その14:流動~66年目の挑戦者たち・ダイバーシティとインクルージョン/戦争とパラスポーツ──ルートヴィヒ・グットマンの夢はルワンダの「心」を復興させる光となりて
一四、流動
一五時三〇分を過ぎた頃――
週末ということもあって駅前の商店街や
唯一の例外として祭り騒ぎの如く賑々しいのは、奥州市内でも特に広大な公園だ。
サッカーやラグビーの競技大会も開催される多目的運動広場や、見上げるほど背の高いクライミング競技の
数え切れない人々が詰め寄せているのは、公園の一角に所在する総合体育館――即ち、『
正面玄関を挟む形で左右に並立する二棟はどちらも
日本で最も有名な格闘技雑誌『パンチアウト・マガジン』が広報活動の一環として運営する〝キャラクター〟の『
そもそも『
袖が取り外されて肩は剥き出しとなっており、過剰に大きな両手には
露となっているタンクトップに雑誌名を刷り込み、殊更に強調しないと忘れられてしまうのだが、〝彼女〟は『
『
改めて
『
冬季オリンピック関連施設を利用した前回の長野興行と比較して今回は会場の
「――二大会ぶりの復帰って言ったら、
「サンドバリは
「いよいよ〝次〟は『
勝敗を語らうMMAファンの関心は、『
じゃじゃ麺の丼を持つ男性が口にした〝レオ様〟とは、『
他方では人気声優でもある希更・バロッサのファンたちが彼女の主演作品――『
岩手興行の会場に詰め寄せた人々は、言わずもがな自身が贔屓としている選手の勇姿を見守るべく開幕時間を待ち侘びているわけだが、その中でキリサメ・アマカザリの名前を呼ぶような声は全くと言って良いほど聞こえなかった。
〝屋台村〟で腹ごしらえを済ませようとしている人々は〝八雲岳の秘蔵っ子〟とも〝ケツァールの化身〟とも喧伝される
あるいは旧来のMMAファンにも〝客寄せパンダ〟と疎まれているのかも知れない。
純粋な力と技の競演を愛しているファンは、こうした〝客寄せパンダ〟を何よりも忌み嫌う。〝一般客〟に先行して入場し、選手たちの〝リングチェック〟などを見学している
デビュー戦を控えた身でありながら秋葉原の市街地で言い訳しようのない不祥事を起こし、これを樋口郁郎――即ち、日本格闘技界に君臨する〝暴君〟の情報戦によって解決させられた
MMAに限らず、欧米の
冷たい視線に晒されている
八雲家の中で最もインターネットを使いこなし、情報社会との関わりが深い未稲は、その事実を誰よりも深刻に受け止めている。
MMAのリングに上がる前からキリサメには既に多くのファンが付いていると弟の
互いに得物を担いで町中を駆け巡り、船の
『
着ぐるみの姿で観客を場内へ誘導しているが、『
『
キリサメ・アマカザリが生まれ育ったペルーの
この情報工作が功を奏し、キリサメが秋葉原で実施したのは日本最高のMMA
MMA選手としての歩みを本気で応援してくれる者はほんの一握りであった。前日の公開計量では
特別番組の放送中、『
キリサメ・アマカザリという
そのキリサメと岩手興行の第一試合で相対する城渡マッチは、明らかに肉体の限界を迎えていながら、見苦しくも現役にしがみつくベテランという批判に晒され続けているが、日本MMAの黄金時代を築いた一人という功績は誰もが認めていた。打撃による決着へ拘り抜く
統括本部長の
『
所属選手の活動を報告するブログの管理など『八雲道場』の広報活動を担う未稲は、思わず耳を塞ぎたくなるような事実をも踏まえながら、
臨機応変の広報戦略と、これを支える情報分析を未稲に指南したのも、日本で最も有名な格闘技雑誌の
師匠譲りの〝眼〟によってキリサメを取り巻く不穏当な状況を見極めたからこそ、未稲は
それにも関わらず、
未稲は丸メガネが鼻を離れそうになるくらい大きく首を傾げながら歩を進めている。統括本部長でも
直接、
開場から既に一時間以上が経過しており、
実父とキリサメの活動報告をブログで行う為に持参している記録用のノートでもって未稲が胸元を隠すと、真隣を歩いている弟――
未稲が着ているシャツには『キラキラ王子様も一皮剥けば鬼畜召使とドロドロお召し替え』という珍妙な
「今になって恥ずかしくなるくらいなら、最初から別の物を着てくるべきだったでは。せめて、上着を持ってくるとか。選手控室でも必死に隠してましたよね、それ」
「……お客さんたちの前に出るつもりなんかなかったし、お姉ちゃんだって困ってるの」
「選手やスタッフの行き来が激しい場所に立ち入ることは分かっていたじゃないですか。そもそもリングサイドが一番目立つでしょうに。動物園のマントヒヒみたくチヤホヤされたくてそんなものを着ているんじゃないんですか?」
「マントヒヒ⁉ よりにもよってマントヒヒッ⁉ ヒロくんさぁ、もうちょっとだけでもお姉ちゃんに手加減してくれないかなぁッ!」
忙しい母に代わって未稲が面倒を見ている
意地を張るようにして記録用ノートを一等強く胸元に押し付けたが、それはあらゆる意味で余りにも虚しい抵抗である。
傍目には不仲としか思えないやり取りを交えながら、呼び出された場所へと急ぐ姉妹の実母――
血を分け合いながら名字が異なる姉妹は、
「今のは弟クンが良くなかったかもね。せめてマンドリルって言ってあげなきゃ。キミのお姉さん、見た目一発で大爆笑を誘えるんだし」
「瀬古谷さんに同意するのは不愉快ですが、確かに一理ありますね。前言撤回します」
「マンドリルに失礼でしょ、それ! 二人ともマンドリルに謝って! ていうか、私に土下座しろ! 見た目っていうなら、せめてボルネオメガネザルじゃん! 最悪、それなら私も妥協するよ! あれ⁉ 何で私、譲歩してんのっ⁉」
「ボクらが『見た目一発』って言ってるのはメガネのコトじゃないんだけど、自分をアイアイに見立てなかったことだけは評価してあげるよ」
キリサメ当人の許可を得た上で寅之助は選手控室を離れたというが、その理由が未稲の耳には届いていないのだった。
狭い通路ですれ違うスタッフたちの迷惑そうな
『八雲道場』にとっては最悪にも近い不祥事であるが、秋葉原に
何しろキリサメと岳の二人は〝リングチェック〟の際に一触即発の状態に陥ったバトーギーン・チョルモンと同じ白コーナー側の控室を使用しているのだ。先程は戦端が開かれる寸前で全面衝突を免れたものの、
実父の岳――即ち、『
メインアリーナで睨み合いとなった際には
希更・バロッサの実父は熊本県八代市で法律事務所を営んでいる。古武術道場の継承権を巡る訴訟など格闘技界の注目を集める事件を扱ってきた弁護士の協力を得られたなら、かつての横綱が救急搬送される事態になっても〝正当防衛〟として処理できるはずだ。
同じ白コーナー側の控室では
希更の実母で、今日の試合ではセコンドに付くジャーメイン・バロッサも娘を〝客寄せパンダ〟と愚弄されたときには禍根を残さないよう
(本気でキリくんを襲うつもりなら、一部始終を
いざというときにはバトーギーン・チョルモンを相撲の土俵だけでなくMMAのリングからも追い落とす――その情報戦へ備える為、未稲は一秒でも早くキリサメのもとに戻らなくてはならなかった。
メインアリーナと隣接する選手控室から
勝利の歓喜を分かち合う野球選手などスポーツに興じる若者たちを
壁を横断するように配置された曲線的なレリーフは
目の前で繰り広げられている揉め事を収拾できるのは、この場に
「うあ~、良かった! 未稲ちゃん、来てくれたぁ~。心細かったよぉ~!」
「来るコトは来たけど、モッチー
通路の向こうからやって来た姿を見つけるなり救われたような面持ちで左右の手のひらを大きく打ち鳴らし、次いで自走式車椅子を動かして彼女の側へと向き直ったのが助けを求めてきたスタッフである。
首から下げたスタッフパスを確かめるまでもなく、その女性の名前が
その梨冨は『
勿論、電子メールのアドレスも互いに知っている。それにも関わらず、電話を掛けてきたことから梨冨の逼迫を感じ取ったのだ。友人と呼んでも差し支えない相手に
八方塞がりの情況で困り果てていたのは間違いあるまい。何しろ未稲が到着するまで当惑の二字を貼り付けた顔で頭を抱えていたのだ。
首の付け根より少しばかり上でミディアムボブの
一つの事実として、梨冨の判断は考えられる最良のものである。車椅子の車輪に取り付けられたハンドルを左右の五指で握る彼女のすぐ近くには、未稲の見知った顔が二つも並んでいたのだ。
いずれもこの場に
「――
「いや、おかしーだろ。何で未稲がそんなに驚いてんだよ」
二つの顔の一つ――
「驚かないほうがおかしいでしょ、この場合……。色んな意味でワケ分かんないもん。今回はレオニダスさんが――『
「こっちこそ二重の意味でワケ分かんねーよ。
「……は?」
「だから、おめーの後ろでニヤついてる寅に電話したっつってんだよ。そうだよな、寅」
「そうだよ、照ちゃん」
「ホレ、見ろ。寅も自分のほうから『
「……ナメられてるのは私のほうだったよ。ですよね、瀬古谷さん?」
些細なすれ違いから上下屋敷の機嫌を損ね、その原因が背後で厭味に笑っていることを悟った未稲は、首の筋を違えそうな勢いでそちらに振り返った。
その拍子に未稲の鼻から丸メガネが吹き飛び、彼女と上下屋敷の顔を交互に見比べていた梨冨の
「……てめー、寅。未稲をからかう為におれを利用しやがったってか」
梨冨から手渡された丸メガネを掛け直しつつ、未稲は歯軋りでもって寅之助に憤怒を示した。先程の会話がまるで噛み合っていなかったことを上下屋敷が悟ったのは、それすらも嘲る笑い声が鼓膜へ飛び込んだ直後であった。
「
「悪いのはてめーの根性だろが! ……すまねぇな、寅のバカ野郎がよ」
「いい加減、私もねじ曲がった性格に振り回されるのは慣れてきたつもりだけど、ただ照ちゃんがこの人とお付き合いし続けられる意味だけは分かんない」
「おれもたまに分かんなくならァっ!」
つまるところ、寅之助は前夜の通話中にこの筋運びを思い付き、恋人である上下屋敷を言いくるめたわけだ。未稲と
『八雲道場』の雇った
改めて
上下屋敷とは電話番号もメールアドレスも交換しており、個人間でメッセージを送受信するチャット・アプリにも登録している。それなりの頻度で会話を楽しんでいる上、昨日は
この享楽家が愉快犯のような真似さえしていなかったなら、その際にでも岩手興行の観戦について上下屋敷は言及したはずである。
「今では〝オフライン〟でも仲良しなのですし、
もう一つの顔はバケツをひっくり返したような形状の
その女性が朗らかに笑いながら外したのは日本の鎧武者が用いるような兜ではなく、中世ヨーロッパで騎士が用いた物である。その上、全身を
「
本名で呼び直した騎士のことを未稲は以前から知っている。梨冨と同じように彼女とも〝知人〟ではなく〝友人〟と呼んでも差し支えがないほど親しく付き合っていた。
その拍子に金属の擦れ合う甲高い音がガラス窓に跳ね返り、真隣に立っている上下屋敷の鼓膜を
未稲が初めて顔を合わせた日も
元々はジャンルを問わずに色々なテレビ・パソコンのゲームを共に楽しむ〝ゲーミングサークル〟の
オフ会の日も今日も、筑摩依枝は警察に通報されてもおかしくない出で立ちであった。現代日本の景色にまるで馴染まない鎧姿であることに加え、腰に締めたベルトの左側には鞘に納めた
どこからどう見ても、これから
これに対して上下屋敷はオーバーオールに袖なしのキャミソールを組み合わせている。右の側面に添えられた水玉模様のリボンが目を引くデニムのキャスケットとハイカットスニーカーも
だからこそ、この場に自分が呼び出されたのだと未稲は直感していた。鞘に納められた状態では腰に帯びた
車輪のハンドルに添えられた梨冨の両手を見れば、車椅子の操作とは異なる意味合いで握り慣れていることは瞭然である。彼女だけは〝
地上に存在する格闘技の全てを人権侵害と見做し、その根絶を訴えながらテロリスト紛いの〝抗議活動〟を繰り返す思想活動――『ウォースパイト運動』がホワイトハウスをも揺るがすほどの事件を起こした直後である。
日本で活動する『ウォースパイト運動』の〝同志〟たちがこれによって刺激され、暴発するという事態を『
物騒という点を差し引いても、西洋の鎧姿は日本に
衆目には絶対に晒したくないシャツを着てきたことを未稲は心の底から後悔している。
「鎧を着てないほうの女の子、
ここまで呼び出した理由を明かしながら梨冨が指差した相手は、兜こそ外しながらも依然として
予想外としか表しようのない筋運びに未稲は目を丸くし、その両手から記録用のノートが滑り落ちていった。ガラス窓の向こうで携帯電話が一斉にシャッター音を鳴らしたのはこの直後である。
これより数時間と経たない内に『
次に未稲の双眸が捉えたのは「
寅之助と色違いの本体に問題はない。これを覆う革製のケースが揉め事を引き起こした原因であると、未稲は一目で理解したのである。その表面には火山を
つまり、『
「……『
「神通なら他にもロゴマーク入りの手帳を愛用してるぜ。紙ンとこに同じ模様を染めた扇子もな。『
未稲が述べた通り、哀川神通は自身の所属先を打ち明けた際に火山のロゴマークが刷り込まれた〝テレカ〟を証拠物件の如く提示していた。上下屋敷のスマホケースにも共通していることだが、
尤も、グッズ販売による収入を期待しているのではなく、選手・関係者の連帯感を高めることが目的なのだろう。統一された色の品を身に付けて仲間意識を確認し合う〝カラーギャング〟のような例もある。
「そりゃ『
「
「一秒も考えずに
スポーツの喜びを全身で表すアスリートたちのレリーフによって装飾された壁の前に
偏った考え方によって人々を分け隔てるのではなく、その人を成り立たせる〝全て〟を個性として認め合い、手を取り合って未来を目指すという理念は、アメリカ合衆国に
多くの課題を抱え、また〝偏った考え〟に囚われた人間が蔓延り続ける状況が続いてはいるものの、『ダイバーシティ』という言い回しが普及するより以前から現代日本でも訴えられてきたことである。
試合場に立つ選手たちがただ純粋に力と技を競い合う格闘技ひいてはスポーツの世界でも
二〇二〇年のオリンピック開催地が東京に決定した第一二五次IOC総会の一幕だ。
あらゆる個性を尊重し、認め合わんとする意識が心の奥底まで浸透していればこそ、梨冨は現代日本のMMA興行へ突如として乱入してきた騎士に対しても構えることなく自然に接しているのだ。
無論、それは彼女自身が用いている自走式車椅子にも共通することであった。
『
そして、それは実感によって紡ぎ出された言葉である。
梨冨が所属する人材派遣会社は二〇〇八年に
社長の名前は
八雲岳の想いに共鳴しながらも樋口郁郎と意見を
雇用創出事業の一環として、会場設営のスタッフについては主に開催先の土地で募集しているが、一方で
ただし、岳までもが日本格闘技界の〝暴君〟と袂を分かっていたなら、『
「ちなみにモッチー
「意味ありげに話を振ってくるってコトはこちらの人、そちらの選手なのかな? イベントスタッフの立場で個人的に接触を図るのはよろしくないけど、……未稲ちゃん、閉会後に〝橋渡し〟をお願いできない?」
「やっぱり食い付いた。モッチー
『
未稲のゲーム仲間は〝中世〟に区分される時代で実際に使用された武具を再現し、これを用いて合戦さながらの試合を執り行う『
それ故にゲーミングサークルのオフ会でも今日のMMA観戦でも、正装として
「相変わらずのご様子ですね。ポジティブに言えば首尾一貫ってトコかな。そうそう、サトさん――大好きな幼馴染みさんにはもう会いました? 会ってませんよね? 昨日は一日、バロッサさんに付きっ切りでしたけど、今日は別のコが独占状態。移り気な幼馴染みを持つと苦労しますよね。ボクも電ちゃんがそんな感じですからねぇ~」
「えっ! サトちゃん、どなたかに
「前向き⁉ どっからそんな話になったぁ⁉ 寅も未稲も聞いてくれや!
「筑摩さんがどこまでも相変わらずで安心しましたよ。
強引の二字こそ最も相応しい勧誘に対し、揃って口元を引き
打撃や投げの併用など〝古い時代の技〟を受け継ぐ身ということもあり、学生の為に開催されるような〝公式の大会〟には出場できない。瀬古谷の道場には
その恋人である上下屋敷もまた
それぞれの体得した武道と
その筑摩とは絶対に話が合うと未稲から告げられていた梨冨は、納得したように二度三度と首を頷かせた。寅之助と上下屋敷の二人から同時に呻き声を引き出す
車輪のハンドルを握る五指の力が一等強くなっていく
*
道端で拾った棒切れや新聞紙を長細く丸めて拵えた玩具の刀で斬り合う〝チャンバラ遊び〟は、世代を問わず子どもたちにとって心が躍る娯楽の一つであった。
やがて剣道に目覚めるような目的意識が必ずしも働いているわけではない。ただ純粋に棒切れを振り回すのが愉しいのだ。漫画やアニメの登場人物が繰り出す必殺技の真似事もそこには含まれており、例えば一九八〇年代末期から一九九〇年代には玩具の剣を逆手に構えて振り抜く子どもたちが日本全国に見られたのである。
更に世代を遡ると、刃でもって
同時期のテレビでは特撮技術を駆使した時代劇も人気を博しており、当時の子どもたちは超人の如き忍者や剣士になりきって〝チャンバラ遊び〟に興じたのだ。夢中になる対象やその傾向は時代によって変わっていくが、
負傷の危険性を孕んでいる為、注意喚起が繰り返されてきたが、雨傘や箒を刀の代わりに用いることも少なくない。両手あるいは片手で握れる長細い物さえあれば、それだけで成り立つくらい手軽な娯楽であったればこそ、鞄に入れて持ち運べる携帯ゲーム機や携帯電話が普及した後も子どもたちの間で〝チャンバラ遊び〟が完全に廃れてしまうことはなかった。
体力の続く限り
その原始的な
昭和後期――生きながらにして『伝説』と讃えられたプロレスラーの
視覚や四肢のハンデにも適応する競技形態であり、安全に楽しめるパラスポーツとしても注目を集めている。パラリンピックの正式種目に推す声も少なくなかった。
頭部や腕を守る防具を装着する点は剣道にも共通しているが、競技に用いる武器は種々様々だ。読んで字の如く刀身の短い小太刀や、全長一〇〇センチ以下とルールで定められた長剣の他、槍や棒など日本武術で使われてきた武器が幅広くまで採用される〝異種格闘技戦〟であった。
そのいずれも『エアーソフト剣』と総称されており、その名の通りに柔らかいゴム製の刀身を空気で膨らませる構造となっている。筒状の風船のように
それ故、剣道のように胴体を守る防具を装着しなくとも安全なのだ。盾の使用が認められている点も剣道との
奥州市の中心部に所在する総合体育館の一室に
傍目にはビジネスパーソンとしか見えない背広姿の男は、顔面まで防護するヘッドギアも籠手も装備していなかった。直撃を被る寸前で身を沈み込ませ、横薙ぎに閃く刀身を
両手には厚みのある
その名の通りに竹を組んだ刀身の竹刀とも、ツカの部分が長い為に船の
練習用の
白いワイシャツに背広を組み合わせ、ネクタイを緩めもしないまま横薙ぎの一文字を披露したのは、希更・バロッサの現場マネージャーを務める
バロッサ家の道場が教え広めているミャンマーの伝統武術『ムエ・カッチューア』ではなく、声優としての活動を
(他の人たちと比べたら〝常識人〟だと思っていたのだけど、……法治国家のド真ん中で
時計の針は一五時一五分を指し示している。キリサメやその養父である八雲岳が
希更の試合でセコンドを務める母親――ジャーメイン・バロッサとはキリサメも挨拶を済ませていた。『
岩手興行に
担当声優の試合を一人の観客として見守る前に知り合いの陣中見舞いに訪れたのであろう――彼を出迎えた直後のキリサメはそのようにしか思わなかったのだが、友人の現場マネージャーは意外としか表しようのないモノを持参していた。
言わずもがな、『スポーツチャンバラ』で使用する全長一〇〇センチの長剣だ。ツカの部分から筒状の刀身へと空気を注入するポンプまで大鳥は脇に抱えていた。
「――間に合うよう急いできて正解でしたね。
大鳥聡起の提案は、中世ヨーロッパの甲冑を纏って秋葉原の街を闊歩してしまえる彼の幼馴染みと同じように何から何まで意味不明であった。
大鳥が懸念したように双方が暴力性を刺激され、挙げ句の果てには試合の直前で負傷してしまう
ここで予想外の事態がもう一つ発生した。入場客に関する
寅之助の行動は職務放棄にも等しいものであったが、万が一にも場外乱闘のような事態に陥ったときには『タイガー・モリ式の剣道』が姉弟を
結果として先程とは異なる意味で選択肢がなくなり、大鳥聡起の奇妙な申し出を受けるしかなくなったのである。
首を傾げ続けるキリサメと、その様子に苦笑を浮かべる大鳥聡起が肩を並べて向かった先は、『
奥行きのある空間にランニングマシーンやベンチプレスの器具などが幾つも設置され、
同体育館ではMMAだけでなくプロバスケや卓球などの大会も開催されている。競技を問わず出場選手たちは主にこの
総合体育館は渡り廊下を挟んで二棟に別れている。〝一般客〟の入場が進む
つまり、未稲と
(――大鳥氏にとって僕なんか害虫みたいな
思いがけない形で
一気に間合いを詰めながら大鳥の両足首を掴み、後方に引き倒そうというわけである。
これが試合前の
一方でキリサメは自身に迫る斬撃に対して回避行動しか取っていない。大鳥の太刀筋が想定を上回るほど鋭かった為、その場に身を沈ませて
咄嗟の判断としては決して間違いではないが、風を薙ぐ刃から逃れずに踏み止まり、ツカを持つ大鳥の両手に自らの拳でも叩き付け、長剣そのものを弾き飛ばしてさえいれば、次なる斬撃へと至る身のこなしを断ち切れたかも知れない。
尤も、大鳥聡起は握り拳二つを垂直に並べられる長さのツカを左右の五指でもって力強く握っている為、生半可な打撃を加えても長剣を取り落とす可能性は極めて低かろう。
次の瞬間、乾いた音がキリサメの胴を駆け抜けた。
彼の五指が己の足首を捕獲せんとしていることを見極めた大鳥は、横薙ぎの一撃を振り抜いた際に生じた遠心力に逆らわず、これに身を委ねるような恰好で真横に跳ね飛んだ。
大鳥が反撃に転じたのは着地の直後である。肉食獣の爪とも
これと同時に剣先でもって床を擦るようにして長剣を振り上げ、空気で膨らんだゴム製の刀身でキリサメの胴を捉えたのである。
声優事務所のマネージャーが〝仕事道具〟として隠し持っている伸縮式特殊警棒の
今、この場に
「……剣道だと今ので〝一本〟――ですよね? 寅之助が使う
「寧ろ、剣道のルールでは〝一本〟と認められるのは難しかったと思いますよ。そもそも剣道は身のこなしに至るまで厳しく審判される
剣道ではなくスポーツチャンバラであったなら、間違いなく〝一本〟勝ち――そのように言い添える大鳥の声にキリサメは僅かばかりの自嘲を感じ取っていた。ひょっとすると剣道の試合で審判の判定に納得できず、諍いを起こした過去でもあるのかも知れない。
「……
「先ほどバロッサさんからメールで教えて頂きましたが、試合前に『
「……ご本人不在の場所で陰口みたいな真似はどうかと思いますが、クールダウンが必要なのは、どちらかと言うとバロッサ家の皆さんではないかと。特にジャーメイン氏は寅之助よりも物騒なコトを仰っていましたから……」
「バロッサさんのお母様は、……何と申しましょうか、規格外ですから、ええ……」
大鳥の〝一本〟が入ったことで
彼を
流派の有無さえキリサメには分からないが、正規の試合とも異なる〝場〟に
〝実戦〟であったならキリサメは標的の両足首を掴み、後頭部への深刻な
互いに怪我だけはしない――それが
真似事と明言する大鳥は『西洋剣術』の使い手であってスポーツチャンバラの競技者ではない。ルールすら聞きかじりに近く、インターネットの検索で調べなければ、必要な道具すら分からなかった。
『エアーソフト剣』も奥州市内の武道具店で新しく買い求めた物であり、これを膨らませる為のポンプも未開封の箱に納めたまま脇に抱えていたのだ。
希更のマネージャーである大鳥がここまで心を砕いてくれることを今もってキリサメは理解できずにいる。無論、協力には深く感謝しているが、本領である『西洋剣術』とは異なる道具まで新調するとは度を越しているではないか。
声優業に
依然として寅之助の動向には警戒し、善からぬ感情を向けているので希更に関わらんとする全員に態度を和らげたわけではあるまい。自惚れではなく一つの事実として、己に対して心を開いてくれたものとキリサメも察してはいるのだが、〝何〟が固く閉ざされた扉の鍵となったのか、一つも思い当たらないのである。
選手控室からトレーニングルームへと向かう最中にも声優事務所にとっては
そういうものは自分から語って聞かせたら情緒がなくなる――と、明確な回答を避けた大鳥は「偏りや隔たりがない物の見方を評価する人間は決して少なくないでしょう」と述べるのみに留めている。
帰化したとはいえ両親ともアメリカ人である希更は、遺伝子の領域に
それ故、家族の生まれ故郷の文化には理解が及ばない希更に対し、キリサメは「両親は共に日本人だが、自分にとっては〝外国〟のこと。それだけに知識としてしか知らず、馴染みもない」といった言葉で寄り添ったのである。
生まれ育った国と〝血〟の
「――サムライの魂を
頭の上をすり抜けるような形で皮肉を放り込んできた相手は、言わずもがな正面の大鳥ではなく別の人間――振り返って確かめるまでもなく、その声が
二人がトレーニングルームに入って間もなく彼女もやって来たのだから、声の主など迷う理由もあるまい。ガラスの間仕切りによって廊下と隔てられた出入口を背にし、腕組みしたままキリサメただ一人を見据え続けていたのである。
父親同士が親友であり、幼い頃から親しく交わってきたという哀川神通のことを愛染は溺愛している。おそらくは担当声優に対する現場マネージャーと同じように〝害虫〟が寄り付かないよう見張っているのだろう。
尤も、その〝害虫〟――キリサメがデビュー戦を迎えるまで既に一時間を切っている。観客席まで足を運び、神通を捜すゆとりなどあろうはずもない。
まるで魂を分けた〝半身〟の如く互いに共鳴し合う相手であれば、人生の岐路とも呼ぶべき初陣を前にして何かしら得るモノがあるかも知れない。しかし、心に突き刺さって抜けないトゲのような余韻へと手を伸ばすだけで、キリサメは
哀川神通――その名前が駆け抜ける
「アマカザリさんが構わないのでしたら、自分としては見学して頂くことに異存もないのですが、余りにも凝視され続けると少しやりにくいというのはありますね」
「……今、大鳥氏の言い当てたコトが全てですよ。僕もそれを本間氏にお伝えしたい」
「それよりも何よりも、本間さんは『
「そうだな――私は自分の業績を謙遜するつもりはない。『大したものでもない』と値打ちを低く見積もれば、美徳と引き換えに一緒に
何時までも
「私の記憶が正しければ、バロッサ君の付き人――大鳥君と言ったかな。キミの想像は秋田の誇りであるきりたんぽを岩手の名物と間違えるようなものだよ。バロッサ君に
「カラオケとは余裕だな、バロッサさんも……。我々の事務所でも『バロッサ・フリーダム』でも個別の送迎ということは特に
「その言葉の意味を知りたくば、カーテンの向こうに目を凝らすことだな」
両手でもって長剣を高く掲げつつ、左肩からぶつかっていくような恰好で間合いを詰める大鳥と、縦一文字に閃くであろう刃を左右の
白い
陽の光を取り込んで利用者の気持ちまで晴れやかにする構造となっているわけだが、
トレーニングルームは総合体育館の裏手に面しており、ガラス窓の向こうには岩手興行の為に看板や横断幕で飾られた正面とは真逆の味気ない風景が広がっている。道を挟んだ先の駐車場を眺めても、特別待遇を感じさせるモノはどこにも見当たらなかった。
自慢の二字を顔面に貼り付けたまま、注目すべきモノがないガラス窓の向こうを指差す愛染に対し、キリサメは斬り上げられた直後の太腿を擦りながら聞こえよがしの溜め息を吐いてみせた。
「ひょっとして本間さんが仰っているのは〝サブエントランス〟の前に
「ほほう? 大鳥君はデキる男の見掛け通り、随分と目端が利くようだな。それだけハリウッドでエージェントも務めると思うぞ」
「仕事柄、心配性は過ぎるくらいで良い塩梅ですからね。ハリウッドの仕事に憧れがないと申せば嘘になりますが、……『ウォースパイト運動』が幅を利かせる近頃のアメリカは自分の小さな手に余りますよ」
「山椒のようなウィットも含めてますます感心させられる。……世界を蝕む忌々しき笛の音が愚者の虚栄ではなく現実の脅威と見極め、
「バロッサさんの場合、どのような危険もムエ・カッチューアの技で蹴り飛ばすと思いますがね。勿論、万が一の場合は本間さんから頂いた言葉を裏切るつもりもありません」
人差し指でもって示された先には確かに目立つものなど何もないが、手掛かりとしては十分であったようで、選手たちの送迎に使用されたラッピングバスとは異なる地点に
彼が口にした〝サブエントランス〟とは、同体育館の裏口のことである。
『
今日はその
どうやら大鳥はスポーツチャンバラの用具を両脇に抱えながらも、自身の担当声優が出場するMMA
格闘技を人権侵害と見做して根絶を目論む『ウォースパイト運動』の活動家たちがアメリカで過激派の一途を辿る状況だけに、その〝同志〟が侵入を試みそうな経路を事前に割り出し、万が一の事態に備えておくよう
その『ウォースパイト運動』から執拗に〝抗議〟を受け続けている
二台とも隙間なくカーテンが閉められている為、外から車内の様子を覗き見ることは不可能――と、大鳥は言い添えた。勿論、無断で占拠しているわけではなく、『
「マイクロバスのほうはどこかの〝ロケバス〟と見受けましたが、もう一台のほう――日本ではなかなかお目に掛かれないほど大きなトレーラーハウスは、おそらく『
『
ゴーザフォス・シーグルズルソン――キリサメが
「ひょっとすると、アイスランドから運んできた
グリマ自体は
二〇〇〇年代に隆盛を極めた
黄金時代以来のMMAファンは言うに及ばず、その
それにも関わらず、当のキリサメは総合体育館のどこにもそれらしき人物を見掛けることがなかった。インターネットに
総合体育館の選手控室に案内されるのではなく、王者専用の待機場所まで用意されるのだから、まさしく〝特別待遇〟と言い表すことこそ相応しかろう。トレーニングルームのガラス窓からは屋根の端すら見つけられないトレーラーハウスは、おそらく大掛かりな改造が施されており、内部も
「……僕はお二人のように
王者と畏敬される地位に
その夢に人生を懸けているといっても過言ではない親友――空閑電知には「そういう発想が金儲けのイベントそのまんまなんだよなぁ~」と怒られてしまいそうだが、〝世界最強〟という余りにも掴みどころのない志と比べて〝現実〟の質感を伴っているのだ。
(何もかも仲良しこよしで済むハズないもんな。這い上がった先にメリットがなければ、張り合いだってないんだろうし……)
東北復興支援を掲げて旗揚げしたMMA団体だけに岳は〝格〟の上下を競う弱肉強食の状況より調和こそ強く打ち出すべきであると主張していた。従来の格闘技団体では
両コーナーや
その岳も大いに嘆いているのだが、かつて樋口郁郎が編集長を務めた
デビュー戦の当日を迎えながらも、未だに『
養父である岳もマネジメント担当の麦泉も、『
「我が愛しき神通に野獣の鼻息を向けることからも明らかではあったが、初めて出逢ったときよりも欲得の原理が大きく膨らんでいるようだ。あの日と同じ警告を再び繰り返すのは手遅れであろうか? 玉座に触れんと伸ばした手はキミにも、キミの周りにいる全ての人々にも破滅を招くのだ。
「……〝MMAのアイガイオン〟と呼ばれたことも、事あるごとに想い出していますよ。僕は一般論というか、一つの例えとして玉座という言い回しを使っただけで……」
「そもそも
「カーテンを開いたら何もなかったという失態を上手い具合に誤魔化されている気もしますが、……本間氏のご指摘は痛いくらい身に染みています」
柔らかい剣で打たれているだけなので、体感的には痛くない――愛染から窘められたキリサメは、玉座の二字を誤解されてしまったこともあって彼にしては珍しく
勇者の剣――即ち、大鳥聡起が振るう『エアーソフト剣』に圧倒され続けているのだ。
ゴム製の筒を空気で膨らませた刀身は、その剣先も丸みを帯びている。競技中の事故を防ぐ安全性を満たしているのだが、剣道あるいは大鳥自身が極めた西洋剣術に
それにも関わらず、キリサメは左胸を狙って繰り出された『エアーソフト剣』の
『タイガー・モリ式の剣道』を受け継ぐ瀬古谷寅之助も刺突を得意としており、竹刀を左手一本に持ち替え、同じ側に半身を開きつつ僅かに前傾姿勢となって繰り出す『片手突き』を森寅雄の奥義と称している。
寅之助の
愛染から戒めの言葉を受ける間際、キリサメは右腋から入って左肩まで斜線を描くようにして斬り上げんとした長剣を右拳でもって弾き飛ばしたのだが、その直後には眼前に剣先を突き付けられてしまい、反撃に転じることができなかった。
少しばかり腕を突き出すだけでも剣先が相手に届くという長剣の利点を生かした大鳥によって、間合いそのものを潰されてしまった次第である。そこで味わわされた恐怖は、寅之助の刺突とも異なっていた。
左方に跳ねてこれを
『
自身の技と同じ原理と見抜いたからこそ、キリサメの背筋に冷たい戦慄が駆け抜けたのである。大鳥は刀身に全体重を掛け、致命傷を負わせようとしているわけだ。
大鳥は幼馴染みである筑摩依枝と余り身長が変わらないことを随分と気にしていたが、
「今、ふと知的欲求をくすぐられたのだが、アイスランドの剣術はやはり、『
「それはゴーザフォス・シーグルズルソン本人に質問してください。同じ北欧でも自分の場合はフィンランドの騎士くらいしか知りませんしね。……いえ、
キリサメと電知、未稲と上下屋敷が友情を育んだように、本間愛染もまた団体間に横たわる対立を超え、『
その神通が仮眠を取っている間に宿所から居なくなった為、愛染は近隣の宿泊施設を片端から訪ね歩いてキリサメたちと歓談している場所まで辿り着いたのだが、そこには希更に随行する形で大鳥も同席していたのである。
そのときに両者は社交辞令ながら挨拶と共に名刺も交換し合っていた。
自信の職業とは直接的には関係がない為か、大鳥も西洋剣術を体得していることは明かさなかった。つまり、愛染は予備知識もないまま背広の裾を靡かせる剣の舞いを目の当たりにしたわけだ。
あるいはスポーツチャンバラの競技者と誤解している可能性も高い。いずれにせよ、大鳥聡起という声優事務所のマネージャーが比類なき剣士であった
仕切り直しの為に両者が足を止めたときにはキリサメ一人へ穏やかとは言い難い視線をぶつける一方、
時おり拍手と共に「サムラーイッ!」という奇声を発しているが、これらはいずれも大鳥に向けられた賞賛である。
キリサメのことは一度たりとも褒めようとしなかった。これが恋敵同然の相手に対する意地悪ではなく、冷静な分析に基づいた事実であると
亡き母は同じ
(あのときは
首筋に長剣の刃先を押し当ててくる大鳥とは互いの吐息を感じるほど密着している。大きな踏み込みと共に全身を捻り、螺旋の如き運動によって生じた全ての〝力〟を拳の先まで伝達させて一気に解き放つ切り札――コークスクリューフックを仕掛けることは言うに及ばず、蹴りでもって金的を潰すのも難しいのだ。
咄嗟に後方へと跳ね飛び、危機的状況からの緊急離脱を試みるキリサメであったが、これを大鳥が見逃すはずもあるまい。
スポーツチャンバラは全身のどこであろうとも『エアーソフト剣』を命中させることさえできれば〝一本〟――即ち、勝利と判定される。これが
例えば太腿を斬られたときには、切断こそ免れたとしても動脈が傷付けられたはずだ。
格差社会の最底辺を共に生きてきた
幼馴染みの少女と
命中させられた側にも心地好く聞こえる軽妙な音と、痛みのない斬撃によってキリサメの意識は攻防の
(剣の振り方なんて誰かに教わったコトもないし、そもそも『
禍々しいノコギリに見える『
望むと望まざると切り離せない〝相棒〟であり、『七月の動乱』を始めとする反政府組織との戦いも潜り抜けたのだ。前の持ち主からキリサメの手に渡って以来、
本来、大鳥聡起は騎士が用いた武具の中でも
鎧姿のまま秋葉原の市街地をも闊歩してしまえる筑摩依枝は言うに及ばず、目の前でスポーツチャンバラの長剣を振るう男もまた中世の合戦場からやって来たようにしか思えなかった。その筑摩が熱心に
大鳥聡起は背広ではなく騎士の甲冑こそ似つかわしい人間であった。寅之助も彼と『西洋剣術』に強い関心を寄せていたが、本来の得物である
「
「……今、まさに斬り捨てられたところですよ」
長野の地方プロレス『まつしろピラミッドプロレス』の花形レスラーである赤備人間カリガネイダーを通じて体得した養父譲りの技――プロレス式の
跳躍の頂点より落下の勢いを乗せ、反撃の縦一文字を振り下ろしていった――が、キリサメの脳天で甲高い音が鳴り響くことはなかった。天井近くから吹き降ろした風が少しばかり前髪を揺らした程度である。
得物の長さまで剣技として生かし切る大鳥が狙いを誤るはずもない。自身がプロレス式の
本気でキリサメを仕留めるつもりであったなら、反撃も恐れずに飛び込んでいける胆力の持ち主ということは、ここまでの攻防からも明らかである。
まだ十分に使える長剣を大鳥が構え直した直後、トレーニングルームの天井に何とも珍妙な音が跳ね返った。反射的に飛び
次いで大鳥は鼻水も軽く
「……オーバーワークは本末転倒ですし、この辺りにしておきましょう」
さしもの大鳥も白目を剥くかのような顔を晒したことが照れ臭くてならないのか、喉の調子を整える咳払いを一つ挟んだ
それが
くしゃみの前後、総合体育館の別の場所で自分のことが話題になっているとは、大鳥本人には想像もつかなかった。丁度、彼の幼馴染みである筑摩依枝に「今日は別のコが独占状態」と寅之助が皮肉を交えて話した頃であるが、これは決して偶然ではあるまい。
*
二棟のアリーナが並立する大きな運動施設とはいえ、限定された空間内で起こる出来事は、たちまち隅々まで知れ渡るものだ。メインアリーナに設置された〝大会本部〟から一歩も動くことのできない師匠――今福ナオリから
個人間でやり取りを行うチャット・アプリを起動させた未稲は、
自身の側から送信したメッセージを相手が確認したことを示す「既読」の二字がアプリの画面に表れた直後、未稲の脳裏に閃くものがあった。
「――そういえば今日、
未稲が声を落として筑摩に同行の有無を尋ねた「駒由さん」とは、秋葉原の市街地で繰り広げられた〝
その日、彼女は秋葉原駅に程近い場所でアコースティックギターを奏でていた。元々はインディーズシーンで活動するストリートミュージシャンであり、アニメソングを披露している最中に〝
キリサメが
同じ日の秋葉原では未稲が所属するゲーミングサークルのオフ会も開催されており、インターネット上の実況中継で寅之助の暴走を把握するや否や、上下屋敷と筑摩を伴って二振りの刃が風を薙ぐ場へ急行している。
偶然の遭遇が一つのきっかけとなり、この栩内駒由とも未稲たちは親しく付き合うようになっていた。
その栩内が〝三つ目の顔〟として居合わせていないことを不思議に思った未稲は、筑摩に向かって同行していない理由を
彼と共に浅草で生まれ育った幼馴染みである
その電知に執着し続けている寅之助は、当然ながら〝元カノ〟にも対抗心を剥き出しにしている。栩内の名前を耳にしただけで正気を失う危険性もあり、だからこそ未稲は耳打ちに近い形で彼女のことを筑摩に
「勤め先の上司も私が
「そっかぁ~、残念だなぁ。駒由さんとはキリくんの応援歌を作ろうって話していたトコなんですよ。まだ具体的には何も決まっていないんですけどね」
皆の様子を遠巻きに眺めていた
MMA選手に限らず、〝プロ〟の格闘家は各々が主題曲を定め、
これもまた最近のことであり、数日前にも〝次〟の
雑談から発展した企画ではあるものの、友人間の口約束ではなく『八雲道場』としての正式な依頼である。制作費といった諸々の条件も未稲自身が〝窓口〟となって細かく打ち合わせている。
キリサメの為に楽曲を提供したいという申し出を未稲が父に相談することもなく即決したのは、『八雲道場』の広報戦略としても有効と判断した為であった。
栩内駒由は
ストリートミュージシャンとして活動していることもあって、彼女が発信する
(欲を言えばカリスマシングルマザーの
その栩内が
それどころか、彼女のファンを『
長期的な展望としても、栩内を『八雲道場』の広報戦略に取り込みたかった。
日本を代表するMMA団体の主催企業で広報戦略を担う今福ナオリに師事し、情報戦を勝ち抜く
「――職場経由だったのは意外だね。てっきりボクはサトさんが愛しい幼馴染みサンを招き入れたんじゃないかって思ってたよ。担当声優が出場する大会なら席くらい簡単に都合できるって自慢したがる人もいるじゃん?」
二人の会話に皮肉でもって割り込む寅之助であったが、どうやら栩内駒由の名前は彼の耳に入らなかったようだ。戒めるような眼差しでもってやり返しながらも、未稲は胸を撫で下ろしたい気持ちであった。
「自慢したいのは私のほうですよぉ。サトちゃんは公私混同を絶対に許さないカッコ良い人なんですから。でも、意外に可愛いところもあって――サトちゃんを驚かせたくって、未稲さんには今日のことをナイショにして欲しいって照さんにお願いしたんです。未稲さんからバロッサさんへ、バロッサさんからサトちゃんの耳に入っちゃうかもですし」
「瀬古谷さん一人の口止めだけじゃ効果弱いと思ってはいたんだよなぁ~。そうか~、性悪と恋する乙女の合わせ技一本だったか~。そりゃあ、私のほうにネタバレ的な情報なんか一個も回ってこないわけだ~っ」
「おいおい、待てって! 話をまとめんなっての! おれは寅を通じて『八雲道場』に話を通しとくっつったろ。それがスジだってよ。結局、話通ってなかったんだけどな!」
譲り受けた岩手興行のチケットは三枚――誘って応じそうな人間を考えたとき、真っ先に思い浮かんだのが上下屋敷照と栩内駒由であったという。後者の同行は叶わなかったものの、二人ともキリサメと面識がある為、筑摩にとっては極めて妥当な人選である。
無論、未稲からすれば上下屋敷を岩手興行に誘うという選択肢は危うさと紙一重であるのだが、『
尤も、上下屋敷と同じ
梨冨もまた得心を表すようにして頷き返した。ここに至るまでの賑々しい会話に耳を傾けながら彼女たちの関係を分析し、例え『
敵愾心の応酬にならないからこそ、車輪のハンドルを握る五指の力も緩めたのである。
不安そうに成り行きを見守っていた他のスタッフたちにも梨冨は懸念する事態には発展しないだろうと伝え、それぞれの持ち場に戻るよう指示していった。自分も間もなく本来の役割に戻ると告げたのだが、これについては未稲たちの応対を続けて欲しいと逆に促されてしまった。
万が一の場合に備えて『
あくまでも梨冨は人材派遣会社に籍を置く〝外部〟の人間であるが、スタッフパスには一つのフロアを統括する肩書きが添えられている。スタッフたちから全幅の信頼を寄せられるほど同団体の
自身が通信制で学んでいる
「MMA以外にも
「他に言い方なかったの⁉ 直接、顔を突き合わせなきゃ
「
「褒められてるんだか、鼻で笑われてるんだか分かんないけど、ブッ壊れた生活リズムをツッコまれると言い返せないなぁ~」
未稲と上下屋敷は軽口を叩き合っているが、それもまた信頼関係の顕れであろう。梨冨の言葉を受け止めたスタッフたちも得心した面持ちで二人の脇をすり抜けていった。
上下屋敷の指摘にも梨冨は首を頷かせていた。未稲当人には愉快と言い難いのかも知れないが、蟠りすら超えて誰とでも絆を育んでしまえる八雲岳の〝血〟をそこに強く感じるのだ。八雲の
「駒由さんがいない理由はこれで分かったけどさ、……ちなみに照ちゃん、神通さんたちとは別行動なの?」
現代に再現された中世ヨーロッパの武具に興味を惹かれた様子の梨冨へ自身の
南北朝時代――日本に
ペルーの
父親同士が親友ということもあって古くから親交のある
依然として梨冨は筑摩と
地下格闘技団体の
格闘技そのものを邪悪な人権侵害として憎み、その根絶を訴える『ウォースパイト運動』のようにMMAの試合場へ火炎瓶を放り込むような事態も有り得ないのである。
何よりもこれはあくまで『
(
『
武器術をも併用する中世発祥の古武術――『
哀川神通ひいては『
血塗られた手に握り締めたモノは〝暴力〟などではなく、格差社会の最下層を生き延びる為の
それと同じように哀川神通と『
「はぁ? 神通のヤツ、『
「冷戦の真似事がしたいんじゃないって。神通さんにちょっと用事があるんだよね」
宿泊先の展望カフェに神通を招いて大いに語らったという昨日の経緯をかいつまんで説明された上下屋敷は、「アイツとはチャット・アプリどころか、メールもできねーから、そういう情報が神通から入ってこねーんだよ」と苦笑交じりに頬を掻いた。
電子機器全般が不得手であり、インターネットにも善からぬ感情を抱いている様子の神通は携帯電話を所持していない。だからこそ二〇一四年六月になった
「言ってみりゃ寅の職場を見学しに行くみてーなモンだろ? おれも最初は乗り気じゃなかったんだよ。だから、神通たちの
〝頼まれ事〟と口にしながら上下屋敷はオーバーオールのポケットから一つの〝小物〟を取り出し、これを未稲の眼前に
「空閑の野郎からアマカザリへの預かりモンだぜ。試合前に渡してやってくれ」
「電ちゃんがサメちゃんに?」
丸メガネを掛け直そうとする未稲を些か乱暴に押しのけた寅之助が「どこかで見たコトあるよ、コレ」と指差しつつ見据えたのは、錦の布に
「大工の仕事が忙しくて
「それ、初耳だなぁ~。今朝だって電ちゃんにチャット・アプリでおはようメッセージを
「そもそもメッセージに気付いてねーんじゃねぇか? 出発までに間に合うよう日の出前に浅草のナントカっつう神社に頼み込んでこいつを調達してきたらしいぜ。……空閑の野郎、心の底からアマカザリに惚れ込んでいやがるんだな」
寅之助に
そこに祀られた武神の加護を東京から遠く離れた奥州で戦うキリサメに届けるべく、電知は朝日も昇り切らない
平安中期の『
その社務所で授けられている守り袋には赤い実の南天が刺繍されているのだが、これもまた武士の間では永く好まれてきた。〝
人生を左右するほどの大一番を迎えようとしている親友の為、遠い東京で自分に出来ることを一睡もせずに考え続け、〝本業〟を放り出してでも応援に向かうべきか悩み抜き、武神の守り袋を贈ろうと思い立ったそうだ。
「――今時、神仏の加護なんてモンは流行らねぇし、そもそもキリサメはそういうのを信じるタイプじゃねぇだろうけど、おれも同じ
浅草に祀られた武神から電知が授かったのは揃いの守り袋である。これを片手に一つずつ持ち、駅前で落ち合ったという
キリサメはリングでひとりぼっちではない――熱い
「……こういうのって、フツー、私の役目のハズなんだけどな……いや、こういうのが今日の今日まで一度も思い浮かばない辺り、結局、私の役目じゃないっぽいな……」
先に持っていた記録用のノートを
やがて右手でもって守り袋を覆ったのだが、その際にも神聖な物を取り扱うように極めて慎重な指使いであった。
「……寅の感覚が
「
「バカ、てめー。ンなこと聞かされたら、おれのほうがアマカザリに妬いちまうだろが」
改めて
当然ながら傍目には恋人同士が睦み合っているようにしか見えず、左の手のひらに守り袋の〝重み〟を感じている未稲は、神妙な面持ちを崩さないまま心の中で舌打ちした。
*
つい先程まで『スポーツチャンバラ』と同じルールの
〝
担当声優から解決を託され、秋葉原の〝
真っ向勝負を挑んでも太刀打ちできる見込みはないと、最初から
(――現代の
国家警察と共闘して壊滅させた
第三者の乱入によって争う理由が消滅し、強制的に打ち切られたのだが、数年前までフランスの
それは足元に転がっている遺骸を盾に代えて『
その戦いは辛うじて生き残ったものの、限界を超えた
生と死が鼻先ですれ違う極限状態に
キリサメが編み出した喧嘩殺法も半ば見切っていたようで、殺傷力こそ頭抜けているものの、動作自体は極めて原始的で、慣れてさえしまえば技を仕掛ける呼吸まで読み取り易い――と改めるべき弱点を一つ一つ並べていた。
当時は己の人生に必要のない助言を聞き流していたのだが、例えば「長期戦になればなるほど地金を晒す羽目になる」という指摘は、
(日本で
戦いが終わり、一応の和解を果たしてから彼が帰国するまで行動を共にしたが、おそらくは二度と生きて会うこともないだろう。キリサメも自分から探すつもりはない。
(……自信過剰になっているヒマもないって環境は、きっと恵まれたコトなんだろうな)
大鳥と同じ年長者ということから何となく想い出してしまった知人の顔を喉の渇きと共にスポーツドリンクで飲み下したキリサメは、次いでカーテンが開かれたままのガラス窓へと目を転じた。
奥州の空は依然として分厚い雲に覆われているが、今はほんの少しだけ晴れ間が覗いている。キリサメは己の心をそこに映していた。
「そろそろ『
そういって大鳥が覗き込んだ腕時計の針は、一五時四〇分に差し掛かろうとしていた。
次いでワイシャツの襟を緩め、首に纏わり付いた汗粒をスポーツタオルで拭っていく大鳥が口にした『
二〇一一年に深刻な経営不振に陥りながらも、世界中のスポーツ関連事業に投資するシンガポールのファンド会社から資金注入を受けて態勢を立て直し、
サバキ系の空手道場『
「ひょっとすると、僕の試合直前に沙門氏から勝利報告の電話が入るかも知れませんね」
大鳥の言わんとしていることはキリサメにもすぐさまに察せられた。寧ろ、それ以外の理由で『
首都圏と東北で会場こそ遠く離れているものの、『
『
若き日から続く深い因縁も含めて、これ以上ないというくらい運命的な筋運びと言えよう。格闘技の経験がなく、実力そのものを疑問視されているキリサメには注目度を引き上げる効果も働かなかったようだが、全日本選手権三連覇という確かな実績を持つ沙門の周辺は、初陣に向けて大いに盛り上がったそうだ。
今頃は日本最強の空手家を迎え撃っているであろう対戦相手は、試合が正式に決定する調印式の席でも
「何しろ交際関係で
「……みーちゃんも同じ理由で沙門氏を毛嫌いしていますよ。そういう面について軽はずみなことは言えませんけど、〝サバキ系〟という空手の
「ああ、……確か彼は『テオ・ブリンガー』の薫陶を受けたのでしたね。誰に対しても誠実で、例え自分を倒してのし上がろうとする相手にさえ真剣に応えていたブリンガーの影響は余り感じ取れませんが……」
「悪い顔ばかりが目立って隠れているみたいですが、ああ見えて意外にしっかりした人なんですよ、沙門氏。恩人から受け取ったモノを疎かにしていないよう僕には見えました」
「アマカザリさんが仰るのなら、その通りなのでしょう。自分はそれを信じるとします。素行不良に関しては目を瞑るわけにもいきませんが……」
「素行不良のほうは僕も
キリサメが沙門の〝恩人〟と言い表し、その二字から大鳥が即座に連想した『テオ・ブリンガー』とは『
〝世界一の踵落としの名手〟と畏怖され、『
テオ・ブリンガーを実の兄も同然に慕っていた沙門は、その踵落としを最後に直伝された空手家であった。
『
沙門のデビュー戦も白血病治療や骨髄バンクを支援する為のチャリティー
言わば、天国の恩人に捧げる初陣であり、それ程までに重い意味を持つ
白昼堂々、女性に包丁で刺されても誰も不思議と思わないような性情の青年だが、その根底に偉大な空手家の魂を継いでいることをキリサメは知っている。『
付き合いこそまだ短いものの、キリサメには〝日本最強の空手家〟という異名は教来石沙門こそ誰よりも相応しいと思えるのだった。
キリサメ自身、たった数日という交流でも沙門から学んだことは少なくない。
〝支配体制〟を覆し兼ねない沙門の組織改革に反発する支部道場は多かった。
慣例として続けられてきた理不尽な体罰が〝下〟の世代を屈服させ、押さえ付けられた側が〝上〟に立ったとき、同じことを腹癒せのように繰り返す――〝シゴキ〟に耐え抜けば強くなれるという根拠のない合い言葉が負の連鎖となって『
『
既得権益とも
その門下生たちを本気で迎え撃ち、〝シゴキ〟という名の理不尽な痛みによって支配される苦しみを優しく受け止め、事態の改善を約束する姿をキリサメは自らの双眸で見ていた。師範の暴挙を恫喝の材料として逆に利用せんと企む狡猾さには戦慄も覚えた。
全国の支部道場から送り込まれる刺客にいつか命を奪われることになっても、その犠牲を
自分と大して年齢が変わらない青年とは信じられない立ち居振る舞いにキリサメは
「――キミたちは『
キリサメの
この天才の思考は余人の理解を超えてあちこちに飛ぶことをキリサメも大鳥も既に体験している為、前後の脈絡を無視して地団駄を踏み始めても驚かなかったのだが、今度も意味不明な
「……『コドク』――漢字は思い浮かびませんが、呪術の内容は亡き母が授業だったか、何かで話していたのを
「今、キミと大鳥君が話していたことにこそ拾うべき答えが埋もれている。壺に封をする符には今日の日付が記されているだろう。そして、その符の
「自分の勘違いでないのなら、つまるところ、本間さんは『
「……大鳥氏がこの場に居てくれて本当に良かったです」
愛染による指摘自体は天才の感性を持ち得ない人間にも理解できるものであった。甚だ回りくどい言い回しであったが、彼女は『
大鳥の翻訳から察するに『
当然ながら
〝樋口代表〟が定めた運営方針であり、何よりも自身と友人が所属する団体間の関係にまで影響を及ぼし兼ねないことなのだ。一つとして聞き漏らすわけにはいかなかった。
「本間さんのご意見は尤も至極ですよ。以前までは――少なくとも、
「……勉強不足が口を挟むのは躊躇われますし、単純なことしか思い付けないのですが、ファンの
「本質というのは往々にしてシンプルですし、そこまで物事を分解できるのも理解力の賜物でしょう。それは学習の積み重ねにも通じますからね。……恥を晒しますが、自分はそのことを見落とした挙げ句、あなたたちの同日デビューに浮かれていたようなものです」
答え合わせを求めるようなキリサメの眼差しに対し、大鳥は即座に頷き返した。
「総合格闘技と打撃系立ち技格闘技では競技の形態が異なるから、客層は必ずしも一致しない――というのは一般論ですが、どちらも等しく愛する格闘技ファンは多い。両方とも魅力の在り方が違いますからね。……同じ壺に放り込まれる条件も整っているわけです」
『
しかし、これを樋口郁郎という日本格闘技界の〝暴君〟が仕掛けた情報工作と捉えるならば、余りにも危うい事態である。
格闘技に限らず、大きな催し物は集客の見込める祝祭日に実施されることが殆どだ。必然的に数多のイベントが同じ時期に固まり、開催日程が重なってしまう格闘技団体も珍しいわけではない。
それが由々しき事態に発展してしまうのは、競技形態の
大晦日の夜に地上波三局で
如何に足掻いても昔日の勢いを取り戻せず、一つの〝文化〟としては間違いなく衰退してしまった日本格闘技界にとって、一度の
その規模の二団体が観客を奪い合えば、いずれは共倒れとなるか、片方の再起不能を招くことは必定であろう。莫大な
経済という〝現実〟の前には
それが
『新鬼道プロレス』と『
これに対して『
二〇一四年現在の日本経済は『リーマン・ショック』とそれに伴う世界的な金融危機の
このような事態が長期化すれば格闘技という〝
一方の『
あるいは『
数限りなく飛び交い続ける邪悪な風聞を否定する声は〝身内〟からも上がらない。随分と昔に編集長の座を退きながら、未だに
力と技を競い合う場であるはずの
〝古巣〟のみならず、ネットニュースをも駆使する情報工作の手口に大鳥聡起は改めて戦慄していた。岳や袈裟友のように感受性の豊かな人間であったなら騙されてしまってもおかしくないが、普段から冷静沈着なこの青年でさえ、因縁深い
(……電知の『
日本国内で最大の規模を誇る二つの競技団体が同じ日に
自らが団体代表を務める『
キリサメも以前から感じていたのだが、まるで樋口は新たな敵を次から次へと求めているようなのだ。『
そもそも樋口郁郎が『
樋口の〝師匠〟――
ガラス窓の向こうの空は、またしても
統括本部長の後ろ盾があったとはいえ、得体の知れない子どもを『
*
「――『
改めて未稲と上下屋敷を交互に見つめた
一度は入場の可否を決め兼ねるほど
そして、それは一つのフロアの運営スタッフを取り仕切る立場としての責任でもある。
「別にあんたに詫びて貰おうとは思ってねーって。しょっちゅう、おれたちが揉めてんのも隠しようがねぇ事実だもんよ。おれが同じ立場でも『待った』を掛けたハズだぜ」
「そう仰って貰えると、こちらとしても救われます……」
バスケ選手の間を吹き抜けていく風のレリーフの前に立った上下屋敷は、畏まった様子の梨冨と肩を竦める寅之助を交互に見つめながら「こういう空気、苦手なんだよなぁ」と頭を掻いた。
その直後に大きな笑い声がフロアに飛び込んできた。見れば、ガラス窓の向こうで『
場違いとしか表しようのない中世の騎士を物珍しそうに眺めていた人々もそちらに目を転じ、
「撮影はご遠慮願います! みんなの夢を壊さないで!」という切羽詰まった男性の声と情け容赦のないシャッター音が張り詰めた空気を断ち切った為、上下屋敷と梨冨の双方にも笑顔が戻った。
「だがよ、警備員なんざ呼ぶまでもね~だろ。他力本願じゃなくたって、あんた、万が一のときには
「……まさか、
思わず口を挟んでしまったのは、姉に同行しながらも会話には加わらないよう遠巻きに眺めていた
「さっきからそうかもって思っていたのですけど、今ので確信しました。やっぱり未稲さんの弟さんなのですね。その凛々しい眉毛もお姉さんから伺っていた通りです。きっと騎士の鎧も似合うでしょう。如何でしょう? 西洋剣術の教室は子どもの体験コースもありますよ? 次の週末、私がご案内しますから」
「悪徳商法みてェな勧誘は逆に評判落とんじゃねぇか? ……つ~か、マジで格闘技博士なんだな、未稲の弟。身内の贔屓目じゃねぇかって疑って悪かったぜ。さっきの
外部スタッフの形で『
それにも関わらず、上下屋敷と筑摩のほうは
そして、その理由も明らかである。耳まで羞恥の色に染めている弟から睨み付けられた未稲は「可愛くて仕方のない弟のコトを友達に話しまくるのはお姉ちゃんにとって当然の権利だもん」と悪びれてもいなかった。
「チビッ子格闘技博士にわざわざ説明するのは間抜けだがよ、こちとら現役バリバリの格闘家なんだぜ? おまけに『
「現在進行形で鍛えている拳は見分けも付く――と、そう仰りたいのですね? ……そもそも『
「未稲に聞かされた話だとお前、空閑とは
〝柔道耳〟――正確には
ボクサーの拳にも似たような特徴が生じる場合がある。拳を突き込んだ際、対象に最も接触する人差し指と中指の付け根辺りの皮膚が厚くなるのだ。俗に〝
梨冨の〝
「今日まで一度もキックを放った経験はないんだけど、その分、パンチには自信があるんですよ? そうですね……打撃勝負なら希更・バロッサさんにも負けませんよ」
「
わざわざシャツの袖を
その一言には梨冨という女性が車椅子で移動している理由も含まれていた。
彼女が所属している人材派遣会社は心身にハンデを持つ人たちへ安心して働ける環境を提供することに力を注いでいるが、こうした社風を知る由もない上下屋敷は、その一言を聞くまで足腰の負傷で一時的に使用しているものと誤解していたかも知れない。
リハビリ期間中ということではない――その事実を受け止めた上下屋敷は過剰な反応を示すこともなく、「車椅子に座ったままで猛烈なパンチ力を作り出すんだろ? ニラんだ通りの猛者じゃんか」と、ボクサーとしての技量に格闘家としての本能を昂らせていた。
格闘技を金儲の手段にしていると
先程も『
「
車椅子ボクシング――梨冨
「……〝戦争の時代〟から遠くまで来たもんだぜ。『ストーク・マンデビル病院』から始まった半世紀を超える挑戦だもんな」
「さすがにお詳しいですね。外見で色々と判断してしまったことを謝罪します」
「チビッコ格闘技博士や歴史バカの空閑ほどじゃねーがな。ガキに余裕を見せてやるのも一興ってもんだぜ」
その際にも「半世紀を超える挑戦」と噛み締めるように繰り返していた。
上下屋敷が口にした『ストーク・マンデビル』とはイギリス・ロンドン郊外の
一九四〇年東京大会の返上から夏季オリンピックは〝戦争の時代〟に至って一二年も中断され、その終結後に一九四八年のロンドン大会でようやく復活した。同じ年のことであるが、
『ストーク・マンデビル競技大会』――パラリンピックの礎である。そして、これを開催に導いたのが
独裁政権下のドイツで人種を理由に生命を脅かされる迫害に遭い、亡命したイギリスのストーク・マンデビル病院に招聘されたのだった。
同病院で脊椎損傷の治療が本格的に始まったのは一九四四年二月――第二次世界大戦ひいては近代軍事史で最も有名といっても差し支えのない『ノルマンディー上陸作戦』の計画が進行する
一つの事実として、同作戦の死傷者は連合国側だけでも一〇〇〇〇〇人を超えている。
全世界を真っ二つに割るような〝戦争の時代〟をリハビリテーションの視点から見つめた医師であった。彼は
そのグットマンが開催へ導いたストーク・マンデビル競技大会は
原則的に毎年の開催という点も、四年に一度のパラリンピックとは違っていた。加えてストーク・マンデビル競技大会のプログラムは車椅子競技のみで構成されている。時代が進む中で多種多様となった〝パラスポーツの祭典〟ではなく、〝車椅子の競技大会〟として継続しているのだった。
一九四八年の第一回大会から半世紀を超え、大会名や運営形態こそ変わっていったが、スポーツという効果的な運動を通じたリハビリテーションを提唱し、ストーク・マンデビル病院にて実践し続けてきたルートヴィヒ・グットマンの〝直系〟とも呼ぶべき
上下屋敷はこれを〝半世紀を超える挑戦〟と讃えたのだ。
イギリス各地には
〝半世紀を超える挑戦〟――その礎という功績を記念し、ストーク・マンデビルにも黄金の郵便ポストが設置されたのである。そこには「パラリンピック誕生の地」と刻まれているのだった。
イギリスでは二〇一年ロンドンパラリンピックのテレビ放送が合計で四〇〇時間を超えている。これもまた
「――最初のストーク・マンデビル競技大会から今年で六六年目になる
パラリンピックの源流をやや早口で遡った
「
「す、すみません……自分でも恥ずかしくなるくらい前傾姿勢になってしまいました」
「ヒロくんがモッチー
自分の出番を奪われる恰好となった梨冨
梨冨の視線に気付いた
「つい出しゃばってしまいましたが、それくらい
「そこまで言われちゃうと、こっちまで顔が赤くなっちゃうよ、
生まれ育った環境の為、望むと望まざると格闘技の知識が
生まれる前から格闘技が身近に
二〇〇六年に世界初の競技団体が創設されたイギリスを中心として、車椅子ボクシングは欧米で知名度を高めていた。先ほど
全国的な普及には一〇年という歳月でも足りず、イギリスのように大勢の選手が集う大会は二〇一四年六月時点で一度も開催されていなかった。
しかし、その原因を日本に
米英は心身のハンデの有無に関わらず、〝全ての選手〟が同じ条件のもとでスポーツに興じる機会も多い。殆どの場合はパラスポーツを一緒に楽しむのだが、
義足への直接攻撃を禁じるといった特別ルールが例外的に採用されるものの、〝同じ条件〟で試合に臨むことを全ての選手が快諾し、人間の可能性として喜んでいるのだ。MMAに最も適した競技用義足の選定など団体としての支援も手厚い。
〝アフリカの奇跡〟と称されたルワンダに生まれ、相互理解の喜びを握り締めて
日系ハワイ移民の子孫が家伝の武術を発展させ、アメリカ本土で教え広めたとされる近代総合格闘技術――『アメリカン拳法』を極めたその男は、いずれ『NSB』の将来を背負って立つことであろうと、同国の
「アメリカン拳法――つーか、MMAとボクシングじゃあ勝手も違うがよ、アメリカの団体だとンセンギマナってのが最近、注目株みてーだな。片側に義足を
車椅子ボクシングひいてはパラスポーツの現状を明かしていく梨冨の言葉を引き取り、シロッコ・T・ンセンギマナの名前を挙げたのは上下屋敷であった。
フレンチネームとルワンダネームを組み合わせたその名前は未稲も記憶しているが、二度と消えないほど深く
およそ一ヶ月前のことであるが、『NSB』と関わりのある人間が同乗していたという理由だけで『ウォースパイト運動』の過激活動家が合衆国大統領専用機――エアフォースワンにサイバーテロを仕掛けていた。
世界の最先端技術を結集し、雲の上でも大統領としての執務を遂行できるものとして完成されたはずの通信機器が国際的なテロ組織などではなく、民間人によって掌握されるという信じ難い事件にンセンギマナも巻き込まれていたのである。
その日、シロッコ・T・ンセンギマナという名前は
『
未稲たちのゲーミングサークルがオフ会を催した日、同じ秋葉原で『
「何だかんだ言って照ちゃんもしっかりMMAをチェックしてるじゃん。
「うっせぇな~、敵を知らずにナントヤラっつうヤツだよ。ルワンダ生まれのそいつには知り合いが熱視線を送ってんだ。アメリカン拳法っつーのが珍しいんじゃねぇかな」
「ボクが見た限り、物珍しさで注目してるってカンジじゃなかったけどね。ブラジリアン柔術の
上下屋敷から目配せでもって同意を求められた寅之助が頷き返したということは、アメリカン拳法という耳慣れない格闘技に並々ならない関心を抱いている人間も『
キリサメに付き添う形で参加した殺陣道場『
伝説の武術家にして稀代の映画俳優であるブルース・リーが出演作の中で拳を交えた相手にアメリカン拳法家はいなかったと、未稲は記憶していた。
「尤も、当のンセンギマナは今度が
「照ちゃん、めちゃくちゃ観てるじゃん、『NSB』の試合。瀬古谷さんも付き合わせまくりなんでしょ」
「ボクもね、義足の選手が健常者を相手に五分の条件で回る姿には胸を熱くしたよ。
「その話は私も聞いたことがあります。プエルトリコはボクシングの世界
そこにプエルトリコのボクシング事情を言い添えたのは、改めて
ウィルフレド・ベニテスやヘクター・カマチョなど、プエルトリコはその腰に王者のベルトを巻く名ボクサーを数え切れないくらい輩出しており、ボクシングの強豪という
その一方、アマチュアボクシングの頂点であるオリンピックでは意外なほど
プエルトリコで生まれ育ったボクサーにとって、金メダルを故郷にもたらすことはオリンピック初参加となった一九四八年ロンドン大会以来の悲願なのである。梨冨が語った通り、
グローブで防護されているとはいえ、拳をぶつけ合う〝格闘競技〟の性質上、プロとアマが同じリングで闘うことは生死に直結するほどの危険性を孕んでおり、是非を巡ってボクシング界を揺るがす論争が吹き荒ぶのだが、それはまた別の話である。
「もうちょっと早く車椅子ボクシングが世界的に広まっていたら、私も同じリオで金メダル争いに参戦できたかな? でも、それだったらこの競技をパラリンピックの正式種目になるよう盛り上げていく面白さが味わえなかったか。どっちも捨て難いなぁ~」
「新しい〝道〟を切り開くほうが絶対に面白いですよ! はい、面白いです! こんなにも面白い
いつか車椅子ボクシングをパラリンピックの正式種目にしたい――左右の握り拳で車椅子の肘掛けを小刻みに叩き、その軽妙な音に合わせて梨冨が発した言葉に誰よりも大きく反応したのは筑摩依枝であった。
鞘に納められたままではあるものの、兜を被り直した筑摩は瞬間的な昂揚に衝き動かされて右手に握っていた
「ですよね、ですよねっ! いやぁ~、ますます
「是非是非! 動画でも十分に白熱しますけど、イチバンはやっぱり現地で観戦! お住まいは都内なのですよね、梨冨さん。是非とも試合場にご招待させてくださいね!」
『
岩手興行では
「さっき未稲が『この二人は気が合う』っつった意味が分かったぜ。
「――
「……ヒロくんさぁ、百歩譲ってお姉ちゃんを力いっぱい突き飛ばすのは構わないけど、そういう応援は二人より先にキリくんに言ってあげて欲しかったなぁ~」
その
梨冨と筑摩は必ず気が合うという未稲の言葉も振り返ったが、これに対して強く頷き返したのは
もしも、この場に各種セレモニーのリハーサル要員として岩手興行に参加しているカパブランカ
床に転がった友人の丸メガネを苦笑交じりで拾いながら、上下屋敷は先ほど自分で口にした〝半世紀を超える挑戦〟を改めて讃えた。
六六年前――プエルトリコがオリンピックへ初参加したのと同じ一九四八年に〝半世紀を超える挑戦〟がストーク・マンデビルでも始まった。その第一回大会は一六名の出場選手全員が〝戦争の時代〟を生き抜いた傷痍軍人である。
ストーク・マンデビル病院は脊椎損傷といった深刻な後遺症への対応を担っていたが、その中には怪我の治療だけでなく社会復帰に向けた長期間のリハビリを含んでいる。
言わずもがな、それは〝心の後遺症〟にも寄り添うということだ。グットマンはレクリエーション――即ち、娯楽によって活力を引き出すというリハビリこそ重視しており、同病院の入院患者も杖を用いた疑似的なホッケーに始まり、車椅子を使うアーチェリーやポロといったパラスポーツの原型を楽しんでいた。
それはスポーツによるリハビリの歴史が始まった瞬間でもあった。
一九五二年に開催された第五回大会へオランダが参加したことが一つの転機となり、ストーク・マンデビル病院の入院患者たちが実感した大いなる喜びは国際社会へと拡がっていった。時代の移り変わりに伴ってパラスポーツ自体も多様化し、一六名から始まった挑戦はパラリンピックという〝平和の祭典〟として花開いたのである。
社会復帰を目的とするリハビリの為のレクリエーションから世界中の選手たちと互いに研鑽し合う競技スポーツへ――ストーク・マンデビル病院の片隅で最初の一歩が踏み出された六六年という歴史の先に車椅子ボクシングも生まれたのだ。
反則を除いた〝全て〟の格闘技術が解き放たれる
彼が生まれ育ったルワンダは一九九〇年代に内戦という国家的悲劇に見舞われている。その最終局面に
そのルワンダが初めてパラリンピックに参加したのは、内戦終結の数年後に開催された二〇〇〇年シドニー大会であった。ただ一人の
内戦で左足を失った水泳選手が五〇メートルを泳ぎ切る姿に
失ったものを数えるな。残されたものを最大限に活かせ――ルートヴィヒ・グットマンが繰り返してきた言葉をルワンダ初のパラリンピアンが体現し、その希望が故郷の人々にも伝わったという事実は
内戦によって引き裂かれた彼らの故郷は数年で目覚ましい復興を遂げ、〝アフリカの奇跡〟と全世界に讃えられた。これもまた揺るぎない事実である。
ルワンダのシロッコ・T・ンセンギマナも、日本の梨冨
「
「ぼくにとって
「伝説の五〇メートル自由形だよねぇ。ルワンダで義肢装具を
日本初の女性MMA選手であり、また『MMA日本協会』副会長として
梨冨と気が合わないわけがないと未稲が直感した筑摩も、ボクサーとしての姿勢と挑戦を尊敬してやまないとまで言い募った
その表面に浮き彫りにされた勇ましい紋章――四振りの剣と八枚の旗がガラス窓から差し込む光を跳ね返して煌めいた。
その向こうに『
『
「ここ一〇年くらいで生み出された車椅子ボクシングなのですから、ネット検索がご縁になるのも
世界中の人々に〝新しい競技〟の素晴らしさを伝える為、
インターネットは物理的な分断とも言い換えられる距離を瞬時にして乗り越えられる利器であり、遠く離れた場所の
会話が聞こえていたのであろう
「社会復帰が一番の目的だった時代から車椅子競技も随分と変わりましたしね。それくらいの気持ちが良い塩梅なのかな。勿論、ボクサーとしてはますますガツガツ行きますよ」
必ずや皆の期待に応えてみせると宣言するようにして左右の拳を握り締めた梨冨を見守りつつ、未稲は上下屋敷を通じて空閑電知に預けられた武神の守り袋を両の手のひらで包み込んでいた。
失ったものを数えるな。残されたものを最大限に活かせ――今し方、
スポーツによるリハビリと社会復帰を促した〝パラリンピックの父〟は、心身のハンデがあろうとも人間は何でも
本人さえ気付いていない可能性の確認を共に分かち合う――それこそが〝心の後遺症〟に寄り添うということの本質であろう。未稲にはそのように思えてならなかった。
あくまでも平和な法治国家を生きる人間の視点であり、例えば寅之助から救い難い傲慢と批難されても言い返せないと未稲自身にも
ペルーから日本に移り住んで間もなくの頃、キリサメは屋根の上や電柱の頂点に立つという奇行を繰り返していた。その理由を
「――もしかして、その子はわざとスリルを味わっているのではないでしょうか。激戦地に送り込まれていた兵士が帰還すると、平和な世界には居場所がないと思って落ち着かなくなるそうであります」
新しい〝家族〟となった少年の
普段は心の奥底に寝かしつけているが、何かの拍子に暴発しそうになる破壊の衝動を最も平和的な形で発散し得る〝場〟としてMMAのリングこそ相応しかろうと未稲は考え、キリサメを『
彼が歩んできた〝道〟が間違いでないことを証明したい。暴力性の
ようやく迎えたデビュー戦は、己の手によって
キリサメにとってのルートヴィヒ・グットマンは自分しかいない――そのように心の中で念じながら、未稲は預かり物の守り袋を胸に押し付けた。
(……
例えば栩内駒由から提供される予定の応援歌をインターネットで大々的に公開し、彼女のファンをも取り込むという広報戦略など
『
「――何様のつもりだ、てめーら⁉ このオレに……『
未稲の
彼女たちが話し込んでいるフロアと
不愉快なことであるが、その声に未稲は聞き
「あァッ⁉ 未稲じゃねーか! ヒロも居やがる! つか、知り合いばっかりかよ! 良いトコで出くわしたもんだぜ! てめーんトコのクソ野郎ども、オレからギターを取り上げようとしやがってよォ! 総長とアマカザリの決戦をオレの
メインアリーナや選手控室と連絡するフロアに顔見知りを幾人も見つけ、狐のように吊り上がった目を輝かせたのは
〝短ラン〟と呼ばれる変形の学生服を素肌に羽織るという数世代も古い
城渡のセコンドを務めるわけでもない恭路は〝一般客〟として入場するつもりであったようだが、
「トラブルメーカーって生き物は最悪のタイミングでやらかすもんだけど、恭ちゃんは本当、みんなの期待を裏切らないよね。今度は何をやったのさ? アメリカで『ウォースパイト運動』がバカの頂点を極めたばっかりなんだから、このまま岩手県警に突き出されてもおかしくないよ。面会くらいは行ってあげるから楽しみにしててね」
「瀬古谷までオレを悪者扱いかッ⁉ オレは
金髪のパンチパーマは額の剃り込みが鋭く、鼻の下に髭を蓄えるという
強制的に連行されてきた原因は改めて
彼は『
アンプの有無に関わらずエレキギターを持ち込もうとすれば、受付に預けるよう求められるのは当然であろう。これを拒絶するようなら入場も認められまい。説得の余地を残して門前払いの措置を取らなかったのは運営スタッフの温情である。
「持ち込み禁止と取り決められていることに逆らっちゃいけませんよぉ? MMAは私たちの
鎧姿で恭路を注意する筑摩はこれ以上ないほど
「おい、上下屋敷ィ! 手ェ貸せや、コラッ! てめェ、『
「
上下屋敷から金的を蹴り上げられたことで途絶えたが、恭路の喚き声は打撃の応酬よりも遥かに深刻な
『
容赦なく急所を抉られ、膝から崩れ落ちはしたものの、恭路も反撃しないはずがない。実態はともかくとして、己が暴走族チームの親衛隊長に相応しい強さであることを信じて疑わない男なのだ。人並み外れて気位も高く、やられたままでは終われないのである。
「偶然の連鎖っていうのは笑えるオチがつかなきゃダメでしょ……この流れを
壁を飾るレリーフではあるものの、野球やバスケに興じる若きアスリートたちは、統括本部長の娘が食いしばった歯の隙間から呻き声を
おそらくは作成された時期であろう。レリーフに添えられたプレートには題名と併せて一九九七年と浮き彫りにされている。『
一九九七年――キリサメ・アマカザリと八雲未稲がこの世に生を
*
キリサメと大鳥が語らっている間、手持ち無沙汰であったのか、自身がリングに上がる第六試合は数時間も先であるというのに本間愛染はトレーニングルームに用意されたバランスボールの上で胡坐を掻き、その姿勢を維持したまま器用にも
その愛染はまたしてもキリサメから怪訝な表情を引き出したが、早過ぎる
「昔、さる偉い御方が『
自分を『
「……今のは偉人の格言じゃなくて日本の古い歌謡曲……ですよね? 死んだ母も楽しそうに唄っていましたよ」
「キミの母上と語らえなかったことが悔やまれてならないな。ギルバートとサリヴァンに留まらず、世の
「……大体の流れは自分も掴めましたよ。部外者が口を挟むのもどうかと思いますが、本間さんの仰った選択肢は、自分が手放してきた五人の福沢諭吉を台無しにするものじゃありませんか……」
大鳥が述べた「五人の福沢諭吉」とは、改めて
大鳥はスポーツチャンバラの競技選手ではない。それ故、店頭に陳列されていた電動ポンプを必要不可欠な道具と信じ込んで買い求めたわけであるが、個人の練習に『エアーソフト剣』を用いる場合は手動の物で十分であった。
スポーツチャンバラに
一方のキリサメは再び本間愛染と向き合っている為、そもそも大鳥の話した
「いずれは
合宿先の
傍若無人な振る舞いは世の常識に縛られない無頼漢として大衆から好意的に受け止められることがある。これを〝テレビ受け〟すると舌なめずりしたマスメディアに
その鬼畜と何ら変わる
〝黙示の仔〟という余人には理解し難い呼び名は、日本MMAを今度こそ滅亡せしめるという意味であるそうだが、
世間の批判が一等高まった直後に切り捨てたのだが、〝甘い汁〟を吸わんとしたマスメディアは数々の問題行為をも〝型破りな天才〟のように仕立て上げた。フライ級
まさしく「格闘技界の汚点」としか表しようのない二〇〇〇年代の悪夢を記憶している人々は、得体の知れない少年と情報戦に長けた〝暴君〟の結び付きからこれを想い出して危機感を抱いてしまうのだ。愛染もその一人ということである。
「今のキミには『
「それほど生温い人じゃありませんよね、神通氏は。何と言い表したら良いのか、……誇り高い人のように思えます。仮に本間氏の望み通りのようになったとしても、僕のことを気遣ってはくれるかも知れませんが、憐れみを掛けたりはしないはずです」
そのように言い募るキリサメの脳裏には、南北朝時代から数えて六世紀にも亘る流派を宗家として双肩に担い、己の生涯をも『聖王流』の歴史に捧げんとする哀川神通の凛々しい顔が浮かび上がっていた。
彼女とは余人が立ち入れない〝共鳴〟で結ばれているとキリサメも感じているが、それは甘ったれた馴れ合いとは違うのである。
「随分と知ったような口を叩いてくれるな。それもまた〝黙示〟なのか? 私も見たことのない感情をあの子から引き出したと自惚れるつもりならば、こちらにも覚悟がある。神通と草津温泉へ出かけたときの写真で勝負だ。言わずと知れた内風呂付き。全てをさらけ出す付き合いで〝黙示〟を跳ね返してくれるッ!」
「――いえ、……遠慮しておきます」
「今の微妙な〝間〟はちょっと面白かったですよ。アマカザリさんも案外、感情豊かなんですね。一人の友人として安心しました。バロッサさんのマネージャーとしては
「大鳥氏もそこで反応しないでください……」
冷やかすような眼差しを向けてくる大鳥に苦笑を浮かべつつ、キリサメは哀川神通の同情を引くつもりがないことを明示する為に正面から愛染を見つめて首を横に振った。
次いでキリサメはランニングマシーンの間を抜けるようにして窓辺へと向かった。その口から滑り落ちたのは、何とも
「……僕は本間氏の言うような賢い人間なんかじゃありませんよ……」
「謙遜はときに美徳となり得ないことをここで学んでおきなさい。キミは
「……本音を言えば、〝大きな力〟の働きに戸惑っています。精一杯、手を伸ばしても決して届かないところにある〝大きな流れ〟に……。僕が本当に賢かったら、その〝大きな力〟が僕をどうやって動かして、〝大きな流れ〟でどこに運んでいくのか、簡単に読み解いて結論を出せるはずですよ。……僕にはどちらもワケが分からない」
二人に背を向けたまま奥州の空を仰いだ
大鳥は既に『エアーソフト剣』も電動ポンプも片付け終わったが、キリサメのほうは練習用の
現在、時計の針は一五時半に差し掛かろうとしている。一六時から始まる
それは『
「
キリサメが生まれ育った
それはつまり、橋を渡った先では〝表〟の法律など通用しないことを意味している。
だからこそ、キリサメは生き残る
〝表〟の情勢――〝大きな流れ〟などは関わり合う理由もない。母が没してからは日系社会との繋がりさえも殆ど切れてしまっている。新聞を読むこともなくなっていたが、そもそも
血塗られた手で『
キリサメが生まれた一九九七年にようやく解決に至った日本大使公邸人質占拠事件の顛末など、反政府組織が社会の〝闇〟に反乱分子が隠れ潜むペルーで暮らす以上は〝表〟の混乱と全くの無関係ではいられないが、それでも世の中を動かしていく〝大きな流れ〟は横目で窺う程度であった。
これを左右するほど〝大きな力〟を握り、自らの望む形へ導かんと画策する人間には激しい嫌悪感を抱いていた――そのはずであったのだが、ペルー社会と日本の
それどころか、時代の流れを変えてしまえるほどの〝力〟も秘めた人々とも交わるようになっている。養父の八雲岳は言うに及ばず、〝暴君〟と恐れられる樋口郁郎も、彼の師匠が煽った〝スポ根〟ブームの成れの果てに決着をつけようとする教来石沙門も、誰も彼も
「……振り返ってみれば、僕の
『
市民たちの憩いの場である体育館をMMA専用の試合場に作り替えるような設営が半日足らずで完了し、
『キリサメ・デニム』と名付けられた試合着の開発に関わった
未稲と大陸の実母である
日本格闘技界に君臨する〝暴君〟や、団体の垣根をも超え、一丸となって東北復興支援に取り組んでいく一大
当代の叡智が結集した〝場〟に自分は余りにも不釣り合いではないか――曇天に放り出された問い掛けは儚く、キリサメの口から再び
「僕がハポン――日本で出会った人たちは誰もが〝大きな流れ〟を作り出せる〝力〟と資格を持っていました。……大鳥氏の幼馴染みというあの
「……何となく分かりますよ。依枝さんは日本でも
「岳氏も陣羽織という派手派手しい上着で買い物に出掛けてはみーちゃんに叱られていますね。……岳氏も筑摩氏も、自分の為すべきことを明確に見定めている。だから、傍目にはおかしく見える姿を迷いなく貫けるんじゃないでしょうか」
「幼馴染みのことをそこまで褒めて頂けると、何だか背中が痒くなってきますよ」
「……僕はあの人たちのようにはなれない。自分が本当にするべきことは何なのか、結論を出せないまま今日という日を迎えてしまった。そんな自分が恥ずかしくてなりません」
僅かな躊躇こそ挟みはしたものの、長い間、胸の奥で渦巻き続けていたモノを吐き出していく自分自身にキリサメは驚いていた。
〝家族〟である岳や未稲にも打ち明けずにいたことである。それどころか、自分の
自分では名前も付けられない未知の苦しみをキリサメが吐露できたのは、大鳥と愛染が己の〝家族〟と大して近しいわけでもなく、何よりも〝このこと〟を他人に決して喋るまいと信じられた為である。
哀川神通を巡って対抗意識を剥き出しにし、また日本MMAの未来を憂えて厳しいことも口にするが、難解な言い回しを除けば本間愛染の言葉は常に真っ直ぐであった。仮に告げ口といった卑劣な真似を好む人間ならば、誇り高い神通とは決裂していたはずである。
声優事務所のマネージャーとして負うべき役割を
「……
ガラス窓を挟んで曇り空に映ったキリサメの双眸は
ほんの三年前まで『NSB』で活躍していた愛染は、団体代表へ就任する以前から上級スタッフとして運営に携わってきたイズリアル・モニワとも親交が深かったようで、キリサメが〝旧友〟の名前を紡ぐと、「如何にも『イジリー』らしいな。あれは『
陸前高田市にて邂逅した『NSB』代表が言わんとしたその意図はキリサメも間違いなく受け止め、理解したつもりであるが、そもそも岳は途方もない存在である為、〝何〟を見つめていれば良いのかも掴み切れない。猪突猛進な言行は単細胞と揶揄されているが、それでいて計り知れない
鬼貫のもとで『鬼の遺伝子』として挑んだ異種格闘技戦に始まり、
まだ言葉を交わしたことのない『
古くから武芸が盛んな熊本県でミャンマーの伝統武術『ムエ・カッチューア』を教え広めるバロッサ家の一族は、日本国外の格闘技界でも存在感を示しているそうだが、その理解が捗っていないキリサメにとっては、友人である希更個人こそ大きく感じられた。
秋葉原で寅之助と斬り結んだときのことだが、同じ日には〝
希更のように声一つで誰かに寄り添うことなど出来ようはずもない。
〝
友人たちのように明確な目的を持たず、『
(……金持ちの道楽が板についた。全身の隅々まで〝富める側〟に染まり切った――なんて、また
湘南の暴走族チームにて親衛隊長を務める御剣恭路には、彼が敬愛してやまない〝城渡総長〟――即ち、デビュー戦の対戦相手と闘うだけの資格を本当に備えているのかと激しく問い質されたこともある。
そのときには城渡マッチと真摯に向き合う覚悟を示したのだが、今、同じことを再び難詰されたならば、おそらくは恭路を激怒させる結果に終わるはずだ。当代の叡智が集結した『
これでは〝客寄せパンダ〟としても使い物にならず、樋口から受けた恩を返すこともままならない。養父と麦泉から寄せられる期待も最悪の形で裏切ってしまうだろう。
「……何も背負っていないちっぽけな人間が、みんなと肩を並べられるはずなんかない」
MMA選手としての在り方に迷い、黄金時代の終焉と共に現役を退いた〝先輩〟――
〝大きな流れ〟を作り出す資格を持った数多の人々と、暴力しか頼るものがなかった自分が同じ〝場〟に立つことなど有り得ない――本間愛染から予言された通り、このままデビュー戦に臨んでも〝MMAのアイガイオン〟として終わるしかなかった。
サン・クリストバルの丘より吹き降ろす砂埃を頭から被りつつ、
将来の展望など一つとして持たず、母が生きていた頃を懐かしむこともない。帰りを待つ家族も、帰るべき家も持たず、罪に穢れた手で〝墓守〟の真似事をしていた。
ささやかながら幸せであった時代の想い出を分かち合う幼馴染みも、二度と
それが
明確な結論にはついに辿り着けず、その手掛かりすら得られないまま、〝これから先〟の人生を左右する刻限を迎えようとしている。ちっぽけな人間の手に余る情況であった。
「――〝何か〟を背負わなければ、大きな志を抱く資格すら持てないという発想は、なかなかに傲慢だな。いや、MMAの根を腐らす悪しき波動を誰よりも浴びる〝黙示の仔〟としては似合うの不遜か。我が子の腹を満たし得る糧を求め、闘いの楽園に足を踏み入れる勇者たちも多いのだが、人として当たり前の願いすらもキミの目には七つの大罪に触れし愚者と見えるようだ。悲しいな、実に悲しい」
二〇〇〇年代半ばまでのような黄金時代が過ぎ去って久しい
その直後のことであった。左右の肩に強い力を感じるや否や、キリサメは抗う間もなく振り向かされ、次いで顔面を柔らかい〝何か〟で包まれてしまった。
視界が完全に塞がれてしまった為、己が置かれた状況を即座には認識できず、最も強く五感が拾ったのは鼻孔に割り込んできた己のものではない汗の臭いであった。
「大義? 大志?
依然として意味不明な筋運びに変わりはないが、脳天に降り注ぐ声で自分の身に起きたことだけはキリサメにも把握できた。気配を感じ取る間もない
丁度、豊満な胸部に顔面を埋められた格好であった。
これが艶めいた話に事欠かない教来石沙門や、愛染に傍迷惑なくらい慕情を押し付けている御剣恭路であったなら、鼻息を荒くしたことであろうが、何事にも無感情なキリサメには窮屈なだけであり、「
傍から見ていた大鳥のほうが慌てたくらいであり、「タブロイド紙の記者が大喜びでカメラを向けますよ。見出しは熱愛疑惑か、セクハラ事件か。どちらにせよ、〝本業〟に差し障るのでは」と、呆れ返った声で愛染を窘めた。
「聖書という旅に出掛けるまでもなく〝黙示〟とは天より舞い降りしもの。さしずめキミは地上が毒壺と化すのを見下ろす星々か。これを仰ぐ我が目には傲岸にして不遜としか思えんが、それもまた亡き母上の教育の賜物であろうな」
「……賢そうに振る舞う人間というのは、例えそれが浅知恵であっても
「しかし、キミは星々よりも遥か彼方に
愛染が述べた戒めの剣とは『ダモクレスの剣』とも呼ばれる伝説の引用であった。城渡マッチのセコンドを務める
樋口は
先ほど口にした「実に悲しい」という一言は、
「人間は別に立派でなくても生きていける。誰よりも強くなりたいと燃える闘魂も、愛するものの為に闘う気高さも、どちらも私の心を震わせてくれるが、背負わず気負わずお気楽極楽にリングで遊ぶ人間も同じくらい好んでいる。『
愛染の言葉が頭の上に折り重なる
「プロボクシングが穢された
「勿論、……
「格闘技を見守る人々は、ときにリングに立つ我々より深き真理を見極めている。私の心を震わせたあの声の通り、MMAという戦場では誰もがみな平等で、故に私はリングを楽園と呼ぶことを躊躇わない。楽園の太陽もまた平等に降り注ぐ。いちいち立派であろうと自意識を高めずとも、楽園はみなに夢を与えてくれる――生きるのが苦しくなるようなら誰も楽園とは呼ぶまいよ」
MMA選手としての道筋を断ち切らんとするような厳しい言葉を幾度となく浴びせられてきたのだが、その全てが実は皮肉や批判の類いではなく〝後輩〟への助言であったのではないか――
〝八雲岳の秘蔵っ子〟――即ち、『
合宿先の
しかし、それは同時に
常人とは異なる領域へと感性が鋭く飛び抜けている為、誤解を招くような言行ばかりとなってしまうのだが、敵意を抱く相手を精神的に責め立てる卑劣な人間であったなら、誰よりも誇り高い哀川神通は言うに及ばず、好嫌の振れ幅が極端な御剣恭路も大昔に愛染から離れていたはずである。
心の底から互いを憎み合っている神通と恭路には甚だ不本意であろうが、同じ『
「楽園への道を踏み出せずにいるのなら、私たちがキミの腕を引こう。まだ己は資格を持たないと嘆くのならば、〝黙示の仔〟ではない別の肩書きをみんなで考えよう。
「楽園への道を踏み出せない――か。時おりアマカザリさんがいじけているように見えましたが、その理由も自分なりに合点が行きましたよ。……昨日よりも更にあなたという人を理解できたような心持ちです」
キリサメの〝先輩選手〟から言葉を引き取ったのは、改めて
先程も冗談交じりで「タブロイド紙の記者が大喜びでカメラを向けますよ」と諫めたのだが、猥談が大半を占める低俗な週刊誌の餌食になってしまう恐ろしさを声優事務所のマネージャーとして熟知している大鳥は、
「ゴシップ記事で生計を立てているような記者連中は、ハリウッド映画にも楽曲を提供している
「そのアメリカではハグもまた親愛や友情の証だぞ、大鳥君。何でもかんでも色恋に結び付けるのは感心しないな。キミ、恋愛映画の観過ぎではないか? 発情期のウサギにも似た脳の回線は社会へ出る前に修正しておかないと色々ツラくてイタいぞ」
「何でもかんでも哀川さんに結び付けてアマカザリさんにキレ散らかす本間さんにだけは言われたくありませんねっ」
「唇までは友人であろうと明け渡さん。ここは神通だけのものだ。あの子が素直になってくれるその日を夢見て予約済みなのだ。いや、神通の
アメリカでの
愛染に苦笑いを浮かべた
「いじけた様子……ですか。でも、そう思われてもおかしくはありませんね……」
「昨日、バロッサさんも心配していましたが、アマカザリさんはいつも肩に力が入っているような大真面目ですから、余計なことまで考えて思い詰めてしまうんですよ」
デビュー戦の
心に垂れ込め、MMA選手としての行く末を見失ってしまいそうになるドス黒い
「それは誠実さの表れでもありますが、行き過ぎれば自分を卑下していじけてしまう。虚しい気持ちを慰めようとしてドツボにハマッた経験は自分にもありますよ――」
己を見つめてくる大鳥の瞳に一等強い力が込められ、キリサメは我知らず息を呑んだ。
「――答えを急ぐ必要はないんです。本間さんの言葉をお借りするようですが、試合開始前までに一人前になっていなくたって構わないんですよ」
「いえ、それは幾らなんでも……失格同然ですが、〝プロ〟の選手を名乗るからには半人前ではいけませんよね? 中途半端なままではきっと城渡氏を失望させてしまいます」
「MMAということだけでなく、格闘技の試合そのものがアマカザリさんは今日が初めてでしたよね? 自分がどんな選手で
「初めて
「……バロッサさんがこの場に居てくれたら、もう少しアマカザリさんの緊張を解きほぐしてくれる話を聞けたのでしょうが……」
「希更氏も本間氏とそれほど変わらない気もしますけどね。途方もなく強い人ですし」
『
だが、実態を理解していない部外者による無責任な放言と切り捨てる気にはなれない。MMAと西洋剣術という
比喩でなく本当に手も足も出ないほど封殺されたという事実が大鳥の紡ぐ一言一言に自然と首を頷かせてしまう説得力を与えているのだった。
「ひょっとすると今日のデビュー戦に寄せて、空閑さんと何らかの約束でもしていたのではありませんか?」
その言葉が鼓膜を打った途端にキリサメが目を丸くしたのは無理からぬことであろう。親友――空閑電知とは確かに互いの勝利を捧げ合おうと誓ったのだが、これを大鳥の前で話した記憶がなかった。
キリサメの反応を見て取った当の大鳥は「空閑さんでしたら、きっとそういう励まし方をするのだろうと思いました」と、この上なく眩しそうに微笑んでいる。大工という〝本業〟以外は日常生活に
「空閑さんの期待に応えなくてはいけないと、気負っておられるのではないかと察していました。……空閑さん一人のことではありませんよね? 八雲さんやその娘さん、それにバロッサさんや、いけ好かない瀬古谷さんも含まれるのかな? 御剣さんはともかく城渡さんの気持ちまで背負っておられるご様子。きっと今日まで関わってきた人たちの為に何がなんでも結果を出さなくてはいけないと焦っているのでは?」
「こんな僕を支えて下さった人たちですから。……死んだ母にも受けた恩を返さないのは信義に
「その人たちはデビュー戦で納得のいかない結果しか出せなかったとき、ベテラン選手に勝てなかったとき、ただそれだけの理由であなたを見放すと思いますか?」
「それは有り得ないです。それだけは断言できます」
自分自身でも驚いてしまうほどキリサメの返答は早く、大鳥の言葉を遮るような勢いであった。
己のことはどれほど卑下しても足りないのだが、日本へ移り住んでから新たに出会ったのは、寄せられた期待に応えたいと心底より思える人々であった。彼らと結び、今日まで育んできた絆も試合の勝敗という結果などで揺らいでしまうほど脆くはない――これを信じて疑わないからこそ、キリサメの言葉に一切の淀みはなかった。
大鳥もまた自分を見限ることはないだろう。初めて遭遇したときからは想像もできないほど親しみに満ちた眼差しも、キリサメは深い感謝と共に受け止めている。
もしも、デビュー戦が期待を裏切るような結果に終わったとしても、電知などは「次にまた頑張りゃ良いじゃねーか」と肩を叩いて励ましてくれるだろう。約束破りを非難するどころか、試合の反省点や次戦に向けた課題を一緒に考え、
新宿歌舞伎町――鬼貫道明がオーナーを務め、哀川神通がアルバイトとして勤務する異種格闘技食堂『ダイニング
世界最強という果てしない夢に向かって迷いなく突き進む電知は、何時でも〝次〟に踏み込むべき道筋を見据えているのだ。
(……〝次〟――か。これだって
第三者の乱入によって勝敗を決することがなかったニット帽の男は例外であり、キリサメが『
ルールによって選手の安全が確保された〝格闘競技〟はその限りではないのである。
無論、レフェリーが攻防の最前線で厳しく監視し、何時でも出動できるようリングドクターが会場内で待機していようとも深刻な事故が起これば命を落とすことがないわけではないのだが、それは極めて稀であり、少なくとも日本では先例がない。
それはもはや、格闘技の試合などではなく殺戮なのだ。
あるいは愛染もキリサメと同様の感覚を持て余しているのかも知れない。
関東に
『
「この試合、負けて当たり前でしょう。何しろ相手は日本MMAの黄金時代を築き上げた一人なのですよ?
「御剣氏の面倒を見続けていられるというだけで、その
「そんな城渡さんなら、どんな状態のあなたでも受け止めてくれますよ。半端な状態に失望されたくないと恐れるよりも、KO覚悟で思い切りぶつかることをお勧めします。向こう見ずな闘魂を燃やす〝後輩〟のほうが城渡さんも喜ばれるでしょうし」
それもまた
空閑電知や瀬古谷寅之助との
MMAのリングを愛染が〝楽園〟に
「……懐を借りる――というヤツですか」
「うむ、それがよかろう。キミがアンヘロ・オリバーレスと大盛り上がりだった
「幾らなんでもそこまで考えていたわけではありませんよ。ご一緒させて頂いたオリバーレス氏にも暗喩のような意図はなかったと思います。……というか、『ピナフォア』って涎掛けの意味なんですか? 初めて知ったけど、軍艦らしからぬ名称だったんだな」
「私の感動をそっくりそのまま返却を願おうか、偽りを黙示せし少年よっ!」
再び手持ち無沙汰になった愛染はトレーニングルームに据え置かれている器具でベンチプレスを始めているが、〝先輩〟選手との向き合い方について相撲の
「神通の懐を借りることは、あの子の涎掛け時代から運命を感じていた私が断じて認めんぞ、
柔道の代表選手として出場した夏季オリンピックで祖国へ黄金の栄光をもたらしたメダリストであり、スペインの国民的英雄とも呼ぶべき人物――アンヘロ・オリバーレスにも城渡マッチの懐を借りるよう助言を受けている。
その言葉を掛けられた瞬間には殆ど聞き流していたようなものであったが、今になってようやくキリサメの
「本間さんは意味不明のようで的確な例えをなされるから油断できませんよ。そうです、
「……まさか、そのつもりで?」
ここに至ってキリサメは大鳥が選手控室に自分を訪ねてきた理由を悟った。答え合わせを求める眼差しにも彼は「荒療治で申し訳ない」と、微笑みながら頷き返したのだ。
デビュー戦を直前に控えた
完成された剣術の前には手も足も出ないという喧嘩殺法の弱点を突き付け、御剣恭路が問い質したような資格など備わっていないと突き放す為でもない。〝心技体〟のいずれも自分より遥かに優れた人間は世に多いという〝現実〟を明確に示し、だからこそ
日本で出会った人々に報いるべく結果に逸っていたキリサメにとっては、張り詰めた気持ちを緩める効果も大きいのだろうと大鳥は考えたのである。
「……お陰様で頭は冷えましたけど、それにしても試合前に気持ちが折れてしまったら、大鳥――聡起氏はどう責任を取るつもりだったのですか? 総仕上げの段階になって今日までの
「気持ちの張り詰め方やその原因は人それぞれですし、情況に応じて最善の対応を考えますよ。ご自分でベストの精神状態を整えているバロッサさんは例外中の例外ですね。それにキリサメさんなら、こちらの意図に気付いてくれると信じていましたから」
依然として希更のマネージャーである大鳥聡起が自分を
一つの物事を強迫観念のように考え過ぎてしまうからこそ、本来は時間の経過と共に緩んでいく緊張状態が悪い形で続くのだと、大鳥聡起から戒められたばかりなのである。
「――初めてキミが奏でる音が私の心を叩いたとき、樋口郁郎から握らされた毒の種を我々の〝楽園〟に振り撒くとしか感じられなかった。キミの起こす風が日本MMAそのものを汚染し、やがては腐らせるだろうと。やがて死滅に至る〝黙示〟の
試合前の
同団体に禁止薬物が蔓延していた頃、
自分以外の〝音〟に
日増しに樋口の影響が強まり、あまつさえデビュー戦当日までに万全の態勢を整えられないという失敗を冷たく突き放されるだろうと心の
「キミの
またしても余人には意味不明な情況で憤激の火が付いてしまった愛染は、天井に突き刺さるほど大きな音を立ててバーベルを置き、次いでベンチプレスの台から跳ね起きると、神通との〝共鳴〟を想い出して気恥ずかしそうに立ち尽くしているキリサメへ奇声を引き摺るようにして飛び掛かっていった。
(……神通氏が僕から〝何か〟を引っ張り出すとしたら、うざったいくらい
「神通にナニを引き出されたのか、言えるものなら言ってみろ」と難詰してくる愛染に胸倉を掴まれながら、キリサメは
今日に限って
亡き母の私塾で共に学んだ旧友たちを喧嘩殺法で叩きのめし、空腹を満たし得る小銭を奪い取った日のことや、夥しい亡骸が折り重なる阿鼻叫喚の地獄にてニット帽を被った日本人男性と繰り広げた〝実戦〟が
禍々しき『
安全性に配慮されたルールが選手の生命を保障するMMAの試合へ初めて挑戦しようという日に、これを根底から覆す追憶が本人の意思と無関係に繰り返される状況は異常としか表しようがあるまい。
サン・クリストバルの丘より吹き降ろす砂埃や、クイの串焼きが恋しくなることは心の働きとして真っ当であろうが、血と罪に
その危うさはキリサメも自覚しているのだが、〝プロ〟のMMA選手としても望ましくないと理解していながら
地球の裏側で格差社会の最下層を這いずり回っていた頃とは何もかも変わった――善かれ悪しかれ己の変転を受け止めていたというのに、結局は
一瞬でも気を緩めたなら、己が立つべき
自分は尊敬すべき人々と同じ『
(……僕は今、
己は『
そして、キリサメ・アマカザリという少年は亡き母親の教育が行き届いていることもあり、ときに自滅の危うさを感じさせるほど生真面目で、何事も深く考え過ぎてしまう。加えて、心の振幅を表情としてさらけ出すことも少ない。
その不足はMMA選手としての在り方を己に定められないまま〝プロ〟としてリングへ臨むことになった
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