」
春先に体調を崩して以来、ポポはずっとたくさんの薬を飲んできた。薬をもらうために、フィーは数日に一度、ダフエル夫婦の薬屋を訪れていた。
昨年よりもまた一回り大きくなったコートを羽織り帽子を被ったフィーがいうと、ポポはベッドに寝転んだまま首だけ動かして手を振った。
「おお、気を付けでいってこい」
フィーは、いつのまにやらすっかり軽く、細くなってしまった祖父の体に暖かい毛布を掛けて、大急ぎで山を下りた。真っ白い雪がたくさん積もった山道を歩くことはとても大変なことだったけれど、山にも雪にも慣れてしまったフィーにとっては、それほど大変なことではなかった。
あっという間に山を下り、活気溢れる村に出て、ダフエル夫婦の経営する古い薬屋を訪れた。
「やぁ、フィー」
「こんにちは」
「こんにちは。ポポじいちゃんの薬けえ?」
「そうだ。ええど……一週間分くれえくだせえ」
「よーしよし。ポポじいちゃんが元気けえ?」
「元気だよ。もうちっとで病気が治るから、治ったら俺と一緒に釣りをするんだ」
「そうけ。そうけ。それはとても楽しみだなぁ」
ダフエルの主人は、にこにこと人の好い笑みを浮かべながら薬を袋に包んでくれた。会計を済ませていると、店の奥から二つ括りのあの少女――昨年フィーが助け出した――ナンが現れた。
「あら、フィー。久しぶり。元気だった?」
「ああ」
「ポポじいちゃんの薬を買いに来たんだどよ。全く、まだちいせぇのに偉いもんだ。どこぞの娘とは大違いだ」
「どごぞの娘って誰のこどよ」
「くやしかったら、料理のひとつでも覚えてみろ」
「おっとうのばか」
微笑ましい親子の会話に笑みを崩し、フィーは主人から薬の袋を手に取った。そのときだった。フィーの体に、なんとも言えない嫌な予感が走ったのは。
まるで雷のようだった。雷のように激しく、氷のように冷たくて、そして静か。フィーの体はまるで悪魔に憑りつかれたかのようにして震えだして、いても立ってもいなくなった。渡されたはずの薬の袋は、そのまま地面に落ちてしまった。
フィーの異変に気が付いたダフエル親子は、落ちた薬を拾い上げて、真っ青なフィーに声をかけた。
「どうした、フィー」
「何があったの? 大丈夫?」
その声を合図にしたかのように、フィーはばっ、と顔を上げると、差し出された薬を引っ手繰るようにして受け取って、飛び出すようにして走り出した。
雪が積もりに積もった山道は、ひたすら寒いし足は取られるしで走りにくいことこの上なかった。フィーは途中で何度も何度も躓いたし、顔面から雪に突っ込んで形をつけた。
息も絶え絶えに家に帰り、吹っ飛ばすようにして扉を開けた。テーブルの上に置かれた花も、食器棚に並べられた食器も保存食も、ポポの好物のワインさえも、数時間前フィーが出かけたそのままだった。
心臓が鳴っていた。全身の血液がどくどくという激しい音を立てて全身を駆け巡り、冷たくて熱い嫌な汗が全身の穴から吹きこぼれていた。
「じいちゃん」
フィーは、恐る恐る祖父が寝ているはずの寝室を開けた。
ポポは白いベッドの上で寝息の一つも立てないほど安らかに眠っていた。大きな窓からは暖かい太陽がさんさんと降り注ぎ、祖父と、祖父の寝るベッドを眩しく照らし出していた。本棚の脇に置かれたストーブは赤々と炎を灯らせていて、いつでも飲めるようにと用意をしておいた水とコップは、そのままの状態でベッドの脇のサイドデスクに置かれていた。
「じいちゃん」
フィーはほっと息をつき、小走りに祖父の元へ近寄った。
「じいちゃんただいま。ダフエルさんのところで、薬もらってきたよ」
ポポは何も言わなかった。それほどぐっすり眠っているということなのだろう。普段だったら、何も言わずに起きるまでじっと待っているところなのだけれど、その時のフィーはどうしてもポポと話がしたくて仕方がなかった。
「じいちゃん、聞いてくれ。今日な、久しぶりにナンにあったんだ。ちっとだけ背が伸びて、あとちっと大人っぽくなってたんだ」
フィーはサイドデスクに薬を置くと、部屋の端から椅子を引き摺ってきてそこのちょこんと腰を掛けた。
帰ってきたままの恰好でフィーは、ポポが目覚めてくれることを、「すごいな」「よかったな」と言って笑ってくれることを、頭を撫でてくれることを待ち望んでいたのだけれど、目を閉じてしまったポポは目覚める気配は一向に見えなかった。
待ちくたびれたフィーは、ポポの体を揺すりだした。
「なぁ、なぁ、じいちゃん。どうしでなにもいってくんねえんだよ。早く起きてくれよ。俺とお話ししてくれよ。俺、一人でしゃべってても全然楽しくねえよ。なぁなぁじいちゃん、じいちゃんてば」
フィーが何度名前を呼んでもどれほど強く揺すっても、ポポは二度と目を覚ますことはなかった。ストーブはまだ赤々と燃えて、部屋はとても暖かいはずなのに、ポポの体はどんどん冷たく固くなっていった。心臓の音もしなかった。あの、優しいしわがれた声で「フィー」と名前を呼んでくれることもなかった。
「じいちゃん、じいちゃん。あと、もうちっとで春になるんだぞ。春になったら、一緒に山菜取りさ行くって言ったじゃねえか。病気が治ったら魚釣りさ行くっていったじゃねえか。うそつき、じいちゃんのうそつき。俺、もう約束破ってねえぞ。何で起きでぐんねえんだよ。早く起きねえと、春になっちゃうじゃねえがよ!」
フィーは泣いた。ポポの体を揺すりながら、名前を呼びながらいつまでもいつまでも泣き続けた。そのうち、ストーブの燃料が切れて暖かかったはずの部屋の気温が一気に下がった。室内にいるのに、まるで外にいるかのようだった。
一晩中冷たくなった祖父の隣で泣き続けていた小さなフィーは、夜明けと共に村に降りて、医者と薬屋の主人を呼んだ。そうして、ポポが亡くなったという事実は、一気に村中に広がった。
数日後、ポポと親交の深かった村の長を喪主とした葬儀が開かれた。ポポは財産もお金も何もないただの老人だったが、皆に慕われ親しまれた素晴らしい人間だった。村の衆は、素晴らしいひとりの人間の命が失われたことを嘆き悲しみ、見事天寿を全うしたことを感謝して、天国に行かれるように祈りを捧げた。村の人間だけではない。山に住む兎や狐が集まってきて、ポポの死を惜しんでいた。
フィーは、泣くことも悲しむことも何もせず、能面のような表情のまま、じっとポポの棺に寄り添っていた。時に、薬屋のダフエル夫妻に寄り添いナンと行動をする以外、ポポの傍から離れようとはしなかった。
祈りを捧げ花を手向け、土に帰る棺を見ながら最後の別れをしていると、それまでなにひとつ言葉を発することのなかったフィーは呟くようにこういった。
「死んだら人はどこさ行くんだ?」
神様のいるところだよ、と薬屋の主人は答えた。
「神様はどこにいるんだ? 天国か? 天国ってどんなところなんだ?」
「天国だよ。天国は、とても綺麗で安らかで、素晴らしい所なんだ。さぁ、もうお別れだ。お話はあとにすっぺ」
そうして、フィーはまたひとりになった。
養護院を逃げ出して、二年目の冬のことだった。
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