その15:開幕・一九九七年(前編)~終わりと始まりが集う決戦場・総合格闘技に黎明の鐘を鳴らした伝説(レジェンド)/総合格闘技を滅ぼすと予言された死神(スーパイ)──名もなき少年、時代の表舞台へ!

  一五、1997 Act.1



 『天叢雲アメノムラクモ』第一三せん~奥州りゅうじん――その会場として選ばれた奥州市最大の総合体育館は、異様としか表しようのない空気に包まれていた。

 メインアリーナの中央には総合格闘技MMAを愛する人々が慣れ親しんだ七メートル四方のリングが設置されている。

 『昭和』の伝説とも畏敬されるおにつらみちあきが提唱し、『鬼の世代』と呼ばれる同志たちと共に繰り広げた異種格闘技戦の直系を継ぐ『天叢雲アメノムラクモ』は、プロレスという〝原点〟を順守し、闘魂の継承を示すかの如くプロレスラーと同じリングを使い続けているのだ。

 四角い土台の上に衝撃を和らげるマットが敷き詰められ、その四隅にはクッション材で覆われた支柱ポールが立ち、これらを三本のロープで結び合わせることで完成されるリングは、それ自体が日本MMAの〝正統〟という証明でもある。

 一階は南側を除く三方の壁際に可動席が組み立てられている。これに対してリングサイドの〝特等席〟に並べられた何脚もの補助椅子と二階の固定席は東西南北から選手たちの熱闘を見守る形となっているのだ。

 二階固定席は三〇〇〇、一階は可動席と補助椅子を合わせて二〇〇〇――これら全てを使い切って迎え入れる最大五〇〇〇人もの観客は、誰もが同じ昂揚を分かち合っていた。

 『天叢雲アメノムラクモ』の前身団体ひいては二〇〇〇年代半ばまで続いた黄金時代からこんにちまで日本MMAに君臨してきた絶対王者――『かいおう』が二大会ぶりに帰還する。

 岩手興行そのものが〝地球史上最強の生物〟を甦らせる儀式なのだ。

 しかし、時計の針が興行開始時間である一六時を指し示したとき、『プロフェッショナル・ミクスド・マーシャル・アーツ』――MMAの正称が英字で刷り込まれたリングの中央に現れたのは、数多のファンが一日千秋の気持ちで待ち続けたアイスランドの巨人ではなかった。

 ましてや、統括本部長の八雲岳でもない。ワインレッドのレザージャケットにデニムのフレアスカートを組み合わせ、頭頂から両足あしの爪先までMMAとの関わりを全く感じられない少女がリングの中央にただ一人で立ち、四方より降り注ぐ照明ひかりを一身に浴びていた。

 この眩いばかりの照明スポットライトによって鮮明に浮かび上がったのだが、おそらくは二〇歳はたちの少し手前とおぼしき少女は、リングに敷き詰められたマットを覆う一枚の大きなシートを素足でもって踏み締めている。

 『グリマ』と呼ばれる出身地アイスランドのレスリングを極めた『かいおう』は、現代にいて競技化された様式スタイルではなく、ヴァイキングの時代より一〇〇〇年もの歴史を超えて継承されてきた殺傷ひとごろしの奥義をその身に宿している。

 それ故、北欧のルーン文字で記された魔導書の秘術をもってして異なる性別に変身したのではないかと、荒唐無稽な錯覚に陥ってしまう観客も少なくなかったが、どれほど待とうともゴーザフォス・シーグルズルソンという本名フルネームが呼ばれることはなかった。

 そもそも顔立ちから紡ぐ言語ことばに至るまでリング上の少女は日本人である。

 驚愕よりも先に困惑が襲い掛かってきた為、一階・可動席から二階・固定席に至る観客のどよめきは爆発と呼ぶには余りにも緩やかに、そして、徐々に広がっていった。

 一六時丁度となった瞬間にメインアリーナの照明が誘導灯を除いて全て消され、リングの様子さえも暗闇によって塗り潰された。通常の興行イベントであれば、この暗転の後には観客たちの興奮を最高潮まで煽り立てる音声アナウンスが続き、国際的な映像作家であるおもてみねが作成した開会式オープニングセレモニー専用の動画ビデオが場内に設置されたモニターにて上映されるのだ。

 興行イベントに関わる全ての演出は団体代表の樋口郁郎が自ら手掛けている。『かいおう』復活の舞台ということもあり、岩手興行の開会式オープニングセレモニーは日本MMAの黄金時代に勝るとも劣らない壮大な仕掛けから始まるのであろうと、誰もが期待に胸を膨らませていたのである。

 メインアリーナに詰め寄せた五〇〇〇人と、この模様が生中継されている岩手県内各所のパブリックビューイングの会場――即ち、心の底から『天叢雲アメノムラクモ』を愛する人々の予想をことごとく裏切ったのがリングの上に立つ謎の少女というわけだ。

 『天叢雲アメノムラクモ』の興行イベントでは定番でもある大音量のBGMすら彼女は背にしておらず、静寂の只中にひとり立っている。その決然たる表情かおは見る者を引き込むほど凛々しいが、メインアリーナの隅々まで貫く放射状のレーザー光線もなく、ともすれば否応なしに情感を際立たせる奇抜さには欠けている。

 首の付け根より少し上の辺りで結い上げられた小振りなポニーテールが跳ね返すのは、〝この場〟にいては無味乾燥と表さざるを得ない照明スポットライトである。およそMMA興行イベントとは思えないほど寒々しい幕開けが観客席を更なる混乱へといざなっているのだ。


「――本来でしたら、もっとぢががだぢで皆さんにご挨拶するはずでした。あの日以来、とうほぐの復興を応援し続げで下さっている皆さんに私だづの歌声でお礼がしたい。今日どいう日をその想いでむがえるんだど、ずっと信じでぎました。の想いはげっして一方通行じゃないとづだえるんだって……」


 場内を埋め尽くすざわめきを切り裂いた声は佇まいと同様に凛と張っており、五〇〇〇もの動揺を瞬く間に引き締めていく。それはつまり、心の奥底まで響き渡るほどの〝力〟を秘めた声とも言い換えられるだろう。

 発声イントネーションも少しばかり独特であり、『かいおう』復活に立ち会うべく〝外〟から東北に駆け付けた人々には一等強く印象に残るのだった。



 東北各県を対象とする抽選を潜り抜けた観戦希望者を収容し、東日本大震災の復興支援事業でもある『天叢雲アメノムラクモ』岩手興行を観戦するパブリックビューイングの会場にいても、全く同じ現象が起こっていた。

 地方振興の理念から活動拠点を首都圏に限定せず、えて特定の本拠地ホームグラウンドも持たずに全国の運動施設で〝旅興行〟を実施している『天叢雲アメノムラクモ』は、開催先の地方プロレスと提携することが多く、今回は岩手県で最も有名な『おうしゅうプロレスたんだい』の協力を取り付けていた。

 興行開催に向けた各団体との交渉の補佐や、パブリックビューイングの司会進行も主催企業は依頼しているのだが、『おうしゅうプロレスたんだい』の花形である覆面レスラーの『サイクロプス龍』は大型モニターに謎の少女が映し出されると、己が引き受けた役割を忘れて絶句し、大口を開け広げたまま身じろぎ一つしなくなってしまった。

 黒地の覆面マスクは両目と口の部分のみが刳り抜かれており、実際に隻眼ではないものの、右目に刀の鍔を眼帯代わりとして宛がっている――『どくがんりゅう』の伝承に倣ったサイクロプス龍は、岩手県内に所在する公会堂の大ホールに設置された会場で司会進行を行っている。

 今回のパブリックビューイングで最大の規模を誇る会場であり、サイクロプス龍は八〇〇人もの観客を迎える立場であったのだが、彼らの興奮を更に盛り上げる為の言葉があたまから零れ落ちてしまうほど意味不明な事態というわけである

 やがて何人かの観客がモニターに向かって『いいざかぴん』――と、画面の向こうでリングに立つ少女の名前を喉の奥から絞り出した。

 紡がれた言葉のいずれもが少女と同じ独特の発声イントネーションであった。

 いいざかぴん――そのように呼ばれたのは、奥州市でも盛んな『よさこい』文化より誕生したローカルアイドル・グループの一員メンバーであった。五人組の中央センターを担っており、ライブにて披露するダンスの完成度も歌唱力も、県内で活動している〝同業〟の人々より頭一つ抜きん出た花形エースである。

 読んで字の如く〝ローカルアイドル〟は大手事務所に所属し、テレビ番組への出演やコンサートといった全国規模の芸能活動を行うわけではない。住民たちも地域の催し物を盛り上げる〝近所の人気者〟といった感覚で接しており、名実ともに〝地元の星〟なのだ。

 五人組グループの活動拠点である故郷くに方言ことばで喋りながら、東北の〝外〟より訪れた人々にも意味の伝わる言い回しを巧みに選んでいるのは、まさしく花形エース大器うつわであろう。


「参加を取り止めだっつうどごろまではいでらったんだんだども、ギリギリ出演られるようになったのがねぇ。MMAのたいがいがアイドルにジャックされだようなもんで、ドッキリにしては心臓さ悪過ぎるなぁ~」


 サイクロプス龍が過剰なくらい首を捻りながら洩らした呟きの通り、くだん五人組グループの名前は客演という形で日程表プログラムにも記載されている。興行前日に開催されたセレモニーでも全選手による公開計量の前後に『よさこい』を取り入れた歌と踊りを披露する予定であった。

 しかし、前日セレモニーの会場に奥州市を代表するローカルアイドル・グループは姿を現わさなかった。開催直前になって〝やむにやまれぬ事情〟から出演を見合わせたいという申し出があったのだ。

 東京からやって来る格闘大会に参加することは貴方たちの為になりません。くれぐれも身辺にご用心を――五人組グループのもとに脅迫状と玩具の銃弾が送り付けられたことをサイクロプス龍は未だ知らずにいる。

 だからこそ密かにファンクラブにも入会はいっているいいざかぴんの登場に驚愕し、次いで打ち明けられた〝やむにやまれぬ事情〟の真相を受けて腰を抜かしてしまったのである。


うだと踊りでいわを元気にするはずだった私だづは、だったいぢまいがみれに皆さんとのぎずなを邪魔されでしまいました。この興行イベントに出演したら命の保証はない――私が読んだぎょうはぐじょういであったのは、そういうこどです。同封されだピストルの弾丸タマは笑っちゃうくらいチープなプラスチック製で……。なま言うようですけど、こごまでの侮辱は生まれで初めでです。……安く見られるにも程がある!」


 彼女が中央センターの大役を務めるローカルアイドル・グループは地域の活性化を目的とした非営利団体であり、半ばボランティアに近い。大手事務所のような万全の警備体制など望むべくもないのだ。

 送り付けられたのは紙切れ一枚と玩具の弾丸であったが、その効果はアイドル活動そのものに深刻な影響を及ぼすほど大きいのである。脅迫の犯人が逮捕されない限りは攻撃の条件に含まれている興行イベントへ参加することなど不可能であった。

 格闘技を深刻なして根絶を訴える思想活動――『ウォースパイト運動』が関与している可能性も決して低くはない。出場選手のみならず、興行イベント開催にほんの少しでも関わった全員へ最大限の警戒を呼び掛けるべきであろうが、脅迫事件について『奥州プロレス探題』は主催企業サムライ・アスレチックスから何一つとして知らされていなかった。

 絶対王者の復活という大きな興行イベントに支障をきたすことを恐れたのか、樋口郁郎が主催企業サムライ・アスレチックスや興行関係者たちにかんこうれいを敷いたのである。それ故、サイクロプス龍は説明を求めてくる観客たちにも満足に答えられなかったのだ。

 彼自身、公会堂・大ホールの客席に腰掛けた人々と情況は全く変わらないのである。


「そ、それにしたって、なして今さら出演すんべぇってごどになるんだ? きょうはぐされでらのなら、大人おどなしくかぐれでらべぎだべが――」

「――私は負げだぐない。薄汚ぎだなきょうはぐなんかに負げでやるものがよ」


 サイクロプス龍の疑問に答えたのは、奇しくも画面内のいいざかぴん本人であった。


「私は、いいざかぴんは、この『天叢雲アメノムラクモ』でMMA選手として闘います! どんなごどがあろうどもアイドルは負げないって、犯人がいぢばん嫌っているこのリングで証明します! 今も巣穴にかぐれで私だづが怯えるのを想像してる犯人にぐ――卑怯な真似で私のうだを止めだりできないと後悔させてやるから、そのつもりでいろッ!」


 日本で最高水準レベルのMMA興行イベントに期待を膨らませていた人々を困惑へと追いやる状況は、東北の〝外〟で暮らす人々とは接点の薄いローカルアイドルが突如として始めた決意表明によって、いよいよ混沌としか表しようのない様相に突入していった。

 サイクロプス龍は比喩でなく本当にひっくり返っている。

 およそ半年前のことであるが、二〇一三年一二月三一日の夜に放送された大晦日の〝風物詩〟――日本を代表する大勢の歌手が紅組と白組に分かれて美声を競い合うテレビ番組にいても、と近似する事態が起きていた。

 総勢四〇人を超える大所帯のアイドルグループの花形エースが歌唱の合間に何の前触れもなく脱退を発表したのだ。

 生放送の最中に事前の打ち合わせもなく敢行された脱退発表は当然ながら物議を醸し、テレビ番組自体の私物化という批判まで巻き起こしていた。衝撃の度合いは観覧席を埋め尽くした悲鳴に表れているだろう。中央センターに立つ花形エースの決断は同僚たちにも知らされておらず、テレビカメラのレンズに追い掛けられていることすら忘れて舞台ステージ上で唖然呆然と立ち尽くしていた。

 パブリックビューイングが実施される各会場でも、興行イベントが開催されている総合体育館のメインアリーナでも、全く同じ時間に新たなどよめきが起こったのだが、その理由はくだんの脱退発表を想い出した為ではない。

 格闘技そのものに対する激しい憎悪を感じさせるような脅迫を受けてしまった為、興行イベントへの出演を辞退せざるを得なかったローカルアイドルの一人が犯人の最も嫌うリングに上がり、堂々たる振る舞いでもって宣戦布告したのである。卑劣なる〝暴力〟に対する迎撃の意思を明確に示したとも言い換えられることであろう。

 その主張もまた理解に苦しむものであった。少しでも関われば危害を加えると犯人が脅迫してきた『天叢雲アメノムラクモ』の興行イベントにMMA選手として自ら出場すると言い始めたのだ。

 これで愕然としない人間はいなかった。ローカルアイドルの活動を応援している人々に至っては、衝撃に打ちのめされて顔から血の気が引いていた。

 いいざかぴん――小学生の頃から『よさこい』に親しみ、身体能力も優れてはいるものの、公開された経歴プロフィールに格闘技や武道の経験は一つとして記載されていない。その事実を知っていればこそ、地方レスラーとして格闘技に携わっているサイクロプス龍は大ホールの床に転がったまま「無謀のぎわみだぁ!」と、喉の奥から掠れ声を絞り出したのである。



 一部の〝例外〟を除き、岩手興行を見守らんとしている人々は目の前で発生した異常事態に対して、理解の限界を超えてしまっていた。

 そもそも奥州市のローカルアイドル・グループが深刻な脅迫を受けていた事実すら今日まで公表を差し控え、『天叢雲アメノムラクモ』岩手興行に参加できなくなった理由も〝やむにやまれぬ事情〟という曖昧な言い回しに留められていたのである。

 それにも関わらず、いいざかぴんは自らの口で真相を明らかにした――これは五人組グループ全体の自滅行為にも繋がり兼ねない決断であった。岩手興行の開会式オープニングセレモニーが始まった時点で犯人の身柄は確保されておらず、その背後に『ウォースパイト運動』の日本人活動家が関与していないとも限らないのだ。

 無論、は同興行の運営スタッフにも知らされてはいなかった。二〇一三年大晦日のテレビ番組の会場と同じように、ローカルアイドルを取り巻くメインアリーナの誰もが凍り付いている。


「――格闘技という活動そのものが存続の危機に立たされている今、如何なる暴力、卑劣なる妨害にも断じて屈しないと高らかに宣言してくれるのはMMAに関わる人間にとって頼もしい限りです! 飯坂さんが我々の仲間になってくれるのなら、これ以上に心強いことはありません! 私はこのリングに『天叢雲アメノムラクモ』の未来を見出したような心持ちです!」


 〝切なる訴え〟と呼ぶには余りにも勇ましいに応える声があり、場内を埋め尽くすどよめきは更に大きくなった。

 彼女を追い掛けるような恰好でリングに上がり、次いで照明スポットライトを浴びたのは樋口郁郎である。誰もが呆気に取られて絶句する中、団体代表の権限によって飯坂稟叶ローカルアイドルを『天叢雲アメノムラクモ』に迎え入れると宣言した。無論、MMA選手としての起用という意味だ。

 リングに設置された簡易式の階段を上る前には、抜かりなくワイヤレスマイクも握っている。これによってメインアリーナは言うに及ばず、専用カメラを通じて生中継されているパブリックビューイングの会場にもを届けようというわけだ。

 記者席で状況を見守っていたメディア関係者たちはさすがに即応してメモを取り始めており、リングサイドのカメラマンも二人の姿を同時に捉えられる角度から一斉にレンズを向けている。

 日本を代表するMMA団体の興行イベントだけにスポーツ新聞の記者も首都圏から駆け付けている為、第一面で取り上げられることはなくとも、紙面のどこかに写真と併せて急報が掲載されることであろう。

 今日は打撃系立ち技格闘技団体『こんごうりき』も首都圏で興行イベントを開催しているのだが、競技統括プロデューサーの息子にして日本最強と謳われる空手家のプロデビューという話題性ニュースバリューを脅かす可能性も否めなかった。

 より事件性の高いニュースを好む大衆の心理こそがマスメディアの〝腹〟を満たしてきたのである。


「飯坂さんのグループが今大会への出演を辞退されたことは会場の皆様もご承知のことと存じます。今、飯坂さんご本人が打ち明けられた通り、グループ全体が悪質な脅迫を受けているのは紛れもない事実です。犯人が逮捕されるまでの間、本来であれば安全な場所に身を隠すことが最優先でしょう。その危険を押してまで勇気を示してくださった飯坂さんをどうして無碍に出来るでしょう⁉」


 テロにも屈しないほど強い闘魂たましいが加わることで、『天叢雲アメノムラクモ』はもう一段階、高い領域に飛躍できる――そのように樋口郁郎は続けた。確かに奥州市は飯坂稟叶ローカルアイドル自身の生まれ故郷であり、脅迫を受けている状況でえて出場を表明する意義は大きかろうが、この岩手興行から参戦することは全く不可能である。

 開会式オープニングセレモニーの段階で全一〇試合の予定表プログラムを覆す余裕などはなく、途中で特別試合エキシビションマッチを挿入するという選択肢も全く現実的ではない。観客たちを最寄りの駅まで送り届けるシャトルバスの手配も、興行イベント終了後の撤収作業も、いずれも開催時間を緻密に計算した上で予定が組まれているのだ。

 ましてや、現時点のいいざかぴんはMMA選手としての適性すら判っていない。

 公表しているプロフィールには趣味の項目に格闘技やプロレスの観戦と記している。それが為に今回の脅迫事件にも一等激しく怒り、自らがMMA興行イベントに出場するというに至ったのであろうが、試合を〝外〟から見つめているだけで模倣できるほど〝プロ〟の技は単純ではない。

 小学生の頃から親しんできた『よさこい』や、これに基づくダンスで鍛えた身体能力が格闘家としての素養に直結すると判断していた場合、彼女は取り返しのつかない結末を迎えることになるだろう。

 MMA選手として闘う為の準備が全て整い次第、『天叢雲アメノムラクモ』のリングに臨むことは間違いないが、おそらくは〝次〟の興行イベントにも間に合うまい。

 あるいは樋口郁郎自らが後ろ盾となり、プロデビューを迎えるまでの道程ストーリーを追い掛けるドキュメンタリー番組でも企画するのかも知れない。同様の特集記事で話題性を引き上げるよう格闘技雑誌パンチアウト・マガジンすることなど〝暴君〟には瞬き一つと同じくらい容易いのだ。

 同雑誌の編集部が広報活動の一環として運営している〝キャラクター〟の『あつミヤズ』は『天叢雲アメノムラクモ』とも提携しており、興行イベント終了後に動画配信サイト『ユアセルフ銀幕』で全試合の内容を総括する特別番組を生放送しているのだが、おそらく今日はいいざかぴんの決意表明を最初に取り上げ、今し方の樋口と同様にその勇気を褒めそやすことであろう。

 卑劣な脅迫にも屈しない姿勢は確かに気高いが、それで深刻な事故を招き兼ねない目論見が正当化されるわけではない。

 今まさに勇気を褒め称えた相手に格闘技経験がないことを樋口郁郎が把握しているのかは判然としないが、この点を追及したところで飯坂稟叶ローカルアイドルのMMAデビューを翻意させることは難しかろう。

 新人選手キリサメ・アマカザリがプロデビュー直前で起こした不祥事さえも広報戦略に利用してしまえる〝暴君〟に逆らえる人間は、『天叢雲アメノムラクモ』にもその主催企業にも居ない。それどころか、日本格闘技界全体を見回しても数えるほどしか居ない。

 危険を押してまで勇気を示したいいざかぴんをどうして無碍に扱えようか――先ほど観客席全体に向けられた問い掛けは、それ自体がローカルアイドル起用に対する異論を認めないというにも等しいのだ。


「不撓不屈の闘志なくしてMMAという戦場に立つことは叶いません! 強き魂が戦士を生み出すのです! 飯坂さんは『天叢雲アメノムラクモ』の選手に相応しい条件を満たしています! 私の脳裏に今、一九九九年のフェブラリーステークスが甦りました! メイセイオペラの勇姿が重なってなりません!」


 いいざかぴんの右腕を取り、握り拳を垂直に突き上げさせた樋口郁郎は対の手に握るワイヤレスマイクを自身の顎に押し付けると、まさしく破顔としかたとえようのない表情を浮かべながら彼女ローカルアイドルの出場希望を改めて快諾した。

 このときに例に引いた『メイセイオペラ』とは、二〇一四年六月現在までに〝地方〟の所属でありながら〝中央〟の晴れ舞台で優勝した唯一の競走馬である。樋口郁郎が語った通り、一九九九年一月三一日の東京競馬場で開催された『フェブラリーステークス』にいて、やはり〝地方〟で活躍する旗手ジョッキーの鞭で栄光を掴んだのだ。

 出走した一六頭の中で〝地方〟から挑んだのはメイセイオペラただ一頭のみであった。

 日本では一九九五年から〝地方〟の競走馬が〝中央〟のレースに出走する機会が増えていた。その転換期にメイセイオペラは前例なき〝道〟を拓き、鼻筋を走る一筋の流星の如く〝中央〟を駆け抜け、栗毛の伝説となったのである。

 屈腱炎から二〇〇〇年に現役を引退したメイセイオペラ――かつての本拠地ホームグラウンドである水沢競馬場は、この総合体育館からおよそ四キロ程度しか離れていない。自分ローカルアイドルと同じ〝地元の星〟になぞらえられたいいざかぴんは、どこか誇らしげであった。

 一度は競走馬生命を危ぶまれるほどの重傷を負いながらも復活を遂げ、〝地方〟が〝中央〟で勝利するという空前絶後の奇跡を成し遂げたメイセイオペラは、まさしく不撓不屈の体現であり、だからこそ樋口郁郎は卑劣な脅迫にも屈しない飯坂稟叶ローカルアイドルに重ね合わせたのである。

 奥州市という〝地方〟から日本を代表するMMA団体へ挑んでいく状況シチュエーションが一九九九年の『フェブラリーステークス』に似通っている点も否めないだろう。

 それだけに〝暴君〟とローカルアイドルの二人は、大いなる儀式でも成し遂げたかのような佇まいであったが、リングの外から見れば常軌を逸した事態としか表しようがない。奥州が誇る栗毛の伝説メイセイオペラを引用しようとも盛り上がるはずがなかった。岩手県内の人々が集まったパブリックビューイングの会場も同じ有り様であろう。


「メイセイオペラが出走はしる競馬場に必ず轟き渡った〝オペラコール〟は、今なお大勢の皆さんの胸を熱くしています! 私もその一人です! あの日の熱狂がMMAのリングで再現されるその日には、二一世紀の〝オペラコール〟で場内を埋め尽くしましょう!」


 場内メインアリーナには飯坂稟叶ローカルアイドルを讃える拍手も声援もなく、当惑の呻き声がまばらに聞こえるのみである。彼女の『天叢雲アメノムラクモ』参戦を歓迎するよう〝暴君〟が呼び掛けた後には薄気味悪い静寂が横たわり、リングサイドのカメラマンたちが立て続けに鳴らすシャッター音が観客の鼓膜に突き刺さるのだった。


(――我々は世にも下らない茶番を見せられる為に長旅ロングフライトをしてきたのか……っ)


 平素いつもは折り目正しく、物腰も柔らかいストラール・ファン・デル・オムロープバーンでさえ、この瞬間ときばかりは心の中で品のない言葉を吐き捨てた。

 樋口郁郎の宣言から二分ばかり遅れて『天叢雲アメノムラクモ』のスタッフたちが自身の両手を打ち鳴らし始めたのだが、これもまたストラールの神経を逆撫でした。

 欧州ヨーロッパ全土にいて『格闘技の聖家族』と畏怖され、格闘技王国オランダの格闘家たちを束ねてきた名門――オムロープバーン家の御曹司は、『天叢雲アメノムラクモ』のメインスポンサーである『ハルトマン・プロダクツ』の一員スタッフとして同団体の岩手興行に臨んでいる。

 ドイツ・ハーメルンに本拠地を置く世界最大のスポーツメーカーは、臨時視察の名目で日本格闘技界を牛耳る〝暴君〟のもとにストラールたちを送り込み、その危機管理能力を調査しようとしていた。

 興行イベントを標的としたテロ事件に対処し得る競技団体か否かを確認するのが目的とも言い換えられるだろう。

 直接的な発端きっかけはアメリカ合衆国大統領の専用機エアフォースワンを襲ったサイバーテロ事件である。

 首謀者は格闘技そのものを深刻な人権侵害として根絶を図る思想活動――『ウォースパイト運動』の活動家であり、各国の格闘技団体は〝次〟の標的に選ばれるのは自分たちであろうという危機感に晒され続けているのだった。

 『サタナス』なる通称ハンドルネームを名乗り、現在は重罪犯専用のフォルサム刑務所に収監されているサイバーテロの首謀者は〝時代の寵児〟とも持てはやされたシリコンバレーのIT長者であり、〝空飛ぶホワイトハウス〟を直接攻撃できるだけの資金も能力も、共犯者による妄信的な助力さえも兼ね備えていた。

 人権擁護という絶対的な〝正義〟を執行する為ならば、超大国の大統領すら恐れないサタナスのことを『ウォースパイト運動』の〝同志〟たちは今や聖人の如く崇めており、模倣犯の出現が危ぶまれる状況であった。

 だが、その一方で個々の活動家は〝組織〟として連帯しているわけではなかった。抗議活動では揃って笛を吹き鳴らすのだが、SNSソーシャルネットワークサービスなどインターネットを通じて連絡を取り合っている。電脳空間を群集心理で塗り潰し、その中で過激思想を膨らませていた。

 攻撃すべき対象を発見した〝誰か〟の呼び掛けに応じてどこからともなく這い出し、徒党を組む為、テロ計画を予測することが不可能に近いのである。格闘技にほんの少しでも関わっていると認めた人間に対し、街角を歩くが手提げ袋の中からナイフを取り出すという事件も欧米では少なくなかった。

 暴力と批難する格闘技を同じ暴力で攻撃することは矛盾以外の何物でもないのだが、人権擁護という名の〝正義〟を妄信する活動家たちは傲慢にも世界秩序の守護者を自負しており、罪悪感に苛まれるどころか、何をしても許されると疑わないのだ。

 『ウォースパイト運動』が繰り返しているのは、抗議の域を超えたテロ行為である。しかし、思想活動そのものを取り締まることは重大な人権侵害である為、各国の司法機関にも潜在的な危険性を一網打尽にすることができなかった。

 テロ紛いの思想だけが全世界に拡散され、に同調する活動家たちはどこから現れるとも知れない――従来の警備体制で対処できるものではなかった。ましてや、二〇一四年六月現在の日本は都市機能を直撃する規模のテロを二〇年近く経験していないのである。

 『天叢雲アメノムラクモ』について言えば、独裁的な樋口郁郎の手腕がそのまま団体としての危機管理能力に比例する。ストラールが属する世界最大のスポーツメーカーはメインスポンサーの立場からを疑問視しているわけだ。

 オムロープバーン家の御曹司は双眸をゴーグル型のサングラスで覆っている。翡翠色の瞳を見通すことのできない黒いレンズの表面に映った〝暴君〟は、二〇年前の日本をしんかんさせたテロ事件も生々しさと共に記憶に留めているはずだが、飯坂稟叶ローカルアイドルの運動神経を褒めそやす姿に危機管理能力というものを感じ取ることは絶望的であった。

 長く伸ばした金髪ブロンドをストラールは三つ編みにして束ね、これを胸元に垂らしている。その毛先を弄ぶ右の指先は明らかに苛立っていた。

 ストラールを始めとする『ハルトマン・プロダクツ』のスタッフたちには実況席に程近い特等VIP席が用意されている。実況担当の女性アナウンサーはリングに向かって控え目ながらも拍手を送っているが、その隣に腰掛けた技術解説担当の鬼貫道明は一度だけ後方うしろを振り返ると、以降は腕を組んだまま身じろぎ一つしなかった。

 ストラールの席から逞しい背中しか見えなかったが、ロープで遮られた向こうの樋口郁郎を凄まじい形相で睨み付けているのだろう。それはつまり、異種格闘技戦を通じて日本に総合格闘技MMAの〝道〟を切り拓いた『昭和』の先駆者にさえ飯坂稟叶ローカルアイドルの一件が伝わっていなかったという意味である。

 あるいは格闘技経験が絶無というローカルアイドルを『天叢雲アメノムラクモ』のリングに押し上げんとする〝暴君〟の所業へ腸が煮えくり返っているのかも知れない。


「……私の頼りない記憶に誤りがなければ、確かアメリカ競馬界には未勝利のまま一〇〇敗を数え、それ自体がになった競走馬がいた筈だ。このままでは『天叢雲アメノムラクモ』で同じことが繰り返されるのではないだろうか。……いや、繰り返されるに決まっている」


 ストラールが祖国オランダ言語ことばで鋭く吐き捨てたのは、一〇〇戦して一度たりとも栄冠に輝くことのなかった悲運の競走馬であった。次々と馬主が離れてしまうほど敗北を重ね続けたのだが、いつしか〝勝てないこと〟で話題を呼び始めたのである。

 岩手から飛び出して〝中央〟を制したメイセイオペラなどではない。アメリカ競馬界にいびつとしか表しようのない歴史を刻んだ競走馬と同じ末路を辿る――飯坂稟叶ローカルアイドルの横顔にストラールが重ねたのは、己が代表を務める団体のMMA選手を〝客寄せパンダ〟に仕立て上げ、その誇りを踏みにじってきた樋口の悪行だ。

 どれほど負けようとも闘うことをめない姿に人間ひとは報われない己の人生を投影し、そこに不撓不屈のドラマを作り出して陶酔してしまうのだが、これは大衆による身勝手な妄想に過ぎない。

 捏ね繰り回された物語を差し引いて考えれば、出走する全てのレースで負け続ける競走馬は失格でしかない。〝勝てないこと〟を大衆から望まれ、これによって話題性が高まるという状況は、正当に勝利した競走馬の評価を落としてしまうのである。

 注目が集まることに旨味はあれども、競馬界にとっては忌々しい事態であった。それが証拠にくだんの競走馬は一〇〇度目の敗北がされる一方で、出走可能なレース自体が減り続けていった。大衆の妄想と乖離した〝現実〟が横たわっていた。

 格闘技の経験こそないものの、闘志だけならば〝プロ〟のMMA選手にも肩を並べ、岩手にローカルアイドルとしてのを持ついいざかぴんは、無数に敗戦を重ねようともファンが見放さないだろう。

 負けた分だけ応援の声は大きくなるかも知れない。これに加えて脅迫事件を跳ね除けたという〝事実〟が不撓不屈のドラマをのである。いずれは樋口も〝勝てないこと〟をいいざかぴんへ望み始める――ストラールはそのように確信していた。


「……恥知らずとは前々から聞かされていましたが、あっさり実例を見せつけられてしまうと、……あの方にまつわる風聞の全てが真実としか思えなくなりますね……っ!」


 右隣の椅子に腰掛けたストラールの伴侶パートナー――マフダレーナ・エッシャーも声こそ控え目ながら憤怒いかりを隠そうともしなかった。リングへの突撃を堪えるよう右腕を掴んだ左手の甲には血管が浮かび上がっている。

 故郷オランダ言語ことばで紡いでいる上、短い呟きであったので周囲まわりの席の人々には一つとして意味が分からなかったが、マフダレーナの激情に寄り添おうと波打つ赤褐色の頭髪かみに唇を落とした伴侶ストラールは、言葉を発する寸前まえに滑り落ちた溜め息のみで全てを察している。

 愛する人のことであれば、例え言葉にしなくとも心に伝達つたわるのだ。目の前の場景に対してマフダレーナは本気で腹を立てており、それ故にストラールは言葉ではなく口付けで慰めたのである。


「アレは地元警察から厳重注意を受けるんじゃないか。下手すりゃ手前ェんトコのファンの前で取調室まで引っ立てられるぜ。そのテのまで師匠――国舘一蛮イチバン・クニタチを真似しなくたって良いのによ。故人に捧げるような師弟愛には泣かされちまうな」


 樋口郁郎が仕出かしたことは脅迫の犯人に対する挑発行為に他ならない。警察の捜査を邪魔するようなもので、公務執行妨害に問われてもおかしくない――そのように皮肉を並べたのはギュンター・ザイフェルトであった。

 穏やかとは言い難い親友ふたりの様子を横目で確かめ、えてオランダ語を用いて言葉を引き取った次第である。

 家名ファミリーネームが示す通り、ギュンターはドイツ・ハーメルンに君臨する『ハルトマン・プロダクツ』の経営者一族――ザイフェルト家の御曹司だ。

 同企業ハルトマン・プロダクツいてはストラールやマフダレーナと比較にならない〝立場〟である。経営者一族の御曹司が岩手興行の会場まで乗り込んできた事実は極めて重く、今回の臨時視察が軽く扱えるものではないと、メインスポンサーが『天叢雲アメノムラクモ』を威圧しているのだった。

 独裁政権下の祖国ドイツで〝戦争の時代〟を生き抜いたザイフェルト家の総帥は、戦地でアメリカ軍の捕虜となった経験ことがある。今は亡き父親が戦時下の工房で自分と同じ戦争捕虜を強制労働させていたという事実を十字架の如く背負っており、それ故に樋口郁郎のような人間を何よりも忌み嫌うのである。

 『ハルトマン・プロダクツ』を率いる総帥――トビアス・ザイフェルトが日本格闘技界の〝暴君〟をかつての独裁者とのように見做せば、その瞬間から『天叢雲アメノムラクモ』というMMA団体は立ち行かなくなるのだ。

 『格闘技の聖家族』に生まれた親友ストラール祖国オランダ言語ことばで「茶番」と吐き捨てたときにも、続いていいざかぴんはメイセイオペラになれないと言い切ったときにも、総帥トビアス・ザイフェルトの孫は首を頷かせていた。

 依然として『天叢雲アメノムラクモ』のスタッフは団体代表に拍手を送っていたが、両手を打ち鳴らす力は明らかに弱く、場内メインアリーナを満たすほど大きくならないその音こそが困惑の度合いを表している。

 どよめき続ける観客は言うに及ばず、一度は出演を辞退したローカルアイドルの登壇という筋運びは殆どのスタッフに知らされていなかったようだが、リングに立つ二人を浮かび上がらせる照明スポットライトやワイヤレスマイクは、事前の打ち合わせに基づいて用意されていたとしか思えないのだ。

 飯坂稟叶ローカルアイドルの決意表明は突発的な乱入ではない。樋口郁郎によって仕組まれた〝演出〟である。彼が特別試合エキシビションマッチを用意していなかったことのほうが意外であった。

 だが、今日の臨時視察でメインスポンサーが確認したかったのは、不測の事態を不撓不屈のドラマのように見せ掛け、テロの影が忍び寄るMMAのリングさえも〝劇場化〟してしまう手腕ではない。『ウォースパイト運動』をも視野に入れ、異常事態へ完全に対処し得る具体策なのである。

 開催先の企業・団体との交渉を取りまとめ、地域振興の仕組みまで作り上げたさいもんきみたかなど主催企業サムライ・アスレチックス自体は現実的な観点からMMA興行を運営している。

 興行イベントの会場まで足を運ぶことのない経理担当――くらもちも取引先の金融機関と揺るぎない信頼関係を結び、莫大な運営費用を過不足なく管理しているのだ。『こんごうりき』のように資金難からシンガポールの『スポーツファンド』に頼ることもない。

 二〇一四年六月現在、シンガポールでは新たなMMAの潮流ながれが起ころうとしている。将来的には『NSB』の足元すら脅かし兼ねないと、『ハルトマン・プロダクツ』も動向を注視していたのだ。

 世界最大のスポーツメーカーは単独で二割近くを占めるほどシンガポールの市場マーケットを〝侵略〟しており、その影響力は決して弱くはないのだが、くだんの新興団体は独立性が強く、スポンサーとして内部に入り込むことも難しい。

 同国シンガポールの〝外資〟が『天叢雲アメノムラクモ』にも注入されてしまうと、アジアの勢力図へ直接的に関わる為、『ハルトマン・プロダクツ』では倉持有理紗の手腕が高く評価されていた。

 『こんごうりき』の有力株主にはシンガポールの人間が名を連ねている。それはつまり、経営危機を乗り切る代償として、同国の格闘技事情によって運営方針が左右される危険性を抱えてしまったという意味だ。『天叢雲アメノムラクモ』が同じ状況に陥ることだけは回避しなくてはならないというのが『ハルトマン・プロダクツ』の方針であった。

 抜き差しならない状況下で、代表の樋口郁郎だけが漫画のように現実味のない所業を繰り返していた。大きな夢を掲げることも組織を率いるリーダーには求められるのだが、それは確たる道筋を示して初めて成り立つ目標設定であり、独り善がりな妄想との間には断絶としか表しようのない隔たりがある。

 主催企業サムライ・アスレチックス内部の歪みは間違いなく『天叢雲アメノムラクモ』を蝕んでいた。〝現実〟を正しく認識できていない人間の手で壊されている――とも言い換えられるだろう。

 アメリカにける先鋭化が著しい『ウォースパイト運動』への対策として『天叢雲アメノムラクモ』はこれまでの興行イベントよりも警備員の数を大幅に増やしている。これをもってして万全の体制であることをメインスポンサーに主張したいのかも知れないが、テロリストとの区別さえも曖昧な過激活動家には無意味にも等しい。その事実を樋口郁郎は認識できていないわけだ。

 日本格闘技界の〝暴君〟は〝裸の王様〟に過ぎない――この結論は欧州ヨーロッパから奥州に来訪した三人とも共有している。

 上等な背広を着込んで臨時視察に臨んでいるザイフェルト家の御曹司は、ワイシャツの襟に七つの星が円環を描く小さな徽章を付けていた。欧州連合EU象徴シンボル――欧州旗を彷彿とさせる七星セクンダディは『ハルトマン・プロダクツ』の社章ではなく、〝別の結合〟を表す物だ。

 と同じ物がストラールのワイシャツとマフダレーナのブラウスでも輝いていた。無論、同じ部位である。その徽章からも三人が心を通い合わせる仲間同士であることは一目瞭然であった。

 樋口体制が一向に改善されない場合、『天叢雲アメノムラクモ』ひいては日本MMA自体に今度こそ見切りを付け、シンガポールの新興団体と手を結んでアジアの勢力図を維持する――『ハルトマン・プロダクツ』の上層部が最悪の事態に備えて想定している善後策シナリオも、当然ながら三人は共有していた。

 日本の古武術を体得し、同国に思い入れが深いギュンターも〝未来への投資〟という局面にいては決して判断を誤るまい。己自身の感情ではなく、ザイフェルト家の一族としての使命を何よりも優先できる男なのだ。


「……やはり、グチには早々に〝事故〟にでも遭って貰うしかないようだな……」


 〝暴君〟と飯坂稟叶ローカルアイドルがリングへ上がる前のようにメインアリーナの全ての照明が消えたのは、暗闇に似つかわしくないサングラスで双眸を覆うストラールが祖国オランダ言語ことばで物騒極まりないことを小さく呟いた直後である。

 続けて場内各所に設置された大小のモニターが一斉に起動し、『プロフェッショナル・ミクスド・マーシャツ・アーツ』なる英字が画面内を駆け抜けていった。

 やがてモニターの画面は青空のいろに染まり、中央に白い雲の塊が現れた。大きなむらくもである。この中心を三種の神器の一つとして伝わる諸刃の神剣が垂直に貫くと、そこに漢字とアルファベットの上下二段で団体名も浮かび上がった。

 『クサナギノツルギ』なる別名を持つ伝説の武具に青空と真っ白なむらくもを組み合わせて完成したのは『天叢雲アメノムラクモ』のロゴマークである。が大写しになると、今度は場内の大型スピーカーで勇壮と表すのが最も相応しい旋律が轟き始めた。

 それは開会式オープニングセレモニーの始まりを告げる号令である。

 モニターに映し出されたのはMMA興行イベントの幕開けを飾る為に映像作家の表木嶺子が作り上げた動画ビデオであるが、何の前触れもなく鞍上にて軍配団扇を振るうまさむねが大写しになると、場内が再びどよめきで満たされた。奥州市の開催であることを打ち出す為、一九八七年に放送された大型連続時代劇の一幕を挿入したわけだ。

 三日月の兜を被った東北最強の戦国武将に続き、『天叢雲アメノムラクモ』の所属選手たちが次々と映し出されていくのだが、七星セクンダディの徽章を分かち合う三人にはその全てが白々しく見えてならなかった。

 ラッシュガードに身を包み、ムエ・カッチューアの道場ジムで回し蹴りを披露する希更・バロッサがモニターに映り込んだ瞬間、思わず腰を浮かせ、無意識の行動を悟るなり照れ隠しの咳払いを引き摺りつつ座り直したギュンターは、現在いまからとなった左隣の椅子を見据えた後、その向こう側へと視線を巡らせた。


「人をバカにしているとしか思えないこの茶番を『NSBそちら』はどう見ているんです? ご覧の通り、こっちのはしっかりブチギレてますよ。自分だってこの椅子を蹴飛ばして帰りたいくらいですがね」

「世紀の茶番なら他にも知っているぞ。一〇年と少し以前まえだったか――アメリカ競馬史に永遠に残る競走馬は、野球選手と駆けっこ勝負をさせられた挙げ句に大負けしていたよ。それもメジャーではないマイナーリーガー相手にな。あんなに盛り上がる茶番はなかなかお目に掛かれんよ」

「俺の知ってるイギリス人より皮肉がキツいぜ、あんた。その競走馬、別の野球選手と勝負したときは勝てたんだろ? 一勝一敗の成績なら落第じゃないさ。……『人間相手に勝てた』ってのがニュースになるところに本来のレースで勝てない理由が詰まってるわな」

「正確には二勝一敗だ。仲間のリベンジで走った選手ヤツを返り討ちにしてな。どうやら二勝目のほうは欧州ヨーロッパでは話題にもならなかったと見える。に向けた景気付けだったのだがね。意外性も〝見世物〟には欠かせんからな」


 先ほどストラールが飯坂稟叶ローカルアイドルと重ねた一〇〇戦全敗の競走馬について、不名誉としか表しようのない説明を付け加えたのは、ギュンターが話し掛けた相手ではなく、その隣に座る男性であった。

 VVヴァルター・ヴォルニー・アシュフォード――メインアリーナの中央近くに腰掛けた背広姿の男性は、右隣の女性へまるで執事のように付き従っている。

 身辺警護ボディーガードも兼ねているのだろうか。鼻の下には頭髪かみと同じ色の髭を蓄えている。毛量も尋常ではない。二本の槍の穂先が左右の敵をそれぞれ狙っているようにも見えるのだ。

 白雪を彷彿とさせる肌の色や淡い金髪ブロンドは欧米が起源ルーツであることを示している。彼が生まれ育ったのはアメリカ合衆国に属する南国であった。〝本土〟の競馬事情にも詳しい様子だが、あるいは故郷のハワイでもくだんの競走馬は話題となっていたのかも知れない。

 見世物の為に野球選手と健脚を競わされ、あまつさえ敗れ去った競走馬の例え話は、いいざかぴんと組み合わせた場合、残酷なほど示唆的であり、右隣の椅子に座っている女性は眉根を寄せた。

 それはつまり、アメリカより来訪した二人とも異国オランダ言語ことばを正確に聞き取り、その意味を理解できる人間ということである。無意識の呟きということもあってくだんの競走馬に触れたとき、ストラールは祖国オランダ言語ことばを用いていた。

 日本人のようで日本人ではないという不思議な顔立ちの女性は、執事の如き随行者による皮肉めいた例え話を咳払いでもって戒めつつ、からの椅子を挟んだ向こう側――『ハルトマン・プロダクツ』より差し向けられたギュンターと視線を交わしている。

 北米アメリカ最大のMMA団体『NSBナチュラル・セレクション・バウト』の代表――イズリアル・モニワであった。ザイフェルト家の御曹司と同様に臨時視察の為、遥々と太平洋を渡ってきたのだ。

 VVを伴って東北に足を踏み入れたのは岩手興行の数日前であった。今日を迎えるまでりくぜんたかなど東日本大震災で深く傷付いた土地を経巡っていた。現代いまで言う外交官として伊達だてまさむねを支えた重臣・にわつなもとを祖先に持つ彼女イズリアルは、己の起源ルーツでもある東北の〝今〟を双眸に焼き付けていたのである。

 ニワが仕えた伊達家とゆかりの深い土地ということもあり、並々ならない慰霊の思いを胸に秘めていたのであろう。陸前高田市の震災遺構と向き合ったときには喪服を彷彿とさせる漆黒の装いであったが、今日はロサンゼルスのリトル・トーキョーで『天叢雲アメノムラクモ』と共同会見に臨んだ日と同じパンツスーツ姿であった。

 アメリカを代表する日本人街で『天叢雲アメノムラクモ』の統括本部長と共に日米合同大会コンデ・コマ・パスコアの共催を発表した『NSB』にとって、『ウォースパイト運動』は実害をもたらす〝敵〟である。『ハルトマン・プロダクツ』よりも逼迫した状況で樋口に臨時視察を申し入れていた。


「論外です。その上、グチは自分には非がないように仕向けている――先程までリングに立っていたあの女性を脅迫したという人間と比べても、同等というくらい卑怯でしょう」

「キレないワケがありませんよねぇ、『NSBそちら』は。欧州こっちもキナ臭い話は多いけど、ケツに火が付いる状況だけにアメリカのほうがずっと深刻だもんなぁ」

「ええ、一〇〇戦通して一度も勝てなかった競走馬を持ち出している余裕もないほどに」


 ギュンターが質問を投げた本来の相手は、言わずもがなイズリアルのほうだ。それを理解しながら、VVは諧謔ユーモアでもって割り込んだわけである。

 頭二つ分向こう――静かな怒りに震えるマフダレーナの様子を案じていたときの眼差しは慈愛に満ちていたが、話をに戻し、ザイフェルト家の御曹司と向き合った現在いまはすこぶる機嫌が悪い。

 それも無理からぬことであろう。警備上の不足を洗い出し、必要に応じて修正案を議論するのが臨時視察の最大の目的であったのだが、今ではそれ以前の問題となっている。

 イズリアル・モニワが率いる『NSB』は『ウォースパイト運動』の過激活動家――サタナスがエアフォースワンを襲撃したサイバーテロ事件にも巻き込まれていた。同団体の選手や所属選手や副代表の孫娘も〝空飛ぶホワイトハウス〟に搭乗しており、彼らこそが本当の標的であったことが首謀者サタナスへの取り調べで判明している。

 改めてつまびらかとするまでもなく、国家反逆罪に問われ兼ねないサイバーテロは、格闘技という人権侵害への抗議であった。サタナスから影響を受け、アメリカ国内の活動家が更に過激化していくであろうと予想される中で活動するMMA団体であったればこそ、共催団体の警備体制を正確に見極めなくてはならなかったのである。

 日米それぞれで最大の規模を誇るMMA団体の合同大会は、東京ドームで開催されることが決定している。即ち、安全の確保も『天叢雲アメノムラクモ』が主導するということだ。

 『天叢雲アメノムラクモ』のメインスポンサーと合同大会の共催団体が同時期に臨時視察を申し入れたのも、マスメディアが『九・一一』の再現とも報じたサタナスのサイバーテロが直接的な引き金である。

 規模の大きさや業務内容はさておき、双方とも『ウォースパイト運動』の標的となり得る可能性が極めて高く、このような賓客VIPを招くのであれば、安全確保の観点からも別々の興行イベントに分散させるべきであったのだが、樋口は部下たちの反対をも押し切ってえて同日にのである。

 共催団体のから〝内政干渉〟に踏み切ることが予想される『NSB』に対し、世界最大のスポーツメーカーが『天叢雲アメノムラクモ』の後ろ盾あることを見せ付けることで差し出口を牽制しようとする樋口の策略であった。自身の席を挟んで二つの〝組織〟の椅子を同じ列に固めた意図も見え透いていた。

 ローカルアイドル・グループが岩手興行の出演を辞退せざるを得なくなったくだんの脅迫事件は、現時点にいて『ウォースパイト運動』による犯行であるか否かは明らかになっていない。サタナスによる影響が日本まで及んだという可能性を残した状況で、樋口郁郎は格闘技を人権侵害と憎む人々の敵意を増幅させるような茶番を演じたわけだ。

 共催団体とメインスポンサーの双方が〝暴君〟に好意的な目を向けるはずもあるまい。

 危機意識の希薄さが露呈しただけではない。樋口は今し方の茶番を通じて『ウォースパイト運動』に宣戦布告したのである。ではなく、格闘技の根絶という〝正義〟を振り飾る活動家たちに向かって「自分たちはテロに屈しない」と、団体としての方針を表明したのである。

 国内外を問わず格闘技界でテロに対する緊張感が高まっている状況を樋口も理解していないはずがない。その時節にいいざかぴんのような人間をリングに迎え入れたなら、国内に潜伏している『ウォースパイト運動』の活動家を間違いなく刺激する。彼らにとっては、これ以上ないというほど邪悪な〝人権侵害〟なのである。

 場内メインアリーナに設置されたモニターでは、レオニダス・ドス・サントス・タファレルが『ブラジリアン柔術』の寝技でもって対戦相手を絞め落としていた。今や『かいおう』にも比肩する花形選手スーパースターだけに、彼が画面に登場するだけで大歓声が起こった。

 当初は困惑に満たされ、重苦しい空気が垂れ込めていた客席もようやく本来の熱気を取り戻したのだが、こそが『ウォースパイト運動』にとっては断じて許し難い〝人権侵害〟なのだ。

 尊い命を壊してしまう格闘技がこの世に存在することさえ認められない活動家たちは、その根絶を訴えるべく〝正義〟の笛を吹き鳴らすのだった。


「――格闘技という活動そのものが存続の危機に立たされている今、如何なる暴力、卑劣なる妨害にも断じて屈しないと高らかに宣言してくれるのはMMAに関わる人間にとって頼もしい限りです!」


 自らのことを〝誰に対しても寛大なMMA団体の代表〟と見せ掛ける一方で、樋口郁郎はこのように雄弁を振るっていた。脅迫事件の犯人へ訴える言葉としては余りにも仰々しく、彼の想定する対象が『ウォースパイト運動』であることは明々白々だった。

 しかし、茶番の主役はあくまでもいいざかぴんだ。MMA選手として闘うことを望んだこのローカルアイドルに〝敵〟の矛先が向かないはずもあるまい。この状況を利用し、樋口は己が身を隠す為の盾に代えたとしか思えなかった。

 グチは自分には非がないように仕向けている――これはイズリアル・モニワが吐き捨てた言葉であるが、そのままマフダレーナが怒り狂った理由でもあった。彼女は『NSB』の代表よりも先に故郷オランダ言語ことばで「恥知らず」と〝暴君〟を静かに罵っている。

 同じ想いを気付いたからこそ、イズリアルもまた初めて挨拶を交わしたばかりのマフダレーナに気遣わしげな眼差しを向けたのである。

 岩手興行ではからに身を包んで統括本部長へ挑むモロッコ出身うまれのハリド・ハッジがモニターの画面にて練習相手を滅多打ちにしている――樋口が振るった〝暴力〟は、その苛烈な姿よりも遥かに残虐であった。


「私の記憶が間違いでないのなら、そちらの色男――メルヒオール・ファン・デル・オムロープバーンのだろう? 『格闘技の聖家族』の〝裏〟の仕事を引き受けていたとも聞いているが、粋なサングラスで隠れた目はこの状況をどう見るね?」


 イズリアル・モニワとギュンター・ザイフェルト――二人分の頭越しにVVから声を掛けられた『格闘技の聖家族』の御曹司は、ゴーグル型のサングラスの裏側で双眸を驚きに見開いていた。


「……良くも悪くも顔が似ているもので、メルヒオールと間違われることがもっぱらでしたから、さすがに驚きましたね。初めて顔を合わせた方にストラールと認識されたのは久しぶりです。貴方とはご挨拶すら殆どしませんでしたよね」

「イズリアル――モニワ代表ほどではないが、多少は格闘技をカジッていてな。そもそも故人と間違えるのは失礼の極みだ。ストラールのほうはオランダの格闘家というか、彼らの用心棒稼業を世話していたとも聞いている。のツテで物騒な情報ネタを掴んでいないか?」

「私がねぐらにしていたのは暗黒街というか、歓楽街ですがね。祖国オランダの〝裏〟の顔も少なからず知ってはおりますが、さすがに他所の国の情報は殆ど入ってきませんね。『NSBそちら』が特に警戒なさっている〝笛吹き〟たちは普段は地下に潜っていていますし……」


 オランダの格闘家は用心棒を兼業することが殆どであり、オムロープバーン家は古くからを統括していた。格闘技王国に君臨する〝顔役〟というわけである。

 『格闘技の聖家族』に生まれたストラールは、最近まで用心棒稼業のまとめ役を担っていた。オムロープバーン家の跡取りとなり、〝表〟の舞台に出るようになってからは〝身内〟にその役割を譲っている。荒くれ者を率いていた過去ことを知る者は『ハルトマン・プロダクツ』の内部なかでさえほんの一握りなのだ。


(……まさか、私の双眸に浮かび上がる黄昏ラグナロクまで掴んでいるのではないだろうな。イズリアル・モニワはハワイの出身うまれと言うが、この男もそうなのか……?)


 アメリカ競馬にまつわる知識を披露したVV・アシュフォードという髭面の男は、どうやら〝裏〟の事情にも相当に詳しい様子である。生まれ故郷とは異なるオランダ言語ことばでストラールに探りを入れようとしたことにも、が表れているといえよう。


(ハワイ出身うまれなら黄昏ラグナロクの一端に気付いても不思議ではないが、……それでは、このアシュフォードもモニワも――南の海以外の〝血〟が流れる二人も『夜の行進者ナイトマーチャー』なのか?)


 団体代表イズリアル・モニワに従う執事のような男だけに『NSB』の幹部のように見えなくもないが、少なくともストラールが記憶に留めている資料にはVVヴァルター・ヴォルニー・アシュフォードという名前は記されていなかった。

 上級スタッフどころか、『NSB』とは関わりのない〝部外者〟なのであろう。先程もイズリアル・モニワのことを肩書きではなく名前ファーストネームで呼ぼうとしていたが、一個人としての繋がりから彼女に帯同しているのかも知れない。

 口にしても余人には意味が理解し切れないであろう『夜の行進者ナイトマーチャー』という言葉を思い浮かべながら、ストラールはハワイに生まれた両者ふたりの関係性を推し量っていた。


(……夜の闇の狭間で王国の亡霊たちも黄昏ラグナロクたというのなら、あるいは――)


 いずれにしても油断のならない人物であることは間違いあるまい。要らざる混乱を招き兼ねない為、えて追及しなかったのだが、VVが深緑の背広の内側に拳銃ハンドガンを隠し持っていることをストラールは見抜いている。

 御曹司らしく着飾るまで〝裏〟の世界を仲間たちと闊歩していたストラールは、同じ肩書きを持つ親友ギュンターよりも少しばかりわけだ。

 拳銃ハンドガンによるが代表のイズリアル・モニワに必要となるほど共催団体を取り巻く情勢は逼迫している。その〝現実〟を果たして日本の〝暴君〟は理解できているのか――そのように問われたなら、ストラールは首を横に振るしかなかった。

 仮に『ウォースパイト運動』の危険性を理解した上で二つの巨大な〝組織〟を弄んでいるとすれば、それはもはや、大器の持ち主ではなく愚かな命知らずである。

 VVから〝裏〟の情報を訊ねられたときには明言を避けたが、『ハルトマン・プロダクツ』の三人も『ウォースパイト運動』との繋がりが全くないわけではない。世界最大のスポーツメーカーが将来を約束するという条件で活動家の一人を篭絡したのだ。

 くだんの活動家を内通者として利用し、調べさせた限りではローカルアイドル・グループに対する脅迫事件に『ウォースパイト運動』の関与は認められなかった。現時点ではMMA自体を標的とした〝抗議活動〟とは判断し難いが、過激思想は瞬く間に伝播する性質を持つ為、内通者でさえ掴み切れない新たな活動家による犯行の可能性も捨て切れない。

 七星セクンダディの徽章を持つ三人が掴んだ情報も、日本で内通者を確保した経緯さえも、あるいはVVに見破られているのかも知れなかった。それはつまり、『ハルトマン・プロダクツ』が地上に存在する全ての格闘技の〝大敵〟たる『ウォースパイト運動』をも味方に付けて操っている〝事実〟がイズリアル・モニワの耳に入ったという意味だ。


「……一体、何時になればグチは師匠の――国舘一蛮イチバン・クニタチの呪いから解き放たれるのかしら」


 真剣勝負のMMA団体である『NSB』を禁止薬物で肉体改造された〝モンスター〟の〝見世物〟に作り替え、アメリカ格闘技界から永久追放された前代表フロスト・クラントンの後を継いで信頼回復を成し遂げた現代表イズリアル・モニワだけに、樋口に対する嘆息は極めて重い。


「それとも、国舘一蛮イチバン・クニタチの呪いから抜け出しそうになるたび、『ショー』まで時間を巻き戻させる誰かの仕業で、何時までも同じところに留まり続けているのか――どっちにしろ、胸糞の悪い話だわな」


 〝何者か〟が裏で糸を引き、樋口郁郎を〝暴君〟たらしめているのではないか――おそらくは日本格闘技界の誰一人として考えなかったであろう疑問を英語でもって紡いだザイフェルト家の御曹司は、意味ありげな視線を『NSB』の代表に向けた。

 をイズリアルは涼しげな顔で黙殺した。左隣のVVは眉根を寄せつつ腰を浮かせそうになったが、これも目配せ一つで制している。

 次いでギュンターが視線を巡らせた先では、リングから戻ってきた樋口郁郎を秘書のが出迎えている。彼にワイヤレスマイクを手渡したのもパンツスーツを着こなす彼女であった。

 いいざかぴんは観客の目が動画ビデオに釘付けとなっている間に別のスタッフがへと誘導したようである。総合体育館の裏口サブエントランスには正体不明の車輛が二台も停車められているのだが、その内の一台は彼女ローカルアイドルの所属先が手配したものであろう。


「美人秘書――あっ、こういう表現はセクハラですね。失礼。あの秘書さん、今日がプロデビューっていう新人選手ルーキーが不祥事やらかした当日、グチと一緒に『NSB』のスタッフの宿泊先に押し掛けたそうですね。日米合同大会コンデ・コマ・パスコアの開催先を最終決定する会議の日にワンパク小僧の尻拭いとは、日本で一番有名なMMA団体の代表者も大変ですな」

「……日米合同大会コンデ・コマ・パスコアに関連する交流事業ですが、双方の新人選手から特に有望な人材を選抜した交換留学生のような事業は、『天叢雲アメノムラクモサイドからご提案を頂きました。キリサメ・アマカザリも候補の一人ということは、メインスポンサーの耳に入っているのでしょう?」

グチ曰く、『養子むすこが可愛くて仕方のない岳ちゃんが居たら先に進まない話なので、昼間の会議では出せなかった議題』――デビュー戦の前からお払い箱の算段とは、日本で一番有名なMMA団体の代表者はタフでなきゃやっていけないんでしょうね。露骨あからさまにも程がある言い訳をおくめんもなく持ち出す度胸は、の俺にはとても真似できませんね」

「そのご提案の回答は保留しています。交換留学生という発想そのものは悪くないのが悩ましいところですね。……その会合であちらの秘書かたが通訳を引き受けたのは事実です」

「語学堪能で羨ましいぜ。おまけに気配り上手。俺も秘書を雇うならが良いなァ~。どこかにオススメの人材、居ませんかね?」

「ハラスメント裁判の法廷でしたら今すぐにでもご案内できますよ」


 世界最大のスポーツメーカーの経営者一族に生まれた御曹司と、北米アメリカ最大のMMA団体の代表は、英語を不可視の足に換えて互いを蹴飛ばし合っているようなものであった。

 誰かに呼び掛けられて緩やかに振り返るキリサメ・アマカザリの横顔と、剥き出しの上半身にロングスパッツとハゲワシのマスクを組み合わせた出で立ちで〝超次元〟としか表しようのない技を繰り出す超人レスラーがモニター画面には交互に映されている。前者はおそらく隠し撮りされたものであり、後者は古ぼけた映像の質感から一〇年近く昔のVTRを切り取ったものと察せられた。

 ハゲワシのマスクを被ったプロレスラーは、時代を超えて〝超人〟と謳われている。逆立ちしながら両足でもって相手の首を挟んだ直後、己の頭を軸に代えてコマの如く全身を振り回し、その勢いに巻き込んで相手を投げ落としたのである。

 二本のフィルムを代わる代わる一コマずつ差し込んでいく映像には、『一九九七』という数字が重ねられていた。西暦を意味する羅列であることを場内の誰もが直感的に理解していた。

 くにたちいちばんが原作を手掛けた人気漫画とプロレス団体の提携タイアップによって生まれ、架空フィクションから独立してメキシコの『ルチャ・リブレ』を極め、更にはこんにち総合格闘技MMAの礎となる『とうきょく』の理論を完成させた覆面レスラーが『ブラジリアン柔術』に挑んだ年である。

 ハゲワシのマスクで闘う超人の名がヴァルチャーマスクであり、彼が『ブラジリアン柔術』の前に完封された試合は『プロレスが負けた日』と、格闘技史に刻まれている。

 これより数年後に総合格闘技MMAという〝文化〟を日本に花開かせ、二〇〇〇年代半ばまで続く黄金時代を築いた『バイオスピリッツ』――『天叢雲アメノムラクモ』の前身団体の旗揚げ興行にける〝目玉メインイベント〟であった。

 日本格闘技界最大の転換期という輝かしい功績よりも、一人の覆面レスラーの敗北のほうが重い意味を持つのは、日本のMMAそのものが鬼貫道明と『鬼の遺伝子』による異種格闘技戦の継承と発展の歴史という証左だ。

 だからこそ、世界中のMMA団体が『NSB』に準拠して八角形オクタゴンの〝ケイジ〟を採用する中にって『天叢雲アメノムラクモ』はプロレスと同じ様式のリングにこだわり続けているのだった。

 ブラジリアン柔術に為すすべもなく第一ラウンドで惨敗し、四角いリングに横たわったまま動かないヴァルチャーマスクと、もう一度、立ち上がるよう涙ながらにリングサイドで訴える八雲岳の姿が大写しとなり、『一九九七』の数字がガラスの如く砕け散った。

 師匠の鬼貫道明から「あいつなら本気で相手の腕を折る」と評され、これを体現する技術と魂を兼ね備えた日本プロレス史上最強の覆面レスラーが

 『昭和』と呼ばれた時代から『鬼の遺伝子』が掲げてきた実戦志向ストロングスタイルのプロレスも、これによって培われた哲学と〝総合格闘〟を取りまとめた『とうきょく』の理論も、何もかもが〝世界〟には通用しなかった――『プロレスが負けた日』と、思わず目を背けたくなる場面を再び突き付けられた観客席の呻き声で映像は締め括られた。

 が一九九七年――奇しくも同じ年に統括本部長の養子むすこがペルーにて生まれている。

 そのキリサメ・アマカザリが〝プロ〟としてデビューする間際に不祥事を起こした。イズリアルとギュンターの双方が言及しているが、同じ日には日米合同大会コンデ・コマ・パスコアに関する会議ミーティングが都内で開かれており、『NSB』の上級スタッフたちも来日していた。

 その夜、樋口郁郎は『天叢雲アメノムラクモ』へ損害ダメージを与え得る不祥事に対処したのち、イズリアルの部下たちの宿泊先を訪ね、交換留学生という形式かたちで『NSB』にキリサメ・アマカザリを売り飛ばそうと図ったのである。帰国した上級スタッフからを報告されたイズリアルが「負債を押し付けることを日本では交渉と呼ぶのかしら」と呆れ返ったのは、改めてつまびらかとするまでもないだろう。

 その突発的な会合にいて『天叢雲アメノムラクモ』側の通訳を担当した秘書にハンカチで汗を拭って貰った樋口郁郎は、上機嫌で自身の席に戻ってきた。ギュンター・ザイフェルトとイズリアル・モニワ――『ハルトマン・プロダクツ』と『NSB』を分けているからの椅子だ。


「こんなに素晴らしい日はありませんな! 『天叢雲アメノムラクモ』にとっても、日米欧にとっても、記念すべき日だ! いっそ『ランズエンド・サーガ』も招待すれば良かったかなぁ!」


 臨時視察の為に来日した顔を順繰りに眺め、VVのへ気さくな調子で手を振ったのち、自身の椅子に腰を下ろした〝暴君〟は一等痛快そうに笑った。

 傍目には世界最大のスポーツメーカーと北米アメリカ最大のMMA団体を両脇に従えたような構図である。『NSB』の〝内政干渉〟を牽制する為にこの場を仕組んだことは疑うまでもないが、双方の中間に座ったのはこの優越感に浸るのが目的ねらいであったのかも知れない。

 『格闘技の聖家族』の御曹司は、ゴーグル型のサングラスの向こうから軽蔑の眼差しで〝暴君〟を突き刺していた。憤怒いかりよりも嫌悪感のほうが上回るのか、彼の右隣に座っているマフダレーナはに顔を向けようともしなかった。

 一方のVVは自身の左隣に座る男の様子を横目で窺おうとしていたが、その瞬間とき、場内から一切のBGMが消えた。


「神話――それは偉人によって積み重ねられる功績。伝説――それは数多の神話を長い長い歴史絵巻のように繋ぎ合わせ、語り継ぐもの。人は太古の昔から神話と呼ばれる足跡を残し、時代を超えて伝説となるのか。あなたは神話と伝説のどちらになりたいのか。その問いに一人の聖者が答えた。誰かに語られることは望まない。今もまだ歩き続けているのだから過去の足跡でもない。私の前に拓かれているのは一本の道なのだ――と。聖者が呟いた言葉の意味を、我々は今宵、知ることになるだろう……」


 特等VIP席から程近い場所に設置された実況席では、鬼貫道明の隣に座っているなかはらぎんが抑揚を付けない声色で厳めしい言葉を紡いでいく。それが嵐の前の静寂に似つかわしく、観客たちの耳にも深く染み込んでいった。

 実況を担当するこのフリーアナウンサーは、試合の最中は昂奮するまま天井を貫かんばかりに声を張り上げている。しかも、攻防の成り行きを直感だけで喋ってしまう為、臨場感は抜群に盛り上がるものの、勘違いや見当違いが非常に多い。技術解説担当の鬼貫から情け容赦なく指摘される回数が興行イベントごとにインターネットで話題になっていた。

 格闘技雑誌パンチアウト・マガジンが広報活動の一環として運営する〝キャラクター〟の『あつミヤズ』は、業務提携として『天叢雲アメノムラクモ』の興行イベント開催後に動画サイト『ユアセルフ銀幕』の専門チャンネルで解説番組を配信しているが、その中で仲原アナの間違いを毎回必ずからかっている。

 現在いまは正反対の趣というわけだ。七色にたとえられるくらい様々な声を使い分けるのも、仲原アナが本物の〝プロフェッショナル〟という証左であった。

 リングを睥睨へいげいするような形で一階・南側の壁際にセレモニー用の特設ステージが組まれている。団体のロゴマークが染め抜かれた青い布で全体が覆われており、浮かび上がった輪郭シルエットから先端が少しばかり尖っていることだけは見て取れた。場内の照明は依然として大部分が消されている為、どれだけ凝視しようとも〝中身〟を言い当てるのは難しい。

 その巨大な物体を真っ白なスモークが包み込み、次いで場内の至る場所に設置された無数のレーザー器具が青い布に光の輪を映し始めた。

 布を海のいろに喩えるとすれば、レーザーが描き出すのは波紋であろう。こおれる神々の息吹とおぼしきスモークと合わさった瞬間から特設ステージは北欧の大海原と化していった。

 程なくしてステージ全体を覆っていた布が中央から真っ二つに割れ、勢いよく引き抜かれた。

 そこに出現したのはヴァイキングたちが乗り込む海賊船である。

 正確には船首の一部分のみだが、海賊船を模した大掛かりなステージが組まれていたのである。大晦日の歌番組の〝名物〟であった演歌歌手を想い出した観客も多かろう。

 くだんの演歌歌手に負けないくらい仕掛けも凝っている。青い布に覆われている状態のときには甲板に横たえられていたマストが立ち上げられ、一枚の帆が勢いよく広げられた。

 マストに張られた帆には『天叢雲アメノムラクモ』のロゴマークが大きく染め抜かれている。これが現れた瞬間に歓声が渦巻いた。ロゴマークの下部に見られる『第一三せん~奥州りゅうじん』という表記には、『絶対王者の帰還』とも添えられていたのだ。

 『かいおう』再臨――その瞬間に向けて、人々の昂揚は加速度的に高まっていく。


「天よ、地よ、人よ! 聖なる波濤を越えて私は戦場に帰ってきた――」


 観客以上に昂奮し切った仲原アナの声が――の想いを代弁するかのような雄叫びが場内に響き渡る。

 これを合図に船首の前方からユニコーンの角にも見える長い棒が迫り出した。機械の駆動音を引き摺りながら現れたその棒は、専門用語で『バウスプリット』と呼ばれる部位である。

 バウスプリットの先端には水平の棒が設置されており、そこに一枚の青い旗が括り付けてあった。中央には〝海賊旗〟という単語から即座に連想されるような紋章が白く染め抜かれている。中世ヨーロッパの貴族や軍人が好みそうな三角帽子を被ったドクロが不敵に笑っているのだ。

 ゴーザフォス・シーグルズルソン――〝海賊旗〟には絶対王者の名が赤い染糸で刺繍されている。アイスランド語による表記ではあるものの、熱心な『天叢雲アメノムラクモ』ファンであれば正確に読み取れるだろう。

 そして、誰もが『かいおう』と名付けられた由来を想い出すのだ。

 アイスランド出身のゴーザフォス・シーグルズルソンは氷の海を股に掛けたヴァイキングの末裔であり、伝説の海賊が操った格闘術グリマを探求する考古学者でもある――と。


「地上最強、人類最強……人間という限界に囚われる者にとって、その呼び名は夢物語に過ぎない。見果てぬ夢でないことを証明するには王者たる器を持たねばならないのだ。そして、その覇業を成し遂げたのは全人類でただ一人のみ! 伝説のヴァイキングの末裔にして無敵の絶対王者! 『かいおう』――ゴーザフォス・シーグルズルソンが『天叢雲アメノムラクモ』に再びの君臨ッ!」


 全ての仕掛けが展開し終わると、統括本部長の声によって『海皇かいおう』の帰還が正式に告げられ、各所に設置された照明スポットライトが海賊船の甲板の一点に降り注ぐ。天空の神々が絶対的存在の再臨を喜び、光明ひかりもって祝福しているように見えてくるから不思議である。

 そこに一人の魁偉おとこが立っていた。

 機械仕掛けの舞台装置とは裏腹に、その魁偉おとこは神話の時代から訪れた聖者の如き気配を漂わせている。さながらヴェールのように頭から被った白銀のローブで素顔が隠されている為、神秘性が一等際立つのだ。

 場内のスピーカーからは讃美歌めいた荘厳な楽曲まで流されており、いつしか観客たちも清められたような気持ちにさせられてしまうのである。

 天と地の祝福を一身に浴びて現れたその魁偉おとこは、ここが再臨の場であることを確かめるように場内を見回したのち、おもむろにローブを剥ぎ取った。

 緩く波打った黄金の髪は肩に掛かるほど長く、色白の顔へ下品にならない程度に髭を蓄え、人の心を全て見透かしているのではないかと錯覚するほどに澄んだ青い瞳――その姿を認めた瞬間、怒涛のような歓声が場内に渦巻いた。

 象牙色の生地に天使の翼の紋様をあしらったロングスパッツを穿き、無駄なく鍛え上げられた上半身をさらした聖者は、まさしく『かいおう』と畏敬される〝地球史上最強の生物〟であった。

 前身団体バイオスピリッツから『天叢雲アメノムラクモ』まで日本MMAに君臨し続ける絶対王者である。

 メインアリーナの全てのモニターでは『かいおう』が今まで闘ってきた試合のダイジェスト映像が映し出されているのだが、日本MMAの先駆けである八雲岳も、かつては〝平成の大横綱〟と謳われたバトーギーン・チョルモンでさえも、ヴァイキングの時代から伝わる投げ技の餌食となり、瞬く間に倒されてしまっていた。

 岳はマットに投げ落とされた後も寝技に引き込んで反撃を試みようとしたが、それより早く『かいおう』の腕が首に巻き付き、極技サブミッションの攻防に長けたプロレスラーとは思えないほど呆気なく絞め落とされている。

 負傷の為に岩手興行を欠場し、その埋め合わせという形でキリサメ・アマカザリにプロデビューの機会チャンスを与えたロシア人選手――『コマンドサンボ』の使い手であり、山岳部隊に所属するビェールクト・ヴォズネセンスキーは、数多の死線を潜り抜けた軍人にも関わらず、剛腕から繰り出されるヴァイキングのせんの如き左拳が右側頭部を捉えた瞬間、糸の切れた操り人形さながらに崩れ落ちていった。

 海賊船の甲板に独り立つ『かいおう』の佇まいは、『天叢雲アメノムラクモ』にいて強豪と呼ばれる選手でさえ寄せ付けない圧倒的な戦闘力の持ち主とは思えないほど静かである。モニターには柔道の金メダリストでもあるアンヘロ・オリバーレスの投げ技を巧みに受け流し、反対にマットへ転がして追撃のパウンドを振り下ろす威容すがたが映っていた。

 〝地球史上最強の生物〟――その異称はマスメディアあるいは樋口郁郎の情報戦が作り出した飾り物ではない。せんの如き拳でたれるたび、アンヘロ・オリバーレスの肉体からだは衝撃によって大きく跳ね上がったのだ。


「成金趣味っつうのは洋の東西を問わず、どこも大して変わらねぇんだな。派手に飾ればどんなモンだってに見えるけどな。俺には日本の詫び数寄文化が恋しいぜ」


 が樋口郁郎の傍らに付いていないのを良いことに、ギュンターがでもって痛烈な皮肉を飛ばした。隣席であって顔を突き合わせはいないのだが、状況そのものは面罵以外の何物でもない。連れ立っている二人ストラールとマフダレーナは言うに及ばず、はイズリアルとVVの耳にも届いたようで、誰もが口の端を吊り上げた。


「漢字のようで漢字じゃない象形文字のを掛け軸にして有難く飾る好事家もアメリカには多いしな。勘違い文化も洋の東西を問わないワケだ。ハワイのごちゃ混ぜな文化とは食い合わせが悪く見えるよ、コレは。ハリボテは得てしてそんなモンだがね」


 VVなどは口髭を撫でつつ、やはりでもってギュンターに応じ、痛快そうに笑い始めた。己の無作法を愧じたイズリアルは咳払いでもって彼を窘めたが、笑い声は大きくなるばかりである。樋口に対して善からぬ感情を抱くストラールもに釣られて吹き出してしまった。

 左右に人々が笑い始めたのは、『かいおう』復活の趣向に感じ入った為であろうと誤解した樋口は得意満面である。

 『天叢雲アメノムラクモ』の興行イベントに関わる〝演出〟の全ては、特設ステージの組み方に至るまで団体代表の樋口郁郎が一手に引き受けている。世界最大のスポーツメーカーと北米アメリカ最大のMMA団体の重要人物キーパーソンたちから高い評価を得られたと、鼻が高いわけだ。


(ギュンターに一理あるな。ここまで無闇に盛り上げなくともゴーザフォス・シーグルズルソンは誰もが評価している。贔屓の引き倒しは本末転倒にも等しい)


 ゴーグル型のサングラスの中央に海賊船を映した『格闘技の聖家族』の御曹司もゴーザフォス・シーグルズルソンの強さは認めている。〝御曹司〟という肩書きを与えられたのはごく最近であるが、幼い頃からオランダ式キックボクシングのを受けており、『かいおう』の戦闘力を実感として理解できるのだ。

 だからこそ、ここまで押し付けがましく打ち出す必要性を全く感じなかった。過去の試合を編集したダイジェスト映像はともかくとして、海賊船を模した特設ステージは他のセレモニーにも活用できるとは思えず、一つの〝演出〟の為に使い捨てるには余りにも巨大なのである。

 機械によって船首の前方から迫り出した一本の棒バウスプリットは、一つでも操作を誤れば一階席の観客をも巻き込む大事故に発展しそうだ。非常時の避難行動を妨げる可能性も高く、安全確保の観点から地元の消防署に注意を受けていても不思議ではない。

 ギュンターとVVが揃って揶揄した通り、樋口郁郎の演出は無意味なほど過剰なのだ。架空フィクションの世界を再現しているかのような趣向は、記憶の水底からくにたちいちばんという漫画原作者の名前を浮き上がらせていた。

 大抵の格闘技興行イベントでは第一試合を引き受ける選手から順番に紹介していくのが通例である。『NSB』では『プレリミナリィカード』、他団体では『アンダーカード』とも呼ばれており、呼称の通りに下位ランカーや新人選手ルーキーなど注目度の低い者がに分類される。

 〝目玉メインカード〟の選手が最初に威容すがたを現すのは極めて異例であった。そして、それこそが絶対王者という地位に授けられる特権というわけだ。


「――約束の旗のもとに集いし神の戦士たちよ、いざ戦えッ!」


 統括本部長にして日本MMAの先駆者――八雲岳の大音声が場内に轟いたのち、賛美歌に替わって流れ始めたのは『天叢雲アメノムラクモ』の為だけに作曲されたメインテーマである。

 モーリス・ラヴェルの『ボレロ』を彷彿とさせる前奏から始まり、中盤はハードロックのような荒々しい音色に急転し、静かでのびやかなスキャットを挟んで終盤は種々様々な弦楽器と打楽器による激烈な重奏に転じて際限なく盛り上がっていく――プログレッシブロックを愛してやまない日本人作曲家が手掛けたこのメインテーマは、国内外の音楽雑誌などで『狂気的』と高く評価されている。


「一年にも近い沈黙を破って帰還した『かいおう』を仰ぐのは下剋上を望む野心家か、はたまた海賊退治に挑まんとする大勇者か⁉ 『天叢雲アメノムラクモ』第一三せん――復活の王者を睨む出場選手たちの登場ですッ!」


 八雲岳に続いて仲原アナもマイクが〝音割れ〟を起こすのではないかと案じられるほど大きな声を張り上げ、開会式オープニングセレモニーは出場選手たちの入場へと移っていく。

 『天叢雲アメノムラクモ』の興行イベントいて入場口からリングへ一直線に貫く花道ランウェイは、青と白の二色に分けられている。ファッションショーでモデルが練り歩く物と同じように段差があり、これと隣接する観客席からは自然と選手たちを仰ぐ恰好となる。

 前身団体バイオスピリッツの頃から日本MMAに関わっているナレーターの見事な巻き舌で名前を呼ばれた選手は、定められた位置まで進み、試合順に等間隔で整列するのだ。

 くだんのメインテーマとあいって、客席の昂奮が最高潮に達する瞬間であった。


「不撓不屈の体現者ならば『天叢雲アメノムラクモ』にさきがけあり! 『とうきょく』の哲学をもって異種格闘技から総合格闘技へと道を拓き、たたかいを修めし〝伝説〟の語り部! 孤高の二文字が最も似合う〝シューター〟はまさむねのお膝元で〝何〟を見出すのか⁉ しんかいこうッ!」


 目が眩むようなスポットライトの明滅を背に受け、白コーナー側の入場口からに姿を現わしたのは日本人選手である。『天叢雲アメノムラクモ』は完全無差別級だが、ジャージを着込んだ細身の肉体からだは他団体では中・軽量級に属することであろう。

 巻き舌によるコールの前に仲原アナが紹介した通り、ヴァルチャーマスクが自身の格闘経験と『とうきょく』の理論に基づいて完成させた〝総合格闘〟を受け継ぐ一人である。

 『とうきょく』直系の格闘家は〝シューター〟と呼ばれており、『天叢雲アメノムラクモ』でその通称を名乗るのはこの男――しんかいこうただ一人であった。

 青コーナー側の花道ランウェイを進む新貝の対戦者は、ギリシャ出身うまれの選手――ライサンダー・カツォポリスだ。『パンクラチオン』と呼ばれる古代ギリシャ由来の格闘術を修めており、前身団体バイオスピリッツの頃から日本MMAのリングに上がってきた古豪ベテランである。


「古代ギリシャの時代から一家の大黒柱は家族を守る為に闘ってきた! 伝説に名を残す哲学者の皆サマも筋肉マッスル言語ことばに換えてきたのだ! 大事な一人娘が大学を卒業するその日までお父さんファイターは不況にだって負けない! ライサンダー・カツォポリスッ!」


 ゆったりとしたどう――パンクラチオン選手が用いる民族衣装――に包まれた肉体は、逞しさを表すかのように浅黒く日に焼けている。これについて仲原アナは「パルテノン神殿での過酷な修行の日々が偲ばれる」と、誇張とも真実とも判別しにくいことを語った。

 花道ランウェイに整列する選手たちは必然的に一階南側の特設ステージを仰ぐ形となる。『かいおう』から見下ろされる状況は、その海賊船が絶対王者の玉座であることを強調しているのだ。これほど闘争心を刺激される演出もないだろう。

 新貝士行とライサンダー・カツォポリスはで対戦することになっている。

 観客たちの期待に応えるよう『天叢雲アメノムラクモ』ただ一人のシューターが両拳を突き上げ、客席を沸かせた直後にリングサイドの特等VIP席で一つの珍事が起こった。VV・アシュフォードのに腰掛け、一言も発することなく開会式オープニングセレモニーを見据えていた人物が後方うしろの席の迷惑も省みずに立ち上がったのだ。

 飯坂稟叶ローカルアイドルを行った直後に鬼貫道明が解説席から視線を巡らせ、を主導してリングから戻ってきた樋口郁郎が手を振った相手とも言い換えられる。

 MMA興行イベントには余りにも不似合いで奇怪な装いであった為、その後方うしろに座った人々は邪魔と思いながら注意も舌打ちも躊躇っていた。

 焦茶色の僧衣を纏い、帯の代わりとして古い縄を締めるという風変わりな仏僧だ。木を削り出して拵えた菱形の玉を束ねた大数珠も右肩から襷掛けに帯びている。

 耐え難い衝動が全身を駆け抜けたのであろうか、僧衣と同色の布でもって頭部あたまを覆っていたが、椅子から立ち上がった際にこれを引き剥がした。

 皮膚が剥き出しとなった頭部あたまには横に走るきずあとが無数に刻まれており、まるで大きな螺旋でも描いているようであった。えて残したものとおぼしきもみあげは人並み外れて豊かであった。プロペラの先端としかたとえようのない形で横に飛び出しているのだ。模様の如く入り混じった白い筋は、この仏僧が壮年の範囲に入らないことを表している。

 イズリアルに促されて椅子に座り直したが、猛禽類の如き双眸は花道ランウェイに立つ新貝士行シューターただ一人を見据えていた。


「――つまるところ、八雲岳ガク・ヤクモのテンションが異常に高い理由ワケだな」


 『NSB』の一員として団体代表イズリアル・モニワに帯同する奇妙な仏僧を窺い、白コーナー側の花道ランウェイに立つ新貝士行シューターに目を転じたザイフェルト家の御曹司は、その状態を維持したまま右隣に腰掛けるストラールとマフダレーナに一つの答え合わせを求めた。


「憧れの恩人ひとの目の前で養子がプロデビューするのだから、張り切るのは当然ね。昨日のイベントでさえ血管が切れそうな様子だったのに、ヴァルチャーマスク本人が会場に居る今日はどうなるのかしら……」

「レーナの薬草魔術で昂奮を鎮められるのではないかな。……いや、八雲岳ガク・ヤクモも自分の試合もあるのだから、は『天叢雲アメノムラクモ』のルールにも抵触するか」


 そのように頷き返した二人も、くだんの仏僧がニューヨークのリトル・トーキョーから訪れたことを把握していた。正確に言えば、イズリアル・モニワの要請に応じてアメリカ最大の日本人街に所在する寺院から足を運んだのである。

 その仏僧はかつてハゲワシのプロレスマスクを被っていた。『しゅういん』――法体となった現在いまはそのように号し、『NSB』では別の通称リングネームも用いているが、日本のリングに立っていた頃には『ヴァルチャーマスク』と称していた。

 『鬼の遺伝子』として異種格闘技戦の先陣に立ち、『とうきょく』の理論を完成させ、一九九七年一〇月に日本総合格闘技MMAの第一歩を踏み出した伝説の男であった。

 名前も出で立ちも大きく変わったものの、日本MMAの生みの親である事実は決して揺るがない――『かいおう』にも比肩する人物が岩手興行に現れたのはイズリアル・モニワの策略である。

 日本格闘技界に君臨する〝暴君〟は『NSB』による〝内政干渉〟を阻むべくメインスポンサーの威光をもってして牽制を仕掛けてきた。『ハルトマン・プロダクツ』は世界最大のスポーツメーカーなのだ。

 この動向うごきを事前に察知したイズリアルは、対抗策としてかつてヴァルチャーマスクと呼ばれた男に同行を依頼したのである。リトル・トーキョーの仏僧でありながら『NSB』の興行イベントに出場する〝現役〟のMMA選手であり、また上級顧問の立場で団体の運営にも携わっている。今回の臨時視察へ加わることに差し障りもなかった。

 今のところは樋口郁郎も意に介していない様子であるが、その胸中は穏やかであるはずもない。そもそもヴァルチャーマスクは彼が師匠として敬愛し続けるくにたちいちばんが生み出した代表的な〝キャラクター〟なのである。

 未だにくにたちいちばんの呪いから解放されない――と、樋口郁郎はイズリアル・モニワから見做されている。ヴァルチャーマスクとの再会は、これに勝るものがないほど強烈な牽制となるだろう。

 大晦日の夜に地上波三局で興行イベントが生中継される黄金時代を築きながらも、『天叢雲アメノムラクモ』の前身団体は反社会的勢力ヤクザとの繋がりが暴かれたことで崩壊し、連鎖的にMMAそのものが日本で衰退した――ヴァルチャーマスクは、その大罪を背負う者の名でもあった。

 その一方、八雲岳には全く異なる意味を持つ。『天叢雲アメノムラクモ』の統括本部長はヴァルチャーマスクに憧れて彼の所属先である『新鬼道プロレス』の門を叩き、〝道〟をたがえた現在いまも実の兄の如く慕い続けているのである。


(……自分の生み出した〝道〟を継いでくれた人間が善からぬ意思の餌食になろうとしているんだ。黙って見ていられるはずもない。……いつかの父上を想い出してしまうな)


 親友ギュンターが見据える先に自らも視線を巡らせたストラールは、かつてヴァルチャーマスクと呼ばれた仏僧が周囲まわりの迷惑も省みずに立ち上がってしまった理由を推し量った。当人に確認することは憚ったが、大きく間違ってはいないと確信している。

 場内ではメインテーマを背にして選手入場が続いている。この曲はハードロックのように荒々しい前半部と、種々様々な弦楽器と打楽器による激烈な重奏という後半部に大きく構成が分かれていた。

 規模によっては二〇人を超える選手が出場する為、個々の紹介も数分で完了することは有り得ない。岩手興行の場合は全一〇試合の内、第一試合から第五試合はメインテーマの前半部が、第六試合から第一〇試合ファイナルは後半部が、それぞれ繰り返し再生されるのだ。

 には興行イベントける重要度が端的に表れている。例えばイズリアル・モニワが率いる『NSB』では注目度の高い試合を興行イベントの後半に配置し、これを『メインカード』と呼んでいた。弦楽器と打楽器が暴風雨の如く荒れ狂う現在は『天叢雲アメノムラクモ』にける〝目玉メインカード〟を披露している最中というわけだ。

 第七試合で青コーナーからリングに上がる選手――『』の名を呼ぶ巻き舌に鼓膜を突き刺されたストラールは「こんなところまで過剰にしなくても良いのに」と苦笑いを浮かべた。

 尤も、はメインテーマによる過剰な〝演出〟や、日本MMAの〝名物〟である巻き舌への反応ではない。ストラールは『』という通称リングネームに違和感を覚えたのである。

 ギリシャ文字を思い起こさせる通称リングネームとは裏腹に、どこからどう見ても日本人なのだ。肩の辺りで切り揃えた髪の先を三つ編みにしており、格闘技とは距離を置いていそうにも見える生真面目そうな面持ちの女性であった。

 仲原アナが添えた説明によれば、そのは『天叢雲アメノムラクモ』に吸収合併されるまで日本最大の女子MMA団体であった『メアズ・レイグ』が最後に招き入れた新人選手ルーキーであるという。契約直後に現在の所属先へ移籍する状況に陥ったわけだ。


「……『メアズ・レイグ』に対するグチの仕打ちは振り返るだけでも腹立たしいわね。買収工作の悪質さは勿論、団体を率いていた倉持有理紗アリサ・クラモチへのはどうあっても見過ごせないもの」

「レーナの怒りは、私の怒りにも等しいよ。倉持有理紗アリサ・クラモチはせめて副代表として招くべきなのに、そうした礼節を尽くさないどころか、主催団体サムライ・アスレチックス内部なかでさえ冷遇に近いと聞く」

「あの選手も倉持有理紗アリサ・クラモチへの恩義さえなかったなら、とっくに他団体へ移籍うつっていたはずよ。本間愛染アイゼン・ホンマと入れ替わりで『NSB』に流出ながれたかも知れないわ。……ひょっとすると、その動向うごきすらグチが策略で封じ込めたのかも……」

「今し方の言葉を少し訂正させて貰うよ、レーナ。倉持有理紗アリサ・クラモチこそ『天叢雲アメノムラクモ』代表の座に就くべきだった。日本にMMAという〝文化〟を甦らせるという大目的のもと、テレビ放送への復帰といった具体策を示せるような人がリーダーシップを発揮できない今の状況は不幸としか言いようがない」


 人材ひとを使い捨ての道具として弄ぶ〝暴君〟は団体代表の資格にあらず――『メアズ・レイグ』を巡る一件を挟んで〝暴君〟への憤りを更に膨らませていく『格闘技の聖家族』の御曹司は、第一試合を引き受ける二人の選手――キリサメ・アマカザリとじょうわたマッチの姿が花道ランウェイにないことを気にも留めていなかった。

 やがては『四天王』の呼び名で共に称されることになり、自身にとって掛けがえのない存在となるキリサメも、このときのストラールにはおぼえておくだけの値打ちもない他人に過ぎなかった。



                     *



 八雲岳選手は第一試合でキリサメ・アマカザリ選手のセコンドに付くことになっております――仲原アナによる説明を岳本人は白コーナー側の控室で聞いていた。

 選手入場を呼び掛ける号令など、メインアリーナに響き渡る大音声は事前に録音を済ませておいたものなのだ。

 隣には『八雲道場』と筆字で書き込まれたシャツに身を包む麦泉の姿もある。スラックスを穿いた麦泉とジャージの岳という差異ちがいは、そのまま両者の〝立場〟を表しているようであった。

 麦泉は大きな手提げバッグを携えているが、この中にはスポーツドリンクや止血剤など試合に欠かせない様々な用品が納められている。

 一方の岳は勝敗を決するほど重要な意味を持つタオルを首に引っ掛けていた。万が一にもこれをリング内へ投げ込む事態にはならないだろうと彼一人は疑っていないが、余人には自信の根拠が分からない。

 仲原アナが説明した通り、間もなく開始される第一試合でセコンドを務める為、二人はようやく大盛り上がりとなってきた会場ではなくに控えているわけだ。

 そして、その二人の目の前には、今まさに初陣の支度を終えようとするキリサメ・アマカザリが立っていた。


「……僕なんかの所為せいで貴重な時間を取られてしまって、本当にすみません……」

「そんなに気を遣わなくても良いんだよ? 違和感のないよう着こなしを調節するのも開発者の責任なんだよ。つまり、仕事の一環。仕事で妥協したくない私の我が儘に突き合わせて、逆に申し訳ないくらいさ」

「いえ、そんな……。ただ、を睡眠にてたほうが身体からだに良いのではないかと」

「大丈夫。普段よりカフェインの摂取量を増やしているから。別に抱えている仕事も新幹線の移動中に進められたし、寧ろ時間を有効活用させて貰っているよ。仕事を中途半端で投げっぱなしにするほうが私には毒なんだ」


 キリサメがこうべを垂れた相手は、この場に居るはずのない人間であった。少なくとも彼は来訪の可能性すらしらされていなかった。

 たねざきいっさく――グレーのタートルネックに黒いジーンズを組み合わせた五〇代半ばの男性は現代日本を代表するデザイナーであり、『キリサメ・デニム』と総称されるキリサメの試合着を〝開発〟した人間である。

 彼のアトリエで初めて顔を合わせたときと同じように、目の下には真っ黒な隈がある。

 昨夜の睡眠時間を確かめるのが恐ろしいということは、一日のスケジュールが殺人的に過密という意味である。種崎は『人物デザイン』などの役職で数多の映像作品・舞台劇に携わっているのだ。

 それにも関わらず、試合着の調節を行うべく岩手興行の会場まで駆け付けたのである。何事にも無感情なキリサメだが、ここまでたすけてくれる種崎には幾度もこうべを垂れていた。

 そのキリサメは準備運動ウォーミングアップのときに着ていたジャージからMMA選手としての試合着に替わっている。

 故郷ペルーで暮らしていた頃と同じ袖が擦り切れた紺色のシャツを着込み、裾をズボンの中には入れていない。

 長めの髪をセンターで分けた丸顔に横線二本で眉毛と口、縦線一本で鼻筋を描き、左の下唇と右の上唇にそれぞれ一つずつホクロを置くことで完成される『かねしげ』というキャラクターがシャツの左胸に刷り込まれている。

 大きく膨らんだ裾を足首の辺りで縛ってあるデニムのズボンは、〝この日〟の為に新たに仕立てられた物である。股下から裾に掛けて幅広でゆったりとしているこそが『キリサメ・デニム』なのだ。

 その名の通り、デニム生地を用いて特別に誂えた物であった。MMAの試合にデニム生地のズボンを用いるという発想自体が前代未聞だが、これは奇抜さや見映えを目的とした衣装ではなく、あくまでも『天叢雲アメノムラクモ』のリングで闘う為に仕立てられたである。

 腰には互いに絡み合わせるような形で三本の布切れを帯の如く締め込んでいる。先端が笹の葉のように尖っており、斜めの切れ込みが幾つも入っている。風になびくと南国の空を飛び交う鳥の尾羽根のように舞い踊る仕掛けなのだ。

 この奇抜な飾りはキリサメの臀部を覆うように五枚ばかり垂らされている。中央の物が最も大振りで、左右の四枚は外側へ向かうほど徐々に丈が短くなっていくのだ。広がる前の孔雀の尾羽根とも思える輪郭シルエットを描いていた。

 中央の物は最も長い。先に巻いた布切れとも絡めながら正面まで引き戻し、ヘソの辺りで輪を作って小さく縛る。尾羽根の反対側は幅が広く角張った形状であり、これを帯状に引き締めた布の後ろから潜らせて結び目を覆うように垂らす――そこにはキリサメ・アマカザリという名前フルネームが所属先の『八雲道場』と共に赤い色糸で刺繍されていた。

 名前の真上には尾羽根にも負けないくらい不思議な紋様があった。大きく開いた両足を踏ん張り、何かを支えるように両腕を突き上げる人間を模った赤い刺繍である。意匠を描き起こした岳が言うにはMMAの戦場リングで力闘する養子キリサメをイメージしているそうだ。複雑に折れ曲がった針金が四肢で、この真上に浮かぶ球体が頭部であるらしい。

 中央の帯は赤い刺繍が映えるよう白い生地であつらえてあるが、左右二枚ずつの尾羽根は緑色に染めてあった。尤も、目を凝らさないと判らないくらい薄く、ほんの少し光を吸い込むだけで真ん中の尾羽根と見分けが付かなくなってしまう。

 地球の裏側から格闘家としての経歴キャリアも持たずに『天叢雲アメノムラクモ』のリングへやって来たキリサメは日本MMAにとって未知なる存在であり、その幻想性を純白とも薄緑とも判らない尾羽根によって際立たせる――と、種崎は解説していた。


「腰回りが窮屈だったら遠慮しないで言って欲しい。何しろ肉体的な負荷はここが一番といって良いくらい大きいし、激しい動作うごきの中で腹筋が引き攣ったら本末転倒だ」

「そう……ですね。逆に今は少しだけ緩く感じるかも知れないです。気にしなければどうにも思わない程度ですが、試合中に帯がほどけたら――と、気にならなくもないですね。結び目は固いハズだから、本当にバラバラにはならないでしょうけど……」

「そういう小さな違和感の解消が私の仕事というワケさ。持てる力の全て引き出して貰う為の試合着ユニフォームで、逆に本来の動きを抑え込んでしまったら〝プロ〟失格だよ。アマカザリ君に〝プロ〟としての仕事をして貰う――その責任までひっくるめて〝仕事〟なのさ」


 三本の帯の締め込みを種崎は非常に気にしており、肉体からだに掛かる負担の度合いをキリサメから何度となく聞き取り、細かな調整を施し続けている。

 映像作品や舞台劇の仕事を請け負う際にはただデザインを作るだけではない。現場にも待機し、美容界で養われた技術と感性で微調整を繰り返してを完成させていくという。役者の前髪の長さまで観察してミリ単位で切り揃えるそうだ。

 扮装のデザインと役者の感覚を極めて深い領域で結び付けようという工夫であった。初めて挨拶を交わした日に聞かされた説明ことばは理解できなかったが、完成した試合着を纏った瞬間にキリサメは全てをしたのである。身体機能そのものを未体験の感覚にまで引き上げる物であった。

 股下から裾に掛けて大きな空洞となっている為、関節の可動域が制限されない。これによって何も穿いていないかのように両足も動かし易かった。強度と柔軟性を保ちながらも厚過ぎず薄過ぎず、汗を吸い込んでも皮膚に張り付いて四肢の動きを妨げることがない。その上で軽量であることも必須――全ての条件を満たす生地が選ばれたのだ。

 故郷ペルーの頃から使い続けてきた紺色のシャツを『天叢雲アメノムラクモ』のリングでも着用することにこだわったのも種崎である。彼の熱意に打たれて首を頷かせていなかったらズボンと共に新しい上着でも新調したことだろう。

 これは乾いた大地から吹き付ける砂塵と、血溜まりの底より飛び散った汚泥を同時に浴びる闘いで身に着けていた物である。

 喧嘩殺法が編み出される過程でおびただしい量の返り血を吸い込んだシャツこそが己の原点ルーツと意識し、闘争心を昂らせていく――命を遣り取りする〝場〟へと感覚を溶け込ませ、全身のあらゆる神経を研ぎ澄ませるには死の香りが最も強い物こそ相応しかろうと種崎は考えたのだった。

 記憶の底をまさぐられるようであるが、『聖剣エクセルシス』と同じくらい血を吸わせたシャツを着ると陽の光も満足に差し込まない『非合法街区バリアーダス』の路地裏へ感覚が巻き戻っていく。それこそ血塗られた幻像まぼろしが浮かび上がっても不思議ではないのだ。

 全てが種崎の計算であった。手ずから作り上げたで飾り立てるのではなく、〝デザイン〟の対象となる人物の感覚に合致し、潜在能力ポテンシャルを引き出し得る物を選んでいる。何かを身に着けた際に関節の可動域へ生じる微妙な感覚まで考え抜いていた。

 〝実戦〟という点を踏まえても試合着一揃いは合理性の結晶であった。


「おうおうおうおうッ! 最高の仕上がりじゃねぇか、キリーッ! 『ザキ』を見込んだオレの目に狂いはなかったろ⁉ いやぁ~、想像以上にキマッたじゃねーかッ! ペルーの空を翔けるあの日の姿が究極進化したカンジだぜッ! なぁッ⁉」

「そこで同意を求められても困りますよ。それより種崎氏を気安く呼び付けるのは如何なものでしょうか。『ザキ』って……。勿論、種崎氏にお願いして良かったというのは間違いありません。だからこそ失礼ですよ」

「ひょっとして、キリサメ君の中では養父センパイよりも種崎さんのほうがが〝上〟だったりするのかな?」

「ひょっとしてなくても、ここ最近では麦泉氏の仰る通りですよ。正直、御剣氏と競っているくらいです」

「あっ! それなら別に深刻にアタマ抱える必要もねぇな! 恭路っつったらお前、電知や寅之助、それに沙門辺りと同じキリーの親友マブダチだもんよ! 友達みたいな感覚のお父ちゃんも捨てたモンじゃないぜッ!」

「……今、センパイが挙げた人たちの内、御剣さんだけがキリサメ君から下の名前で呼ばれていない現実をもっと深刻に受け止めたほうが良いですよ……」


 スポーツ用品の専門家ではなく映像や舞台の世界で活躍する〝デザイナー〟に試合着の〝開発〟を依頼するという八雲岳の発想は、を纏えば理解できるのだった。

 以前に種崎は「五本の長い尾羽根はただの装飾かざりではなく武器としても利用できる」と仄めかしていた。確かに地面へ組み敷いた相手の首に巻き付け、頸動脈を絞めることも可能である。状況に即して変化する喧嘩殺法との相性も悪くないだろう。


(……返す返すも寅之助が控室ここに居なくて助かったな。さすがに現在いまはアイツの皮肉を聞いてはいられない)


 身辺警護ボディーガードとして入場口まで同行するはずであったとらすけは、正面玄関エントランスで発生した揉め事の解決を依頼された未稲に同行し、それ以来、選手控室に戻ってこなかった。おそらくはそのまま自分に割り当てられたリングサイドの席に向かったのであろう。

 甚だ無責任であるが、酷く気まぐれな寅之助になど誰も最初から期待はしていない。そもそも警備員が普段よりも遥かに多く配置されている岩手興行は、からの侵入者に怯える理由も皆無に等しいのだ。

 キリサメからすれば、現在いまだけは寅之助不在のほうが都合が良かった。おそらくは試合着を一つ一つ徹底的に冷やかし続けるはずだ。

 のうろうこうどうかんを創設して間もなくの黎明期のじゅうどうを再現し、これを日常的に着用しているでんが身近に居るだけでなく、全米にもその名を轟かせた日本史上最強の剣士――森寅雄タイガー・モリ直系の道場に生をけた寅之助自身も一日に一度はけんどうを纏っている。

 武道と共に生まれ育った寅之助の目にくだんの試合着が滑稽に見えないわけがあるまい。


「……気にし始めるとキリがなくなるのですが、股間に装着けたこの防具プロテクター……、これだけはどうしても慣れる気がしません」

「ズボンを仕立てるときには防具プロテクターの厚みや股関節の影響も計算に入れてはいたのだけど、とりわけ敏感な部分に密着する物だからねぇ。これから試合経験を重ねる中で違和感との付き合い方も覚えていくんじゃないかな」

「そう願いたいものです。……二重に下着を穿いているみたいな感覚なんだよなぁ」


 は『ファウルカップ』と呼称される競技用の防具プロテクターの一つである。キリサメが小首を傾げながら述べた通り、ズボンの下に装着して股間を防護する物であった。

 性別に関わらず、神経が集中する股間は人体急所であり、故意ではない接触であっても極めて深刻な事故に発展し兼ねない。この危険を回避するファウルカップは、総合格闘技MMAのみならずボクシングや野球など様々なスポーツで用いられているのだが、穿き慣れるまで暫くは強烈な違和感に悩まされるのだった。

 〝実戦〟そのものは他の選手に劣らないほど経験しているものの、キリサメは一度たりとも防具の類いを使ったことがない。ファウルカップを手渡された瞬間には比喩でなく本当に目を丸くしており、下肢の可動うごきを妨げ兼ねない圧迫感は、これから臨むデビュー戦の間には解消されないだろう。

 そのファウルカップよりもキリサメが気になって仕方がないのは、デニムのズボンの両裾を縛った丸紐である。

 尾羽根を除けば落ち着いた色合いで揃えられた試合着の中で、その丸紐は一番といって良いほど目を引いていた。灼熱の太陽を彷彿とさせる橙色の頑丈な紐に色とりどりの菱形模様が浮かび上がっているのだ。

 アンデス山中のチチカカ湖に浮かぶタキーレ島で編み上げられた伝統工芸品である。内側を通すようにして裾を固定する丸紐にはキリサメの出自をさりげなく強調しようという狙いも含まれており、種崎がわざわざペルーから取り寄せていた。

 機能美と様式美の融合であろうが、同じペルーといってもキリサメが生まれ育った首都リマとチチカカ湖は遠く離れており、その地の伝統工芸など縁もゆかりもない品である。タキーレという島の名前すら聞いたおぼえがないくらいなのだ。

 故郷ペルーに由来する品が最も強い違和感を生み出しているわけだが、種崎の思いを蔑ろにするのはキリサメも望むところではなく、えて修正も求めなかった。


「キリーの勇姿を一刻も早く見せてやりてぇな! ああ、見せつけてやりてぇよ! オレはもう待ち切れねぇんだぜ⁉ 向こうも感動で咽び泣くんじゃねぇかな⁉ 理屈っぽい人だけど、案外、ロマンチストなトコもあンだよなァ! 自分の頑張りが実を結んだっつう夢の結晶を次世代の選手が――キリーが見せてくれるんだからよォ! こんなに燃えるコトをオレは……オレたちは他に知らねェッ!」

「そう……ですね。みーちゃんはきっと喜んでくれますよ。僕にはそれだけでも過分なくらいです。試合が始まる前にはとうとう会えませんでしたし……」


 未稲だけでなく哀川神通も自分の闘いを喜んでくれると思いはしたが、そちらはえて口にしなかった。

 『天叢雲アメノムラクモ』と敵対関係にあり、前回興行の際には試合を終えた直後の希更・バロッサを襲撃した地下格闘技アンダーグラウンド団体『E・Gイラプション・ゲーム』が哀川神通の所属先である。それ故に麦泉の前で話せなかったというよりは、気恥ずかしさがキリサメを躊躇ためらわせていた。

 神通のスカートが捲れ上がった瞬間に目撃してしまった純白の褌はまたしてもキリサメを身悶えさせているが、現在いまはその身に殺傷ひとごろしの技を宿したという〝共鳴〟こそが最も大きく心を揺さぶっていた。


「未稲ェ? そこで何でアイツが出てくるんだよ? 来てるんだよ! ここに! この日本に! 鬼貫道明に勝るとも劣らねェ伝説のレスラーがよォッ! キリー、お前が生まれた一九九七年に日本でMMAの扉を開いた伝説レジェンドがついに……ッ! ヴァ――」


 昨日から今日まで限界を突き抜けて昂揚し続ける岳は、いよいよ養子キリサメの理解力を超えてしまっている。何時にも増して意味不明なことを並べ立てていたが、〝何事か〟を口にしようとする寸前で麦泉に左の五指で顔面を掴まれ、『ヴァ』という悲鳴と共に身体ごと宙に持ち上げられた。

 麦泉文多もまた鬼貫道明のもとに集い、異種格闘技戦に挑んだ『鬼の遺伝子』の一人である。試合中の負傷が原因となって肩より上まで右腕を持ち上げられず、若くして現役を退かざるを得なくなった――と、キリサメも聞いている。

 後遺症のない左手で岳の顔面を捉えたわけだが、現役引退から長い歳月が経とうとも根本の部分ではプロレスラーでり続けているのだろう。麦泉が繰り出したのは『アイアンクロー』と呼ばれる技である。岳の両足は逼迫した調子で前後左右に動き回っているが、地面から完全に浮き上がっている為、抵抗にも反撃にもならなかった。


「分かったから! ェの役目は分かってっから! だから文多、勘弁~ッ!」


 岳は新人選手キリサメ・アマカザリのMMAデビューに歓喜する人物を挙げるつもりだったようで、おそらくは『ヴァ』の二字に続く言葉に何らかの手掛かりがあったはずだ。尤も、現在いまは無言でアイアンクローを維持し続ける麦泉に許しを請う悲鳴だけが大きな口から零れていた。

 傍目には場外乱闘さながらの様相と見えるはずだが、種崎一作はキリサメの試合着から離した手を軽快に打ち鳴らしていた。岳のこめかみにめり込んだ麦泉の左指を興味深そうに凝視しており、あるいは創作活動の参考にしようと考えているのかも知れない。


「ア、アマカザリ選手、そろそろ入場口までよろしくお願いします。統括本部長はよろしくお願いしても大丈夫なんでしょうか」


 出場選手たちが花道ランウェイに整列し、個々の紹介が終わるとただちに第一試合――即ち、キリサメのデビュー戦へ移行することになっている。それが間近に迫っていることを伝え、然るべき場所に誘導するべく選手控室に駆け込んできたスタッフがこの場の誰よりも統括本部長の有り様に仰天していた。


「さぁ、いよいよ晴れの舞台だね。私は控室ここで朗報を待つとするよ。必ず帰還かえってくる場所に一人くらい〝出迎え〟が居たほうが安心するんじゃないかなって思うしさ」


 種崎はこのまま選手控室に残り、メインアリーナの様子を映し出す液晶モニターでキリサメのデビュー戦を見守るという。

 観客席は既に完売しているものの、記者プレス席には椅子を用意できるという主催企業サムライ・アスレチックスの申し出も「私自身、出しゃばる〝裏方〟は好きじゃないんですよ」として種崎は断っていた。

 もまた種崎一作という〝プロ〟の矜持なのであろう。


「帯がほどけそうになったらすぐに呼んでくれ。セコンドには付けないけど、速攻で対応できるように支度してあるから」

「ありがとうございます。このままだと、セコンドの枠が一人分空きそうですが……」

「試合着は遠慮なくガンガン汚して欲しいかな。『キリサメ・デニム』が破れてしまっても〝次〟の試合までには修繕してみせるよ。ほつれも色褪せも、全部がアマカザリ君の歴史として残っていくんだ。歳月と共に積み重なる想い出が必ずキミを強くしてくれる」

「種崎氏の期待に応えたいと思います。そのつもりですが、後方うしろで、あの……」


 種崎一作から握手と共に激励を受けるキリサメであったが、彼の肩越しに見える養父は両足が止まり、全身が小刻みに痙攣しているようだ。そちらに気を取られてしまい、今後の指針にもなり得るほど含蓄に富んだ助言アドバイスが半分も頭に入らなかった。

 MMAの試合着を〝開発〟するという過去に経験のない仕事が節目を迎え、緊張が少しばかり緩んだのであろう。寝不足の種崎は大きな欠伸を一つ挟んだ。そののちにもキリサメの肩を叩いて健闘を祈ったが、押し付けがましい言葉だけは決して選ばなかった。

 代わりに種崎は「選手控室ここで帰りを待っている」と優しい声で何度もキリサメに語り掛けた。あるいは場内の席を断ったのかも知れない。



 壁掛け時計は短針が一六時を、長針が二〇分をそれぞれ指し示している。岩手興行に出場する選手の紹介は第一〇試合ファイナルに至り、『かいおう』復活の儀式を完成させる生贄と目された男の名前が見事な巻き舌で呼ばれ、その経歴を仲原アナが言い添えた。

 最終盤を迎えた開会式オープニングセレモニーの熱量が灼熱の如く高まっていることは、扉一枚を挟んだ裏舞台――通路にまで伝わってくる。には場内の様子を映す小型モニターも設置されていたが、映像に頼るまでもなかった。


「しっかし、樋口の野郎も思い切ったコトをしやがるよなァ。脅迫事件を逆手に取っての新人発掘なんてよォ。つーか、例のアイドルグループが出演れなくなった理由、思ってた以上に厄介だったんだな。文多は聞いてたのか、脅迫のこと」

「……一応は把握していました。ただそれを〝盛り上げ〟みたいに解釈できるセンパイの脳内はかなり意味不明ですけど……。『ウォースパイト運動』の動向うごきが読めない時期に、どうして今まで黙っていたんだって怒鳴られるのを覚悟していましたよ、僕」

「樋口に口止めされてたんだろ? 今日のサプライズの為によ! ~ってるって!」

「物事をそこまで単純シンプルに考えられるセンパイのことが僕はたまにどうしようもなく羨ましいですよ。このストレス社会を誰よりもタフに生きてる感じが……」

「しかし、そうか――キリーは早くも後輩持ちになんのか! こりゃあ、ますます気合い入れて行かねぇとだな! なァ、キリー⁉ お前が今日、踏み出す第一歩は後から追い掛けてくるヤツにとって未来の道なんだ! カッコ悪ィトコは見せらんねぇぞ~ッ!」

「……すみません。聞いてませんでした……」


 スタッフの誘導を受けて白コーナー側の花道ランウェイへと続く入場口の前に立ち、養父の手で試合用の指貫オープン・フィンガーグローブが装着されていくキリサメは、『天叢雲アメノムラクモ』のルールを脳内にて復唱し続けていた。

 何事にも無感情なキリサメであるが、多くの課題と不安を抱えたまま臨むことになった初陣にはさすがに浮足立っているのだ。無論、真っ当な作戦を立てず、一方的に奇妙な指示を飛ばした岳もまた動揺の原因である。


(……やプロレスを手本に危険な技をフェイントに使えって岳氏は言ったけど、そもそも反則の線引きが分からないんだよ。目突きがアウトってコトくらいしか……)


 間もなくキリサメの両拳が指貫オープン・フィンガーグローブで包まれた。改めてつまびらかとするまでもなく、入場するコーナーと同様に叢雲くもの色を映した物である。手首の部分にはMMAに要する様々な用品も提供しているメインスポンサー『ハルトマン・プロダクツ』の名称も刷り込まれていた。

 その日を食い繋ぐ為だけに血と罪にけがれてきたキリサメの手が〝格闘競技〟のグローブで包まれていた。内側に仕込まれた厚みのあるクッション材によって接触時の衝撃が吸収され、殴る側の拳と対戦相手の肉体からだを安全に防護してくれることだろう。


「キリサメ君のことを『ケツァールの化身』って呼ぶ人も随分と増えてきたみたいだね」

「……『ケツァールの化身』……?」


 現在いまのキリサメを日本中近世の武者にたとえるならば、鎧兜で全身を固め、太刀もいた状態である――いざ出陣の支度が全て整った状態にも関わらず、どこか心が定まっていない様子の新人選手ルーキーに向かって、麦泉は他愛もない世間話を始めた。

 師匠の立場からIT社会にける情報戦を未稲に伝授し、また『天叢雲アメノムラクモ』の広報戦略を一手に引き受けているいまふくナオリや、彼女の本来の所属先である格闘技雑誌パンチアウト・マガジン――現在は主催企業に出向――の取材を受けた際、試合着一揃いを身に付けて写真も撮影したのだが、これが公開されるや否や、中米に生息する鳥にちなんだ愛称ニックネームが|SNSなどで飛び交い始めたというのだ。

 漫画家の神様と謳われるづかおさが名作『火の鳥』を描く際のモデルにしたと伝わる世界で最も美しき鳥――それがケツァールである。


「北海道のローカル局が制作つくったバラエティー番組でしか僕は観たことがないんだけど、ケツァールって尾羽根が物凄く長いじゃないか。キリサメ君が腰に巻いた布をその鳥に重ねた愛称――というか、通称だね。広く知らしめた仕掛け人は今福さんなんだよ」

「やっぱりあの人か……。どこかで訂正したほうが良いんでしょうか。はケツァールじゃなくてハチドリをイメージしてるんだって。……いえ、僕だってそんな主張したくもありませんけど……」

「そうしたら、今度は『ハチドリの化身』って呼ばれるだけだと思うなぁ」

「それはそれで癪ですね……」


 広報活動に用いる宣伝素材として写真やインタビューを収録した際には、未稲とひろたかの実母であり、『天叢雲アメノムラクモ』で使用される動画ビデオの全てを手掛ける映像作家――表木嶺子も同席したのだが、尾羽根の如き輪郭を『ケツァールの化身』と冷やかしていたのである。

 取材を担当した今福ナオリも嶺子の発想を愉快と笑っていたが、思考や発言が数分おきに変わってしまう人々にいていけないキリサメは、その場限りの冗談に過ぎないのであろうと聞き流したのだ。本当にイメージ戦略として利用されたことは〝青天の霹靂〟としか表しようがなく、二人を止めなかった己の迂闊さを心底から呪った。


(……あの神父パードレと繋がってしまう中米との接点なんて、『聖剣エクセルシス』だけで十分なのに……)


 そもそもケツァールは中米・コスタリカへ棲息しているのだから、ペルーとさえ無関係なのだ。この世のものとは思えない美しさから〝幻の鳥〟と謳われていることはキリサメも知っていたが、少なくとも故郷での目撃例など聞いたおぼえがない。


「ケツァールはペルーと何一つとしてカスッていない国の鳥なのに、誰一人としてその誤りを指摘しないんでしょうか。僕はみーちゃんみたいに詳しくないのですけど、インターネットってそういうものなのでしょうか」

「僕も人のことは言えないけど、〝中南米〟で一括りにされちゃったんじゃないかなぁ。ネットの情報なんて半分以上が無責任だからね。裏付けなんかしないで、何でもかんでも思い込みで話が膨らんでいくものさ」

「それについては、……寅之助との一件で思い知らされました」


 麦泉から〝プロ〟としての自覚を厳しく追及された日のことを想い出したキリサメは、苦笑いと共に右の人差し指で頬を掻いた。

 その様子を見て取った麦泉は満足そうに首を頷かせている。心身とも異常なほど張り詰めている新人選手ルーキーの気持ちを和らげようと、世間話でもって寄り添っていたのである。格闘技にけるセコンドの役割とは、補佐サポートだけではないのだ。

 尤も、二人の雑談を隣で聞いていた岳はその内容に不満を募らせていたらしく、「闘魂に火が入るようなコトを語らおうぜェ!」と子どものように両頬を膨らませていた。


「鳥は鳥でも荒々しい猛禽類! 超次元の空中殺法は全人類の憧れだろ⁉ キリー、お前が拳に嵌めてンのは何だ? おうとも指貫オープン・フィンガーグローブ! 『NSB』のヤツらも飛び付いてたちまち世界基準! 格闘技を進化に導いた閃きまで空中殺法! MMA選手の〝相棒〟を生み出したヴァ――」


 またしても岳は『ヴァ』という珍妙な二字を吐き出した直後、それから続く全ての言葉を飲み下した。一点のみを見据える視線の先では麦泉が左の五指を鳴らしているのだ。これを視界に捉えた途端に腰が引けてしまい「文多、勘弁ッ!」と悲鳴を上げた。

 出発前の控室で顔面を掴まれたときに極めて近い状況に陥っているわけだが、養子キリサメの側は普段と同じ失言であろうと気にも留めなかった。『ヴァ』の〝先〟も先程より関心が薄れている。


「ケツァールだの何だの、この期に及んでそんなっちぇ話をしたって仕方ねぇじゃん。こんな局面ときだからこそ、元気の出るコトが一番大事なんじゃね~か。『元気があれば何でも出来る』っつーのが鬼貫の兄貴の座右の銘で――」

「センパイは能天気なだけですよね」

「岳氏は黙っててください」

「口を揃えて一喝ぅッ⁉」


 キリサメと麦泉が揃って岳に冷たい視線を浴びせている間、表と裏――二つの〝舞台〟を隔てる扉は、進むべき道へ勇者を導く瞬間を迎えようとしていた。

 トランシーバーでもって青コーナー側の入場口と連絡を取り合っていたスタッフからじょうわたマッチも花道ランウェイへ飛び出していく支度が全て完了したことを告げられた。


「そろそろ……だね。先に城渡さんがコールされる段取りだから、キリサメ君は挑戦者としてリングインするわけだ。……今まで何度もセコンドは担当してきたけど、こんなに緊張するのは久々――いや、もしかすると初めてかも知れないよ」


 麦泉の気配りによってキリサメの緊張も幾らか和らいだが、さりとて気を緩めるわけにはいかない。改めて出撃直前と告げられたキリサメは深呼吸と共に背筋を伸ばした。


(全身を虫が這い回り、胃袋が裏返しになりそうなこの感覚――こんなのは初めてだ)


 総合格闘技MMAという名の表舞台リングへ飛び込む刻限が迫っている。扉を突き破って腸まで伝達つたわる地鳴りの如き大歓声は、まるでキリサメ自身の心臓の鼓動を表しているようだ。

 故郷ペルー非合法街区バリアーダスあるいは裏路地でナイフや拳銃を突き付けられた瞬間にさえ味わったことのない不思議な鼓動がキリサメ・アマカザリという存在の隅々まで満たしていた。

 第一試合の選手は開会式オープニングセレモニーには参加せず、メインアリーナ中央に鎮座するリングへ向かうことになっている。だからこそ、二人のセコンドも最初から随伴している。


「初めて会った日、背中を預け合った戦った日からずっとオレはキリーに惚れ込んでるんだぜ。コイツは本物の〝戦士〟だって魂が震えたもんよ。ペルーの空を翔けるキリーに魅せられて今日まで突っ走ってきたようなもんだな。今日は思う存分、ばたこうぜ! お前の未来はリングにあるッ!」

「心に迷う〝何か〟があるなら、リングに答えを見つけよう! ……キリサメ君はMMA選手だ。これから『天叢雲アメノムラクモ』で生きていく〝プロ〟のMMA選手だ。城渡さんと拳を交えた先に必ず〝何か〟を掴んでいるハズさ!」


 そうしてセコンドの二人が揃ってキリサメの背中を叩いた。

 異種格闘技戦という形でこんにち総合格闘技MMAに繋がる〝道〟を拓き、この日本で格闘家が生きていける〝場〟を作り上げたプロレスラーたちの力は強く、キリサメは勢いに押されてつんのめりそうになってしまった。

 通路に設置されたモニターが場内メインアリーナの映像とも異なる動画ビデオに切り替わったのは、その瞬間のことである。



                     *



 喧嘩は江戸の華――灼熱のいろで浮かび上がった一つの言葉は、江戸時代に描かれた一枚の浮世絵に添えられていた。

 〝火消し〟――現代で言う消防員と力士が集団で乱闘に及んだ事件が題材であり、発生した文化二年(一八〇五年)から二〇〇年余りが経った現代まで『めぐみの喧嘩』として語り継がれている。

 それぞれの陣営に別れた火消しと力士は、梯子や畳など各々が武器になりそうな物を構えて相手に襲い掛かっている。くだんの浮世絵は躍動感に満ち溢れているが、実際にも江戸のはっぴゃくちょうを沸騰させるような大乱闘であった。

 発端こそ些細な諍いであり、小競り合い程度で収まる可能性もあったはずだが、相撲部屋から援軍が駆け付け、火消し側も火の見やぐらはんしょうを打ち鳴らして仲間に集結を呼び掛けたことで乱闘の規模は一気に拡がってしまったのだ。

 町奉行など公権力による仲裁も虚しく大集団がぶつかり合う状況に発展してしまったわけだが、火消しも力士も江戸の庶民には馴染みが深く、自分たちの意地を貫く為に幕府の権威すらさえ撥ね付けた人々は大いに持てはやされた。

 それが証拠に『めぐみの喧嘩』は浮世絵だけでなく歌舞伎の演目にもなっている。

 逮捕者が続出するほどの乱闘に身を投じていった人々は言うに及ばず、流血沙汰に歓声を送ったはっぴゃくちょうの庶民も喧嘩を一種の娯楽として愉しんでいた。荒々しい気風から〝江戸っ子〟は血の気が多いと言われているが、『喧嘩は江戸の華』という穏やかならざる言葉が生まれた理由も『めぐみの喧嘩』に集約されているようであった。

 〝江戸っ子〟と呼ばれる気風の持ち主は意地が強く、その張り合いがくだんの乱闘を一等激化させ、ひいては『喧嘩は江戸の華』とたとえられるようになった。意地を張ることと命を張ることが表裏一体なのである。

 一枚の浮世絵を好例として挙げた〝江戸っ子〟についての解説はなしが「は江戸の特権ではない」という全てを覆す一言で締め括られたのち、〝一般〟には馴染みがない『けん』なる三字が真っ暗闇に灼熱のいろで浮かび上がった。

 次いで二〇一四という年号を表す数字が表れ、更に一年単位で遡っていく。

 日焼けや化粧で顔面を真っ黒に見せる女子高生や、青空の下でアカペラの練習に興じる学生グループなど、数年ごとの流行ブームを切り取った短い映像を幾つも重ねた末、一九九〇年代に至った瞬間に突如として雰囲気が変わった。

 チームの名称なまえなどがあちこちに縫い付けられた特攻服トップクや、派手派手しいスカジャンに身を包んだ暴走族たちが〝ゾク車〟と呼ばれる改造バイクに打ち跨り、爆音を轟かせながら夜の道路を蛇行していく。

 当然ながら道路交通法違反であり、これを取り締まるべく駆け付けた制服警官たちには思わず耳を塞ぎたくなるような怒号を浴びせるのだ。睨み合う内に激情が頂点に達した様子の少年は、逮捕すらも恐れずに「ナメてんじゃねぇぞ、ポリ公がッ!」と喚き散らしながら猛牛の如く突撃していった。

 首都圏の治安を守らんとする警察の奮闘や、彼らを悩ませる凶悪事件を取り上げた二四時間密着型ドキュメンタリー番組の一幕のようであった。

 プライバシーの保護に配慮しているのか、個人が特定されないようモザイク処理が施されていた。その為、警官に掴み掛かった少年の表情かおは全くといって良いほど判らなかったのだが、「ナメんじゃねぇッ!」という怒号が意地を貫き通すことに命を懸ける覚悟から発せられたのは間違いあるまい。

 『昭和』の荒んだ時期に多用された呼び名――〝ツッパリ〟という言葉にも表れている通り、現代の非行少年も意地を張ることに命を懸け、その気風はかつての〝江戸っ子〟にも重なるのだった。

 そして、「は江戸の特権ではない」という先程の言葉が繰り返された。

 『喧嘩師』の本質は意地っ張りなのか――その問い掛けは、潮風に乗って湘南へと辿り着いた。

 一つの仮説として提示されたのは、太腿の部分が異様に広く、裾が細いという変形の黒ズボン――〝ボンタン〟を穿いた不良ツッパリである。裾を短く〝改造〟した学ランを羽織り、股を大きく開くような恰好で腰を落としているのは若き日の城渡マッチであった。

 彼の真隣で同じ姿勢を取り、サングラスの向こうから睨みを利かせているのは、彼の試合ではセコンドにも付く親友のほんまつつよしだ。緑色に染めた髪をホウキさながらに逆立てた彼は、裾が膝まで届くほど長い学ランを着込んでいる。

 都内でも指折りの不良ツッパリが集まるしまじゅうこうぎょうこうこう――通称『シマコー』に通っていた頃の写真である。二〇年近く昔の姿とも言い換えられるだろう。一九九〇年代初頭から二〇一四年現在まで二人はそれぞれ総長・副長として湘南最強の暴走族チームを率いていた。

 カメラ機能内蔵型の携帯電話が開発されるよりも昔のことである。〝縄張り〟――勢力圏を争う他の暴走族チームとの乱闘を記録した写真や動画は残されていないが、往時を知る人々は口を揃えて〝武闘派〟と陶酔するような声色で語っている。それこそ城渡マッチという男が〝半端者〟ではなかったという証左であろう。

 警察との衝突も掴み合いなどでは済まず、近隣の反社会勢力ヤクザには与しないどころか、逆らい続けていた。自分たちはあくまでも〝単車バイク乗り〟である――その矜持が〝城渡総長〟と仲間たちの胸に燃え盛っていたのだ。

 「仰いで天に愧じず」と淀みなく言い切れるようでなければ、胸を張って堂々とMMAのリングに臨むことはできなかったはずである。


「――最後はやっぱり意地だな。ヤンチャやってた頃の喧嘩騒ぎも総合格闘技MMAの試合も、割っちゃならねぇ最後の一線は変わらねェのさ。時代遅れと笑われようがな」


 威勢の良さとは裏腹に声に若さがなく、どこかくたびれたようにも感じる声を追い越したのは大型バイクの排気音である。

 チョッパーバイクに跨って鎌倉の海岸線を走るのは、現在いまの城渡マッチだ。

 島津十寺工業高校シマコーの学ランや暴走族チームの特攻服トップクではなく、ライダースーツに身を包んでチョッパーバイクを駆る姿は、デニス・ホッパーが監督を務めた一九六九年のアメリカン・ニューシネマ『イージー・ライダー』を彷彿とさせた。

 彼が率いる暴走族チームも健在ではあるものの、平均年齢が三〇代後半ということもあり、単車バイクで走る喜びを分かち合うことが目的というツーリングクラブにも近い。若かりし頃に激闘を演じた敵対チームはいずれも中高年を迎える前に解散しているのだ。城渡たちが湘南随一の〝武闘派〟と恐れられた時代も遠くなっていた。

 間もなくチョッパーバイクは海岸線の片隅に停車まり、城渡マッチはフルフェイスのヘルメットを脱いだ。ヒサシの如く前方に突き出したリーゼント頭だけは今も昔も変わらないままであるが、湘南の潮風かぜに揺らされるも彼にとっては貫き通すべき〝意地〟の一つであるのかも知れない。

 底意地の悪い者はが著しい状況であっても解散せずに暴走族チームを維持し続けていることを「時代の移ろいに取り残されて見苦しい限り」と嘲るかも知れない。傍目には青春を終わり切れなかった愚か者の集団とも見えることであろう。

 だが、これもまた城渡マッチの意地なのだ。そして、それ故に現在いまでは廃れた〝おとこ〟の体現者と呼ばれるのであった。

 かつての城渡は〝男が惚れるおとこ〟として、拳を交えた〝敵〟にさえ慕われていた。その一方、暴走族チームという意地を貫き続ける現在いまの彼に憧憬あこがれを寄せる者も少なくない。どれほどの歳月が経とうとも己の最も大切な〝場〟を守り抜く姿は、年齢としを重ねて様々な夢を諦めてきた人間にとって羨望の対象なのである。


「多少、肉体からだがくたびれてきたのは否定しねぇ。でもな、その分だけ背負ったモンがあるんだよ。自慢話みてェな真似は大ッ嫌いなんだがよ、味わった修羅場は両手両足使っても数え切れねェ。そのたびに闘ったヤツらがくれたモンを寝る前に毎晩いつも振り返ってんだ。それがオレの一番の誇りだからよ」


 サーファーたちが波乗りに興じる海の向こうへ投げ掛けられた城渡の独白ことばいても、やはり意地が強調されている。超えてはならない最後の一線を踏み止まる精神たましいは、長い年月を積み重ねる中で育まれたのだ。

 それはMMA選手としての経歴キャリアにも通じるものである。

 城渡マッチは剥き出しの上半身にボンタンを穿き、腹にサラシを巻くという古い時代の〝ツッパリ〟と同様の出で立ちでMMAのリングに上がっている。気合いの吼え声と共に対戦相手を殴り倒す姿は、一〇年以上前の前身団体バイオスピリッツと『天叢雲アメノムラクモ』の二種類が用意されており、これが交互に差し込まれることで豪腕は衰えを知らないのだと証明された。

 一〇年前と少しも変わらない熱い瞳で水平線の彼方を睨み据える城渡マッチに寄り添うのは、前身団体バイオスピリッツ興行イベントがテレビで放送される際に用いられたテーマソングである。

 往時に前身団体バイオスピリッツの放送権を握っていたのは、東京キー局の一つ――『フクジテレビ』である。二〇一一年の旗揚げから現在に至るまで同局は『天叢雲アメノムラクモ』と距離を置いており、地上波中継すら行っていないのだが、スポーツ番組の一コーナーで興行イベントを取り上げる際には今でもくだんのテーマソングが使用されていた。

 挑発的かつ過激な行動で物議を醸してきたアメリカのロックバンドが一九九九年に発表したこのナンバーは、日本MMA黄金時代の象徴とも言い換えられるだろう。二〇〇〇年代半ばに崩壊を迎えるまで『バイオスピリッツ』の試合は殆ど毎週のようにテレビで放送されており、そのたびに聴く者の闘争心を煽る旋律がスピーカーから流れていたのだ。

 思わず立ち上がりそうになってしまうほど激しいロック音楽と同様に現在いまも城渡マッチの眼差しは力強いが、胸や腹に纏わり付き、拳を繰り出すたびに波打つ贅肉の量はサラシを使っても隠しようがない。その事実は当人も〝くたびれた肉体からだ〟として自覚していた。


「今日までオレをぶっとく支えてくれた〝背骨〟だぜ? 勢い一つで簡単に突き崩されてたまるかよ。今時、強情っりが流行らねぇのは腹立たしいくらい知ってるがよ、どうあっても譲っちゃならねぇ瞬間は確実にあるんだよ。……今がそのときなんだ、オレにはな」


 かつて毎日のように繰り返していた暴走族チームの縄張り争いも、毒舌と悪口を履き違えた銭坪満吉スポーツ・ルポライターに「引退」という雑音で貶められながら「現役」を手放さずに闘い続けようとする古豪ベテランの情熱も、江戸っ子たちによる意地の張り合いという側面があった『めぐみの喧嘩』に通じるものがある。


「オレたちジジィが背中で語れるモンが『年取ったら無理すんな。肉体からだは正直』ってコトだけになっちまったら、どいつもこいつも張り合いがなくなっちまわァ。オレたちの青春はそんなしみったれたモンじゃねぇ――オレは真っ白に燃え尽きるまで総合格闘技MMAっつうを貫くぜ。文句あっか!」


 荒々しくも人間味豊かな気風は、時代も土地も超えていく。意地という名の気骨もまた江戸っ子だけの特権ではなく、くだんの言葉は『喧嘩は湘南の華』といった具合に置き換えられるのである。



 日本MMAの黄金時代から一〇年という歳月が肉体からだを軋ませるという古豪ベテランの悲哀が滲んだ城渡マッチの独白ことばと、前身団体バイオスピリッツの頃から日本MMAに声援を送り続けてきた人々を郷愁へと導くナンバーをまとめて弾き飛ばしたのは、過剰としか表しようのない速度で回転する地球儀と、そこに添えられた挑発的な言葉であった。

 だが、世界の『喧嘩師』に甘っちょろいセンチメンタルは通用しない――機械仕掛けの如く回転し続けていた地球儀は、南米大陸が大写しとなるような恰好で静止し、先程まで城渡マッチの独白ことばを受け止めていた水平線も日本の鎌倉からペルーのへと一変した。

 北半球に位置する日本に対して地球の裏側となるペルーは南半球――日秘両国は季節もほぼ正反対なのだ。六月は秋から冬へ至る頃合いであった。水平線の趣もチョッパーバイクの排気音が映えていた鎌倉とは異なり、にびいろの曇天を映して殺風景のいろである。

 古豪ベテランの内なる感情きもちを掬い取らんとしたこともあり、鎌倉の海や往時の不良ツッパリたちは情感と郷愁に満ちていたが、数多の生命が眠りに就く季節という状況を差し引いても、ペルーの景色は味気ない灰色の筆でもって輪郭を掴む為の線を描いたようにしか見えなかった。

 ひとのない砂浜では既に息絶えているであろう鳥たちが身を横たえたまま波に打たれ、そこからどれほど離れているのかも知れない港町で働く人々は、誰も彼も顔から生気が抜け落ちている。

 人の心を賑やかにしてくれたのは、海辺から首都リマの中心部へ切り替わろうとする幕間に挿入されたナスカの地上絵くらいであろう。スペイン統治時代の風情を色濃く遺した旧市街地セントロは確かに外国人旅行客で賑わっている。リマック川を挟んだ向こう岸――サン・クリストバルの丘に立つ巨大な十字架は、旅人の守護聖人を象徴する物であり、ペルーを訪れた人々を大いなる祝福と共に見守ってもいる。

 しかし、はペルーという国家くにの実態を知る者にとって大いなる皮肉でしかない。旅人の守護聖人の加護が最も強く行き届いていなくてはおかしい丘陵にへばり付いた掘っ立て小屋は、いずれも貧困層が雨風を凌ぐべく「粗末」の二字すら適切とは言い難い材料で無理矢理に作った物である。

 明日をも知れない人々が互いに身を寄せ合い、行政の許可も得ないまま独自に生活圏を築いた非合法街区バリアーダス――即ち、貧民街スラムであった。

 こうした非合法街区バリアーダス首都リマだけでも各所あちこちに点在しており、富裕層の居住区と隣接した地域に至っては、果てしなく長大な壁で双方が隔絶されている。絶望的な貧富の格差と、ここから生じる差別意識の象徴は同地の人々から『恥の壁』と忌々しげに呼ばれていた。

 ペルーを蝕む格差社会の〝現実〟は、首都リマを訪れた人間にとって遠くから眺めていられるものではない。「主を背負う者」と畏敬される丘の上の守護聖人も安全圏などは保障してくれないのだ。

 サン・クリストバルの丘と隣接した市街地を手持ちサイズのカメラで撮影していたときのことである。物陰から一〇歳にも満たないであろう男の子がふらりと現れ、撮影者に向かってすれ違いざまに真っ赤な液体ペーストを引っ掛けてきたのだ。

 小振りの缶に入っていたケチャップである――が、これは子どもの悪戯いたずらではない。強盗団が用いる常套手段として注意喚起も為されている通り、視界を塞いでから金品を奪おうというのである。

 当然ながらカメラのレンズもケチャップで汚されてしまったが、男の子の仲間たちが一斉に飛び掛かってくる様子だけは辛うじて捉えていた。プライバシー保護の為にモザイク処理が施されているのだが、裏路地に隠れ潜んでいた一〇人はいずれも少年という二字が最も似つかわしい顔立ちであった。

 ペルーでは成人もしていない子どもたちが強盗団を結成し、外国人旅行客を餌食にしていることは撮影者も承知していたのだが、非合法街区バリアーダスにまで足を踏み入れなければ遭遇する心配もないと判断していた。その誤りから最悪の窮地に追い込まれた次第である。

 丘の斜面で待機していた少年たちも大小の石を容赦なく投げ付けてくる。改めてつまびらかとするまでもなく、威嚇を目的としているわけではない。例え小石であろうとも頭部あたまに直撃されようものなら関わるのだ。

 通訳を伴わない単身の取材ということもあり、襲撃を受けている最中には全く気付かなかったのだが、少年強盗団のリーダーはペルーの公用語――旧宗主国スペイン言語ことばでもって「身ぐるみ剥いだ後に通報されても厄介だから殺しちまえ」と仲間たちに指示していた。


「――冗談じゃないって! 『天叢雲アメノムラクモ』のPVプロモじゃないって!」


 もはや、手持ちサイズのカメラは撮影者である男性の悲鳴を記録するだけのマイクと化していた。余りにも遠くに聞こえる為、彼を狙ったものではなさそうだが、レンズが地面に向いてしまうのも構わず逃げ惑う背中には幾度となく銃声が届いている。

 この撮影者は首都リマに立ち並ぶ家々の窓が鉄格子によって防護されている理由に想像が及ばなかったことを帰国後に心底から後悔し、また生死が鼻先ですれ違うような無法地帯へ自分を送り込んだ表木嶺子を末代まで呪ってやると憤慨していた。

 つまり、彼は少年強盗団の襲撃から無事に逃げ延びたということである。闇市ブラックマーケットなどで高値で売り飛ばせるであろう撮影用のカメラも守り切ったのだ。

 駆けに駆けてひとの多い場所まで辿り着き、路上に停車まっていた一台のタクシーへと転がり込んだ。


「お兄さん、日本人ハポネスでしょ? 身なりからしてペルーにお住まいでもない。の為にわざわざ海を渡ってくるなんて日本人ハポネスは本当に勤勉だなァ」


 ケチャップまみれの日本人ハポネスを一瞥した運転手ドライバーは、ただそれだけで男性に降り掛かった災難を察したようで、行き先を確かめるよりも先にペルーの公用語ことばでもって冷やかした。

 タクシーの車窓からは雪の冠を頂いたアンデス山脈を望むことができる。遥か遠く離れていても心に突き刺さる美しさが撮影者には何よりも堪える皮肉であった。

 『喧嘩はペルーの華』とは口が裂けても言えない――冬のアンデスを映したいろによって浮かび上がった文言には、誰もが首を頷かせることであろう。

 ペルーの少年強盗団は格差社会の最下層を生きる自分たちと比べ、余りにも恵まれた状況で生きている外国人観光客をいたぶろうと思ったわけではない。紙幣で満たされた財布を所持しているであろう標的を取り囲み、を奪わなければ今日を食い繋ぐことも叶わないのである。

 外務省が公開している海外安全情報でも、ペルーへ出掛ける際には凶悪事件に巻き込まれないよう最大限の注意を呼び掛けている。翻せばそれは同国ペルーで生きる為には拳の内側に〝暴力〟を握り締めていなくてはならないという〝現実〟そのものである。

 ペルーの非合法街区バリアーダスで生まれ育った新人選手ルーキー――キリサメ・アマカザリも城渡マッチと同じ路上の『喧嘩師』である。しかしながら、意地の張り合いを愉しんでいられるような余裕はない。拳を交えた戦友から受け取り、積み重ねていく矜持など望むべくもない。

 比喩や浪漫ではなく、感情を差し挟まない現実問題としてキリサメ・アマカザリには戦うことそのものが人生なのだ。ペルーの首都で取材を行った撮影者がキリサメと大して年齢が変わらない少年強盗団に襲撃されたという事実は、そのまま〝現実〟の重さにも等しいわけである。


「危険手当が出るような取材先トコだけは今まで全力で避けてきたのにな~! 一体全体、どうなってんの、アマカザリ選手のふるさと~! ヤバいの、テロ組織だけじゃないじゃん!」


 撮影者の嘆息を挟んだのち、舞台はペルーから日本へ、西暦は二〇一四年から一九七六年へとそれぞれ戻っていく。

 一九七六年は鬼貫道明が初めて異種格闘技戦に臨んだ年である。アメリカから招いたプロボクシングヘビー級の伝説的な王者チャンピオンに対し、自らリングに寝そべった状態で蹴りを見舞う鬼貫の姿は良くも悪くも語り草となった。

 『昭和の伝説』と呼ばれたプロレスラーの後は、試合の点描も年表の順に切り替わっていくわけではなかった。現役時代のじゃどうねいしゅうがブラジリアン柔術家の片足を掴んで振り回すという一九九〇年代の『バイオスピリッツ』を取り上げたかと思えば、一九八〇年代にプロボクシング・ミドル級王者チャンピオンと異種格闘技戦のリングで対峙した八雲岳が〝石の拳〟ともたとえられた一撃で胴を抉られる瞬間が大写しとなった。

 異種格闘技戦から総合格闘技MMAに至る日本格闘技界の歴史を順番に振り返るのではなく、過去と現在を強烈に対比させる趣向なのだ。

 若き日の八雲岳に続いたのは『天叢雲アメノムラクモ』旗揚げ興行にて対戦相手の肩関節を極めるほんあいぜんの勇姿であった。言わずもがな、は二〇一一年に得た〝勝ち星〟だ。前身団体バイオスピリッツの頃には女子MMA選手の試合は行われていなかった。

 そして、一九九七年――およそ四〇年を跨ぐ追憶を締め括ったのは、日本MMAが本当の意味で最初の一歩を踏み出した歴史的な瞬間である。

 リングサイドから聞こえてくる八雲岳の呼びかけにも応じず、マットの上に身を投げ出したまま微動だにしないヴァルチャーマスク――日本MMAの先駆者は、『天叢雲アメノムラクモ』の前身団体である『バイオスピリッツ』の旗揚げ興行にいて〝目玉メインイベント〟を任されながらも第一ラウンドで完敗し、『鬼の遺伝子』の実戦志向ストロングスタイルに魅せられてプロレスこそ最強と信じて疑わなかった人々に〝永久戦犯〟として心無い批判を浴びせられた。

 日本に総合格闘技の礎を築いた偉人でありながら、長い間、ヴァルチャーマスクは中傷としか表しようのない声に晒され続けたのだ。篤志家でもあった為、その通称リングネームは匿名で慈善活動を行いたい人々が寄付などの際にしていた。〝一般〟の知名度と格闘技を愛する人々の批評がこれほど噛み合わないプロレスラーも珍しい。

 コーナーポストから一等高く飛び跳ねたヴァルチャーマスクが急降下の勢いに乗って相手レスラーに体当たりプランチャ・スイシーダを仕掛ける異種格闘技戦の一幕も〝煽りVTR〟には差し込まれていたが、この〝超人〟と謳われた頃の勇姿すがたが酷く痛ましかった。

 のちの格闘技史に『プロレスが負けた日』と刻まれる忌まわしい事件が起きた一九九七年にキリサメ・アマカザリもまた地球の裏側で産声を上げた――その言葉は風を薙ぐ轟音によって打ち砕かれた。

 林のような場所に設置されたリングで長野県長野市の地方プロレスラーであるあかぞなえにんげんカリガネイダーと向き合ったキリサメが彼から直伝されたプロレス式の後ろ回し蹴りソバットを繰り出したのである。

 養父である八雲岳の計らいであったが、この新人選手はカリガネイダーが所属する長野市の地方プロレス団体『まつしろピラミッドプロレス』の強化合宿に同行し、屈強なレスラーたちに混ざってを敢行していた。

 白樺の木々が立ち並ぶ坂道や山の景色を一望できるサッカーグラウンドを駆け抜け、太い木の枝に掴まった状態で片手懸垂を交互に繰り返し、地方プロレスの練習生がラグビーのスクラムのように数人がかりで突進しても微動だにせず、軽く押し返している。

 キリサメとカリガネイダーの模擬戦スパーリングを見守るのも八雲岳である。

 カリガネイダーが右腕の関節を極めようと試みれば、岳はその場で回転するようキリサメに指示を飛ばした。これに従ったキリサメは腕を完全にからめ取られる前に相手カリガネイダーの技を外してみせた。

 コーナーポストに登ったカリガネイダーが急降下の勢いを乗せた体当たりを仕掛けるとキリサメは接触するか否かという瞬間まで引き付けてから横に跳ね、これをかわしている。

 格闘家としての実績を一つとして持たず、それ故に〝客寄せパンダ〟ではないかと疑問視されることの多い新人選手キリサメ・アマカザリであるが、特訓の必要がないと思えるほどに身体能力や勝負勘が優れている――カリガネイダーとの模擬戦スパーリングは『天叢雲アメノムラクモ』の選手に相応しい潜在能力ポテンシャルを証明する機会でもあったわけだ。

 キリサメ・アマカザリにとって、その合宿は疑似的な学校なのかも知れない。

 先生である岳から指示された通りに中段蹴りミドルキックを放ち、相手カリガネイダーがどのような形で防御を固めるのか、細かく観察しているのだ。試行錯誤を経るたびにキリサメの身のこなしは鋭さを増していった。

 しかし、MMA選手として完成していく場景には、高価たかそうなカメラを片手に市街地を歩いていた日本人ハポネスを追い回すペルーの少年強盗団が交互に差し込まれており、に一つの問い掛けが浮かび上がった。

 今でこそ小奇麗な姿で特訓トレーニングに励んでいるが、たった四ヶ月前まではその日を食い繋ぐ為の手段も含めて少年強盗団と何一つとして変わらなかったはずなのだ。

 『天叢雲アメノムラクモ』と契約したMMA選手という〝立場〟さえも偽りの姿ではないのか――日秘の少年たちは互いを対比する形となり、これによってキリサメ・アマカザリの特異な出自が際立っていく。

 MMA選手のに縋ろうとも〝暴力〟しか頼るものを知らないという罪深さは封印しようもあるまい。何しろキリサメは〝プロ〟の身でありながら、あらゆる点で慎重な行動が求められるデビュー戦の直前に路上戦ストリートファイトという〝不祥事〟を起こし、インターネットを中心として格闘技界を激震させた〝前科〟を持っているのだ。

 ペルーにける強盗事件の実態を切り取ったレンズは、視界を塞がんと試みた襲撃者のケチャップで汚されていたが、その地に生をけ、少年たちと同じ〝暴力〟を拳に握り締めてきたキリサメの顔が差し込まれると、トマトの液体ペーストまでもがドス黒い血のように見えてくるのだった。

 陽が暮れると、キリサメの合宿先ではバーベキュー大会が開かれた。

 分厚い肉の塊や新鮮な高原野菜に舌鼓を打ち、合宿の参加者全員でキャンプファイヤーを囲むという賑々しい場景さえもがキリサメ・アマカザリの〝本性〟を隠す為の虚飾いつわりであるのかも知れない。


「――首都のリマは大人から子どもまで強盗で食い繋いでいるような人間で溢れ返っていました。繁華街から少しでも外れると警察の目にも入らなくなりますし、万が一、逮捕されそうになっても賄賂カネで無罪放免を買えるような国なんです」


 一つの事実として、いまふくナオリによって収録されたインタビューでもキリサメは強盗の自白としか思えない発言を繰り返していた。それどころか、己の犯した罪を罪とも感じていないかのように躊躇いもない。

 様々な問題を抱えながらも、とりあえずは法律によって身の安全が保障された社会まちで暮らす人々には想像も及ばない過酷な環境の〝犠牲者〟という点は間違いなかろうが、だからといって身も心も〝闇〟に塗り潰されている事実は〝格闘競技〟の団体にとって看過し難いのである。

 は〝不祥事〟の当日に『あつミヤズ』が緊急に放送した暴露番組の内容とも大部分が重なっていた。

 この少年、危険すぎる――〝闇〟の底から重く響く問い掛けに首を頷かせない人間は少ないだろう。

 しかし、団体活動そのものを破滅へ追い込み兼ねない危うさこそが現在いまの『天叢雲アメノムラクモ』には必要とされているのだ。『かいおう』復活の儀式は誰もが歓喜することであろうが、格闘技やスポーツに秘められた〝筋書きのないドラマ〟の可能性が予定調和で終わってしまっては、それ以上の進化も望めまい。

 天地がひっくり返るかのような驚愕も起こり得ない〝世界〟に未来などあろうはずもなかった。如何なる時代にいても発展を呼び起こすのは未知数の要素なのだ。

 一九九七年に踏み出した運命の第一歩から〝ぬるま湯〟に浸かり続けてきた日本MMAが同じ年に生まれたペルーの『喧嘩師』によって真の覚醒を迎える――大晦日の夜に地上波三局で興行イベントが生中継されるほどの黄金時代に貢献した全ての人々をまとめて敵に回すような挑発ことばには、ペルー市街地で発生した強盗未遂事件が再び重ねられた。


「――一体全体、どうなってんの、アマカザリ選手のふるさと~! ヤバいの、テロ組織だけじゃないじゃん!」


 撮影者の悲鳴はキリサメ・アマカザリの生まれ育った故郷ペルーが死と隣り合わせの環境であるという注意喚起ではない。〝何〟を仕出かすのかも予測できない〝爆弾〟をもってして、日本MMAは新しき領域へと突き進んでいくのである。

 一九九七年に生まれた少年は、その宿命さだめを背負って遥かな波濤を超えたのだ。


「喧嘩は意地だけでやるもんじゃねぇよ。オレたちがってきたのはそんなに軽かねぇ。だがよ、意地の一つも貫き通せねぇくらいつまんねェヤツに負けてやる気もねェんだわ。気合いが入ったヤツほどオレには面白ェ。そうでなくちゃ闘う意味もねェよ」

「戦いに面白いも面白くもありません。もっと言えば、敵か、敵でないかの違いだって関係ありません。自分が死なない為にやらなくてはいけないことを全うするだけです。ただそれだけのことに〝何か〟を感じる理由が僕には思い付きません」


 城渡マッチとキリサメ・アマカザリ――古豪ベテラン新人選手ルーキーのインタビューもまた対比の構図となっており、これによって日秘それぞれの『喧嘩師』の差異ちがいが浮き彫りとなった。

 真の格闘たたかいを知らない『喧嘩師』はどちらだ――勝敗の結果をもって片方の誇りを踏み躙るかのような挑発ことばは、灼熱とも鮮血とも受け取れるいろでもって浮かび上がった。



 ここに至る〝全て〟は選手のリングインに際して場内のモニターで放送されるPVプロモーションビデオであった。挑発的な文言や挑戦的な演出を駆使し、極限を突破するほどに選手と観客の昂揚を引き上げることから〝煽りⅤTR〟とも呼ばれている。

 前身団体バイオスピリッツから現在の『天叢雲アメノムラクモ』まで続いてきた〝名物〟の一つであり、その全てを表木嶺子が手掛けている。言わば、稀代の映像作家の才能と感性の迸りである。彼女が国際的な評価を獲得したきっかけもこの〝煽りⅤTR〟なのだ。

 格闘技・スポーツを愛好するファンの中には、表木嶺子の〝煽りⅤTR〟を使用しない競技大会に物足りなさを感じる人間も少なくなかった。

 選手の闘志を煽り立てる効果は言うに及ばず、観客席の拍手や歓声があって初めて〝煽りⅤTR〟は完成されるのだが、『天叢雲アメノムラクモ』第一三せん~奥州りゅうじん――その第一試合は古豪ベテラン新人選手ルーキー入場リングインを前にして早くも最高潮に盛り上がっていた。

 次いで暗転したモニターに『クサナギノツルギ』なる別名を持つ伝説の武具と真っ白なむらくもを組み合わせた『天叢雲アメノムラクモ』のロゴマークが表示された。

 その後には『プロフェッショナル・ミクスド・マーシャツ・アーツ』なる英文が水平に駆け抜け、続けて諸刃の神剣が激しい稲妻を伴いながら垂直に閃くと、これを境い目として画面全体が左右に分けられた。

 団体のイメージカラーによって二分割され、これを背にする恰好で第一試合を引き受ける二人のMMA選手の写真が大写しとなった。どちらも試合着に替えた姿だ。日本国外から出場する者も多い為、名前フルネームと所属先だけでなく出身国の旗も添えられている。

 青サイドは暴走族チーム『武運崩龍ブラックホール』の看板を背負った城渡マッチ。対する白サイドは『八雲道場』所属として初陣に臨むキリサメ・アマカザリ――日秘の『喧嘩師』の対戦が宣言アナウンスされた瞬間、嵐としかたとえようのない大歓声がメインアリーナを隅々まで満たしていった。

 現在の『天叢雲アメノムラクモ』にいて『かいおう』に比肩する花形選手スーパースターとなったレオニダス・ドス・サントス・タファレルのように周囲まわりから寄せられる称賛を〝力〟に換えられる人間にとっては、〝煽りVTR〟で昂り切った人々の大歓声は何よりも心地好いはずだ。

 を味わいたいが為、世界一の〝サッカー王国〟として名高いブラジル出身であり、自らもサッカーを趣味としていながら、今まさに|ワールドカップが開催されている最中の故郷に戻らず、岩手興行への出場を優先させたのである。

 しかし、新人選手ルーキーは違う。養父の手で押し出されるように入場口を潜り抜け、メインアリーナへと足を踏み入れたキリサメ・アマカザリは、未だかつてないほどに身震いしてしまった。

 そこには見たこともない光景が広がっていた。試合の支度があった為に開会式オープニングセレモニーには参加できなかったものの、前日の下見や当日のリングチェックなどメインアリーナの様子は幾度も確かめている。それにも関わらず、キリサメは異世界に迷い込んでしまったのではないかと錯覚したのだ。

 リングサイドの特等VIP席にける〝観戦〟という形ではあったが、明滅を繰り返す強烈な照明スポットライトやレーザー光線、比喩でなく本当に会場全体を揺るがす大歓声は長野興行でも触れていた。全くの未知ではなかったはずのモノが現在いまは暴威と呼べるほどの圧迫感となってキリサメに押し寄せていた。

 入場口からメインアリーナ中央に鎮座するリングへ直結する花道ランウェイと、ロープ越しに選手を仰ぐリングサイドでは見渡す場景が異なるのは当然である。しかし、その差異ちがいを差し引いても理解し切れない違和感がキリサメのあたまを焦がしている情況なのだ。

 自分が生まれ育ったリマの非合法街区バリアーダスや、常に死臭が垂れ込めていた裏路地とは余りにも懸け離れていた。〝暴力〟の応酬が日常であった格差社会の最下層は昼間であろうとも薄暗く、人々が話す声も殆ど聞こえない。

 誰もが声を殺してを狙い続ける〝闇〟の只中で生きてきた少年には、まばゆい世界へ足を踏み入ることそのものが誤りであるように思えてならなかった。


(違う。……違うッ! ここは日本ハポンであって故郷ペルーじゃない! これから僕が生きていかなくてはいけない世界なんだ! 死神スーパイの影が差す貧民街スラムと比べても意味ないだろうッ⁉)


 後方うしろに立つ岳や麦泉に気付かれてしまわないよう小さくかぶりを振りながら、MMA興行イベントの会場と故郷ペルー非合法街区バリアーダスを比べることがそもそも間違いであったのだと、キリサメは己に言い聞かせた。

 脳内あたまのなかで紡いだのはスペイン語――即ち、故郷ペルーの公用語である。

 同じ言語ことばで「比較すべきなのは昨日の公開計量じゃないか」と己自身を諭そうとした瞬間、キリサメはそれが最悪の過ちであったことを悟った。全選手の公開計量を含む興行イベント前日セレモニーでも故郷ペルーとの差異ちがいを比べた挙げ句、前後不覚といっても差し支えがない状況に陥ってしまったのだ。

 総合体育館へ入場する際にもキリサメは正常な判断能力を喪失うしなっている。時間を置いたことで一度は鎮まったはずの動揺が花道ランウェイの只中にてまたしてもぶり返した次第である。

 およそ一日前――公開計量を実施する特設ステージに上がった直後、夥しいほどの視線がキリサメ目掛けて一斉に降り注いでいた。

 周囲からめ付けられることはキリサメも故郷ペルー非合法街区バリアーダスや裏路地で慣れていた。

 それは地に伏せた野獣の群れが舌なめずりしながら〝獲物〟に狙いを定めるようなものである。ぶすまさながらに射掛けられる眼差しは背筋を戦慄が駆け抜けるほど冷たく、害意や殺意を常に帯びていた。

 明確な〝敵意〟はむしろ少なかった。今日を食い繋ぐ糧が目的であるのだから、必ずしも標的に憎悪を燃やしている必要はない。だからこそ〝闇〟の底で四六時中、神経を張り詰めていなければ生きてはいられなかったのである。

 ところが、特設ステージで浴びせられた眼差しは余りにも温かく、日本最高のMMA興行に対する期待を胸に秘めて集結した人々の熱量が肌を食い破って心臓に達したと錯覚するほどであった

 暗闇の向こうから顔も分からない何者かが穏やかならざる気配で突き刺してくる故郷ペルーとは異なり、皆の姿を一望の如く見渡すことができた。誰も彼もが心の底から楽しそうに笑い、右も左も分からないような新人選手ルーキーへ激励の拍手を送っていた。

 躍動する生命がひとところに溢れ返っていた。このような場景をキリサメは故郷ペルーで見たことがなかった。

 数多の目に晒されるという状況そのものは酷似しているのだが、そこに込められた想念が故郷ペルーとは真逆であり、どれほど言葉を尽くしても表しようのない落差によって果てしない当惑の渦へと呑み込まれていったのである。

 時計の針を丸々一日分進めたメインアリーナは、前日セレモニーの比ではなかった。しかも、今度は暗闇の向こうから数え切れない視線が突き立てられるのだ。

 顔を確認することも叶わない大勢ひとびとが一斉に見つめてくる状況は故郷ペルーと同様であった。しかしながら、眼差しに込められた感情おもいは全くの正反対――貧しき者たちが這い回る格差社会の最下層と、富める者の道楽としか表しようのない〝商業イベント〟という相反する感覚がキリサメのなかで徐々に入り混じっていく。

 一度、意識してしまったモノは、どのように抗おうとも抑えられなかった。

 母が存命の頃、子どもたちが描いた絵を私塾の壁に展示したのだが、自分の風景画を友達に見られたときに味わった感覚とも似ていた。自信満々の絵を必ず周囲まわりから笑われてしまうのである。

 幼馴染みの・ルデヤ・ハビエル・キタバタケは誰よりも容赦がなく、「自分がサルバドール・ダリと勘違いしてる人の絵」とまで酷評されてしまった。

 笑い声を浴びせられるのが恥ずかしくてならず、なるべく人目に触れたくなかった。激しい光と轟音にさらされ、夥しい視線の餌食にされながら一本の花道ランウェイをMMAのリングへ進まなくてはならない現在いまは、そのときと同じ心境なのだ。

 もはや、『天叢雲アメノムラクモ』の興行イベントとは結び付きようもない想い出までもが押し寄せ、混濁し始めているのだ。

 帰りたい――それがキリサメ・アマカザリという一七歳の少年の偽らざる本心だった。

 光も音も声さえも、場内を満たすモノが幾つも幾つも積み重なり、自分を押し返す不可視の障壁を築いているとしか思えなかったのだ。

 その障壁の名が「恐怖」であることさえ、キリサメは理解できていない。


「――『かいおう』復活の日に飛来した超新星は『天叢雲アメノムラクモ』最年少喧嘩師! インカの黄金伝説に遺された秘奥義の継承者というウワサは本当なのか⁉ 四角いリングに闘いの地上絵を描くのかァッ⁉」


 事実無根と訴えられても不思議ではないくらい誇張された選手紹介が仲原アナの口から迸り、鼓膜と背中を打ち据えられたキリサメであるが、そのあたまには一字たりとも入ってこなかった。

 そもそも現在いまのキリサメは自分が海を渡ったという事実さえも失念してしまう有り様なのだ。それどころか、かつてはインカ帝国の支配を受けた地に〝魂〟までもが引き戻されそうになっている。

 自分のる国さえ見失うほど混乱していながらも、左右の足だけは一歩また一歩と〝恐怖〟という名の障壁を突き破るようにして花道ランウェイを進んでいく。傍目には一切の迷いがないように見えてしまうほど力強い足取りは、岳と麦泉の存在を背後に感じていればこそ踏み出せるものであった。

 リングサイドの席には未稲とひろたかが座っている。姉弟のすぐ近くでは瀬古谷寅之助が冷やかすような薄笑いを浮かべていることであろう。

 今や己の〝半身〟とさえ感じている哀川神通も、二階・固定席の何処かでデビュー戦を見守っていてくれるはずだ。

 準備運動ウォーミングアップを手伝ってくれたおおとりさとは、希更・バロッサが所属する声優事務所の現場マネージャーという〝立場〟ではあるものの、種崎一作と同じように特別扱いを受けることは好まず、一階・可動席で〝一般客〟に混じって観戦するという。

 自分を支えてくれる人たちの気持ちだけは決して裏切ってはならない――亡き母から強く言い付けられたその教えがキリサメの身を衝き動かしている。

 この場にるか否かは大した問題ではない。でんきょういししゃもん――日本へ移り住んだ後に絆を育んだ友人は言うに及ばず、金銭カネ以外のことならば何でも相談に乗ると約束してくれたじゃどうねいしゅうも、あかぞなえにんげんカリガネイダーを始めとする『まつしろピラミッドプロレス』の地方レスラーたちも、誰もが得体の知れない新人選手ルーキーに期待を寄せている。

 亡き母は勉学に励む意義の一つとして、期待に応えられる人間でなくてはいけないとも繰り返し説いていた。それ故に実子キリサメはどれほど精神こころ肉体からだの動きを引き留めようとしても『天叢雲アメノムラクモ』のリングを目指して歩いていくしかなかったのだ。

 ルールでは競技用シューズの使用も認められているが、キリサメは何も履かずに素足で闘うことになっている。花道ランウェイじかに踏み締める状態でありながら、その感触を足の裏で確かめる余裕もない。


(僕は今、どこにいるんだ? ここはリマじゃないのか……ッ?)


 花道ランウェイを進んでいくなかにも、キリサメはスポットライトの明滅を除いて殆どの照明が消えた場内に〝身内〟の顔を求め続けた。性格面での相性が芳しいとは言い難い表木嶺子であっても構わなかった。この〝世界〟と自分を繋ぎ止めてくれる〝絆〟を感じることで、少しでも心を落ち着けたかった。

 半ば錯乱状態に近い為か、現在いまのキリサメは視野までもが限りなく狭まっており、周辺まわりの些細な情報すら認識できていない。これから自分が〝世界〟を再確認したいのであれば、真後ろを振り返って岳と麦泉の顔を見つめるだけでも足りるのだが、最も身近な選択肢すらも脳内あたまから抜け落ちてしまっていた。

 それどころか、他の選手が控室に引き上げた後もメインアリーナの片隅に留まり、手を振って励ましてくれている希更・バロッサやマルガ・チャンドラ・チャトゥルベディにさえ全く気付けなかったのである。

 暗闇の向こうに〝絆〟の在り処を求めながらも、花道ランウェイを進むことになった理由へ手を伸ばすことさえ忘れてしまっていた。MMA選手としてつことを決心した夜に未稲と誓い合った〝何か〟を置き忘れたまま、キリサメは『天叢雲アメノムラクモ』のリングに向かっていた。


「くっそう! 花道ココから見回しても〝ヴァルチャーの兄ィ〟が見つかんねぇぜ! 『NSB』の連中と一緒ってのは分かってンのによォ~! 折角の機会だし、試合前にリングに呼び寄せてキリーに応援の一言でも貰いたかったのになァ~!」

「……センパイは今日の興行イベントが終わったら朝まで反省会ですよ。鬼貫のあにさんにもきっちりお説教して貰いますからね。……キリサメ君に申し訳ないと思わないんですかっ」


 一等愉しそうな岳の笑い声と、これを鋭く戒める麦泉の叱声が同時に背中を打ち据えた瞬間、キリサメは先程から鼓膜を震わせ続けている大音量のBGMがエスエム・ターキーの『キャサリン』であることに初めて気付いた。

 日本のインディーズ・シーンにいてカリスマと謳われた伝説のパンクバンドである。ペルーへ移住した後は会員証も失効してしまったはずだが、亡き母――天飾見里ミサト・アマカザリはファンクラブにも入会はいっていたと記憶している。

 サトがエスエム・ターキーの熱烈なファンということは、古くからの友人である岳も承知していた。だからこそペルーで初めて邂逅したときにも、のちに養子として迎えるキリサメに向けて一種の〝符丁〟の如く『キャサリン』を熱唱したのである。

 くだんのパンクバンドにとって『キャサリン』は定番スタンダードと呼ばれるナンバーであった。天飾見里ミサト・アマカザリが最も愛した歌でもあることからキリサメの入場曲として何よりも相応しいと岳が強く推薦し、特にこだわりがなかった当人も深く考えることなく了承している。

 観客席を賑わせているのは、当然ながらエスエム・ターキー本来の歌声だ。これまで他人の唄ったものしか聞いたおぼえがなかったキリサメは、ドラムとボーカルを兼任するメンバーの声を耳にするのも初めてであった。

 しかし、本来の歌声は瞬く間に聞こえなくなっていった。メインアリーナの隅々まで届くような大音量にも関わらず、脳裏に甦った岳の歌声がをキリサメのなかで上書きしてしまったのだ。

 無意識にも近い状態で花道ランウェイを歩いていたキリサメのあたま入場曲キャサリンを認識したことは、あるいは一つの引き金であったのかも知れない。音程を合わせる気もなさそうな歌声は以前かつての妻でもある表木嶺子が手掛けた〝煽りVTR〟と溶け合い、故郷ペルーの場景が逆流の如く記憶の水底からキリサメに

 岳の唄う『キャサリン』が初めてキリサメの鼓膜を打ち据えたのは、亡き天飾見里ミサト・アマカザリが静かに永眠ねむっていた〝集合墓地〟である。記憶の彼方から響く歌声と、MMA興行の会場に轟く歌声がい交ぜとなり、追憶と現実の境界さえも曖昧になっていく。

 〝煽りVTR〟ではMMA選手となるべくすがだいら高原にて特訓に励む様子を切り取っていたが、その前には故郷ペルーの情景が幾つも差し込まれていた。

 として乱暴に一括りとされてしまったが、生まれ育った首都リマから四〇〇キロ以上も離れていて馴染みなどなかったナスカの地上絵や、どこに位置するのかも分からない浜辺の映像にキリサメは強い違和感を覚えていた。

 つまり、キリサメが生きてきた故郷ではないという意味だ。足を踏み入れたおぼえもないには懐かしさを感じようもなかった。旧市街地セントロなど毎日のように足を運んだ場所も登場したが、カメラのレンズは綺麗な〝表〟の姿ばかりを捉えており、格差社会の最下層を日本人ハポネスの目に触れさせまいとする隠蔽のようにも感じられた。

 〝大統領宮殿〟という蔑称で呼び付けられる大統領官邸も映していたが、労働者の権利を脅かし兼ねない法律の公布に抗うべく何万という怒れる市民が詰め寄せたとは想像もできないくらい静かで穏やかな映像であった。

 反政府デモのと国家警察がリマ市街で〝合戦〟に及んだ『七月の動乱』は、ほんの一年前のことである。

 〝煽りVTR〟だけでなく、入場に際する選手紹介でも仲原アナは『喧嘩師』などと盛んに喧伝していたが、この肩書きの根拠となる〝武器〟は〝映してはいけない領域〟で研ぎ澄まされたモノなのだ。

 〝闇〟の世界でしか役に立たないような〝暴力〟などは、この光に満ちた世界とは相容れないと土壇場になって否定されてしまった――そのように〝煽りVTR〟が締め括られていたのなら、キリサメも違和感を飲み下せたはずだ。あるいは血と罪でけがれた拳を〝格闘競技〟のリングでふるうという矛盾に自嘲の笑みを浮かべて割り切れたのかも知れない。

 しかし、表木嶺子は〝暴力〟と犯罪が横行する非合法街区バリアーダスや裏路地の実態にまで踏み込んだ。故郷ペルーの〝闇〟にカメラが向けられることなど有り得ないと油断していたキリサメにとっては、嶺子を侮った気持ちを自らの過去と共に抉り出されたような恰好である。

 何しろ『あつミヤズ』による暴露番組でさえ、ペルーの〝闇〟を取り上げた際にはインターネットなどで入手した静止画の提示に留めていたのだ。

 モニターの映像を視聴する人々の印象に残る形で〝表〟の姿を配置したのは、光が差し込まない領域の過酷さを際立たせようとする対比の演出であろう。

 無論、それは最も効果的に訴求力を作用させる嶺子の計算に違いない。実戦志向ストロングスタイルのプロレスラーによる異種格闘技戦ひいては前身団体バイオスピリッツからこんにちの『天叢雲アメノムラクモ』に至る総合格闘技MMAの歴史を振り返った際と同様の趣向であった。

 思えば、その〝表〟の場景さえも冬を迎えた鈍色の空が生命いのちの息吹を吸い上げていた。初夏の色を映した湘南の美しい空とは真逆である。

 地球の裏側で景気が低迷し続けていることなど信じず、という古くからの漠然とした認識だけを他の無法者アウトローと共有し、同国から訪れた旅行客を好んで取り囲む少年強盗団にキリサメは自分自身を重ねていた。

 心の奥底では幾度も幾度も「あれは僕だ」と叫んでいた。今日の生命いのちを明日に繋ぐ為の手段は、哀れな撮影者のカメラが逃げ惑う最中に捉えた無法者アウトローたちと何一つとして変わらないのである。

 格差社会の最下層とは、そこに迷い込んでしまった哀れな〝獲物〟だけでなく、己自身の生命いのちさえも軽い〝世界〟であった。飲まず食わずのまま野垂れ死にした亡骸は言うに及ばず、拳銃ハンドガンで撃ち殺されようとも人目に付かない裏路地に放り出されるだけで、運が悪いと周辺あたりをたむろしている野良犬の餌になってしまうのだ。

 変死体を見つけて然るべき機関に通報するは皆無に等しく、人命が脅かされるほど深刻な事件でさえ末端の警官は取り合わない。〝表〟の社会まちでは値打ちが認められる人権が全く通じない〝闇〟の底でキリサメ・アマカザリは『聖剣エクセルシス』を振り回してきた。

 空腹を満たす為には旧友たちにも襲い掛かり、昔から馴染んできた顔を破壊することにさえ無感情という血塗られた姿を非合法街区バリアーダスで暮らす誰もが死神スーパイと恐れていた。

 魂の一欠けらに至るまで罪でけがれた身に真っ当な〝道〟を歩む資格など許されるはずがない。己が身に流れるモノと同じ〝血〟を吸い尽くした『聖剣エクセルシス』をその手に携えていなくとも、揺るがし難い〝真実〟から逃れられるわけがないのだ――対比の構図を巧みに織り交ぜた〝煽りVTR〟がキリサメに突き付けたのは、格差社会の最下層を這いずり回ってきた者たちが等しく背負う宿命さだめであった。

 彼の脳裏を掠めていった嘲笑は故郷ペルー公用語ことばで紡がれており、その声は想い出の彼方に消えたはずの幼馴染みと良く似ている。キリサメの背筋を冷たいものが滑り落ちたということは、改めてつまびらかとするまでもないだろう。

 日秘のどちらにいても〝身内〟によって唄われた『キャサリン』がを一等煽り立てるのだ。心臓が早鐘を打ち始めたということは、最初に覚えた違和感が拒否反応に変調した証左である。

 もはや、心のざわめきはキリサメ自身にも抑えられなかった。絆を育んだ人々の期待に応えたいと想うことさえ許されざる所業として捉えるようになっていた。


(……僕は電知にも沙門氏にもなれはしない。ましてや岳氏のようになんて……。そうでなきゃ神通氏に自分と同じ〝何か〟を求めることだって――)


 揺るぎなき信念を胸に燃やして闘いの場に立つ人々には、どうしても追い付けるはずがないのだ――そのように己を嘲った瞬間、キリサメは脳を掻き回されるような感覚に見舞われた。



 空閑電知は初めて拳を交えたときにも『世界最強』という見果てぬ夢を掲げていた。おそらくは同じ理想を全ての格闘家たちも分かち合っていることであろう――が、キリサメはプロデビュー戦を迎えようとする今となっても、その想いをついに理解できなかった。

 闘う相手と心を通い合わせることこそが試合にける一番の喜びという教来石沙門の言葉も永遠に分からないだろう。喧嘩殺法をふるう際には標的をこと以外は考える必要もなかったのである。

 〝戦う〟という行為そのものに対して余りに無感情であるから、麦泉文多にも〝プロ〟としての在り方を厳しく追及されてしまうのだ。そして、そのような有り様だからこそMMAどころか、選手の安全に配慮された〝格闘競技〟への理解は一向に捗らない。

 今日も解説席で興行イベントを見守る鬼貫道明には、孫のように可愛いと頭を撫でられた。異種格闘技戦の先駆者は、総合格闘技MMAを担う若者たちに分け隔てなく慈愛の眼差しを向けている。その『昭和の伝説』が切り開いた〝道〟を〝富める者〟の道楽としか考えられないことにキリサメは罪悪感を拭えなかった。

 〝友人〟となった大鳥聡起は、立派な人間である必要はないと励ましてくれた。その気遣いには心から感謝しているのだが、一方で彼の幼馴染み――つかよりのように一つの格闘技を全身全霊で愛し、競技そのものの隆盛に自らの人生を捧げるような情熱をキリサメは持ち得ない。これから先を想像しても、MMAに対する熱量を甲冑格闘技アーマードバトルに懸ける筑摩の水準まで引き上げられるとは考えられなかった。

 御剣恭路は自らの人生を投げ捨てる覚悟で闘う人間こそが〝城渡総長〟の対戦者に相応しいと言い張って譲らないはずだ。城渡マッチが仲間から尊崇される大器うつわであることは、キリサメも実感として理解わかっている。

 〝日本MMAの黄金時代を築いた一人〟という経歴は関係ない。自分が〝プロ〟のMMA選手にあるまじき不祥事を起こしてしまった後も主催企業に対戦の放棄を直訴せず、リングでの再会という約束を全うしてくれた〝おとこ〟に何も感じないわけがなかった。

 次はリングで会おうぜ――城渡マッチの力強い声が脳裏に甦るたび、自分は彼と相対する資格すら持たない半端者であると思い知らされるのだ。

 本間愛染にはいずれ必ず〝MMAのアイガイオン〟になると突き付けられている。

 タイトルマッチにいて最悪の反則行為を仕出かし、王者チャンピオンの片目から光を奪ったプロボクサーのひきアイガイオンと同じような鬼畜にまでちるというのだ。くだんの人物は幼い我が子にまで拳を向け、現在は刑務所で服役していた。

 所属団体間の対立を背景としてはいるものの、声優を兼業している希更を『天叢雲アメノムラクモ』の〝客寄せパンダ〟と一方的に決め付け、格闘技そのものを金儲けの手段に歪めたという理由で襲撃したかみしもしきも明らかに常軌を逸していた。

 共に希更を取り囲んだ電知たち『E・Gイラプション・ゲーム』の仲間と比べて遥かにくらい激情を剥き出しにしていたが、癪に障るような事柄を暴力に訴えて覆さんとする狂気的な衝動は、罪もない人々に『聖剣エクセルシス』を振り翳してきた自分の〝本質〟と何も変わるまい。

 警視庁捜査一課と所属先を名乗った鹿しか刑事は、ただ純粋に強くなりたいと願う電知や地下格闘技アンダーグラウンド団体を組織暴力の予備軍と一方的に決め付け、格闘技と言い換えても所詮は暴力に過ぎないと蔑んでいた。

 もしかすると鹿しか刑事は『E・Gイラプション・ゲーム』の一員であった頃の瀬古谷寅之助を目の当たりにして地下格闘技アンダーグラウンドを暴力の巣窟と憎むようになったのかも知れない。森寅雄タイガー・モリ直系の道場の跡取りとして生まれながら心に抱える鬱屈した感情に衝き動かされ、暴力そのものに愉悦を見出しているようにも思えるのだ。

 〝かかりつけ医〟である藪総一郎には、寅之助を狂気に駆り立てる〝闇〟を一種ひとつの鏡に換え、これを戒めとして破壊衝動を抑えるよう諭されたが、それは不様な悪あがきに過ぎないのだ。

 鹿しか刑事の侮蔑ことばを『E・Gイラプション・ゲーム』よりも深刻に受け止めなくてはならないのは、〝MMAのアイガイオン〟なのである。

 『天叢雲アメノムラクモ』の広報戦略を担当しているいまふくナオリには喧嘩殺法を編み出す過程――つまり、故郷ペルーでの〝実戦たたかい〟について明かしたのだが、インタビューの最中にも関わらず、彼女の顔は秒を刻むごとに引きっていった。

 格差社会の最下層を生き抜く為に喧嘩殺法は、選手の安全がルールによって守られる〝格闘競技〟とは決して相容れない。その事実が今福の顔に表れていたわけだ。

 開催先の経済振興を成し遂げてきたさいもんきみたかの功績さえ〝富める者〟の道楽と捉えてしまった。それはつまり、養父の志が推し進めた日本格闘技界全体による東北復興支援事業プロジェクトの意義を偽善の二字で切り捨て、無意識に嘲っていたことにも等しかろう。

 その『天叢雲アメノムラクモ』を率いる代表――樋口郁郎は、世界中の格闘技関係者から〝暴君〟として忌み嫌われている。日本国内にける勢力拡大の為に卑劣なる謀略を張り巡らせ、あまつさえ選手の心をも弄ぶような振る舞いには、キリサメ自身もくらい感情が拭い切れない。

 労働者の権利を脅かし兼ねない新法に怒りを燃え滾らせるペルーの人々を扇動し、裏舞台から『七月の動乱』を引き起こした反政府組織とも樋口の所業は重なるのだ。

 その組織のリーダーがデモ隊の一部に銃器を渡し、内乱の尖兵に仕立て上げようと謀らなければ、現在いま首都リマ闇市ブラックマーケットで盗品を逞しく売り捌いていたはずである。

 このように法律そのものが正常に機能しない〝闇〟の底より這い出してきた薄気味悪い余所者を樋口郁郎は『天叢雲アメノムラクモ』の一員として迎え入れてくれた――そのことに対する恩義は海よりも深く、胸の奥でうずく蟠りを上回ってしまうのだ。背筋が凍り付くような計略を用いてはいたが、秋葉原で不祥事を起こしたときでさえ彼は救済に動いてくれたのだ。

 恩に報いなくてはならないと考えているのはキリサメ一人であるのかも知れない。「恩返しは人の道」という亡き母の教えも左右の足をリングへと向かわせているのだった。


(やっぱりおかしいよ。何もかもおかしいんだ、僕は……キリサメ・アマカザリはッ!)


 『天叢雲アメノムラクモ』と合同大会を共催する『NSB』の代表――イズリアル・モニワが樋口に対して明確に敵意を抱いていることは、ほんの少し言葉を交わしただけでも伝わってきた。

 前代表フロスト・クラントンの主導によるドーピング汚染でMMA団体としての信頼が失墜した『NSB』を建て直し、言行の一つ一つが高潔と思える現代表イズリアル・モニワからすれば、樋口はまさしく軽蔑の対象であろう。

 統括本部長という立場から『天叢雲アメノムラクモ』を支える八雲岳は、樋口の暴挙に憤りながらも決して見限ることはなかった。日本に総合格闘技MMAという〝文化〟を根付かせる為に肩を並べて力を尽くしてきた〝戦友〟を大切に思っているのだろう。

 〝暴君〟への善からぬ感情を飲み下せるような大器うつわの持ち主であったればこそ、その姿から目を離さないようイズリアルもキリサメに諭したのである。それ程までに〝大きな人間〟だからこそ、親友の忘れ形見とはいえ〝正体〟も分からない少年を躊躇うことなく日本に引き取ったのだ。


「――お前はオレだよ、キリー」


 非合法街区バリアーダスと市街地を隔てる橋の上で握手を交わし、真っ白な歯を見せて太陽のように笑う岳の姿も浮かび上がったが、それは間もなく〝闇〟の彼方に吸い込まれていった。

 スポットライトの明滅へ反応するかのように今日まで出会ってきた人々の声や顔がキリサメのなかに浮かんでは消えていく。


「――生まれ育った環境を理由にして運命を切り開く勇気を諦めないで。世界も人生も、そんなに捨てたもんじゃないからッ!」


 ほんのいっとき――やがて『七月の動乱』に発展することになるペルー国内の混乱を取材する間だけ身辺警護ボディーガードを務めた日本人記者の絶叫が暗闇を引き裂くようにして閃いた。

 その絶叫は波紋となり、追憶の水面に懐かしい顔を映し出した。共通の大敵であった反政府組織壊滅の為に共闘したペルー国家警察のワマン警部である。

 およそ一年前に発生した『七月の動乱』の裏では、テロリストを取り締まるべき立場の国家警察長官が国内の反乱分子の〝間引き〟を目的としてくだんの組織と結託していた。『恥の壁』に面する非合法街区バリアーダスにて繰り広げられた〝決戦〟のなかに癒着の事実が暴かれ、事件後には長官の交代劇も起こっている。

 新たに就任した長官はキリサメの協力に深く感謝し、功労賞の代わりとして〝正業〟の斡旋を申し出たのだが、当人はその全てを固辞していた。まるで将来の可能性を自ら切り捨てるような返答にワマンは目を丸くして驚いたのである。


「無理に引き留めることは出来んけど、キミの教養を生かさないのは宝の持ち腐れだぞ。お袋さんの教育の賜物じゃないの。日本ハポン言語ことばも過不足なく喋れるんだし、例えば国家警察専属の通訳として働いて貰うことだって問題ないんだよ。私としてはキリサメ君に助手になって貰って、『マイアミ・バイス』みたいなノリで行きたかったんだがな」


 キリサメが知る限り、ペルーの警察機関は法治国家とは思えないほど腐敗しており、末端の制服警官から賄賂で無法者アウトローも少なくない。一方の国家警察は前長官の汚職さえ除けば組織としては正常であり、そこに勤務できれば将来も安泰であろう。

 社会的な身分も保証される為、眠っている最中でさえナイフの切っ先や銃口に脅かされる生活くらしからも間違いなく解き放たれる。加えてワマン警部は、キリサメが受けた教育の高さも評価しているのだ。

 それにも関わらず、キリサメはついに首を縦には振らなかった。

 〝誰か〟の人生を壊す罪にまみれた人間は、決して報われてはいけない――それが栄達へと続くただ一本の〝道〟を断ち切った回答ことばである。はかもり以外の職業に適性があろうとも、亡き母から教養を授けられていようとも、自らに希望など許してはならないのだ。

 ワマン警部たちペルー国会警察から提示されたのは未来への報酬なのである。

 今日の生命いのちを明日に繋げる為とはいえ、「夥しい」という言葉をもってしても表し切れない量の血を『聖剣エクセルシス』に吸わせてきた。両の拳だけでなく全身が深紅の罪にけがれている。魂に還った後は地獄に落ちなければいけない人間が未来へのきざはしを仰ぐことなどあってはならない――それを今まで忘れていた意味がキリサメ自身にも理解わからなかった。

 『天叢雲アメノムラクモサイドは『ペルーの喧嘩師』などとで喧伝しているが、そもそも喧嘩殺法こそが犯した罪の証左あかしなのだ。社会的な身分が保証されるMMA選手として〝表〟の舞台に上がったところで、〝闇〟の顕現あらわれともたとえるべき拳を浄化できるはずがない。

 そもそも〝浄化〟とは如何なる状態を指し示すのか。今日までの艱難辛苦が報われた瞬間に血の臭いが身体からだから消え失せるのか。

 声優としても伝統武術ムエ・カッチューアの使い手としても相互理解を体現する希更・バロッサのように万人から愛され、MMA以外の〝兼業〟だけで生計を立てられるようになれば良いのか。

 しかし、声一つで誰かの心に寄り添り、奮い立たせられる才能は生来のものであり、身の程を弁えずに模倣したところで、嘲笑の只中にて醜態を晒すのみであろう。己と比べて落差を感じること自体が彼女に対する侮辱なのだ。

 光溢れる世界に手を伸ばすことは、己の罪を罪とも思わない卑しく恥ずべき振る舞いであり、キリサメ・アマカザリの全存在に対する矛盾なのだ――彼のなかに響いた声は今度も・ルデヤ・ハビエル・キタバタケと全く同じもので、メインアリーナに轟き続けるパンクロックでさえ吹き飛ばすことは叶わなかった。

 その声は場内に取り付けられたモニターをも狂わせ、赤黒く汚れた新聞が砂塵に巻き上げられて舞い踊るさまが本来の映像に割り込んだ。ペルーの公用語ことばで記された紙切れは双眸では追い掛けられないほど大量であるが、いずれも何らかの銃器で撃ち抜かれている。


「アマカザリ選手のお陰で人生変わりました!」


 全ての果てに浮かんだのは、友人でも知人でもない二つの顔である。

 秋葉原にて寅之助と繰り広げた〝げきけんこうぎょう〟を見物したことがきっかけとなり、交際に至ったという男女カップルから開会式オープニングセレモニーの前に応援と感謝の言葉を掛けられたのだ。

 おそらくは『ケツァールの化身』という通称に着想を得たのであろう。翼に見立てた両手を上下に動かし、盛大に激励してくれた男女カップルに対して、キリサメは祝福の言葉を返すことができなかった。

 〝罪〟を背負った身でありながら、誰かの人生を幸福に導いたという事実がどうしても受け入れられなかった。仲睦まじくしていられるのはほんのいっときで、いずれは最も不幸せな形で破局を迎えるに違いない。服まで揃えて分かち合う幸せも凶兆に過ぎない――そのような呪いで男女ふたりを汚染し、本来ならば順風満帆であったはずの未来を歪めてしまったとしかキリサメには思えなかったのである。

 地球の裏側へ移り住んだ後まで〝罪〟を重ねてしまう己の存在ことがキリサメは恐ろしくてならなかった。


(何だよ、生きていく場所って。僕は明日なんか望んじゃいけないのに――)


 それなのに、どうして今も生きているのか。他者の生命いのちを食い物にしながら生き延びることが許されざる罪と理解してながら、自らを裁く者がいない外国くにで恥知らずにも生き続けるつもりなのか――幼馴染みと同じ声から逃れるようにして、キリサメの双眸は観客席に未稲と神通の顔を同時に捜し求めた。

 〝人間らしさ〟を与えてくれた人との絆を確かめたかった。〝人間らしく〟生きることを捨て去り、〝暴力〟に回帰することも偽らざる〝真実〟と受けれてしまったかのような人との共鳴を感じたかった。

 キリサメのなかで分裂した二つの思考がそれぞれ異なる形で蠢いていたが、未稲も神通も五〇〇〇人にも達する観客の中に埋もれてしまい、追憶を刺激した明滅が暗闇の向こうに望む顔を浮かび上がらせることもなかった。

 〝煽りVTR〟は過剰なほど一九九七年に生まれたことを強調していた。『プロレスが負けた日』――即ち、日本MMAが本当の意味で始まった年に誕生した〝宿命さだめの子〟のように盛り上げんとする意図であろうが、それはつまり、キリサメ・アマカザリがまだ一七年しか生きていないことをも意味している。

 彼のあたまを掻き回し続けるモノは、一七歳の少年がたった独りで立ち向かうには余りにも重過ぎた。眠たげに半ばまでまぶたを閉ざし、何事にも無感情な面構えは傍目には達観しているものと思えるのだが、感情の揺らぎを制御コントロールして十全の力を発揮するという競技選手アスリートに欠くべからざるすべを今日まで誰にも教えられなかったのである。

 は己の精神状態を直視する能力とも言い換えられるのだ。

 キリサメがあと少しでも年齢を重ねていたならば、自らを混乱させる原因を短時間で見極め、気持ちを落ち着けられたことであろう。しかし、一九九七年生まれ――即ち、一七年しか生きていない少年にを求めるのは、余りにも無慈悲である。

 周囲まわりの目には達観しているように映ろうとも、鼻先で生と死がすれ違う過酷な環境に身を置いて異常事態への耐性が付いていようとも、一七年分の経験しか持ち得ないのだ。その不足は亡き母の教育で補い切れるものではなかった。

 追憶や感情もろとも脳内あたまのなかを掻き回すモノが重圧プレッシャーという名前であることをキリサメに教える者もいなかった。は〝絆〟を結んだ多くの人々から眩いくらいの想いを受け取ってきた証左あかしでもあり、一本の芯の如く心の支えに換えることもできたはずなのだ。


(――僕は岳氏なんかにはなれない。僕は岳氏あなたじゃない……ッ!)


 初めて出逢った日の言葉に対する余りに遅い回答こたえを心の中で呟いた直後、キリサメの足はとうとう花道ランウェイを進み切った。

 恐怖を湛えた瞳を忙しなく動かしている間にもリングとの距離は着実に縮まっていき、現在いまじぶんを見極める為に求めた未稲も神通も捜し当てられないまま、キリサメは初陣の舞台に辿り着いてしまった。


(……ここから先に進んでしまったら、僕はもう過去の罪を数えることだって許されなくなる。二度と裁かれることはないんだって、自分を誤魔化して生きるしかなくなる――)


 自分がこれから生きていくことになるを正面から見据え、我知らず俯き加減となってしまったキリサメの頭部あたまを横殴りの大音声が無理矢理に引っ張り上げた。


「シケたツラしてんじゃねぇぞ、アマカザリ、この野郎ォッ! オレの――〝兄貴分〟の顔に泥塗るようなマネすんじゃねェや! つか、城渡総長に恥かかせやがったらタダじゃ済まさねぇかンなッ!」


 キリサメの脳を揺さぶったのは、御剣恭路の喚き声であった。暴走族チームの仲間たちと共に客席のどこかで握り拳でも振り回しているのだろう。

 ついに未稲と神通を捜し出せなかった五〇〇〇人という観客の中で、酒と煙草で焼けたダミ声を聞き取れたことは甚だ不本意ながら奇跡としか表しようがなく、キリサメもまぶたを半ば閉ざしている双眸を大きく見開いてしまった。

 駆け抜けていった不快感は、限界まで膨らんだモノを破裂させる針に換わったのか。耳障りなダミ声が鼓膜に突き刺さった直後、キリサメのなかから全ての声が消え失せた。

 スポットライトの明滅によって引き出される追憶も、スピーカーから大音量で迸り続ける『キャサリン』さえも聞こえなくなった。〝闇〟の底から光差すほうに手を伸ばさんとするを嘲る笑い声――幼馴染みと同じ声も砂色サンドベージュの彼方に吸い込まれていった。

 現在は場内のモニターにも自分の顔写真や経歴プロフィール――つまり、が映っている。

 生まれ育った住居いえを倒壊させた暴風雨さながらにあたまを掻き回していた懊悩までもが儚い幻のように霧散してしまった。あるいは膨らみ続けていた混沌が破裂し、歪な積み木と化していた思考を丸ごと吹き飛ばした――と喩えることが最も正確に近いのかも知れない。

 花道ランウェイとリングを隔てるロープの前で立ち止まったキリサメは心の中でもう一度だけ「怖い」と呟いた。しかし、は先程まで吹き荒んでいた錯乱の引き金とは全く種類が異なる想念もの――自分自身の精神状態を分析できる程度には落ち着いたのである。


(……まさか、御剣氏に救われる日が来るなんてな。いや、寅之助と闘ったときにも助けては貰ったんだけどさ……)


 意味不明ながら〝兄貴分〟を自称し、その関係性を押し付けてくる恭路にキリサメは常日頃から辟易うんざりしていた。金髪のパンチパーマは姿を現わすたびに必ずといって良いほど大きな騒動さわぎを起こすのだ。

 現在いまの有り様は正反対というわけである。面と向かって告げると鬱陶しい筋運びとなるので胸の内に留めておくつもりだが、このときばかりは素直に恭路へ感謝している。

 一つの事実として、これから生きていく〝世界〟と、これまで埋もれていた〝闇〟について自分でも不思議と思えるくらい静かな心で比べられるようになっていた。

 一七年という決して長くはない人生の中で運命を変えるほど大きな決断を下すのはこれが初めてであった。

 母の死という抗い難い激流に呑み込まれ、物心が付く前から心を通わせてきた幼馴染みの体温ぬくもりを二度と感じられなくなり、自らも生と死が鼻先ですれ違うような状況を幾度も味わってきた。

 暴力性の顕現あらわれたる『聖剣エクセルシス』を担ぎながら格差社会の最下層を這いずり回り、血と汚泥にまみれたまま野垂れ死にするはずであった人生を半ば強引に光溢れる世界へ導いてくれたのが八雲岳であった。

 養父が手を差し伸べてくれたからこそ、〝人間らしさ〟を得て新しい運命を機会に恵まれたのだが、極端な言い方をすれば、〝貧しき者〟の階層に属していた故郷ペルーと異なる〝大きな流れ〟に移されただけのことである。

 今までのキリサメ・アマカザリの人生は、誰かが作った〝大きな流れ〟に身を委ねてきたに過ぎなかった。明日をも知れない過酷な環境はともかくとして、将来について自らの頭では考えようともしなかったという点にいては、無責任で刹那的な生き方であろう。

 しかし、『天叢雲アメノムラクモ』のリングは違う。この〝場〟だけは今までと同じように考えてはならなかった。

 ペルー国家警察から未来への報酬を提示されたときには「罪深い人間は報われてはならない」と断ったが、今はもう〝独りぼっち〟ではない。自分を温かく迎えてくれた家族がいる。共に歩んでくれる仲間がいる。その歩みを厳しく見守ってくれる戦友もいる――スポットライトの明滅と共に浮かんでは消えていった人々は、己を支える絆の証左あかしにも等しいのである。

 〝人間らしく〟る為に欠かせない感情をのが普段は耳障りでしかないダミ声であることを認めないわけにはいかなかった。


(……僕はもう独りで生きることはできないんだ……)


 改めてリングと向き合ったキリサメに「決断」の二字が持つ重みがし掛かっていた。

 己の意思で運命を変えることがこれほどまでに怖いとは想像もしていなかった。己が選んだ道でありながら、踏み出すことを躊躇ためらってしまうくらい恐ろしかった。


「――オレはお前を信じてるぜ、キリー」


 何時まで経ってもリングに上がろうとしないキリサメを案じ、その様子を確認しようと身を乗り出す麦泉を制した岳は、目の前の背中にただ一言だけを語りかけた。

 その激励ことばに続いて養父から両肩を掴まれたキリサメであるが、これで勇気が湧いたわけではなく、ましてや闘争心に火が点いたということでもない。それでも〝次〟に移る衝動ひきがねとしては十分であった。

 許されざる無法者アウトローを地球の裏側まで捜しに来てくれた恩人に報いたい――その想いはキリサメの心に深く根差している。養父を背後うしろに感じていればこそ、恐怖に屈して花道ランウェイを引き返すこともなくリングまで進めたのだ。

 四〇代半ばという年齢とは余りにも不釣り合いな言行が多く、理解に苦しむ軽挙妄動の所為せいで作戦も定まらないままデビュー戦を迎えることになってしまったが、それでも掛け替えのない人間ひとに変わりはなかった。

 その養父から掛けられた「信じる」という言葉へ如何に応じるか――その答えはただ一つである。亡き母の教えを振り返るまでもない。


「……だったら、を裏切るわけにはいきませんね――」


 背中を向けたまま岳に応じたキリサメは、膝の屈伸のみで大きく跳ね飛び、支柱ポールを結び合わせるロープを超えてリングに降り立った。

 ここをいて生きる道はないと決心した戦場に自らの意思で臨んだ。


「――独特の衣装から『ケツァールの化身』とも囁かれるアマカザリ選手ですが、猛禽類の飛翔が如きハイジャンプを見る限り、あながち間違いではないのかも知れません! 風に躍る三本の帯は幻の鳥と見紛うばかりに麗しいィーッ!」


 キリサメが宙を舞った瞬間、仲原アナの熱弁と、これに触発された観客たちによる万雷の拍手が会場内を埋め尽くした。


「――見てるか、ヴァルチャーマスク⁉ 一九九七年の〝あの日〟にあにィが蒔いてくれた種は今! 夢の花を咲かせてくれたんだぜ⁉ このキリーはッ! いつかオレたちがた夢の結晶だッ! 未来の証明だァッ!」


 メインアリーナの喧騒を丸ごと吹き飛ばすような咆哮を爆発させたのは、統括本部長という責任ある立場を完全に忘れてしまったかのような八雲岳であった。

 ヴァルチャーマスク――その通称リングネームで呼び掛けた相手は、改めてつまびらかとするまでもないだろう。すぐさま麦泉から尻を抓り上げられたが、今度ばかりは軽率な言行を戒める効力が発揮されなかった。

 心の奥底から沸き起こる感慨は、警告の代わりともいうべき痛みも、MMAの歴史にいて長らく〝永久戦犯〟として扱われてきた忌まわしい通称なまえを口にすることへの躊躇いさえも押し流してしまったのである。

 親友の忘れ形見であるキリサメをペルーの首都リマに訪ね、亡き天飾見里ミサト・アマカザリの墓前にて初めて出逢った日――サン・クリストバルの丘に面した非合法街区バリアーダスで日系人ギャング団から取り囲まれ、そのまま互いの背中を預け合う形で共闘したのだ。

 キリサメに備わる〝戦士〟としての才能に魅了された瞬間とも言い換えられるだろう。

 乱戦の最中、キリサメは木の電柱の頂点に一本足で屹立し、拳銃ハンドガンを撃ち掛けてくる敵を見晴らしの良い高所から確認していた。間もなく『聖剣エクセルシス』を肩に担ぎながら地上へと舞い降りていったのだが、そのときに岳は双眸を開けたまま白日夢をている。

 キリサメが腰に巻いていたレインコートは、返り血のようなドス黒い染みが飛び散り、本来の色も分からないほどくたびれていた。ボロ切れ同然の裾が砂混じりの風になびいてめくれ上がると、獲物に狙いを定めて滑降していく猛禽類とりの尾羽根のように見えるのだ。

 その瞬間とき現在いまも、ナスカの地上絵で最も有名なハチドリの如き尾羽根がそらでうねっていた。

 第一試合の〝煽りVTR〟にはコーナーポストから一等高く飛び跳ね、急降下の勢いに乗って相手レスラーに体当たりプランチャ・スイシーダを仕掛けるヴァルチャーマスクの勇姿すがたも含まれていたが、異種格闘技戦の一幕を挿入して欲しいと岳自身が頼み込んだのである。

 ペルーでた白日夢が大昔から憧れ続けてきた夢と一つに合わさり、〝現実〟として目の前に現れたのだ。これによって岳の昂揚は頂点に達し、「兄ィが拓いた〝道〟は、今日ここに通じていたんだッ!」と吼えながら『NSB』の代表たちの為に用意された特等VIP席へ右の人差し指を真っ直ぐに突き出した。

 養子キリサメのMMAデビューを見届けて欲しいと願う相手がそこにるのだろう。『天叢雲アメノムラクモ』の統括本部長が指し示すのは〝誰〟なのか――その正体を悟った人々から一斉にどよめきが起こったのは当然であった。

 現在いまは焦茶色の僧衣を纏う男は、ハゲワシのプロレスマスクも被ってはいない。それにも関わらず、岳は以前かつて通称リングネームを熱情の迸る大音声こえで呼んだのである。


「――養子てめーそっちのけで養父オヤジだけが同窓会気分かよ。これでマイクを持ってたら、そのまんまプロレス式のパフォーマンスじゃねェか。……レスラー同士の再会なんてのは、こんなモンかも知れねぇがよ」


 着地と同時にキリサメが双眸でもって見据えたリングには、およそ一ヶ月ぶりの再会となるじょうわたマッチが仁王立ちで待ち構えていた。

 これまでの試合と同様に剥き出しの腹にサラシを巻き、〝ボンタン〟と呼ばれるズボンを穿いた姿で腕組みしているのだ。競技用シューズは履かず、地に根を張るような力強さでマットを踏み締めている。

 眼光は磨き上げられたナイフのように鋭く、全身から荒々しい闘志を漂わせている。前方に突き出したリーゼント頭も昂揚が伝達つたって小刻みに震えているくらいだ。

 剥き出しの両足でもってマットを踏んだキリサメは、五枚の尾羽根を揺らしながら城渡マッチへと向き直った。


「逃げずにリングインした度胸だけは褒めてやるぜ」

「逃げても何も始まりませんから」


 『天叢雲アメノムラクモ』の最年少選手と、日本MMAの黎明期から闘ってきた古豪ベテラン――互いに『喧嘩師』と呼ばれる二人は、八雲岳が起こしたどよめきを背にしながら対峙のときを迎えた。

 このときにはメインアリーナの照明も再び点灯けられており、リングだけでなく場内全てから闇が払われている。

 光の向こうに現れた数多の顔とその視線から罪にまみれた身で『天叢雲アメノムラクモ』のリングに立つことを追及されているように思え、キリサメの背筋を冷たい雫が滑り落ちていった。



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