その14:流動~66年目の挑戦者たち・ダイバーシティとインクルージョン/戦争とパラスポーツ──ルートヴィヒ・グットマンの夢はルワンダの「心」を復興させる光となりて

  一四、流動



 一五時三〇分を過ぎた頃――おうしゅうの空は依然としてにびいろの分厚い雲に覆い尽くされ、どきの湿った空気が肌に纏わり付いている。今にも雷鳴が轟きそうであり、にわか雨を見越して洗濯物を取り込む家も多い。

 週末ということもあって駅前の商店街や商業施設ショッピングセンターは大勢の客で溢れ返っていたが、出先でずぶ濡れになっては困ると現在いまは誰もが家路を急いでいる。これは武家屋敷といった同市の観光名所も同様である。

 唯一の例外として祭り騒ぎの如く賑々しいのは、奥州市内でも特に広大な公園だ。

 サッカーやラグビーの競技大会も開催される多目的運動広場や、見上げるほど背の高いクライミング競技のウォールなど数多の運動施設が併設されている。ソリを楽しむ人工芝のゲレンデや築山のような形状の巨大トランポリンなど子どもたちの遊戯施設も多く、家族でバーベキューを楽しむ設備も整っているのだが、そちらの人影は寧ろ少ない。

 数え切れない人々が詰め寄せているのは、公園の一角に所在する総合体育館――即ち、『天叢雲アメノムラクモ』岩手興行の会場であった。

 正面玄関を挟む形で左右に並立する二棟はどちらも競技場アリーナであり、今日は『天叢雲アメノムラクモ』が終日まで借り切っている。メインアリーナにはリングが設営され、渡り廊下を挟むサブアリーナには興行イベント運営に要する様々な器材が運び込まれていた。

 日本で最も有名な格闘技雑誌『パンチアウト・マガジン』が広報活動の一環として運営する〝キャラクター〟の『あつミヤズ』は、大勢の人々が折り重なって倒れることがないように大きな身振り手振りでもって順路を案内している。

 興行イベントの会場まで足を運ぶほど熱心な格闘技ファンは誰もが〝彼女〟に親しんでおり、右耳の上辺りで一つに結わえた山吹色の長い髪を振り回すたび、携帯電話を掲げた大勢がレンズの中央に捉えるべく腕を伸ばして追い掛けていった。

 そもそも『あつミヤズ』はパソコンの仮想バーチャル空間に三次元描画される〝キャラクター〟であり、生身の人間ではない。正面玄関の近くに立っているのはを再現した着ぐるみというわけだ。過剰に丸みを帯びたデザインに変更されてはいるものの、前面を大きく開いた若草色の着物や、袴の代わりに穿いたスパッツなどが細かく再現されていた。

 袖が取り外されて肩は剥き出しとなっており、過剰に大きな両手には指貫オープン・フィンガーグローブを装着している。『天叢雲アメノムラクモ』の興行イベントということもあって右手が青で左手は白と、同団体のシンボルカラーを生地にも反映させているのだ。

 露となっているタンクトップに雑誌名を刷り込み、殊更に強調しないと忘れられてしまうのだが、〝彼女〟は『天叢雲アメノムラクモ』のマスコットキャラクターではなく、帰属先はあくまでも格闘技雑誌パンチアウト・マガジンである。

 『あつミヤズ』の着ぐるみが立つ建物の周辺には無数ののぼりや看板が立ち並び、そのいずれにも同団体のロゴマークと併せて『天叢雲アメノムラクモ 第一三せん~奥州りゅうじん』なる文言が記されていた。

 改めてつまびらかとするまでもなく、総合体育館の正面玄関へ吸い込まれていくのは岩手興行の観戦に訪れたMMAファンだ。一六時から始まる開会式オープニングセレモニーに向けて誰も彼も期待に胸を膨らませており、興奮の色に染まった頬が六月半ばの一五時台にしては薄暗い曇天のもとで一等際立っている。

 『天叢雲アメノムラクモ』の主催企業『サムライ・アスレチックス』に招かれた屋台が正面玄関と隣接する場所でひしめめき合い、ずんだ餅の触感や餡の味わいを再現したフローズンカスタードなど岩手県の名物を振る舞っていた。入場を直前まえにして〝屋台村〟で腹を満たしたいという者は多い。こうした需要に応え、尚且つ開催地の経済振興へ結び付けることも主催企業サムライ・アスレチックスが担う役割の一つなのだ。

 冬季オリンピック関連施設を利用した前回の長野興行と比較して今回は会場の収容人数キャパシティが三〇〇〇人も少ない。これを補うべく岩手県内の公会堂などでパブリックビューイングを実施するのだが、そこにも同様の屋台が設置され、前沢牛のサイコロステーキを贅沢に使ったカレーライスなどが振る舞われている。

 総合格闘技MMA興行イベントなのだから当然であろうが、地鶏の出汁ダシが効いたうどんをすする音に混ざるのは大半が勝敗予想である。


「――二大会ぶりの復帰って言ったら、ツーはリキんじまうモンだけど、そこは〝絶対王者〟の貫禄だよな~。昨日の公開計量、どっちかっつーと挑戦者のサンドバリのほうがカタくなってたもん。『かいおう』に壊された選手の一覧リストにご新規サマ一名追加って感じ」

「サンドバリは前身団体バイオスピリッツの頃にはもうデビューしてたから、〝ご新規サマ〟って言い方はちょっと抵抗あるなぁ。『かいおう』復活の生贄ってのは、その通りだと思うけどさ」

「いよいよ〝次〟は『かいおう』不在の『天叢雲アメノムラクモ』を盛り上げてきた〝レオ様〟との決戦かもな~。『ブラジリアン柔術』と『グリマ』――前田光世コンデ・コマ以来の〝ジウジツ〟と、海賊ヴァイキングのレスリングなんて、今もくにたちいちばんが生きてたら漫画の題材ネタにしそうな対戦カードじゃん」


 勝敗を語らうMMAファンの関心は、『かいおう』という仰々しい通称で呼ばれる男に集中していた。対戦相手サンドバリを憐れむ声も多く、残酷にも彼の惨敗を前提として〝次〟に『かいおう』の前に立ちはだかる選手の予想で盛り上がっている。

 じゃじゃ麺の丼を持つ男性が口にした〝レオ様〟とは、『天叢雲アメノムラクモ』が誇る花形スター――レオニダス・ドス・サントス・タファレルである。ブラジル出身うまれでありながらサッカーワールドカップで沸騰している最中の故郷に戻らず、岩手興行への出場を優先させたことでMMAファンから喝采を受けていた。

 他方では人気声優でもある希更・バロッサのファンたちが彼女の主演作品――『かいしんイシュタロア』の名台詞を交えた応援を練習している。

 岩手興行の会場に詰め寄せた人々は、言わずもがな自身が贔屓としている選手の勇姿を見守るべく開幕時間を待ち侘びているわけだが、その中でキリサメ・アマカザリの名前を呼ぶような声は全くと言って良いほど聞こえなかった。

 〝屋台村〟で腹ごしらえを済ませようとしている人々は〝八雲岳の秘蔵っ子〟とも〝ケツァールの化身〟とも喧伝される新人選手ルーキーに殆ど注目していないようだ。『天叢雲アメノムラクモ』に異常なほどの敵意を抱いているスポーツ・ルポライターのぜにつぼまんきちがこの場に居合わせていたなら、主催企業サムライ・アスレチックスの広報戦略を最悪の大失敗と扱き下ろすことであろう。

 あるいは旧来のMMAファンにも〝客寄せパンダ〟と疎まれているのかも知れない。

 前身団体バイオスピリッツの頃から幾度となく問題視され、現在も所属選手のバトーギーン・チョルモンに批判されているのだが、『天叢雲アメノムラクモ』代表の樋口郁郎は興収増加を見込んで世間の耳目を集める奇抜な選手を起用する傾向が強い。

 純粋な力と技の競演を愛しているファンは、こうした〝客寄せパンダ〟を何よりも忌み嫌う。〝一般客〟に先行して入場し、選手たちの〝リングチェック〟などを見学している公式オフィシャル観戦ツアーの参加者の中にはキリサメを追い掛けてきた人々も混ざっているが、それは〝物好き〟という名の例外であった。

 デビュー戦を控えた身でありながら秋葉原の市街地で言い訳しようのない不祥事を起こし、これを樋口郁郎――即ち、日本格闘技界に君臨する〝暴君〟の情報戦によって解決させられた新人選手ルーキーに格闘技を愛する人々が好意的な感情を抱くはずもあるまい。幸いにも〝先輩〟には恵まれたものの、キリサメに向けられる眼差しは極めて厳しいのである。

 MMAに限らず、欧米の格闘技興行イベントでは『PPVペイ・パー・ビュー』が主流となっている。一つの大会に対して自分が観戦したい試合を選び、〝視聴権〟を購入して生中継を楽しむというシステムだ。『ユアセルフ銀幕』といった動画配信サイトに開設されている公式チャンネルから視聴する方法が日本では一般的に普及しているが、興収の主軸に据えている北米アメリカ最大のMMA団体『NSBナチュラル・セレクション・バウト』とは異なり、『天叢雲アメノムラクモ』はこの導入に出遅れてしまっていた。

 冷たい視線に晒されている新人選手ルーキーにとって、それは僥倖さいわいであったのかも知れない。二〇一四年六月現在の『天叢雲アメノムラクモ』でPPVペイ・パー・ビューが運用されていたのなら、おそらくキリサメに対するMMAファンの期待は第一試合の売り上げに残酷な数値として表れていたはずだ。

 八雲家の中で最もインターネットを使いこなし、情報社会との関わりが深い未稲は、その事実を誰よりも深刻に受け止めている。

 MMAのリングに上がる前からキリサメには既に多くのファンが付いていると弟のひろたかから指摘されたことを踏まえて一晩で分析したのだが、確かにインターネット上では彼のことをはやし立てる声も少なくない。秋葉原で起こした不祥事――つまり、とらすけとの斬り合いは目撃者がSNSソーシャルネットワークサービスで実況中継を行い、好奇の目に晒されたのだ。

 互いに得物を担いで町中を駆け巡り、船のオールにも似た凶器マクアフティルでもって『タイガー・モリ式の剣道』と斬り結んだ姿は、MMA選手としての潜在能力ポテンシャルの証明である――そのような印象操作を仕掛けたのが樋口郁郎であった。

 『天叢雲アメノムラクモ』というMMA団体の信頼を守らんとする情報工作である。

 着ぐるみの姿で観客を場内へ誘導しているが、『あつミヤズ』の〝本業〟は格闘技雑誌パンチアウト・マガジンの販促キャンペーンだ。『天叢雲アメノムラクモ』が興行イベントを開催した際に『ユアセルフ銀幕』の専門チャンネルで配信する解説番組も業務提携の一つでしかない。

 『天叢雲アメノムラクモ』ではなく、格闘技雑誌パンチアウト・マガジンの〝キャラクター〟なのだ。それにも関わらず、樋口郁郎は以前に編集長を務めたというだけで『あつミヤズ』の運用スタッフを動かし、特別番組と称してキリサメが故郷ペルーで繰り返してきた所業を暴露のである。

 キリサメ・アマカザリが生まれ育ったペルーの非合法街区バリアーダスは法治国家の常識が通じず、暴力を頼りにしなければ生き延びることさえ難しい。過酷な環境の〝犠牲者〟という点を繰り返し、彼の生い立ちに同情が集まるよう仕向けたのだ。

 この情報工作が功を奏し、キリサメが秋葉原で実施したのは日本最高のMMA興行イベントへ参戦するだけの資格が備わっていることをに示す為の〝撃剣興行パフォーマンス〟と認識され始めた。彼は格闘家としての実績を一つも持っていない。その埋め合わせというわけであった。

 短文つぶやき形式のSNSソーシャルネットワークサービスを中心として『天叢雲アメノムラクモ』の選手に相応しい実力ちからと評価する声も増え始めたが、結局は半分以上が興味本位に過ぎなかったのだと未稲は認識している。

 MMA選手としての歩みを本気で応援してくれる者はほんの一握りであった。前日の公開計量では新人選手ルーキーを歓迎する空気も感じたが、は岩手興行全体への期待であって、選手個々に対する冷静な評価とは切り離して捉えるべきなのだ。

 特別番組の放送中、『あつミヤズ』は以前かつての編集長に支配され、命令されるがままに不本意な配信を強いられたのである。現編集長どころか、雑誌社の許可さえも得ていない暴挙であり、広報担当として同誌の編集部から『天叢雲アメノムラクモ』の主催企業へ出向している未稲の師匠――いまふくナオリは〝暴君〟に対する不信感をますます募らせていった。

 キリサメ・アマカザリという新人選手ルーキーも所詮は〝暴君〟が仕立てた〝客寄せパンダ〟でしかない――そのような印象イメージを払拭できないまま、デビュー戦当日を迎えてしまった次第である。いまふくナオリの憤激に見合うだけの成果を得られなかった形であり、未稲も弟子として申し訳ない気持ちに苛まれていた。

 そのキリサメと岩手興行の第一試合で相対する城渡マッチは、明らかに肉体の限界を迎えていながら、見苦しくも現役にしがみつくベテランという批判に晒され続けているが、日本MMAの黄金時代を築いた一人という功績は誰もが認めていた。打撃による決着へ拘り抜く姿勢スタンスを評価する声も根強く、だからこそ『天叢雲アメノムラクモ』のファンに拒絶されなかったという事実は未稲にも否めなかった。

 統括本部長の養子むすこという喧伝が一過性の注目で終わったことは現状からも明白である。

 『かいおう』へ挑む対戦相手と同じように『天叢雲アメノムラクモ』ひいては日本MMA旧来のファンから生贄の如くされている可能性も決して低くはない。主催企業サムライ・アスレチックスにキリサメとの対戦を要請されたとき、城渡マッチは侮辱と受け取って怒りを爆発させたが、暴走族チームの舎弟に負けない熱量で彼のことを応援する人々も新人選手ルーキーの撃墜をもってして樋口郁郎の鼻を明かして欲しいと願っているはずだ。

 所属選手の活動を報告するブログの管理など『八雲道場』の広報活動を担う未稲は、思わず耳を塞ぎたくなるような事実をも踏まえながら、外部そとに向けて発信すべき情報の取捨選択を考えていく。

 臨機応変の広報戦略と、これを支える情報分析を未稲に指南したのも、日本で最も有名な格闘技雑誌の記者ライターであるいまふくナオリだ。普段は〝ネトゲ〟にうつつを抜かしているが、任された仕事は決して疎かにしないのである。

 師匠譲りの〝眼〟によってキリサメを取り巻く不穏当な状況を見極めたからこそ、未稲は開会式オープニングセレモニーの寸前までそばに寄り添っていたかった。

 それにも関わらず、興行イベントの運営スタッフから正面玄関エントランスまで呼び出されてしまったのである。本当であればキリサメのそばを離れたくなかったのだが、緊急の要件と切羽詰まった声で訴えられては断り切れるものではない。

 未稲は丸メガネが鼻を離れそうになるくらい大きく首を傾げながら歩を進めている。統括本部長でも主催企業サムライ・アスレチックスの役員でもなく、正面玄関エントランスで発生したものとおぼしき揉め事の解決に自分が駆り出される理由が全く分からなかった。

 直接、携帯電話スマホへ連絡してきたスタッフにたずねてみても、明らかに混乱した声色で「とにかくすぐに来て!」と繰り返すばかりなのだ。

 開場から既に一時間以上が経過しており、正面玄関エントランスも大勢の〝一般客〟で混雑している頃であった。スタッフたちは差し出されたチケットを一枚ずつ確認し、必要に応じて手荷物検査を挟みながら各々が座るべき観客席へと案内している。

 実父とキリサメの活動報告をブログで行う為に持参している記録用のノートでもって未稲が胸元を隠すと、真隣を歩いている弟――おもてひろたかが皮肉を込めて鼻を鳴らした。

 未稲が着ているシャツには『キラキラ王子様も一皮剥けば鬼畜召使とドロドロお召し替え』という珍妙な文言フレーズが刷り込まれている。これを衆目に晒すまいとした姉をひろたかは冷たい視線で突き刺している。


「今になって恥ずかしくなるくらいなら、最初から別の物を着てくるべきだったでは。せめて、上着を持ってくるとか。選手控室でも必死に隠してましたよね、

「……お客さんたちの前に出るつもりなんかなかったし、お姉ちゃんだって困ってるの」

「選手やスタッフの行き来が激しい場所に立ち入ることは分かっていたじゃないですか。そもそもリングサイドが一番目立つでしょうに。動物園のマントヒヒみたくチヤホヤされたくてそんなものを着ているんじゃないんですか?」

「マントヒヒ⁉ よりにもよってマントヒヒッ⁉ ヒロくんさぁ、もうちょっとだけでもお姉ちゃんに手加減してくれないかなぁッ!」


 忙しい母に代わって未稲が面倒を見ているひろたかは、七歳という年齢に似つかわしくないほど老成している。一〇歳も年長でありながら彼女はこの弟に一度たりとも口喧嘩で勝てたおぼえがなく、今度も正論の前に白旗を揚げざるを得なかった。

 意地を張るようにして記録用ノートを一等強く胸元に押し付けたが、それはあらゆる意味で余りにも虚しい抵抗である。

 傍目には不仲としか思えないやり取りを交えながら、呼び出された場所へと急ぐ姉妹の実母――おもてみねは国際的に有名な映像作家であり、『天叢雲アメノムラクモ』で使用されるPVプロモーションビデオの全てを一人で手掛けていた。興行イベントが開催されている間、〝大会本部〟から一歩も出ることなく映像による演出の効果を調整し続けるのだ。

 血を分け合いながら名字が異なる姉妹は、開会式オープニングセレモニーが始まるまでキリサメと岳が支度を進める白コーナー側の選手控室に待機するつもりであった。それは二人の後からいてくる青年も同様である。


「今のは弟クンが良くなかったかもね。せめてマンドリルって言ってあげなきゃ。キミのお姉さん、見た目一発で大爆笑を誘えるんだし」

「瀬古谷さんに同意するのは不愉快ですが、確かに一理ありますね。前言撤回します」

「マンドリルに失礼でしょ、それ! 二人ともマンドリルに謝って! ていうか、私に土下座しろ! 見た目っていうなら、せめてボルネオメガネザルじゃん! 最悪、それなら私も妥協するよ! あれ⁉ 何で私、譲歩してんのっ⁉」

「ボクらが『見た目一発』って言ってるのはメガネのコトじゃないんだけど、自分をアイアイに見立てなかったことだけは評価してあげるよ」


 おお欠伸あくびを織り交ぜながら、ひろたかと二人で未稲を揶揄する青年はとらすけである。キリサメのそばに控えるべき身辺警護ボディーガードが自分たちと一緒に正面玄関エントランスへ向かっている理由も分からず、未稲が傾げた首は異常な角度から戻らないのである。

 キリサメ当人の許可を得た上で寅之助は選手控室を離れたというが、その理由が未稲の耳には届いていないのだった。ひろたかとて知らないはずだ。

 狭い通路ですれ違うスタッフたちの迷惑そうな表情かおも涼しげに受け流し、地に伏せる虎が刺繍された帆布製の竹刀袋を右肩に担いでいる寅之助は、全米にまで勇名を馳せた近代日本最強の剣士――森寅雄タイガー・モリ直系の技を引き継ぐ道場の跡取りであった。

 『八雲道場』にとっては最悪にも近い不祥事であるが、秋葉原にいてキリサメと繰り広げた〝げきけんこうぎょう〟を通して、彼が現代日本でも指折りの剣道家であることを未稲も認めている。だからこそ、現在いま身辺警護ボディーガードの任務を果たして欲しかった。

 何しろキリサメと岳の二人は〝リングチェック〟の際に一触即発の状態に陥ったバトーギーン・チョルモンと同じ白コーナー側の控室を使用しているのだ。先程は戦端が開かれる寸前で全面衝突を免れたものの、わだかまりを抱えたまま再び狭い空間で顔を合わせれば、更なる暴発を招き兼ねないのである。

 実父の岳――即ち、『天叢雲アメノムラクモ』の統括本部長に対し、バトーギーン・チョルモンは前回の長野興行でも主催企業サムライ・アスレチックスの運営方針への不満を叩き付けている。『八雲道場』の仮想敵とも呼ぶべき男が襲い掛かってきたとき、寅之助には『タイガー・モリ式の剣道』をふるって返り討ちにして欲しいのだ。

 メインアリーナで睨み合いとなった際には興行イベントに支障をきたすものと判断して押し止めたのだが、ミャンマーの伝統武術『ムエ・カッチューア』を日本で教え広めるバロッサ家の一族が味方に付くことを確認した現在いまは、〝過剰防衛〟になったとしても『八雲道場』が被る損害ダメージは最小限に抑えられると、未稲は脳内あたまのなかしていた。

 希更・バロッサの実父は熊本県八代市で法律事務所を営んでいる。古武術道場の継承権を巡る訴訟など格闘技界の注目を集める事件を扱ってきた弁護士の協力を得られたなら、かつての横綱が救急搬送される事態になっても〝正当防衛〟としてできるはずだ。

 同じ白コーナー側の控室では新人選手ルーキーに好意的な〝先輩〟――アンヘロ・オリバーレスも待機しているので、掴み合いになっても仲裁に入ってくれるだろう。統括本部長の娘としては興行イベントが穏便に進行することこそ最善であるが、未稲自身の本音としては二度とキリサメを脅かす気が起きないほど叩きのめすという選択肢が第一候補なのである。

 希更の実母で、今日の試合ではセコンドに付くジャーメイン・バロッサも娘を〝客寄せパンダ〟と愚弄されたときには禍根を残さないよう館内ここで決着をつけるという〝迎撃〟の意志を隠さなかった。未稲も内心では〝代理戦争〟を期待したくらいであった。


(本気でキリくんを襲うつもりなら、一部始終を携帯電話スマホで撮って、ネット上にバラまくしかないな。……銭坪満吉が食い付いたら、後は放っておいてもツブしてくれるしね)


 にはバトーギーン・チョルモンを相撲の土俵だけでなくMMAのリングからも追い落とす――その情報戦へ備える為、未稲は一秒でも早くキリサメのもとに戻らなくてはならなかった。

 メインアリーナと隣接する選手控室から正面玄関エントランスへ辿り着くには、サブアリーナにも連絡している通路を抜け、椅子を設えればラウンジとしても機能しそうな広いフロアを通過することになる。

 勝利の歓喜を分かち合う野球選手などスポーツに興じる若者たちをかたどったレリーフで賑やかに彩られた壁が印象的なフロアだ。一つのボールを追う二人のバスケ選手は、この総合体育館で岩手県のプロバスケチームが頻繁に試合を行っていることをも示していた。

 壁を横断するように配置された曲線的なレリーフはきたかみがわの水流を表現しており、アスリートたちの躍動感を一等際立たせている。

 屋外そとに出ると二棟のアリーナを挟む形で小さな広場があり、中央には体育館利用者が休憩する為の円形ベンチも設置されていた。ガラス窓でもってその場所と隔てられたフロアに辿り着いた瞬間、未稲は岳でも麦泉でもなく自分が呼び出された理由を悟った。

 目の前で繰り広げられている揉め事を収拾できるのは、この場にいて自分しかいないことを理解したとも言い換えられるだろう。


「うあ~、良かった! 未稲ちゃん、来てくれたぁ~。心細かったよぉ~!」

「来るコトは来たけど、モッチーパイセン、何が何だか私にはワケ分かんなくて――」


 通路の向こうからやって来た姿を見つけるなり救われたような面持ちで左右の手のひらを大きく打ち鳴らし、次いで自走式車椅子を動かして彼女の側へと向き直ったのが助けを求めてきたスタッフである。

 首から下げたスタッフパスを確かめるまでもなく、その女性の名前がなしとみもちということを未稲は承知していた。『モッチーパイセン』という愛称のほうが慣れているくらいだ。

 その梨冨は『天叢雲アメノムラクモ』のシャツに人材派遣会社の帽子を組み合わせていた。以前から業務提携の形で同団体の興行イベントに参加しており、幾度も顔を合わせている未稲は携帯電話の番号を交換するほど親しく交わってきたのである。

 勿論、電子メールのアドレスも互いに知っている。それにも関わらず、電話を掛けてきたことから梨冨の逼迫を感じ取ったのだ。友人と呼んでも差し支えない相手にすがり付くような声を聞かされてしまったのだから、未稲も応じざるを得なかった次第である。

 八方塞がりの情況で困り果てていたのは間違いあるまい。何しろ未稲が到着するまで当惑の二字を貼り付けた顔で頭を抱えていたのだ。

 首の付け根より少しばかり上でミディアムボブの頭髪かみを一つに縛り、帽子の背面にあるホック式アジャスターの隙間から馬の尻尾の如くを出しているのだが、決して小さくはない毛先の動揺に当惑が表れているようであった。

 一つの事実として、梨冨の判断は考えられる最良のものである。車椅子の車輪に取り付けられたハンドルを左右の五指で握る彼女のすぐ近くには、未稲の見知った顔が二つも並んでいたのだ。

 いずれもこの場にるはずのない顔であり、それ故に未稲は思わず足を止め、顎が外れるのではないかと梨冨から心配されるくらい口を大きく開け広げたのである。


「――てるちゃんに『ヘヴィガントレット』さんっ⁉」

「いや、おかしーだろ。何で未稲がそんなに驚いてんだよ」


 二つの顔の一つ――かみしもしきてるもまた目を丸くしている。が岩手興行の会場にることを驚かれているのだと察し、それ故に彼女の反応を訝っていた。


「驚かないほうがおかしいでしょ、この場合……。色んな意味でワケ分かんないもん。今回はレオニダスさんが――『天叢雲うち』の花形選手スーパースターがキャンペーンの先頭に立ってるから、当日券も開場と同時に全部売り切れちゃったんだよ。幾ら照ちゃんのお願いでも、今から席を用意するのは不可能かな。せめて事前にメールくれてたら違ったんだけど……」

「こっちこそ二重の意味でワケ分かんねーよ。よりに一階席のチケットを貰ったからアマカザリのデビュー戦を見物に行くって昨夜、〝寅〟に伝言しといたろ」

「……は?」

「だから、おめーの後ろでニヤついてる寅に電話したっつってんだよ。そうだよな、寅」

「そうだよ、照ちゃん」

「ホレ、見ろ。寅も自分のほうから『八雲道場おめーら』に話を通しとくっつってたんだぜ? だから、お前、こうして〝敵地アウェー〟まで足を運んだんじゃねーか。いきなり押し掛けて席をせなんてケチなするわきゃねーだろ。ナメてんのか、おい」

「……ナメられてるのは私のほうだったよ。ですよね、瀬古谷さん?」


 些細なすれ違いから上下屋敷の機嫌を損ね、その原因が背後で厭味に笑っていることを悟った未稲は、首の筋を違えそうな勢いでに振り返った。

 その拍子に未稲の鼻から丸メガネが吹き飛び、彼女と上下屋敷の顔を交互に見比べていた梨冨の頭部あたまに二本のツルが嵌った。正確には被っている帽子のフチの上に絶妙な形で滑り込んだ次第である。


「……てめー、寅。未稲をからかう為におれを利用しやがったってか」


 梨冨から手渡された丸メガネを掛け直しつつ、未稲は歯軋りでもって寅之助に憤怒を示した。先程の会話がまるで噛み合っていなかったことを上下屋敷が悟ったのは、すらも嘲る笑い声が鼓膜へ飛び込んだ直後であった。


身辺警護ボディーガードと言っても、奥州市こっちに来てから竹刀を握る機会もなくて暇でさ。息抜きに刺激が欲しくなるのは人間として当たり前だよね? 今日じゃなくて公開計量のときに『はがね』が喧嘩売ってきたら、こんな真似しなくて済んだのにタイミングが悪かったよ」

「悪いのはてめーの根性だろが! ……すまねぇな、寅のバカ野郎がよ」

「いい加減、私もねじ曲がった性格に振り回されるのは慣れてきたつもりだけど、ただ照ちゃんがこの人とお付き合いし続けられる意味だけは分かんない」

「おれもたまに分かんなくならァっ!」


 つまるところ、寅之助は前夜の通話中にこの筋運びを思い付き、恋人である上下屋敷を言いくるめたわけだ。未稲とひろたかに同行したのも自ら算段を立てた理不尽極まりない状況を愉しむ為であった。

 『八雲道場』の雇った身辺警護ボディーガードが底意地の悪い享楽家であることを改めて思い知らされた未稲は、怒りに震える右の人差し指を寅之助に突き出したまま、喉の奥から〝何か〟を絞り出すことも叶わずにただひたすら歯軋りを続けている。叩き付けたい罵倒が余りにも多過ぎて、脳内あたまのなかで大渋滞を起こしている情況なのだ。

 改めてつまびらかとするまでもなく、上下屋敷たちが正規の手順を踏んで岩手興行を観戦するという連絡はなしは、ことづてを引き受けたという寅之助から一度たりとも聞いたおぼえがない。

 上下屋敷とは電話番号もメールアドレスも交換しており、個人間でメッセージを送受信するチャット・アプリにも登録している。それなりの頻度で会話を楽しんでいる上、昨日はる問い合わせの電子メールまでやり取りしていたのだ。

 この享楽家が愉快犯のような真似さえしていなかったなら、その際にでも岩手興行の観戦について上下屋敷は言及したはずである。


「今では〝オフライン〟でも仲良しなのですし、通称ハンドルネームではなく本名で呼んで貰えると嬉しいですよ。未稲さんったらチャット・アプリでも時おり『ヘヴィガントレット』のほうをお使いになるじゃないですか」


 もう一つの顔はバケツをひっくり返したような形状のヘルムの下から現れた。

 その女性が朗らかに笑いながら外したのは日本の鎧武者が用いるような兜ではなく、中世ヨーロッパで騎士が用いた物である。その上、全身を板金鎧プレートアーマー鎖帷子チェインメイルで堅牢に固めており、ファンタジー作品の登場人物が現代日本へ飛び出してきたのではないかと錯覚しそうになるのだ。


脳内あたまのなかでは『よりさん』って言ってるんですけど、〝ネトゲ〟ではお互いに通称ハンドルネームで呼び合っているから、寝不足の日とか呼び分けがこんがらがっちゃうんですよ」


 本名で呼び直した騎士のことを未稲は以前から知っている。梨冨と同じように彼女とも〝知人〟ではなく〝友人〟と呼んでも差し支えがないほど親しく付き合っていた。

 つかより――インターネットの世界では『ヘヴィガントレット』という通称ハンドルネームを名乗る友人が物々しい出で立ちと全く不似合いな微笑みを浮かべ、未稲に右手を振っていた。

 その拍子に金属の擦れ合う甲高い音がガラス窓に跳ね返り、真隣に立っている上下屋敷の鼓膜をつんざいた。

 未稲が初めて顔を合わせた日もつかよりは同じ鎧兜を纏っていた。

 元々はジャンルを問わずに色々なテレビ・パソコンのゲームを共に楽しむ〝ゲーミングサークル〟の仲間メンバーであった。五月半ばに秋葉原でオフ会を催した際、高校生活をモチーフとした大規模多人数同時参加型RPGロールプレイングゲームで遊んでいることにちなんで各人それぞれが制服か、それに準じる服装で参加する取り決めとなったのだが、筑摩は『ヘヴィガントレット』という通称ハンドルネームに相応しい重装備で未稲たちの前に現れたのである。

 オフ会の日も今日も、筑摩依枝は警察に通報されてもおかしくない出で立ちであった。現代日本の景色にまるで馴染まない鎧姿であることに加え、腰に締めたベルトの左側には鞘に納めた幅広の両刃剣ブロードソードを吊り下げているのだ。同じ側の手には逆三角盾ヒーターシールドも携えている。

 どこからどう見ても、これからかっせんに繰り出そうかという完全武装である。

 これに対して上下屋敷はオーバーオールに袖なしのキャミソールを組み合わせている。右の側面に添えられた水玉模様のリボンが目を引くデニムのキャスケットとハイカットスニーカーもさまになっているが、すぐ近くに板金鎧プレートアーマーの騎士が立っている所為せいで、その個性が消滅する現象に見舞われていた。

 だからこそ、に自分が呼び出されたのだと未稲は直感していた。鞘に納められた状態では腰に帯びたつるぎが〝刃引き〟されていることを見分けられない。抜き身であったとしても殺傷能力がないことを一目で見極めるのは難しかろう。つまるところ、興行イベント会場に凶器を持ち込んだ危険人物としか思えないわけだ。

 車輪のハンドルに添えられた梨冨の両手を見れば、車椅子の操作とは異なる意味合いでことは瞭然である。彼女だけは〝殺傷ひとごろしの道具〟でないことを見抜けるかも知れないが、『天叢雲アメノムラクモ』にとっては場内が恐慌パニック状態に陥ることこそ最悪の事態であった。

 地上に存在する格闘技の全てを人権侵害と見做し、その根絶を訴えながらテロリスト紛いの〝抗議活動〟を繰り返す思想活動――『ウォースパイト運動』がホワイトハウスをも揺るがすほどの事件を起こした直後である。

 日本で活動する『ウォースパイト運動』の〝同志〟たちがによって刺激され、暴発するという事態を『天叢雲アメノムラクモ』の主催企業も警戒している。それ故に岩手興行の会場に配置された警備の人数かずも過去最大であった。

 正面玄関エントランスで立ち働いているスタッフとしては、興行イベントの前に警備員たちが警棒を振り翳すような状況だけは避けなければならない。さりとて完全武装した人間の入場を認めるわけにもいかない。引き留められた際に筑摩依枝ヘヴィガントレットの側から「未稲の友人」と名乗ったのであろうが、梨冨にはそれも僥倖さいわいであったはずだ。

 物騒という点を差し引いても、西洋の鎧姿は日本にいて異様に目立つ。実際、ガラス窓の向こうから何人もの〝一般客〟が携帯電話のカメラを向けていた。あるはずもない顔を三つも見つけた瞬間に驚いて取り落としそうになったノートを持ち直し、未稲は改めてシャツの胸元を隠した。

 衆目には絶対に晒したくないシャツを着てきたことを未稲は心の底から後悔している。


「鎧を着てないほうの女の子、地下格闘技アンダーグラウンド――ていうか、『E・Gイラプション・ゲーム』の一員メンバーなのよ。〝きん〟には指定されていないけど、さすがに素通りはマズいかなって……。現場判断はさすがに怖過ぎるし、主催企業サムライ・アスレチックスの誰かに報告しようと思ったら、未稲ちゃんの友達って言うでしょ? 下手打つとおおごとになりそうだったから本人に来て貰ったってワケ」


 ここまで呼び出した理由を明かしながら梨冨が指差した相手は、兜こそ外しながらも依然として板金鎧プレートアーマーを纏ったままの筑摩依枝ではなく上下屋敷であった。

 予想外としか表しようのない筋運びに未稲は目を丸くし、その両手から記録用のノートが滑り落ちていった。ガラス窓の向こうで携帯電話が一斉にシャッター音を鳴らしたのはこの直後である。

 これより数時間と経たない内に『天叢雲アメノムラクモ』岩手興行にて格闘技史を揺るがすような事態が起こった為、ネットニュースもばかりを報じたのだが、シャツに刷り込まれている『キラキラ王子様も一皮剥けば鬼畜召使とドロドロお召し替え』なる文言フレーズSNSソーシャルネットワークサービスで晒し物になっていたなら、未稲は自分の舌を噛み千切ったはずだ。

 次に未稲の双眸が捉えたのは「紛失なくさねぇようにチケットをスマホケースに挟んどいたのが失敗だったぜ」と不機嫌そうに上下屋敷が翳して見せた携帯電話スマホであった。

 寅之助と色違いのに問題はない。これを覆う革製のケースが揉め事を引き起こした原因であると、未稲は一目で理解したのである。その表面には火山をかたどったビーズ刺繍が表面に施されている。これは地下格闘技アンダーグラウンド団体『E・Gイラプション・ゲーム』が用いているロゴマークだ。

 つまり、『天叢雲アメノムラクモ』との因縁が浅からぬロゴマークを梨冨に見つかったわけである。他の人間であったら見過ごしていたはずだが、車椅子を使う彼女は七歳のひろたかと同じくらい目線が低く、上下屋敷がスマホケースを開いた際に視界へ映り込んだのであろう。


「……『E・Gイラプション・ゲーム』って、このテのグッズをたくさん作ってるのかな? 昨日、神通さんからテレカは見せてもらったよ」

「神通なら他にもロゴマーク入りの手帳を愛用してるぜ。紙ンとこに同じ模様を染めた扇子もな。『E・Gウチ』の代表はが趣味でよ、付き合わないわけにいかねぇだろ」


 未稲が述べた通り、哀川神通は自身の所属先を打ち明けた際に火山のロゴマークが刷り込まれた〝テレカ〟を証拠物件の如く提示していた。上下屋敷のスマホケースにも共通していることだが、くだん地下格闘技アンダーグラウンド団体は品々ノベルティグッズの制作に力を注いでいるようだ。

 尤も、グッズ販売による収入を期待しているのではなく、選手・関係者の連帯感を高めることが目的なのだろう。統一された色の品を身に付けて仲間意識を確認し合う〝カラーギャング〟のような例もある。


「そりゃ『天叢雲アメノムラクモ』と『E・Gイラプション・ゲーム』の関係を考えたら、照ちゃんを見過ごすワケにはいかないだろうけど、全身鎧兜で固めてる上、剣と盾まで装備してるヒトのほうが遥かにヤバそうじゃない? 増員されまくってる警備の皆さんに包囲されてないのが不思議だよ」

現在いま多様性ダイバーシティの時代だよ、未稲ちゃん。ううん、時代なんて曖昧な線引きは関係なく、鎧を着ているってだけで入場をお断りしますなんて、そんな選り分けは許されないよ」

「一秒も考えずに多様性ダイバーシティの尊重が出てくるモッチーパイセンに感動しましたけど、依枝さんの場合は見たまんま完全武装じゃん。何の為に入り口で手荷物検査をやってるのか、分かんなくなっちゃうってハナシだよ」


 スポーツの喜びを全身で表すアスリートたちのレリーフによって装飾された壁の前にる梨冨もちは、多様性ダイバーシティという一言を澄み切った声で紡いだ。

 偏った考え方によって人々を分け隔てるのではなく、その人を成り立たせる〝全て〟を個性として認め合い、手を取り合って未来を目指すという理念は、アメリカ合衆国にいて『公民権法』が制定された一九六〇年代まで遡るほど歴史が古い。

 多くの課題を抱え、また〝偏った考え〟に囚われた人間が蔓延り続ける状況が続いてはいるものの、『ダイバーシティ』という言い回しが普及するより以前から現代日本でも訴えられてきたことである。

 試合場に立つ選手たちがただ純粋に力と技を競い合う格闘技ひいてはスポーツの世界でも多様性ダイバーシティに対する理解は最重要にして急務である。〝平和の祭典〟を取り仕切るIOC国際オリンピック委員会では二〇一三年九月にアルゼンチン・ブエノスアイレスで開催された総会にいて『ダイバーシティ』という言葉が強く提唱されていた。

 二〇二〇年のオリンピック開催地が東京に決定した第一二五次IOC総会の一幕だ。

 あらゆる個性を尊重し、認め合わんとする意識が心の奥底まで浸透していればこそ、梨冨は現代日本のMMA興行へ突如として乱入してきた騎士に対しても構えることなく自然に接しているのだ。

 鎖帷子チェインメイルを組み合わせた板金鎧プレートアーマーもバケツをひっくり返したような形状のヘルムも、『ハルトマン・プロダクツ』が開発したスポーツ用ヒジャブと同じように人間の可能性が限りなく拡がっていく未来の兆しとして梨冨は感じているのだろう。

 無論、それは彼女自身が用いている自走式車椅子にも共通することであった。

 『天叢雲アメノムラクモ』にとって彼女はあくまでも外部スタッフである。本来の所属先である人材派遣会社の行き届いた社員教育は言うに及ばず、多様性ダイバーシティという理念を〝特別〟なものとして前のめりに意識するのではなく、己の一部としてごく自然に振る舞っている梨冨の様子にも未稲は密かに心を打たれていた。

 そして、は実感によって紡ぎ出された言葉である。

 梨冨が所属する人材派遣会社は二〇〇八年にキンで開催されたパラリンピックの出場選手が舵を取り、心身にハンデを持つ人たちに安心して働ける社会の実現を目指している。

 社長の名前はすけより――日本格闘技界一丸となって被災地を支援たすけんとした三年前の会合の出席者である。当時はマネジメント担当の役員であったが、この三年の間に理想の達成を主導する立場となっていた。

 八雲岳の想いに共鳴しながらも樋口郁郎と意見をたがえた為、『天叢雲アメノムラクモ』の旗揚げには加わらなかったが、人材派遣という側面支援の形で東北復興支援事業プロジェクトの〝同志〟とは今でも繋がり続けているのだった。

 雇用創出事業の一環として、会場設営のスタッフについては主に開催先の土地で募集しているが、一方で興行イベントそのものを進行させていくスタッフの割合は団体の性質に対する理解度が求められる為、提携する人材派遣会社の人員が圧倒的に大きい。

 すけよりがリーダーシップを発揮している企業も『サムライ・アスレチックス』の提携先の一つであり、東北で開催されるMMA興行イベントともなれば協力を惜しまないわけである。

 ただし、岳までもが日本格闘技界の〝暴君〟と袂を分かっていたなら、『天叢雲アメノムラクモ』との協力体制に佐志輔頼が積極的であったかどうかは分からない。未稲の携帯電話スマホに登録される友人も現在より一名分、少なかったことであろう。


「ちなみにモッチーパイセン、『甲冑格闘技アーマードバトル』って競技を聞いたコトない? 私が知ったのはつい最近だけど、きっと――ううん、間違いなくパイセンも血が騒ぐと思うよ」

「意味ありげに話を振ってくるってコトはの人、の選手なのかな? イベントスタッフの立場で個人的に接触を図るのはよろしくないけど、……未稲ちゃん、閉会後に〝橋渡し〟をお願いできない?」

「やっぱり食い付いた。モッチーパイセンと絶対、話が合うと思うよ」


 『天叢雲アメノムラクモ』というMMA団体に危害を加えるべく持ち込んだものと誤解されても仕方のない幅広の両刃剣ブロードソード逆三角盾ヒーターシールドも、筑摩依枝という人間の可能性を大いに拡げている。

 未稲のゲーム仲間は〝中世〟に区分される時代で実際に使用された武具を再現し、を用いて合戦さながらの試合を執り行う『甲冑格闘技アーマードバトル』の選手なのだ。

 それ故にゲーミングサークルのオフ会でも今日のMMA観戦でも、として板金鎧プレートアーマーを纏ったのであろう。彼女は今年の五月にスペインのラ・マンチャ地方で開催された第一回世界大会にも日本代表の一員として出場しており、二〇一三年に発足したばかりでまだ知名度が高いとは言い難い『甲冑格闘技アーマードバトル』自体の普及に力を尽くしているのだった。


ですね。ポジティブに言えば首尾一貫ってトコかな。そうそう、サトさん――大好きな幼馴染みさんにはもう会いました? 会ってませんよね? 昨日は一日、バロッサさんに付きっ切りでしたけど、今日は別のコが独占状態。移り気な幼馴染みを持つと苦労しますよね。ボクも電ちゃんがそんな感じですからねぇ~」

「えっ! サトちゃん、どなたかに甲冑格闘技アーマードバトルを宣伝してくれているのですか! 私の知らないところで力を貸してくれるなんて……! 新しい流れが来ているところで瀬古谷さんもご一緒に如何でしょうか? 照さんも前向きに検討して下さっているんです」

「前向き⁉ どっからそんな話になったぁ⁉ 寅も未稲も聞いてくれや! 依枝コイツ、新幹線乗ってる間、ず~っと勧誘ばっかりだったんだぜ⁉ 携帯電話スマホで一緒に観た試合の動画は確かに燃えたけどよぉ……、査定試合トライアウトはあんのかっていたのが失敗バカだったぜ!」

「筑摩さんがどこまでもで安心しましたよ。ほんあいぜんへ二〇〇回もプロポーズしたっていう恭ちゃん並みに〝前向き〟でケッコーなコトだね」


 強引の二字こそ最も相応しい勧誘に対し、揃って口元を引きらせている上下屋敷と寅之助も同じゲーミングサークルの仲間メンバーである。オフ会以来、甲冑格闘技アーマードバトルへ参戦するよう筑摩から手招きされ続けているのだ。

 打撃や投げの併用など〝古い時代の技〟を受け継ぐ身ということもあり、学生の為に開催されるような〝公式の大会〟には出場できない。瀬古谷の道場には優勝杯トロフィーの一つも飾られていないのだが、寅之助が現代日本で指折りの剣道家であることは間違いなかった。

 その恋人である上下屋敷もまた地下格闘技アンダーグラウンド団体『E・Gイラプション・ゲーム』に所属する選手であり、『とりじゅつ』という古武道の使い手である。

 それぞれの体得した武道と甲冑格闘技アーマードバトルの相性が抜群に良いことを信じて疑わない筑摩依枝は、肩を並べて〝中世〟の鎧を纏うよう二人に説得を試みているのだった。この場に居ないキリサメにも中米マヤ・アステカ刀剣マクアフティルで立ち回る姿を見込んで同じ言葉を掛けたことがあり、同競技を盛り上げる為には分別を失う傾向が強い。

 その筑摩とは絶対に話が合うと未稲から告げられていた梨冨は、納得したように二度三度と首を頷かせた。寅之助と上下屋敷の二人から同時に呻き声を引き出す鎧姿すがたを眺めているだけでも、甲冑格闘技アーマードバトルの普及に情熱を傾けていることを理解できるのだ。

 車輪のハンドルを握る五指の力が一等強くなっていくさまを未稲は見逃さなかった。



                     *



 道端で拾った棒切れや新聞紙を長細く丸めて拵えた玩具の刀で斬り合う〝チャンバラ遊び〟は、世代を問わず子どもたちにとって心が躍る娯楽の一つであった。

 やがて剣道に目覚めるような目的意識が必ずしも働いているわけではない。ただ純粋に棒切れを振り回すのが愉しいのだ。漫画やアニメの登場人物が繰り出す必殺技の真似事もには含まれており、例えば一九八〇年代末期から一九九〇年代には玩具の剣を逆手に構えて振り抜く子どもたちが日本全国に見られたのである。

 更に世代を遡ると、刃でもってくうに満月の軌道を描き、これによって幻惑された相手を斬り捨てるというねむりきょうろうの『えんげつさっぽう』の模倣に行き着くことであろう。昭和を代表する小説家・しばれんさぶろうが生み出した妖艶なる剣客は幾度となく映像化され、いちかわらいぞうむらまさかずが演じたねむりきょうろうもまた子どもたちにとって真似したくなる憧れの存在ヒーローであった。

 同時期のテレビでは特撮技術を駆使した時代劇も人気を博しており、当時の子どもたちは超人の如き忍者や剣士になりきって〝チャンバラ遊び〟に興じたのだ。夢中になる対象やその傾向は時代によって変わっていくが、真剣カタナ代わりに使える棒切れ一本で憧れの存在ヒーローに近付けるという喜びは、世代を超えて共通するものであろう。

 負傷の危険性を孕んでいる為、注意喚起が繰り返されてきたが、雨傘や箒を刀の代わりに用いることも少なくない。両手あるいは片手で握れる長細い物さえあれば、それだけで成り立つくらい手軽な娯楽であったればこそ、鞄に入れて持ち運べる携帯ゲーム機や携帯電話が普及した後も子どもたちの間で〝チャンバラ遊び〟が完全に廃れてしまうことはなかった。

 体力の続く限り肉体からだを動かしたいという純粋無垢な衝動は、それ自体が子どもにとって何にも勝る娯楽なのだ。あるいは生き物としての本能とも呼ぶべきかも知れない。

 その原始的な遊戯あそびを年齢に拘わらず安全に楽しむことのできる競技として完成させたのが『スポーツチャンバラ』であった。

 昭和後期――生きながらにして『伝説』と讃えられたプロレスラーのおにつらみちあきと、彼が率いる『鬼の遺伝子』の異種格闘技戦より僅かに遡る一九七一年に誕生した同競技スポーツチャンバラは、四〇年という活動の中で世界選手権を開催するまでに成長し、こんにちには身体機能の向上・回復など高いリハビリ効果も認められていた。

 視覚や四肢のハンデにも適応する競技形態であり、安全に楽しめるパラスポーツとしても注目を集めている。パラリンピックの正式種目に推す声も少なくなかった。

 頭部や腕を守る防具を装着する点は剣道にも共通しているが、競技に用いる武器は種々様々だ。読んで字の如く刀身の短い小太刀や、全長一〇〇センチ以下とルールで定められた長剣の他、槍や棒など日本武術で使われてきた武器が幅広くまで採用される〝異種格闘技戦〟であった。

 そのいずれも『エアーソフト剣』と総称されており、その名の通りに柔らかいゴム製の刀身を空気で膨らませる構造となっている。筒状の風船のように

それ故、剣道のように胴体を守る防具を装着しなくとも安全なのだ。盾の使用が認められている点も剣道との差異ちがいである。

 奥州市の中心部に所在する総合体育館の一室にいても、適切な量の空気で膨らませた長剣が鋭く風を裂いていたが、全面がカーペットでもって覆われた床を踏み締めているのはスポーツチャンバラの選手ではない。

 傍目にはビジネスパーソンとしか見えない背広姿の男は、顔面まで防護するヘッドギアも籠手も装備していなかった。直撃を被る寸前で身を沈み込ませ、横薙ぎに閃く刀身をかわし切った側は、そもそも『エアーソフト剣』さえ持っていないのだ。

 両手には厚みのある指貫オープンフィンガーグローブを嵌めているが、MMAで用いられているは、純粋な防具である『スポーツチャンバラ』の籠手とも用途が一致しない。接触時の威力を緩衝して後遺症や生命を脅かす事故から対戦者を守り、同時に打撃の反動によって自身の拳が壊れないよう防護する為の装備であった。

 その名の通りに竹を組んだ刀身の竹刀とも、ツカの部分が長い為に船のオールを彷彿とさせる中米マヤ・アステカ刀剣マクアフティル――『聖剣エクセルシス』とも異なる音を奏でながら、『エアーソフト剣』は風を薙いでいく。軽やかな音色を頭上に聞いたのは、およそ一時間後に総合格闘技MMAプロデビューを控えている『天叢雲アメノムラクモ』の新人選手ルーキー――キリサメ・アマカザリである。

 練習用の指貫オープンフィンガーグローブを装着した状態で『スポーツチャンバラ』の長剣を迎え撃つという異種格闘技戦の如き状況に立たされた経緯は、当のキリサメにも未だに理解し切れていない。

 白いワイシャツに背広を組み合わせ、ネクタイを緩めもしないまま横薙ぎの一文字を披露したのは、希更・バロッサの現場マネージャーを務めるおおとりさとであった。

 バロッサ家の道場が教え広めているミャンマーの伝統武術『ムエ・カッチューア』ではなく、声優としての活動を支援サポートするスタッフと言い換えられるのが正確である。


(他の人たちと比べたら〝常識人〟だと思っていたのだけど、……法治国家のド真ん中で欧州ヨーロッパの鎧兜を着るような人と普通に接していたもんな、大鳥氏も……)


 時計の針は一五時一五分を指し示している。キリサメやその養父である八雲岳が興行イベントの開始時間まで待機する白コーナー側の選手控室を大鳥聡起が訪ねてきたのは、およそ一〇分ほど前のことだ。

 声優事務所オフィス・アッポジャトゥーラの現場マネージャーとして前日までは担当声優と行動を共にし、身辺を警戒していたが、が所属する伝統武術ムエ・カッチューア道場ジム『バロッサ・フリーダム』と合流した後は、その役割も彼女の母親たちに移った次第である。

 希更の試合でセコンドを務める母親――ジャーメイン・バロッサとはキリサメも挨拶を済ませていた。『天叢雲アメノムラクモ』の〝先輩〟選手であるマルガ・チャンドラ・チャトゥルベディから教わった話によれば、MMAデビュー戦の相手を飛び膝蹴りの一撃で沈めた希更当人よりも遥かにという。つまり、大鳥の出る幕もないわけだ。

 岩手興行にける希更の立場は、あくまでも『バロッサ・フリーダム』に所属するMMA選手なのだ。今日に限っては声優事務所オフィス・アッポジャトゥーラのマネージャーも担当声優との同行が業務に含まれないのである。

 担当声優の試合を一人の観客として見守る前にの陣中見舞いに訪れたのであろう――彼を出迎えた直後のキリサメはそのようにしか思わなかったのだが、友人の現場マネージャーは意外としか表しようのないモノを持参していた。

 言わずもがな、『スポーツチャンバラ』で使用する全長一〇〇センチの長剣だ。ツカの部分から筒状の刀身へと空気を注入するポンプまで大鳥は脇に抱えていた。


「――間に合うよう急いできて正解でしたね。準備運動ウォーミングアップにお付き合いしますよ、アマカザリさん。本人を前にして比べるのも申し訳ありませんが、瀬古谷さんよりは安全に肉体からだをほぐせると思います」


 大鳥聡起の提案は、中世ヨーロッパの甲冑を纏って秋葉原の街を闊歩してしまえる彼の幼馴染みと同じように何から何まで意味不明であった。

 身辺警護ボディーガードとして『八雲道場』に雇われた寅之助は、業務内容に日々の訓練トレーニング相手パートナーも含んでいる。当然ながらキリサメも試合当日の準備運動ウォーミングアップは彼と行うつもりでいた。

 大鳥が懸念したように双方が暴力性を刺激され、挙げ句の果てには試合の直前で負傷してしまう危険性リスクがないわけではなかった。しかし、キリサメには寅之助以外に相手パートナーの選択肢もない。養父がリングへ上がるのは第八試合である。興行イベントがつつがなく進行するとしても数時間は先となるはずだ。

 ここで予想外の事態がもう一つ発生した。入場客に関する問題トラブルが起こり、その解決が未稲に委ねられたのだが、寅之助までもが彼女やひろたかいて正面玄関エントランスへ向かってしまったのである。

 寅之助の行動は職務放棄にも等しいものであったが、万が一にも場外乱闘のような事態に陥ったときには『タイガー・モリ式の剣道』が姉弟を守護まもってくれるはずであり、キリサメとしても引き留める理由がなかった。

 結果として先程とは異なる意味で選択肢がなくなり、大鳥聡起の奇妙な申し出を受けるしかなくなったのである。

 首を傾げ続けるキリサメと、その様子に苦笑を浮かべる大鳥聡起が肩を並べて向かった先は、『天叢雲アメノムラクモ』岩手興行の為、特別に解放された館内のトレーニングルームであった。

 奥行きのある空間にランニングマシーンやベンチプレスの器具などが幾つも設置され、柔軟体操ストレッチ用のマットも何枚か敷いてあった。片手用のダンベルやバランスボールまで用意されている。一般的なスポーツジムに求められる機能を過不足なく備えており、平日には一般利用者が健康運動に励んでいるのだ。

 同体育館ではMMAだけでなくプロバスケや卓球などの大会も開催されている。競技を問わず出場選手たちは主にこの場所トレーニングルーム準備運動ウォーミングアップを行うのである。

 興行イベント後半に試合が予定されている選手たちは開会式オープニングセレモニーの前から準備運動ウォーミングアップしても肉体からだが冷えてしまい、逆に調子を崩し兼ねない。これまでの興行イベントと同様に第一試合を受け持つ二人が優先してトレーニングルームを利用する段取りとなっていた。

 総合体育館は渡り廊下を挟んで二棟に別れている。〝一般客〟の入場が進む正面玄関エントランスはメインアリーナへと直結し、キリサメたちが足を運んだトレーニングルームは興行イベント運営に必要な機材が運び込まれたサブアリーナと隣接しているのだ。

 つまり、未稲とひろたかが尋常ならざる事態に巻き込まれたとしても、その喧騒さわぎはキリサメの耳まで届かないのである。だからこそ、寅之助に二人の警護を託したのだった。


(――大鳥氏にとって僕なんか害虫みたいな存在ものじゃないのか? なのに、何故……)


 思いがけない形で準備運動ウォーミングアップを開始することになった経緯を振り返りつつ、大鳥聡起の横一文字をかわし切ったキリサメは上体を深く傾けたまま床を蹴り付け、これと同時に左右の腕を突き出していった。

 一気に間合いを詰めながら大鳥の両足首を掴み、後方に引き倒そうというわけである。

 これが試合前の模擬戦スパーリングではなく故郷ペルーける〝実戦〟であったなら、足元を掬って横転させるだけでは済まさない。標的の後頭部をアスファルトの地面に叩き付け、脳にまで致命的な痛手ダメージを与えるのだった。

 一方でキリサメは自身に迫る斬撃に対して回避行動しか取っていない。大鳥の太刀筋が想定を上回るほど鋭かった為、その場に身を沈ませてかわすことしかできなかったのだ。

 咄嗟の判断としては決して間違いではないが、風を薙ぐ刃から逃れずに踏み止まり、ツカを持つ大鳥の両手に自らの拳でも叩き付け、長剣そのものを弾き飛ばしてさえいれば、次なる斬撃へと至る身のこなしを断ち切れたかも知れない。

 尤も、大鳥聡起は握り拳二つを垂直に並べられる長さのツカを左右の五指でもって力強く握っている為、生半可な打撃を加えても長剣を取り落とす可能性は極めて低かろう。

 次の瞬間、乾いた音がキリサメの胴を駆け抜けた。

 彼の五指が己の足首を捕獲せんとしていることを見極めた大鳥は、横薙ぎの一撃を振り抜いた際に生じた遠心力に逆らわず、に身を委ねるような恰好で真横に跳ね飛んだ。

 大鳥が反撃に転じたのは着地の直後である。肉食獣の爪ともたとえられる五指から逃れつつ空中にて素早く姿勢を整えると、逃した獲物を追い掛けるべく上体を引き起こしていたキリサメを見据え、自身のほうから再び踏み込んでいった。

 これと同時に剣先でもって床を擦るようにして長剣を振り上げ、空気で膨らんだゴム製の刀身でキリサメの胴を捉えたのである。

 くうに半月を描くような斬り上げを見舞った拍子に背広の前面まえを留めていたボタンが一つ残らず外れ、胸の辺りまで裾がめくれた。

 声優事務所のマネージャーが〝仕事道具〟として隠し持っている伸縮式特殊警棒の把手グリップを背広の内ポケットに見つけたキリサメは、体勢を立て直し切れずに殆ど無防備のまま直撃を被ってしまった脇腹が内臓まで抉り取られていないことを不思議に感じている。

 いっときは担当声優の醜聞スキャンダルを招き兼ねない〝害虫〟として目の敵にされていたキリサメも、大鳥がこの特殊警棒を実際に振り出した姿を見たおぼえがなかった。しかし、善からぬ感情を持って希更・バロッサへ近付く者を発見したときには、一切の慈悲もなくを叩き伏せることであろう。

 今、この場にいては背広の内ポケットから抜き出されることのない〝仕事道具〟だ。


「……剣道だとで〝一本〟――ですよね? 寅之助が使うけんから掛け離れているみたいですが……」

「寧ろ、剣道のルールでは〝一本〟と認められるのは難しかったと思いますよ。そもそも剣道は身のこなしに至るまで厳しく審判される武道ものです。ただとつを当てれば良いわけでもありませんし、先程の攻防などは渋い表情かおで睨まれましたね」


 剣道ではなくスポーツチャンバラであったなら、間違いなく〝一本〟勝ち――そのように言い添える大鳥の声にキリサメは僅かばかりの自嘲を感じ取っていた。ひょっとするとの試合で審判の判定に納得できず、諍いを起こした過去でもあるのかも知れない。


「……準備運動ウォーミングアップのはずなのに、大鳥氏に相手をして頂いていると、肝が冷えて仕方ありませんよ。手に持っているのが筑摩氏のような騎士の剣だったら、何回、斬り捨てられたか分かったもんじゃありません」

「先ほどバロッサさんからメールで教えて頂きましたが、試合前に『はがね』――チョルモンさんと正面切って対決されたのでしょう? 血がのぼった状態の頭もこれでクールダウンできるかも知れませんよ」

「……ご本人不在の場所で陰口みたいな真似はどうかと思いますが、クールダウンが必要なのは、どちらかと言うとバロッサ家の皆さんではないかと。特にジャーメイン氏は寅之助よりも物騒なコトを仰っていましたから……」

「バロッサさんのお母様は、……何と申しましょうか、規格外ですから、ええ……」


 大鳥の〝一本〟が入ったことで模擬戦スパーリングは仕切り直しとなり、改めて彼と向き直ったキリサメは『エアーソフト剣』の一撃を受けたばかりの右脇腹を左の五指で撫でた。命中した際の音こそ大きかったものの、柔らかな素材が接触しただけなので痛みは全く感じない。それだけに何ともむず痒いのだ。

 模擬戦スパーリングを始める直前も両者は試合同様に向き合い、一礼を交わし合ったのだが、その際に大鳥は「一人で黙々と柔軟体操ストレッチをするよりも誰かと一緒に肉体からだを動かして、調子が良くない部分を指摘されるほうが効果的でしょう」という説明に加えて、今から披露するのは自身が習得した『西洋剣術』ではなく、あくまでもスポーツチャンバラの真似事であると強調していた。

 彼を甲冑格闘技アーマードバトルに誘い続けている幼馴染み――筑摩依枝の話によれば、本来は『聖剣エクセルシス』と同じように左右の五指にてツカを強く握り締め、轟々と振り回すという長大な両手剣ツヴァイハンダーに精通しているそうだ。

 流派の有無さえキリサメには分からないが、正規の試合とも異なる〝場〟にいて『西洋剣術』のまことの技を晒すことはできないと憚ったのかも知れない。あるいはデビュー戦直前という新人選手ルーキーに怪我を負わせない為の自制ブレーキであったとも考えられる。

 〝実戦〟であったならキリサメは標的の両足首を掴み、後頭部への深刻な痛手ダメージを狙って引き倒したはずである。これに対して大鳥も己の足元が脅かされていると見て取れば、迎撃の蹴りを顔面に見舞って間合いの外へ弾き飛ばしたことであろう。

 相手キリサメには上体を起こす機会すら許さず、身のこなしを制したほうが次なる攻防も組み立て易くなる――大鳥からすれば、わざわざ大きな動作うごきで回避する必要もなかったのだ。

 互いに怪我だけはしない――それが準備運動ウォーミングアップを行うに当たっての取り決めでもあった。軽度の接触を超えてしまう事故を想定し、キリサメは練習用の指貫オープンフィンガーグローブを、大鳥聡起は『エアーソフト剣』をそれぞれ用いていた。

 真似事と明言する大鳥は『西洋剣術』の使い手であってスポーツチャンバラの競技者ではない。ルールすら聞きかじりに近く、インターネットの検索で調べなければ、必要な道具すら分からなかった。

 『エアーソフト剣』も奥州市内の武道具店で新しく買い求めた物であり、を膨らませる為のポンプも未開封の箱に納めたまま脇に抱えていたのだ。

 希更のマネージャーである大鳥がここまで心を砕いてくれることを今もってキリサメは理解できずにいる。無論、協力には深く感謝しているが、本領である『西洋剣術』とは異なる道具まで新調するとは度を越しているではないか。

 声優業にいて色恋を拗らせた末の醜聞スキャンダルは、人気と信用を一度に失い兼ねない大問題である。その原因となり得る存在と見做し、大鳥はキリサメのことを希更から遠ざけようとさえしていたのだ。それが昨日――初陣の下見として会場が設営される前の総合体育館を訪れた頃から敵意を感じなくなっていた。

 依然として寅之助の動向には警戒し、善からぬ感情を向けているので希更に関わらんとする全員に態度を和らげたわけではあるまい。自惚れではなく一つの事実として、己に対して心を開いてくれたものとキリサメも察してはいるのだが、〝何〟が固く閉ざされた扉の鍵となったのか、一つも思い当たらないのである。

 選手控室からトレーニングルームへと向かう最中にも声優事務所にとっては醜聞スキャンダルの引き金でしかない厄介者をたすけようとしてくれる理由をたずねたが、これに対して大鳥は「それを大真面目にかれるのも寂しいものです」と肩を竦めていた。

 は自分から語って聞かせたら情緒がなくなる――と、明確な回答を避けた大鳥は「偏りや隔たりがない物の見方を評価する人間は決して少なくないでしょう」と述べるのみに留めている。

 帰化したとはいえ両親ともアメリカ人である希更は、遺伝子の領域にいてはバロッサ家の一族と同じ起源ルーツでありながら、生まれ育ったのは熊本県八代市であり、国籍も触れてきた文化も生粋の日本人である。

 それ故、の文化には理解が及ばない希更に対し、キリサメは「両親は共に日本人だが、自分にとっては〝外国〟のこと。それだけに知識としてしか知らず、馴染みもない」といった言葉で寄り添ったのである。

 生まれ育った国と〝血〟の起源ルーツは分けて考えても良い――自らの実感に基づく言葉を紡いだ瞬間から大鳥の物腰が変わったことに当のキリサメは気付いていなかった。


「――サムライの魂を現代いまに受け継ぐ新しきけん、その太刀筋が風と共に奏でる音色が耳を通して心に染み入っていく。いにしえからこんにちまで絶えることのなかった清らかな流れだ。それを受け容れもせず、不協和音とでも言いたげな表情かお……。それとも、いにしえの意味を誰よりる神通に手取り足取り指南を願うのか? そのように不埒な真似は私が命懸けで食い止める。叶わぬ望みと永遠に諦めることだ」


 頭の上をすり抜けるような形で皮肉を放り込んできた相手は、言わずもがな正面の大鳥ではなく別の人間――振り返って確かめるまでもなく、その声がほんあいぜんのものであるとキリサメは即座に理解した。

 二人がトレーニングルームに入って間もなく彼女もやって来たのだから、声の主など迷う理由もあるまい。ガラスの間仕切りによって廊下と隔てられた出入口を背にし、腕組みしたままキリサメただ一人を見据え続けていたのである。

 準備運動ウォーミングアップへ集中しなければならないときに愛染の視線が突き刺さり、その途端にキリサメは気持ちが落ち着かなくなってしまうのだった。

 父親同士が親友であり、幼い頃から親しく交わってきたという哀川神通のことを愛染は溺愛している。おそらくは担当声優に対する現場マネージャーと同じように〝害虫〟が寄り付かないよう見張っているのだろう。

 尤も、その〝害虫〟――キリサメがデビュー戦を迎えるまで既に一時間を切っている。観客席まで足を運び、神通を捜すゆとりなどあろうはずもない。

 まるで魂を分けた〝半身〟の如く互いに共鳴し合う相手であれば、人生の岐路とも呼ぶべき初陣を前にして何かしら得るモノがあるかも知れない。しかし、心に突き刺さって抜けないトゲのような余韻へと手を伸ばすだけで、キリサメは現在いまとは異なる意味で落ち着かなくなってしまうのだ。

 哀川神通――その名前が駆け抜けるたび、スカートがめくれ上がった際に目にしてしまった彼女の真っ白な褌がキリサメの脳裏に甦るのだった。


「アマカザリさんが構わないのでしたら、自分としては見学して頂くことに異存もないのですが、余りにも凝視され続けると少しやりにくいというのはありますね」

「……今、大鳥氏の言い当てたコトが全てですよ。僕もそれを本間氏にお伝えしたい」

「それよりも何よりも、本間さんは『天叢雲アメノムラクモ』の選手である以前にハリウッドでも活躍している音楽家ではありませんか。安全が保障された場所といえども身辺警護ボディーガードを付けずに一人で歩き回っていて大丈夫なのですか?」

「そうだな――私は自分の業績を謙遜するつもりはない。『大したものでもない』と値打ちを低く見積もれば、美徳と引き換えに一緒に創作クリエイティブを練り上げた人たちを否定することになる。から舞台ステージ指揮棒タクトを振るような自己満足を私は仕事とは呼ばない」


 何時までもめ付けられていると気が散ってしまって準備運動ウォーミングアップにならないと本間愛染に訴えるべく二人の会話に割り込もうとするキリサメであったが、身を乗り出した矢先に大鳥の長剣が振り下ろされ、幾つかの抗議を喉の奥に押し戻さざるを得なかった。


「私の記憶が正しければ、バロッサ君の付き人――大鳥君と言ったかな。キミの想像は秋田の誇りであるきりたんぽを岩手の名物と間違えるようなものだよ。バロッサ君にたずねてみると良い。彼女と同じバスに揺られ、車内でカラオケの美声に癒されながら、我々は奥州の本陣まで辿り着いたのだ」

「カラオケとは余裕だな、バロッサさんも……。我々の事務所でも『バロッサ・フリーダム』でも個別の送迎ということは特に主催企業サムライ・アスレチックスと交渉しませんでしたが、本間さんでさえ特別待遇でないというのは意外ですね」

「その言葉の意味を知りたくば、カーテンの向こうに目を凝らすことだな」


 両手でもって長剣を高く掲げつつ、左肩からぶつかっていくような恰好で間合いを詰める大鳥と、縦一文字に閃くであろう刃を左右のてのひらで挟み込まんと身構えたものの、次の瞬間には右側面まで回り込まれ、更には一連の動きの中で太腿に直撃を被ってしまったキリサメ――思わず膝を屈してしまった少年を尻目に窓際まで歩みを進めた愛染は、岩手興行の為だけに取り換えられたのであろう青いカーテンを左から右へと乱暴に引き始めた。

 白いむらくもの中心を諸刃の神剣が垂直に貫くという紋様が大きく刺繍された『天叢雲アメノムラクモ』のカーテンが全開になるとそこには一等大きなガラス窓が現われた。

 陽の光を取り込んで利用者の気持ちまで晴れやかにする構造となっているわけだが、どきということもあって今日は分厚いにびいろの雲に覆われていた。その真価が発揮されるどころか、今にも雨が降り出しそうな空模様なのである。

 トレーニングルームは総合体育館の裏手に面しており、ガラス窓の向こうには岩手興行の為に看板や横断幕で飾られた正面とは真逆の味気ない風景が広がっている。道を挟んだ先の駐車場を眺めても、特別待遇を感じさせるモノはどこにも見当たらなかった。

 自慢の二字を顔面に貼り付けたまま、注目すべきモノがないガラス窓の向こうを指差す愛染に対し、キリサメは斬り上げられた直後の太腿を擦りながら聞こえよがしの溜め息を吐いてみせた。


「ひょっとして本間さんが仰っているのは〝サブエントランス〟の前に停車めてある車輛のことでは? 甚だ残念ですが、その窓からは二台とも死角に入っているはずですよ」

「ほほう? 大鳥君はデキる男の見掛け通り、随分と目端が利くようだな。それだけハリウッドでエージェントも務めると思うぞ」

「仕事柄、心配性は過ぎるくらいで良い塩梅ですからね。ハリウッドの仕事に憧れがないと申せば嘘になりますが、……『ウォースパイト運動』が幅を利かせる近頃のアメリカは自分の小さな手に余りますよ」

「山椒のようなウィットも含めてますます感心させられる。……世界を蝕む忌々しき笛の音が愚者の虚栄ではなく現実の脅威と見極め、きたるべき紅蓮の混沌カオスに備える判断力に我が友の安寧を託すとしよう」

「バロッサさんの場合、どのような危険もムエ・カッチューアの技で蹴り飛ばすと思いますがね。勿論、は本間さんから頂いた言葉を裏切るつもりもありません」


 人差し指でもって示された先には確かに目立つものなど何もないが、手掛かりとしては十分であったようで、選手たちの送迎に使用されたラッピングバスとは異なる地点に停車められている車輛のことであろうと大鳥は言い当てた。

 彼が口にした〝サブエントランス〟とは、同体育館の裏口のことである。

 『天叢雲アメノムラクモ』の選手たちはファンサービスも兼ねて公式オフィシャル観戦ツアーの〝優待客〟が出迎えの為に待ち構えていた正面から入場したが、例えば地元のプロバスケチームが同体育館にて試合を行う場合にはスポーツ記者ライターに追いかけられないよう裏口サブエントランスを利用するのだ。

 今日はその裏口サブエントランスが二台の車輛によって独占されていた。大鳥が続けた説明によれば、トラックに牽引される形式のトレーラーハウスが出入口に隣接しており、そこから少しばかり離れた地点にもう一台の車輛――マイクロバスが停車められているという。

 どうやら大鳥はスポーツチャンバラの用具を両脇に抱えながらも、自身の担当声優が出場するMMA興行イベントの会場を〝下見〟のときよりも細かく調べていた様子だ。

 格闘技を人権侵害と見做して根絶を目論む『ウォースパイト運動』の活動家たちがアメリカで過激派の一途を辿る状況だけに、その〝同志〟が侵入を試みそうな経路を事前に割り出し、万が一の事態に備えておくよう声優事務所オフィス・アッポジャトゥーラから指示されていたのだろう。

 その『ウォースパイト運動』から執拗に〝抗議〟を受け続けている北米アメリカ最大のMMA団体『NSB』の代表――イズリアル・モニワも臨時視察の為に岩手興行へ訪れている。陸前高田市で邂逅したとき、身辺警護ボディーガードであろうと察せられる男性を伴っていたが、あるいは裏口サブエントランスにて大鳥と遭遇していたのかも知れない。

 二台とも隙間なくカーテンが閉められている為、外から車内の様子を覗き見ることは不可能――と、大鳥は言い添えた。勿論、無断で占拠しているわけではなく、『天叢雲アメノムラクモ』の主催企業も総合体育館の運営者も、どちらも許諾しているはずだ。


「マイクロバスのほうはどこかの〝ロケバス〟と見受けましたが、もう一台のほう――日本ではなかなかお目に掛かれないほど大きなトレーラーハウスは、おそらく『かいおう』の待機場所でしょう」


 『天叢雲アメノムラクモ』どころか、〝格闘競技〟そのものに対する勉強が未だに捗っていない新人選手も『かいおう』の称号を持つMMA選手のことは記憶に深く刻まれていた。意識しておぼえなくとも脳に刷り込まれるような頻度でその称号を耳にしてきたのだ。

 ゴーザフォス・シーグルズルソン――キリサメが主催企業サムライ・アスレチックスと〝プロ〟のMMA選手として契約を取り交わした日にも、誰もが『天叢雲アメノムラクモ』が誇る絶対王者の名前を口にしていたのである。

 「ひょっとすると、アイスランドから運んできた車輛くるまかも知れませんよ」と、大鳥もくだんのトレーラーハウスに対する印象と絡めて言及したが、その男は北欧の島国に生をけ、ヴァイキングの時代を発祥とする『グリマ』という格闘技を極めていた。

 グリマ自体は同国アイスランドのレスリング競技としてルールも整備され、こんにちにはスポーツの形で親しまれているが、に対して『かいおう』が極めたのはヴァイキングの進撃を現代に伝えるモノ――即ち、キリサメの喧嘩殺法や哀川神通の古武術と同じように〝敵〟を斃す為、一〇〇〇年に亘って研ぎ澄まされてきた技であるという。

 二〇〇〇年代に隆盛を極めた前身団体バイオスピリッツの頃からヴァイキングの奥義をもってして日本MMAに君臨し続ける『かいおう』は、家族に不幸があった為に前回の長野興行を含む二大会を欠場していた。

 黄金時代以来のMMAファンは言うに及ばず、その首級くびを狙う新時代の花形スーパースター――レオニダス・ドス・サントス・タファレルなど、誰もが彼の帰還を待ち望んでいた。つまるところ、キリサメのデビュー戦などは〝前座〟に過ぎず、『かいおう』の完全復活こそが岩手興行の〝目玉メインイベント〟なのだ。

 それにも関わらず、当のキリサメは総合体育館のどこにもを見掛けることがなかった。インターネットに接続アクセスできる環境を持たないキリサメは、自身が所蔵するMMA団体の公式サイトすら閲覧したことがなく、絶対王者の顔すら知らないのだが、『かいおう』と畏怖されるような佇まいは直感で理解わかるはずであった。

 総合体育館の選手控室に案内されるのではなく、王者専用の待機場所まで用意されるのだから、まさしく〝特別待遇〟と言い表すことこそ相応しかろう。トレーニングルームのガラス窓からは屋根の端すら見つけられないトレーラーハウスは、おそらく大掛かりな改造が施されており、内部も準備運動ウォーミングアップに適した環境が整っているのであろう。


「……僕はお二人のように語彙ボキャブラリーが豊かではありませんので、気の利いた言い回しが思い浮かばないのですが、その車輛くるまはさしずめ玉座といったところでしょうか」


 王者と畏敬される地位にる選手は、試合会場にトレーラーハウスで乗り付けることまで許されてしまうわけだ。『かいおう』不在の『天叢雲アメノムラクモ』も大いに盛り上げたレオニダスは、その玉座を野心が煌めく双眸で睨んでいるそうだが、即物的な特権を挟んだことで貪欲な向上心の原動力がキリサメにも少しだけ理解できた。

 その夢に人生を懸けているといっても過言ではない親友――空閑電知には「そういう発想が金儲けのイベントそのまんまなんだよなぁ~」と怒られてしまいそうだが、〝世界最強〟という余りにも掴みどころのない志と比べて〝現実〟の質感を伴っているのだ。


(何もかも仲良しこよしで済むハズないもんな。這い上がった先にメリットがなければ、張り合いだってないんだろうし……)


 東北復興支援を掲げて旗揚げしたMMA団体だけに岳は〝格〟の上下を競う弱肉強食の状況より調和こそ強く打ち出すべきであると主張していた。従来の格闘技団体では王者タイトルホルダーやベテランなど〝上位者〟を赤コーナーに、これに挑戦する側を青コーナーにそれぞれ分かれているのだが、『天叢雲アメノムラクモ』は統括本部長の思いを酌んで〝通例〟を外し、イメージカラーである白青二色を採用したのだ。

 両コーナーや指貫オープンフィンガーグローブの色分けに東北の被災地で仰いだ青空と雲を取り入れ、また開催先の地域振興にも注力するなどには旗振り役である岳の意見が隅々まで行き届いているのだが、『かいおう』が享受するような特権を巡る序列はついに選手たちの意識から消せなかったようである。

 その岳も大いに嘆いているのだが、かつて樋口郁郎が編集長を務めた格闘技雑誌パンチアウト・マガジンでは選手たちに〝格〟の上下を設定して対抗意識を煽るような人気投票も実施されていた。弱肉強食が絶え間なく繰り返されるよう〝暴君〟が意図的に仕向けているわけだ。

 デビュー戦の当日を迎えながらも、未だに『天叢雲アメノムラクモ』に対する理解の度合いが十分とは言い難い新人選手ルーキーが認識できていないだけで、故郷ペルーを彷彿とさせる絶望的な格差社会がMMAのリングにも横たわっているのだろう。

 養父である岳もマネジメント担当の麦泉も、『天叢雲アメノムラクモ』のマニュアルを作成した未稲さえも、初陣を飾っていない内からMMA団体のに触れさせることを憚り、えて伏せていたようである。

 故郷ペルーには各地に数え切れないほどの非合法街区バリアーダスが点在しており、貧困層と富裕層の居住区が万里の長城の如き壁で隔絶された場所もある。人々から『恥の壁』と忌々しげに呼ばれているのだが、絶対王者の特権を許された『かいおう』は、自分や幼馴染みのが見上げた〝向こう側〟で自由を謳歌する存在なのだ。


「我が愛しき神通に野獣の鼻息を向けることからも明らかではあったが、初めて出逢ったときよりも欲得の原理が大きく膨らんでいるようだ。あの日と同じ警告を再び繰り返すのは手遅れであろうか? 玉座に触れんと伸ばした手はキミにも、キミの周りにいる全ての人々にも破滅を招くのだ。ひきアイガイオン――同じ目をした哀れなる先駆者の名、そこに秘められし教訓までもキミにはついに届かなかったか」

「……〝MMAのアイガイオン〟と呼ばれたことも、事あるごとに想い出していますよ。僕は一般論というか、一つの例えとして玉座という言い回しを使っただけで……」

「そもそも現在いまのキミに戴冠を幻想できるのか? 勇者の剣に学ぼうともせず膝を屈していてはきざはしの頂点を仰ぐこともできまい。ここから見えぬ『かいおう』の玉座は何とも示唆に富んでいる。巨人の影を踏むことさえ叶わぬこの距離こそ現在いまのキミだ」

「カーテンを開いたら何もなかったという失態を上手い具合に誤魔化されている気もしますが、……本間氏のご指摘は痛いくらい身に染みています」


 柔らかい剣で打たれているだけなので、体感的には痛くない――愛染から窘められたキリサメは、玉座の二字を誤解されてしまったこともあって彼にしては珍しく諧謔ユーモア返答こたえに代えたが、「痛いくらい身に染みています」という一言こそが本音である。

 勇者の剣――即ち、大鳥聡起が振るう『エアーソフト剣』に圧倒され続けているのだ。

 ゴム製の筒を空気で膨らませた刀身は、その剣先も丸みを帯びている。競技中の事故を防ぐ安全性を満たしているのだが、剣道あるいは大鳥自身が極めた西洋剣術にける刺突つきの威力は殆ど発揮できない構造でもあるわけだ。

 それにも関わらず、キリサメは左胸を狙って繰り出された『エアーソフト剣』の刺突つきに対して、故郷ペルー非合法街区バリアーダスで突き付けられたナイフと同等の恐怖を感じていた。

 『タイガー・モリ式の剣道』を受け継ぐ瀬古谷寅之助も刺突を得意としており、竹刀を左手一本に持ち替え、同じ側に半身を開きつつ僅かに前傾姿勢となって繰り出す『片手突き』を森寅雄の奥義と称している。

 寅之助の刺突つきはやさを要とし、相手との間合いも鋭く詰める瞬殺の技である。これに対して大鳥の場合は自身が握る剣の長さを生かし、刀身そのもので相対した人間の距離感を狂わせるものであった。

 愛染から戒めの言葉を受ける間際、キリサメは右腋から入って左肩まで斜線を描くようにして斬り上げんとした長剣を右拳でもって弾き飛ばしたのだが、その直後には眼前に剣先を突き付けられてしまい、反撃に転じることができなかった。

 少しばかり腕を突き出すだけでも剣先が相手に届くという長剣の利点を生かした大鳥によって、間合いそのものを潰されてしまった次第である。そこで味わわされた恐怖は、寅之助の刺突とも異なっていた。

 左方に跳ねてかわすキリサメであったが、追撃に転じた大鳥は刀身を垂直に立て、彼に追い付くなりその首筋へと刃先を押し当てた。

 『聖剣エクセルシス』は鋭く研いだ石や鉄片を木の板に重ねて固定し、ノコギリのように繰り出す原始的な刀剣である。結局は不発のまま決着を迎えたが、キリサメも寅之助と闘った際には無数の刃を一気に引き抜き、頸動脈から骨肉に至るまで惨たらしく抉ろうとしたのだ。

 自身の技と同じ原理と見抜いたからこそ、キリサメの背筋に冷たい戦慄が駆け抜けたのである。大鳥は刀身に全体重を掛け、致命傷を負わせようとしているわけだ。

 大鳥は幼馴染みである筑摩依枝と余り身長が変わらないことを随分と気にしていたが、現在いまのキリサメには巨人のようにしかえなかった。力と体重を刀身に乗せて確実に押し切らんとする太刀筋は、尋常ではない威圧感を宿しているのだ。


「今、ふと知的欲求をくすぐられたのだが、アイスランドの剣術はやはり、『かいおう』のグリマ同様にヴァイキングが伝えた様式なのだろうか。それともルーンによって導かれる神話の名残なのか。神剣グラムの閃光ひかりマンを感じないといえば嘘になる」

「それはゴーザフォス・シーグルズルソン本人に質問してください。同じ北欧でも自分の場合はフィンランドの騎士くらいしか知りませんしね。……いえ、ひとづてに聞いただけで対して詳しくもありませんが……」


 キリサメと電知、未稲と上下屋敷が友情を育んだように、本間愛染もまた団体間に横たわる対立を超え、『E・Gイラプション・ゲーム』に所属する哀川神通を溺愛している。岩手県へ移動する際にも彼女を愛車の助手席に乗せ、同じ部屋にも宿泊していた。

 その神通が仮眠を取っている間に宿所から居なくなった為、愛染は近隣の宿泊施設を片端から訪ね歩いてキリサメたちと歓談している場所まで辿り着いたのだが、そこには希更に随行する形で大鳥も同席していたのである。

 そのときに両者は社交辞令ながら挨拶と共に名刺も交換し合っていた。

 自信の職業とは直接的には関係がない為か、大鳥も西洋剣術を体得していることは明かさなかった。つまり、愛染は予備知識もないまま背広の裾を靡かせる剣の舞いを目の当たりにしたわけだ。

 あるいはスポーツチャンバラの競技者と誤解している可能性も高い。いずれにせよ、大鳥聡起という声優事務所のマネージャーが比類なき剣士であった事実ことを愛染は完全に見定めた様子である。

 仕切り直しの為に両者が足を止めたときにはキリサメ一人へ穏やかとは言い難い視線をぶつける一方、模擬戦スパーリングの攻防が始まろうものなら大鳥の剣技を見逃すまいと、比喩でなく本当に前のめりとなるのだった。

 時おり拍手と共に「サムラーイッ!」という奇声を発しているが、これらはいずれも大鳥に向けられた賞賛である。

 キリサメのことは一度たりとも褒めようとしなかった。これが恋敵同然の相手に対する意地悪ではなく、冷静な分析に基づいた事実であるとキリサメ自身が理解していた。

 亡き母は同じ非合法街区バリアーダスで暮らす住民にドッジボールを教え広めたのだが、そのコートにただ一人だけ残ってしまったことがあった。四方八方から自分を狙ってくるボールを延々と避け続けたときのことを想い出してしまう状況に立たされているわけだ。反撃に出ることさえままならない点も同様である。


(あのときはも遊びに来ていたんだよな、こっちの非合法街区バリアーダスに。……今もどこかで僕のことを笑い飛ばしていそうだな……)


 首筋に長剣の刃先を押し当ててくる大鳥とは互いの吐息を感じるほど密着している。大きな踏み込みと共に全身を捻り、螺旋の如き運動によって生じた全ての〝力〟を拳の先まで伝達させて一気に解き放つ切り札――コークスクリューフックを仕掛けることは言うに及ばず、蹴りでもって金的を潰すのも難しいのだ。

 咄嗟に後方へと跳ね飛び、危機的状況からの緊急離脱を試みるキリサメであったが、これを大鳥が見逃すはずもあるまい。キリサメの足が再び地面を踏む前に剣先が左胸を捉えた。

 スポーツチャンバラは全身のどこであろうとも『エアーソフト剣』を命中させることさえできれば〝一本〟――即ち、勝利と判定される。これが模擬戦スパーリングでもなく〝ほんもの〟の剣を用いる〝実戦〟であったなら、既に数え切れないくらい致命傷を受けていた。

 例えば太腿を斬られたときには、切断こそ免れたとしても動脈が傷付けられたはずだ。

 格差社会の最底辺を共に生きてきた・ルデヤ・ハビエル・キタバタケと背中を預け合ってギャング団を迎え撃った際、自分に襲い掛かってきた者の太腿を得意のナイフで突き刺し、確実に仕留める姿をキリサメは幾度も見ている。そのときの記憶までもが呼び起こされ、思考を超えた反射として『エアーソフト剣』に回避行動を取っていた。

 幼馴染みの少女と故郷ペルーの裏路地で〝暴力〟を頼りとしていた頃の感覚が生々しく甦り、これに取りかれて反射的に目突きを繰り出してしまうようなことがなかったのは、実際に肉体からだに接触するのがであるからに他ならない。

 命中させられた側にも心地好く聞こえる軽妙な音と、痛みのない斬撃によってキリサメの意識は攻防のたび故郷ペルーの〝闇〟に囚われる寸前で〝現実〟へと引き戻されたのである。


(剣の振り方なんて誰かに教わったコトもないし、そもそも『聖剣アレ』だって剣のつもりで使ってないんだから、……おくれを感じること自体が傲慢なんだけどな)


 禍々しいノコギリに見える『聖剣エクセルシス』も、両の五指にて握り締める長大な剣である。

 望むと望まざると切り離せない〝相棒〟であり、『七月の動乱』を始めとする反政府組織との戦いも潜り抜けたのだ。前の持ち主からキリサメの手に渡って以来、故郷ペルーでは片時も離さずにいたのだが、それでも大鳥のように完成された剣技には辿り着けなかった。

 本来、大鳥聡起は騎士が用いた武具の中でも両手剣ツヴァイハンダーと呼ばれる長大な物を得意としているという。形状・機能とも異なってはいるものの、同系統の剣を用いる人間から長さを生かし切るような剣技を突き付けられたからこそ、寅之助の竹刀と斬り結んだときよりも衝撃の度合いが大きいのである。

 模擬戦スパーリングを始める前、これから披露するのはスポーツチャンバラの真似事であって『西洋剣術』ではないと大鳥は強調していたが、一撃一撃に両手剣ツヴァイハンダーの術理が行き届いているのは間違いあるまい。

 鎧姿のまま秋葉原の市街地をも闊歩してしまえる筑摩依枝は言うに及ばず、目の前でスポーツチャンバラの長剣を振るう男もまた中世の合戦場からやって来たようにしか思えなかった。その筑摩が熱心に甲冑格闘技アーマードバトルの活動へ引き込もうとする理由もキリサメは初めて得心できたのだった。

 大鳥聡起は背広ではなく騎士の甲冑こそ似つかわしい人間であった。寅之助も彼と『西洋剣術』に強い関心を寄せていたが、本来の得物である両手剣ツヴァイハンダーを握れば『タイガー・モリ式の剣道』でさえ苦戦は免れないはずだ。


くらい瞳に今は迷いの影が見て取れるぞ。ひきアイガイオンとは違うことを証明する前に己のうちから響く声によって起こすべき風を黒く染められてしまいそうだ。大鳥君の剣で雑念を斬って貰いなさい」

「……今、まさに斬り捨てられたところですよ」


 長野の地方プロレス『まつしろピラミッドプロレス』の花形レスラーである赤備人間カリガネイダーを通じて体得した養父譲りの技――プロレス式の後ろ回し蹴りソバットを仕掛けるキリサメであったが、大鳥は己の身に蹴り足が触れるか否かという一瞬を見極め、垂直に跳ね飛ぶことでかわし切り、そのまま長剣を振りかぶった。

 跳躍の頂点より落下の勢いを乗せ、反撃の縦一文字を振り下ろしていった――が、キリサメの脳天で甲高い音が鳴り響くことはなかった。天井近くから吹き降ろした風が少しばかり前髪を揺らした程度である。

 得物の長さまで剣技として生かし切る大鳥が狙いを誤るはずもない。自身がプロレス式の後ろ回し蹴りソバットかわしたときのように刀身が触れるか否かという僅かな一点を見極め、えて外したのである。握り締めていたのが〝ほんもの〟の両手剣ツヴァイハンダーであり、中世の合戦場の如き〝実戦〟であったなら、キリサメは間違いなく脳天から真っ二つにされていたはずだ。

 本気でキリサメを仕留めるつもりであったなら、反撃も恐れずに飛び込んでいける胆力の持ち主ということは、ここまでの攻防からも明らかである。

 肉体からだが温まった代わりに肝が冷えて仕方ない――もはや、呆然と立ち尽くすしかないキリサメは、筒状の刀身に注入された空気の残量を確かめている大鳥に先程と同じ言葉を繰り返した。

 まだ十分に使える長剣を大鳥が構え直した直後、トレーニングルームの天井に何とも珍妙な音が跳ね返った。反射的に飛び退すさって事なきを得たキリサメが「花粉症ですか」と小首を傾げた通り、口と鼻で空気を破裂させたのは大鳥であった。

 次いで大鳥は鼻水も軽くすすったのだが、つまりは彼のくしゃみが室内に響き渡った次第である。キリサメが顔面に唾を浴びるよりも早く逃れられたのは、むず痒そうに鼻と口を歪めるさまを正面から捉えた為だ。


「……オーバーワークは本末転倒ですし、この辺りにしておきましょう」


 さしもの大鳥も白目を剥くかのような顔を晒したことが照れ臭くてならないのか、喉の調子を整える咳払いを一つ挟んだのち、表情を引き締めて一礼すると、あらかじめ用意しておいたハンドタオルとスポーツドリンクをキリサメに手渡した。

 それが模擬戦スパーリングひいては準備運動ウォーミングアップの終了を告げる合図であった。

 くしゃみの前後、総合体育館の別の場所で自分のことが話題になっているとは、大鳥本人には想像もつかなかった。丁度、彼の幼馴染みである筑摩依枝に「今日は別のコが独占状態」と寅之助が皮肉を交えて話した頃であるが、は決して偶然ではあるまい。



                     *



 二棟のアリーナが並立する大きな運動施設とはいえ、限定された空間内で起こる出来事は、たちまち隅々まで知れ渡るものだ。メインアリーナに設置された〝大会本部〟から一歩も動くことのできない師匠――今福ナオリから正面玄関エントランスの状況をたずねるメッセージが未稲の携帯電話スマホに届いたのは、一五時四〇分のことである。

 個人間でやり取りを行うチャット・アプリを起動させた未稲は、開会式オープニングセレモニーの直前に要らざる混乱を招かないよう地下格闘技アンダーグラウンド団体『E・Gイラプション・ゲーム』のことは伏せつつ、更なる問題には発展しないだろうと師匠に報告した。

 自身の側から送信したメッセージを相手が確認したことを示す「既読」の二字がアプリの画面に表れた直後、未稲の脳裏に閃くものがあった。


「――そういえば今日、こまさんは来てないんだ。依枝さん、あの一件以来、仲良くしているんですよね? 斯く言う私もになっているんですけど……」


 未稲が声を落として筑摩に同行の有無を尋ねた「駒由さん」とは、秋葉原の市街地で繰り広げられた〝げきけんこうぎょう〟に遭遇した野次馬の一人――とちないこまである。

 公式オフィシャル観戦ツアーの一部参加者と状況は似通っているのだが、彼女の場合はキリサメと寅之助の斬り合いへ直接的に巻き込まれてしまい、事件の進行に伴って野次馬から当事者へと立場が変わっていったのだ。

 その日、彼女は秋葉原駅に程近い場所でアコースティックギターを奏でていた。元々はインディーズシーンで活動するストリートミュージシャンであり、アニメソングを披露している最中に〝げきけんこうぎょう〟を目の当たりにした次第である。

 キリサメが故郷ペルーにて振り回していた中米マヤ・アステカ刀剣マクアフティル――ノコギリの如き『聖剣エクセルシス』と、『タイガー・モリ式の剣道』による激闘が一応の決着を迎えた後、警察に捕まるまいと『八雲道場』が懇意にしている整形外科医院まで当事者一同と共に逃げ遂せたのだ。

 同じ日の秋葉原では未稲が所属するゲーミングサークルのオフ会も開催されており、インターネット上の実況中継で寅之助の暴走を把握するや否や、上下屋敷と筑摩を伴って二振りの刃が風を薙ぐ場へ急行している。

 偶然の遭遇が一つのきっかけとなり、この栩内駒由とも未稲たちは親しく付き合うようになっていた。

 その栩内が〝三つ目の顔〟として居合わせていないことを不思議に思った未稲は、筑摩に向かって同行していない理由をたずねたのだが、その際に声を落としたのはすぐ近くで寅之助が上下屋敷と話している為であった。

 彼と共に浅草で生まれ育った幼馴染みであるでんも〝げきけんこうぎょう〟という名の暴走を食い止めるべく未稲たちが目指すのと同じ〝場〟に駆けたのだが、そこで顔を合わせた栩内駒由とかつて交際していた事実が明らかになったのである。

 その電知に執着し続けている寅之助は、当然ながら〝元カノ〟にも対抗心を剥き出しにしている。栩内の名前を耳にしただけで正気を失う危険性もあり、だからこそ未稲は耳打ちに近い形で彼女のことを筑摩にたずねたのだ。


「勤め先の上司も私が甲冑格闘技アーマードバトルをやっているコトを知っておりますので、興味があるでしょってチケットを三枚も譲って頂いたのですが、何しろ開催日ギリギリのタイミングでしたから……。連絡を差し上げたときには既に駒由さんも予定が入ってたんですよ」

「そっかぁ~、残念だなぁ。駒由さんとはキリくんの応援歌を作ろうって話していたトコなんですよ。まだ具体的には何も決まっていないんですけどね」


 皆の様子を遠巻きに眺めていたひろたかが姉の言葉を受けて目を丸くしたように、それはまだ公になっていないであった。

 MMA選手に限らず、〝プロ〟の格闘家は各々が主題曲を定め、花道ランウェイから試合場へ進む際にも闘志を高めるべく大音量で流している。チャット・アプリでもって栩内と雑談を楽しんでいるとき、音楽活動に励んでいる彼女も興味を持つであろうと考えた未稲がそれとなく話題にしたのだが、反応は予想を上回るほど強く、キリサメに向けた応援歌を作りたいと提案されたのである。

 これもまた最近のことであり、数日前にも〝次〟の興行イベントまでに仕上げたいと打ち合わせたばかりであった。今日の岩手興行に栩内も足を運んでいたなら、キリサメの試合に刺激を受けて作曲が更に捗ったかも知れない。それ故、未稲には欠席が残念でならなかった。

 雑談から発展した企画ではあるものの、友人間の口約束ではなく『八雲道場』としての正式な依頼である。制作費といった諸々の条件も未稲自身が〝窓口〟となって細かく打ち合わせている。

 キリサメの為に楽曲を提供したいという申し出を未稲が父に相談することもなく即決したのは、『八雲道場』の広報戦略としても有効と判断した為であった。

 栩内駒由は短文つぶやき形式でメッセージを投稿するSNSソーシャルネットワークサービスも運用しているのだが、そこでの人気は侮れないと未稲も認めていた。

 ストリートミュージシャンとして活動していることもあって、彼女が発信する短文つぶやきを閲覧できるよう登録している利用者ユーザーは既に五〇〇〇人を超えている。『天叢雲アメノムラクモ』に所属する〝プロ〟のMMA選手や、人気声優の希更・バロッサと比べれば一〇分の一にも満たないが、情報の拡散力は〝一般人〟としては非常に高いのだ。


(欲を言えばカリスマシングルマザーのたまおきたまセンセーみたいなインフルエンサーだったら最高なんだけど、それはさすがに人生ナメ腐るなってレベルの高望みだしね)


 その栩内がSNSソーシャルネットワークサービスにて新人選手キリサメに対する応援企画を実施してくれたなら、インターネットで晒し物にされたとは思えないほど低いMMAファンの期待値を引き上げられるかも知れない。

 それどころか、彼女のファンを『天叢雲アメノムラクモ』に誘導できる可能性まで生まれるのだ。

 長期的な展望としても、栩内を『八雲道場』の広報戦略に取り込みたかった。あおもりけんひろさきに所在する彼女の実家では津軽三味線の教室を営んでいる。ゆくゆくはとも提携するという筋書きまで未稲は思い描いていた。

 日本を代表するMMA団体の主催企業で広報戦略を担う今福ナオリに師事し、情報戦を勝ち抜くすべを学んできた未稲は、やり過ぎではないかと眉を顰められるくらいでなければ宣伝の効果が見込めないという〝現実〟も熟知しているのだった。


「――職場経由だったのは意外だね。てっきりボクはサトさんが愛しい幼馴染みサンを招き入れたんじゃないかって思ってたよ。担当声優が出場する大会なら席くらい簡単に都合できるって自慢したがる人もいるじゃん?」


 二人の会話に皮肉でもって割り込む寅之助であったが、どうやら栩内駒由の名前は彼の耳に入らなかったようだ。戒めるような眼差しでもってやり返しながらも、未稲は胸を撫で下ろしたい気持ちであった。


「自慢したいのは私のほうですよぉ。サトちゃんは公私混同を絶対に許さないカッコ良い人なんですから。でも、意外に可愛いところもあって――サトちゃんを驚かせたくって、未稲さんには今日のことをナイショにして欲しいって照さんにお願いしたんです。未稲さんからバロッサさんへ、バロッサさんからサトちゃんの耳に入っちゃうかもですし」

「瀬古谷さん一人の口止めだけじゃ効果弱いと思ってはいたんだよなぁ~。そうか~、性悪と恋する乙女の合わせ技一本だったか~。そりゃあ、私のほうにネタバレ的な情報なんか一個も回ってこないわけだ~っ」

「おいおい、待てって! 話をまとめんなっての! おれは寅を通じて『八雲道場』に話を通しとくっつったろ。それがスジだってよ。結局、話通ってなかったんだけどな!」


 譲り受けた岩手興行のチケットは三枚――誘って応じそうな人間を考えたとき、真っ先に思い浮かんだのが上下屋敷照と栩内駒由であったという。後者の同行は叶わなかったものの、二人ともキリサメと面識がある為、筑摩にとっては極めて妥当な人選である。

 無論、未稲からすれば上下屋敷を岩手興行に誘うという選択肢は危うさと紙一重であるのだが、『天叢雲アメノムラクモ』と『E・Gイラプション・ゲーム』の対立関係を誰もが承知しているわけではなく、その判断を筑摩には求められまい。

 尤も、上下屋敷と同じ地下格闘技アンダーグラウンド団体に所属する選手が観戦に訪れると事前に把握しながら、未稲もを黙認する形となっている。それ故に彼女は問題がないことを梨冨に目配せで伝えたとき、苦笑いを浮かべてしまったのである。

 梨冨もまた得心を表すようにして頷き返した。ここに至るまでの賑々しい会話に耳を傾けながら彼女たちの関係を分析し、例え『E・Gイラプション・ゲーム』の一員メンバーであろうとも正面玄関エントランスで未稲と掴み合うような事態には陥らないと認めたわけだ。

 敵愾心の応酬にならないからこそ、車輪のハンドルを握る五指の力も緩めたのである。

 不安そうに成り行きを見守っていた他のスタッフたちにも梨冨は懸念する事態には発展しないだろうと伝え、それぞれの持ち場に戻るよう指示していった。自分も間もなく本来の役割に戻ると告げたのだが、これについては未稲たちの応対を続けて欲しいと逆に促されてしまった。

 万が一の場合に備えて『E・Gイラプション・ゲーム』の選手に対する警戒を解かないことも必要なのであろうが、『天叢雲アメノムラクモ』のシャツをスタッフたちは、寧ろ友人との交流を邪魔しないよう配慮した様子である。

 あくまでも梨冨は人材派遣会社に籍を置く〝外部〟の人間であるが、スタッフパスには一つのフロアを統括する肩書きが添えられている。スタッフたちから全幅の信頼を寄せられるほど同団体の興行イベントに長く関わり続けている証左とも言えよう。

 自身が通信制で学んでいるまきしょうぎょう高校の卒業生でもある為、未稲は梨冨のこともパイセンという敬称を付けて呼んでいるのだが、その関係性は『天叢雲アメノムラクモ』旗揚げの頃からこんにちまで長い時間を共有しながら育んできたものに他ならない。


「MMA以外にも地下格闘技おれたち甲冑格闘技アーマードバトルに長野の地方ローカルレスラーと、未稲ってあちこちと繋がり持ってるよな。部屋に引き籠もってネトゲ三昧の割に社交的っつうかよ。サークルのオフ会でも初めて顔合わせる連中メンバーと積極的に話してたし」

「他に言い方なかったの⁉ 直接、顔を突き合わせなきゃ交流コミュニケーションにならないっていう考えがもう古いんだよなぁ~。照ちゃんトコ、『とりじゅつ』の道場やってるんでしょ? そういう感覚も現代に更新アップデートしていかないと人が寄り付かなくなっちゃうよ~」

トイメン云々までは言ってねーだろっ。日常生活に支障が出るレベルでネトゲやりながら、交流コミュニケーション能力ちからを磨いてるってトコを感心してんだよ」

「褒められてるんだか、鼻で笑われてるんだか分かんないけど、ブッ壊れた生活リズムをツッコまれると言い返せないなぁ~」


 未稲と上下屋敷は軽口を叩き合っているが、それもまた信頼関係の顕れであろう。梨冨の言葉を受け止めたスタッフたちも得心した面持ちで二人の脇をすり抜けていった。

 上下屋敷の指摘にも梨冨は首を頷かせていた。未稲当人には愉快と言い難いのかも知れないが、蟠りすら超えて誰とでも絆を育んでしまえる八雲岳の〝血〟をそこに強く感じるのだ。八雲のおやは方法が異なるだけで交流コミュニケーション能力ちからは〝同質〟というわけであった。


「駒由さんがいない理由はこれで分かったけどさ、……ちなみに照ちゃん、神通さんとは別行動なの?」


 現代に再現された中世ヨーロッパの武具に興味を惹かれた様子の梨冨へ自身の逆三角盾ヒーターシールドを手渡し、甲冑格闘技アーマードバトルについて説明している筑摩の横顔を一瞥したのち、未稲は哀川神通の動向を共通の友人である上下屋敷にたずねた。

 南北朝時代――日本にける中世の頃から歴史を積み重ねてきた古武術の奥義を合戦なき現代でも錆び付かせない為、哀川神通は〝実戦〟に最も近い環境として地下格闘技アンダーグラウンド団体に身を投じている。

 ペルーの貧民街スラムで編み出された喧嘩殺法と、日本の鎧武者が乱世の合戦場にて生み出した〝戦場武術〟という違いこそあれども、しょうとくたいの異称を冠する流派の宗家はキリサメに一人の武術家として共鳴している。だからこそ、彼の初陣プロデビューを見届けるべく奥州市まで駆け付けたのだ。

 父親同士が親友ということもあって古くから親交のあるほんあいぜんと共に現地へ入った神通は、キリサメのデビュー戦を『E・Gイラプション・ゲーム』に関わる人々と一緒に観戦するという。それはつまり、『天叢雲アメノムラクモ』と敵対関係にある地下格闘技アンダーグラウンド団体が岩手興行に潜入しているという意味でもある。

 公式オフィシャル観戦ツアーの参加者に『E・Gイラプション・ゲーム』と関わりの深い名前があれば、主催企業サムライ・アスレチックスの誰かが気付いたことであろうが、麦泉から地下格闘技団体の暴発に警戒するよう注意を促されてもいなかった。間違いなく〝一般客〟としての入場であろう。あるいは既に観客席へ腰掛けているのかも知れない。

 依然として梨冨は筑摩と甲冑格闘技アーマードバトルについて話し込んでいた。幅広の両刃剣ブロードソードを借り、その感触を味わうように右の五指でツカを握り締めている。

 地下格闘技団体の一員メンバーが『ウォースパイト運動』の活動家のような暴挙を仕出かすのではないかと警戒し、梨冨は統括本部長の娘を呼び寄せていた。現在いまは彼女の想定より深刻な状況と言えなくもないわけだが、余計な不安を与えない為にも『E・Gイラプション・ゲーム』が群れを成してやって来たことを未稲はえて伝えなかった。

 格闘技そのものを邪悪な人権侵害として憎み、その根絶を訴える『ウォースパイト運動』のようにMMAの試合場へ火炎瓶を放り込むような事態も有り得ないのである。

 何よりもはあくまで『天叢雲アメノムラクモ』と『E・Gイラプション・ゲーム』の間に横たわる問題なのだ。梨冨が所属する人材派遣会社を巻き込むわけにもいかなかった。


甲冑格闘技アーマードバトルのコトは照ちゃんだって知ってるんだし、きっと説得にも手を貸してくれるハズ――だいぶ前倒しになったけど、今こそ新しい可能性を開くときだよ、神通さんっ)


 『天叢雲アメノムラクモ』統括本部長の娘にはあるまじきことであろうが、この状況を未稲は好都合と捉えていた。

 武器術をも併用する中世発祥の古武術――『しょうおうりゅう』の宗家であり、その肩書きに見合うだけの戦闘能力を秘めた神通は甲冑格闘技アーマードバトルとの適正が極めて高い。同競技の普及を推し進める可能性を秘めた逸材を筑摩依枝に推薦するつもりであった。その好機チャンスが想定よりも早く巡ってきたわけである。

 哀川神通ひいては『しょうおうりゅう』のことを聞けば、筑摩は開会式オープニングセレモニー直前ということさえ忘れて即座に勧誘スカウトへ動くはずだ。そのときには未稲も引き留めることなく同行し、二人掛かりで説得を試みようと考えている。

 血塗られた手に握り締めたモノは〝暴力〟などではなく、格差社会の最下層を生き延びる為のすべであったことを証明しようと未稲と誓い合い、キリサメがMMAのリングへ飛び込んでいった。

 それと同じように哀川神通と『しょうおうりゅう』も甲冑格闘技アーマードバトルでこそ〝真の力〟を解き放てるのかも知れない――そのさまを想像しただけで未稲の魂が沸騰するのは、やはり全身の隅々まで行き渡る〝血〟の為であろう。


「はぁ? 神通のヤツ、『E・Gイラプション・ゲーム』の面々が岩手こっちに来るコトまで話したのかよ。……おれが言うのも妙なハナシだけどよ、連中を会場から締め出そうってのはやめといたほうが良いぜ。仲間を見逃してくれっつうワケじゃなくてよ、客の前で乱闘騒ぎはさすがにマズいだろ。『E・Gおれたち』も『天叢雲おめーら』も共倒れになるぜ。どっちも団体としゃおしまいだ」

「冷戦の真似事がしたいんじゃないって。神通さんにちょっと用事があるんだよね」


 宿泊先の展望カフェに神通を招いて大いに語らったという昨日の経緯をかいつまんで説明された上下屋敷は、「アイツとはチャット・アプリどころか、メールもできねーから、そういう情報が神通から入ってこねーんだよ」と苦笑交じりに頬を掻いた。

 電子機器全般が不得手であり、インターネットにも善からぬ感情を抱いている様子の神通は携帯電話を所持していない。だからこそ二〇一四年六月になった現在いまもテレカをコレクションではなく実用品として重宝しているのだ。それはつまり、電子メールなどを利用して友人たちと気軽に連絡を取り合えないということでもある。


「言ってみりゃ寅の職場を見学しに行くみてーなモンだろ? おれも最初は乗り気じゃなかったんだよ。だから、神通たちの集団グループにも連絡してねーし、あくまで個人的に来たってカタチなんだ。……空閑から頼まれ事まで押し付けられちまったしな」


 〝頼まれ事〟と口にしながら上下屋敷はオーバーオールのポケットから一つの〝小物〟を取り出し、これを未稲の眼前にかざしてみせた。

 甲冑格闘技アーマードバトルを担い得る有力候補として一秒でも早く神通のことを筑摩に伝えたかった未稲は焦れったくて地団駄を踏みそうになってしまったが、差し出された〝小物〟には丸メガネが鼻から滑り落ちるような勢いで釘付けとなった。


「空閑の野郎からアマカザリへの預かりモンだぜ。試合前に渡してやってくれ」

「電ちゃんがサメちゃんに?」


 丸メガネを掛け直そうとする未稲を些か乱暴に押しのけた寅之助が「どこかで見たコトあるよ、コレ」と指差しつつ見据えたのは、錦の布になんてんの赤い実が刺繍された小さな守り袋であった。


「大工の仕事が忙しくて岩手こっちまで来れねーってのは知ってたからよ、アマカザリに伝言メッセージはあるのかって一応、空閑にもいてやったんだよ。そしたら、あの野郎、おれんの最寄り駅に朝イチでを持ってきやがってな」

「それ、初耳だなぁ~。今朝だって電ちゃんにチャット・アプリでおはようメッセージを送信おくったのにボクには返信すらなかったよ」

「そもそもメッセージに気付いてねーんじゃねぇか? 出発までに間に合うよう日の出前に浅草のナントカっつう神社に頼み込んでを調達してきたらしいぜ。……空閑の野郎、心の底からアマカザリに惚れ込んでいやがるんだな」


 寅之助におぼえがあったのは当然と言えよう。彼や電知が生まれ育った浅草のる神社で授けられている守り袋なのだ。

 そこに祀られた武神の加護を東京から遠く離れた奥州で戦うキリサメに届けるべく、電知は朝日も昇り切らないふつぎょうから自転車ママチャリを駆ったのであろう。平安・鎌倉時代まで遡るのだが、関東を拠点としたげんの軍勢が奥州へ攻め上らんとした際に戦勝祈願を執り行ったと、くだんの神社には言い伝えられている。

 平安中期の『ぜんねんさんねんえき』と、おうしゅうふじわらが滅亡した『おうしゅうかっせん』を指すのであろう。鎌倉幕府初代将軍・みなもとのよりともも武門を守護まもりし神として篤く帰依したという。

 その社務所で授けられている守り袋には赤い実の南天が刺繍されているのだが、もまた武士の間では永く好まれてきた。〝しょう〟――即ち、武勇の誉れを同じ読み方をするしょうに託したのと同じように、南天に対して「難を転じる」という武運の願いを込めてきたのである。

 人生を左右するほどの大一番を迎えようとしている親友の為、遠い東京で自分に出来ることを一睡もせずに考え続け、〝本業〟を放り出してでも応援に向かうべきか悩み抜き、武神の守り袋を贈ろうと思い立ったそうだ。


「――今時、神仏の加護なんてモンは流行らねぇし、そもそもキリサメはを信じるタイプじゃねぇだろうけど、おれも同じまもりを肌身離さず持ってるからよ。試合中に気持ちで負けそうになったとき、おれも一緒に闘ってるって想い出してくれ! リングにひとりぼっちじゃねぇってよ!」


 浅草に祀られた武神から電知が授かったのはである。これを片手に一つずつ持ち、駅前で落ち合ったという状況ことさえ忘れて上下屋敷を相手に熱弁したそうだ。空閑電知という少年を知る誰もがその場景を容易く思い浮かべることができた。

 キリサメはリングでひとりぼっちではない――熱い激励ことばが示す通り、電知は親友の為の守り袋を上下屋敷に託し、もう一つを己のじゅうどうの内側に縫い付けるという。


「……って、フツー、私の役目のハズなんだけどな……いや、が今日の今日まで一度も思い浮かばない辺り、結局、私の役目じゃないっぽいな……」


 先に持っていた記録用のノートをひろたかに預け、次いで上下屋敷から武神の守り袋を受け取った未稲は、くっつけた両手のひらの上にを乗せると、神妙な面持ちで南天の刺繍を見つめた。

 やがて右手でもって守り袋を覆ったのだが、その際にも神聖な物を取り扱うように極めて慎重な指使いであった。


「……寅の感覚が理解わかんねーのは今更だけどよ、アマカザリには妬かね~のか? 無駄に顔が広い空閑アイツの交友関係の中でも、ここまで気に掛けるヤツなんて他にいねーだろ」

返答こたえカンタンさ。ボクはね、照ちゃんが思ってるよりサメちゃんのことが好きなんだよ。寧ろ、気持ち的にはかもね」

「バカ、てめー。ンなこと聞かされたら、おれのほうがアマカザリに妬いちまうだろが」


 改めてつまびらかとするまでもなく、寅之助に渡すべき武神の守り袋を上下屋敷は預かっていなかった。そのことで彼の心が傷付いたのではないかと案じ、控えめに顔を覗き込んだわけである。誰よりも愛しい少女の気遣いを察したからこそ寅之助はえて冗談を返答に代えたのだった。

 当然ながら傍目には恋人同士が睦み合っているようにしか見えず、左の手のひらに守り袋の〝重み〟を感じている未稲は、神妙な面持ちを崩さないまま心の中で舌打ちした。



                   *



 つい先程まで『スポーツチャンバラ』と同じルールの模擬戦スパーリングが行われていたトレーニングルームでは、二人分の汗の臭いが入り混じっている。キリサメがプロデビューを飾る第一試合に向けた準備運動ウォーミングアップの終了直後には荒い呼吸の音も床に跳ね返っていたのだが、それも徐々に落ち着きつつあった。

 〝ほんもの〟の両手剣ツヴァイハンダーより遥かに軽量とはいえ、『エアーソフト剣』を間断なく振り回し続けたのだから当然であるが、その下の輪郭が鮮明に浮かび上がるくらい大鳥聡起の背広は汗が滲んでいる。

 準備運動ウォーミングアップに付き合ってくれた感謝を込めてその背中にこうべを垂れつつ、心の中で「せめて上着くらい脱いだほうがラクだったろうに」と苦笑交じりに呟いたキリサメは、自分自身で驚くほど冷静であった。

 総合格闘技MMA準備運動ウォーミングアップとしては余りにも変則的な模擬戦スパーリングではあったが、比喩でなく本当に手も足も出ないまま一方的にやられてしまった。その〝現実〟にも恨みや悔しさを感じていない。力量の差を測ることさえ傲慢と思ってしまうほどの完敗は、頭から冷水を浴びせられるのと同様の効果があったわけだ。

 担当声優から解決を託され、秋葉原の〝げきけんこうぎょう〟――即ち、キリサメの不祥事へ乱入した際、寅之助が「森寅雄の奥義」と称して繰り出した左手一本の『片手突き』を素手で掴み、竹刀ごと奪い取っている。今まさに標的へ突き立てられんとしていた竹を組んだ刀身を横から取り上げるという荒業であった。

 真っ向勝負を挑んでも太刀打ちできる見込みはないと、最初から理解わかっていた相手だ。本来の得物でないことを差し引いても、大鳥聡起は実力ちからの半分も出していないだろう。


(――現代のせんじょうを経験してきた男と、中世のいくさで培われた技術を再現する大鳥氏か。何となく似ているって言ったら、また心を閉ざされてしまうんだろうな……)


 国家警察と共闘して壊滅させた故郷ペルーのテロ組織から傭兵として雇われるはずであった日本人男性が不意にキリサメの脳裏を掠めた。黒いニット帽を被ったその男とは、夥しい遺骸を踏み締めながらのだ。

 第三者の乱入によって争う理由が消滅し、強制的に打ち切られたのだが、数年前までフランスの外人部隊エトランジェに所属していたというニット帽の男も〝圧倒的な恐怖〟としか表しようがなかった。

 は足元に転がっている遺骸を盾に代えて『聖剣エクセルシス』を凌ぐという〝戦場〟への適応能力や、片足を壊されながら苦もなく戦闘を継続する精神力の二点のみを指すのではない。

 その戦いは辛うじて生き残ったものの、限界を超えた肉体からだで無理矢理に『聖剣エクセルシス』を振り回したのである。決着を迎えるまで互いの命を削り合っていたなら、最後には猛禽類とりの動きを彷彿とさせる体術に翻弄され、手も足も出ない状態で殺されていたはずだ。

 生と死が鼻先ですれ違う極限状態にいてさえ冗談を飛ばす余裕を失わないニット帽の男は、イラン由来の拳法を体得していた。詳しくたずねようとも思わなかったが、外人部隊エトランジェ時代にフランス軍の近接格闘術も極めたことであろう。

 キリサメが編み出した喧嘩殺法も半ば見切っていたようで、殺傷力こそ頭抜けているものの、動作自体は極めて原始的で、慣れてさえしまえば技を仕掛ける呼吸まで読み取り易い――と改めるべき弱点を一つ一つ並べていた。

 当時は己の人生に必要のない助言を聞き流していたのだが、例えば「長期戦になればなるほど地金を晒す羽目になる」という指摘は、現在いまのキリサメにとって悔恨を挟むほど重い教訓である。


(日本で民間軍事会社PMSCを立ち上げると話していたっけ。もしも、僕の試合をテレビか何かで観る機会があったら、……ポップコーンでも貪りながらボロクソ言うハズだ)


 戦いが終わり、一応の和解を果たしてから彼が帰国するまで行動を共にしたが、おそらくは二度と生きて会うこともないだろう。キリサメも自分から探すつもりはない。


(……自信過剰になっているヒマもないって環境は、きっと恵まれたコトなんだろうな)


 大鳥と同じ年長者ということから何となく想い出してしまった知人の顔を喉の渇きと共にスポーツドリンクで飲み下したキリサメは、次いでカーテンが開かれたままのガラス窓へと目を転じた。

 奥州の空は依然として分厚い雲に覆われているが、今はほんの少しだけ晴れ間が覗いている。キリサメは己の心をに映していた。


「そろそろ『こんごうりき』は第一試合のゴングが鳴る頃合いですね。向こうのほうが一時間ほど開始スタートが早かったと記憶していますよ」


 そういって大鳥が覗き込んだ腕時計の針は、一五時四〇分に差し掛かろうとしていた。

 次いでワイシャツの襟を緩め、首に纏わり付いた汗粒をスポーツタオルで拭っていく大鳥が口にした『こんごうりき』とは、日本を代表する打撃系立ち技格闘技団体の名称である。

 二〇一一年に深刻な経営不振に陥りながらも、世界中のスポーツ関連事業に投資するシンガポールのファンド会社から資金注入を受けて態勢を立て直し、こんにちまで途絶えることなく興行イベントを継続している。一度は衰退し切った日本MMAとは異なり、解散の危機を乗り越えたのである。

 欧州ヨーロッパで最大の規模を誇る『ランズエンド・サーガ』よりも同競技の団体としては歴史が古く、所属選手たちも「日本の格闘技界を背負ってきた」と自負していた。

 サバキ系の空手道場『くうかん』で全日本選手権三連覇を成し遂げた日本最強の空手家にして、未だ全国の支部道場に蔓延り続ける精神論の根絶といった組織改革を推し進める教来石沙門も今日からその仲間に加わるのだ。


「ひょっとすると、僕の試合直前に沙門氏から勝利報告の電話が入るかも知れませんね」


 大鳥の言わんとしていることはキリサメにもすぐさまに察せられた。寧ろ、以外の理由で『こんごうりき』の試合開始時刻に言及などしないだろう。

 首都圏と東北で会場こそ遠く離れているものの、『こんごうりき』の競技統括プロデューサーと『天叢雲アメノムラクモ』の統括本部長――即ち、日本格闘技界を牽引する二人の最重要人物キーパーソンの息子が同日にプロデビューを迎えるということが格闘技雑誌パンチアウト・マガジンや関連するネットニュースにて大々的に喧伝されていた。

 『こんごうりき』の教来石袈裟友が現役の頃から『天叢雲アメノムラクモ』の八雲岳を好敵手ライバルとして意識していたことは格闘技ファンの間に広く知れ渡っている。その上、かつて岳が所属した『新鬼道プロレス』ひいては『鬼の遺伝子』と、現在いまも袈裟友が後進の指導に当たっている『くうかん』は、異種格闘技戦という枠組みを超えた血みどろの抗争を繰り広げたこともある。

 若き日から続く深い因縁も含めて、これ以上ないというくらい運命的な筋運びと言えよう。格闘技の経験がなく、実力そのものを疑問視されているキリサメには注目度を引き上げる効果も働かなかったようだが、全日本選手権三連覇という確かな実績を持つ沙門の周辺は、初陣に向けて大いに盛り上がったそうだ。

 今頃は日本最強の空手家を迎え撃っているであろう対戦相手は、試合が正式に決定する調印式の席でも大言壮語ビッグマウスと擁護することが難しい暴言を吐き、運営サイドから厳重注意を受けるほどいきり立っていた――と、大鳥はネットニュースで確認している。


「何しろ交際関係で醜聞スキャンダルが多い方です。自分もバロッサさんと同じように、お父上の袈裟友さんはともかく沙門さんのほうには正直、良い印象を持っていません。でも、アマカザリさんには親しい友人なのでしょう? やはり、試合が気になりますか?」

「……みーちゃんも同じ理由で沙門氏を毛嫌いしていますよ。について軽はずみなことは言えませんけど、〝サバキ系〟という空手の実力ちからはこの目で見ました。沙門氏は必ず勝ちますよ。恩人直伝の踵落としで勝負を決めるかも知れません」

「ああ、……確か彼は『テオ・ブリンガー』の薫陶を受けたのでしたね。誰に対しても誠実で、例え自分を倒してのし上がろうとする相手にさえ真剣に応えていたブリンガーの影響は余り感じ取れませんが……」

「悪い顔ばかりが目立って隠れているみたいですが、ああ見えて意外にしっかりした人なんですよ、沙門氏。恩人から受け取ったモノを疎かにしていないよう僕には見えました」

「アマカザリさんが仰るのなら、その通りなのでしょう。自分はそれを信じるとします。素行不良に関しては目を瞑るわけにもいきませんが……」

「素行不良のほうは僕も擁護フォローしませんけどね。この目で見てしまったし……」


 キリサメが沙門の〝恩人〟と言い表し、その二字から大鳥が即座に連想した『テオ・ブリンガー』とは『くうかん』の歴史に決して消えない名を刻んだスイスの空手家である。

 〝世界一の踵落としの名手〟と畏怖され、『くうかん』の看板を背負って出場した『こんごうりき』でも輝かしい栄光を掴んだものの、二〇〇〇年に急性骨髄性白血病を発症し、病室に駆け付けた同門の親友――教来石袈裟友に看取られながら三五歳という若さでからを脱ぐことになってしまった。

 テオ・ブリンガーを実の兄も同然に慕っていた沙門は、その踵落としを最後に直伝された空手家であった。

 『こんごうりき』は〝プロ〟の格闘技団体としては異例ともいえるほどチャリティー興行イベントに力を注いでいる。児童養護施設や身体からだにハンデを持つ人々の活動をたすけるなど社会貢献を重要視しているのだ。

 沙門のデビュー戦も白血病治療や骨髄バンクを支援する為のチャリティー興行イベントである。格闘技雑誌パンチアウト・マガジンのインタビューにいても「自分が恩人と同じ試合場リングに挑むとしたら、〝そのとき〟しか有り得ない」と語っていた。

 言わば、天国の恩人に捧げる初陣であり、それ程までに重い意味を持つ試合たたかいで沙門が負けるはずもないとキリサメは信じて疑わないのである。

 白昼堂々、女性に包丁で刺されても誰も不思議と思わないような性情の青年だが、その根底に偉大な空手家の魂を継いでいることをキリサメは知っている。『くうかん』の門下生が理不尽な〝シゴキ〟に脅かされることなく空手を学べる指導体制を確立する為、自身の命を懸ける姿まで双眸で見つめている。

 付き合いこそまだ短いものの、キリサメには〝日本最強の空手家〟という異名は教来石沙門こそ誰よりも相応しいと思えるのだった。

 キリサメ自身、たった数日という交流でも沙門から学んだことは少なくない。

 〝支配体制〟を覆し兼ねない沙門の組織改革に反発する支部道場は多かった。

 慣例として続けられてきた理不尽な体罰が〝下〟の世代を屈服させ、押さえ付けられた側が〝上〟に立ったとき、同じことを腹癒せのように繰り返す――〝シゴキ〟に耐え抜けば強くなれるという根拠のない合い言葉が負の連鎖となって『くうかん』を蝕んできた。

 『くうかん』の支部道場に限定された事例ではないが、くにたちいちばんの手掛けた漫画でも幾度となく描かれ、これに煽られた『昭和』の〝スポ根〟ブームが一種の正当性を与えた恰好である。『くうかん』の創始者がくにたちいちばんの実弟という点が何よりも皮肉であった。

 既得権益ともたとえるべき〝支配体制〟を維持したい支部道場の師範は、自分たちに逆らえない若い門下生を刺客に仕立て上げ、沙門に差し向けている。その襲撃事件にキリサメは遭遇したのだ。

 その門下生たちを本気で迎え撃ち、〝シゴキ〟という名の理不尽な痛みによって支配される苦しみを優しく受け止め、事態の改善を約束する姿をキリサメは自らの双眸で見ていた。師範の暴挙を恫喝の材料として逆に利用せんと企む狡猾さには戦慄も覚えた。

 全国の支部道場から送り込まれる刺客にいつか命を奪われることになっても、その犠牲をもって『くうかん』という全国組織の病理を暴く――教来石沙門は愛してやまない空手に自らの命を捧げることを厭わないと迷いなく言い切ったのだ。

 自分と大して年齢が変わらない青年とは信じられない立ち居振る舞いにキリサメはおくれすら感じるほどであった。沙門のように〝何か〟を背負ってもいない自分が同日にプロデビューと喧伝されることが後ろめたいのである。


「――キミたちは『どく』という東洋の呪術を知っているだろうか? 壺の中に大量の虫を放り込み、共食いの果てに最も強きモノを選ぶのだよ。を呪術に用いるとも、壺の底に溜まった毒を使うとも云う。樋口郁郎はこの日本で『どく』をやっているわけだ。格闘技という〝文化〟の担い手を自分もろとも壺に投げ入れ、最後に自分一人が生きて立つことを信じて疑わないようだが、そのように穢れた未来にどれほどの値打ちがあるのか」


 キリサメのなかに渦巻く沙門への小さな劣等感を断ち切ったのは、本間愛染から飛び込んできた憤怒の声である。

 この天才の思考は余人の理解を超えてあちこちに飛ぶことをキリサメも大鳥も既にしている為、前後の脈絡を無視して地団駄を踏み始めても驚かなかったのだが、今度も意味不明な火種きっかけから樋口郁郎への怒りが爆発した様子である。


「……『コドク』――漢字は思い浮かびませんが、呪術の内容は亡き母が授業だったか、何かで話していたのをおぼえています。樋口氏にはオカルト趣味でもあったのですか」

「今、キミと大鳥君が話していたことにこそ拾うべき答えが埋もれている。壺に封をする符には今日の日付が記されているだろう。そして、その符のまことの持ち主は『こんごうりき』だ」

「自分の勘違いでないのなら、つまるところ、本間さんは『天叢雲アメノムラクモ』と『こんごうりき』の同日開催を『どく』にたとえておられるのではないでしょうか? 呪術というのは突飛な発想ですが、〝共食い〟という点に注目するとおぼろながら見えてくるものがありますよ。今日、この日を先にのは『こんごうりき』のほうだったのでしょう」

「……大鳥氏がこの場に居てくれて本当に良かったです」


 愛染による指摘自体は天才の感性を持ち得ない人間にも理解できるものであった。甚だ回りくどい言い回しであったが、彼女は『天叢雲アメノムラクモ』が『こんごうりき』と同じ日にえて興行イベントを重ねたことに憤っているわけだ。

 大鳥のから察するに『こんごうりき』のほうが先に開催日を決定していたようである。

 当然ながら新人選手ルーキーには両団体の運営の内情など知る由もない。インターネットで検索すれば開催日程の発表日を調べることも不可能ではないのだが、キリサメはパソコンも携帯電話も所持していない。それでも己が耳を傾けるべきことは判別できる。

 〝樋口代表〟が定めた運営方針であり、何よりも自身と友人が所属する団体間の関係にまで影響を及ぼし兼ねないことなのだ。一つとして聞き漏らすわけにはいかなかった。


「本間さんのご意見は尤も至極ですよ。以前までは――少なくとも、前身団体バイオスピリッツの頃までは同日開催は避けていたのですけどね。……成る程。どうやら私も樋口さんの手のひらの上で転がされていたようだ」

「……勉強不足が口を挟むのは躊躇われますし、単純なことしか思い付けないのですが、ファンのり合いになってお互いが損をするといったようなこと……でしょうか?」

「本質というのは往々にしてシンプルですし、そこまで物事を分解できるのも理解力の賜物でしょう。それは学習の積み重ねにも通じますからね。……恥を晒しますが、自分はそのことを見落とした挙げ句、あなたたちの同日デビューに浮かれていたようなものです」


 答え合わせを求めるようなキリサメの眼差しに対し、大鳥は即座に頷き返した。


「総合格闘技と打撃系立ち技格闘技では競技の形態が異なるから、客層は必ずしも一致しない――というのは一般論ですが、どちらも等しく愛する格闘技ファンは多い。両方とも魅力の在り方が違いますからね。……同じ壺に放り込まれる条件も整っているわけです」


 模擬戦スパーリングで用いた『エアーソフト剣』の空気を抜き、後片付けを進める大鳥の表情かおは一等険しかった。

 『こんごうりき』の競技統括プロデューサーと『天叢雲アメノムラクモ』の統括本部長――若き頃から因縁で結ばれてきた二人の息子が同じ日にプロデビューを迎えるという事実は、格闘技を愛好する者たちの心が大きく震えるほど劇的ではある。

 しかし、これを樋口郁郎という日本格闘技界の〝暴君〟が仕掛けた情報工作と捉えるならば、余りにも危うい事態である。

 格闘技に限らず、大きな催し物は集客の見込める祝祭日に実施されることが殆どだ。必然的に数多のイベントが同じ時期に固まり、開催日程が重なってしまう格闘技団体も珍しいわけではない。

 それが由々しき事態に発展してしまうのは、競技形態の差異ちがいこそあれども『天叢雲アメノムラクモ』と『こんごうりき』が現在いまの日本格闘技界にける二大団体である為だ。

 大晦日の夜に地上波三局で興行イベントが生中継された黄金時代も今では遠くなり、スポーツ番組の一コーナーか、衛星放送の専門チャンネルでもなければテレビに映る機会すら巡ってこないほど日本では格闘技そのものが隅に追いやられている。

 如何に足掻いても昔日の勢いを取り戻せず、一つの〝文化〟としては間違いなく衰退してしまった日本格闘技界にとって、一度の興行イベントで一〇〇〇〇人に迫る観客数を確保し得る団体は希少といっても過言ではなかった。

 その規模の二団体が観客を奪い合えば、いずれは共倒れとなるか、片方の再起不能を招くことは必定であろう。莫大な資金カネが動く〝商業イベント〟である以上、歩調を合わせた共存などは夢物語でしかない。

 経済という〝現実〟の前にはのうろうが掲げた『自他共栄』の理念さえも通用しないからこそ、総合格闘技と打撃系立ち技格闘技をそれぞれ代表する団体は完全な競合を避けてきた。同じ週の開催となる場合でも『天叢雲アメノムラクモ』前身団体――『バイオスピリッツ』が日曜ならば『こんごうりき』は土曜といった形で日取りが重ならないよう配慮し合っていたのだ。

 それが現在いまでは同日どころか、興行の開催時間まで重なってしまっている。格闘技を愛してやまないファンに二者択一を迫ることにも等しい状況は、そのまま二大団体による全面戦争の構図なのである。

 『新鬼道プロレス』と『くうかん』の間で平成初期に勃発した〝抗争〟は互いの誇りを賭した〝果し合い〟でもあった。それが為にリング外の襲撃事件や流血戦に発展しようとも関係修復の可能性は残されていた。

 これに対して『天叢雲アメノムラクモ』と『こんごうりき』の間に横たわっているのは、団体としての存亡が懸かった〝潰し合い〟である。相手に競り負けてしまったときには運営そのものが立ち行かなくなる以上、互いに一歩たりとも譲れないのだ。

 二〇一四年現在の日本経済は『リーマン・ショック』とそれに伴う世界的な金融危機の損害ダメージから立ち直っていない。東日本大震災による影響も極めて深刻である。

 このような事態が長期化すれば格闘技という〝市場マーケット〟が日本で致命傷を負い兼ねない。いずれは『天叢雲アメノムラクモ』に跳ね返ってくることも明白であり、それを樋口郁郎が理解していないとは思えなかった。のちのちの災いより『こんごうりき』の足元を脅かすことを優先する理由は、おそらく主催企業サムライ・アスレチックスの部下たちでさえ把握していないだろう。

 一方の『こんごうりき』は経営破綻の窮地をシンガポールの〝スポーツファンド〟による援助で切り抜けたが、〝外資〟の注入とは当該国の人間が有力株主に名を連ねることをも意味しており、日本国外の事情や思惑によって運営方針を左右される状況に陥っている可能性も高い。それならば、興行イベントの開催日程を容易に調整できなくとも不思議ではなかった。

 あるいは『こんごうりき』の内情を見抜いた上で、樋口は策謀を巡らせたのかも知れない。かつて協力関係にあった女子MMA団体を情報戦によって追い詰め、『天叢雲アメノムラクモ』に取り込んだという風聞が未だに付き纏っているのだ。日米合同大会コンデ・コマ・パスコアの共催相手である『NSB』に対しては、同団体が開発したるシステムを盗み取らんと企んでいる。

 数限りなく飛び交い続ける邪悪な風聞を否定する声は〝身内〟からも上がらない。随分と昔に編集長の座を退きながら、未だに格闘技雑誌パンチアウト・マガジンの編集部や、彼らによって運営されている〝キャラクター〟の『あつミヤズ』まで思い通りに操る〝暴君〟なのである。

 力と技を競い合う場であるはずの総合格闘技MMAを〝超人〟による見世物へと歪め、その為に団体内へドーピング汚染を招き、ついにはアメリカ格闘技界から永久追放された『NSB』の前代表に重ねる人間も少なくなかった。

 〝古巣〟のみならず、ネットニュースをも駆使する情報工作の手口に大鳥聡起は改めて戦慄していた。岳や袈裟友のように感受性の豊かな人間であったなら騙されてしまってもおかしくないが、普段から冷静沈着なこの青年でさえ、因縁深い好敵手ライバル同士の息子が同じ日にプロデビューを迎えるという〝美談〟を知らない内に刷り込まれていたのである。


(……電知の『E・Gところ』だけじゃなく、沙門氏の『金剛力ところ』とまで揉めるのは、……さすがに止めて欲しいな)


 日本国内で最大の規模を誇る二つの競技団体が同じ日に興行イベントを実施する――MMAの世界に身を投じていなければ、興味を抱くこともなく聞き流したであろう話と、には伝わり難い深刻さを無言で受け止めたキリサメは、平素いつもとは異なる様子でまぶたを半ばまで閉ざした。

 自らが団体代表を務める『天叢雲アメノムラクモ』は言うに及ばず、『こんごうりき』の旗揚げにいても樋口郁郎が重要な役割を果たしたことはキリサメも承知している。だからこそ、その両方を崩壊させ兼ねない状況へ導いていることが本間愛染の突飛な思考以上に理解できない。

 キリサメも以前から感じていたのだが、まるで樋口は新たな敵を次から次へと求めているようなのだ。『天叢雲アメノムラクモ』を敵視している地下格闘技アンダーグラウンド団体はともかくとして、『こんごうりき』のほうはえて対立の構図を作り上げる必要などなかったはずであろう。

 そもそも樋口郁郎が『こんごうりき』の活動を侵害するということは、数え切れない人々から根深い影響を指摘されている〝師匠〟への裏切りにも等しいのだ。

 樋口の〝師匠〟――くにたちいちばんは自身が手掛けた漫画の登場人物に児童養護施設や小学校の支援という物語を与えている。その精神を外部顧問の立場で『こんごうりき』に行き届かせ、チャリティー興行イベントという方向性を定めたのも彼なのである。

 ガラス窓の向こうの空は、またしてもにびいろが濃くなっていた。

 統括本部長の後ろ盾があったとはいえ、得体の知れない子どもを『天叢雲アメノムラクモ』の一員として迎え入れ、不祥事を起こしたときには情報工作を駆使して助けてくれた樋口郁郎にキリサメは深い恩義を感じている。それでも今は奥州の空模様と同じ心持ちであった。



 *



「――『E・Gイラプション・ゲーム』の一員メンバーってコトで警備員を呼ぶべきかもってくらい余計な気を回し過ぎてしまったけど、そこまで未稲ちゃんと仲良しなら問題ナシかな。……当方の取り越し苦労で不愉快な思いをさせてしまって、申し訳ありませんでした」


 改めて未稲と上下屋敷を交互に見つめたのち、安全上の問題を巡って彼女たちの入場に懸念を示した梨冨もちは、帽子を脱ぎながら己の辿り着いた結論を述べた。

 一度は入場の可否を決め兼ねるほど地下格闘技アンダーグラウンド団体のメンバーを警戒してしまったのである。少なくとも未稲と上下屋敷の間では懸念するような状況に陥らないと確認した旨を示し、謝罪の言葉を添えることは梨冨の誠意であった。

 そして、それは一つのフロアの運営スタッフを取り仕切る立場としての責任でもある。


「別にあんたに詫びて貰おうとは思ってねーって。しょっちゅう、が揉めてんのも隠しようがねぇ事実だもんよ。おれが同じ立場でも『待った』を掛けたハズだぜ」

「そう仰って貰えると、こちらとしても救われます……」


 バスケ選手の間を吹き抜けていく風のレリーフの前に立った上下屋敷は、畏まった様子の梨冨と肩を竦める寅之助を交互に見つめながら「こういう空気、苦手なんだよなぁ」と頭を掻いた。

 その直後に大きな笑い声がフロアに飛び込んできた。見れば、ガラス窓の向こうで『あつミヤズ』が姿勢を崩し、その拍子に外れてしまったものとおぼしき着ぐるみの頭部が地面を転がっているではないか。

 場違いとしか表しようのない中世の騎士を物珍しそうに眺めていた人々もに目を転じ、携帯電話スマホに内蔵されたレンズを着ぐるみの〝中身〟へと一斉に向けている。

 「撮影はご遠慮願います! みんなの夢を壊さないで!」という切羽詰まったと情け容赦のないシャッター音が張り詰めた空気を断ち切った為、上下屋敷と梨冨の双方にも笑顔が戻った。


「だがよ、警備員なんざ呼ぶまでもね~だろ。他力本願じゃなくたって、あんた、万が一のときには素手ステゴロでおれを食い止めたんじゃねェの? その拳はなんかじゃねぇよな」

「……まさか、もちさんがボクサーだって見抜いたというのですかっ?」


 思わず口を挟んでしまったのは、姉に同行しながらも会話には加わらないよう遠巻きに眺めていたひろたかである。上下屋敷が述べた一つの見立てに心の底から驚いたらしく、普段から冷静に振る舞っているとは思えないほど大きく口を開け広げていた。


「さっきからそうかもって思っていたのですけど、今ので確信しました。やっぱり未稲さんの弟さんなのですね。その凛々しい眉毛もお姉さんから伺っていた通りです。きっと騎士の鎧も似合うでしょう。如何でしょう? 西洋剣術の教室は子どもの体験コースもありますよ? 次の週末、私がご案内しますから」

「悪徳商法みてェな勧誘は逆に評判落とんじゃねぇか? ……つ~か、マジで格闘技博士なんだな、未稲の弟。身内の贔屓目じゃねぇかって疑って悪かったぜ。さっきの反応リアクションにもそいつが顕れてらァ」


 外部スタッフの形で『天叢雲アメノムラクモ』の興行イベントに関わってきた梨冨とは面識があるものの、未稲のゲーム仲間とひろたかは全くの初対面であり、タイミングも逃していたので互いに自己紹介すらしていない。

 それにも関わらず、上下屋敷と筑摩のほうはひろたかという少年のことを初対面とは思えないほど熟知している様子なのだ。

 そして、その理由も明らかである。耳まで羞恥の色に染めている弟から睨み付けられた未稲は「可愛くて仕方のない弟のコトを友達に話しまくるのはお姉ちゃんにとって当然の権利だもん」と悪びれてもいなかった。


「チビッ子格闘技博士にわざわざ説明するのは間抜けだがよ、こちとら現役バリバリの格闘家なんだぜ? おまけに『E・Gイラプション・ゲーム』にはあらゆる格闘技が集まるんだ。それなのに目が肥えねーようなヤツはマジで見込みナシっつうこった」

「現在進行形で鍛えている拳は見分けも付く――と、そう仰りたいのですね? ……そもそも『E・Gイラプション・ゲーム』を立ち上げた団体代表の方はプロボクサーでしたし……」

「未稲に聞かされた話だとお前、空閑とはすがだいらの合宿で一緒だったんだよな? アイツの耳、少しばかり餃子みてーになってるって気付いたか? と似たようなモンだぜ」


 ひろたかの質問に対する上下屋敷の回答こたえは単純明快であり、柔道家の〝耳〟の形を例に引いた瞬間ときなどは、傍らで耳を傾けていた未稲のほうが〝柔道耳〟というには聞き慣れない言葉を口にしながら頷き返している。

 〝柔道耳〟――正確にはかいけっしゅと呼ばれる状態であるが、尋常でないほど厳しい寝技の稽古を長期に亘って繰り返すことで耳全体が強く圧迫され、その形が変わっていく柔道家も少なくない。前田光世コンデ・コマに倣って打撃技――〝あて〟から寝技に持ち込む戦法を得意とする電知も例に漏れず、両耳のどちらも餃子を彷彿とさせる形となっていた。

 ボクサーの拳にも似たような特徴が生じる場合がある。拳を突き込んだ際、対象に最も接触する人差し指と中指の付け根辺りの皮膚が厚くなるのだ。俗に〝けんダコ〟と呼ばれる状態であり、上下屋敷は梨冨の両手にもを見つけた次第である。

 梨冨の〝けんダコ〟は目立つというほど大きくはなかったが、それすら見逃さないほど上下屋敷のというわけだ。


「今日まで一度もキックを放った経験はないんだけど、その分、パンチには自信があるんですよ? そうですね……打撃勝負なら希更・バロッサさんにも負けませんよ」

な名前が出たもんだ。お陰であんたがハードパンチャーっつーコトは理解わかったから、おれも複雑な気持ちだぜ」


 わざわざシャツの袖をめくり上げることはなかったが、ちからこぶを作る仕草ゼスチャーだけでも梨冨の言わんとしていることは十分に伝わってくる。

 その一言には梨冨という女性が車椅子で移動している理由も含まれていた。

 彼女が所属している人材派遣会社は心身にハンデを持つ人たちへ安心して働ける環境を提供することに力を注いでいるが、こうした社風を知る由もない上下屋敷は、その一言を聞くまで足腰の負傷で一時的に使用しているものと誤解していたかも知れない。

 リハビリ期間中ということではない――その事実を受け止めた上下屋敷は過剰な反応を示すこともなく、「車椅子に座ったままで猛烈なパンチ力を作り出すんだろ? ニラんだ通りの猛者じゃんか」と、ボクサーとしての技量に格闘家としての本能を昂らせていた。

 くだんの人材派遣会社だけでなく、上下屋敷のなかにも多様性ダイバーシティに対する理解が隅々まで行き届いているわけだ。

 格闘技を金儲の手段にしているとして『天叢雲アメノムラクモ』の姿勢を批判し、その団体の〝客寄せパンダ〟である希更・バロッサ――即ち、アイドル声優に危害を加えようと企むなど視野狭窄の傾向こそあるものの、本当の意味で分け隔てなく人と向き合える〝友人〟が未稲は誇らしかった。

 先程も『E・Gイラプション・ゲーム』にはあらゆる格闘技が集まると熱弁していたが、そこに込められた意味は『天叢雲アメノムラクモ』に関わる人間が考えているよりも遥かに深いのかも知れない。


もちさんが挑戦しておられるのは『車椅子ボクシング』なんです。日本ではまだ普及していると言い難い状況ですが、海外では結構な規模の大会も開催されているんですよ」


 車椅子ボクシング――梨冨もちが取り組んでいる競技の名称なまえを述べたのちひろたかはやや上擦った声で「ルートヴィヒ・グットマンの精神は今も生き続けている」と続けた。


「……〝戦争の時代〟から遠くまで来たもんだぜ。『ストーク・マンデビル病院』から始まった半世紀を超える挑戦だもんな」

「さすがにお詳しいですね。外見でと判断してしまったことを謝罪します」

「チビッコ格闘技博士や歴史バカの空閑ほどじゃねーがな。ガキに余裕を見せてやるのも一興ってもんだぜ」


 欧州ヨーロッパ系とおぼしき人名なまえに聞きおぼえがあった上下屋敷は『ストーク・マンデビル病院』という施設の名称でもってひろたかに応じると、床に片膝を突きつつ梨冨の車椅子を見つめ、彼女の右手ごと片側のハンドルに自身の両手を重ねた。

 その際にも「半世紀を超える挑戦」と噛み締めるように繰り返していた。

 上下屋敷が口にした『ストーク・マンデビル』とはイギリス・ロンドン郊外のる地域を指している。がねいろに輝く郵便ポストの設置場所として選ばれた土地とも言い換えられるだろう。

 一九四〇年東京大会の返上から夏季オリンピックは〝戦争の時代〟に至って一二年も中断され、その終結後に一九四八年のロンドン大会でようやく復活した。同じ年のことであるが、その地ストーク・マンデビルに所在する病院にいて一つの競技大会が執り行われたのだ。

 『ストーク・マンデビル競技大会』――パラリンピックの礎である。そして、これを開催に導いたのがくだんの病院で傷痍軍人の治療に当たっていたルートヴィヒ・グットマン博士であった。

 独裁政権下のドイツで人種を理由に生命を脅かされる迫害に遭い、亡命したイギリスのストーク・マンデビル病院に招聘されたのだった。

 同病院で脊椎損傷の治療が本格的に始まったのは一九四四年二月――第二次世界大戦ひいては近代軍事史で最も有名といっても差し支えのない『ノルマンディー上陸作戦』の計画が進行するなかであり、夥しい数の負傷者が想定される中でグットマンはストーク・マンデビルへ赴任したのである。

 欧州ヨーロッパの戦局を覆す為、連合国側はどれほどの犠牲を払ってでもフランス北部・ノルマンディーの海岸を制圧しなければならなかった。作戦開始前に割り出された推定戦死者数は定かではないが、ルートヴィヒ・グットマンは筆舌に尽くし難いほど重いモノを背負って傷痍軍人と向き合っていたのだ。

 一つの事実として、同作戦の死傷者は連合国側だけでも一〇〇〇〇〇人を超えている。

 全世界を真っ二つに割るような〝戦争の時代〟をリハビリテーションの視点から見つめた医師であった。彼は祖国ドイツで経験した第一次世界大戦の頃から脊椎損傷によって生きる気力を喪失うしなった戦傷者たちに接してきたのである。

 そのグットマンが開催へ導いたストーク・マンデビル競技大会はこんにちのパラリンピックと幾つかの点が異なっている。黎明期はあくまでも傷痍軍人のリハビリと社会復帰に重点が置かれており、運営費も退役軍人たちの協力によって支えられていた。

 原則的に毎年の開催という点も、四年に一度のパラリンピックとは違っていた。加えてストーク・マンデビル競技大会のプログラムは車椅子競技のみで構成されている。時代が進む中で多種多様となった〝パラスポーツの祭典〟ではなく、〝車椅子の競技大会〟として継続しているのだった。

 一九四八年の第一回大会から半世紀を超え、大会名や運営形態こそ変わっていったが、スポーツという効果的な運動を通じたリハビリテーションを提唱し、ストーク・マンデビル病院にて実践し続けてきたルートヴィヒ・グットマンの〝直系〟とも呼ぶべき精神たましいは今なお絶えていないのである。

 上下屋敷はこれを〝半世紀を超える挑戦〟と讃えたのだ。

 イギリス各地にはがねいろに輝く郵便ポストが点在している。二年前にロンドンでオリンピック・パラリンピックが開催された際、金メダリストの出身地や根拠地の郵便ポストを黄金に塗り替えるという記念イベントも実施されていた。

 〝半世紀を超える挑戦〟――その礎という功績を記念し、ストーク・マンデビルにも黄金の郵便ポストが設置されたのである。そこには「パラリンピック誕生の地」と刻まれているのだった。

 イギリスでは二〇一年ロンドンパラリンピックのテレビ放送が合計で四〇〇時間を超えている。これもまたくだんの挑戦の結実であろう。


「――最初のストーク・マンデビル競技大会から今年で六六年目になる現代いま、数え切れないくらいの〝パラスポーツ〟が生み出され、その大会も発展し続けてきました。『車椅子ボクシング』も今ではパラリンピック正式種目化を目指していると伺いました。いつか必ずもちさんも代表選手パラリンピアンに選ばれます。ぼくは信じて疑いませんっ」


 パラリンピックの源流をやや早口で遡ったのちひろたかは姉の友人が取り組んでいる〝パラスポーツ〟の名称を改めて繰り返した。それ故にこの小さな少年は〝車椅子の競技大会〟というルートヴィヒ・グットマンの取り組みを紐解いたのだ。


ひろたかくん、今のは私が自分の口で説明したかったかなぁ。総合格闘技MMAとオリンピック、車椅子ボクシングとパラリンピック――どっちが先に競技化を射止めるのか、競争みたいで楽しいってコトもね」

「す、すみません……自分でも恥ずかしくなるくらい前傾姿勢になってしまいました」

「ヒロくんがモッチーパイセンに向ける優しさ、ちょっとくらいお姉ちゃんにも欲しいなぁ」


 自分の出番を奪われる恰好となった梨冨もちは苦笑いこそ浮かべているが、頬を薄く紅潮させながら俯いてしまったひろたかに向ける眼差しは優しい。

 梨冨の視線に気付いたひろたかの顔はいよいよ林檎としかたとえようがなくなったが、あるいはこそが騒動の渦中まで足を運んだ理由であるのかも知れない。


「つい出しゃばってしまいましたが、それくらいもちさんの挑戦チャレンジは偉大なんですよ。海外の試合はぼくも数えるほどしか観ていませんが、車椅子の性質上、お互いの発するパワーが殆ど逃げ場のない状態で真っ向からぶつかり合うんです。激しい応酬になる状況だって強い魂を持っているもちさんなら絶対に競り負けませんっ」

「そこまで言われちゃうと、こっちまで顔が赤くなっちゃうよ、ひろたかくん」


 生まれ育った環境の為、望むと望まざると格闘技の知識があたまに刷り込まれてしまったひろたかは、MMA以外の競技も忌避している。自ら格闘技について口を開くのは皮肉を込める場合が殆どである。

 から格闘技が身近にったというのに、格闘技そのものに嫌悪感を抱いているひろたかをここまで饒舌にさせてしまうほど梨冨の挑戦は意義深いということだ。車椅子を見つめていた上下屋敷も彼の言葉に呼応するよう首を深く頷かせている。

 二〇〇六年に世界初の競技団体が創設されたイギリスを中心として、車椅子ボクシングは欧米で知名度を高めていた。先ほどひろたかも言及した通り、海外では競技大会も盛んに開催されているが、日本は発展途上の段階である――これは梨冨本人の解説はなしだ。

 現在いまで言う多様性ダイバーシティの理念に則り、京都市に所在するジムが〝全て〟の人々にボクシングを楽しんでもらおうと指導を始めたのは二〇〇三年のことである。梨冨が籍を置くのはその活動に共鳴し、パラスポーツにも積極的に取り組んでいる東京のジムであった。

 全国的な普及には一〇年という歳月でも足りず、イギリスのように大勢の選手が集う大会は二〇一四年六月時点で一度も開催されていなかった。

 しかし、その原因を日本にける普及活動の遅滞と単純化することはできない。ルートヴィヒ・グットマンとストーク・マンデビル競技大会の理念が育まれたイギリスは言うに及ばず、心身にハンデを持つ人々の機会均等を法律で約束し、物心つく前から〝全て〟の子どもたちが共に学ぶ環境のあるアメリカなどは〝パラスポーツとしてのボクシング〟が発展していく土壌が整っているのだった。

 米英は心身のハンデの有無に関わらず、〝全ての選手〟が同じ条件のもとでスポーツに興じる機会も多い。殆どの場合はパラスポーツを一緒に楽しむのだが、北米アメリカ最大のMMA団体『NSBナチュラル・セレクション・バウト』では義足の選手と四肢が全く健常な選手の試合が行われていた。

 義足への直接攻撃を禁じるといった特別ルールが例外的に採用されるものの、〝同じ条件〟で試合に臨むことを全ての選手が快諾し、人間の可能性として喜んでいるのだ。MMAに最も適した競技用義足の選定など団体としての支援も手厚い。

 〝アフリカの奇跡〟と称されたルワンダに生まれ、相互理解の喜びを握り締めて八角形オクタゴンの〝ケイジ〟へ臨む義足のMMA選手は、名前をシロッコ・T・ンセンギマナという。

 日系ハワイ移民の子孫が家伝の武術を発展させ、アメリカ本土で教え広めたとされる近代総合格闘技術――『アメリカン拳法』を極めたその男は、いずれ『NSB』の将来を背負って立つことであろうと、同国の格闘技雑誌ゴッドハンド・ジャーナルでも高く評価されている。


「アメリカン拳法――つーか、MMAとボクシングじゃあ勝手も違うがよ、アメリカの団体だとンセンギマナってのが最近、注目株みてーだな。片側に義足を装着けて寝技の攻防まで完璧にこなすっていうのがよ」


 車椅子ボクシングひいてはパラスポーツの現状を明かしていく梨冨の言葉を引き取り、シロッコ・T・ンセンギマナの名前を挙げたのは上下屋敷であった。

 フレンチネームとルワンダネームを組み合わせたその名前は未稲も記憶しているが、二度と消えないほど深くあたまに刻み込まれたきっかけは、MMA選手としての実績とは異なる事件であり、彼女と同じような人間は少なくなかった。

 およそ一ヶ月前のことであるが、『NSB』と関わりのある人間が同乗していたという理由だけで『ウォースパイト運動』の過激活動家が合衆国大統領専用機――エアフォースワンにサイバーテロを仕掛けていた。

 世界の最先端技術を結集し、雲の上でも大統領としての執務を遂行できるものとして完成されたはずの通信機器が国際的なテロ組織などではなく、によって掌握されるという信じ難い事件にンセンギマナも巻き込まれていたのである。

 その日、シロッコ・T・ンセンギマナという名前は祖国ルワンダ活動拠点アメリカ以外にも知れ渡ったのだ。『NSB』の有力選手でありながら、『九・一一』の再来と報じられたテロ事件に巻き込まれるまで日本格闘技界での知名度もそれほど高くなかった。

 『天叢雲アメノムラクモ』統括本部長の娘も名前こそおぼえはしたものの、インターネットで検索するだけで幾つも表示されるンセンギマナの顔を知らず、希更が主演するアニメシリーズ『かいしんイシュタロア』の熱狂的なファンであることなど想像も及ばない。

 未稲たちのゲーミングサークルがオフ会を催した日、同じ秋葉原で『かいしんイシュタロア』のファンイベントも行われていた。その会場にンセンギマナも活動拠点であるアメリカ・カリフォルニア州から足を運んでいたのだが、『天叢雲アメノムラクモ』の関係者でさえ誰も彼の来日を把握していなかったのである。


「何だかんだ言って照ちゃんもしっかりMMAをチェックしてるじゃん。地下格闘技アンダーグラウンドの仲間に知られたら大変なコトになるんじゃないの? 『八雲道場うち』で匿ってあげよっか?」

「うっせぇな~、敵を知らずにナントヤラっつうヤツだよ。ルワンダ生まれのそいつには知り合いが熱視線を送ってんだ。アメリカン拳法っつーのが珍しいんじゃねぇかな」

「ボクが見た限り、物珍しさで注目してるってカンジじゃなかったけどね。ブラジリアン柔術の真似パクリっぽい響きは確かに怪しさ丸出しだけど、アメリカの勘違い日本ジャパニーズ文化って考えたら、〝拳法〟を名乗ってるクセしてパンチが弱い命名ネーミングだよね」


 上下屋敷から目配せでもって同意を求められた寅之助が頷き返したということは、アメリカン拳法という耳慣れない格闘技に並々ならない関心を抱いている人間も『E・Gイラプション・ゲーム』の所属選手なのだろう。

 キリサメに付き添う形で参加した殺陣道場『とうあらた』の体験会ワークショップで講師を務めていたひめというもアメリカン拳法を強く意識していた――と、未稲は振り返っていた。

 くだんは『截拳道ジークンドー』の使い手であったが、ブルース・リーが創始したその武術とアメリカン拳法は古くから因縁があり、いずれ決着をつけるべき〝仮想敵〟と述べていたはずである。

 伝説の武術家にして稀代の映画俳優であるブルース・リーが出演作の中で拳を交えた相手にアメリカン拳法家はいなかったと、未稲は記憶していた。


「尤も、当のンセンギマナは今度が最終決戦ラストマッチになる好敵手ライバルのコトしか見えちゃいねーだろうがな。プエルトリコの選手だっけか? 『NSB』っつうか、MMAを廃業してボクシングに転向するそうでな。真の決着って具合に盛り上がりまくってるらしいぜ」

「照ちゃん、めちゃくちゃ観てるじゃん、『NSB』の試合。瀬古谷さんも付き合わせまくりなんでしょ」

「ボクもね、義足の選手が健常者を相手にで回る姿には胸を熱くしたよ。ひがしやまけんすけ先生の――義足で剣の道を極め、戦後剣道の発展にも力を尽くされた偉大な先人をルワンダのMMA選手に重ねていたのは否定できないかな」

「その話は私も聞いたことがあります。プエルトリコはボクシングの世界王者チャンピオンがたくさん誕生しているんですよね。『NSB』の選手も元々はボクサーだと言いますから、転向というより帰還なのかも。二年後のリオを見据えてボクシング一本に絞るとか」


 ひがしやまけんすけ――戦前・戦後を生き抜き、攻撃性の助長を危惧したGHQによる『武道禁止令』という試練に直面しながら、その生涯を剣道の発展に捧げた偉大な剣士の名前を寅之助は一礼と共に挙げた。

 そこにプエルトリコのボクシング事情を言い添えたのは、改めてつまびらかとするまでもなく梨冨だ。上下屋敷が『天叢雲アメノムラクモ』を敵視しながらMMAそのものは完全に拒絶せず、『NSB』の試合を観戦しているのと同様に彼女もまた海外のボクシング事情も勉強しているのだろう。

 ウィルフレド・ベニテスやヘクター・カマチョなど、プエルトリコはその腰に王者のベルトを巻く名ボクサーを数え切れないくらい輩出しており、ボクシングの強豪という印象イメージが国際的にも強い。

 その一方、アマチュアボクシングの頂点であるオリンピックでは意外なほどおくれを取り続けている。同競技で表彰台に立ったのは一九八四年ロサンゼルスオリンピック――三〇年前のミドル級銅メダリストが最後であった。

 プエルトリコで生まれ育ったボクサーにとって、金メダルを故郷にもたらすことはオリンピック初参加となった一九四八年ロンドン大会以来の悲願なのである。梨冨が語った通り、くだんの選手は二年後の期待を一身に背負って〝プロ〟のMMAからアマチュアボクシングに転向するわけだ。

 のちの格闘技史には二年先――即ち、リオオリンピックからプロ選手のボクシング競技出場が解禁されたという事実が記録されている。

 グローブで防護されているとはいえ、拳をぶつけ合う〝格闘競技〟の性質上、プロとアマが同じリングで闘うことは生死に直結するほどの危険性を孕んでおり、是非を巡ってボクシング界を揺るがす論争が吹き荒ぶのだが、それはまた別の話である。


「もうちょっと早く車椅子ボクシングが世界的に広まっていたら、私も同じリオで金メダル争いに参戦できたかな? でも、それだったらこの競技をパラリンピックの正式種目になるよう盛り上げていく面白さが味わえなかったか。どっちも捨て難いなぁ~」

「新しい〝道〟を切り開くほうが絶対に面白いですよ! はい、面白いです! こんなにも面白い競技モノがあるんだって伝わった瞬間の喜びは恋のときめきにも負けませんっ!」


 いつか車椅子ボクシングをパラリンピックの正式種目にしたい――左右の握り拳で車椅子の肘掛けを小刻みに叩き、その軽妙な音に合わせて梨冨が発した言葉に誰よりも大きく反応したのは筑摩依枝であった。

 鞘に納められたままではあるものの、兜を被り直した筑摩は瞬間的な昂揚に衝き動かされて右手に握っていた幅広の両刃剣ブロードソードを垂直に翳してしまい、近くを歩いていた『天叢雲アメノムラクモ』のスタッフが天井を突き破るのではないかと一斉に身を強張らせた。

 板金鎧プレートアーマー鎖帷子チェインメイルなど金属の擦れ合う音に安堵の溜め息が幾つも混ざったのは当然であろう。今日は岩手興行の為に建物の内外を看板などで飾っているが、あくまでも主催団体サムライ・アスレチックスが借り切っているだけなのだ。


「ですよね、ですよねっ! いやぁ~、ますます甲冑格闘技アーマードバトルに興味出ましたよ! さっき伺ったお話ですと本格的に始まったのは去年なんですよね? 今夜、世界大会の動画ビデオを観させて頂きますね!」

「是非是非! 動画でも十分に白熱しますけど、イチバンはやっぱり現地で観戦! お住まいは都内なのですよね、梨冨さん。是非とも試合場にご招待させてくださいね!」


 『天叢雲アメノムラクモ』のシャツを着た車椅子ボクサーと、全身を中世の鎧で固めた騎士が手を取り合って盛り上がるさまは何とも滑稽シュールであった。

 岩手興行ではどうじょうとうあらた』が幕間に剣劇チャンバラを披露する段取りとなっている。そのたちも甲冑を纏う為、筑摩の出で立ちは館内にいて完全な場違いとも言い難いのである。だからこそ、運営スタッフの目には余計に滑稽シュールと見えるのだ。


「さっき未稲が『この二人は気が合う』っつった意味が分かったぜ。甲冑格闘技アーマードバトルをグイグイ売り込む依枝と、パラスポーツの未来を握り締めた人――波長が合わないワケねぇよ」

「――甲冑格闘技アーマードバトルのことは姉からも教わりましたし、ぼくなりに調べてもいました。車椅子ボクシングと同じ新しい〝道〟ですよね。もちさんと二人で日本の格闘技界に新しい時代を築いていかれることをぼくも信じて疑いません」

「……ヒロくんさぁ、百歩譲ってお姉ちゃんを力いっぱい突き飛ばすのは構わないけど、は二人より先にキリくんに言ってあげて欲しかったなぁ~」


 その滑稽シュールな場景を上下屋敷は一人の格闘家として嬉しそうに見つめている。

 梨冨と筑摩は必ず気が合うという未稲の言葉も振り返ったが、これに対して強く頷き返したのはひろたかのほうである。丸メガネが吹き飛ぶほどの勢いで姉を押し退けた通り、今度も気持ちが逸っている様子であった。

 もしも、この場に各種セレモニーのリハーサル要員として岩手興行に参加しているカパブランカこうせいが居合わせたなら、彼こそが未稲の顔から丸メガネを飛ばしたはずである。

 総合格闘技MMAがオリンピックの正式種目として採用され、その第一号選手オリンピアンになることをカパブランカこうせいという青年は夢見ている。いつか迎える未来を揺るぎなく信じ、アルバイトの立場ながら〝プロ〟の興行イベントを手伝っているのだ。

 床に転がった友人の丸メガネを苦笑交じりで拾いながら、上下屋敷は先ほど自分で口にした〝半世紀を超える挑戦〟を改めて讃えた。

 六六年前――プエルトリコがオリンピックへ初参加したのと同じ一九四八年に〝半世紀を超える挑戦〟がストーク・マンデビルでも始まった。その第一回大会は一六名の出場選手全員が〝戦争の時代〟を生き抜いた傷痍軍人である。

 ストーク・マンデビル病院は脊椎損傷といった深刻な後遺症への対応を担っていたが、その中には怪我の治療だけでなく社会復帰に向けた長期間のリハビリを含んでいる。

 言わずもがな、それは〝心の後遺症〟にも寄り添うということだ。グットマンはレクリエーション――即ち、娯楽によって活力を引き出すというリハビリこそ重視しており、同病院の入院患者も杖を用いた疑似的なホッケーに始まり、車椅子を使うアーチェリーやポロといったパラスポーツの原型を楽しんでいた。

 それはスポーツによるリハビリの歴史が始まった瞬間でもあった。

 一九五二年に開催された第五回大会へオランダが参加したことが一つの転機となり、ストーク・マンデビル病院の入院患者たちが実感した大いなる喜びは国際社会へと拡がっていった。時代の移り変わりに伴ってパラスポーツ自体も多様化し、一六名から始まった挑戦はパラリンピックという〝平和の祭典〟として花開いたのである。

 社会復帰を目的とするリハビリの為のレクリエーションから世界中の選手たちと互いに研鑽し合う競技スポーツへ――ストーク・マンデビル病院の片隅で最初の一歩が踏み出された六六年という歴史の先に車椅子ボクシングも生まれたのだ。

 反則を除いた〝全て〟の格闘技術が解き放たれる総合格闘技MMA試合場オクタゴンに立った義足のアメリカン拳法家――シロッコ・T・ンセンギマナもルートヴィヒ・グットマンが目指した理念の体現者と言えるだろう。

 彼が生まれ育ったルワンダは一九九〇年代に内戦という国家的悲劇に見舞われている。その最終局面にいては一〇〇日にも及ぶ虐殺ジェノサイドが起こり、生き延びた国民の一割も拷問などによって手足を欠損してしまった。

 そのルワンダが初めてパラリンピックに参加したのは、内戦終結の数年後に開催された二〇〇〇年シドニー大会であった。ただ一人の代表選手パラリンピアンが祖国に〝心の復興〟をもたらすべく開催国オーストラリアへ向かったのだ。

 内戦で左足を失った水泳選手が五〇メートルを泳ぎ切る姿に祖国ルワンダの人々は未来を諦めない勇気を与えられた。虐殺ジェノサイドを生き延びながらも将来の展望さえままならない状況に陥り、抜け殻同然に気力を喪失うしなっていたンセンギマナもその一人である。

 失ったものを数えるな。残されたものを最大限に活かせ――ルートヴィヒ・グットマンが繰り返してきた言葉をルワンダ初のパラリンピアンが体現し、その希望が故郷の人々にも伝わったという事実は北米アメリカ最大のMMA団体で闘うンセンギマナの姿にも顕れている。

 内戦によって引き裂かれたの故郷は数年で目覚ましい復興を遂げ、〝アフリカの奇跡〟と全世界に讃えられた。これもまた揺るぎない事実である。

 ルワンダのシロッコ・T・ンセンギマナも、日本の梨冨もちも、人間の可能性に限界などはないと信じて疑わないのだ。


甲冑格闘技アーマードバトルの普及に全身全霊で取り組んでおられる筑摩さんと比べたら、私なんてミーハー全開ですけどね。格闘技をやってみたいって思ったのはよしさださんに――日本初の女子MMA選手に憧れたからですし、車椅子ボクシングを知ったきっかけでさえネット検索だったんですよ? 劇的なスタートだったら、もっとカッコ付いたのになぁ~」

「ぼくにとってもちさんは十分過ぎるくらいカッコ良いですよ。〝何〟がきっかけになるのかは人それぞれです。『NSB』のンセンギマナ選手だって今でこそ格闘技の世界で活躍していますが、気持ちが奮い立った決定打はシドニーパラリンピックの水泳ですから」

「伝説の五〇メートル自由形だよねぇ。ルワンダで義肢装具を製作つくっている日本の技師も全力で支援サポートして、入場行進にも付き添ったんだよね、シドニー。その人と旦那さんの講演会にも行ったことがあってねぇ。パラリンピックの話はやっぱり胸が熱くなったなぁ」


 日本初の女性MMA選手であり、また『MMA日本協会』副会長として総合格闘技MMAの国際的な普及の為に各国を飛び回っているよしさだへの憧憬あこがれから車椅子ボクシングを始めたという梨冨に対して、ひろたかはルワンダ出身うまれのMMA選手を例に引きつつ「現実に行動を起こしたことが大切なんです」と握り拳を作って見せた。

 梨冨と気が合わないわけがないと未稲が直感した筑摩も、ボクサーとしての姿勢と挑戦を尊敬してやまないとまで言い募ったひろたかへの同意を示すように逆三角盾ヒーターシールドを翳した。

 その表面に浮き彫りにされた勇ましい紋章――四振りの剣と八枚の旗がガラス窓から差し込む光を跳ね返して煌めいた。

 その向こうに『あつミヤズ』の姿は既に見当たらない。躓いた拍子に外れてしまった頭部の着ぐるみを回収し、速やかに撤収したのであろう。これを取り囲んで携帯電話を翳していた人々も何処かに去っていた。

 『天叢雲アメノムラクモ』の岩手興行は間もなく〝一般客〟の入場時間を終えようとしている。


「ここ一〇年くらいで生み出された車椅子ボクシングなのですから、ネット検索がご縁になるのもツーではないかって思いますよ。甲冑格闘技アーマードバトルも動画サイトを活用していますし、新しい競技は接点だって新しくなくっちゃ」


 世界中の人々に〝新しい競技〟の素晴らしさを伝える為、甲冑格闘技アーマードバトルの関係者も動画サイト『ユアセルフ銀幕』やSNSソーシャルネットワークサービスを活用していた。試合や練習の様子を配信している筑摩にとっては、梨冨が車椅子ボクシングと巡り逢った経緯も全く不思議ではない。

 インターネットは物理的な分断とも言い換えられる距離を瞬時にして乗り越えられる利器であり、遠く離れた場所のえにしを取り持ち得る〝文化〟である。ボクサーという〝道〟に梨冨が導かれたのは運命以外の何物でもない――そのように締めくくられた筑摩の言葉にはその場の誰もが逡巡すら挟まずに頷き返した。

 会話が聞こえていたのであろう周囲まわりのスタッフは言うに及ばず、普段はこのような空気を愉しそうに揶揄する寅之助までもが口を真一文字に引き締めて首を頷かせたのだ。

「社会復帰が一番の目的だった時代から車椅子競技も随分と変わりましたしね。それくらいの気持ちが良い塩梅なのかな。勿論、ボクサーとしてはますますガツガツ行きますよ」

 必ずや皆の期待に応えてみせると宣言するようにして左右の拳を握り締めた梨冨を見守りつつ、未稲は上下屋敷を通じて空閑電知に預けられた武神の守り袋を両の手のひらで包み込んでいた。

 失ったものを数えるな。残されたものを最大限に活かせ――今し方、ひろたかが例に引いたルートヴィヒ・グットマンの言葉と、キリサメがMMAに挑戦する理由を脳内あたまのなかに重ね合わせた未稲は、誰にも聞こえないくらい小さな声で「負けないよ、絶対」と呟いた。

 スポーツによるリハビリと社会復帰を促した〝パラリンピックの父〟は、心身のハンデがあろうとも人間は何でもせるという患者本人の自信を何よりも重んじていた。

 肉体からだの躍動を魂が実感できるのもスポーツが持つ〝力〟である。これによって心が未来へと開かれ、あらゆる選択肢に自らの意思を向けていけるのだ。

 本人さえ気付いていない可能性の確認を共に分かち合う――それこそが〝心の後遺症〟に寄り添うということの本質であろう。未稲にはそのように思えてならなかった。

 あくまでも平和な法治国家を生きる人間の視点であり、例えば寅之助から救い難い傲慢と批難されても言い返せないと未稲自身にも理解わかっているのだが、〝暴力〟しか頼るものがないという過酷な環境を生きる中でキリサメの魂が惨たらしく引き裂かれたことは間違いなかった。

 ペルーから日本に移り住んで間もなくの頃、キリサメは屋根の上や電柱の頂点に立つという奇行を繰り返していた。その理由をたずねたときにも「安心する」という一言のみが回答であった。つまり、己の身を危険な状況に晒していないと落ち着かないということだ。


「――もしかして、その子はわざとスリルを味わっているのではないでしょうか。激戦地に送り込まれていた兵士が帰還すると、平和な世界には居場所がないと思って落ち着かなくなるそうであります」


 新しい〝家族〟となった少年の為人ひととなりを理解しようともしていなかった頃である。警察に通報されてもおかしくないような奇行に耐え切れなくなり、ゲーミングサークルで最も親しくしている『デザート・フォックス』へ相談したこともあったのだが、その男友達は軍事に詳しい視点からキリサメの症例を〝帰還兵〟に見立てていた。

 普段は心の奥底に寝かしつけているが、何かの拍子に暴発しそうになる破壊の衝動を最もで発散し得る〝場〟としてMMAのリングこそ相応しかろうと未稲は考え、キリサメを『天叢雲アメノムラクモ』にいざなったのだ。

 彼が歩んできた〝道〟が間違いでないことを証明したい。暴力性の顕現あらわれたる『聖剣エクセルシス』も喧嘩殺法も、今まで彼を生かしてきた〝力〟として胸を張れる誇りなのだ――そのことをキリサメ自身に確かめて欲しかった。

 ようやく迎えたデビュー戦は、己の手によってせることをキリサメが見つめる為にも不可欠な〝通過儀礼〟なのである。

 キリサメにとってのルートヴィヒ・グットマンは自分しかいない――そのように心の中で念じながら、未稲は預かり物の守り袋を胸に押し付けた。


(……とかっていう幼馴染みにも絶対に負けてない……)


 現在いまもペルーの首都リマにて暮らしているであろうキリサメの幼馴染み――・ルデヤ・ハビエル・キタバタケへの対抗心が未だに燻り続けている。

 例えば栩内駒由から提供される予定の応援歌をインターネットで大々的に公開し、彼女のファンをも取り込むという広報戦略などには思い付きもしないだろう。MMA選手としてのキリサメを誰よりも近くで支えているのは八雲未稲なのだ。

 『聖剣エクセルシス』を振り回し、血塗られた金を拾うのではない新たな〝道〟を共に生きようと誓い合ったのも自分だけである――顔も知らないに勝ち誇ってみせた未稲は、二〇一三年にペルーで発生した『七月の動乱』が現代の日本にけるデモ活動とは何もかもが異質であるという事実を殆ど認識していない。


「――何様のつもりだ、てめーら⁉ このオレに……『武運崩龍ブラックホール』の親衛隊長にこんなコトしてタダで済むと思うんじゃねーぞ! 楽器の持ち込み禁止ィ⁉ てめーら、甲子園知らねーのか⁉ 高校野球にもラッパ吹き鳴らす応援団がいるだろうがよ! 間違ってんのはてめーらの脳ミソのほうなんだよッ!」


 未稲の思考あたまに耳障りな喚き声が割り込んだのは、「キリくんはなんだから」と己に言い聞かせるよう呟いた直後であった。

 彼女たちが話し込んでいるフロアと正面玄関エントランスは『天叢雲アメノムラクモ』岩手興行のポスターを貼り付けた衝立パーテーションでもって物理的に遮られ、〝一般客〟の進入を禁じていた。その向こうから酒と煙草で焼けたダミ声が飛び込んできたのである。

 不愉快なことであるが、その声に未稲は聞きおぼえがあった。は彼女だけではない。梨冨を除く全員が衝立パーテーションのほうへと勢いよく首を振り向かせ、ひろたかに至っては「当日くらいは会いたくなかったのに……」と比喩でなく本当に頭を抱えた。


「あァッ⁉ 未稲じゃねーか! ヒロも居やがる! つか、知り合いばっかりかよ! 良いトコで出くわしたもんだぜ! てめーんトコのクソ野郎ども、オレからギターを取り上げようとしやがってよォ! 総長とアマカザリの決戦をオレの音楽おとが盛り上げねェでどうすンだっつーの! 姉弟てめーらからも言ってやれ、甲子園を見習えってなァッ!」


 メインアリーナや選手控室と連絡するフロアに顔見知りを幾人も見つけ、狐のように吊り上がった目を輝かせたのはつるぎきょうである。

 〝短ラン〟と呼ばれる変形の学生服を素肌に羽織るという数世代も古い不良ツッパリの出で立ちはキリサメの対戦相手――じょうわたマッチが率いる暴走族チーム『武運崩龍ブラックホール』の構成員であることを表していた。太腿の部分が異様に広く、裾が細い〝ボンタン〟と呼ばれるズボンは〝城渡総長〟も穿いているのだ。

 城渡のセコンドを務めるわけでもない恭路は〝一般客〟として入場するつもりであったようだが、現在いまは『天叢雲アメノムラクモ』の運営スタッフから数人がかりで腕や腰を掴まれている。力ずくで衝立パーテーションまで引き摺られてきたことは一目瞭然であった。


「トラブルメーカーって生き物は最悪のタイミングでやらかすもんだけど、恭ちゃんは本当、みんなの期待を裏切らないよね。今度は何をやったのさ? アメリカで『ウォースパイト運動』がバカの頂点を極めたばっかりなんだから、このまま岩手県警に突き出されてもおかしくないよ。面会くらいは行ってあげるから楽しみにしててね」

「瀬古谷までオレを悪者扱いかッ⁉ オレはなにモンだ? 島津十寺工業高校シマコーの〝番長〟は世を忍ぶ仮の姿で、『げき』のギタリストはもう一つの姿! その正体は『武運崩龍ブラックホール』親衛隊長だァッ! 景気付けに〝ゾク車〟でリングの周囲まわりを走り回るっつうプランは二本松副長にバックブリーカーで止められたがな、その瞬間の昂ぶりは今だって燃えてらァッ!」


 金髪のパンチパーマは額の剃り込みが鋭く、鼻の下に髭を蓄えるというこわもてでもって視界に入った運営スタッフを片端から睨み付けているが、恭路のほうが何らかの問題トラブルを起こしたことは日頃の振る舞いからも明らかであろう。

 強制的に連行されてきた原因は改めてたずねるまでもあるまい。恭路はベルトを襷掛けにしてV字型シェイプのエレキギターを背負っていた。

 彼は『げき』というインディーズバンドのギタリストでもあり、アルミのピックで六弦を掻き鳴らせば、その演奏一つで誰もが魅了されてしまう才能の持ち主であるが、が〝特例〟を許される条件にはならない。『天叢雲アメノムラクモ』の興行イベントでは楽器を用いた応援を全面的に禁じているのだ。

 アンプの有無に関わらずエレキギターを持ち込もうとすれば、受付に預けるよう求められるのは当然であろう。これを拒絶するようなら入場も認められまい。説得の余地を残して門前払いの措置を取らなかったのは運営スタッフの温情である。


「持ち込み禁止と取り決められていることに逆らっちゃいけませんよぉ? MMAは私たちの甲冑格闘技アーマードバトルと同じように〝なんでもアリ〟が魅力ですけど、にルール違反は含まれていませんから」


 鎧姿で恭路を注意する筑摩はこれ以上ないほど滑稽シュールで、寅之助は二人の顔を交互に見比べながら厭味としか表しようのない薄笑いを浮かべた。


「おい、上下屋敷ィ! 手ェ貸せや、コラッ! てめェ、『E・Gイラプション・ゲーム』の構成員じゃねぇのかよ、あァん⁉ 瀬古谷もよォ、仲良しこよしでってんじゃねぇぜ! このナメたバカどもに思い知らせてやんだよッ!」

御剣てめーから呼び捨てされる筋合いはねーよ! ェがナメんじゃねぇ!」


 上下屋敷から金的を蹴り上げられたことで途絶えたが、恭路の喚き声は打撃の応酬よりも遥かに深刻な損害ダメージを彼女に与えている。

 『天叢雲アメノムラクモ』と敵対する地下格闘技アンダーグラウンド団体『E・Gイラプション・ゲーム』の選手であることがフロアの全体に知れ渡ったのだ。恭路を押さえ込もうとしていたスタッフたちは先ほど梨冨が下した判断を知らず、上下屋敷の〝立場〟が暴かれた瞬間、一斉に顔を強張らせた。

 容赦なく急所を抉られ、膝から崩れ落ちはしたものの、恭路も反撃しないはずがない。実態はともかくとして、己が暴走族チームの親衛隊長に相応しい強さであることを信じて疑わない男なのだ。人並み外れて気位も高く、やられたままでは終われないのである。


「偶然の連鎖っていうのは笑えるオチがつかなきゃダメでしょ……この流れを喜劇コメディとして楽しめるほど私も悪趣味じゃないんだよなぁ……」


 開会式オープニングセレモニーまで既に二〇分を切っている。

 甲冑格闘技アーマードバトルの発展を担う人材として筑摩に哀川神通を推薦することも、電知から預けられた武神の守り袋をキリサメに手渡すことも絶望的になってしまったと悟った未稲は、悲鳴を上げながら転げ回る恭路を睨んだのち、苦虫を噛み潰したような表情かおで天井を仰いだ。

 壁を飾るレリーフではあるものの、野球やバスケに興じる若きアスリートたちは、統括本部長の娘が食いしばった歯の隙間から呻き声をらすさまを一言も発することなく見下ろしていた。

 おそらくは作成された時期であろう。レリーフに添えられたプレートには題名と併せて一九九七年と浮き彫りにされている。『天叢雲アメノムラクモ』の前身団体『バイオスピリッツ』が旗揚げされ、その第一回興行でプロレスがブラジリアン柔術に負けた年でもあった。前年末にペルーで発生した日本大使公邸人質占拠事件が解決したのもこの年だ。

 一九九七年――キリサメ・アマカザリと八雲未稲がこの世に生をけ、内戦によって深く傷付いた人々を支えるべく日本人技師がルワンダに義肢装具の工房を開いた年である。



                     *



 キリサメと大鳥が語らっている間、手持ち無沙汰であったのか、自身がリングに上がる第六試合は数時間も先であるというのに本間愛染はトレーニングルームに用意されたバランスボールの上で胡坐を掻き、その姿勢を維持したまま器用にも柔軟体操ストレッチを始めている。

 その愛染はまたしてもキリサメから怪訝な表情を引き出したが、早過ぎる準備運動ウォーミングアップに面食らった為ではない。


「昔、さる偉い御方が『サソリの毒は後で効く』と仰せになった。道化を気取る樋口郁郎は、その毒もまた知らぬ内にジワリジワリと血を穢し、皮膚に喰い込んだ針を見つけたときにはもはや、間に合わぬモノ。キミは自分の頭脳あたまを誇って良い。淵から足を踏み外すより早く毒壺の底を覗くことができたのだから」


 自分を『天叢雲アメノムラクモ』に迎え入れてくれた樋口郁郎に対する恩義と、強権をもってして日本格闘技界を翻弄する〝暴君〟の所業への当惑が心のなかで入り混じり、これを持て余して俯き加減となってしまったキリサメの脳天あたまを〝詩的〟と呼ぶには余りにも奇怪なる言葉が打ち据えたのである。


「……は偉人の格言じゃなくて日本の古い歌謡曲……ですよね? 死んだ母も楽しそうに唄っていましたよ」

「キミの母上と語らえなかったことが悔やまれてならないな。ギルバートとサリヴァンに留まらず、世のことわりを広く取り上げ、地獄の果てまで貫き通す一途さまで伝えておられたようだ。その母上から譲り受けた賢さは、毒壺の淵に掛けた足の向きを後ろに変えるという選択肢もキミに示したのではないか? 私はそれを臆病とは罵るまい」

「……大体の流れは自分も掴めましたよ。が口を挟むのもどうかと思いますが、本間さんの仰った選択肢は、自分が手放してきた五人の福沢諭吉を台無しにするものじゃありませんか……」


 大鳥が述べた「五人の福沢諭吉」とは、改めてつまびらかとするまでもなく日本で流通している一万円札五枚という意味だ。スポーツチャンバラで用いる『エアーソフト剣』と、これに空気を注入する電動ポンプの一揃いの買値であるが、それをキリサメの前で明かしてしまうのは大鳥の性格上、品のないことであった。口を滑らせたことを自覚した直後には気まずげにこうべを垂れている。

 大鳥はスポーツチャンバラの競技選手ではない。それ故、店頭に陳列されていた電動ポンプを必要不可欠な道具と信じ込んで買い求めたわけであるが、の練習に『エアーソフト剣』を用いる場合は手動の物で十分であった。

 スポーツチャンバラにける電動ポンプとは、筒状の刀身を短時間で大量に膨らませる必要のある競技大会ないしは教室で導入されることが殆どなのだ。〝福沢諭吉〟の人数を三人ほど減らせたことに気付き、幼馴染みの筑摩依枝を「しっかり者のようで抜けているサトちゃんだからイイのっ」と悶えさせるのは、これから後日のことである。

 一方のキリサメは再び本間愛染と向き合っている為、そもそも大鳥の話した内容ことは右耳から入って左耳へと素通りしている。今度はその大鳥の翻訳に頼らず自力で解読できたのだが、つまるところ、愛染は〝暴君〟の所業に恐れをなしたのかとただしているわけだ。


「いずれはひきアイガイオンと同じ闇に呑み込まれるだろうキミは――〝黙示の仔〟は、樋口の毒壺をぶちまけ、私たちが立つべきリングを死の臭いで満たす役を担っているのかも知れない。淵に掛ける指が足から手に替わったとき、そのときにこそサソリの笑い声が訃音として響くことであろう」


 ひきアイガイオン――それはフライ級のタイトルマッチという栄光の舞台に挑みながらも王者チャンピオンの光を奪うという最悪の反則行為を仕出かし、ボクシング界から永久追放された男である。実父の家庭内暴力に抗うべく拳を握り、その中で暴力こそであると目覚め、最後には自らも同じ過ちを犯した鬼畜とも言い換えられるだろう。

 合宿先のすがだいら高原にて遭遇したとき、キリサメは数多の人々が「格闘技界の汚点」と吐き捨てるひきアイガイオンと同じ末路を辿るであろうと愛染から〝予言〟されていた。

 傍若無人な振る舞いは世の常識に縛られない無頼漢として大衆から好意的に受け止められることがある。これを〝テレビ受け〟すると舌なめずりしたマスメディアにひきアイガイオンは時代の寵児の如く祭り上げられ、身の破滅に至るまで暴力に酔い痴れ続けた。

 その鬼畜と何ら変わる存在ものではないと愛染は新人選手ルーキーに突き付けたのである。〝二人のアイガイオン〟は、共にくらい双眸の持ち主であった。

 〝黙示の仔〟という余人には理解し難い呼び名は、日本MMAを今度こそ滅亡せしめるという意味であるそうだが、くだんのタイトルマッチが災いしてプロボクシング界に対する信頼が地に落ち、その在り方にまで疑問の目が向けられたのは紛れもない事実である。

 世間の批判が一等高まった直後に切り捨てたのだが、〝甘い汁〟を吸わんとしたマスメディアは数々の問題行為をも〝型破りな天才〟のように仕立て上げた。フライ級王者チャンピオンへの挑戦を生放送していたテレビ局のアナウンサーに至っては、リングが血に染まったときにも「不幸な事故」とまで擁護している。

 まさしく「格闘技界の汚点」としか表しようのない二〇〇〇年代の悪夢を記憶している人々は、得体の知れない少年と情報戦に長けた〝暴君〟の結び付きからを想い出して危機感を抱いてしまうのだ。愛染もその一人ということである。

 ひきアイガイオンが我が子を死に至らしめたとき、彼を祭り上げていたテレビ局は、そうした事実など最初からなかったような顔で〝凶悪事件〟を報じている。


「今のキミには『天叢雲アメノムラクモ』のリングも楽園と見えていることだろう。それは私も否定はしない。楽園であって欲しいと願ってやまない。だからこそ、キミには毒壺から離れて貰いたいのだよ。……では、キミをどこに? その拳で未来を開かんとするならば神通が身を置く団体が似つかわしいと思うが、傷付いた顔があの子の母性本能を揺さぶるのも間違いない。成る程、そうして神通を手籠めにする気か。見抜いたぞ、スケ心ッ!」

「それほど生温い人じゃありませんよね、神通氏は。何と言い表したら良いのか、……誇り高い人のように思えます。仮に本間氏の望み通りのようになったとしても、僕のことを気遣ってはくれるかも知れませんが、憐れみを掛けたりはしないはずです」


 そのように言い募るキリサメの脳裏には、南北朝時代から数えて六世紀にも亘る流派を宗家として双肩に担い、己の生涯をも『聖王流』の歴史に捧げんとする哀川神通の凛々しい顔が浮かび上がっていた。

 彼女とは余人が立ち入れない〝共鳴〟で結ばれているとキリサメも感じているが、は甘ったれた馴れ合いとは違うのである。


「随分と知ったような口を叩いてくれるな。それもまた〝黙示〟なのか? 私も見たことのない感情をあの子から引き出したと自惚れるつもりならば、こちらにも覚悟がある。神通と草津温泉へ出かけたときの写真で勝負だ。言わずと知れた内風呂付き。全てをさらけ出す付き合いで〝黙示〟を跳ね返してくれるッ!」

「――いえ、……遠慮しておきます」

「今の微妙な〝間〟はちょっと面白かったですよ。アマカザリさんも案外、感情豊かなんですね。一人の友人として安心しました。バロッサさんのマネージャーとしてはスケ心とやらに警戒心を強めましたがね」

「大鳥氏もで反応しないでください……」


 冷やかすような眼差しを向けてくる大鳥に苦笑を浮かべつつ、キリサメは哀川神通の同情を引くつもりがないことを明示する為に正面から愛染を見つめて首を横に振った。

 次いでキリサメはランニングマシーンの間を抜けるようにして窓辺へと向かった。その口から滑り落ちたのは、何ともたとがたい溜め息である。


「……僕は本間氏の言うような賢い人間なんかじゃありませんよ……」

「謙遜はときに美徳となり得ないことをここで学んでおきなさい。キミは鬼庭鋼バトーギーン・チョルモンからやり場のない怒りで焙られた後、その状況をアンヘロ・オリバーレスと一緒になって『軍艦ピナフォア』にたとえてではないか。いっそ我が助手として働くのはどうだ? いや、それでは結局、神通との接点が増えてしまうな。ううむ、破廉恥の〝黙示〟は晩夏の蝉と同じくらいしつこいものだ」

「……本音を言えば、〝大きな力〟の働きに戸惑っています。精一杯、手を伸ばしても決して届かないところにある〝大きな流れ〟に……。僕が本当に賢かったら、その〝大きな力〟が僕をどうやって動かして、〝大きな流れ〟でどこに運んでいくのか、簡単に読み解いて結論を出せるはずですよ。……僕にはどちらもワケが分からない」


 二人に背を向けたまま奥州の空を仰いだのち、キリサメは己のみぎてのひらへと目を落とした。

 大鳥は既に『エアーソフト剣』も電動ポンプも片付け終わったが、キリサメのほうは練習用の指貫オープンフィンガーグローブを嵌めたままである。

 現在、時計の針は一五時半に差し掛かろうとしている。一六時から始まる開会式オープニングセレモニーの後には試合用の指貫オープンフィンガーグローブを装着し、デビュー戦へ臨むことになる。そのときに彼の両拳を包み込むのは白雲のいろであった。

 は『天叢雲アメノムラクモ』の統括本部長が東日本大震災の被災地にて仰いだ雲の色を映しているのだが、窓の向こうに養子キリサメが見つめた雲は依然としてにびいろである。


故郷ペルーた四ヶ月前までは、目の前で起きていることや自分の置かれた状況に『ワケが分からない』と首を捻ることなんかありませんでした。……そこまで頭を使う必要だってなかったんです。今日を生き延びる――そのことを特別にしたこともなかった……」


 キリサメが生まれ育った非合法街区バリアーダスは、旅人の守護聖人を象徴する巨大な十字架が立てられたサン・クリストバルの丘にへばり付くような恰好で所在し、首都リマの中心部に流れるリマック川を挟んで〝表〟の社会とは隔絶されている。架けられた橋の上では自動小銃を携えた軍人が目を光らせ、道に迷った旅行客がへ入り込むことを防いでいた。

 それはつまり、橋を渡った先では〝表〟の法律など通用しないことを意味している。

 だからこそ、キリサメは生き残るすべとして〝暴力〟しか頼りにできなかった。呪わしく禍々しい『聖剣エクセルシス』を振り回すことでしか生きる糧を得られなかった。暴風雨によって吹き飛んでしまう粗末な掘っ建て小屋や、廃タイヤを埋め込んで階段を作らざるを得ない格差社会の最下層では、が命を繋ぐ為の〝掟〟であった。

 〝表〟の情勢――〝大きな流れ〟などは関わり合う理由もない。母が没してからは日系社会との繋がりさえも殆ど切れてしまっている。新聞を読むこともなくなっていたが、そもそも故郷ペルーの有り様について興味すら持てなかったのである。

 血塗られた手で『聖剣エクセルシス』を握るようになって以来、政府転覆を目論むテロ組織とは宿敵同士となり、国家警察と手を結んで幾度となく死闘を繰り広げた。一年前に首都リマで起きた大規模な反政府デモ『七月の動乱』では幼馴染みの少女を砂色サンドベージュの彼方に喪失うしなっている。

 キリサメが生まれた一九九七年にようやく解決に至った日本大使公邸人質占拠事件の顛末など、反政府組織が社会の〝闇〟に反乱分子が隠れ潜むペルーで暮らす以上は〝表〟の混乱と全くの無関係ではいられないが、それでも世の中を動かしていく〝大きな流れ〟は横目で窺う程度であった。

 を左右するほど〝大きな力〟を握り、自らの望む形へ導かんと画策する人間には激しい嫌悪感を抱いていた――そのはずであったのだが、ペルー社会と日本の総合格闘技MMAという差異ちがいこそあれども、今は〝大きな流れ〟の渦中に自ら飛び込もうとしている。

 それどころか、時代の流れを変えてしまえるほどの〝力〟も秘めた人々とも交わるようになっている。養父の八雲岳は言うに及ばず、〝暴君〟と恐れられる樋口郁郎も、彼の師匠が煽った〝スポ根〟ブームの成れの果てに決着をつけようとする教来石沙門も、誰も彼も日本ハポンへ移り住む以前は関わり合いになりたくないと考える種類タイプの人々である。

 故郷ペルーける〝例外〟を上げるとすれば、教育をもってして貧民の巣窟たる非合法街区バリアーダスに明るい未来をもたらそうと励んでいた亡き母――ミサト・アマカザリくらいであろう。それ以外を探していけば、自らの手で血の海に沈めたテロ組織に行き着くが、革命の大義の為ならばの民にも犠牲を強いる殺戮者たちを母と同列に並べたくはなかった。


「……振り返ってみれば、僕の周囲まわりは〝大きな力〟を握り締めた人たちばかりですよ。神通氏だってその一人です。僕とそんなに年齢だって変わらないはずなのに、たった一人で自分の継いだ武術の歴史を背負い抜く覚悟まで固めている。……その気持ちが僕には全く想像できません」


 『天叢雲アメノムラクモ』岩手興行の会場もまた〝大きな流れ〟の只中にる。

 市民たちの憩いの場である体育館をMMA専用の試合場にような設営が半日足らずで完了し、屋外そとには地元の名物を振る舞う露店まで並んでいる――開催先の経済振興をも織り込んだ計画を樋口の立案に基づいて具体化し、完遂したのは主催企業サムライ・アスレチックスさいもんきみたかである。

 興行イベントの幕間に剣劇チャンバラを披露する道場『とうあらた』の創設者であるがわだいぜんは、そもそも殺陣という一つの〝文化〟を日本で花開かせた大名人であるという。リハーサルを見学する機会に恵まれたのだが、参加したたちの太刀筋は芸術としか表しようがないほど完成されており、同道場の体験会ワークショップで学んだことをMMAに取り入れようという発想が恥ずかしく思えてならなかった。

 『キリサメ・デニム』と名付けられた試合着の開発に関わったたねざきいっさくも、現代日本を代表するデザイナーである。『人物デザイン』などの役職で数多の映像作品・舞台劇に携わり、美容界にて養われた技術と感性でを完成させていくという。

 未稲と大陸の実母であるおもてみねも国際的に評価の高い映像作家である。試合中の技術解説を担当する鬼貫道明に至っては、総合格闘技MMAという〝道〟の出発点――異種格闘技戦の扉を開いた『昭和』の伝説的プロレスラーなのだ。

 日本格闘技界に君臨する〝暴君〟や、団体の垣根をも超え、一丸となって東北復興支援に取り組んでいく一大事業プロジェクトを旗揚げに導いた統括本部長だけではない。『天叢雲アメノムラクモ』に何らかの形で携わる人々は、いずれもそれぞれの分野で一時代を築いてきたのである。

 当代の叡智が結集した〝場〟に自分は余りにも不釣り合いではないか――曇天に放り出された問い掛けは儚く、キリサメの口から再びこぼれた溜め息には自嘲が混じっていた。


「僕がハポン――日本で出会った人たちは誰もが〝大きな流れ〟を作り出せる〝力〟と資格を持っていました。……大鳥氏の幼馴染みというあの女性ひとも僕には眩し過ぎる」

「……何となく分かりますよ。依枝さんは日本でも甲冑格闘技アーマードバトルを普及させる為に日夜、頑張っていますし、それは確かにアマカザリさんの仰る〝大きな流れ〟ですね。余りにも意気込み過ぎて、危なっかしく感じる瞬間も多々ありますが……。鎧姿のまま平気で出歩いては職務質問されるんですよ、依枝さん」

「岳氏も陣羽織という派手派手しい上着で買い物に出掛けてはみーちゃんに叱られていますね。……岳氏も筑摩氏も、自分の為すべきことを明確に見定めている。だから、傍目にはおかしく見える姿を迷いなく貫けるんじゃないでしょうか」

「幼馴染みのことをそこまで褒めて頂けると、何だか背中が痒くなってきますよ」

「……僕はあの人たちのようにはなれない。自分が本当にするべきことは何なのか、結論を出せないまま今日という日を迎えてしまった。そんな自分が恥ずかしくてなりません」


 僅かな躊躇こそ挟みはしたものの、長い間、胸の奥で渦巻き続けていたモノを吐き出していく自分自身にキリサメは驚いていた。

 〝家族〟である岳や未稲にも打ち明けずにいたことである。それどころか、自分のなかに垂れ込めた黒いもやが負い目や後ろめたさといった感情であることを今でも完全には自覚もできていない。

 競技選手アスリートが十全の力を発揮する為には、このような感情の揺らぎを制御することも不可欠である。しかし、何事にも感情の起伏が薄いキリサメだけに平静を保っているよう周囲まわりから認識されており、今日まで誰一人としてを指導していなかった。その不足が初陣間際の大事なときに新人選手ルーキーを蝕んでいるのだ。

 自分では名前も付けられない未知の苦しみをキリサメが吐露できたのは、大鳥と愛染が己の〝家族〟と大して近しいわけでもなく、何よりも〝このこと〟を他人に決して喋るまいと信じられた為である。

 哀川神通を巡って対抗意識を剥き出しにし、また日本MMAの未来を憂えて厳しいことも口にするが、難解な言い回しを除けば本間愛染の言葉は常に真っ直ぐであった。仮に告げ口といった卑劣な真似を好む人間ならば、誇り高い神通とは決裂していたはずである。

 声優事務所のマネージャーとして負うべき役割を格闘家としての所属先バロッサ・フリーダムに委ねた後も背広を脱がないくらい真面目で、堅物の二字こそ似つかわしい大鳥聡起の場合は、準備運動ウォーミングアップを聞き付けた希更から様子をたずねられてもしか話すまい。


「……奥州市ここに来る前、陸前高田市にも行ってきました。僕たちと同じ気持ちであの町を回っていたモニワ氏――『NSB』の代表と鉢合わせたのですが、そのときに岳氏から目を離さないよう言われたんです。そうすれば、あの人のようになれるのかという問い掛けにも答えが出るはずだと。……課題にしては荷が重過ぎます」


 ガラス窓を挟んで曇り空に映ったキリサメの双眸は普段いつもより空虚であり、この場に居ないイズリアル・モニワへ返答こたえを示すようにかぶりを振った。

 ほんの三年前まで『NSB』で活躍していた愛染は、団体代表へ就任する以前から上級スタッフとして運営に携わってきたイズリアル・モニワとも親交が深かったようで、キリサメが〝旧友〟の名前を紡ぐと、「如何にも『イジリー』らしいな。あれは『NSBじぶんのところ』の選手も良い意味で甘やかさない」と愛称ニックネームを交えながら薄い笑みを浮かべた。

 陸前高田市にて邂逅した『NSB』代表が言わんとしたその意図はキリサメも間違いなく受け止め、理解したつもりであるが、そもそも岳は途方もない存在である為、〝何〟を見つめていれば良いのかも掴み切れない。猪突猛進な言行は単細胞と揶揄されているが、それでいて計り知れない大器うつわの持ち主なのだ。

 鬼貫のもとで『鬼の遺伝子』として挑んだ異種格闘技戦に始まり、こんにち総合格闘技MMAに至るまで己の手で時代を動かしてきた偉大なる男から〝何か〟を受け取る眼力など自分に備わっているわけがない――奥州の曇天から足元に転じていたキリサメの目は、瞳の奥に諦念を湛えている。

 甲冑格闘技アーマードバトルを普及させるべく奮闘し続ける筑摩依枝は言うに及ばず、前田光世コンデ・コマに倣って世界最強の夢を目指す空閑電知も、日本史上最強と謳われる剣道家――森寅雄タイガー・モリ直系という道場の跡取りである瀬古谷寅之助も、身近にる誰もが明確な〝何か〟を胸に秘め、これを揺るぎなく見据えて突き進んでいる。

 まだ言葉を交わしたことのない『天叢雲アメノムラクモ』の〝先輩〟たちや、三年前の会合を経て東北復興支援事業プロジェクトに名を連ねた〝同志〟たちも同様であろう。

 古くから武芸が盛んな熊本県でミャンマーの伝統武術『ムエ・カッチューア』を教え広めるバロッサ家の一族は、日本国外の格闘技界でも存在感を示しているそうだが、その理解が捗っていないキリサメにとっては、友人である希更個人こそ大きく感じられた。

 秋葉原で寅之助と斬り結んだときのことだが、同じ日には〝げきけんこうぎょう〟の場から程近い物産館アンテナショップにて主演アニメ『かいしんイシュタロア』のファンイベントが開催されており、町中に聞こえる音量のトークショーを通じてキリサメに自分たちは『天叢雲アメノムラクモ』の仲間だと呼び掛け続けたのである。

 希更のように声一つで誰かに寄り添うことなど出来ようはずもない。

 〝げきけんこうぎょう〟を追い掛けた野次馬の中には、そのときのやり取りがきっかけとなって交際に至った人々もおり、「アマカザリ選手のお陰で人生変わりました!」と感謝の言葉も掛けられたが、指貫オープンフィンガーグローブを嵌めても誤魔化しようがないほど両手が〝血〟と〝罪〟でけがれている人間に希更の真似事など不可能である。わざわざ試すまでもあるまい。

 友人たちのように明確な目的を持たず、『天叢雲アメノムラクモ』のリングサイドをうろついているだけに過ぎないのである。格差社会の最下層で『聖剣エクセルシス』を振り回していた頃は他者ひとと比べて自分の値打ちを測ろうとは考えもしなかったのだが、現在いまはMMA選手を称することさえ許されない矮小な存在のように思えてならない。


(……金持ちの道楽が板についた。全身の隅々まで〝富める側〟に染まり切った――なんて、またから皮肉られそうだけど、……そんなの僕だってもう分からない)


 湘南の暴走族チームにて親衛隊長を務める御剣恭路には、彼が敬愛してやまない〝城渡総長〟――即ち、デビュー戦の対戦相手と闘うだけの資格を本当に備えているのかと激しく問い質されたこともある。

 そのときには城渡マッチと真摯に向き合う覚悟を示したのだが、今、同じことを再び難詰されたならば、おそらくは恭路を激怒させる結果に終わるはずだ。当代の叡智が集結した『天叢雲アメノムラクモ』のリングへ足を踏み入れてはならないのではないかと、どうしても躊躇ためらってしまうのである。

 これでは〝客寄せパンダ〟としても使い物にならず、樋口から受けた恩を返すこともままならない。養父と麦泉から寄せられる期待も最悪の形で裏切ってしまうだろう。


「……何も背負っていないちっぽけな人間が、みんなと肩を並べられるはずなんかない」


 MMA選手としての在り方に迷い、黄金時代の終焉と共に現役を退いた〝先輩〟――じゃどうねいしゅうを訪ねた日、彼が沖縄クレープを振る舞うフードトラックの前で教来石沙門と出会い、自らの愛する空手の為に命を捧げんとする覚悟に触れてただただ圧倒された。それ以来、心の奥底にて疼き続けていた葛藤が止め処なく溢れ出している。

 〝大きな流れ〟を作り出す資格を持った数多の人々と、暴力しか頼るものがなかった自分が同じ〝場〟に立つことなど有り得ない――本間愛染から予言された通り、このままデビュー戦に臨んでも〝MMAのアイガイオン〟として終わるしかなかった。

 サン・クリストバルの丘より吹き降ろす砂埃を頭から被りつつ、故郷ペルーの裏路地にてノコギリの如き『聖剣エクセルシス』に血を吸わせていた頃は、〝これから先〟のことなど考える必要もなかった。同世代の少年強盗団は〝富める者〟から奪う品々をより高価なものへと段階的に吊り上げていたが、自分はただ無感情にその日を食い繫ぐのみであった。

 将来の展望など一つとして持たず、母が生きていた頃を懐かしむこともない。帰りを待つ家族も、帰るべき家も持たず、罪に穢れた手で〝墓守〟の真似事をしていた。

 ささやかながら幸せであった時代の想い出を分かち合う幼馴染みも、二度と体温ぬくもりを感じることは叶わないのだ。ギャング団から死神スーパイと恐れられた少年は、未来に思いを馳せる理由も持ち合わせていなかった。

 それが現在いまは違う。地球の裏側に移り住んで四ヶ月しか経っていないのだが、その間にキリサメのなかで〝戦い〟の意味が大きく変わってしまった。気付いたときには〝これから先〟について考え抜かなくてはならない状況に立たされていた。如何にして身を立て、これを全うするのか――生まれて初めて将来を選び取る道筋を求められたのである。

 明確な結論にはついに辿り着けず、その手掛かりすら得られないまま、〝これから先〟の人生を左右する刻限を迎えようとしている。ちっぽけな人間の手に余る情況であった。


「――〝何か〟を背負わなければ、大きな志を抱く資格すら持てないという発想は、なかなかに傲慢だな。いや、MMAの根を腐らす悪しき波動を誰よりも浴びる〝黙示の仔〟としては似合うの不遜か。我が子の腹を満たし得る糧を求め、闘いの楽園に足を踏み入れる勇者たちも多いのだが、人として当たり前の願いすらもキミの目には七つの大罪に触れし愚者と見えるようだ。悲しいな、実に悲しい」


 二〇〇〇年代半ばまでのような黄金時代が過ぎ去って久しい現在いまは、〝プロ〟の選手であろうとも家族を養う為には兼業せざるを得ない。〝本業〟を別に持たなくては格闘家としての活動も維持できなくなる――日本の〝格闘技バブル〟は崩壊した後という〝現実〟が頭から抜け落ちた迂闊を愛染の鋭い指摘ことばで思い知らされたキリサメは、ますます俯き加減となっていく。

 その直後のことであった。左右の肩に強い力を感じるや否や、キリサメは抗う間もなく振り向かされ、次いで顔面を柔らかい〝何か〟で包まれてしまった。

 視界が完全に塞がれてしまった為、己が置かれた状況を即座には認識できず、最も強く五感が拾ったのは鼻孔に割り込んできた己のものではない汗の臭いであった。


「大義? 大志? くにたちいちばんの漫画でもあるまいし、これを果たさねば戦士足りえないという命題なんぞ、戦場に抱えていったことは一度たりともない。双方ふたつの拳による連弾には邪魔なだけだ。『こっぽう』の魂は玉鋼よりもなおつよいが、雲の如く風の如く水の如く自由に舞い踊りしその技を重き鎖で縛れようものか」


 依然として意味不明な筋運びに変わりはないが、脳天に降り注ぐ声で自分の身に起きたことだけはキリサメにも把握できた。気配を感じ取る間もないはやさで近寄ってきた愛染からいきなり頭部あたまを抱きすくめられたのである。

 丁度、豊満な胸部に顔面を埋められた格好であった。現在いまの愛染はタンクトップ以外にはシャツの一枚も着ておらず、撞き立ての餅としか表しようのない感触がじかにキリサメの頬に伝わっている。

 これが艶めいた話に事欠かない教来石沙門や、愛染に傍迷惑なくらい慕情を押し付けている御剣恭路であったなら、鼻息を荒くしたことであろうが、何事にも無感情なキリサメには窮屈なだけであり、「こっぽうとやらには人を窒息させる技もあるんですか」と漏らした声は、両頬で押し潰される感触を満喫しようという調子ではない。

 傍から見ていた大鳥のほうが慌てたくらいであり、「タブロイド紙の記者が大喜びでカメラを向けますよ。見出しは熱愛疑惑か、セクハラ事件か。どちらにせよ、〝本業〟に差し障るのでは」と、呆れ返った声で愛染を窘めた。


「聖書という旅に出掛けるまでもなく〝黙示〟とは天より舞い降りしもの。さしずめキミは地上が毒壺と化すのを見下ろす星々か。これを仰ぐ我が目には傲岸にして不遜としか思えんが、それもまた亡き母上の教育の賜物であろうな」

「……賢そうに振る舞う人間というのは、例えそれが浅知恵であっても周囲まわりから増上慢と思われる――まさに死んだ母から注意されました」

「しかし、キミは星々よりも遥か彼方におのが身を刺す戒めの剣を垂らしている。故に肥大した自意識も他者への愚弄ではなく、己自身へ振り落とす裁きの鉄槌としている。傲慢と誠実――相反する精神たましいが身のうちで無限の闘争を繰り広げるのは生き苦しかろうに。……悲しい。余りにも悲しいな、〝黙示の仔〟とは」


 愛染が述べた戒めの剣とは『ダモクレスの剣』とも呼ばれる伝説の引用であった。城渡マッチのセコンドを務めるほんまつつよしが樋口の暴挙を面と向かって痛罵した際にも『サムライ・アスレチックス』の社長室に飾られた「士道不覚悟は切腹」という仰々しい掛け軸と共に引き合いに出していたはずだ。

 樋口はくだんの掛け軸と併せて、台座に差し込まれた大小一揃いの日本刀を背にしながらMMA団体代表としての仕事を遂行しており、これをもって二本松剛は『ダモクレスの剣』の伝説になぞらえたのである――そこまで振り返ったところで、キリサメは愛染から抱き締められている理由を悟った。

 先ほど口にした「実に悲しい」という一言は、出資者スポンサーの確保にも難渋する時代を生きなくてはならない格闘家の苦悶に思い至らなかったキリサメへの軽蔑などではなかった。相変わらず厳めしい物言いである為に伝わりにくいのだが、デビュー戦を前にして思い詰めている新人選手ルーキーを案じていたのだ。


「人間は別に立派でなくても生きていける。誰よりも強くなりたいと燃える闘魂も、愛するものの為に闘う気高さも、どちらも私の心を震わせてくれるが、背負わず気負わずお気楽極楽にリングで遊ぶ人間も同じくらい好んでいる。『天叢雲アメノムラクモ』も『NSB』も、どちらも等しく立派でない人間だらけ――そうだ、〝等しい〟のだよ」


 愛染の言葉が頭の上に折り重なるたび、キリサメのなかでは確信という二字が陰影を強めていく。この〝先輩〟から受け取った一つ一つのモノが自分にとって余りにも都合の良い解釈ではないのだと、少しずつ心に染み込み、馴染んでいくわけだ。


「プロボクシングが穢されたのち、間もなくして土俵を追われた〝平成の大横綱〟が未来を憂えて〝MMAのアイガイオン〟に立ちはだかったのはものであったが、そのときにキミを支える声が客席から流れてきただろう? 〝立場〟も何も関係なく、リングでは誰もが平等である――と」

「勿論、……おぼえています。僕なんかには勿体ないくらいでした」

「格闘技を見守る人々は、ときにリングに立つ我々より深き真理を見極めている。私の心を震わせたあの声の通り、MMAという戦場では誰もがみな平等で、故に私はリングを楽園と呼ぶことを躊躇わない。楽園の太陽もまた平等に降り注ぐ。いちいち立派であろうと自意識を高めずとも、楽園はみなに夢を与えてくれる――生きるのが苦しくなるようなら誰も楽園とは呼ぶまいよ」


 MMA選手としての道筋を断ち切らんとするような厳しい言葉を幾度となく浴びせられてきたのだが、その全てが実は皮肉や批判の類いではなく〝後輩〟への助言であったのではないか――現在いまのキリサメにはそのように思えてならなかった。

 〝八雲岳の秘蔵っ子〟――即ち、『天叢雲アメノムラクモ』統括本部長の養子という立場は、他の選手と比べて樋口郁郎に限りなく近しい。日本格闘技界全体の歯車を狂わせている〝暴君〟の影響を必然的に受け易く、その情況に対する警戒も含んではいるはずだ。

 合宿先のすがだいら高原で初めて邂逅したときには〝黙示の仔〟が『天叢雲じぶんたち』にとって招かれざる敵か、互いの腕を競い合いたいと思える仲間なのか、これを測り兼ねていたことも間違いあるまい。

 しかし、それは同時に新人選手ルーキーが進むべきみちを誤らないよう見守っているという意味でもある。ひきアイガイオンとの共通点を突き付けたのも、史上最悪の〝汚点〟として忌み嫌われる男と同じ過ちを繰り返させまいとする心遣いであったのだろう。

 体温ぬくもりもってして〝後輩〟を励ましたいと考えたからこそ、何の前触れもなくキリサメを抱き締めたのだ。言わずもがな、それはこっぽうの締め技などではあい。

 常人とは異なる領域へと感性が鋭く飛び抜けている為、誤解を招くような言行ばかりとなってしまうのだが、敵意を抱く相手を精神的に責め立てる卑劣な人間であったなら、誰よりも誇り高い哀川神通は言うに及ばず、好嫌の振れ幅が極端な御剣恭路も大昔に愛染から離れていたはずである。

 心の底から互いを憎み合っている神通と恭路には甚だ不本意であろうが、同じ『しんげんこうれんぺいじょう』で生まれた二人こそが本間愛染の為人ひととなりを映す鏡であった。


「楽園への道を踏み出せずにいるのなら、がキミの腕を引こう。まだ己は資格を持たないと嘆くのならば、〝黙示の仔〟ではない別の肩書きをで考えよう。くらの中央に〝何〟を湛えるのか、それを選び取ることもまたキミの〝黙示〟なのだから」

「楽園への道を踏み出せない――か。時おりアマカザリさんがいじけているように見えましたが、その理由も自分なりに合点が行きましたよ。……昨日よりも更にあなたという人を理解できたような心持ちです」


 キリサメの〝先輩選手〟から言葉を引き取ったのは、改めてつまびらかとするまでもなく大鳥である。

 先程も冗談交じりで「タブロイド紙の記者が大喜びでカメラを向けますよ」と諫めたのだが、猥談が大半を占める低俗な週刊誌の餌食になってしまう恐ろしさを声優事務所のマネージャーとして熟知している大鳥は、よこしまなマイクを突き付けられる前に誤解を招く条件を取り除くべきと判断し、愛染からキリサメを引き剥がした。


「ゴシップ記事で生計を立てているような記者連中は、ハリウッド映画にも楽曲を提供している音楽家あなた醜聞スキャンダルこそ待ち望んでいるものですよ。……本気でアマカザリさんをオトしに掛かっているのなら、自分も余計な口は挟みませんが、そうでもなければ軽率な行動は控えるべきかと」

「そのアメリカではハグもまた親愛や友情の証だぞ、大鳥君。何でもかんでも色恋に結び付けるのは感心しないな。キミ、恋愛映画の観過ぎではないか? 発情期のウサギにも似た脳の回線は社会へ出る前に修正しておかないと色々ツラくてイタいぞ」

「何でもかんでも哀川さんに結び付けてアマカザリさんにキレ散らかす本間さんにだけは言われたくありませんねっ」

「唇までは友人であろうと明け渡さん。は神通だけのものだ。あの子が素直になってくれるその日を夢見て予約済みなのだ。いや、神通のほっぺには既に何度となく予約解禁しているのだがね」


 アメリカでの生活くらしではありふれた日常であった〝友愛の証〟を心外としか表しようのない誤解と共に邪魔され、「大鳥君、キミは純情を拗らせている!」と鼻を鳴らした愛染はともかくとして、ようやく視界を取り戻したキリサメが次に捉えたのは、これまでになく近い大鳥の顔であった。

 愛染に苦笑いを浮かべたのちまぶたが半ばまで閉ざされている双眸を覗き込んできたのだ。


「いじけた様子……ですか。でも、そう思われてもおかしくはありませんね……」

「昨日、バロッサさんも心配していましたが、アマカザリさんはいつも肩に力が入っているような大真面目ですから、余計なことまで考えて思い詰めてしまうんですよ」


 デビュー戦の直前まえなんてガチガチになるのが当たり前だよ――気鬱を発散させようとランニングに誘ってくれた希更・バロッサの声と、奥州市の人々に正体を気取られない為に変装していた顔がキリサメの脳裏を掠めていく。

 心に垂れ込め、MMA選手としての行く末を見失ってしまいそうになるドス黒いもやは彼女にも見抜かれていたのだ。


「それは誠実さの表れでもありますが、行き過ぎれば自分を卑下していじけてしまう。虚しい気持ちを慰めようとしてドツボにハマッた経験は自分にもありますよ――」

 己を見つめてくる大鳥の瞳に一等強い力が込められ、キリサメは我知らず息を呑んだ。

「――答えを急ぐ必要はないんです。本間さんの言葉をお借りするようですが、試合開始前までに一人前になっていなくたって構わないんですよ」

「いえ、それは幾らなんでも……失格同然ですが、〝プロ〟の選手を名乗るからには半人前ではいけませんよね? 中途半端なままではきっと城渡氏を失望させてしまいます」

「MMAということだけでなく、格闘技の試合そのものがアマカザリさんは今日が初めてでしたよね? 自分がどんな選手でりたいかなんて、答えを出せるハズもありません。本間さんも初めてプロのリングに上がったとき、明確なビジョンはお持ちでいなかったのではありませんか? MMAデビューは日本の団体じゃなく『NSB』でしたよね?」

「初めて試合場オクタゴンの祝福を受けた瞬間は忘れられるはずもない。神通に持って帰るアメリカ土産はベガスのオークションハウスに出会いがあると天啓が閃いたのだよ。イジリーの紹介で出掛けてみれば、案の定、神通好みの黒茶碗がおいでなすったのだ」

「……バロッサさんがこの場に居てくれたら、もう少しアマカザリさんの緊張を解きほぐしてくれる話を聞けたのでしょうが……」

「希更氏も本間氏とそれほど変わらない気もしますけどね。途方もなく強い人ですし」


 新人選手ルーキーに寄り添うような言葉を求める相手を間違えたとかぶりを振る大鳥であったが、その心遣いはキリサメにも十分に伝わっている。だからこそ、秒を刻むごと脳内あたまのなかが困惑で満たされていくのだ。

 『天叢雲アメノムラクモ』は当代の叡智が結集した栄光の舞台である。そのリングへ臨むからには〝心技体〟を全て兼ね備えた〝プロフェッショナル〟でなくてはならないはずなのに、大鳥は同団体の選手としての在り方さえ見出せない中途半端な状態を肯定したのである。

 だが、実態を理解していない部外者による無責任な放言と切り捨てる気にはなれない。MMAと西洋剣術という差異ちがいこそあれども、大鳥聡起もまた同様の経験を幾度も積み重ねて熟達の太刀筋に至ったのであろう。

 比喩でなく本当に手も足も出ないほど封殺されたという事実が大鳥の紡ぐ一言一言に自然と首を頷かせてしまう説得力を与えているのだった。


「ひょっとすると今日のデビュー戦に寄せて、空閑さんと何らかの約束でもしていたのではありませんか?」


 その言葉が鼓膜を打った途端にキリサメが目を丸くしたのは無理からぬことであろう。親友――空閑電知とは確かに互いの勝利を捧げ合おうと誓ったのだが、これを大鳥の前で話した記憶がなかった。

 キリサメの反応を見て取った当の大鳥は「空閑さんでしたら、きっとそういう励まし方をするのだろうと思いました」と、この上なく眩しそうに微笑んでいる。大工という〝本業〟以外は日常生活にいてもじゅうどうを纏い続けるほど格闘技へ真っ直ぐに打ち込む為人ひととなりからくだんの約束を読み抜いたわけだ。


「空閑さんの期待に応えなくてはいけないと、気負っておられるのではないかと察していました。……空閑さん一人のことではありませんよね? 八雲さんやその娘さん、それにバロッサさんや、いけ好かない瀬古谷さんも含まれるのかな? 御剣さんはともかく城渡さんの気持ちまで背負っておられるご様子。きっと今日まで関わってきた人たちの為に何がなんでも結果を出さなくてはいけないと焦っているのでは?」

「こんな僕を支えて下さった人たちですから。……死んだ母にも受けた恩を返さないのは信義にもとると繰り返し教えられてきました」

「その人たちはデビュー戦で納得のいかない結果しか出せなかったとき、ベテラン選手に勝てなかったとき、ただそれだけの理由であなたを見放すと思いますか?」

「それは有り得ないです。それだけは断言できます」


 自分自身でも驚いてしまうほどキリサメの返答は早く、大鳥の言葉を遮るような勢いであった。

 己のことはどれほど卑下しても足りないのだが、日本へ移り住んでから新たに出会ったのは、寄せられた期待に応えたいと心底より思える人々であった。彼らと結び、今日まで育んできた絆も試合の勝敗という結果などで揺らいでしまうほど脆くはない――これを信じて疑わないからこそ、キリサメの言葉に一切の淀みはなかった。

 大鳥もまた自分を見限ることはないだろう。初めて遭遇したときからは想像もできないほど親しみに満ちた眼差しも、キリサメは深い感謝と共に受け止めている。

 もしも、デビュー戦が期待を裏切るような結果に終わったとしても、電知などは「次にまた頑張りゃ良いじゃねーか」と肩を叩いて励ましてくれるだろう。約束破りを非難するどころか、試合の反省点や次戦に向けた課題を一緒に考え、すがだいら高原にける合宿と同じように特訓トレーニングにも付き合ってくれるはずだ。

 新宿歌舞伎町――鬼貫道明がオーナーを務め、哀川神通がアルバイトとして勤務する異種格闘技食堂『ダイニングこん』に程近い繁華街で夜な夜な開催されている『ホスト格闘技』や、その出場選手を紹介すると話していたこともキリサメは想い出した。

 世界最強という果てしない夢に向かって迷いなく突き進む電知は、何時でも〝次〟に踏み込むべき道筋を見据えているのだ。


(……〝次〟――か。これだってには金持ちの道楽と嘲笑わらわれそうだよな……)


 故郷ペルーでは戦いの勝敗がそのまま生死に結び付いていた。言わずもがな、敗れた側は死神スーパイの懐にいだかれて冥府へと連れ去られてしまうのである。

 第三者の乱入によって勝敗を決することがなかったニット帽の男は例外であり、キリサメが『聖剣エクセルシス』を振り翳してきた〝実戦〟には〝次〟という選択肢など最初から用意されていない。そもそも命の喰らい合いは名誉や腕比べの為に行うものではないのだから、敗北を屈辱と恥じ入り、そそぐ必要もなかった。

 ルールによって選手の安全が確保された〝格闘競技〟はその限りではないのである。

 無論、レフェリーが攻防の最前線で厳しく監視し、何時でも出動できるようリングドクターが会場内で待機していようとも深刻な事故が起これば命を落とすことがないわけではないのだが、それは極めて稀であり、少なくとも日本では先例がない。

 地下格闘技アンダーグラウンドける死亡事故の実態はキリサメも把握していないのだが、『天叢雲アメノムラクモ』と同様に選手の生命が守られる環境であることは間違いあるまい。『しょうおうりゅう』という名の古武術――即ち、代々に亘って継承してきた殺傷ひとごろしの技を錆び付かせない為に『E・Gイラプション・ゲーム』へ出場している神通も乱世さながらに敗者の首級くびを上げることはないだろう。

 はもはや、格闘技の試合などではなく殺戮なのだ。

 あるいは愛染もキリサメと同様の感覚を持て余しているのかも知れない。

 関東にいて血みどろの抗争を繰り返す武闘派であり、『天叢雲アメノムラクモ』の前身団体に接近するという〝黒い交際〟によって日本MMAを一度は破滅させた大勢力の指定暴力団ヤクザこうりゅうかい』――その実働部隊へ愛染の実父がくみしていた疑惑をキリサメは記憶に留めている。

 くだんの実働部隊――『てんぐみ』は〝局長〟なる肩書きを背負った哀川神通の亡き父が率いており、現在いまは行方知れずとなっている恭路の実父や、『八雲道場』が懇意にしている整形外科医院の院長も関わっていたそうである。

 『しんげんこうれんぺいじょう』で生まれ育った二人の若者や、彼らと親しい愛染は指定暴力団ヤクザの傘下組織へ直接的には関わってないだろうが、敗者には〝次〟の機会など決して与えられない戦いを身近に感じていたはずだ。


「この試合、負けて当たり前でしょう。何しろ相手は日本MMAの黄金時代を築き上げた一人なのですよ? 前身団体バイオスピリッツの後も闘い続けてきた大ベテラン相手に番狂わせジャイアント・キリングを狙えると考えるほうが無謀です。……それほど大きいのですよ、城渡さんの器は」

「御剣氏の面倒を見続けていられるというだけで、その大器うつわが証明されますね……」

「そんな城渡さんなら、どんな状態のあなたでも受け止めてくれますよ。半端な状態に失望されたくないと恐れるよりも、KO覚悟で思い切りぶつかることをお勧めします。向こう見ずな闘魂を燃やす〝後輩〟のほうが城渡さんも喜ばれるでしょうし」


 もまた故郷ペルーの戦いと異なっていた。地球の裏側ではキリサメに立ちはだかる〝敵〟はいずれもノコギリの如き刃でもって屠る対象でしかなかった。

 空閑電知や瀬古谷寅之助との路上戦ストリートファイトを経て、希更が主演するアニメシリーズ『かいしんイシュタロア』が主題テーマとして掲げている『相互理解』の意味をキリサメも少なからず学んだのである。

 MMAのリングを愛染が〝楽園〟にたとえる理由も今ならば理解できるつもりであった。


「……懐を借りる――というヤツですか」

「うむ、それがよかろう。キミがアンヘロ・オリバーレスと大盛り上がりだった喜歌劇コミックオペラ題名タイトル――『ピナフォア』も〝赤ん坊の涎掛け〟といった意味だからな。己の立場に引っ掛けてギルバートとサリヴァンを持ち出したのかと感動させられたよ」

「幾らなんでもそこまで考えていたわけではありませんよ。ご一緒させて頂いたオリバーレス氏にも暗喩のような意図はなかったと思います。……というか、『ピナフォア』って涎掛けの意味なんですか? 初めて知ったけど、軍艦らしからぬ名称だったんだな」

「私の感動をそっくりそのまま返却を願おうか、偽りを黙示せし少年よっ!」


 再び手持ち無沙汰になった愛染はトレーニングルームに据え置かれている器具でベンチプレスを始めているが、〝先輩〟選手との向き合い方について相撲の用語ことばを例に引いたキリサメの反応には満足したようだ。

 「神通の懐を借りることは、あの子の涎掛け時代から運命を感じていた私が断じて認めんぞ、レンの仔よ」とを牽制する声はベンチプレスという運動を差し引いても陽気に弾んでおり、あるいは自分もまた勝敗を理由にキリサメを見限ることはないという意思表示を含めていたのかも知れない。

 柔道の代表選手として出場した夏季オリンピックで祖国へ黄金の栄光をもたらしたメダリストであり、スペインの国民的英雄とも呼ぶべき人物――アンヘロ・オリバーレスにも城渡マッチの懐を借りるよう助言を受けている。

 その言葉を掛けられた瞬間には殆ど聞き流していたようなものであったが、今になってようやくキリサメのなかで重く受け止めるべき質感を伴った次第である。


「本間さんは意味不明のようで的確な例えをなされるから油断できませんよ。そうです、現在いまのアマカザリさんはまさに涎掛けの赤ん坊と大して変わりません。成果にこだわるのではなくリングでの感覚を学ぶことに専念するのが〝格闘競技〟に慣れる近道かと」

「……まさか、そのつもりで?」


 ここに至ってキリサメは大鳥が選手控室に自分を訪ねてきた理由を悟った。答え合わせを求める眼差しにも彼は「荒療治で申し訳ない」と、微笑みながら頷き返したのだ。

 デビュー戦を直前に控えた新人選手ルーキーをスポーツチャンバラの『エアーソフト剣』で完膚なきまでに打ち負かしたのは、故郷ペルーける〝実戦〟の経験はともかくとして、MMAでは〝駆け出し〟にも満たない立場であることを教える為であった。

 完成された剣術の前には手も足も出ないという喧嘩殺法の弱点を突き付け、御剣恭路が問い質したような資格など備わっていないと突き放す為でもない。〝心技体〟のいずれも自分より遥かに優れた人間は世に多いという〝現実〟を明確に示し、だからこそ新人選手ルーキーが過剰に気負う必要はなく、幾らでもつまづいて構わないのだと伝えたかったわけだ。

 日本で出会った人々に報いるべく結果に逸っていたキリサメにとっては、張り詰めた気持ちを緩める効果も大きいのだろうと大鳥は考えたのである。


「……お陰様で頭は冷えましたけど、それにしても試合前に気持ちが折れてしまったら、大鳥――聡起氏はどう責任を取るつもりだったのですか? 総仕上げの段階になって今日までの訓練トレーニングを丸ごと否定されたようなものですよ。仕事で担当している方にもこんな荒療治なのですか?」

「気持ちの張り詰め方やその原因は人それぞれですし、情況に応じて最善の対応を考えますよ。ご自分でベストの精神状態を整えているバロッサさんは例外中の例外ですね。それにキリサメさんなら、こちらの意図に気付いてくれると信じていましたから」


 依然として希更のマネージャーである大鳥聡起が自分をたすけてくれる理由がキリサメには分かってない。それでも、礼を述べる際に下の名前ファーストネームで試しに呼びかけてみたら、自然な形で応じてくれた――今はそれで十分であった。

 一つの物事を強迫観念のように考え過ぎてしまうからこそ、本来は時間の経過と共に緩んでいく緊張状態が悪い形で続くのだと、大鳥聡起から戒められたばかりなのである。


「――初めてキミが奏でる音が私の心を叩いたとき、樋口郁郎から握らされた毒の種を我々の〝楽園〟に振り撒くとしか感じられなかった。キミの起こす風が日本MMAそのものを汚染し、やがては腐らせるだろうと。やがて死滅に至る〝黙示〟のとき宿命さだめの足音が告げると思っていたが、どうやらこのひとつきで風向きが変わったように見える」


 試合前の準備運動ウォーミングアップには明らかに適していない量のプレートを取り付けたバーベルを両手でもって高々と持ち上げる鼻息を交えながら、愛染はかつての〝予言〟を繰り返した。

 すがだいら高原にてキリサメと初めて邂逅したとき、『NSB』の同僚であった戦場アフガン帰りのMMA選手――アイシクル・ジョーダンのことを愛染は振り返っていた。

 同団体に禁止薬物が蔓延していた頃、過剰摂取オーバードーズによって命を落としたくだんの選手について「自分以外の〝音〟にけがされた為、崩壊の宿命さだめに逆らうことが叶わなかった」といった旨を話していたのだが、現在いまのキリサメならば例に引いた悲劇とは全く異なる〝道〟を選び取るだろうと確信した様子である。

 自分以外の〝音〟にけがされた――それはつまり、ドーピングで〝超人〟による見世物へとMMAを歪めた前代表の所業と、その犠牲者である選手の結末を表す一言であったわけだ。アメリカ格闘技界から永久追放された『NSB』前代表と樋口郁郎という日本の〝暴君〟との酷似を愛染は指摘しており、同様の声は黙殺できないほど多い。

 日増しに樋口の影響が強まり、あまつさえデビュー戦当日までに万全の態勢を整えられないという失敗を冷たく突き放されるだろうと心のなかで怯んでいたキリサメには、「風向きが変わった」という言葉は余りにも意外であった。


「キミのなかに起こる風がどうして変わったのか? 滅びを招く呪詛から福音の兆しへとキミを変えたのは何なのか? 自分に置き換えて考えるならば、導き出される答えは哀川神通ただ一人。つまりは愛ッ! ……神通か? 神通に染められたのだな? おのれ、キミから吹き付ける風も今や桃色おピンクにしか感じられんぞ! その〝黙示〟は断じて認めん!」


 またしても余人には意味不明な情況で憤激の火が付いてしまった愛染は、天井に突き刺さるほど大きな音を立ててバーベルを置き、次いでベンチプレスの台から跳ね起きると、神通との〝共鳴〟を想い出して気恥ずかしそうに立ち尽くしているキリサメへ奇声を引き摺るようにして飛び掛かっていった。


(……神通氏が僕から〝何か〟を引っ張り出すとしたら、うざったいくらい脳内あたまのなかで回り続ける想い出の欠片だろうな。……人を殺す為だけの技を分かち合った僕たちだから――)


 「神通にナニを引き出されたのか、言えるものなら言ってみろ」と難詰してくる愛染に胸倉を掴まれながら、キリサメはあたまの冷静な部分で一つの疑問と闘っていた。

 今日に限って故郷ペルーで纏っていた血と汚泥の臭いが鼻孔を突き出すのである。

 亡き母の私塾で共に学んだ旧友たちを喧嘩殺法で叩きのめし、空腹を満たし得る小銭を奪い取った日のことや、夥しい亡骸が折り重なる阿鼻叫喚の地獄にてニット帽を被った日本人男性と繰り広げた〝実戦〟がキリサメの意識を侵食し、リングチェックの際には観客席に幻像まぼろしまでてしまったのだ。

 禍々しき『聖剣エクセルシス』に血を吸わせ、二度と動かない物体と成り果てた亡骸を踏み潰すというおぞましい世界がキリサメの前に広がっていた。〝格闘競技〟とは真逆な地獄の有り様こそキリサメ・アマカザリが棲む〝闇〟の底であり、誰に導かれたとしてもそこから抜け出すことなどあり得ないと突き付けているようであった。

 安全性に配慮されたルールが選手の生命を保障するMMAの試合へ初めて挑戦しようという日に、を根底から覆す追憶が本人の意思と無関係に繰り返される状況は異常としか表しようがあるまい。

 サン・クリストバルの丘より吹き降ろす砂埃や、クイの串焼きが恋しくなることは心の働きとして真っ当であろうが、血と罪にまみれながら『聖剣エクセルシス』を振り回す殺し合いに郷愁を感じることは、今日だけは絶対にあってはならなかった。

 その危うさはキリサメも自覚しているのだが、〝プロ〟のMMA選手としても望ましくないと理解していながら砂色サンドベージュの想い出は脳が痺れるくらい甘やかで、不意に地球の裏側まで引き戻されそうになってしまうのだ。

 地球の裏側で格差社会の最下層を這いずり回っていた頃とは何もかも変わった――善かれ悪しかれ己の変転を受け止めていたというのに、結局は故郷ペルーに魂を置き忘れていたようなものではないか。

 一瞬でも気を緩めたなら、己が立つべき場所リングを見失ってしまう。故郷ペルーの〝闇〟に塗り潰されてしまう予感が冷たい戦慄となってキリサメの背筋を滑り落ちるのだ。それ故、愛染に首を絞められながらも彼は胸中にて「ここは日本だ」と己に言い聞かせ続けていた。

 自分は尊敬すべき人々と同じ『天叢雲アメノムラクモ』の選手なのだ――その事実へ縋り付くような有り様を「光に向かって必死に手を伸ばしたって、が落とされた〝闇〟の底からは届かないよ」と嘲るの笑い声が何処いずこからか聞こえてくるようであった。


(……僕は今、にいるんだ? はどこなんだ……?)


 己は『天叢雲アメノムラクモ』のMMA選手としてるべきか――揺るぎなく信じ抜ける答えを今日までに見出せていたなら、あるいは重ねてきた罪を数えるかの如き追憶も意志の力で跳ね返せたのかも知れない。

 新人選手ルーキーなのだから、答えを急ぐ必要もない――その一言によって緊張が解け、本来の思考能力も取り戻せる人間は確かに多いのだが、生きることそのものへの苦労を周囲まわりから心配されるくらい生真面目な場合には、正反対の効果を与えてしまうこともある。

 えて結論を急がない者と、幾ら求めても答えを見出せない者の間には、どうあっても埋め難いほど大きな隔たりがあるのだ。

 そして、キリサメ・アマカザリという少年は亡き母親の教育が行き届いていることもあり、ときに自滅の危うさを感じさせるほど生真面目で、何事も深く考え過ぎてしまう。加えて、心の振幅を表情としてさらけ出すことも少ない。

 競技選手アスリートが十全の力を発揮する為には、感情の揺らぎを制御することも不可欠である。己の精神状態を直視する能力とも言い換えられるだろう。しかし、何事にも感情の起伏が薄いキリサメは平静を保っているよう周囲まわりから認識されており、今日までを指導する者は一人としていなかった。

 その不足はMMA選手としての在り方を己に定められないまま〝プロ〟としてリングへ臨むことになった新人選手ルーキーと、彼の葛藤を置き去りにした人々へ余りにも重い答えを突き付ける――のちの格闘技史にも今日こそが〝崩壊〟の第一歩であったと刻まれている。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る