【1話後】別れの夜、あるいは感傷に浸る彼の話





「――終わった」



 端的なスヴェンの言葉に頷きを返して、レーナクロードは腰かけていた椅子から立ち上がった。

 待機していた部屋を出て、廊下を歩き、目的の部屋の前に辿り着く。それが誰にも阻まれないのは、この家の主たちの暗黙の協力ゆえのものだ。

 部屋の主からの応えがないことを承知で、一応の礼儀として扉を叩く。そっと入室し、奥にある続き部屋――寝室への扉もまた叩いた。やはり応えはない。

 当然だ――スヴェンに頼んでこの部屋の主を魔術的な眠りにつかせたのはレーナクロードなのだから。



 エリシュカ・アーデルハイド。レーナクロードの幼馴染であり、先日解消を申し出るまでは婚約者であった人物だ。

 その彼女が、こうしてレーナクロードが許可なく部屋を訪れ、あまつさえ枕元に近づいても目を覚まさないことこそ、スヴェンの魔術が正常に作用している証左と言える。

 そうでなければ、さして潜めていない気配に気付くだけの素養はある彼女のことだ、目を覚まして叩きだされるくらいはしているだろう。



「目を、覚ましたら。……きっと、怒るんだろうな」



 眠るエリシュカを見つめながら独り言ちる。


 自分がこれからやろうとしていることを――これまでやってきたことも含めて知れば、きっとエリシュカは怒るだろう。それとも呆れるだろうか。むしろ、それだけ済めばまだましだと言えるのかもしれない。

 ただ、絶対に喜ばれないことだけはよくわかっていた。


 ずっとずっと、共にいた。いつまでだって、一緒だと思っていた。

 そこに恋があったのか、愛があったのか、或いはその萌芽があったのか、それすらも、もうわからない。


 別たれることを考えたこともなかったのだ。傍にいることが当たり前で、なんだって共有できる相手で、一生共にいるのだと、根拠もなく信じていた。


 ――その道が断たれたことを、あの日からずっと、認められないでいる。




 あの日。エリシュカが七つになった日。彼女に纏わる『託宣』が、先代の『託宣の巫女』たるレーナクロードの母に下りたのだという。

 曰く、エリシュカ・アーデルハイドは、二十の歳を数えることなく、国の贄となる存在である、と。


 それはつまり、二十を数えずに彼女がいなくなることと同義だった。


 それをレーナクロードが知らされたのは、その『託宣』が下りてからゆうに一月は経った頃のことだった。『託宣』の内容を噛み砕いて説明をする母と、それを見守る父、そしてエリシュカとその両親の姿に、知らずにいたのは自分だけだと知った瞬間のことは、うまく説明できる気がしない。


 何だって話せると、共有しているのだと思っていたエリシュカが、それをちらりとも自分に話さなかったこと、そうしてその話の内容が自分の死を意味するも同然だというのに、ただただ静かに、凪いだ瞳でいたこと、……思わず視線を向けた自分を、避けるように目を伏せたこと。


 それらすべてが、裏切りのように思えた。信じていたのに、エリシュカ自身も、これからの未来も信じていたのに、何もかもがその瞬間に途絶されたように感じた。

 ――否、実際にそうだったのだろう。レーナクロードが認められなかっただけで、それはもう確定に等しかった。



それを受け入れたくはないと思いながら、『託宣』の絶対さを知るが故にエリシュカの負担にならないようにと口を噤む母親たちと、せめても時が来るまではこちらに縛り付けようと足掻く父親たちと、どちらの気持ちもわかるから、ずっと中途半端な立ち位置にいた。

 それは多分、エリシュカも同じだったのだろう。いくら父親たちが聞く耳を持たずに婚約話を広めて正式なものにしてしまったとはいえ、撤回する機会が全くなかったわけではない。

 それでも婚約が成立し続けていたのは――きっと、父親たちの願いの形を、無下にできなかったからなのだろう。



 ……だが、それももう、終わったことだ。

 或いは、自分が行動を起こした時から終わっていたのかもしれない。

 表面上は、――『婚約者』という形は、変わらなかっただけのこと。それだって、先日解消したので『元婚約者』だ。


 儚い夢の形で消える婚約も、その片割れの立場も、ぬるま湯のように続く平穏な終わりある日々も。

 全てを捨ててしまっても、罪なき異世界の人間を巻き込んででも、可能性に賭けたかった。諦められなかった。

 エリシュカが死ぬことを受け容れなくていい未来を、あの日途切れて消えてしまった道を、繋ぎたかった。


 それがただの独善だというのは承知の上で、足掻くことを決めたのだ。だから、後悔などない。


 報われなくともいい。それを望んでいるわけではない。

 ただ、生きてほしい。生き続けて、ほしい。


 それだけだ。それだけがどうしようもなく難しくて、絶望的で――罪を犯さねば成し得ないというのなら、それすらも飲み込んで、叶えたかった。

 エリシュカは、そんなレーナクロードの行為を絶対に喜ばない。喜ばない人間だからこそ、そうしたかった。


 すべてが滞りなく進んだならば、エリシュカはきっと自分を許さない。幼馴染としての立場を維持できるとも思わない。

 だからきっと、これが彼女の顔をまともに見られる最後の機会だろうと、険のない安らかな顔を記憶に刻み付ける。


 そうしてふと、淑女の寝顔を無断でしかもじっくり見るなんて、と呆れる彼女を想像して、淡く笑った。

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