スーパイ・サーキット
その15:開幕・一九九七年(前編)~終わりと始まりが集う決戦場・総合格闘技に黎明の鐘を鳴らした伝説(レジェンド)/総合格闘技を滅ぼすと予言された死神(スーパイ)──名もなき少年、時代の表舞台へ!
その15:開幕・一九九七年(前編)~終わりと始まりが集う決戦場・総合格闘技に黎明の鐘を鳴らした伝説(レジェンド)/総合格闘技を滅ぼすと予言された死神(スーパイ)──名もなき少年、時代の表舞台へ!
一五、1997 Act.1
『
メインアリーナの中央には
『昭和』の伝説とも畏敬される
四角い土台の上に衝撃を和らげるマットが敷き詰められ、その四隅にはクッション材で覆われた
一階は南側を除く三方の壁際に可動席が組み立てられている。これに対してリングサイドの〝特等席〟に並べられた何脚もの補助椅子と二階の固定席は東西南北から選手たちの熱闘を見守る形となっているのだ。
二階固定席は三〇〇〇、一階は可動席と補助椅子を合わせて二〇〇〇――これら全てを使い切って迎え入れる最大五〇〇〇人もの観客は、誰もが同じ昂揚を分かち合っていた。
『
岩手興行そのものが〝地球史上最強の生物〟を甦らせる儀式なのだ。
しかし、時計の針が興行開始時間である一六時を指し示したとき、『プロフェッショナル・ミクスド・マーシャル・アーツ』――MMAの正称が英字で刷り込まれたリングの中央に現れたのは、数多のファンが一日千秋の気持ちで待ち続けたアイスランドの巨人ではなかった。
ましてや、統括本部長の八雲岳でもない。ワインレッドのレザージャケットにデニムのフレアスカートを組み合わせ、頭頂から
この眩いばかりの
『グリマ』と呼ばれる
それ故、北欧のルーン文字で記された魔導書の秘術を
そもそも顔立ちから紡ぐ
驚愕よりも先に困惑が襲い掛かってきた為、一階・可動席から二階・固定席に至る観客のどよめきは爆発と呼ぶには余りにも緩やかに、そして、徐々に広がっていった。
一六時丁度となった瞬間にメインアリーナの照明が誘導灯を除いて全て消され、リングの様子さえも暗闇によって塗り潰された。通常の
メインアリーナに詰め寄せた五〇〇〇人と、この模様が生中継されている岩手県内各所のパブリックビューイングの会場――即ち、心の底から『
『
首の付け根より少し上の辺りで結い上げられた小振りなポニーテールが跳ね返すのは、〝この場〟に
「――本来でしたら、もっと
場内を埋め尽くすざわめきを切り裂いた声は佇まいと同様に凛と張っており、五〇〇〇もの動揺を瞬く間に引き締めていく。それはつまり、心の奥底まで響き渡るほどの〝力〟を秘めた声とも言い換えられるだろう。
東北各県を対象とする抽選を潜り抜けた観戦希望者を収容し、東日本大震災の復興支援事業でもある『
地方振興の理念から活動拠点を首都圏に限定せず、
興行開催に向けた各団体との交渉の補佐や、パブリックビューイングの司会進行も主催企業は依頼しているのだが、『
黒地の
今回のパブリックビューイングで最大の規模を誇る会場であり、サイクロプス龍は八〇〇人もの観客を迎える立場であったのだが、彼らの興奮を更に盛り上げる為の言葉が
やがて何人かの観客がモニターに向かって『
紡がれた言葉のいずれもが少女と同じ独特の
読んで字の如く〝ローカルアイドル〟は大手事務所に所属し、テレビ番組への出演やコンサートといった全国規模の芸能活動を行うわけではない。住民たちも地域の催し物を盛り上げる〝近所の人気者〟といった感覚で接しており、名実ともに〝地元の星〟なのだ。
「参加を取り止めだっつうどごろまでは
サイクロプス龍が過剰なくらい首を捻りながら洩らした呟きの通り、
しかし、前日セレモニーの会場に奥州市を代表するローカルアイドル・グループは姿を現わさなかった。開催直前になって〝やむにやまれぬ事情〟から出演を見合わせたいという申し出があったのだ。
東京からやって来る格闘大会に参加することは貴方たちの為になりません。くれぐれも身辺にご用心を――
だからこそ密かにファンクラブにも
「
彼女が
送り付けられたのは紙切れ一枚と玩具の弾丸であったが、その効果はアイドル活動そのものに深刻な影響を及ぼすほど大きいのである。脅迫の犯人が逮捕されない限りは攻撃の条件に含まれている
格闘技を深刻な人権侵害と
絶対王者の復活という大きな
彼自身、公会堂・大ホールの客席に腰掛けた人々と情況は全く変わらないのである。
「そ、それにしたって、なして今さら出演すんべぇってごどになるんだ?
「――私は負げだぐない。
サイクロプス龍の疑問に答えたのは、奇しくも画面内の
「私は、
日本で最高
サイクロプス龍は比喩でなく本当にひっくり返っている。
およそ半年前のことであるが、二〇一三年一二月三一日の夜に放送された大晦日の〝風物詩〟――日本を代表する大勢の歌手が紅組と白組に分かれて美声を競い合うテレビ番組に
総勢四〇人を超える大所帯のアイドルグループの
生放送の最中に事前の打ち合わせもなく敢行された脱退発表は当然ながら物議を醸し、テレビ番組自体の私物化という批判まで巻き起こしていた。衝撃の度合いは観覧席を埋め尽くした悲鳴に表れているだろう。
パブリックビューイングが実施される各会場でも、
格闘技そのものに対する激しい憎悪を感じさせるような脅迫を受けてしまった為、
その主張もまた理解に苦しむものであった。少しでも関われば危害を加えると犯人が脅迫してきた『
これで愕然としない人間はいなかった。ローカルアイドルの活動を応援している人々に至っては、衝撃に打ちのめされて顔から血の気が引いていた。
一部の〝例外〟を除き、岩手興行を見守らんとしている人々は目の前で発生した異常事態に対して、理解の限界を超えてしまっていた。
そもそも奥州市のローカルアイドル・グループが深刻な脅迫を受けていた事実すら今日まで公表を差し控え、『
それにも関わらず、
無論、これは同興行の運営スタッフにも知らされてはいなかった。二〇一三年大晦日のテレビ番組の会場と同じように、ローカルアイドルを取り巻くメインアリーナの誰もが凍り付いている。
「――格闘技という活動そのものが存続の危機に立たされている今、如何なる暴力、卑劣なる妨害にも断じて屈しないと高らかに宣言してくれるのはMMAに関わる人間にとって頼もしい限りです! 飯坂さんが我々の仲間になってくれるのなら、これ以上に心強いことはありません! 私はこのリングに『
〝切なる訴え〟と呼ぶには余りにも勇ましい宣戦布告に応える声があり、場内を埋め尽くすどよめきは更に大きくなった。
彼女を追い掛けるような恰好でリングに上がり、次いで
リングに設置された簡易式の階段を上る前には、抜かりなくワイヤレスマイクも握っている。これによってメインアリーナは言うに及ばず、専用カメラを通じて生中継されているパブリックビューイングの会場にも新人選手の紹介を届けようというわけだ。
記者席で状況を見守っていたメディア関係者たちはさすがに即応してメモを取り始めており、リングサイドのカメラマンも二人の姿を同時に捉えられる角度から一斉にレンズを向けている。
日本を代表するMMA団体の
今日は打撃系立ち技格闘技団体『
より事件性の高いニュースを好む大衆の心理こそがマスメディアの〝腹〟を満たしてきたのである。
「飯坂さんのグループが今大会への出演を辞退されたことは会場の皆様もご承知のことと存じます。今、飯坂さんご本人が打ち明けられた通り、グループ全体が悪質な脅迫を受けているのは紛れもない事実です。犯人が逮捕されるまでの間、本来であれば安全な場所に身を隠すことが最優先でしょう。その危険を押してまで勇気を示してくださった飯坂さんをどうして無碍に出来るでしょう⁉」
テロにも屈しないほど強い
ましてや、現時点の
公表しているプロフィールには趣味の項目に格闘技やプロレスの観戦と記している。それが為に今回の脅迫事件にも一等激しく怒り、自らがMMA
小学生の頃から親しんできた『よさこい』や、これに基づくダンスで鍛えた身体能力が格闘家としての素養に直結すると判断していた場合、彼女は取り返しのつかない結末を迎えることになるだろう。
MMA選手として闘う為の準備が全て整い次第、『
あるいは樋口郁郎自らが後ろ盾となり、プロデビューを迎えるまでの
同雑誌の編集部が広報活動の一環として運営している〝キャラクター〟の『
卑劣な脅迫にも屈しない姿勢は確かに気高いが、それで深刻な事故を招き兼ねない目論見が正当化されるわけではない。
今まさに勇気を褒め称えた相手に格闘技経験がないことを樋口郁郎が把握しているのかは判然としないが、この点を追及したところで
危険を押してまで勇気を示した
「不撓不屈の闘志なくしてMMAという戦場に立つことは叶いません! 強き魂が戦士を生み出すのです! 飯坂さんは『
このときに例に引いた『メイセイオペラ』とは、二〇一四年六月現在までに〝地方〟の所属でありながら〝中央〟の晴れ舞台で優勝した唯一の競走馬である。樋口郁郎が語った通り、一九九九年一月三一日の東京競馬場で開催された『フェブラリーステークス』に
出走した一六頭の中で〝地方〟から挑んだのはメイセイオペラただ一頭のみであった。
日本では一九九五年から〝地方〟の競走馬が〝中央〟のレースに出走する機会が増えていた。その転換期にメイセイオペラは前例なき〝道〟を拓き、鼻筋を走る一筋の流星の如く〝中央〟を駆け抜け、栗毛の伝説となったのである。
屈腱炎から二〇〇〇年に現役を引退したメイセイオペラ――かつての
一度は競走馬生命を危ぶまれるほどの重傷を負いながらも復活を遂げ、〝地方〟が〝中央〟で勝利するという空前絶後の奇跡を成し遂げたメイセイオペラは、まさしく不撓不屈の体現であり、だからこそ樋口郁郎は卑劣な脅迫にも屈しない
奥州市という〝地方〟から日本を代表するMMA団体へ挑んでいく
それだけに〝暴君〟とローカルアイドルの二人は、大いなる儀式でも成し遂げたかのような佇まいであったが、リングの外から見れば常軌を逸した事態としか表しようがない。奥州が誇る
「メイセイオペラが
(――我々は世にも下らない茶番を見せられる為に
樋口郁郎の宣言から二分ばかり遅れて『
ドイツ・ハーメルンに本拠地を置く世界最大のスポーツメーカーは、臨時視察の名目で日本格闘技界を牛耳る〝暴君〟のもとにストラールたちを送り込み、その危機管理能力を調査しようとしていた。
それは
直接的な
首謀者は格闘技そのものを深刻な人権侵害と
『サタナス』なる
人権擁護という絶対的な〝正義〟を執行する為ならば、超大国の大統領すら恐れないサタナスのことを『ウォースパイト運動』の〝同志〟たちは今や聖人の如く崇めており、模倣犯の出現が危ぶまれる状況であった。
だが、その一方で個々の活動家は〝組織〟として連帯しているわけではなかった。抗議活動では揃って笛を吹き鳴らすのだが、
攻撃すべき対象を発見した〝誰か〟の呼び掛けに応じてどこからともなく這い出し、徒党を組む為、テロ計画を予測することが不可能に近いのである。格闘技にほんの少しでも関わっていると認めた人間に対し、街角を歩く善良そうな一市民が手提げ袋の中からナイフを取り出すという事件も欧米では少なくなかった。
暴力と批難する格闘技を同じ暴力で攻撃することは矛盾以外の何物でもないのだが、人権擁護という名の〝正義〟を妄信する活動家たちは傲慢にも世界秩序の守護者を自負しており、罪悪感に苛まれるどころか、何をしても許されると疑わないのだ。
『ウォースパイト運動』が繰り返しているのは、抗議の域を超えたテロ行為である。しかし、思想活動そのものを取り締まることは重大な人権侵害である為、各国の司法機関にも潜在的な危険性を一網打尽にすることができなかった。
テロ紛いの思想だけが全世界に拡散され、これに同調する活動家たちはどこから現れるとも知れない――従来の警備体制で対処できるものではなかった。ましてや、二〇一四年六月現在の日本は都市機能を直撃する規模のテロを二〇年近く経験していないのである。
『
オムロープバーン家の御曹司は双眸をゴーグル型のサングラスで覆っている。翡翠色の瞳を見通すことのできない黒いレンズの表面に映った〝暴君〟は、二〇年前の日本を
長く伸ばした
ストラールの席から逞しい背中しか見えなかったが、ロープで遮られた向こうの樋口郁郎を凄まじい形相で睨み付けているのだろう。それはつまり、異種格闘技戦を通じて日本に
あるいは格闘技経験が絶無というローカルアイドルを『
「……私の頼りない記憶に誤りがなければ、確かアメリカ競馬界には未勝利のまま一〇〇敗を数え、それ自体が見世物になった競走馬がいた筈だ。このままでは『
ストラールが
岩手から飛び出して〝中央〟を制したメイセイオペラなどではない。アメリカ競馬界に
どれほど負けようとも闘うことを
捏ね繰り回された物語を差し引いて考えれば、出走する全てのレースで負け続ける競走馬は失格でしかない。〝勝てないこと〟を大衆から望まれ、これによって話題性が高まるという状況は、正当に勝利した競走馬の評価を落としてしまうのである。
注目が集まることに旨味はあれども、競馬界にとっては忌々しい事態であった。それが証拠に
格闘技の経験こそないものの、闘志だけならば〝プロ〟のMMA選手にも肩を並べ、岩手にローカルアイドルとしての地盤を持つ
負けた分だけ応援の声は大きくなるかも知れない。これに加えて脅迫事件を跳ね除けたという〝事実〟が不撓不屈のドラマを盛り上げてしまうのである。いずれは樋口も〝勝てないこと〟を
「……恥知らずとは前々から聞かされていましたが、あっさり実例を見せつけられてしまうと、……あの方にまつわる風聞の全てが真実としか思えなくなりますね……っ!」
右隣の椅子に腰掛けたストラールの
愛する人のことであれば、例え言葉にしなくとも心に
「アレは地元警察から厳重注意を受けるんじゃないか。下手すりゃ手前ェんトコのファンの前で取調室まで引っ立てられるぜ。そのテの箔付けまで師匠――
樋口郁郎が仕出かしたことは脅迫の犯人に対する挑発行為に他ならない。警察の捜査を邪魔するようなもので、公務執行妨害に問われてもおかしくない――そのように皮肉を並べたのはギュンター・ザイフェルトであった。
穏やかとは言い難い
独裁政権下の
『ハルトマン・プロダクツ』を率いる総帥――トビアス・ザイフェルトが日本格闘技界の〝暴君〟をかつての独裁者と同じ存在のように見做せば、その瞬間から『
『格闘技の聖家族』に生まれた
依然として『
どよめき続ける観客は言うに及ばず、一度は出演を辞退したローカルアイドルの登壇という筋運びは殆どのスタッフに知らされていなかったようだが、リングに立つ二人を浮かび上がらせる
だが、今日の臨時視察でメインスポンサーが確認したかったのは、不測の事態を不撓不屈のドラマのように見せ掛け、テロの影が忍び寄るMMAのリングさえも〝劇場化〟してしまう手腕ではない。『ウォースパイト運動』をも視野に入れ、異常事態へ完全に対処し得る具体策なのである。
開催先の企業・団体との交渉を取りまとめ、地域振興の仕組みまで作り上げた
二〇一四年六月現在、シンガポールでは新たなMMAの
世界最大のスポーツメーカーは単独で二割近くを占めるほどシンガポールの
『
抜き差しならない状況下で、代表の樋口郁郎だけが漫画のように現実味のない所業を繰り返していた。大きな夢を掲げることも組織を率いるリーダーには求められるのだが、それは確たる道筋を示して初めて成り立つ目標設定であり、独り善がりな妄想との間には断絶としか表しようのない隔たりがある。
アメリカに
日本格闘技界の〝暴君〟は〝裸の王様〟に過ぎない――この結論は
上等な背広を着込んで臨時視察に臨んでいるザイフェルト家の御曹司は、ワイシャツの襟に七つの星が円環を描く小さな徽章を付けていた。
これと同じ物がストラールのワイシャツとマフダレーナのブラウスでも輝いていた。無論、同じ部位である。その徽章からも三人が心を通い合わせる仲間同士であることは一目瞭然であった。
樋口体制が一向に改善されない場合、『
日本の古武術を体得し、同国に思い入れが深いギュンターも〝未来への投資〟という局面に
「……やはり、
〝暴君〟と
続けて場内各所に設置された大小のモニターが一斉に起動し、『プロフェッショナル・ミクスド・マーシャツ・アーツ』なる英字が画面内を駆け抜けていった。
やがてモニターの画面は青空の
『
それは
モニターに映し出されたのはMMA
三日月の兜を被った東北最強の戦国武将に続き、『
ラッシュガードに身を包み、ムエ・カッチューアの
「人をバカにしているとしか思えないこの茶番を『
「世紀の茶番なら他にも知っているぞ。一〇年と少し
「俺の知ってるイギリス人より皮肉がキツいぜ、あんた。その競走馬、別の野球選手と勝負したときは勝てたんだろ? 一勝一敗の成績なら落第じゃないさ。……『人間相手に勝てた』ってのがニュースになるところに本来のレースで勝てない理由が詰まってるわな」
「正確には二勝一敗だ。仲間のリベンジで走った
先ほどストラールが
白雪を彷彿とさせる肌の色や淡い
見世物の為に野球選手と健脚を競わされ、あまつさえ敗れ去った競走馬の例え話は、
それはつまり、アメリカより来訪した二人とも
日本人のようで日本人ではないという不思議な顔立ちの女性は、執事の如き随行者による皮肉めいた例え話を咳払いでもって戒めつつ、
VVを伴って東北に足を踏み入れたのは岩手興行の数日前であった。今日を迎えるまで
アメリカを代表する日本人街で『
「論外です。その上、
「キレないワケがありませんよねぇ、『
「ええ、一〇〇戦通して一度も勝てなかった競走馬を持ち出している余裕もないほどに」
ギュンターが質問を投げた本来の相手は、言わずもがなイズリアルのほうだ。それを理解しながら、VVは
頭二つ分向こう――静かな怒りに震えるマフダレーナの様子を案じていたときの眼差しは慈愛に満ちていたが、話を本筋に戻し、ザイフェルト家の御曹司と向き合った
それも無理からぬことであろう。警備上の不足を洗い出し、必要に応じて修正案を議論するのが臨時視察の最大の目的であったのだが、今ではそれ以前の問題となっている。
イズリアル・モニワが率いる『NSB』は『ウォースパイト運動』の過激活動家――サタナスがエアフォースワンを襲撃したサイバーテロ事件にも巻き込まれていた。同団体の選手や所属選手や副代表の孫娘も〝空飛ぶホワイトハウス〟に搭乗しており、彼らこそが本当の標的であったことが
改めて
日米それぞれで最大の規模を誇るMMA団体の合同大会は、東京ドームで開催されることが決定している。即ち、安全の確保も『
『
規模の大きさや業務内容はさておき、双方とも『ウォースパイト運動』の標的となり得る可能性が極めて高く、このような
共催団体の立場から〝内政干渉〟に踏み切ることが予想される『NSB』に対し、世界最大のスポーツメーカーが『
ローカルアイドル・グループが岩手興行の出演を辞退せざるを得なくなった
共催団体とメインスポンサーの双方が〝暴君〟に好意的な目を向けるはずもあるまい。
危機意識の希薄さが露呈しただけではない。樋口は今し方の茶番を通じて『ウォースパイト運動』に宣戦布告したのである。脅迫事件の犯人ではなく、格闘技の根絶という〝正義〟を振り飾る活動家たちに向かって「自分たちはテロに屈しない」と、団体としての方針を表明したのである。
国内外を問わず格闘技界でテロに対する緊張感が高まっている状況を樋口も理解していないはずがない。その時節に
当初は困惑に満たされ、重苦しい空気が垂れ込めていた客席もようやく本来の熱気を取り戻したのだが、それこそが『ウォースパイト運動』にとっては断じて許し難い〝人権侵害〟なのだ。
尊い命を壊してしまう格闘技がこの世に存在することさえ認められない活動家たちは、その根絶を訴えるべく〝正義〟の笛を吹き鳴らすのだった。
「――格闘技という活動そのものが存続の危機に立たされている今、如何なる暴力、卑劣なる妨害にも断じて屈しないと高らかに宣言してくれるのはMMAに関わる人間にとって頼もしい限りです!」
自らのことを〝誰に対しても寛大なMMA団体の代表〟と見せ掛ける一方で、樋口郁郎はこのように雄弁を振るっていた。脅迫事件の犯人へ訴える言葉としては余りにも仰々しく、彼の想定する対象が『ウォースパイト運動』であることは明々白々だった。
しかし、茶番の主役はあくまでも
同じ想いを気付いたからこそ、イズリアルもまた初めて挨拶を交わしたばかりのマフダレーナに気遣わしげな眼差しを向けたのである。
岩手興行では
「私の記憶が間違いでないのなら、そちらの色男――メルヒオール・ファン・デル・オムロープバーンの弟だろう? 『格闘技の聖家族』の〝裏〟の仕事を引き受けていたとも聞いているが、粋なサングラスで隠れた目はこの状況をどう見るね?」
イズリアル・モニワとギュンター・ザイフェルト――二人分の頭越しにVVから声を掛けられた『格闘技の聖家族』の御曹司は、ゴーグル型のサングラスの裏側で双眸を驚きに見開いていた。
「……良くも悪くも顔が似ているもので、
「イズリアル――モニワ代表ほどではないが、多少は格闘技をカジッていてな。そもそも故人と間違えるのは失礼の極みだ。
「私が
オランダの格闘家は用心棒を兼業することが殆どであり、オムロープバーン家は古くからこれを統括していた。格闘技王国に君臨する〝顔役〟というわけである。
『格闘技の聖家族』に生まれたストラールは、最近まで用心棒稼業のまとめ役を担っていた。オムロープバーン家の跡取りとなり、〝表〟の舞台に出るようになってからは〝身内〟にその役割を譲っている。荒くれ者を率いていた
(……まさか、私の双眸に浮かび上がる
アメリカ競馬にまつわる知識を披露したVV・アシュフォードという髭面の男は、どうやら〝裏〟の事情にも相当に詳しい様子である。生まれ故郷とは異なる
(ハワイ
上級スタッフどころか、『NSB』とは関わりのない〝部外者〟なのであろう。先程もイズリアル・モニワのことを肩書きではなく
口にしても余人には意味が理解し切れないであろう『
(……夜の闇の狭間で王国の亡霊たちも
いずれにしても油断のならない人物であることは間違いあるまい。要らざる混乱を招き兼ねない為、
御曹司らしく着飾るまで〝裏〟の世界を仲間たちと闊歩していた
仮に『ウォースパイト運動』の危険性を理解した上で二つの巨大な〝組織〟を弄んでいるとすれば、それはもはや、大器の持ち主ではなく愚かな命知らずである。
VVから〝裏〟の情報を訊ねられたときには明言を避けたが、『ハルトマン・プロダクツ』の三人も『ウォースパイト運動』との繋がりが全くないわけではない。世界最大のスポーツメーカーが将来を約束するという条件で活動家の一人を篭絡したのだ。
「……一体、何時になれば
真剣勝負のMMA団体である『NSB』を禁止薬物で肉体改造された〝モンスター〟の〝見世物〟に作り替え、アメリカ格闘技界から永久追放された
「それとも、
〝何者か〟が裏で糸を引き、樋口郁郎を〝暴君〟たらしめているのではないか――おそらくは日本格闘技界の誰一人として考えなかったであろう疑問を英語でもって紡いだザイフェルト家の御曹司は、意味ありげな視線を『NSB』の代表に向けた。
それをイズリアルは涼しげな顔で黙殺した。左隣のVVは眉根を寄せつつ腰を浮かせそうになったが、これも目配せ一つで制している。
次いでギュンターが視線を巡らせた先では、リングから戻ってきた樋口郁郎を秘書の
「美人秘書――あっ、こういう表現はセクハラですね。失礼。あの秘書さん、今日がプロデビューっていう
「……
「
「そのご提案の回答は保留しています。交換留学生という発想そのものは悪くないのが悩ましいところですね。……その会合であちらの
「語学堪能で羨ましいぜ。おまけに気配り上手。俺も秘書を雇うならああいう女性が良いなァ~。どこかにオススメの人材、居ませんかね?」
「ハラスメント裁判の法廷でしたら今すぐにでもご案内できますよ」
世界最大のスポーツメーカーの経営者一族に生まれた御曹司と、
誰かに呼び掛けられて緩やかに振り返るキリサメ・アマカザリの横顔と、剥き出しの上半身にロングスパッツとハゲワシのマスクを組み合わせた出で立ちで〝超次元〟としか表しようのない技を繰り出す
ハゲワシのマスクを被ったプロレスラーは、時代を超えて〝超人〟と謳われている。逆立ちしながら両足でもって相手の首を挟んだ直後、己の頭を軸に代えてコマの如く全身を振り回し、その勢いに巻き込んで相手を投げ落としたのである。
二本のフィルムを代わる代わる一コマずつ差し込んでいく映像には、『一九九七』という数字が重ねられていた。西暦を意味する羅列であることを場内の誰もが直感的に理解していた。
ハゲワシのマスクで闘う超人の名がヴァルチャーマスクであり、彼が『ブラジリアン柔術』の前に完封された試合は『プロレスが負けた日』と、格闘技史に刻まれている。
これより数年後に
日本格闘技界最大の転換期という輝かしい功績よりも、一人の覆面レスラーの敗北のほうが重い意味を持つのは、日本のMMAそのものが鬼貫道明と『鬼の遺伝子』による異種格闘技戦の継承と発展の歴史という証左だ。
だからこそ、世界中のMMA団体が『NSB』に準拠して
ブラジリアン柔術に為す
師匠の鬼貫道明から「あいつなら本気で相手の腕を折る」と評され、これを体現する技術と魂を兼ね備えた日本プロレス史上最強の覆面レスラーが寝技で敗れた。
『昭和』と呼ばれた時代から『鬼の遺伝子』が掲げてきた
それが一九九七年――奇しくも同じ年に統括本部長の
そのキリサメ・アマカザリが〝プロ〟としてデビューする間際に不祥事を起こした。イズリアルとギュンターの双方が言及しているが、同じ日には
その夜、樋口郁郎は『
その突発的な会合に
「こんなに素晴らしい日はありませんな! 『
臨時視察の為に来日した顔を順繰りに眺め、VVの左隣に座る男性へ気さくな調子で手を振った
傍目には世界最大のスポーツメーカーと
『格闘技の聖家族』の御曹司は、ゴーグル型のサングラスの向こうから軽蔑の眼差しで〝暴君〟を突き刺していた。
一方のVVは自身の左隣に座る男の様子を横目で窺おうとしていたが、その
「神話――それは偉人によって積み重ねられる功績。伝説――それは数多の神話を長い長い歴史絵巻のように繋ぎ合わせ、語り継ぐもの。人は太古の昔から神話と呼ばれる足跡を残し、時代を超えて伝説となるのか。あなたは神話と伝説のどちらになりたいのか。その問いに一人の聖者が答えた。誰かに語られることは望まない。今もまだ歩き続けているのだから過去の足跡でもない。私の前に拓かれているのは一本の道なのだ――と。聖者が呟いた言葉の意味を、我々は今宵、知ることになるだろう……」
実況を担当するこのフリーアナウンサーは、試合の最中は昂奮するまま天井を貫かんばかりに声を張り上げている。しかも、攻防の成り行きを直感だけで喋ってしまう為、臨場感は抜群に盛り上がるものの、勘違いや見当違いが非常に多い。技術解説担当の鬼貫から情け容赦なく指摘される回数が
リングを
その巨大な物体を真っ白なスモークが包み込み、次いで場内の至る場所に設置された無数のレーザー器具が青い布に光の輪を映し始めた。
布を海の
程なくしてステージ全体を覆っていた布が中央から真っ二つに割れ、勢いよく引き抜かれた。
そこに出現したのはヴァイキングたちが乗り込む海賊船である。
正確には船首の一部分のみだが、海賊船を模した大掛かりなステージが組まれていたのである。大晦日の歌番組の〝名物〟であった演歌歌手を想い出した観客も多かろう。
マストに張られた帆には『
『
「天よ、地よ、人よ! 聖なる波濤を越えて私は戦場に帰ってきた――」
観客以上に昂奮し切った仲原アナの声が――聖者の想いを代弁するかのような雄叫びが場内に響き渡る。
これを合図に船首の前方からユニコーンの角にも見える長い棒が迫り出した。機械の駆動音を引き摺りながら現れたその棒は、専門用語で『バウスプリット』と呼ばれる部位である。
バウスプリットの先端には水平の棒が設置されており、そこに一枚の青い旗が括り付けてあった。中央には〝海賊旗〟という単語から即座に連想されるような紋章が白く染め抜かれている。中世ヨーロッパの貴族や軍人が好みそうな三角帽子を被ったドクロが不敵に笑っているのだ。
ゴーザフォス・シーグルズルソン――〝海賊旗〟には絶対王者の名が赤い染糸で刺繍されている。アイスランド語による表記ではあるものの、熱心な『
そして、誰もが『
アイスランド出身のゴーザフォス・シーグルズルソンは氷の海を股に掛けたヴァイキングの末裔であり、伝説の海賊が操った
「地上最強、人類最強……人間という限界に囚われる者にとって、その呼び名は夢物語に過ぎない。見果てぬ夢でないことを証明するには王者たる器を持たねばならないのだ。そして、その覇業を成し遂げたのは全人類でただ一人のみ! 伝説のヴァイキングの末裔にして無敵の絶対王者! 『
全ての仕掛けが展開し終わると、統括本部長の声によって『
そこに一人の
機械仕掛けの舞台装置とは裏腹に、その
場内のスピーカーからは讃美歌めいた荘厳な楽曲まで流されており、いつしか観客たちも清められたような気持ちにさせられてしまうのである。
天と地の祝福を一身に浴びて現れたその
緩く波打った黄金の髪は肩に掛かるほど長く、色白の顔へ下品にならない程度に髭を蓄え、人の心を全て見透かしているのではないかと錯覚するほどに澄んだ青い瞳――その姿を認めた瞬間、怒涛のような歓声が場内に渦巻いた。
象牙色の生地に天使の翼の紋様をあしらったロングスパッツを穿き、無駄なく鍛え上げられた上半身を
メインアリーナの全てのモニターでは『
岳はマットに投げ落とされた後も寝技に引き込んで反撃を試みようとしたが、それより早く『
負傷の為に岩手興行を欠場し、その埋め合わせという形でキリサメ・アマカザリにプロデビューの
海賊船の甲板に独り立つ『
〝地球史上最強の生物〟――その異称はマスメディアあるいは樋口郁郎の情報戦が作り出した飾り物ではない。
「成金趣味っつうのは洋の東西を問わず、どこも大して変わらねぇんだな。派手に飾ればどんなモンだってそれなりに見えるけどな。俺には日本の詫び数寄文化が恋しいぜ」
通訳が樋口郁郎の傍らに付いていないのを良いことに、ギュンターが英語でもって痛烈な皮肉を飛ばした。隣席であって顔を突き合わせはいないのだが、状況そのものは面罵以外の何物でもない。連れ立っている
「漢字のようで漢字じゃない象形文字のなり損ねを掛け軸にして有難く飾る好事家もアメリカには多いしな。勘違い文化も洋の東西を問わないワケだ。ハワイのごちゃ混ぜな文化とは食い合わせが悪く見えるよ、コレは。ハリボテは得てしてそんなモンだがね」
VVなどは口髭を撫でつつ、やはり英語でもってギュンターに応じ、痛快そうに笑い始めた。己の無作法を愧じたイズリアルは咳払いでもって彼を窘めたが、笑い声は大きくなるばかりである。樋口に対して善からぬ感情を抱くストラールもこれに釣られて吹き出してしまった。
左右に従えた人々が笑い始めたのは、『
『
(ギュンターに一理あるな。ここまで無闇に盛り上げなくともゴーザフォス・シーグルズルソンは誰もが評価している。贔屓の引き倒しは本末転倒にも等しい)
ゴーグル型のサングラスの中央に海賊船を映した『格闘技の聖家族』の御曹司もゴーザフォス・シーグルズルソンの強さは認めている。〝御曹司〟という肩書きを与えられたのはごく最近であるが、幼い頃からオランダ式キックボクシングの英才教育を受けており、『
だからこそ、ここまで押し付けがましく打ち出す必要性を全く感じなかった。過去の試合を編集したダイジェスト映像はともかくとして、海賊船を模した特設ステージは他のセレモニーにも活用できるとは思えず、一つの〝演出〟の為に使い捨てるには余りにも巨大なのである。
機械によって船首の前方から迫り出した
ギュンターとVVが揃って揶揄した通り、樋口郁郎の演出は無意味なほど過剰なのだ。
大抵の格闘技
〝
「――約束の旗のもとに集いし神の戦士たちよ、いざ戦えッ!」
統括本部長にして日本MMAの先駆者――八雲岳の大音声が場内に轟いた
モーリス・ラヴェルの『ボレロ』を彷彿とさせる前奏から始まり、中盤はハードロックのような荒々しい音色に急転し、静かでのびやかなスキャットを挟んで終盤は種々様々な弦楽器と打楽器による激烈な重奏に転じて際限なく盛り上がっていく――プログレッシブロックを愛してやまない日本人作曲家が手掛けたこのメインテーマは、国内外の音楽雑誌などで『狂気的』と高く評価されている。
「一年にも近い沈黙を破って帰還した『
八雲岳に続いて仲原アナもマイクが〝音割れ〟を起こすのではないかと案じられるほど大きな声を張り上げ、
『
「不撓不屈の体現者ならば『
目が眩むようなスポットライトの明滅を背に受け、白コーナー側の入場口から最初に姿を現わしたのは日本人選手である。『
巻き舌によるコールの前に仲原アナが紹介した通り、ヴァルチャーマスクが自身の格闘経験と『
『
青コーナー側の
「古代ギリシャの時代から一家の大黒柱は家族を守る為に闘ってきた! 伝説に名を残す哲学者の皆サマも
ゆったりとした
新貝士行とライサンダー・カツォポリスは第二試合で対戦することになっている。
観客たちの期待に応えるよう『
MMA
焦茶色の僧衣を纏い、帯の代わりとして古い縄を締めるという風変わりな仏僧だ。木を削り出して拵えた菱形の玉を束ねた大数珠も右肩から襷掛けに帯びている。
耐え難い衝動が全身を駆け抜けたのであろうか、僧衣と同色の布でもって
皮膚が剥き出しとなった
イズリアルに促されて椅子に座り直したが、猛禽類の如き双眸は
「――つまるところ、コレが
『NSB』の一員として
「憧れの
「レーナの薬草魔術で昂奮を鎮められるのではないかな。……いや、
そのように頷き返した二人も、
その仏僧はかつてハゲワシのプロレスマスクを被っていた。『
『鬼の遺伝子』として異種格闘技戦の先陣に立ち、『
名前も出で立ちも大きく変わったものの、日本MMAの生みの親である事実は決して揺るがない――『
日本格闘技界に君臨する〝暴君〟は『NSB』による〝内政干渉〟を阻むべくメインスポンサーの威光を
この
今のところは樋口郁郎も意に介していない様子であるが、その胸中は穏やかであるはずもない。そもそもヴァルチャーマスクは彼が師匠として敬愛し続ける
未だに
大晦日の夜に地上波三局で
その一方、八雲岳には全く異なる意味を持つ。『
(……自分の生み出した〝道〟を継いでくれた人間が善からぬ意思の餌食になろうとしているんだ。黙って見ていられるはずもない。……いつかの父上を想い出してしまうな)
場内ではメインテーマを背にして選手入場が続いている。この曲はハードロックのように荒々しい前半部と、種々様々な弦楽器と打楽器による激烈な重奏という後半部に大きく構成が分かれていた。
規模によっては二〇人を超える選手が出場する為、個々の紹介も数分で完了することは有り得ない。岩手興行の場合は全一〇試合の内、第一試合から第五試合はメインテーマの前半部が、第六試合から
そこには
第七試合で青コーナーからリングに上がる選手――『
尤も、それはメインテーマによる過剰な〝演出〟や、日本MMAの〝名物〟である巻き舌への反応ではない。
ギリシャ文字を思い起こさせる
仲原アナが添えた説明によれば、その
「……『メアズ・レイグ』に対する
「レーナの怒りは、私の怒りにも等しいよ。
「あの
「今し方の言葉を少し訂正させて貰うよ、レーナ。
やがては『四天王』の呼び名で共に称されることになり、自身にとって掛けがえのない存在となるキリサメも、このときのストラールには
*
八雲岳選手は第一試合でキリサメ・アマカザリ選手のセコンドに付くことになっております――仲原アナによる説明を岳本人は白コーナー側の控室で聞いていた。
選手入場を呼び掛ける号令など、メインアリーナに響き渡る大音声は事前に録音を済ませておいたものなのだ。
隣には『八雲道場』と筆字で書き込まれたシャツに身を包む麦泉の姿もある。スラックスを穿いた麦泉とジャージの岳という
麦泉は大きな手提げバッグを携えているが、この中にはスポーツドリンクや止血剤など試合に欠かせない様々な用品が納められている。
一方の岳は勝敗を決するほど重要な意味を持つタオルを首に引っ掛けていた。万が一にもこれをリング内へ投げ込む事態にはならないだろうと彼一人は疑っていないが、余人には自信の根拠が分からない。
仲原アナが説明した通り、間もなく開始される第一試合でセコンドを務める為、二人はようやく大盛り上がりとなってきた会場ではなく裏舞台に控えているわけだ。
そして、その二人の目の前には、今まさに初陣の支度を終えようとするキリサメ・アマカザリが立っていた。
「……僕なんかの
「そんなに気を遣わなくても良いんだよ? 違和感のないよう着こなしを調節するのも開発者の責任なんだよ。つまり、仕事の一環。仕事で妥協したくない私の我が儘に突き合わせて、逆に申し訳ないくらいさ」
「いえ、そんな……。ただ、この時間を睡眠に
「大丈夫。普段よりカフェインの摂取量を増やしているから。別に抱えている仕事も新幹線の移動中に進められたし、寧ろ時間を有効活用させて貰っているよ。仕事を中途半端で投げっぱなしにするほうが私には毒なんだ」
キリサメが
彼のアトリエで初めて顔を合わせたときと同じように、目の下には真っ黒な隈がある。
昨夜の睡眠時間を確かめるのが恐ろしいということは、一日のスケジュールが殺人的に過密という意味である。種崎は『人物デザイン』などの役職で数多の映像作品・舞台劇に携わっているのだ。
それにも関わらず、試合着の調節を行うべく岩手興行の会場まで駆け付けたのである。何事にも無感情なキリサメだが、ここまで
そのキリサメは
長めの髪をセンターで分けた丸顔に横線二本で眉毛と口、縦線一本で鼻筋を描き、左の下唇と右の上唇にそれぞれ一つずつホクロを置くことで完成される『
大きく膨らんだ裾を足首の辺りで縛ってあるデニムのズボンは、〝この日〟の為に新たに仕立てられた物である。股下から裾に掛けて幅広でゆったりとしているそれこそが『キリサメ・デニム』なのだ。
その名の通り、デニム生地を用いて特別に誂えた物であった。MMAの試合にデニム生地のズボンを用いるという発想自体が前代未聞だが、これは奇抜さや見映えを目的とした衣装ではなく、あくまでも『
腰には互いに絡み合わせるような形で三本の布切れを帯の如く締め込んでいる。先端が笹の葉のように尖っており、斜めの切れ込みが幾つも入っている。風に
この奇抜な飾りはキリサメの臀部を覆うように五枚ばかり垂らされている。中央の物が最も大振りで、左右の四枚は外側へ向かうほど徐々に丈が短くなっていくのだ。広がる前の孔雀の尾羽根とも思える
中央の物は最も長い。先に巻いた布切れとも絡めながら正面まで引き戻し、ヘソの辺りで輪を作って小さく縛る。尾羽根の反対側は幅が広く角張った形状であり、これを帯状に引き締めた布の後ろから潜らせて結び目を覆うように垂らす――そこにはキリサメ・アマカザリという
名前の真上には尾羽根にも負けないくらい不思議な紋様があった。大きく開いた両足を踏ん張り、何かを支えるように両腕を突き上げる人間を模った赤い刺繍である。意匠を描き起こした岳が言うにはMMAの
中央の帯は赤い刺繍が映えるよう白い生地で
地球の裏側から格闘家としての
「腰回りが窮屈だったら遠慮しないで言って欲しい。何しろ肉体的な負荷はここが一番といって良いくらい大きいし、激しい
「そう……ですね。逆に今は少しだけ緩く感じるかも知れないです。気にしなければどうにも思わない程度ですが、試合中に帯が
「そういう小さな違和感の解消が私の仕事というワケさ。持てる力の全て引き出して貰う為の
三本の帯の締め込みを種崎は非常に気にしており、
映像作品や舞台劇の仕事を請け負う際にはただデザインを作るだけではない。現場にも待機し、美容界で養われた技術と感性で微調整を繰り返して登場人物の扮装を完成させていくという。役者の前髪の長さまで観察してミリ単位で切り揃えるそうだ。
扮装のデザインと役者の感覚を極めて深い領域で結び付けようという工夫であった。初めて挨拶を交わした日に聞かされた
股下から裾に掛けて大きな空洞となっている為、関節の可動域が制限されない。これによって何も穿いていないかのように両足も動かし易かった。強度と柔軟性を保ちながらも厚過ぎず薄過ぎず、汗を吸い込んでも皮膚に張り付いて四肢の動きを妨げることがない。その上で軽量であることも必須――全ての条件を満たす生地が選ばれたのだ。
これは乾いた大地から吹き付ける砂塵と、血溜まりの底より飛び散った汚泥を同時に浴びる闘いで身に着けていた物である。
喧嘩殺法が編み出される過程で
記憶の底をまさぐられるようであるが、『
全てが種崎の計算であった。手ずから作り上げた衣装で飾り立てるのではなく、〝デザイン〟の対象となる人物の感覚に合致し、
〝実戦〟という点を踏まえても試合着一揃いは合理性の結晶であった。
「おうおうおうおうッ! 最高の仕上がりじゃねぇか、キリーッ! 『ザキ』を見込んだオレの目に狂いはなかったろ⁉ いやぁ~、想像以上にキマッたじゃねーかッ! ペルーの空を翔けるあの日の姿が究極進化したカンジだぜッ! なぁッ⁉」
「そこで同意を求められても困りますよ。それより種崎氏を気安く呼び付けるのは如何なものでしょうか。『ザキ』って……。勿論、種崎氏にお願いして良かったというのは間違いありません。だからこそ失礼ですよ」
「ひょっとして、キリサメ君の中では
「ひょっとしてなくても、ここ最近では麦泉氏の仰る通りですよ。正直、御剣氏と競っているくらいです」
「あっ! それなら別に深刻に
「……今、センパイが挙げた人たちの内、御剣さんだけがキリサメ君から下の名前で呼ばれていない現実をもっと深刻に受け止めたほうが良いですよ……」
スポーツ用品の専門家ではなく映像や舞台の世界で活躍する〝デザイナー〟に試合着の〝開発〟を依頼するという八雲岳の発想は、これを纏えば理解できるのだった。
以前に種崎は「五本の長い尾羽根はただの
(……返す返すも寅之助が
甚だ無責任であるが、酷く気まぐれな寅之助に真っ当な仕事など誰も最初から期待はしていない。そもそも警備員が普段よりも遥かに多く配置されている岩手興行は、外部からの侵入者に怯える理由も皆無に等しいのだ。
キリサメからすれば、
武道と共に生まれ育った寅之助の目に
「……気にし始めるとキリがなくなるのですが、股間に
「ズボンを仕立てるときには
「そう願いたいものです。……二重に下着を穿いているみたいな感覚なんだよなぁ」
それは『ファウルカップ』と呼称される競技用の
性別に関わらず、神経が集中する股間は人体急所であり、故意ではない接触であっても極めて深刻な事故に発展し兼ねない。この危険を回避するファウルカップは、
〝実戦〟そのものは他の選手に劣らないほど経験しているものの、キリサメは一度たりとも防具の類いを使ったことがない。ファウルカップを手渡された瞬間には比喩でなく本当に目を丸くしており、下肢の
そのファウルカップよりもキリサメが気になって仕方がないのは、デニムのズボンの両裾を縛った丸紐である。
尾羽根を除けば落ち着いた色合いで揃えられた試合着の中で、その丸紐は一番といって良いほど目を引いていた。灼熱の太陽を彷彿とさせる橙色の頑丈な紐に色とりどりの菱形模様が浮かび上がっているのだ。
アンデス山中のチチカカ湖に浮かぶタキーレ島で編み上げられた伝統工芸品である。内側を通すようにして裾を固定する丸紐にはキリサメの出自をさりげなく強調しようという狙いも含まれており、種崎がわざわざペルーから取り寄せていた。
機能美と様式美の融合であろうが、同じ
「キリーの勇姿を一刻も早く見せてやりてぇな! ああ、見せつけてやりてぇよ! オレはもう待ち切れねぇんだぜ⁉ 向こうも感動で咽び泣くんじゃねぇかな⁉ 理屈っぽい人だけど、案外、ロマンチストなトコもあンだよなァ! 自分の頑張りが実を結んだっつう夢の結晶を次世代の選手が――キリーが見せてくれるんだからよォ! こんなに燃えるコトをオレは……オレたちは他に知らねェッ!」
「そう……ですね。みーちゃんはきっと喜んでくれますよ。僕にはそれだけでも過分なくらいです。試合が始まる前にはとうとう会えませんでしたし……」
未稲だけでなく哀川神通も自分の闘いを喜んでくれると思いはしたが、そちらは
『
神通のスカートが捲れ上がった瞬間に目撃してしまった純白の褌はまたしてもキリサメを身悶えさせているが、
「未稲ェ? そこで何でアイツが出てくるんだよ? 来てるんだよ! ここに! この日本に! 鬼貫道明に勝るとも劣らねェ伝説のレスラーがよォッ! キリー、お前が生まれた一九九七年に日本でMMAの扉を開いた
昨日から今日まで限界を突き抜けて昂揚し続ける岳は、いよいよ
麦泉文多もまた鬼貫道明のもとに集い、異種格闘技戦に挑んだ『鬼の遺伝子』の一人である。試合中の負傷が原因となって肩より上まで右腕を持ち上げられず、若くして現役を退かざるを得なくなった――と、キリサメも聞いている。
後遺症のない左手で岳の顔面を捉えたわけだが、現役引退から長い歳月が経とうとも根本の部分ではプロレスラーで
「分かったから!
岳は
傍目には場外乱闘さながらの様相と見えるはずだが、種崎一作はキリサメの試合着から離した手を軽快に打ち鳴らしていた。岳のこめかみにめり込んだ麦泉の左指を興味深そうに凝視しており、あるいは創作活動の参考にしようと考えているのかも知れない。
「ア、アマカザリ選手、そろそろ入場口までよろしくお願いします。統括本部長はよろしくお願いしても大丈夫なんでしょうか」
出場選手たちが
「さぁ、いよいよ晴れの舞台だね。私は
種崎はこのまま選手控室に残り、メインアリーナの様子を映し出す液晶モニターでキリサメのデビュー戦を見守るという。
観客席は既に完売しているものの、
それもまた種崎一作という〝プロ〟の矜持なのであろう。
「帯が
「ありがとうございます。このままだと、セコンドの枠が一人分空きそうですが……」
「試合着は遠慮なくガンガン汚して欲しいかな。『キリサメ・デニム』が破れてしまっても〝次〟の試合までには修繕してみせるよ。
「種崎氏の期待に応えたいと思います。そのつもりですが、
種崎一作から握手と共に激励を受けるキリサメであったが、彼の肩越しに見える養父は両足が止まり、全身が小刻みに痙攣しているようだ。そちらに気を取られてしまい、今後の指針にもなり得るほど含蓄に富んだ
MMAの試合着を〝開発〟するという過去に経験のない仕事が節目を迎え、緊張が少しばかり緩んだのであろう。寝不足の種崎は大きな欠伸を一つ挟んだ。その
代わりに種崎は「
壁掛け時計は短針が一六時を、長針が二〇分をそれぞれ指し示している。岩手興行に出場する選手の紹介は
最終盤を迎えた
「しっかし、樋口の野郎も思い切ったコトをしやがるよなァ。脅迫事件を逆手に取っての新人発掘なんてよォ。つーか、例のアイドルグループが
「……一応は把握していました。ただそれを〝盛り上げ〟みたいに解釈できるセンパイの脳内はかなり意味不明ですけど……。『ウォースパイト運動』の
「樋口に口止めされてたんだろ? 今日のサプライズの為によ!
「物事をそこまで
「しかし、そうか――キリーは早くも後輩持ちになんのか! こりゃあ、ますます気合い入れて行かねぇとだな! なァ、キリー⁉ お前が今日、踏み出す第一歩は後から追い掛けてくるヤツにとって未来の道なんだ! カッコ悪ィトコは見せらんねぇぞ~ッ!」
「……すみません。聞いてませんでした……」
スタッフの誘導を受けて白コーナー側の
何事にも無感情なキリサメであるが、多くの課題と不安を抱えたまま臨むことになった初陣にはさすがに浮足立っているのだ。無論、真っ当な作戦を立てず、一方的に奇妙な指示を飛ばした岳もまた動揺の原因である。
(……
間もなくキリサメの両拳が
その日を食い繋ぐ為だけに血と罪に
「キリサメ君のことを『ケツァールの化身』って呼ぶ人も随分と増えてきたみたいだね」
「……『ケツァールの化身』……?」
師匠の立場からIT社会に
漫画家の神様と謳われる
「北海道のローカル局が
「やっぱりあの人か……。どこかで訂正したほうが良いんでしょうか。これはケツァールじゃなくてハチドリをイメージしてるんだって。……いえ、僕だってそんな主張したくもありませんけど……」
「そうしたら、今度は『ハチドリの化身』って呼ばれるだけだと思うなぁ」
「それはそれで癪ですね……」
広報活動に用いる宣伝素材として写真やインタビューを収録した際には、未稲と
取材を担当した今福ナオリも嶺子の発想を愉快と笑っていたが、思考や発言が数分おきに変わってしまう人々に
(……あの
そもそもケツァールは中米・コスタリカへ棲息しているのだから、ペルーとさえ無関係なのだ。この世のものとは思えない美しさから〝幻の鳥〟と謳われていることはキリサメも知っていたが、少なくとも故郷での目撃例など聞いた
「ケツァールはペルーと何一つとしてカスッていない国の鳥なのに、誰一人としてその誤りを指摘しないんでしょうか。僕はみーちゃんみたいに詳しくないのですけど、インターネットってそういうものなのでしょうか」
「僕も人のことは言えないけど、〝中南米〟で一括りにされちゃったんじゃないかなぁ。ネットの情報なんて半分以上が無責任だからね。裏付けなんかしないで、何でもかんでも思い込みで話が膨らんでいくものさ」
「それについては、……寅之助との一件で思い知らされました」
麦泉から〝プロ〟としての自覚を厳しく追及された日のことを想い出したキリサメは、苦笑いと共に右の人差し指で頬を掻いた。
その様子を見て取った麦泉は満足そうに首を頷かせている。心身とも異常なほど張り詰めている
尤も、二人の雑談を隣で聞いていた岳はその内容に不満を募らせていたらしく、「闘魂に火が入るようなコトを語らおうぜェ!」と子どものように両頬を膨らませていた。
「鳥は鳥でも荒々しい猛禽類! 超次元の空中殺法は全人類の憧れだろ⁉ キリー、お前が拳に嵌めてンのは何だ? おうとも
またしても岳は『ヴァ』という珍妙な二字を吐き出した直後、それから続く全ての言葉を飲み下した。一点のみを見据える視線の先では麦泉が左の五指を鳴らしているのだ。これを視界に捉えた途端に腰が引けてしまい「文多、勘弁ッ!」と悲鳴を上げた。
出発前の控室で顔面を掴まれたときに極めて近い状況に陥っているわけだが、
「ケツァールだの何だの、この期に及んでそんな
「センパイは能天気なだけですよね」
「岳氏は黙っててください」
「口を揃えて一喝ぅッ⁉」
キリサメと麦泉が揃って岳に冷たい視線を浴びせている間、表と裏――二つの〝舞台〟を隔てる扉は、進むべき道へ勇者を導く瞬間を迎えようとしていた。
トランシーバーでもって青コーナー側の入場口と連絡を取り合っていたスタッフから
「そろそろ……だね。先に城渡さんがコールされる段取りだから、キリサメ君は挑戦者としてリングインするわけだ。……今まで何度もセコンドは担当してきたけど、こんなに緊張するのは久々――いや、もしかすると初めてかも知れないよ」
麦泉の気配りによってキリサメの緊張も幾らか和らいだが、さりとて気を緩めるわけにはいかない。改めて出撃直前と告げられたキリサメは深呼吸と共に背筋を伸ばした。
(全身を虫が這い回り、胃袋が裏返しになりそうなこの感覚――こんなのは初めてだ)
第一試合の選手は
「初めて会った日、背中を預け合った戦った日からずっとオレはキリーに惚れ込んでるんだぜ。コイツは本物の〝戦士〟だって魂が震えたもんよ。ペルーの空を翔けるキリーに魅せられて今日まで突っ走ってきたようなもんだな。今日は思う存分、
「心に迷う〝何か〟があるなら、リングに答えを見つけよう! ……キリサメ君はMMA選手だ。これから『
そうしてセコンドの二人が揃ってキリサメの背中を叩いた。
異種格闘技戦という形で
通路に設置されたモニターが
*
喧嘩は江戸の華――灼熱の
〝火消し〟――現代で言う消防員と力士が集団で乱闘に及んだ事件が題材であり、発生した文化二年(一八〇五年)から二〇〇年余りが経った現代まで『め
それぞれの陣営に別れた火消しと力士は、梯子や畳など各々が武器になりそうな物を構えて相手に襲い掛かっている。
発端こそ些細な諍いであり、小競り合い程度で収まる可能性もあったはずだが、相撲部屋から援軍が駆け付け、火消し側も火の見
町奉行など公権力による仲裁も虚しく大集団がぶつかり合う状況に発展してしまったわけだが、火消しも力士も江戸の庶民には馴染みが深く、自分たちの意地を貫く為に幕府の権威すらさえ撥ね付けた人々は大いに持て
それが証拠に『め
逮捕者が続出するほどの乱闘に身を投じていった人々は言うに及ばず、流血沙汰に歓声を送った
〝江戸っ子〟と呼ばれる気風の持ち主は意地が強く、その張り合いが
一枚の浮世絵を好例として挙げた〝江戸っ子〟についての
次いで二〇一四という年号を表す数字が表れ、更に一年単位で遡っていく。
日焼けや化粧で顔面を真っ黒に見せる女子高生や、青空の下でアカペラの練習に興じる学生グループなど、数年ごとの
チームの
当然ながら道路交通法違反であり、これを取り締まるべく駆け付けた制服警官たちには思わず耳を塞ぎたくなるような怒号を浴びせるのだ。睨み合う内に激情が頂点に達した様子の少年は、逮捕すらも恐れずに「ナメてんじゃねぇぞ、ポリ公がッ!」と喚き散らしながら猛牛の如く突撃していった。
首都圏の治安を守らんとする警察の奮闘や、彼らを悩ませる凶悪事件を取り上げた二四時間密着型ドキュメンタリー番組の一幕のようであった。
プライバシーの保護に配慮しているのか、個人が特定されないようモザイク処理が施されていた。その為、警官に掴み掛かった少年の
『昭和』の荒んだ時期に多用された呼び名――〝ツッパリ〟という言葉にも表れている通り、現代の非行少年も意地を張ることに命を懸け、その気風はかつての〝江戸っ子〟にも重なるのだった。
そして、「それは江戸の特権ではない」という先程の言葉が繰り返された。
『喧嘩師』の本質は意地っ張りなのか――その問い掛けは、潮風に乗って湘南へと辿り着いた。
一つの仮説として提示されたのは、太腿の部分が異様に広く、裾が細いという変形の黒ズボン――〝ボンタン〟を穿いた
彼の真隣で同じ姿勢を取り、サングラスの向こうから睨みを利かせているのは、彼の試合ではセコンドにも付く親友の
都内でも指折りの
カメラ機能内蔵型の携帯電話が開発されるよりも昔のことである。〝縄張り〟――勢力圏を争う他の暴走族チームとの乱闘を記録した写真や動画は残されていないが、往時を知る人々は口を揃えて〝武闘派〟と陶酔するような声色で語っている。それこそ城渡マッチという男が〝半端者〟ではなかったという証左であろう。
警察との衝突も掴み合いなどでは済まず、近隣の
「仰いで天に愧じず」と淀みなく言い切れるようでなければ、胸を張って堂々とMMAのリングに臨むことはできなかったはずである。
「――最後はやっぱり意地だな。ヤンチャやってた頃の喧嘩騒ぎも
威勢の良さとは裏腹に声に若さがなく、どこかくたびれたようにも感じる声を追い越したのは大型バイクの排気音である。
チョッパーバイクに跨って鎌倉の海岸線を走るのは、
彼が率いる暴走族チームも健在ではあるものの、平均年齢が三〇代後半ということもあり、
間もなくチョッパーバイクは海岸線の片隅に
底意地の悪い者は高齢化が著しい状況であっても解散せずに暴走族チームを維持し続けていることを「時代の移ろいに取り残されて見苦しい限り」と嘲るかも知れない。傍目には青春を終わり切れなかった愚か者の集団とも見えることであろう。
だが、これもまた城渡マッチの意地なのだ。そして、それ故に
かつての城渡は〝男が惚れる
「多少、
サーファーたちが波乗りに興じる海の向こうへ投げ掛けられた城渡の
それはMMA選手としての
城渡マッチは剥き出しの上半身にボンタンを穿き、腹にサラシを巻くという古い時代の〝ツッパリ〟と同様の出で立ちでMMAのリングに上がっている。気合いの吼え声と共に対戦相手を殴り倒す姿は、一〇年以上前の
一〇年前と少しも変わらない熱い瞳で水平線の彼方を睨み据える城渡マッチに寄り添うのは、
往時に
挑発的かつ過激な行動で物議を醸してきたアメリカのロックバンドが一九九九年に発表したこの
思わず立ち上がりそうになってしまうほど激しいロック音楽と同様に
「今日までオレを
かつて毎日のように繰り返していた暴走族チームの縄張り争いも、毒舌と悪口を履き違えた
「オレたちジジィが背中で語れるモンが『年取ったら無理すんな。
荒々しくも人間味豊かな気風は、時代も土地も超えていく。意地という名の気骨もまた江戸っ子だけの特権ではなく、
日本MMAの黄金時代から一〇年という歳月が
だが、世界の『喧嘩師』に甘っちょろいセンチメンタルは通用しない――機械仕掛けの如く回転し続けていた地球儀は、南米大陸が大写しとなるような恰好で静止し、先程まで城渡マッチの
北半球に位置する日本に対して地球の裏側となるペルーは南半球――日秘両国は季節もほぼ正反対なのだ。六月は秋から冬へ至る頃合いであった。水平線の趣もチョッパーバイクの排気音が映えていた鎌倉とは異なり、
観る人の心を賑やかにしてくれたのは、海辺から
しかし、それはペルーという
明日をも知れない人々が互いに身を寄せ合い、行政の許可も得ないまま独自に生活圏を築いた
こうした
ペルーを蝕む格差社会の〝現実〟は、
サン・クリストバルの丘と隣接した市街地を手持ちサイズのカメラで撮影していたときのことである。物陰から一〇歳にも満たないであろう男の子がふらりと現れ、撮影者に向かってすれ違い
小振りの缶に入っていたケチャップである――が、これは子どもの
当然ながらカメラのレンズもケチャップで汚されてしまったが、男の子の仲間たちが一斉に飛び掛かってくる様子だけは辛うじて捉えていた。映像としてはプライバシー保護の為にモザイク処理が施されているのだが、裏路地に隠れ潜んでいた一〇人はいずれも少年という二字が最も似つかわしい顔立ちであった。
ペルーでは成人もしていない子どもたちが強盗団を結成し、外国人旅行客を餌食にしていることは撮影者も承知していたのだが、
丘の斜面で待機していた少年たちも大小の石を容赦なく投げ付けてくる。改めて
通訳を伴わない単身の取材ということもあり、襲撃を受けている最中には全く気付かなかったのだが、少年強盗団のリーダーはペルーの公用語――
「――冗談じゃないって! 『
もはや、手持ちサイズのカメラは撮影者である男性の悲鳴を記録するだけのマイクと化していた。余りにも遠くに聞こえる為、彼を狙ったものではなさそうだが、レンズが地面に向いてしまうのも構わず逃げ惑う背中には幾度となく銃声が届いている。
この撮影者は
つまり、彼は少年強盗団の襲撃から無事に逃げ延びたということである。
駆けに駆けて
「お兄さん、
ケチャップ
タクシーの車窓からは雪の冠を頂いたアンデス山脈を望むことができる。遥か遠く離れていても心に突き刺さる美しさが撮影者には何よりも堪える皮肉であった。
『喧嘩はペルーの華』とは口が裂けても言えない――冬のアンデスを映した
ペルーの少年強盗団は格差社会の最下層を生きる自分たちと比べ、余りにも恵まれた状況で生きている外国人観光客をいたぶろうと思ったわけではない。紙幣で満たされた財布を所持しているであろう標的を取り囲み、これを奪わなければ今日を食い繋ぐことも叶わないのである。
外務省が公開している海外安全情報でも、ペルーへ出掛ける際には凶悪事件に巻き込まれないよう最大限の注意を呼び掛けている。翻せばそれは
ペルーの
比喩や浪漫ではなく、感情を差し挟まない現実問題としてキリサメ・アマカザリには戦うことそのものが人生なのだ。ペルーの首都で取材を行った撮影者が
「危険手当が出るような
撮影者の嘆息を挟んだ
一九七六年は鬼貫道明が初めて異種格闘技戦に臨んだ年である。アメリカから招いたプロボクシングヘビー級の伝説的な
『昭和の伝説』と呼ばれたプロレスラーの後は、試合の点描も年表の順に切り替わっていくわけではなかった。現役時代の
異種格闘技戦から
若き日の八雲岳に続いたのは『
そして、一九九七年――およそ四〇年を跨ぐ追憶を締め括ったのは、日本MMAが本当の意味で最初の一歩を踏み出した歴史的な瞬間である。
リングサイドから聞こえてくる八雲岳の呼びかけにも応じず、マットの上に身を投げ出したまま微動だにしないヴァルチャーマスク――日本MMAの先駆者は、『
日本に総合格闘技の礎を築いた偉人でありながら、長い間、ヴァルチャーマスクは中傷としか表しようのない声に晒され続けたのだ。篤志家でもあった為、その
コーナーポストから一等高く飛び跳ねたヴァルチャーマスクが急降下の勢いに乗って相手レスラーに
林のような場所に設置されたリングで長野県長野市の地方プロレスラーである
養父である八雲岳の計らいであったが、この新人選手はカリガネイダーが所属する長野市の地方プロレス団体『まつしろピラミッドプロレス』の強化合宿に同行し、屈強なレスラーたちに混ざってMMA選手に必要な特訓を敢行していた。
白樺の木々が立ち並ぶ坂道や山の景色を一望できるサッカーグラウンドを駆け抜け、太い木の枝に掴まった状態で片手懸垂を交互に繰り返し、地方プロレスの練習生がラグビーのスクラムのように数人がかりで突進しても微動だにせず、軽く押し返している。
キリサメとカリガネイダーの
カリガネイダーが右腕の関節を極めようと試みれば、岳はその場で回転するようキリサメに指示を飛ばした。これに従ったキリサメは腕を完全に
コーナーポストに登ったカリガネイダーが急降下の勢いを乗せた体当たりを仕掛けるとキリサメは接触するか否かという瞬間まで引き付けてから横に跳ね、これを
格闘家としての実績を一つとして持たず、それ故に〝客寄せパンダ〟ではないかと疑問視されることの多い
キリサメ・アマカザリにとって、その合宿は疑似的な学校なのかも知れない。
先生である岳から指示された通りに
しかし、MMA選手として完成していく場景には、
今でこそ小奇麗な姿で
『
MMA選手の真似事に縋ろうとも〝暴力〟しか頼るものを知らないという罪深さは封印しようもあるまい。何しろキリサメは〝プロ〟の身でありながら、あらゆる点で慎重な行動が求められるデビュー戦の直前に
ペルーに
陽が暮れると、キリサメの合宿先ではバーベキュー大会が開かれた。
分厚い肉の塊や新鮮な高原野菜に舌鼓を打ち、合宿の参加者全員でキャンプファイヤーを囲むという賑々しい場景さえもがキリサメ・アマカザリの〝本性〟を隠す為の
「――首都のリマは大人から子どもまで強盗で食い繋いでいるような人間で溢れ返っていました。繁華街から少しでも外れると警察の目にも入らなくなりますし、万が一、逮捕されそうになっても
一つの事実として、
様々な問題を抱えながらも、とりあえずは法律によって身の安全が保障された
これらは〝不祥事〟の当日に『
この少年、危険すぎる――〝闇〟の底から重く響く問い掛けに首を頷かせない人間は少ないだろう。
しかし、団体活動そのものを破滅へ追い込み兼ねない危うさこそが
天地がひっくり返るかのような驚愕も起こり得ない〝世界〟に未来などあろうはずもなかった。如何なる時代に
一九九七年に踏み出した運命の第一歩から〝ぬるま湯〟に浸かり続けてきた日本MMAが同じ年に生まれたペルーの『喧嘩師』によって真の覚醒を迎える――大晦日の夜に地上波三局で
「――一体全体、どうなってんの、アマカザリ選手の
撮影者の悲鳴はキリサメ・アマカザリの生まれ育った
一九九七年に生まれた少年は、その
「喧嘩は意地だけでやるもんじゃねぇよ。オレたちが
「戦いに面白いも面白くもありません。もっと言えば、敵か、敵でないかの違いだって関係ありません。自分が死なない為にやらなくてはいけないことを全うするだけです。ただそれだけのことに〝何か〟を感じる理由が僕には思い付きません」
城渡マッチとキリサメ・アマカザリ――
真の
ここに至る〝全て〟は選手のリングインに際して場内のモニターで放送される
格闘技・スポーツを愛好するファンの中には、表木嶺子の〝煽りⅤTR〟を使用しない競技大会に物足りなさを感じる人間も少なくなかった。
選手の闘志を煽り立てる効果は言うに及ばず、観客席の拍手や歓声があって初めて〝煽りⅤTR〟は完成されるのだが、『
次いで暗転したモニターに『
その後には『プロフェッショナル・ミクスド・マーシャツ・アーツ』なる英文が水平に駆け抜け、続けて諸刃の神剣が激しい稲妻を伴いながら垂直に閃くと、これを境い目として画面全体が左右に分けられた。
団体のイメージカラーによって二分割され、これを背にする恰好で第一試合を引き受ける二人のMMA選手の写真が大写しとなった。どちらも試合着に替えた姿だ。日本国外から出場する者も多い為、
青
現在の『
これを味わいたいが為、世界一の〝サッカー王国〟として名高いブラジル出身であり、自らもサッカーを趣味としていながら、今まさに|
しかし、
そこには見たこともない光景が広がっていた。試合の支度があった為に
リングサイドの
入場口からメインアリーナ中央に鎮座するリングへ直結する
自分が生まれ育ったリマの
誰もが声を殺して獲物を狙い続ける〝闇〟の只中で生きてきた少年には、
(違う。……違うッ! ここは
同じ
総合体育館へ入場する際にもキリサメは正常な判断能力を
およそ一日前――公開計量を実施する特設ステージに上がった直後、夥しいほどの視線がキリサメ目掛けて一斉に降り注いでいた。
周囲から
それは地に伏せた野獣の群れが舌なめずりしながら〝獲物〟に狙いを定めるようなものである。
明確な〝敵意〟は
ところが、特設ステージで浴びせられた眼差しは余りにも温かく、日本最高のMMA興行に対する期待を胸に秘めて集結した人々の熱量が肌を食い破って心臓に達したと錯覚するほどであった
暗闇の向こうから顔も分からない何者かが穏やかならざる気配で突き刺してくる
躍動する生命が
数多の目に晒されるという状況そのものは酷似しているのだが、そこに込められた想念が
時計の針を丸々一日分進めたメインアリーナは、前日セレモニーの比ではなかった。しかも、今度は暗闇の向こうから数え切れない視線が突き立てられるのだ。
顔を確認することも叶わない
一度、意識してしまったモノは、どのように抗おうとも抑えられなかった。
母が存命の頃、子どもたちが描いた絵を私塾の壁に展示したのだが、自分の風景画を友達に見られたときに味わった感覚とも似ていた。自信満々の絵を必ず
幼馴染みの
笑い声を浴びせられるのが恥ずかしくてならず、なるべく人目に触れたくなかった。激しい光と轟音に
もはや、『
帰りたい――それがキリサメ・アマカザリという一七歳の少年の偽らざる本心だった。
光も音も声さえも、場内を満たすモノが幾つも幾つも積み重なり、自分を押し返す不可視の障壁を築いているとしか思えなかったのだ。
その障壁の名が「恐怖」であることさえ、キリサメは理解できていない。
「――『
事実無根と訴えられても不思議ではないくらい誇張された選手紹介が仲原アナの口から迸り、鼓膜と背中を打ち据えられたキリサメであるが、その
そもそも
自分の
リングサイドの席には未稲と
今や己の〝半身〟とさえ感じている哀川神通も、二階・固定席の何処かでデビュー戦を見守っていてくれるはずだ。
自分を支えてくれる人たちの気持ちだけは決して裏切ってはならない――亡き母から強く言い付けられたその教えがキリサメの身を衝き動かしている。
この場に
亡き母は勉学に励む意義の一つとして、期待に応えられる人間でなくてはいけないとも繰り返し説いていた。それ故に
ルールでは競技用シューズの使用も認められているが、キリサメは何も履かずに素足で闘うことになっている。
(僕は今、どこにいるんだ? ここはリマじゃないのか……ッ?)
半ば錯乱状態に近い為か、
それどころか、他の選手が控室に引き上げた後もメインアリーナの片隅に留まり、手を振って励ましてくれている希更・バロッサやマルガ・チャンドラ・チャトゥルベディにさえ全く気付けなかったのである。
暗闇の向こうに〝絆〟の在り処を求めながらも、
「くっそう!
「……センパイは今日の
一等愉しそうな岳の笑い声と、これを鋭く戒める麦泉の叱声が同時に背中を打ち据えた瞬間、キリサメは先程から鼓膜を震わせ続けている大音量のBGMがエスエム・ターキーの『キャサリン』であることに初めて気付いた。
日本のインディーズ・シーンに
観客席を賑わせているのは、当然ながらエスエム・ターキー本来の歌声だ。これまで他人の唄ったものしか聞いた
しかし、本来の歌声は瞬く間に聞こえなくなっていった。メインアリーナの隅々まで届くような大音量にも関わらず、脳裏に甦った岳の歌声がこれをキリサメの
無意識にも近い状態で
岳の唄う『キャサリン』が初めてキリサメの鼓膜を打ち据えたのは、亡き
〝煽りVTR〟ではMMA選手となるべく
同じペルー共和国として乱暴に一括りとされてしまったが、生まれ育った
つまり、それは
〝大統領宮殿〟という蔑称で呼び付けられる大統領官邸も映していたが、労働者の権利を脅かし兼ねない法律の公布に抗うべく何万という怒れる市民が詰め寄せたとは想像もできないくらい静かで穏やかな映像であった。
反政府デモの大軍団と国家警察がリマ市街で〝合戦〟に及んだ『七月の動乱』は、ほんの一年前のことである。
〝煽りVTR〟だけでなく、入場に際する選手紹介でも仲原アナは『喧嘩師』などと盛んに喧伝していたが、この肩書きの根拠となる〝武器〟は〝映してはいけない領域〟で研ぎ澄まされたモノなのだ。
〝闇〟の世界でしか役に立たないような〝暴力〟などは、この光に満ちた世界とは相容れないと土壇場になって否定されてしまった――そのように〝煽りVTR〟が締め括られていたのなら、キリサメも違和感を飲み下せたはずだ。あるいは血と罪で
しかし、表木嶺子は〝暴力〟と犯罪が横行する
何しろ『
モニターの映像を視聴する人々の印象に残る形で〝表〟の姿を配置したのは、光が差し込まない領域の過酷さを際立たせようとする対比の演出であろう。
無論、それは最も効果的に訴求力を作用させる嶺子の計算に違いない。
思えば、その〝表〟の場景さえも冬を迎えた鈍色の空が
地球の裏側で景気が低迷し続けていることなど信じず、日本人の財布は分厚いという古くからの漠然とした認識だけを他の
心の奥底では幾度も幾度も「あれは僕だ」と叫んでいた。今日の
格差社会の最下層とは、そこに迷い込んでしまった哀れな〝獲物〟だけでなく、己自身の
変死体を見つけて然るべき機関に通報する優しい人間は皆無に等しく、人命が脅かされるほど深刻な事件でさえ末端の警官は取り合わない。〝表〟の
空腹を満たす為には旧友たちにも襲い掛かり、昔から馴染んできた顔を破壊することにさえ無感情という血塗られた姿を
魂の一欠けらに至るまで罪で
彼の脳裏を掠めていった嘲笑は
日秘のどちらに
もはや、心のざわめきはキリサメ自身にも抑えられなかった。絆を育んだ人々の期待に応えたいと想うことさえ許されざる所業として捉えるようになっていた。
(……僕は電知にも沙門氏にもなれはしない。ましてや岳氏のようになんて……。そうでなきゃ神通氏に自分と同じ〝何か〟を求めることだって――)
揺るぎなき信念を胸に燃やして闘いの場に立つ人々には、どうしても追い付けるはずがないのだ――そのように己を嘲った瞬間、キリサメは脳を掻き回されるような感覚に見舞われた。
空閑電知は初めて拳を交えたときにも『世界最強』という見果てぬ夢を掲げていた。おそらくは同じ理想を全ての格闘家たちも分かち合っていることであろう――が、キリサメはプロデビュー戦を迎えようとする今となっても、その想いをついに理解できなかった。
闘う相手と心を通い合わせることこそが試合に
〝戦う〟という行為そのものに対して余りに無感情であるから、麦泉文多にも〝プロ〟としての在り方を厳しく追及されてしまうのだ。そして、そのような有り様だからこそMMAどころか、選手の安全に配慮された〝格闘競技〟への理解は一向に捗らない。
今日も解説席で
〝友人〟となった大鳥聡起は、立派な人間である必要はないと励ましてくれた。その気遣いには心から感謝しているのだが、一方で彼の幼馴染み――
御剣恭路は自らの人生を投げ捨てる覚悟で闘う人間こそが〝城渡総長〟の対戦者に相応しいと言い張って譲らないはずだ。城渡マッチが仲間から尊崇される
〝日本MMAの黄金時代を築いた一人〟という経歴は関係ない。自分が〝プロ〟のMMA選手にあるまじき不祥事を起こしてしまった後も主催企業に対戦の放棄を直訴せず、リングでの再会という約束を全うしてくれた〝
次はリングで会おうぜ――城渡マッチの力強い声が脳裏に甦る
本間愛染にはいずれ必ず〝MMAのアイガイオン〟になると突き付けられている。
タイトルマッチに
所属団体間の対立を背景としてはいるものの、声優を兼業している希更を『
共に希更を取り囲んだ電知たち『
警視庁捜査一課と所属先を名乗った
もしかすると
〝かかりつけ医〟である藪総一郎には、寅之助を狂気に駆り立てる〝闇〟を
『
格差社会の最下層を生き抜く為に生み出さざるを得なかった喧嘩殺法は、選手の安全がルールによって守られる〝格闘競技〟とは決して相容れない。その事実が今福の顔に表れていたわけだ。
開催先の経済振興を成し遂げてきた
その『
労働者の権利を脅かし兼ねない新法に怒りを燃え滾らせるペルーの人々を扇動し、裏舞台から『七月の動乱』を引き起こした反政府組織とも樋口の所業は重なるのだ。
その組織の
このように法律そのものが正常に機能しない〝闇〟の底より這い出してきた薄気味悪い余所者を樋口郁郎は『
恩に報いなくてはならないと考えているのはキリサメ一人であるのかも知れない。「恩返しは人の道」という亡き母の教えも左右の足をリングへと向かわせているのだった。
(やっぱりおかしいよ。何もかもおかしいんだ、僕は……キリサメ・アマカザリはッ!)
『
統括本部長という立場から『
〝暴君〟への善からぬ感情を飲み下せるような
「――お前はオレだよ、キリー」
スポットライトの明滅へ反応するかのように今日まで出会ってきた人々の声や顔がキリサメの
「――生まれ育った環境を理由にして運命を切り開く勇気を諦めないで。世界も人生も、そんなに捨てたもんじゃないからッ!」
ほんの
その絶叫は波紋となり、追憶の水面に懐かしい顔を映し出した。共通の大敵であった反政府組織壊滅の為に共闘したペルー国家警察のワマン警部である。
およそ一年前に発生した『七月の動乱』の裏では、テロリストを取り締まるべき立場の国家警察長官が国内の反乱分子の〝間引き〟を目的として
新たに就任した長官はキリサメの協力に深く感謝し、功労賞の代わりとして〝正業〟の斡旋を申し出たのだが、当人はその全てを固辞していた。まるで将来の可能性を自ら切り捨てるような返答にワマンは目を丸くして驚いたのである。
「無理に引き留めることは出来んけど、キミの教養を生かさないのは宝の持ち腐れだぞ。お袋さんの教育の賜物じゃないの。
キリサメが知る限り、ペルーの警察機関は法治国家とは思えないほど腐敗しており、末端の制服警官から賄賂で無罪を買う
社会的な身分も保証される為、眠っている最中でさえナイフの切っ先や銃口に脅かされる
それにも関わらず、キリサメはついに首を縦には振らなかった。
〝誰か〟の人生を壊す罪に
ワマン警部たちペルー国会警察から提示されたのは未来への報酬なのである。
今日の
『
そもそも〝浄化〟とは如何なる状態を指し示すのか。今日までの艱難辛苦が報われた瞬間に血の臭いが
声優としても
しかし、声一つで誰かの心に寄り添り、奮い立たせられる才能は生来のものであり、身の程を弁えずに模倣したところで、嘲笑の只中にて醜態を晒すのみであろう。己と比べて落差を感じること自体が彼女に対する侮辱なのだ。
光溢れる世界に手を伸ばすことは、己の罪を罪とも思わない卑しく恥ずべき振る舞いであり、キリサメ・アマカザリの全存在に対する矛盾なのだ――彼の
その声は場内に取り付けられたモニターをも狂わせ、赤黒く汚れた新聞が砂塵に巻き上げられて舞い踊る
「アマカザリ選手のお陰で人生変わりました!」
全ての果てに浮かんだのは、友人でも知人でもない二つの顔である。
秋葉原にて寅之助と繰り広げた〝
おそらくは『ケツァールの化身』という通称に着想を得たのであろう。翼に見立てた両手を上下に動かし、盛大に激励してくれた
〝罪〟を背負った身でありながら、誰かの人生を幸福に導いたという事実がどうしても受け入れられなかった。仲睦まじくしていられるのはほんの
地球の裏側へ移り住んだ後まで〝罪〟を重ねてしまう己の
(何だよ、これから生きていく場所って。僕は明日なんか望んじゃいけないのに――)
それなのに、どうして今も生きているのか。他者の
〝人間らしさ〟を与えてくれた人との絆を確かめたかった。〝人間らしく〟生きることを捨て去り、〝暴力〟に回帰することも偽らざる〝真実〟と受け
キリサメの
〝煽りVTR〟は過剰なほど一九九七年に生まれたことを強調していた。『プロレスが負けた日』――即ち、日本MMAが本当の意味で始まった年に誕生した〝
彼の
それは己の精神状態を直視する能力とも言い換えられるのだ。
キリサメがあと少しでも年齢を重ねていたならば、自らを混乱させる原因を短時間で見極め、気持ちを落ち着けられたことであろう。しかし、一九九七年生まれ――即ち、一七年しか生きていない少年にそれを求めるのは、余りにも無慈悲である。
追憶や感情もろとも
(――僕は岳氏なんかにはなれない。僕は
初めて出逢った日の言葉に対する余りに遅い
恐怖を湛えた瞳を忙しなく動かしている間にもリングとの距離は着実に縮まっていき、
(……ここから先に進んでしまったら、僕はもう過去の罪を数えることだって許されなくなる。二度と裁かれることはないんだって、自分を誤魔化して生きるしかなくなる――)
自分がこれから生きていくことになる新たな戦場を正面から見据え、我知らず俯き加減となってしまったキリサメの
「シケた
キリサメの脳を揺さぶったのは、御剣恭路の喚き声であった。暴走族チームの仲間たちと共に客席のどこかで握り拳でも振り回しているのだろう。
ついに未稲と神通を捜し出せなかった五〇〇〇人という観客の中で、酒と煙草で焼けたダミ声を聞き取れたことは甚だ不本意ながら奇跡としか表しようがなく、キリサメも
駆け抜けていった不快感は、限界まで膨らんだモノを破裂させる針に換わったのか。耳障りなダミ声が鼓膜に突き刺さった直後、キリサメの
スポットライトの明滅によって引き出される追憶も、スピーカーから大音量で迸り続ける『キャサリン』さえも聞こえなくなった。〝闇〟の底から光差すほうに手を伸ばさんとする矛盾を嘲る笑い声――幼馴染みと同じ声も
現在は場内のモニターにも自分の顔写真や
生まれ育った
(……まさか、御剣氏に救われる日が来るなんてな。いや、寅之助と闘ったときにも助けては貰ったんだけどさ……)
意味不明ながら〝兄貴分〟を自称し、その関係性を押し付けてくる恭路にキリサメは常日頃から
一つの事実として、これから生きていく〝世界〟と、これまで埋もれていた〝闇〟について自分でも不思議と思えるくらい静かな心で比べられるようになっていた。
一七年という決して長くはない人生の中で運命を変えるほど大きな決断を自らの意思で下すのはこれが初めてであった。
母の死という抗い難い激流に呑み込まれ、物心が付く前から心を通わせてきた幼馴染みの
暴力性の
養父が手を差し伸べてくれたからこそ、〝人間らしさ〟を得て新しい運命を生き直す機会に恵まれたのだが、極端な言い方をすれば、〝貧しき者〟の階層に属していた
今までのキリサメ・アマカザリの人生は、誰かが作った〝大きな流れ〟に身を委ねてきたに過ぎなかった。明日をも知れない過酷な環境はともかくとして、将来について自らの頭では考えようともしなかったという点に
しかし、『
ペルー国家警察から未来への報酬を提示されたときには「罪深い人間は報われてはならない」と断ったが、今はもう〝独りぼっち〟ではない。自分を温かく迎えてくれた家族がいる。共に歩んでくれる仲間がいる。その歩みを厳しく見守ってくれる戦友もいる――スポットライトの明滅と共に浮かんでは消えていった人々は、己を支える絆の
〝人間らしく〟
(……僕はもう独りで生きることはできないんだ……)
改めてリングと向き合ったキリサメに「決断」の二字が持つ重みが
己の意思で運命を変えることがこれほどまでに怖いとは想像もしていなかった。己が選んだ道でありながら、踏み出すことを
「――オレはお前を信じてるぜ、キリー」
何時まで経ってもリングに上がろうとしないキリサメを案じ、その様子を確認しようと身を乗り出す麦泉を制した岳は、目の前の背中にただ一言だけを語りかけた。
その
許されざる
四〇代半ばという年齢とは余りにも不釣り合いな言行が多く、理解に苦しむ軽挙妄動の
その養父から掛けられた「信じる」という言葉へ如何に応じるか――その答えはただ一つである。亡き母の教えを振り返るまでもない。
「……だったら、それを裏切るわけにはいきませんね――」
背中を向けたまま岳に応じたキリサメは、膝の屈伸のみで大きく跳ね飛び、
ここを
「――独特の衣装から『ケツァールの化身』とも囁かれるアマカザリ選手ですが、猛禽類の飛翔が如きハイジャンプを見る限り、あながち間違いではないのかも知れません! 風に躍る三本の帯は幻の鳥と見紛うばかりに麗しいィーッ!」
キリサメが宙を舞った瞬間、仲原アナの熱弁と、これに触発された観客たちによる万雷の拍手が会場内を埋め尽くした。
「――見てるか、ヴァルチャーマスク⁉ 一九九七年の〝あの日〟に
メインアリーナの喧騒を丸ごと吹き飛ばすような咆哮を爆発させたのは、統括本部長という責任ある立場を完全に忘れてしまったかのような八雲岳であった。
ヴァルチャーマスク――その
心の奥底から沸き起こる感慨は、警告の代わりともいうべき痛みも、MMAの歴史に
親友の忘れ形見であるキリサメをペルーの
乱戦の最中、キリサメは木の電柱の頂点に一本足で屹立し、
キリサメが腰に巻いていたレインコートは、返り血のようなドス黒い染みが飛び散り、本来の色も分からないほどくたびれていた。ボロ切れ同然の裾が砂混じりの風に
その
第一試合の〝煽りVTR〟にはコーナーポストから一等高く飛び跳ね、急降下の勢いに乗って相手レスラーに
ペルーで
「――
着地と同時にキリサメが双眸でもって見据えたリングには、およそ一ヶ月ぶりの再会となる
これまでの試合と同様に剥き出しの腹にサラシを巻き、〝ボンタン〟と呼ばれるズボンを穿いた姿で腕組みしているのだ。競技用シューズは履かず、地に根を張るような力強さでマットを踏み締めている。
眼光は磨き上げられたナイフのように鋭く、全身から荒々しい闘志を漂わせている。前方に突き出したリーゼント頭も昂揚が
剥き出しの両足でもってマットを踏んだキリサメは、五枚の尾羽根を揺らしながら城渡マッチへと向き直った。
「逃げずにリングインした度胸だけは褒めてやるぜ」
「逃げても何も始まりませんから」
『
このときにはメインアリーナの照明も再び
光の向こうに現れた数多の顔とその視線から罪に
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