第5話 エスと僕

「少し歩こう。」


僕は、少女が転ばないように、ゆったりと歩を進めた。少女は、僕の歩く遅さに合わせて歩く。これは雪道で歩く男女には、自然な速度だと思う。


「ところで。僕は昔、医学部にいたんだよ。」


「そうなんですか? 天才科医志望だったりします?」


「まさか。」


「そうですか。・・・辛いことがあったのですね。」


「え、あ、ああ。ちょっとね。」


なぜ、僕は”まさか”などと回答したのだろう。


「その顔は、思い出してる顔ですね? 良いでしょう、聞きましょう。」


「エス神父。そう、それはこんな雪の日だったかな──。」


数年前のことだ。僕が平日医学部で勉強をして、日曜日にはその頃はとても尊敬していたエス神父のもとで祈りを捧げる毎日を送っていた。冬のある日、エス神父は、交通事故で脳を損傷した。命に別状はなく、ほどなく元の毎日に戻った。しかし、神父の性格は変わってしまっていた。当時の僕にとって、神父は親のような存在だった。僕はきっと弱い人間だったのだろう、神父の命じるままに、大量の被験者を募って、当時画期的な脳細胞修復薬として期待されていた、あの薬剤の治験を、医学部に無断で秘密裏に行った。その当時、保健省は、再度の安全確認までは治験を禁ずると、強く勧告していた。──僕は、甘かった。募った被験者は60名で、そのうち14名が一命をとりとめた。全員、深刻な後遺症を負った。そしてその14名のうち、今も生きているのは7名で、全員、今もなお脳細胞が急速な細胞分裂を繰り返し続けている。予見しがたい事態にならないよう、天才病棟で生活してもらっている。カカオ豆の成分がこの薬剤の副作用を緩和することが、医学の国際学会で多数報告されており、予後半年の命と思われていた方々にカカオ豆を服用させたところ全員が半年を超えて、今も生きている。


「えーと、そうだ。どんどん冷え込むな。ココアでも?」


「雪だるまくん。君に、そんなお金あるの?」


「神学部棟の給湯室で、特製ココアを作るよ。」


僕は、知っているんだ。この子は、間違いない。僕のせいで天才になった。天才になって・・・、天才になってそして、・・・天才になってそしてそれから?


「あのさ、雪だるまくん。もしも、この世界がね、クリスマスの恋愛小説だったらって、思うことがあるの。」


「もしも、この世界がクリスマスの恋愛小説だったら・・・、そうだな。」


「・・・・・・。」


「・・・・・・。」


凍結防止用の噴水が、二人の声を遮る。あと2時間ばかりで、クリスマスという魔法も解ける頃合いだ。


「・・・・・・。」


「ああ。必ず。」


「ええ。絶対ですからね?」


「ああ、それと。これを、君に。」


「え、2回しか会ってない子に指輪・・・ですか?」


「あ、ああ。気に入ってくれるといいんだけど。」


「・・・・・・。」


少女が微笑んで左手を差し出すと、とたんに僕はうろたえた。僕はいったいこの子のどの指に、指輪をはめればいいんだ?


(つづく)

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