その3:青空(三)~奇跡の一本松にて

 三、Here Today Act.3



 陸前高田の街並みに微笑みかける青空の下を揃いのサイクル・スキンスーツに身を包んだ二人の自転車乗りライダー車輪ホイールの回転音を余韻として刻みながら駆け抜けていく。

 改めて詳らかとするまでもなく跨った自転車はロードレース仕様であり、前傾姿勢で力強くペダルを漕ぎ進める勇姿すがたは今から競技大会に繰り出すかのようである。強靭な筋肉を纏う両足は芸術品さながらに美しく、実際に様々なレースに出場しているのだろう。

 ココナッツの実を二つに割ったような形状のヘルメットには所属チームの物であろうとおぼしきロゴマークのステッカーが貼り付けてあった。

 二つの回転音が高度に訓練された連弾の如く東北の風を爽やかに渡っていったが、彼らとは逆方向を進んでいる為、歩道にてを聞くキリサメには後ろ姿を見送ることが叶わなかった。

 二〇一一年三月一一日一四時四六分――〝そのとき〟を迎えるまでありふれた風景としてった日常の面影を追い掛けるようにキリサメは荒涼な平地を潮の音が聞こえるほうへと歩いていく。

 今し方の二人は走り甲斐のある坂道を求めているらしい。つい先程も同じような出で立ちの自転車乗りライダーとすれ違ったのだが、ロードレース仕様の自転車と陸前高田の町の中で頻繁に遭遇する理由を考察していられるほどキリサメにも余裕があったわけではない。

 東日本大震災の一〇日後に八雲岳が都内の格闘技関係者を集めた会合についてきょういししゃもんから数多のことを教わったばかりである。一つ一つを反芻し、交わされた議論に意味を見出すという作業だけでも脳が破裂しそうになるのだ。


(……僕だって力道山というプロレスラーに関して何か知っているわけでもないけど、それでも岳氏の挑戦が途方もない無理筋ということだけは理解わかったよ……)


 昭和が中期から後期へと差し掛かる頃と現代とでは価値観そのものが大きく変わっているだろうに戦後プロレスを手本とすることは果たして本当に有効なのか――三年前の養父を覗き込み、その主張に首を傾げたキリサメ・アマカザリに対してきょういし沙門は「身内の贔屓で全部を肯定しないフラットな視点はこれからも大切にしろよ」と頷き返した。

 己の双眸で見届けた日本MMA復活の場景をキリサメに語って聞かせた沙門は、彼と同じ疑問を呈した人間は少なくなかったと前置きしたが、それは鬼貫道明や徳丸富久千代といった反対意見を指していたのである。


(……本当に凄い人は自分の才能を計れないまま他人ひとにも同じことを気軽に求めるものなんだよなぁ……全く敵わないよ……)


 自身が愛してやまない『くうかん』の門下生たちが被災地を荒らし回る無法者を懲らしめるべく自警団を結成しようとしたとき、沙門は実父と共に言葉を尽くしてを食い止めたという。三年前の行動を思えば「身内の贔屓で全部を肯定しない」という一言は余りにも重かった。

 視野狭窄としかたとえようのない正義がごく限られた環境下の同調によって際限なく増幅されてしまうことをキリサメは故郷ペルーの動乱で厭というほど思い知っている。自らを正義と信じて疑わない暴走を押し返すには相応の武力をもってして制圧するしかなく、徒党を組んで〝大統領宮殿〟へ押し寄せるデモ隊に向けて国家警察が催涙弾や非致死性の散弾銃ショットガンを発砲する光景を幾度も目の当たりにしている。

 理性というたがが弾け飛んだ者たちに踏み止まるよう呼び掛ける声など届くとは考えられなかっただけにきょういし親子がしたことはキリサメにとって驚愕を通り越して衝撃の一言であったのだ。


「一緒に居たうちの親父は八雲さんの一言一言に『よくぞ言った』と号泣してたよ。岡田さんは顔面が崩壊するレベルで泣きじゃくっていたって今も話したけど、それに負けず劣らずって感じだったな。……アマカザリはどうだ? 鼻水でグッチャグチャになった親の顔が夢に出てきてうなされるっつう経験あるかい?」

「質問の内容が余りにも特殊で答えようがありませんよ」


 沙門の実父ちちが自分の養父ちちに勝るとも劣らない大器うつわの持ち主であることは『こんごうりき』競技統括プロデューサーあるいは『くうかん』最高師範といった肩書きを除いても十分に察せられるのだが、その人柄については理解に苦しむばかりであった。

 教え子たちによる自警団について麦泉とギロチン・ウータンから視線を受けた際にも即時の返事が困難なくらいしゃくり上げていたという。


「ていうか、うちのお父さんに対する反応リアクションって考えたら最高にコワいんですけど……」


 思わず未稲が口を挟んでしまったのも無理からぬことであろう。東北の復興を支えるべく新たな闘いへ臨まんとする岳の思いに触れた沙門の実父ちちは〝感激家〟という性情を差し引いても過剰としか表せないほど大きく魂を震わせていたようである。

 当時の様子を振り返り、「八雲さんへの愛が重過ぎて、あいすまない」と実父に成り代わって未稲にこうべを垂れる沙門の口元も分かり易く引き攣っていた。


「そもそも、沙門氏のお父上と岳氏の間にどんな繋がりがあるのですか? お互いに意識し合っているということだけは何となく分かりましたが、同じ格闘技でも分野の異なる二人がどうしたら交わるのか、僕にはどうも飲み込めなくて……」


 アメリカのキックボクサーであるミッキー・グッドウィンと長い時間を掛けて育んだ絆に関しては、その経緯に至るまで岳本人から教わったものの、くだんの人物は『NSB』にも参戦していた為、全くの〝畑違い〟とも言い難い。

 対して沙門の実父は息子と同じ『くうかん』なる道場の空手家であり、最高師範として全国の門下生を導く立場にるという。鬼貫道明が経営する『ダイニングこん』などで交流を深めたという可能性も否定できないが、接点の有無に関わらず号泣という形で感情を破裂させるほど岳に入れ揚げる理由がキリサメには一つとして分からないのだ。

 真隣にて「ストーカーの心理に整合性なんか求めても意味ないよ」などと呻いている未稲と心境は大して変わらないのである。


「でも、それを言い始めたらキリくんだって籍を置いた団体が違うのに空閑電知と仲良くしてるじゃん。概ね同じ感じだと思うよ」


 キリサメに話しかけながら微妙に距離を取っているのは〝先程のこと〟が尾を引いている所為せいである。人前で激しく唇を貪られたのだから当然であろうが、顔面から耳に至るまで真っ赤に沸騰していた。


「さすがはお嬢ちゃん、『八雲道場』のブログを管理してるだけあって頭の回転がすこぶる速いぜ。でも、ベストな例えはアマカザリと俺じゃないかな? 二世代に亘って意識し合う八雲家ときょういし家なんてフィクション顔負けのドラマチックな関係をね、できれば例に使って欲しかったよ」

「そもそも教来石さんがキリくんと知り合った経緯すら私は聞いてませんけどね⁉ 気付いたときには『ずっと昔から二人は仲良し』みたいな空気だったじゃないですか! 何なんですか、一体? 前世からの因縁とか⁉ だったら置いてきぼりにされるのも仕方ないと思うますけど、フィクション顔負けのドラマチックな関係とやらも、そこまでブッ飛んでませんよねぇ⁉」

「俺とアマカザリの馴れ初めかい? 話すと長くなるし、アクションシーンも入ってややこしくなるから、また今度、説明するよ」

「今度って何時ですか⁉ ていうか、アクションシーンって何事っ⁉ キリくん、私たちの知らないトコで路上戦ストリートファイト三戦目とかやってないよね⁉ 『天叢雲アメノムラクモ』公式記録より場外戦のほうが戦績多くなっちゃう勢いだよっ!」


 己の養父と沙門の実父――両者の関係性に首を傾げるキリサメと同じような状況が未稲のなかでも続いていたわけである。それどころか、除け者扱いにも近い恰好なのだ。すれ違う人々の視線など気に留めず、苛立ちを露にしてしまうのも無理からぬことであろう。


「俺としちゃあ、アマカザリとお嬢ちゃんの馴れ初めのほうが気になるけどな。淡白そうに見えて大胆に肉食系じゃねぇの。さすがの俺もドキドキしちまったよ」

「馴れ初めも何も……さっきと同じように僕のほうからみーちゃんの口を――」

「――キリくんは余計なことを言わないのっ!」


 ここぞとばかりに冷やかしてくる沙門に対し、初めて口付けを交わした夜のことを簡単に明かしてしまいそうなキリサメの背後まで回り込んだ未稲は両手でその口を塞いだ。

 キリサメが首を頷かせて黙っていることを了承した直後、飛び退くように身を引き剥がしたのは再び唇を貪られるのではないかと警戒した為である。


「確か『コンデ・コマ・パスコア』……だっけ? 『天叢雲アメノムラクモ』と『NSB』が手を組んだ日米合同大会ほどのスケールじゃないと思うけど、日本格闘技界花盛りの頃にMMAと打撃系立ち系格闘技の頂上決戦をやったんだよ。うちの親父、その大会に八雲さんと一緒に出場してるんだ。……多分、そこで惚れ込んじまったんじゃないかなァ」

「その話をキリくんにしてあげる時間があるなら、私の疑問に一〇秒くらい割いてくれても良いのになぁ~! なんだかなぁ~! 依怙贔屓が露骨なんだなぁ~っ!」


 すっかり不貞腐れてしまい、「いっそ二人が仲人やってあげれば? 『天叢雲アメノムラクモ』の統括本部長が『こんごうりき』の競技統括プロデューサーを嫁に貰ったら、それが一番ドラマチックだよ!」などと意味不明なことまで言い始めた未稲を更に置き去りとして、沙門はキリサメの頭を悩ませる疑問に一つの答えを示していく。

 『天叢雲アメノムラクモ』の前身であるMMA団体『バイオスピリッツ』は二〇〇二年の真夏に打撃系立ち技格闘技団体『こんごうりき』と対抗戦形式の興行を共催していた。

 当時の日本格闘技界を代表する二団体が手を組んだ上に国内史上最大規模の大会ということもあり、屋外リングが特設された国立霞ヶ丘競技場には九〇〇〇〇人を超す観客が詰め寄せ、都会のビルから吹き降ろす風よりも熱い夢の祭典ドリームマッチに酔い痴れたのだ。

 前田光世コンデ・コマの孫弟子に当たり、日本武道では〝免許皆伝〟ともたとえられる認可を授かった人物――ドナト・ピレス・ドス・ヘイスのもとで心技体を鍛え上げ、彼の道場を継承してブラジリアン柔術を大成に導いた先駆者一族の最長老がセレモニーへ招待されるなど同大会は格闘技を愛する人々にとって一生の想い出となったのである。

 この頃、沙門の実父は現役の競技選手であり、発足当初から携わる『こんごうりき』にも『くうかん』の看板を背負う空手家として出場していた。拳を交える機会には恵まれなかったものの、くだんの大会では所属団体の垣根を超えて岳とも深く心を通わせたという。

 は現役を退いて『こんごうりき』の競技統括プロデューサーに就任する一年前のことである。格闘技を愛する全ての者たちを熱く昂らせた夢の祭典は彼の心に原体験の如く刻み込まれ、『天叢雲アメノムラクモ』にいて自分と同様の立場となった八雲岳と手を結べば、くだんの大会に匹敵し得ることさえ成し遂げられるに違いない――そのように信じ込んでいるのだろうと、沙門は実父に対する私見を述べた。

 どこからどう聞いても思い込みの激しさが生み出した錯覚である。亡き母から教わった人間の心理に当て嵌めるとすれば、「恋に恋する乙女」のようなものとしかキリサメには考えられず、未稲や沙門が口元を引き攣らせた理由も本当の意味で理解に至った。

 何とも例え難い靄が胸の奥に垂れ込めてしまうような錯覚であるが、沙門の実父が岳の言葉を受ける形で皆に示した復興支援の〝筋道〟が理に適っていることはキリサメも余計な感情を差し引いた上で素直に認め、深く感じ入っている。


「日本のMMAは今から一〇年くらい前までが黄金時代。鬼貫氏の異種格闘技戦から総合格闘技にシフトしていった黎明期は僕や沙門氏が生まれた一九九〇年代中盤まで遡れる。その頃から日本MMAを応援してくれた若者たちは大人になり、親にもなっている。最古参のファンを励ますことはその子どもを援けることにも通じる――でしたね?」


 『こんごうりき』の競技統括プロデューサーが岳の熱意きもちに触発されて口走ったという言葉を諳んじたキリサメに対して沙門はこの上なく嬉しそうに口の端を吊り上げ、親指一本だけを垂直に立てた握り拳で正解と示した。

 それもまた実の息子である沙門が八雲岳の養子に語ったことの一つであり、補足説明として自身が所属する『こんごうりき』という団体の特色も付け加えている。

 脇で耳を傾けながら「がレールを敷いたと思えないくらい『天叢雲アメノムラクモ』とは別物ですよねぇ。分野ジャンル云々じゃなくて体質そのものが正反対っていうか」と未稲も頷き返していたが、『こんごうりき』は〝プロ〟の競技選手たちが集う興行イベントとしては異例という頻度と積極性でチャリティー試合マッチで開催しているという。

 沙門当人のデビュー戦も骨髄バンクへの支援を目的とするチャリティー興行イベントであった。

 未稲が述べた通り、〝或る時期〟を迎えるまではではなく弱肉強食の真剣勝負を前面に押し出していた『バイオスピリッツ』とは団体としての方向性からして異なっており、八雲・きょういし両家の実子こどもたちも「二〇〇二年の合同大会が成立したことは殆ど奇跡」と口を揃えていた。

 福祉活動が事業の一部となっているような格闘技団体だからこそ東日本大震災の復興支援という岳の志にも強く呼応したのだろうとキリサメは解釈しているが、その認識が大きく外れていないことは沙門の説明はなしからも明らかである。


「日本MMAの黎明期に俺やアマカザリと同じ年齢としくらいでも、現在いまでは社会を支える立場になっている。その上、黄金時代のファンは東京ドームのキャパシティーを軽く超えるようなスケールと来たもんだ」


 沙門の言葉を補うかのようにして未稲からキリサメに耳打ちされたことであるが、東京ドームに於ける興行の一例として挙がったのは二〇〇三年一一月に開催された『バイオスピリッツ』の大一番であった。

 『天叢雲アメノムラクモ』へと団体が変わった現在いまも絶対王者として君臨し続ける『かいおう』――ゴーザフォス・シーグルズルソンがタイトルマッチにも関わらず負傷によって欠場を余儀なくされるなど波乱含みではあったものの、日本にけるMMA人気の立て役者たちが顔を揃えるという黄金時代の象徴たる大会であり、五〇〇〇〇人という東京ドームの観客席に対して最終的に六七〇〇〇人を超える動員数を記録したという。

 それは紛れもなく前身団体バイオスピリッツが日本格闘技史に刻んだ栄光である。これを当事者の一人として記憶に留めていればこそ『天叢雲アメノムラクモ』の統括本部長は日米合同大会コンデ・コマ・パスコアを東京ドームで開催することにこだわるのだろうとも、実の娘は分析しているのだった。


前身団体バイオスピリッツの解散によってMMAから気持ちが離れてしまった人たちも八雲岳の名前を聞けば必ず戻ってくる。心に僅かでも残り火があるならば、八雲岳はそれを魂まで焦がすような炎の塊に変えてしまう。『超次元プロレス』は止まったときをも超えていく――実の親父のことながら、仮にもライバル団体の競技統括プロデューサーがそこまでMMAの統括本部長を持ち上げるのもどうかと思うがな、正直」

「でも、一つの事実として、うちのお父さんがリングに戻ってから日本のMMAは息を吹き返したところがあるわけで……どうしたって手前味噌というか、身贔屓みたいな言い方になっちゃうのがヤだなぁ~」

「そこはみーちゃんも素直に胸を張ってあげたら良いんじゃないかな。わざわざ岳氏の功績を打ち消す必要もないわけだし……」


 沙門の父親から八雲岳に寄せられた熱烈な評価を承認でもするかのように首をうなずかせたのは未稲であった。

 陸前高田市を貫く歩道みちを潮の香りが流れ込んでくる方角に進みつつ、決起の場に居合わせたという沙門の話へキリサメと一緒に耳を傾けてきたわけだが、未稲の場合は日本MMAが復活に向かう一部始終を誰よりも間近で見守り続けていたのである。

 MMA日本協会の副理事長ばかりか、鬼貫道明にさえ無謀と戒められた八雲岳の挑戦を実の娘という立場で支えたのだ。それだけに沙門の言葉へ〝事実〟という一言で応じた意味は極めて重かった。

 その未稲がキリサメと共に振り返ったのは二〇一四年六月へと辿り着く日本MMAの歴史であり、沙門より語られた三年前の出来事は極めて重大な転換点として含まれている。

 己が挑まんとしているMMAの世界について勉強の途中であるキリサメに対し、未稲と沙門は折に触れて様々な解説を添えていた。いずれも三年という僅かな時間に訪れた変化をつまびらかとするものである。

 日本初の女性MMA選手――吉見定香が花形エースを務めた『メアズ・レイグ』は『天叢雲アメノムラクモ』に吸収される形で消滅し、代表として同団体を率いた有理紗も今や『サムライ・アスレチックス』の経理へと肩書きを変えている。

 沙門が気まずげに口を噤み、「本人の前で言っちゃダメだよ? キリくん、今さっきみたいに天然でやらかしそうで怖いんだよなぁ」と前置きした上で未稲が躊躇いがちに明かしたことだが、この三年の間に彼女の苗字は『』から『倉持』にという。

 〝倉持有理紗〟とは反対の意味で肩書きと立場が変化した人間もMMA日本協会には少なくない。『ラッシュモア・ソフト』を一代で築き上げた徳丸富久千代は二〇一二年に社長の座を息子へ譲り、岡田健に至ってはの文部科学大臣に就任していた。

 吉見定香が京都・はなしょ学院大学の准教授となったのも二〇一三年のことである。


「ライバル団体といえば沙門氏、前身団体バイオスピリッツから『天叢雲アメノムラクモ』までの間にも幾つか総合格闘技MMAの団体があったと話していましたよね? 説明ではMMA日本協会とやらの傘下のような印象を受けましたが……」

「国内で一番大きな団体が吹き飛ぶというコトはMMA選手――特に日本人選手が行き場を失って路頭に迷うのと同じだよ。『バイオスピリッツ』解散直後に発足したMMA日本協会が真っ先に要求されたのはの救済ってワケ」


 岳が統括本部長の立場で担うことになった『バイオスピリッツ』の幕引きについて、実の娘の前で明かしていくことを沙門は憚っているらしく、キリサメの質問に答えながらも彼女の顔色を窺い続けていた。

 を刺激しないようMMA日本協会にまつわる説明はなしも最小限に留めていたが、その気遣いこそ未稲には煩わしかったのだろう。「責任取って現役を引退してたお父さんは無関係だけど、城渡さんたちの移籍先は何個か立ち上がったんだよ」と、『バイオスピリッツ』に後続するMMA団体を自らの口で語り始めた。


「私が言うとイヤミっぽくなっちゃうかもだけど、どれも長続きしなかったんだよ。テレビ局とも『バイオスピリッツ』ほど上手く提携できなかったし、最後まで残っていた団体だって『天叢雲アメノムラクモ』が旗揚げしたら、すぐに勢いを失くしちゃってね」

「最初から『天叢雲アメノムラクモ』はMMA日本協会と歩調を合わせるつもりはなかったのかな?」

「うーん、キリくんってばなかなか答えにくいことを突いてくるねぇ~。『まつしろピラミッドプロレス』以外には格闘技関係の仕事を全部断ってたお父さんは勿論だけど、樋口さんも、……文多さんだってMMA日本協会が関わった団体とは距離を置いてたんだよ。柴門さんなんてスゴいんだよ? 『サムライ・アスレチックス』に勤めなくても余裕で食べていけるような人なんだから。ていうか、現在いまでは副業サイドビジネスになった貿易商のほうが絶対儲かってるって」


 二〇一四年現在の『サムライ・アスレチックス』にいて渉外活動を一手に引き受けるさいもんきみたか前身団体バイオスピリッツの運営企業でも同じ任務を遂行していたが、解散と同時に格闘技関係の仕事を全て打ち切り、東京まで引き払って熱海の海岸線沿いに個人経営の貿易会社を立ち上げた――と未稲が説明を付け加えた。

 東日本大震災直後の三月一五日に発生した静岡県東部地震では幸いにも事務所の倒壊といった被害には見舞われなかったものの、兼ねてより東北にて発生している事実無根の風評被害に動転した海外顧客への対応に苦慮しており、じまプリンスホテルの会合に駆け付けることはできなかったのである。

 未稲によれば、くだんの貿易会社は柴門当人に勝るとも劣らない才能を持った妻が現在も切り盛りしているという。『天叢雲アメノムラクモ』に関連する渉外活動で多忙を極める為、普段はホテル暮らしを余儀なくされている柴門だが、余暇を確保するたびに熱海へ帰るほどの愛妻家であるそうだ。

 〝生活臭〟を他者には全く感じさせず、軽妙洒脱を絵に描いたような柴門には似つかわしくないとさえ思える素顔には、さしものキリサメも意外そうに目を見開いた。


「今さっきお嬢ちゃんが話した通り、団体丸ごとの牽引役が――その選手一人で客を呼べるようなスター選手を最後まで得られなかったのはやっぱり致命傷だわな」


 自分と同様の謳い文句を付けられている為にキリサメも折に触れて想い出してしまうのだが、『バイオスピリッツ』にいて〝最年少選手〟と呼ばれた選手は沙門が語った〝牽引役〟を担えなかったようである。

 〝最年少選手〟だけに所属団体バイオスピリッツの解散に伴って引退したとは考えにくいが、未稲も沙門も『祇園の雑草魂』という通称に一度たりとも触れておらず、口にしないまでもキリサメには甚だ疑問であった。


「……こんなことを言うと各方面から叱られちまうけど、日本MMAの黄金時代を作った人たちが外れた影響で盛り上がりに欠けたのは間違いない事実だな」


 それでもMMA日本協会は総合格闘技そのものに誠心誠意を尽くしていた。その事実だけは樋口にも否定して欲しくない――と、沙門は何とも例え難い表情かおで言い添えた。

 『バイオスピリッツ』解散に前後する二〇〇〇年代末期であるが、スポーツ医学の中でも格闘家・武道家の肉体を専門的に取り扱う分野――〝格闘技医学〟が提唱され、多くの同志たちによる中立的な研究機関も設立されていた。

 沙門はその第一人者と昵懇な間柄であり、効率的かつ安全なトレーニングメニューの策定に助言を仰ぐだけでなく、症例に応じた最善の治療とリハビリ、未然に故障を防ぐ工夫など医学的見地から空手を支える為の指導を『くうかん』の師範たちと共に受けていた。

 〝格闘技医学会〟の一員であるスポーツドクターもMMA日本協会に理事として名を連ねている。管轄団体主催の興行イベントいて医療班を指揮するほか、競技選手とそのスタッフに対して予防医学の理念を説いていた。いずれも選手生命と引退後の健康的な生活くらしを守る為の取り組みである。

 MMA日本協会に参加するつえむらという女性医師スポーツドクターも元々は武道家であり、MMAルールで許可された範囲の人体急所を最も効果的に狙撃する技術指導にも力を注いでいる。傍目には矛盾した理論のように思えるだろうが、故障の治療・予防と共に戦闘能力向上への貢献も格闘技医学が担う役割であった。

 じまプリンスホテルの会合に出席するよう岳も要請しており、他の誰より早く駆け付けるだろうと期待したそうだが、被災地から都内へ避難してきた人たちの診療こそ優先させたいという意向を示し、法律の専門家という立場でMMA日本協会を支えるたてやま弁護士と同様に欠席していた。

 杖村という人物を良く知っているらしい沙門は「あの人が居合わせたらギロチンさんとは違う意見で八雲さんに立ち向かったハズだよ。短期間での準備ほど選手に負担を掛けるものはないってね」と自らの推察を述べたが、杖村理事の本業は整形外科医である。未曽有の天災に向き合おうというとき、その使命が〝格闘技専門のスポーツドクター〟という立場を上回るのは当然かも知れない。

 格闘技医学会も杖村の決断を大いに称賛したことを未稲も言い添えた。

 何しろ杖村は江戸時代から続く骨接ぎの名門――『ぐらどう』の名乗りを本家から直々に許される名医なのだ。

 時代を下った現代にいても『名倉堂』は骨接ぎの代名詞であり、これを称するは全国に数多く点在している。しかし、本家と同じは極めて珍しく、それこそが杖村の力量と実績を裏付けていた――名倉堂歴代の関わりを中心に日本格闘技界の近現代史も研究しているという未稲の説明を遮り、キリサメは思わず「あの名倉堂⁉」と訊ね返してしまった。

 過剰な反応になってしまうのも無理からぬことであろう。格闘技について学習の途中というキリサメも『名倉堂』という名称なまえには聞きおぼえがあるのだ。

 日本最後のけんかくと名高いさかきばらけんきちは明治維新によって急速に廃れつつあった剣術という〝文化〟を未来に繋ぐべく〝げきけんこうぎょう〟を催したのだが、彼のことを江戸の顔役――しんもんたつろうと一緒に支えたのが〝せんじゅぐらどう〟であり、四代目当主・ぐらいちであった。

 秋葉原の町を駆け巡りながら『タイガー・モリ式の剣道』と斬り結んだときのことであるが、当の瀬古谷寅之助が武術史に詳しい様子の野次馬を交えてそのように語っていたはずなのだ。

 日本武術興亡の瀬戸際で存続に力を尽くした『名倉堂』の系譜が現代の格闘技医学にも繋がっているという事実は何事にも無感動なキリサメをも驚かせたわけである。


(……格闘技医学とやらを考えれば考えるほど引っ掛かるよな。選手の安全性に配慮したルールを打ち出す割には仕組みがチグハグだ)


 その上でキリサメは首を傾げる仕草と目配せでもって一つの疑問を未稲に投げ掛けた。

 格闘技医学という理念は言うに及ばず、医学分野の総称を冠した機関すら今日まで知らなかったのである。記憶の水底を浚ってはみたものの、少なくとも『天叢雲アメノムラクモ』長野大会で配布されたパンフレットにはどちらの名称も記載されていなかったはずだ。

 キリサメが思い浮かべた疑問は未稲にもすぐさまに伝わったようだ。「また杖村さんに手取り足取りレクチャーして欲しいぜ。注意の方法がまたキュートなんだわ」などと杖村への個人的な感情を洩らし始めた沙門を冷ややかに黙殺しつつ、何とも例え難い面持ちで首を横に振ってみせた。

 その返答がキリサメの疑念を更に深めた。MMA日本協会との関係が芳しくなかろうとも所属選手の安全性を謳うならば格闘技医学会とは提携してもおかしくないだろう。どうやら『天叢雲アメノムラクモ』は試合内容を原因とする故障を自己責任と割り切っているようである。

 東北の青空に杖村の顔を映しているらしい沙門が同行者たちによる無言のやり取りに勘付いたなら、格闘技医学にも直結する実例を付け足したことであろう。

 ほんの数日前のことであるが、北米を代表する伝説的な〝悪玉ヒール〟レスラーに対してカナダ・オンタリオ州オタワの上級裁判所から二三〇万ドル――日本円にして二億円を超える賠償命令が下された。

 一九七〇年の初来日からおよそ四〇年――若き日の鬼貫道明やプロレスラー時代のヴァルチャーマスクとも名勝負を繰り広げたアメリカマット界の重鎮が二〇一四年現在で三二歳という元プロレスラーから提訴されたのだ。

 この二人は二〇〇七年に双方が真っ赤に染まるような大流血戦を繰り広げたのだが、その際に老将の血から若き精鋭にC型肝炎が感染したという疑惑が立ち上がったのである。

 互いの肉体をぶつけ合い、弾け飛ぶ汗の一粒にまで闘いの物語を行き届かせるのがプロレスであるが、〝悪玉ヒール〟の試合ともなると観客から求められる内容ものも一層激烈となり、鮮血によってマットを染めるデスマッチは大舞台であった。

 二〇〇一年にデビューしたばかりの若き精鋭は二次感染の恐れから二度とその大舞台に立つことが許されなくなってしまったのである。所属団体との交渉も不調に終わり、僅か一〇年余りでプロレスラーとしての経歴キャリアを閉じざるを得なくなっている。

 〝生きた伝説〟を超えるべく闘魂を燃やしていた若者が理不尽極まりない形で未来を奪い取られてしまったのだ。

 日本で最も有名な外国人レスラーの一人ということもあり、悪名高いスポーツ・ルポライターのぜにつぼまんきちなどは法廷闘争の最中にも被告側を擁護するような空気をワイドショーで作り出そうとしていたが、格闘技に関わる全て人間は現役の晩節に辛い出来事を残してしまった老将へ同情を寄せるのではなく、格闘技史に残る痛恨事として厳しく受け止めなくてはならないのだった。

 格闘技医学にける〝予防〟とは靭帯損傷や骨折といった〝怪我〟の回避に限定されるわけではない。互いの身を拳で削り合う闘いの場では皮膚が裂けて血が流れる。その血に触れた者が何らかの病に罹ってしまう――血液の取り扱いにさえ負傷者の止血と併せて想定すべきリスク管理が組み込まれていた。

 つまるところ、『天叢雲アメノムラクモ』はルールによって所属選手の安全性を確保しながらMMA団体として深刻な認識不足を内包しているようなものであった。組織の体質に対して厳格な眼差しを向け、格闘技医学会とも深く交わる沙門は口にこそ出さないが、内心では同団体の致命的欠陥を懸念していることだろう。

 反則以外のあらゆる技術がルールとして許可される総合格闘技MMAの性質上、『こんごうりき』とは比較にならないほど選手同士の接触が頻繁にして濃厚なのである。そこには血液感染以外の様々な危険性リスクが潜んでいるのだ。


「……リハビリ中の人を悪く言うみたいで気が引けますけど、さんには荷が重過ぎたみたいですもんね……」


 予防医学の全否定とも受け取られ兼ねない部分である為か、統括本部長の娘としては何とも触れ難いようで、仕切り直しの如く『』という人名なまえを口にした。

 自身が契約したMMA団体に関わることではあるものの、体質に問題があろうとも出場を考え直すつもりがなく、未稲との誓いを果たす覚悟でいるキリサメは底意地の悪い追及もしなかった。


「その所為せいで無理が祟ったようなモンだしなぁ。……売り出す材料がないのは運営計画が最初から破綻しているのと同じだし、徳丸先生、定例会のたびに難しい顔でソロバンを弾いていたそうだ。三年前の会合で話題になった日本最初のプロレス興行も大きく躓いたが、物珍しさで人目を引くこともできないんだから状態としてはもっと悪いかもな」


 未稲が名前を挙げた『』という選手にも沙門は三年前の顛末を語る中で触れていた。リハビリ治療を要する事情も含め、詳しい経歴まではキリサメも把握していないが、『バイオスピリッツ』解散後にMMA日本協会の主導のもとで旗揚げされた団体でプロデビューを飾った日本人選手である。

 通称まで含めた名乗りフルネーム・ガレオン・のりはるであった。

 実力・実績とも十分であり、新体制の日本MMAを牽引し得る可能性を確実に秘めていた――そのはずであったのだが、とうとう花形エースの領域には手が届かなかったという。

 その事実が団体の経営に与える影響はキリサメにも想像できた。

 内外から『客寄せパンダ』同然に扱われる〝変わり種〟を格闘たたかいのリングに上げることから電知は『天叢雲アメノムラクモ』の主催者たちを憎悪しているのだが、MMA日本協会はすらも確保できなかったようである。


「――でも、一つの事実として、うちのお父さんがリングに戻ってから日本のMMAは息を吹き返したところがあるわけで……」


 直轄にも近い団体を幾つも短命に終わらせてしまったMMA日本協会と、同団体が敷いた道筋レールに乗らなかった『天叢雲アメノムラクモ』との明暗を分けたモノは未稲が控えめに呟いた一言にこそ表われている。

 『鬼の遺伝子』として異種格闘技戦を経験した実績は日本MMAにいて最も大きな意味を持つ。その上、全国的な知名度の高い近世大名・真田家由来の忍術を極めたプロレスラーという特異な立ち位置にもるのだ。生半可な『客寄せパンダ』など比べ物にならないほど好奇心を掻き立てる存在といえるだろう。

 戦国武将の如く髪を結い上げ、ろくもんせんの陣羽織を纏う勇姿すがたを誰もが放ってはおけない。灼熱ともたとえるべき気魄を全身から発し、周りの人々を巻き込んでいく――『天叢雲アメノムラクモ』が公開しているプロフィールに八雲岳は〝太陽のような男〟と記されているのだ。

 これに対して・ガレオン・のりはるは『天叢雲アメノムラクモ』が配布しているパンフレットのどこにも名前が見当たらなかった。花形エースにはなれずとも消滅寸前の日本MMAを支え、貢献した事実は間違いなかろう。


(……MMA日本協会か。審判を送り込んでくるとか、それを突っ撥ねるとか、樋口氏が話していたおぼえがあるけど、身内同士の潰し合いが尾を引いてるってところかな……)


 そもそもキリサメはMMA日本協会という組織について『天叢雲アメノムラクモ』に関わる誰からも具体的な説明を受けたおぼえがない。法律の専門家がMMAのルール策定に携わっていることすら沙門の話を聞くまで全く知らなかったのだ。

 『天叢雲アメノムラクモ』の契約選手として順守すべき要項を未稲が自ら取りまとめたマニュアルにはリング上での反則行為などが細かく記されていたが、その一方でMMA日本協会には一度も言及していなかったのである。

 改めて記憶の水底を覗いてみても樋口たちが会話の中で触れた名称なまえを傍らにて聞き、その内容から『天叢雲アメノムラクモ』ひいてはを主催するスポーツプロモート企業『サムライ・アスレチックス』との間に確執が生じていることを推し量った程度であった。

 日本MMAという一つの〝世界〟の中で果たしている役割どころか、『天叢雲アメノムラクモ』との関わり方すらキリサメには想像もできない。それだけに協会役員たちの身辺事情を説明されても殆ど印象に残らないわけだ。

 唯一、キリサメが気になったのは樋口郁郎の変調である。

 『バイオスピリッツ』代表という立場から日本MMAの黄金時代を築いたという自負がある為か、樋口は年齢の差や肩書きなどに遠慮はしない。誰もが辛辣と思う憎々しい態度は少しも変わっていない様子だが、沙門の話を通して三年という歳月を俯瞰するキリサメには頭の中身がそっくり入れ替わったようにも感じられた。

 暴君さながらに振る舞う現在いまの有り様とは明確に異なっている。

 三年前は被災地から東京に戻ってきた岳を誰よりも早く出迎え、抱擁をもって無事を確かめ合った樋口が今では古参のMMA選手を邪険に扱い、『天叢雲アメノムラクモ』という〝組織〟の根を腐らせる害虫などと蔑んでいるのだ。

 誰の耳にも入らない場所で陰口を叩くだけならばまだしも黄金時代を共にした同志であろうベテラン選手をも薄笑いで面罵し、若手の積極登用によって彼らを実効的に放逐しようとしている。経営判断という一言で割り切るには余りにも仁義を欠いた画策であり、三年前の対極といっても過言ではないだろう。

 八雲岳すら前時代の遺物の如くせせら笑うさまをキリサメは己の双眸で確かめている。

 これではギロチン・ウータンが以前に所属していた女子プロレス団体の経営陣フロントと大して変わらないではないか。彼らは〝悪玉ヒール〟レスラーの将来など少しも考えず、金蔓として使い潰そうと企んでいたようである。

 現在いまの樋口郁郎ならば――日本格闘技界を翻弄する〝暴君〟ならば、ギロチン・ウータンに対しても同様の仕打ちを平然とやってのけるに違いない。


「――そういえば、岳氏は希更氏のご家族とも知り合いだったんだね。鬼貫氏の店でもやけに親しそうだったけど、元から繋がりがあったわけか」

「ジャーメインさんだね。お父さんの連絡を貰ってすぐに道場ジムる熊本から駆け付けてくれたんだって。『ムエ・カッチューア』の名門・バロッサ家だけに対応早いよねぇ~」

「どちらかというとバロッサ家の一族は『金剛力うち』との繋がりのほうが深いと思うがね。もう何年も前のことだけど、ジャーメイン師範のお義兄にいさんも出場していたんだよ。ビクトー・バルデスピノ・バロッサって名前、アマカザリは聞いたことがないか?」

「……友人――いえ、知人から何となく聞かされたおぼえがありますね」


 黙りこくったまま思いを巡らせ続けるわけにもいかず、三年前の会合に出席したという希更・バロッサの母親について二人と語らうキリサメであったが、心の中では樋口の全身を巡る血が毒にでも変わってしまったのではないかと首を傾げた。


「一応、キリくんに説明しておくとね、バロッサ家全体をシキる総帥は別の人なんだよ。ジャーメインさんはその人の代理。むしろ、『バロッサ・フリーダム』を代表して上京したって言い方のほうが合ってるのかな。総帥のほうはこうのおじいちゃまの盟友なの」


 未稲が「孔のおじいちゃま」と呼んだ人物――こうれいとは『NSB』にいて特別顧問兼アジア地域担当スーパーバイザーを務める台湾武術界の重鎮である。キリサメが電知と繰り広げた路上戦ストリートファイトの最終局面へ割り込み、両者を止めた古老とも言い換えられるだろう。

 仙人の如く浮世離れした風貌の持ち主に電知は「たいじん」と礼儀を尽くしていた。その盟友というからにはこうれい同様に一世紀近く時代の移ろいを見守り続けてきたはずである。それならば代理を立てるのも無理からぬことであろうとキリサメも相槌を打ったが、樋口の変調へと意識を埋没させている最中だけに首を頷かせる動作すら空返事に等しかった。


「三年前かぁ。惜しいチャンスだったなぁ。あの頃の俺に今くらい度胸があればジャーメイン師範をディナーにお誘いできたのになぁ。大きな子どもがいると思えないくらい可憐でスタイル抜群で……勇気を振り絞ってでもメルアド交換をお願いすべきだったなぁ」


 余りにも軽薄な沙門の物言いに呆れ果て、「ついさっき杖村さんにラブコールしたのはどこのどいつですか⁉」と吐き捨てた未稲の声もキリサメの意識を素通りしていった。


「アルフレッドさんって言ったかな――向こうの旦那さん、熊本でも有名なやり手の弁護士みたいですから、あんまり不埒なコトばっか抜かしてると裁判所から『くうかん』に呼び出しのお手紙が届きますよ? ……沙門さんのスキャンダラスなウワサ、MMAの界隈にまで聞こえてきているんですからね」

「冗談、軽い冗談だって。俺だってバロッサ家を敵に回すワケにはいかないもん。本当ならジャーメイン師範の娘さんにも同じ立ち技系の『こんごうりき』からデビューして欲しかったしね。……あ! 娘さんのほうと連絡先を交換すべきかな? 年齢トシだって俺と変わらないからお母さんよりと相性良いのかも。八雲さんにセットアップを頼むのもアリかな」

「全ッ然冗談に聞こえないんですよねぇ、沙門さんの場合。そうやって舌の根の乾かない内にアブないコトを口走るし! ……ホント、ど~ゆ~成り行きでうちの朴念仁もといキリくんと仲良くなったんだか……」


 思いも寄らない〝流れ弾〟を直撃されたキリサメは未稲の視線から逃れるように足元へと――舗装されていない砂利道へと視線を落としつつ、沙門がおどけた調子で呟いた「敵に回す」という一言を誰の耳にも聞き取れないほど小さな声で復唱した。

 現在いまの樋口郁郎を暴君と断じざるを得ない理由の一つとして〝倉持有理紗〟に対する処遇が挙げられる。

 二〇〇〇年の旗揚げから一〇年以上も『メアズ・レイグ』を運営し、『ジョシカク』を主導し続けた倉持有理紗は『バイオスピリッツ』もろとも日本からMMAという〝文化〟を衰退させた樋口郁郎よりも遥かに優秀であろうと謳われている。ファンの間に流れる風聞だけでなく、後者の古巣であるはずの格闘技雑誌パンチアウト・マガジンでさえ前者の手腕を日本格闘技界の財産として大きく取り上げているのだ。

 こうした評価に見合うだけの知識と経験を兼ね備えた倉持有理紗が『サムライ・アスレチックス』では飼い殺しにも近い状況に立たされていた。『天叢雲アメノムラクモ』の興行への関与が許されないばかりか、同社では役職すら与えられていない――沙門が憤りと共に語ったことは未稲も苦々しく思っていたようで、女性選手への影響力を牽制すると同じであり、懲罰人事より遥かに悪質だと吐き捨てるかのような声色で言い添えていた。

 それは『メアズ・レイグ』に関わった全ての人々を敵に回すことにも等しい。同団体を平らげ、『天叢雲アメノムラクモ』へ取り込もうというときに恨みを残せば後々までたたることは明らかであろうに、これを危惧する声さえも樋口は封じ込めてしまったという。

 二人とも具体的な名前は挙げていなかったが、懸念を示したのは麦泉や柴門と考えて間違いないだろう。


(沙門氏やみーちゃんの話を聞く限り、……いや、そうでなくとも敢えて敵を作っているとしか思えないな。ゴーザフォス・シーグルズルソンのことまで時代遅れの邪魔者のように扱き下ろしていたくらいだし……)


 沙門や未稲の言葉しか手掛かりを持たないキリサメには裏面まで読み取ることは叶わなかったものの、それを差し引いても三年前の時点ではMMA日本協会との関係が大きく拗れているようには思えなかった。事実、八雲岳と吉見定香あるいは鬼貫道明と岡田健などはそれぞれ親愛の情をもって交流していたではないか。激しく議論を交わした岳と徳丸富久千代でさえ敵意などは挟んでいなかったのである。

 三年という月日の中で両者の間に対立が生じたとするならば、独立独歩の団体運営を画策する樋口がMMA日本協会を蔑ろにし、彼にとって最も都合の良い断絶という構図を作り上げたとしかキリサメには考えられなかった。

 キリサメが樋口郁郎と出会ってからまだ三ヶ月と経っていない。それにも関わらず、相対する人間ことごとくに善からぬ感情を抱かせ、本来は良好であったはずの関係にまで摩擦を招いてしまう姿を数え切れないほど見聞きしたのである。

 むしろ、樋口の身辺には穏やかならざる事例が溢れ返っているというべきであろう。キリサメが知る限りでは友好的に接している相手など秘書のくらいであった。

 自分以外を全力で応援こそすれども負の想念を叩き付けることのない岳でさえ、苦楽を共にしてきたはずの樋口に鬱憤を覗かせる瞬間があるのだ。

 付き合いの長さとは絆の深さを直ちに意味するのではなく、憎しみを積み重ねるということでもある。不当な扱いを受け続ける倉持有理紗は言うに及ばず、今となっては麦泉や柴門でさえ〝樋口社長〟に心からの信頼を寄せることは難しいだろう。

 古巣の格闘技雑誌パンチアウト・マガジンに至っては編集部が広報活動の一環として運用するインターネットの〝キャラクター〟と、に関連する映像を動画サイト『ユアセルフ銀幕』にて配信しているスタッフまで樋口の思うがままに操られてしまったのだ

 同誌から『サムライ・アスレチックス』へ出向しているいまふくナオリはの権利が侵害された事実に腹を据え兼ね、〝樋口社長〟のもとに怒鳴り込もうとしたそうである。

 日本MMAを黄金時代へ導いた男は、それ故に格闘技界への影響力が歪な形で膨張してしまった。瀬古谷寅之助の挑発に乗って〝プロ〟の競技選手にあるまじき不祥事を起こした挙げ句、こうした強権によって窮地を救われたキリサメは今福ナオリの一番弟子を称する未稲からくだん騒動さわぎを告げられた際に何も答えられなかったのだ。


「――同じ打撃系だし、バロッサ家のコトもムエ・カッチューアのコトも、多少は探りを入れてたけど、それでもジャーメイン師範の旦那さんは大して情報が掴めなかったな。弁護士先生ってコトは得意顔のお嬢ちゃんから説明されなくても知ってたけどね」

「う~わ、っちゃッ! 遠くから見てる分には優男イケメンってタイプですか。厭味か猥談か口説き文句か、ろくでもないことしか喋らないみたいですね、その分厚い唇は」

「愛をささやく相手くらい自分で選ぶからお嬢ちゃんも安心してくれよ。それよりバロッサ家の総帥だよ。格闘技の実績もなさそうな相手が孫の旦那になるのを許すなんてさ」

「見た目しか良いトコないし、この人ッ! ……私がバロッサさん――娘さんから聞いた話だと熊本で法律事務所をやりながら道場の相談役も務めてるそうですけどっ⁉」

「あ~、顧問弁護士ね。何しろムエ・カッチューアは古代ビルマの危険な格闘術だし、弁護士のバックアップは必須だわな。『試合や猛特訓の結果、死んだって構わねェ』みたいなにもコンプライアンスは欠かせない。『空呉館うち』もそいつを徹底させていこうって気ィ張ってるよ」

「……格闘技や武道で軽視されがちな部分ですもんね。強くなれるなら、勝てるなら後遺症も気にしないなんて漫画みたいな話、法的には絶対に認められませんから」

「結局、バロッサ家にベストな婿ってコトか。ジャーメイン師範と旦那さん、上手く歯車が噛み合って、がっちり支え合っているんだろうな。羨ましいったらありゃしね~」

「話しながらムカついてくるくらい頭の回転早いな、なんちゃって優男イケメンっ! じゃあ、その旦那さん、『バイオスピリッツ』後に行き場を失った日本人選手が『NSB』へ移籍するとき、契約上の問題がないよう相談に乗ったコトは知ってますっ?」

「お嬢ちゃんが得意顔作る前に『知ってる』って言ってあげれば良かったな」

「ムっ――カつく……ッ!」


 得体の知れない日系ペルー人を『天叢雲アメノムラクモ』に迎え入れ、血塗られた素性が露見してからも追放せずに庇ってくれたことには深い感謝を、団体を守るべく情報工作まで行った恐るべき剛腕には底冷えにも似た危機感を――相反する感情を綯い交ぜにして抱えたキリサメには未稲と沙門の会話が耳に痛かった。

 二人は希更・バロッサの父親――アルフレッドについて語らっているのだが、どうやら法律の専門家という立場から格闘技ムエ・カッチューア道場ジムを支えているようだ。沙門の言葉を借りるなら「歯車が噛み合っている」ということであろう。

 総帥の代理として三年前の会合に駆け付け、現在いまアルフレッドの支えを受けながら次世代の格闘家を育てるバロッサ家の師範ジャーメインとは異なり、樋口郁郎はたった独りであった。

 格闘技やスポーツへ関連する記事に限られるだろうが、インターネットの世界にて垂れ流されるニュースをも操作コントロールし得る権力を握りながら樋口郁郎はたった独りで日本MMAという絵図面を見下ろしていた。


「アルフレッドさんだっけ? 旦那さん、入り婿なんだよな。……あれ? ビクトーさんも確か入り婿だったような? ジャーメインさんは三姉妹の末っ子らしいけど、全員婿取りだったりして?」

「その娘さんの話ならアニメ雑誌で読んだコトがありますよ。お察しの通り、一番上のお姉さんからジャーメインさんまで全員がお婿さんを貰ったんですって。格闘技と無関係なのは確かアルフレッドさんだけですよ」

「お付き合いの接点すら見えないんだよなぁ。バロッサ家の法律相談を聞いてる内に親しくなったのかねぇ」

「私だって娘さんが答えたインタビューでしか知りませんけど、アルフレッドさんが弁護士になったのは日本に帰化した後のことらしいですから、そういう馴れ初めは有り得ないでしょう。普通に中学校の同級生だったとか。ワークブックって言うんですか? 学校の課題を一緒にやってる間にになったみたいです」

「青春かよ⁉ いやストレートに青春だな! 爽やか過ぎるったらありゃしないぜ! 馴れ初めの時点で旦那のアルフレッドさんに勝てる気がしねぇ~!」

「今でいう〝おめでた婚〟で、それがきっかけで日本へ引っ越した上に国籍まで移したともインタビューで話してましたね。バロッサ家のほうも早くからアルフレッドさんに目を付けてたのかな? 総帥直々にジャーメインさんをけしかけたとか――って、ご両親のコトとはいえ赤裸々にぶっちゃけ過ぎだなぁ~」

「分かっちゃいたけど、色々な意味で強過ぎるな、バロッサ家ッ!」


 希更の両親の馴れ初めへと耳を傾ける内にキリサメも想い出したのだが、樋口の左手の薬指に結婚指輪など嵌められていなかった。そもそも彼のことを心から信じ抜き、愛する〝身内〟など一人として残っていないように思えるのだ。

 それはキリサメ一人の邪推ではなく、誰もが暴君の孤独を疑わないだろう。


(……いていく人間を見誤れば身の破滅を招くということは、厭というくらい分かっているつもりなんだけどな……)


 かつて故郷ペルーで激闘を繰り広げた反政府組織のリーダーも大義を成し遂げる為にはの民にまで犠牲を強いるような人間であり、絶望的な格差社会を改革する義挙と謳いながら首都リマで暮らす人々を内戦の先兵に仕立て上げようと画策していた。労働者の権利を脅かし兼ねない新法へ抗わんとするデモ隊に銃火器を用意し、『七月の動乱』と呼ばれる血の惨劇を引き起こしたのである。

 キリサメからすれば〝生きていてはいけない存在〟であったが、それでも数え切れない亡骸を踏み締める罪深さへ向き合うだけの覚悟と潔さは持っていた。だからこそ彼の志へ呼応する信奉者も多く、『組織』の拠点アジトが所在する非合法街区バリアーダスでは征圧に乗り出した国家警察の前に何人もの住民が立ちはだかったのだ。

 残酷な見立てとなってしまうが、MMAという平和の祭典を日本に根付かせた偉大な先駆者の一人は、ペルーの社会を内戦寸前まで混乱させたテロリストよりも〝身内〟と呼べる存在に恵まれなかったということである。

 同志として認め合ってきた人々の誇りを良心の呵責すら感じていない素振りで蹂躙してきたのだから当然の報いと言えなくもない。それはもはや、人徳という一言では片付けられない断絶なのだ。

 それでもキリサメは樋口郁郎を憎み、距離を置きたいとは思えなかった。

 余りに接近してしまうと周囲まわりの反感を買い、日本MMAに身の置き場を失うことは理解している。自業自得ではあるものの、隣を歩く未稲にだけは知られたくなかった故郷ペルーでの過去ことを暴かれ、『天叢雲アメノムラクモ』という団体を守る為の情報工作に利用されてしまった事実に決して小さくはない蟠りも抱いている。

 だが、それらを飲み下してしまうほど〝樋口社長〟に恩義を感じているのだ。縁を結んで間もないキリサメには長い年月を掛けて暴君としての所業を目の当たりにしてきた未稲や沙門のような悪感情も鬱積していない。

 三年前の吉見定香から面罵された通り、一度は『バイオスピリッツ』もろとも日本MMAを破綻に追い込んだ男である。永久追放を受けても不思議ではない致命的な失脚であろうが、それにも関わらず二〇一四年の現在まで絶対的な権力を維持し続けているのだ。三年という僅かな時間の中で急激に変調をきたしたのではなく、あるいはもっと昔から暴走は始まっていたのかも知れない。


「――先ほどの話でも少し触れていましたが、『天叢雲アメノムラクモ』の樋口氏はそちらの――『こんごうりき』の運営にも関わっていたんですよね?」


 頭の中で捏ね繰り回してきた疑問の一つをキリサメが口に出した途端、沙門は目を丸くし、顔面に「意外」の二字を貼り付けた。前後の脈絡を無視するように唐突な問いかけであった上、『こんごうりき』の試合形式や所属選手ではなく運営スタッフへの興味を示したのだから、それも無理からぬことであろう。

 傍目には珍妙としか表しようがなく、希更・バロッサの母親への未練を洩らし続ける沙門を絶対零度としかたとえようのない視線で突き刺していた未稲も「このタイミングでそれ訊くゥ⁉」と口を開け広げていた。


「おっ? おおっ? いきなりどうした、アマカザリ? ひょっとして『こんごうりき』に興味津々かぁ? 八雲さんにスジは通さなきゃだが、鞍替えの相談ならいつでも乗るぞ?」

「ちょっと、こらぁ! 露骨なヘッドハンティングはやめてくださいよ! キリくんは私たちと一緒に『天叢雲アメノムラクモ』のリングで闘うんですからっ!」

「僕もみーちゃんがいない団体ところに用はないよ」


 ようやく顔の火照りが引き始めたところでキリサメから破壊力の高い不意打ちを受けてしまった未稲は、踏み潰された蛙のような悲鳴を上げて全身を硬直させた。


「アマカザリはアレだな、雰囲気とは裏腹にガツガツ行くタイプなんだな。傍から見ていてどんどん面白くなってくわ」

「たまたま僕のほうから機会が多かっただけです。今までに一度も拒まれたことはありませんし、この間はみーちゃんから初めて――」

「――キリくん、アウトッ! それはイケナイやつッ! だめだめだめだめェーッ!」

「ストレートなおノロでやっつけられちまったら引き下がるしかないな。未練がましく食い下がるなんざ野暮の極みってモンだ。ナニがあったのかは、後でこっそり教えろよ?」

「ヘッドハンティング以上に困ります、! ホント、相手取りますよッ⁉」


 冷やかすような調子で笑いながらも沙門は質問に対して「あの人の場合、MMAよりも立ち技系――『こんごうりき』のほうが付き合い長いくらいだよ」と答え始めた。冗談の通じない未稲からめ付けられている間にもキリサメの意図を読み取ったわけだ。


「樋口さんがまだ格闘技雑誌パンチアウト・マガジンの編集長だった頃だけどな、その縁で『金剛力ウチ』の代表ともパイプが太かったからプロデューサー待遇で発足キックスタートに参加して貰ったんだ。……正規のスタッフとは言い難いんだけどな。これはさっきも話したっけ?」

「いえ、復習させて貰えると助かります。樋口氏が徳丸という方を納得させたくだりではアドバイザーのような役割と説明を足して頂いたおぼえがあるのですが……」

「代表として団体の全部を取り仕切る『天叢雲アメノムラクモ』と違って『こんごうりき』では運営に関わらない外部顧問の立場からアドバイスだけする感じ――だったかなぁ。その当時は私もまだ生まれてないし、聞きかじりで勘違いがあったらすみませんね」

「お嬢ちゃんもサポート、サンキューな! 『八雲道場』のブログと同じように説明が適切で俺のほうも大助かりだよ」


 打撃系立ち技格闘技団体『こんごうりき』の発足は一九九三年――キリサメと未稲が共に生をける四年前のことである。キリサメにも分かり易いよう噛み砕いた説明を添える声に実感が伴っていないのは生まれる前の出来事を未稲自身が想像力で補っている為であろう。

 その声が分かり易いほど震えているのは余人に聞かせるべきでないことをあっさりと暴露されそうになった動揺が収まっていない証拠である。


から姿で闘う親父の姿は記憶にも網膜にも鮮明に焼き付いてるけど、一九九三年って言ったら俺だって全然よちよち歩きだよ。樋口郁郎はその頃から良くも悪くも日本格闘技界のご意見番みたいなポジションだったらしい――って、教わったのは物心ついた後さ」


 格闘技経験を持たずして格闘技のすべてをり尽くした奇傑おとこ――称賛とも皮肉とも判別し難い樋口郁郎の異名も二〇一一年三月下旬の会合に関連して沙門から語られていた。

 スポーツには少年の頃から親しんできたものの、経歴の中に武道や格闘技は一切含まれていない。自らの体験は皆無にも関わらず、『パンチアウト・マガジン』の編集長を務めたことからは生き字引といっても過言ではないほど豊富であり、国外にも及ぶ広い人脈がなければ『こんごうりき』ひいては団体代表の肩書きを担う『天叢雲アメノムラクモ』の創設は困難を極めたとも囁かれている。

 若かりし頃は格闘技雑誌の記者スポーツライターとして日本中を駆け回っており、有名無名に関わらず武術家・格闘家との交流も深い。『こんごうりき』では運営への助言だけでなく試合の成立マッチメイクを請け負うことも少なくなかったのである。

 埋め難い矛盾を孕んだ異称は歪としかたとえようのない権勢の背景を揶揄したものというわけだ。穿った見方となってしまうが、〝同じ経験〟を共有し得ない樋口への拒絶反応とも言い換えられるだろう。岳や麦泉が用いていないことからも蔑称の可能性は十分に察せられる。


(頼るだけ頼っておいて本当の仲間とは認めなかったということか? ……仮にそうだとしたら悪質なんてものじゃないな。沙門氏の家族や岳氏たちが同類じゃないってことだけが唯一の救いかよ……)


 我知らず眉根を寄せてしまう内容が含まれてはいたものの、樋口郁郎を暴君たらしめた道筋とその基盤に対する理解は沙門の説明はなしによって大いに捗った。だからこそ、飲み下し難い感情が皺という形でキリサメの眉間に顕れてしまうのだった。

 沙門と張り合うかのように未稲が言い添えた解説であるが、樋口は『こんごうりき』の外部顧問を務める傍らで日本初の本格的な総合格闘技MMA団体『バイオスピリッツ』の旗揚げにも参加したそうだ。


「あ~、〝ご意見番〟なんて枠には収まらないかな。『パンプアップ・ビジョン』っていう衛星放送の格闘技専門チャンネル、アマカザリも観たコトあるんじゃないかな?」

「偶然ですけど、丁度、『こんごうりき』が取り上げられている時間帯の番組ものを少しだけ観たことがあります。……そうだ、沙門氏のデビューを初めて知ったのもそのときです」

「このォ、愛い奴め~。可愛い返事をブチかましやがって~! 樋口さんはその『パンプアップ・ビジョン』の開局にもコアメンバーとして携わったんだ。役職は編成部長だったかな……。編集長に就任してからも格闘技雑誌パンチアウト・マガジンには自分で記事書いてたし、『バイオスピリッツ』でも『こんごうりき』と同じくマッチメイクをやってたし――今風に言うなら〝マルチクリエイター〟って感じだな」

「実際、一九九〇年代以降に日本の格闘技界やその周辺で起こったことにはことごとく一枚噛んでますからね、樋口社長。MMA日本協会が立ち上げた団体や興行イベントにはそっぽを向いたけど、それ自体が陰謀だったんじゃないかって未だにネットでウワサされてるなぁ」

「おいおい、お嬢ちゃんも『天叢雲じぶんのトコロ』の代表をもっとフォローしてやりなって。トリックスターみたいな言い方していたら横で聞いてるアマカザリだって不安になっちゃうぜ」

「私だって別にしらかわほうおうたとえたおぼえはないんですけど」


 未稲が名前を挙げ、「またピーキーな例を持ってきたもんだ」と沙門が肩を竦めたのは平安時代末期の法皇であった――と、キリサメは亡き母から教わった〝外国の歴史〟の一端を頭の中で振り返った。

 出家したのちも院政を敷いて〝てんきみ〟としての大権を掌握し、国の舵取りを担わんとするげんぺいの武家政権――たいらのきよもりみなもとのよりともひいては最初期の鎌倉幕府を奇々怪々な政治工作で翻弄し続けたことから〝日本一の大天狗〟と畏れられたのだ。

 『こんごうりき』と『バイオスピリッツ』は競技形態の違いこそあれども日本格闘技界全体を黄金時代に導いた代表的な団体である。その両方で運営方針をも左右する要職に就き、格闘技雑誌の編集長という立場から興行収益という極めて現実的な側面にも貢献した樋口には誰も頭が上がらないだろう。げんぺいの武士たちにとっての後白河法皇にも重なるわけだ。

 誰も逆らえないほど絶対的な権力が〝格闘技経験を持たずして格闘技のすべてをり尽くした奇傑おとこ〟に集まっていく流れはキリサメ・アマカザリという〝外部そと〟の目にも必然としか思えなかった。世界最大のスポーツメーカーを支配する総帥とも会合を持ったというのだから名実とも最高実力者と畏怖すべき対象であり、世が世なら闇将軍などと揶揄されたに違いあるまい。

 関東を中心に大勢力を誇る指定暴力団ヤクザの介入が暴かれたことで『バイオスピリッツ』は崩壊し、ここから日本MMAの衰退も始まったわけであるが、事態の深刻さと社会全体への影響を考えれば同団体を解散させた程度で樋口に対する糾弾の声が収まるはずもない。

 黄金時代という功績など免罪符にはならず、格闘技雑誌パンチアウト・マガジンの編集長や『こんごうりき』の外部顧問など日本格闘技界に築いた全ての地位から退かざるを得なかった。

 それから二〇一一年三月に至るまでの数年――格闘技評論家なる肩書きを名乗り、テレビのスポーツ番組などに出演することはあったものの、未稲が言及したようにMMA日本協会が主導する興行イベントにも背を向け、然るべき待遇で要請オファーがあろうとも格闘技団体のには関わろうとしなかった。

 日本格闘技界の趨勢を手のひらの上で弄ぶほどの権力ちからを壟断してきた樋口郁郎には敵も多い。国中のリングを影でもって覆い隠す巨大な存在が忌まわしくてならなかった人々からすれば抹殺に近い形で放逐に成功したはずであった。それにも関わらず、指定暴力団ヤクザまで絡んだ醜聞などなかったかの如く返り咲いたのである。

 二〇一四年の威容すがたを見れば樋口郁郎が手にした権力ちからの大きさと根深さも一目瞭然といえよう。後白河法皇も数え切れないほど失脚と幽閉の憂き目に遭いながら一一九二年四月の崩御まで武家政権の突出を抑えるだけの影響力を維持し続けたのだ。


「樋口さんが怪物クラスってコトは変わりないか。くにたちいちばんの漫画を現実世界で再現しているようなもんだしなァ。フェイスペイントのレスラーが闘うMMA団体なんて世界中を探しても『天叢雲アメノムラクモ』くらいだよ。マスクマンの出場だってあの人が『バイオスピリッツ』で前例を作ったようなもんだ」

「……樋口社長、色々なインタビューでも〝くにたち漫画〟の影響を受けまくりだって話してますしねぇ。私の師匠――今福さんもショープロレスと誤解され兼ねないし、真剣勝負ガチンコの団体をやってる代表の姿勢スタンスとしても問題だらけってシブい顔してますよ……」


 八雲岳がプロレスラーを志したきっかけの人物であり、『新鬼道プロレス』の異種格闘技と『バイオスピリッツ』の総合格闘技の双方に挑戦した伝説的なマスクマン――ヴァルチャーマスクについて言及した際、沙門は昭和のサブカルチャーを牽引した漫画原作者の名前も挙げていた。

 それがくにたちいちばんという男である。

 そもそもヴァルチャーマスクはくにたちが手掛けた漫画の登場人物であり、『新鬼道プロレス』に所属する若手レスラーが同作のデザインを忠実に再現したプロレスマスクを被って闘うという提携タイアップ企画に過ぎなかったのだ。

 漫画の登場人物を実在のレスラーに仕立てることで架空フィクション現実リアルの境界線を飛び越えるという趣向であった。〝両方〟のヴァルチャーマスクは共に児童養護施設や小学校を経済的に支援しており、くにたちいちばんが原稿用紙に生み出した〝世界〟は物理法則をも超越してリングの外へ拡大されていったのである。

 そして、その精神は『こんごうりき』にも行き届いているといえよう。同団体は〝プロ〟の競技選手による格闘技団体としては異例ともいえるほどチャリティー興行イベントに力を注ぎ、児童養護施設や身体からだにハンデを持つ人々の活動をたすけている。これを外部顧問の立場で推進したのが樋口郁郎その人なのだ。

 因果関係を辿る手掛かりがなければ単なる偶然として気にも留めなかったであろう。しかし、三年前の議論にいてMMA日本協会副理事長は樋口郁郎を指して「くにたちいちばん最後の弟子」と呼んだのである。かつての『新鬼道プロレス』と同様にヴァルチャーマスクの精神を現実世界で再現させたことは想像に難くなかった。

 沙門や未稲が言い添えた補足説明によれば、くにたちいちばんという才能は漫画原作以外の分野でも大いに発揮されたようである。ヴァルチャーマスクの提携タイアップを通じて格闘技界との繋がりを深め、様々な企画を仕掛けられるほど影響力を高める一方で自身の制作会社プロダクションを立ち上げて映画撮影にも進出し、昭和の芸能界にも接近を図ったという。

 漫画原作に格闘技雑誌という取り合わせの師弟である。くにたちいちばんと樋口郁郎がどのような経緯で出会ったのか、キリサメには想像も及ばないのだが、伝え聞いた樋口の剛腕には師匠筋と符合する点が多く、死別して久しい現在いまも強い影響下にあることが察せられた。


「――お前なら小細工に頼らなくても良いハズだ。それなのにどうして『客寄せパンダ』を使うッ⁉ そんなに儲けが大事か? ……同じ失敗を繰り返したいのか、ヤクモッ⁉」


 不意にキリサメの意識へと割り込んだのは『天叢雲アメノムラクモ』長野大会で養父ちちと対戦したバトーギーン・チョルモンの怒号であった。

 スーパー重量ヘビー級ともたとえるべき攻防の最中のことであるが、『はがね』という四股名を角界に轟かせた以前かつての大横綱は希更・バロッサというアイドル声優の参戦をタレント起用による『客寄せパンダ』と見做し、統括本部長に激烈な抗議を叩き付けたのである。

 空閑電知たち『E・Gイラプション・ゲーム』の所属選手が義憤に衝き動かされたのと同様にバトーギーンもまた『客寄せパンダ』をMMAへの侮辱と捉えたわけである。

 「同じ失敗」という一言をリングサイドで聞いた瞬間とき、キリサメはその意味を測り兼ねたのだが、くにたちいちばん最後の弟子に接した現在いまならばバトーギーン前身団体バイオスピリッツを指していることが理解できた。

 それはつまり、日本MMAの黄金時代にも『客寄せパンダ』が利用されたことを意味しているわけだ。岳は統括本部長の責任としてバトーギーンの怒号を受け止めていたが、真剣勝負の重みを拳に握り締める養父や鬼貫道明が興行収益を目当てに小細工を提案するとはどうしても思えない。


「ヴァルチャーマスクに則ってチャリティー路線を打ち出したかと思えば、MMAのほうでは『アルジャーノン路線』みたいな真似をやらかすんだから、樋口さんの発想もいまいち理解に苦しむんだよなァ。未だに読めない。こそ〝くにたち漫画〟そのまんまだもん」


 奇しくも沙門の呟きがキリサメの推察に答えをもたらした。真隣を歩いている未稲も返事に困って目を泳がせたが、『アルジャーノン路線』という耳慣れない言葉が前身団体バイオスピリッツの頃に起用された『客寄せパンダ』の総称に当たるのだろう。


「……『アルジャーノン』というと、ダニエル・キイスの……?」


 改めてつまびらかとするまでもないことだが、キリサメが小首を傾げつつ名前を挙げ、答え合わせのように沙門が頷き返したのはアメリカ合衆国を代表する小説家である。著書を読んだことはないものの、キリサメはSFの大家として記憶していた。


「忘れもしない二〇〇三年のコトだよ。樋口さんの気まぐれでチーズカーンっていうアメリカの巨漢ボクサーを『バイオスピリッツ』の興行イベントに招聘したんだ。新人発掘っていうより余興のつもりだったんだろうなぁ。本人チーズカーンもアメリカじゃ結構な有名選手だし」

「余興って言い切るのはチーズカーンさんに失礼ですけどね。……動くたびにお腹の肉が波打つような――相撲でたとえるならアンコ型を極めたイメージっていえばキリくんにも伝わるかなぁ。見るからにパワーゴリ押し一辺倒っぽくて、スピードとテクニックも兼ね備えていないと試合にならないMMAでは試合前から茶番扱いな雰囲気だったんだけど……」

「いざ、ゴングが鳴ってみたらスピードもテクニックもパーフェクトな選手をパワーゴリ押しで捻じ伏せると来たもんだ。人好きのする風貌だったし、本人もユーモラス。こんなにオイシい〝キャラ〟を放っておく手はないとばかりにテレビやマスコミもこぞって持て囃し始めてなァ」

「漫画とかでありがちでしょ? どう考えても体格の釣り合わないキャラ同士が真っ向から闘うヤツ。何から何までデタラメなんだけど、盛り上げられたら成功判定っていうノリと勢いのトンデモバトルは〝くにたち漫画〟が元祖だって言われてるくらいなんだよ。……樋口社長もが大好物なんだってさ」

「明らかにヒーロー側じゃないヘンテコな脇役が人気になっちまって、編集部に頼み込まれて無理に出番が増やされるパターンにも当て嵌まるわなァ」

「……二人の言いたいことは分かったよ。……チョルモン氏の怒鳴り声にどういう意味があったのかも」


 日本MMAに関わった人間にとっては一種の教訓として語り継ぐべき出来事を振り返りながら未稲は自身の携帯電話スマホを操作している。インターネットの検索システムを駆使して探し当てた当該人物チーズカーンの写真を液晶画面に表示させ、キリサメに翳して見せたのだ。

 実際の姿を確認すれば理解も捗るというものであり、液晶画面から沙門に目を転じたキリサメは改めて首を頷かせた。未稲が説明したように当該人物チーズカーンは首の付け根と顎の境目が判らないほど豊満な肉体の持ち主である。ボクサーにとって欠くべからざるフットワークすら満足に使えないように見えた。

 誰かに確認するまでもなく『チーズカーン』とは通称リングネームであろう。

 チリコンカーンと良く似た語感だが、『カーン』はスペイン語でいう『カルネ』――つまり、食肉を意味する単語を宛てたに違いないとキリサメは故郷ペルーの公用語で読み取っていく。そこにチーズと冠するのだ。「名は体を表す」とは画面内で対戦相手を睨む魁偉おとこの為にあるような言葉であった。空腹時に聞くと胃が悲鳴を上げそうである。

 液晶画面に映し出された画像の内、一枚は満面の笑みであり、上から押し潰された大福餅ともたとえられるほど愛くるしい。格闘たたかいの場に立つ者とは思えないほど目元も柔らかく、これで話術トークも巧みであれば確かにテレビ局も捨て置きはしないだろう。

 詳しい戦歴を把握していないキリサメにはMMA選手としての実力を比較することなど叶わないのだが、ということで『天叢雲アメノムラクモ』のスターダムと目されるレオニダス・ドス・サントス・タファレルが真っ先に想い出された。

 巨大なアフロが特徴的なブラジル人選手と同じようにチーズカーンも日本でタレント活動を行っていたのかも知れない。


「樋口さんもで味をシメちまったのか、マッチメイクも話題性を優先させるようになっちまったんだよ。格闘家としての実績より〝テレビでウケるキャラ〟っていうべきか。素人同然の芸能人を一端の選手に見えるように仕立てていったのもその延長さ。……それからもチーズカーンは何度か『バイオスピリッツ』に出場したんだが、いつぞやのインタビューで『自分はこの団体にとってアルジャーノンだ。物語の行く末を占うハツカネズミと何も変わらない』って辛そうな表情かおで――」

「……お母さんから聞いた話だけど、その直後にお父さんもチーズカーンさんのトコに飛んでいったみたいです」

「だろうなぁ……仲間の口から一番、聞きたくない言葉だもんなァ……あの『バイオスピリッツ』はどこに行っちまったんだ――って、うちの親父もいてたし、俺も見ちゃいられなかったよ」

「ぶっちゃけ、あの頃の迷走っぷりを知ってる人たちには今でも警戒されていますね。完全無差別級の試合形式だって『アルジャーノン路線』を引き摺るつもりかって叩かれまくりましたもん。『天叢雲アメノムラクモ』になってから樋口社長も思考あたまを切り替えてくれたって、私たちも信じていますけど……」


 キリサメが想像した通り、名誉を感じ難い総称はダニエル・キイスの代表作にして不朽の古典SF『アルジャーノンに花束を』に由来していた。未稲が付け加えた説明によれば発端となった選手本人チーズカーン自嘲ことばは樋口の手法に反感を抱いていた格闘技ファンの間で勇気ある代弁として受け止められ、これを受け継ぐという意思表示も込めて『アルジャーノン路線』と呼ばれるようになったそうだ。

 題名タイトルにもなっているアルジャーノンの顛末を思えば、これ以上ないというほどの皮肉であり、同時にチーズカーンにとっては痛ましい悲劇であった。『天叢雲アメノムラクモ』の公式サイトにもパンフレットにも彼の名前を見つけることは叶わないのである。


(……例の不祥事が原因で信用を失くしたように聞いていたけど、それより前から客の心は離れていたのは間違いない。遅かれ早かれってオチか……)


 『こんごうりき』の特色を振り返りながら未稲当人も「がレールを敷いたと思えないくらい『天叢雲アメノムラクモ』とは別物」と述べている。バトーギーンの怒号と組み合わせて読み解いてみれば、前身団体バイオスピリッツと共通する部分が鮮明に浮かび上がるのだった。

 MMAと打撃系立ち技格闘技――二種ふたつの格闘技団体に深く関わった樋口は前者で興行収益を目的とする『アルジャーノン路線』を強行しながら、後者では福祉活動を通じて社会に貢献している。沙門の説明はなしを信じるならば、どちらもくにたちいちばんが漫画に託した世界観の再現から外れていないそうであるが、キリサメには思考そのものが矛盾を生じているとしか思えなかった。


(……権力ちからを持つと人は変わるというが、樋口氏は一体、どこで歯車がズレたのか……もしかすると、くにたちいちばんとかいう師匠筋に狂わされていたのかも知れないな……)


 諫めの言葉で押し止めてくれる師匠を失い、傍らで笑ってくれる〝身内〟もいない孤高の暴君と化した原因を三年前の顛末から掬い取ることなど不可能であった。キリサメ・アマカザリにとっては自分のことを『天叢雲アメノムラクモ』の一員として迎え入れ、また三年前に養父の熱意おもいたすけてくれた事実こそが何よりも優先されるのだ。


「――こーゆーワケのわからない人たちに絡まれるような世界だけど、本当にやっていけそうかい? 精神的にもタフでなきゃキツいよ」


 MMAへの挑戦を願い出た日に〝樋口社長〟から銭坪満吉や彼が出演するテレビ番組を例に引きつつ告げられた教訓ことばを想い出し、神妙な面持ちで歩を進めていくキリサメの鼻孔を不意打ちの如く潮の香りが一撫でした。

 大量の土砂を積載したダンプカーが何処かへと発進していく音を背中で受け止めつつ、小さな橋を渡ったときのことである。


「漫画の再現っていえば『E・Gイラプション・ゲーム』の空閑電知! あの人も大概だよ。キリくん、巴投げみたいな体勢のまま地面を地面を転げ回るって意味不明な技を喰らわされたよね? アレも〝くにたち漫画〟が元ネタなんだよ。大昔のドラマでも特撮でやったけど、現実世界リアルの使い手とか本気でワケ分かんないって。前田光世コンデ・コマと一ミリも関係ないし!」


 およそ三ヶ月前の路上戦ストリートファイトいて電知がキリサメに仕掛けた大技もくにたちいちばんとの接点であったと振り返る未稲の声には打ち寄せる波の音も混ざっていた。

 鼓膜へ優しく染み込んでいく波音に導かれるよう顔を上げるキリサメであったが、橋の上から双眸に捉えたのは遥か彼方まで広がりゆく水平線ではない。これを遮って隠してしまうほど大きな水門と、〝何か〟のきっかけで耐える間もなく崩れ落ちるだろうと想像できる傷だらけの建物であった。




 埋立地とおぼしき場所にて様々な重機が猛々しい獣の唸り声と聞き間違うような駆動音を轟かせている。水門の向こう側で錨を下ろしている為、遠くからでは種類まで確かめることは難しいが、工事用船舶も接岸しているようだ。

 今はまだ盛土もなく、未完成ということは一目瞭然であるが、いずれは万里の長城ともたとえるべき壁が湾岸に築かれるのだろう。潮騒と町を遮断してしまうのではないかと思えるほど高いコンクリートの堤防である。

 故郷ペルーには富裕層の居住区と貧民層の非合法街区バリアーダスとを隔絶する為に『恥の壁』が造られていたものの、キリサメの視界に現れたは陸前高田の命を等しく護らんとする意志の表れであった。

 陸前高田を吹き抜ける潮風はを見る者たちへ〝何か〟を訴えている。キリサメはその〝何か〟を養父ちちの肩越しに受け止めていた。


(岳氏に誘って貰えなかったら、こうして足を運ぶ機会も得られなかったな。……今日までの何もかもが一種の巡り合わせみたいに思えてくるよ……)


 この地にあるモノを一つも漏らさず心に刻み込もうと、辺りを見渡しながら左右の拳を腰に宛がっている――奇しくも力道山の定番と同じ仕草ポーズである――岳の背中へとキリサメは視線を巡らせた。

 『青空道場』を見学した後は海まで足を運ぼうと岳から提案されたとき、キリサメは僅かな逡巡も挟むことなく頷き返していた。平素いつもは何事にも関心を示さない彼にしては非常に珍しい反応であり、未稲などは双眸を見開いて「意外」の二字を表したほどである。

 海沿いは東日本大震災による被害が特に深刻であり、物見遊山の気分で軽々しく足を踏み入れるのは陸前高田という土地に対しても大変に失礼だと未稲から説かれようとも首を横に振り、「だからこそ、この二つの目で見つめなければならないんだ」と言葉静かに、けれども強く言い切るキリサメはますます珍しい。

 極めて真摯な態度を示されては未稲も次なる説得ことばを続けられず、その意志を認めざるを得なかった。そして、それ故に彼が東北の潮風に触れたとき、二日後まで迫っている初陣に影響が及ばないよう海沿いの状況を事前に説明したのだ。

 両親が生まれ育ち、己の身に流れる〝血〟の起源ルーツともいうべき国を襲った未曽有の大災害に向き合わんとする気持ちには例え〝家族〟であっても水を差してはならないのだが、目の当たりにした〝現実〟を受け止めきれず、闘いに差し障るほど心が疲弊しては本末転倒である。

 キリサメのことを傍らで支える未稲としても行き過ぎた誠実さが彼自身を傷付ける事態だけはどうあっても避けなければならなかった。

 今、目の前に現れた光景は東北に向かう新幹線の車中でもキリサメの瞳に映っている。さりとて窓の外に眺めたわけではなく、インターネットの検索で発見したとおぼしき写真を未稲が携帯電話スマホの液晶画面に表示させたのである。

 キリサメたちが立っていた小さな橋の下を流れる川原川と、遥かな昔より陸前高田の街並みを見守ってきたたかやまから大地を貫いていく気仙川――大小二本の川が交わる場所であった。

 やがては錆びた水門を通って東北の海に注ぐわけだ。

 未稲が探し当てた写真にも映り込んでいる水門こそが同じ場所で撮影されたことを示す一番の目印だが、その内側――沿岸部の浸水範囲は二〇一四年現在よりも遥かに広い。

 黄色いヘルメットとツナギの両方を泥で汚した人々が黙々と作業に勤しむ場所も三年前までは陸地であった。陸前高田市を襲った震度六弱もの地震――東北地方太平洋沖地震の本震である――によって地盤沈下が発生し、続く大津波を経て水門をもってしても対応し得ない量の海水が入り込んでしまったのだ。遠目には埋立地のように見えたが、それ自体が『三・一一』の痕跡というわけである。

 未稲から見せられた写真には人智を超えた力によって薙ぎ倒されたとしか思えない松の木がコンクリートの瓦礫と入り混じって無数に散乱しており、キリサメたちが立っている辺りも完全に塞いでしまっていた。現在いまは片付けられて影も形もないが、復旧作業に携わる人々の尽力があったればこそ浜辺に続く橋も安全に渡れたわけだ。

 道路の整備だけでなく、陸前高田の命を守り抜く為の工事が進みつつある現在いまの様子と照らし合わせれば、未稲の携帯電話スマホに表示されていた画像データが震災直後の写真であることは瞭然であった。

 全ては大災害の痕跡に触れた衝撃を和らげようという未稲の配慮であったが、キリサメはそのことに心から感謝していた。何ら気構えを持たずに海辺まで近付いていたなら水門を遠くに望む橋の上から進むことも引くこともできなくなったことであろう。

 日本と同じく地震被害の多いペルーで生まれたキリサメだけに瓦礫の山などは良くも悪くも見慣れている。亡き母との想い出が詰まった生家さえも自然災害によって倒壊してしまったのだ。

 しかし、東北の青空の下に見据えた光景は、故郷ペルーにて飽きるほど踏み越えた安普請の残骸とは全く違う。そこに馳せる思いとて一つも重ならない。


(……〝あのとき〟――有薗氏が故郷のどこかで呑み込まれたのと同じ東北の海が、すぐそこにあるんですね……)


 錆びた水門によって隔てられ、双眸では確かめることの叶わない水平線が運んでくる波音に耳を澄ませながら、キリサメは誰にも聞かれることがないよう心の中で知人の名前を呟いていた。

 仮に「有薗氏」という名前を口に出したとしても、未稲や沙門の耳に入るより早く目と鼻の先で潮風に吹きさらされている建物へと吸い込まれたはずである。変色が進んでいるように見えるアイボリーの壁に等間隔で設けられた窓は収まるべきガラスが全て突き破られたままなのだ。

 橋の上から遠く臨んだときにキリサメも同様の印象を抱いたのだが、は建物に穿たれた無数の穴にも等しく、この地に足を運んだ人々による鎮魂の祈りも、遥かな昔から変わることのなく寄り添い続ける波音も、あるいは〝声なき声〟さえも、何一つとして遮るモノがないその場所へ流れ着くように思えてならなかった。

 陸地と水門との間に立ち尽くす形となった建物は当然ながらくだんの写真にも映っており、三年前までは宿泊施設ユースホステルであったことも未稲は説明している。

 橋の上から遠く望んだとき、キリサメは二段構造の建築物と錯覚しそうになった。正面玄関と推定される場所を中心として建物のおよそ半分が一階分ほど低くなっているのだ。中間地点など外観からは傾斜のある渡り廊下としか思えない。

 事前に説明を受けていたキリサメは高さの異なる二棟が〝本館と分館〟あるいは〝新館と休館〟のような関係にないことを把握している。渡り廊下によって連絡する設計でないことは大きく傾いた場所に走る無数の亀裂を見れば明らかであろう。

 この宿泊施設ユースホステルに起きたことは、海辺という立地が全て示している。それぞれの窓の真下ではエアコンの室外機が残骸同然のままケーブルによって宙吊り状態となっていた。

 倒壊する危険性も高いので一般の立ち入りは厳重に禁じられているが、この宿泊施設ユースホステル自体が平成二三年三月一一日の記憶をいつまでも忘れずに留めておく為の〝震災遺構〟であると、未稲は努めて静かに語っていた。

 彼女は何とも例え難い溜め息でもって誤魔化したが、感情もなく震えた声をキリサメは忘れていなかった。あるいは当時のテレビ画面に生中継の形で大写しとなっていたであろう三年前の陸前高田市が脳裏をよぎったのかも知れない。


「――キリくん? どうしたの、黙りこくっちゃって……ていうか、さっきからずっと静かだったけど……」


 鼓膜に呼び戻していた数時間前の声に真隣から現在いまの声が重なった。

 今度も声色は明朗さを欠いていたが、そこに感じるのは自分だけに向けられる気遣いであり、心苦しい一方で沸き起こる喜びが〝人間らしさ〟を再確認させてくれる。しかし、新幹線の車内で絞り出された声は、無事に助かって欲しいという訴えが決して届かないテレビの向こうに「天災」の一言では表し難い有り様を目の当たりにした瞬間と全く同じであろう。そのことが生々しいほどに察せられる声であったのだ。


「……知り合いの顔を想い出していたんだ」

「知り合いっていうと、故郷ペルーの人……かな?」

「日本人だよ。勿論、日系人じゃなくてね。……ペルーの首都まちで出会って、ほんの少しだけど、一緒に居た女の人なんだ」

「お、おん――」


 期せずして含みのある言い方となった為、未稲はこれまでとは異なる意図でキリサメの心を覗かんとする目付きに変わった。キリサメの側も気を持たせるように目を逸らしたのだから当然であろうが、想い出している相手についてしつこく訊ねてしまうほど彼女は慌てふためている。

 対するキリサメは敢えて彼女の質問に答えず、口を真一文字に引き締めたまま青空を仰いでいた。〝知り合い〟の身の上を――生まれ育った土地のことを明かせば、未稲の意識は三年前まで引き戻され、脳裏を食い破るであろう大災害の映像に呑み込まれてしまうに違いないと案じた次第である。

 つまるところ、キリサメは未稲の乙女心を振り回しておきながら過敏にして複雑極まりない機微に全く無理解というわけだ。彼女から当てこすりのように「朴念仁」と言われてしまうのは無理もあるまい。

 今や未稲は「何気に隠し事多くない⁉ 秘密があるなら最後まで隠し通して! 気になり過ぎるしっ!」と繰り返しながら丸メガネのレンズを曇らせている。東北の冷たい風を浴び続けてきた両頬が紅潮するほど気持ちが昂っているわけだが、過剰に前のめりという有り様はキリサメの視界にすら入っていないのだ。

 彼はただただ顔を真上に向けている。昼過ぎということもあって陽の光が一等眩しく、普段よりもまぶたを深く落とした双眸でもって捉えているのは背の高い松の木である。

 水門と宿泊施設ユースホステルを見渡せる場所にただ一本だけ立ち続ける松の木である。


「――高いよな、一本松。三〇メートル近くあるらしいが、写真で見るよりずっと高い」

「ええ、……この高さは――この高さこそが復興への意志のあらわれなんでしょう。この町の人たちは必ず立ち上がろうという気持ちを託しているともみーちゃんから聞きました。僕の勝手な想像ですので、花咲氏には見当外れと叱られるかも知れませんが……」

「お嬢ちゃんから朴念仁呼ばわりされてるし、実際、色んなコトに淡白だけど、ちゃんと情緒が分かるじゃないか、アマカザリ。新幹線のアイスにまでノーリアクションだったからどうやってコミュニケーション取ったら良いのか、ちょっとだけ心配していたよ」

「……車内販売のアレは硬過ぎて大弱りだっただけです……」


 故郷ペルーで暮らしていた頃の朴念仁キリサメに自分以外の女性の気配を感じ取り、明らかに動転し始めた未稲を真っ先に冷やかしそうな沙門も今はキリサメと同じように松の枝葉を見上げ、その一点にのみ精神こころを研ぎ澄ませていた。

 未稲から宿泊施設ユースホステルと併せて説明を受けたキリサメも、刻一刻と変わる被災地の状況と遠く離れた東京で向き合った沙門も、ただ一本だけ凛然と立つ松の木が震災遺構の一つであることを知っている。

 未稲が携帯電話スマホの液晶画面に表示させた震災直後の写真の中央にも、その一本松は屹立していた。

 今でこそまで荒地が広がっているものの、三年前の〝あのとき〟まで七万本を超す松の木が立ち並んでいたのである。くだん宿泊施設ユースホステルも生い茂るクロマツとアカマツの只中に所在していたのだ。

 三世紀以上も前から陸前高田の人々が守り続け、日本百景にも選ばれた景勝地は今や見る影もなく、二〇一四年六月現在は『高田松原』という名称に〝跡地〟と付けなくてはならならない。

 陸前高田の海――広田湾に面した浜辺は白砂青松と名高かった。

 岳と麦泉は工事用の柵によって立ち入りが禁じられた辺りまで足を運び、在りし日の名残を探し求めているようだが、本当ならば松原の向こうに隠されているはずの水門が遮る物なくキリサメたちの前に現れたという事実こそが同地を襲った災害の深刻さを示しているのだ。

 命を守る〝壁〟を築かんとする人々の声や重機の音に感じる三年前の面影は、残骸の山へと向けられたレンズでさえ切り取れないほど無情であった。

 海開きの季節ともなれば大勢の海水浴客で賑わった浜辺には今やを持った者を除いて誰も立ち入ることができない。三年前の〝あのとき〟までは資材や土砂を積載した工事車輛が楽園ともたとえるべき景色に無粋の二字をもって割り込むこともなかった。

 現在いまは潮の香りに砂埃が混じり、これによって鼻孔をくすぐられたキリサメはサン・クリストバルの丘から吹き付ける乾いた風を思い返していた。

 それ故に心の中で「有薗氏」と――同じ風の中で出会った日本人の名前を再び呟いた。

 七万本もの松原は防潮林として陸前高田という土地を守り続けてきたが、有史以来、誰にも想定し得なかった事態にはその役目を果たすことが叶わず、文字通りに根こそぎさらわれてしまったのである。

 海と共に生きてきた町の象徴が喪失うしなわれるという信じ難い状況の中に在って、宿泊施設ユースホステルと水門に面する西の端にただ一本だけクロマツが残った。

 それ故に皆が――この町で生きてきた人も、この町をたすけたいと願う人も、誰もが『奇跡の一本松』と呼び、青空へと真っ直ぐ屹立し続ける姿に遥かなる希望を見出していた。


「海岸まで足を延ばすのなら、是非ともあのクロマツを見てやって欲しい。わざわざ奇跡と付けて仰々しく呼ぶことに蟠りのある人の気持ちも理解わかるが、この町が新しい未来を目指していく為のしるべ――いや、陸前高田の海を故郷の誇りとして子どもたちに繋いでいく約束にも等しいんのだよ」

「……おれからも頼むぜ、キリサメ。陸前高田と弘前じゃ随分と離れてるが、前田光世大先生を育んだ東北はおれにとっても格別な土地なんだよ。ホントなら自転車チャリ飛ばして駆け付けてェくらいだけど、現場をすっぽかすなんて無責任はもっと有り得ねェ。おれの代わりにお前が二つの目で希望の象徴を確かめてくれ!」


 別れ際に『青空道場』の花咲館長から告げられた一言と、これを受ける形で携帯電話スマホの向こうから託された電知の思いがキリサメの脳裏に甦り、潮風に晒される松の枝葉の如く心を揺り動かしていた。

 本人に確かめたわけではないが、おそらく電知の脳裏には以前に交際していたというストリートミュージシャンの少女――とちないこまの横顔も浮かんでいたはずだ。

 秋葉原の路上で歌声を披露している最中に瀬古谷寅之助が仕掛けた〝撃剣興行〟に巻き込まれ、決着まで立ち合う羽目になった栃内と逃亡先の藪整形外科医院にて挨拶を交わした未稲も当然ながら二人の間柄は把握している。

 その未稲から「格別ぅ? 勿体ぶらずに元カノのコトを考えてるって言ったら? 栃内さんのご実家、岩手県にも三味線教室開いてるの?」と携帯電話スマホを通して散々に冷やかされ、興味津々といった調子で身を乗り出した沙門による〝追い撃ち〟まで受けていたが、キリサメは二人の悪ふざけに加わらず、東北を「格別の土地」と噛み締めるように語った電知の思いを心に受け止めていた。

 親友へ語って聞かせる為にも東北に『三・一一』の記憶から目を逸らすわけにはいかないのだった。


(……胸に刻んで二度とは忘れない――その気持ちはみんな同じなんだよな……)


キリサメたちよりも先に訪れていた一組の男女は既に一本松を仰いだ後なのだろう。橋の上で見つけたときには身じろぎもせずに宿泊施設ユースホステルを眺めていたが、現在いまは水際へと移動し、上下二本の鉄パイプを組み合わせた工事用ガードレールでもって立ち入りが規制されている辺りから水門を観察している様子であった。

 女性のほうは〝何か〟へ気付くたびに人差し指でもって示しており、錆の一つに至るまで見落とすまいという意志が感じ取れる。

 後ろ姿と背丈くらいしか判断材料を持ち得ないものの、男性のほうは欧米を出自ルーツに持つようだ。整髪料でもって後ろに持ち上げた頭髪かみは鮮やかな金色ブロンドであり、陽の光を跳ね返すことによって完成される麗しい艶は如何なる染髪剤でも再現できないだろう。

 その隣に立つ女性は黒いスカートと話し声によって辛うじて性別が判るものの、波打つほどツバが大振りで、その後ろ半分がケープ状に広がった黒い帽子を深く被っている為に表情は全く読み取れなかった。

 アメリカかイギリスか――頭に浮かんだ候補の内、どちらの出身うまれであるのかは定かではないものの、二人の間で交わされる言葉から察するに英語圏の国より来訪したことだけは間違いなさそうだ。故郷ペルーで用いられていたスペイン語と日本語を日々の生活くらしで困らない程度には喋ることのできるキリサメであるが、その一方で英語は不得意に近く、発声イントネーションといった米英の細かな差異など聞き分けられるはずもない。


「私は〝あのとき〟を本社のオフィスで迎えたのだけど、確か『VV』はコナまで出掛けていたのよね。家族みんなが無事で、改めて胸を撫で下ろしてしまうけれど……」

「……〝長老〟からの頼まれごとがあってな。偶然というのは重なるものだ。深夜の到達に備えて高台のショッピングセンターに避難していたのだが、一晩中、警報が鳴り響く中で見も知らない人たちと身を寄せ合うのは余りにも現実離れし過ぎていて三年経った今でも何かにたとえようがない。……俺らしくないと言われても構わないが、沖まで逃れていた船舶ふねが朝焼けの水平線から戻ってきた光景は決して忘れられないな」

皮肉シニカルな受け答えに慣れてしまうのも良くないわよ。冷やかす理由なんてどこにもないもの。……アリィドライブの防波堤の修復に〝長老〟が駆り出されたとも聞いているわ」

「何しろ生き字引のような御方だ。いにしえの智慧が求められるときには〝表〟も〝裏〟もないだろう。……コナの復旧は〝我ら〟の最優先。駆り出されたということなら、つい最近まで『アナアナ』の皆が大王キング・カメハメハのお膝元に詰めていたさ」


 耳を傾けようとも会話の内容など殆ど理解できず、男性に「VV」という風変わりな呼び名が付けられていることしか認識できなかった。本名を確かめるまでもなく、ファーストネームとミドルネームそれぞれの頭文字を組み合わせた愛称ニックネームであろう。

 カメハメハ――ハワイを統一した〝大王〟の名前や、『アナアナ』という耳慣れない言葉が男女ふたりの会話にいてどのような意味を為しているのかもキリサメには全く理解できなかった。


「……みーちゃんから聞いた説明はなしでは、この松の木自体が手の施しようがないくらい根腐れを起こしてしまったみたいだけど……」


 陸前高田の水門を飛び越えた更に向こう――遥か彼方の太平洋に浮かぶ楽園の島国へと思いを巡らせているのかも知れないが、キリサメもそこまでは関心を寄せていなかった。

 そもそも盗み聞きの趣味など持ち合わせてはいない。聞くともなしに二人のやり取りが耳に入ってしまった為に反応したものの、今は『奇跡の一本松』だけに意識を集中させていたいのである。英語によって紡がれていく会話など今では邪魔としか感じなかった。


「何時間も海水に漬かったままだったワケだし、ね……。震災前の姿を留めてくれた一つだけのクロマツなんだから、自然に生き終えるまで保存し続けようって声と、根本から折れたら最悪だって声が何度も何度もぶつかっちゃったんだって。最終的には永久保存に向けて必要な処置を施すコトで決まったんだよ」

「……それでも残し続ける意味を僕らはこうして見上げているんだね。この町の大切な想い出を――これまでもこれからも歴史を積み重ねていく意味を……」

「アマカザリの言う通りだよ。……想い出に縋り付いて有難がっちゃいけねぇけど、同時には今日を超えていく希望の原動力でもあるだろ? 町全体にそのことを当て嵌めるなら、花咲館長が仰ったように次の世代へ渡していくバトンと同じさ」


 根腐れの影響が枝葉にまで及んでしまい、自然の状態を維持し続けることが極めて困難となったクロマツは内部を刳り抜かれた上に防腐処理が施され、倒壊する危険性を除くべく鉄製の芯棒まで通された。

 枯死が進んだ枝葉も樹脂などを用いて完成されたに差し替えられている。真下から少しばかり仰いだ程度では見分けられないのだが、逆光を避けつつ目を凝らしてみればとの違いに気付くことであろう。

 現在いまでは本来のクロマツと異なる一種のモニュメントになったわけであるが、元の場所から陸前高田という町と海に寄り添い続けることこそ大切なのだ。

 三年前と変わらない姿で青空を衝く一本松はに高田松原が確かに存在したという証であり、半世紀後も一世紀後も――遥かな先まで東北の潮風と共にこの町へ根差していく人々にとって何時までも変わることなく寄り添い続けてくれる存在モニュメントは、まさしく希望の象徴なのだ。

 花咲館長はそのことを指して「陸前高田の海を故郷の誇りとして子どもたちに繋いでいく約束」と語ったに違いない――と、キリサメは信じて疑わなかった。己の二つの目で確かめ、間近に感じられる希望ほど心強いものはあるまい。


「後の世代に何を残せるか、子どもたちが迷わず歩いていける道標をどんな風に作ったら良いのか――この一本松が伝えてくれる〝希望〟は大人たちへの課題でもあるんだな」


 ごく少量とおぼしき鼻を啜る音に続いて喉の奥より絞り出された沙門の呟きがキリサメの鼓膜を僅かに打った。

 言葉はそこで区切られたものの、沙門が述べたかったことはキリサメも察している。声に出して確認するまでもなく、は一緒に聞いていた未稲にも伝わったようだ。沙門をかわすような形で視線を交わすと、彼女は小さく首を頷かせて返答こたえに代えた。

 『青空道場』の花咲の口より語られた〝約束〟は、三年前のじまプリンスホテルにいて新しいMMA団体の旗揚げを宣言した岳と相通じるのだ。鬼貫道明や徳丸富久千代から現実的に不可能であろうと理詰めで厳しく反対されようとも被災地の子どもたちをたすけるという信念だけは絶対に曲げなかったのである。

 わざわざ茨城県の鹿しまじんぐうまで赴き、宮司自らの手によって『日本晴れ応援團』と揮毫してもらった白布もまた未来に対する〝約束〟の形であり、次なる世代を守り、支える使命を担った大人たちへの課題というわけだ。


「ストーカー紛いの親父みたいにボロ泣きにはならなかったけど、それでも俺だって八雲さんの言葉には胸が熱くなりっぱなしだったんだ。情熱一つを握り締めて、ここまでやれるのか、どこまでも突っ走れるんだなってさ」


 噛み締めるように語ったのち、沙門は再び鼻を啜った。小刻みながら先程よりもその回数が多い。それ故にキリサメと未稲は隣の横顔かおを窺うようなことはせず、改めて『奇跡の一本松』へと目を転じたのである。

 その一瞬のことであったが、スカートの裾が汚れてしまうのも構わずに屈み込み、水門へと注ぐ川を眺めていた黒い出で立ちの女性が全身を上下に揺らしたように見えた。後ろ姿を視界の端に捉えた程度である為、キリサメにも確証は持てなかったものの、自分たちの会話に反応したとしか思えないタイミングであった。

 『VV』と呼んでいる男性から盗み聞きを窘められたのか、三人のほうへ振り返ることはなかった。キリサメには男女ふたりが話す英語は全くと言って良いほど理解わからないが、相手は日本の言語ことばに通じているのかも知れない。

 過剰なくらい大きな帽子で頭部全体を覆い隠している為、女性の顔立ちから自分たちと同じ起源ルーツであるのかを窺うことは叶わなかった。


「……『子どもたちの為に』という点は沙門氏も同じですよね。岳氏や先程の花咲氏と。全国の空手道場で今も続いているふるい体質を改めようとしているのだって、これから先の門下生たちの為だって聞きましたし……」


 あるいはストーカーという不吉な言葉が気に障ったのか――女性の反応をそのように結論付けたキリサメは、次なる世代を担う子どもたちの為に全身全霊を傾ける者たちへと意識を戻していった。

 無論、そこには沙門も含まれている。私刑を弄する為の結党ともたとえるべき自警団を暴発寸前で食い止めた際にも『くうかん』の名誉など関係なく、仲間たちの将来を思って正面からぶつかっていったのかも知れない。

 だからこそ、相手の側も沙門の説得をれることができたのだろう。奇抜な背広に身を包むこの優男は軽薄そうな印象とは裏腹に『くうかん』という巨大な〝組織〟全体の改革へ限界以上の力を注いでいる。それもまた次なる世代を担う子どもたちを思う闘いなのだ。


「……ん? うん……、そうかもな。いや……、そうなんだよ。自分以外の誰かの為、それも子どもたちの未来の為に捨て身で頑張る八雲さんを見てさ、俺が見習うべきなのはこういう人なんだって。何かにトライしようというときは踏み迷う時間すら惜しい。死に物狂いで突っ走る勇気だけ握り締めりゃ良いって教わったんだ」

「結局、沙門氏も僕と同じように岳氏の勢いに飲まれた一人なんですよね」

「三年前のあの日に泥だらけの八雲さんを見ていなかったら、長い物に巻かれてたかも知れない――って、これじゃ俺まで親父みたくストーカー呼ばわりされちまうな」

「いやいやいや! 待って待って待って! キリくんが全部承知してるの前提で気ままに喋ってるけど、またしても私、置いてきぼりだからね⁉ この人が『くうかん』の組織改革やってるのは私も風の噂で聞いたよ? でも、キリくんはそれをどこで聞いたの? この人とそんな大事なコトを話す機会なんてあったっけ?」

「確かに沙門氏と吉祥寺の公園で初めて会ったときにみーちゃんはいなかったけど、そこで何が起きたのか、話していなかったかな? 僕も沙門氏に話してもらったというより気付いたら巻き込まれていたんだけど……」

「少なくとも新幹線の車内なかではそんな話題、一度も出なかったよ。ていうか、『かいしんイシュタロア』のタイアップ駅弁の話ばっかりだったし。『これから岩手に行くっていうのに宮崎の駅弁買うんじゃ旅情もへったくれもないな』って、この人、お父さんと一緒にお腹を抱えて大笑いしてたじゃん!」

「希更氏に義理もあるからね。ヘッドフォンの形で白米にまぶされた地鶏のそぼろというのも美味しかったし、……リマの商業施設ショッピングセンターであのアニメの催し物をやったとき、そこの飲食店で特別メニューを食べたんだよ。それを想い出して、つい……」

「はい、また初耳新情報が出たよ! そんな雑にペルーの想い出話を突っ込まれたらメガネだってズリ落ちちゃうよっ!」


 キリサメ・アマカザリときょういし沙門――『天叢雲アメノムラクモ』統括本部長と『こんごうりき』競技統括プロデューサーそれぞれの子どもという以外に接点もなさそうな二人が出会い、打ち解けた経緯を一つとして教わっていない未稲は不貞腐れた調子で地団駄を踏み、一本松の周辺に敷き詰められた砂利に小さな穴を穿っていく。

 小刻みに続く乾いた音を沙門の耳が拾っているのかは定かではない。自身が属する空手道場『くうかん』の改革についてキリサメからたずねられたことのみを語り、それきり厚めの唇を閉ざしてしまった。

 付き合いの短い人間にさえ似つかわしくないと分かるほど口数が減ってしまった沙門を気遣い、本分である『くうかん』の空手家としての取り組みに話題を誘導しようとするキリサメであったが、そもそも当人が話術に長けているわけでもない為、一問一答のような受け答えを超えて膨らませることも叶わず、とうとう望む効果は得られなかった。


「……日本中が弱っているところに付け込んで新しい団体の旗揚げを企んでるみたいなイメージが作られちゃったら、前身団体バイオスピリッツの頃から手を組んでいた企業もそっぽを向くって教来石さん、話していたよね? ……私も後からお父さんや文多さんに教わったんだけど、厳しい意見をぶつけてきたのは日本MMA協会の人たちだけじゃなかったんだよ」


 先程までの饒舌が幻であったかの如く口を真一文字に引き締めてしまった沙門に成り代わり、三年前の会合について再び紐解いたのは未稲であった。

 沙門より明かされた話を振り返る限り、未稲の足が不死鳥の絨毯を踏み締めたことはないはずだが、当日は麦泉を始めとして彼女と関わりの深い者が何人も出席していたのだ。

 そこから概略あらましが伝わらずとも旗揚げを呼び掛けた岳当人が未稲を相手に熱弁を振るわないはずがなかった。機密漏洩に抵触することを警戒し、敢えて何もたずねないという娘の気遣いが理解わかるはずもなく、上擦るほど昂った声で一部始終を語り尽くしたに違いない。

 沙門に掛けるべき言葉を見失い、ただ立ち尽くすばかりとなった自分を見兼ねたのだろうと察したキリサメは、決して小さいとは言い難い窪みが生じてしまった足元の砂利を靴の裏で元通りにならしていく未稲から目を逸らすと、俯き加減で頬を掻いた。


「ものすごく真っ当な意見なんだけどね、鬼貫さんや徳丸先生でもない他の出席者からお父さん、『この震災をみそぎに利用するつもりか』って問い詰められたみたいなの」

「ミソギ――母さんから教わった気がするな……確か、そう……『贖罪』のような意味合いの日本語だったよね?」

「大まかには罪滅ぼしみたいな感じだね。……実際はそういう使い方が俗っぽくて、穢れを祓うとか身を清める儀式のコトを指すんだけど」

「キリスト教の『贖罪』が本来の意味を離れて、『罪をあがなう』という言葉だけが独り歩きしているようなものかな」


 日系ペルー人であるキリサメも言葉自体は聞きおぼえがあったものの、これを表す漢字一文字だけはどうにも想い出せず、舌の上にて捏ね繰る回答こたえも歯切れが悪い。これに対して未稲は握り拳の親指を垂直に立て、彼の解釈に大きな誤りがないことを示して見せた。

 答え合わせの直後、未稲は五指を開いて手のひらへと視線を落とし、暫しの沈黙を挟んで再び握り拳を作った。おそらくはに本人しかることの叶わない〝何か〟を映したのだろう。


「……現代風にいえば、『罪滅ぼしは済みました』ってアピールかな。日本だけかも知れないから恥さらしになりそうだけど、例えば不祥事を起こした芸能人タレント慈善活動ボランティアで社会にご奉仕して、それでお茶の間の皆さんにお許しを願うってパターンね。大体は事務所やテレビ局のお膳立てありきだし、そもそも慈善活動ボランティアは罪滅ぼしの手段じゃないっての」


 日本という国の世俗にいて弄ばれる『禊』を未稲は腹に据え兼ねていたのだろう。幾つかの言葉を皮肉すら通り越して侮辱とも受け取れる語調で吐き捨てたのである。

 尤も、それは一瞬のことであり、〝三年前〟という本筋へ立ち返った途端に彼女もまた神妙な面持ちとなった。


「文多さんから教わった話だとね、お父さんを問い詰めたっていう人にも悪意は一ミリもなかったんだって。復興支援の気持ちはちゃんと認めてくれていて、その上で『何も知らない部外者にはどうしたって禊としか見えない。パフォーマンスに過ぎないと批判されるのがオチだろう』ってさ」

「……やっぱり真っ当で、何より健全な話し合いだったんだね――」


 今し方の未稲が手のひらに映した〝何か〟をキリサメは確信にも近い形で察している。だからこそ口を衝いて出てしまわない内に浮かんだ言葉を喉の奥へ押し込んだのである。

 『天叢雲アメノムラクモ』の前身団体『バイオスピリッツ』は振り返ることさえ憚られるほど後ろ暗い事情から活動が崩壊し、地上波放送の契約を結んでいたテレビ局の撤退を経て解散まで追いやられている。それにも関わらず、同団体で統括本部長を務めた岳が『三・一一』発生直後に新たな旗を日本MMAに掲げれば如何なる事態を招くのか――復興支援を目的としたチャリティー興行イベントまでもが国家的悲劇を利用する『禊』と見做されてしまうだろう。

 あくまでも被災地の子どもたちに未来を約束する為と岳が声を嗄らして釈明しても、誰一人として聞き届けることはあるまい。

 自粛せざる者が〝不謹慎狩り〟という名の一方的な正義のもとに〝社会悪〟として糾弾されてしまう空気が三年前の日本に垂れ込めていたのである。それは同調圧力に基づいた〝私刑〟の容認に他ならず、インターネットの世界で晒し者にされるような状況を見越して懸念の声が上がることはキリサメにも十分に納得できた。

 反対した者が岳個人に悪意や敵愾心を向けているか否かを疑うのではなく、寧ろ日本格闘技そのものに対する責任を果たしたとして誠意に満ちた態度を讃えるべきであろう。


「――助けが必要な人たちに手を差し伸べもせず、風説の流布に踊らされる連中なんかは逆に願い下げ。悪口だろうが何だろうが言わせておけば良い。子どもたちの未来を守る為という宣言に耳を傾けてくれる人たちこそが本当の味方だし、呼びかけに応じて挙げられる手も絶対に少なくない。日本はまだまだ捨てたもんじゃない」


 キリサメが諳んじたのは三年前の会合にいて岳を支持したる格闘家の言葉である。

 それもまた沙門の口から語られたものであったが、会合から帰宅した実父に涙が出そうになるくらい頼もしい味方の話を聞かされていた未稲は三年前そのときの記憶を掘り返し、「女言葉で喋らなきゃ物真似にならないじゃん」と丸メガネの向こうで目を細めた。


「やるならとことん。とことんやる――顔も知らないどこかの誰かの目を気にしていたら間に合うハズだったコトさえ手遅れになる。八雲岳という男はそのことを被災地から教えてもらったのではないか――」

「ジャーメイン師範の啖呵、殆ど丸暗記じゃないか。その後に『遠回りしてまで大洗町に立ち寄ったのもその為のハズ』と続くのもおぼえていそうだな」

「知り合いの――いえ、友人の家族が自分の養父ちちを助けてくれたわけですから」


 顔を覗いて確かめるまでもなく目を丸くしているのだろうと察せられる未稲の視線を頬で受け止めつつ、キリサメは不死鳥の絨毯に立つ養父ちちの背中を一等強く押してくれた言葉を諳んじ、ようやく明るさが戻ってきた沙門の顔に心の中で安堵の溜め息を洩らした。

 かつて岳を励ました〝同志〟の言葉が今度は沙門に活力を与えてくれた次第である。

 又聞きの言葉を借りているような状態である為、キリサメは自分が喋っている内容に誤りはないのかと暗唱の最中に目配せでもって未稲に答え合わせを求めようとしたのだが、顔を振り向かせた拍子に沙門の目元へと視線が吸い込まれてしまった。

 一本松の枝葉を仰ぎ続ける双眸に大粒の涙を溜めていたのである。その瞬間ときは気付かなかった芝居フリで目を逸らしたが、どうやら頬を滑り落ちる前に憧れの人の言葉によって拭い去られた様子である。

 岳の思いを退けようと迫るを真っ向から迎え撃ったのは希更の実母――ジャーメイン・バロッサであった。

 故あって熊本県八代市に所在する道場ジム『バロッサ・フリーダム』から東京に駆け付け、岳の加勢に入ったわけだが、ムエ・カッチューアの名門たるバロッサ家総帥の代理が述べた言葉は室内に重く響き、会合の流れにまで大きな影響を及ぼしたという。

 師匠ドナト・ピレス・ドス・ヘイスより引き継いだ前田光世コンデ・コマの系譜を現代まで伝え続けるブラジリアン柔術の一族は言うに及ばず、オランダには『聖家族』と謳われ、同国の格闘家を束ねるオムロープバーン家が、台湾には孔子の末裔と伝わる東洋武術の重鎮――こうれいがそれぞれ君臨している。古代ビルマの伝統武術ムエ・カッチューアを教え広めるバロッサ家はこれらと肩を並べる名門であり、総帥の代理ジャーメインの声は格闘技界で生きる人々の耳に託宣の如く染み込むわけだ。


「――『やらない善よりやる偽善』って世間でも良く言うわよね? 例え売名目的でも、それで誰かを助けられるのなら大きな意義があるわ。でも、やり方を間違えてしまうと必ず誰かが『やる偽善よりやらない善』って訳知り顔で嘲笑わらい始める。銭坪満吉なんてしくじってもいないのに理不尽な難癖を付けてくるでしょ。当てこすりや足の引っ張り合いが横行する息苦しい時代にわざわざ合わせる義理もないわよ。みんな、自分の心に耳を傾けてみて。そうして聞こえた声に素直になるコトを勧めるわね」


 ジャーメイン・バロッサは弁護士である夫の受け売りなどと前置きし、「これが正しいと胸を張れる選択は自らに是非を問え。その判断を見ず知らずの他人などに委ねるな」という訓戒ことばもってして岳に対する支持の表明を締め括ったそうだ。

 今度は借り物の言葉を口に出すことはなかったが、沙門を通して触れた一言一言が希更の為人ひととなりに繋がるものとしてキリサメには得心が行ったのである。


「大洗……か。一体、どういう町なのか、僕には想像イメージもできませんけど、先程の話を伺う限り、岳氏が立ち寄りたくなるのも理解わかりますよ。あの岳氏なら――というか、大変な状況なのに快く迎えてくれた町の人たちに頭が下がります」

「そこで我慢できないのがお父さんの悪いトコなんだけどね、正直……。無駄な遠回りをしてるから役場でマスコミに囲まれちゃうんだよ。『被災地で物見遊山』ってネットでもかなり叩かれてさぁ、……想い出しただけで胃が痛くなってきたっ」

「おいおい、お嬢ちゃんが『無駄』とは言ってやるなよ。あの町のお陰で八雲さん、フルスロットルで思い切れたようなモンじゃないか。じまプリンスホテルで聞かせてもらった大洗のコトは三年経った現在いまも俺の胸には突き刺さったままだぞ」


 茨城県中部の小さな港町について語らいつつ、三人の目は青空を衝く一本松からショベルカーの唸り声が絶えない方角に向けられていく。海に面した前方の工事現場ではなく、つい先ほど渡ったばかりの小さな橋の付近へと顔を振り向かせた恰好だ。

 くだんの橋から東の脇道に逸れると、三年前まで大勢の観光客を迎え入れていた砂浜へと続いていく。今や見る影もない荒地と化してしまったが、七万本もの松の木が立ち並んでいた頃の遊歩道は心安らぐ森林浴の場としても親しまれていたのである。

 太陽ともたとえられる灼熱の魂でもって名門バロッサの後押しを勝ち取った男は――八雲岳は、被災地の復旧を託された工事の現場さえ動かしてしまえるようだ。視線を巡らせてみれば、麦泉を交えながらツナギ姿の作業員たちと何やら熱心に話し込んでいる。

 くだんの脇道は工事車輛の通行を目的として設けられたものであり、安全を保障し兼ねる荒地には関係者以外の立ち入りが厳しく制限されていた。水辺と同様に工事用ガードレールを並べて物理的に遮断しているくらいなのだ。

 それにも関わらず、岳と麦泉は黄色いヘルメットを被った上で工事用ガードレールの向こうへと入り込み、かつてを右の人差し指でもって示す作業員の説明に幾度も頷き返していた。

 その姿こそ工事関係者から特別な許可を得られた証左といえるだろう。高田松原跡地の東端を目指して歩き始めた様子だが、あるいはツナギ姿の人々も岳が被災地をたすけるべく奔走したことを承知しており、批判の声すら受け止める大きな背中に感銘を受けているのかも知れない。


「遊歩道があった辺りまで行くつもりなのかねぇ? 相方の麦泉さんならまだしも八雲さんがたくぼくの詩に興味があるとは思えないんだけどな」

「……教来石さんこそ石川啄木に共感しているんじゃないですか?」

「遠回しなろくでなし呼ばわりかい! 俺はね、お嬢ちゃん、女に訴えられることはあるかも知れないけど、金銭カネの貸し借りでトラブルは起こさないよ」

「クソみたいな下半身の事情を使った自己弁護はセクハラと紙一重じゃないですかねぇ」


 キリサメたちは『天叢雲アメノムラクモ』の興行開催地であり、同時に宿泊先でもある奥州市でレンタカーを手配し、往復一〇〇キロを超える道程を経て陸前高田市を訪れている。麦泉が運転したワンボックスワゴンは一般道路の休憩施設に併設された駐車場に停めてあるのだが、その一角に日本を代表する詩人にして歌人――石川啄木の歌碑が設置されていた。

 石川啄木は岩手県の出身うまれであり、中学校の修学旅行で高田松原を訪れたことも確認されている。その縁から建てられた歌碑であるが、本来は少年時代の彼が木漏れ日を仰ぎ、枝葉のざわめきに耳を傾けたであろう遊歩道に置かれていたのだ。

 七万本という松の木と共に石川啄木の歌碑も人智を超えた力に呑み込まれて流出してしまい、およそ半年前に復元されたばかりであったのだ。それ故に完成して間もないことが一目で分かるほど真新しかったのである。

 江戸時代後期の大飢饉に際し、数え切れないほどの命を救い続けた新沼三太夫の功績を現代いまに伝える『まんにん宿しゅくとう』は建立当時の石碑を再設置できたのだが、これは奇跡とも呼ぶべき幸運であったわけだ。


「ただなぁ~、お父さんもお金に関してはそんなに褒められたもんじゃないし、ひょっとしたら啄木のダメっぷりに自分を重ねてる可能性は捨てきれないかなぁ。試合が近いのに居ても立っても居られず『まんにん宿しゅくとう』まで来ちゃったみたいにねぇ……」

「それは穿ち過ぎだよ、みーちゃん。石川啄木の善からぬ話は僕も死んだ母にも教わったけど、岳氏の場合はMMAに貢献する為であって遊ぶ金欲しさではないだろう? あの人の性格上、〝使い込み〟なんて器用な真似もできないよ。ましてや三年前の旗揚げは復興支援に欠かせなかったのだから――」

「――ブラボー。……ブラーヴォ」


 僅かばかりの躊躇を飲み下したのち、石川啄木の性情を引き合いに出すという奇妙な会話へ口を挟むキリサメであったが、その直後に彼は戦慄にも等しい様子で双眸を見開き、身を強張らせて次に紡ぐべき言葉まで失ってしまった。

 今し方の言葉に波の音すら圧し潰すほど大きな拍手と称賛の声が返されたのである。キリサメ自身には大した内容ことを喋ったつもりもなかった為、「ブラボー」と連呼される筋運びにはただただ呆然と口を開け広げるしかない。

 当然の反応としてキリサメは首を忙しなく動かしながら周囲を窺ったものの、自分と同じように面食らっている未稲と沙門は言うに及ばず、左右の手を打ち鳴らす人間などは何処にも見当たらない。黄色いヘルメットを被って工事に勤しむ人々の耳には発言そのものが届いていないだろう。

 拍手に重ねられているのは女性の声だ。この場にいて当該する人物は未稲以外にただ一人しかおらず、キリサメは訝るような視線を引きずりながら顔を振り向かせていく。

 キリサメが推し量った相手もまた三人に向き直ろうとしていた。左右の手を打ち鳴らし続けているが、弾いた空気が甲高く青空をくわけではない。黒い手袋でもって包まれている為、音のが僅かばかり曖昧となってしまうのだ。

 自分たちよりも先に高田松原の跡地を訪れ、錆びた水門の向こうを飽きることなく眺めていた女性である。差し向かいとなって初めて確かめたその出で立ちは、キリサメに〝貴婦人〟という大仰極まりない三字を思い浮かばせる物であった。

 傍らに控えていた同行者の男性――『VV』は振り返るのと同時に貴婦人の背後へと身を移したが、おそらくはそこがなのだろう。目元や口元に刻まれた皺の数は決して多くはないものの、その佇まいは熟練の執事としか表しようがない。

 後ろ姿や横顔を窺っていたときには気付かなかったが、鼻の下には頭髪かみと同じ色の髭を蓄えている。その上、毛量も尋常ではない。二本の槍の穂先が左右の敵をそれぞれ狙っているようにも見えるのだ。

 白雪を彷彿とさせる肌の色や淡い金髪ブロンドからして欧米に起源ルーツを持つことは間違いなく、外見の印象さえ似ても似つかないが、今し方の身のこなしにキリサメは希更のマネージャーであるおおとりさとを想い出していた。


(……いや、まさか――)


 その直後にキリサメの視線は貴婦人から外れ、深緑の背広を羽織る『VV』の左脇下へと注がれた。

 普段よりも更に双眸を細め、長い前髪で覆われた額には瑞々しい皮膚に似つかわしくない皺が何本も刻まれているのだが、それはまさしく穏やかならざる感情の発露あらわれであろう。


「……余りにも大きな悲劇に直面して取るべき選択を見失っていた日本の格闘技界が一つの大きな目標を見定めたのは八雲岳という巨星がその道筋を示したからに他ならないわ。が金網のケイジを戦場とする以前から異種格闘技戦の最前線に立ち、かの力道山と同様に日本中に夢を与え続けてきた男にしかできないこと」


 貴婦人は無遠慮とも思えるような足取りでもって三人の正面へと歩を進めていく。太腿の輪郭が肉感を伴って浮かび上がるほど身体に張り付くロングスカートの裾を軽やかに捌いており、足の内側に巻き込んで砂利道に横転するような気配もない。このような立ち居振る舞いを見る限り、静かに張り詰めたキリサメの様子に気付いていないのではなく、些末なことは気にも留めないほど鷹揚なのだろう。

 波打つほどツバが大振りで、その後ろ半分がケープ状に広がった黒い帽子を深く被っている為、差し向かいに近い距離まで近付いても目元や鼻筋を確かめることは難しく、未稲と沙門は口の動きを僅かに覗くばかりばかりである。


「同時多発テロ直後のアメリカが直面した混乱にも当て嵌まるわ。未来に期する資格すら奪われた犠牲者を思い、〝その日〟の向こうを目指すことへ罪悪感を抱いたで未来への意志を束ね得るのは八雲岳ただ一人。そして、その意志は心の揺らぎというような曖昧なものではない。彼は自分の目や耳で確かめた〝現実〟だけを真摯に語ったわ。克服しないことには何一つとして立ち行かない〝現実〟の重みを八雲岳に託されたからこそ多くの人たちが彼の賭けに乗るだけの勇気を出せた――格闘に人生を捧げた男の献身を思えば奇跡ではなく必然にして当然よ。その人の為なら資金カネを出すことも惜しくない。そう思わせる説得力を彼は握り締めていたわ」


 黒革で仕立てたパンプスの高い踵が砂利に幾つもの穴を穿つ音は、ミュージカルを盛り上げる演出といったところであろうか――独壇場と表すしかない趣で淀みなく語り続ける姿はブロードウェイ劇場シアターの看板女優と見紛うばかりなのだ。

 高田松原の跡地から花咲の道場まで響き渡らんほど声も凛と張っている。おそらくは大勢に向かって語り掛けることにも慣れているのだろう。

 未稲と沙門を何よりも驚かせたのは、薄い紅すらしていない口から紡ぎ出される一言一言が全て日本語であったことだ。潮風に乗って流れてきた会話が僅かばかり耳に入った程度ではあるものの、背後に控える『VV』とは英語を用いていたはずである。

 間違いなく流暢ではある。それでいて発声の一部が独特であり、生まれたときから日本語が身近にあった者たちが聞くと妙に鼓膜がくすぐられてしまうのだ。それ故に未稲は真隣のキリサメとは異なる様子で眉間に皺を寄せていた。

 貴婦人が喋り続ける内容は実父――八雲岳に対する称賛が大部分を占めている。どこまで聞き取られていたのかは定かではないものの、自分たちの会話に対する反応であることからも彼女がわざわざ耳を澄ませていたことは間違いないはずだ。


「自分以外の誰かに想いを馳せ、傷付いた大地に寄り添おうとする気高い意志を現在いまも体現し続けている。自粛を美徳か何かのように誤解して経済活動を衰えさせる声にも八雲岳は全く揺らがなかったと聞いているわ。〝現実〟と偽る臆病を突き破って進む覚悟がない限り、本物の〝現実〟は救えないのだと、被災地の〝現実〟を目の当たりにして理解わかっていたからよ」


 息継ぎすら失念する勢いで八雲岳への称賛ことばを重ねていく貴婦人は、一つのMMA団体が三年前に旗揚げされた経緯だけに留まらず密偵スパイでも忍び込ませているのではないかと疑わしく感じるほど日本格闘技界の内幕に詳しい様子であった。

 先ほど八雲岳のことを力道山にも並ぶ存在とも讃えていたが、それは高田松原跡地ここへ移動する道すがら沙門の口から明かされたことである。では誰も語っていない内容まで貴婦人は把握しているというわけだ。


「どれもこれも八雲岳にしか為し得なかったこと。日本格闘技界そのものを育てた鬼貫道明にも、世界中を旅してMMA普及に力を尽くしてきた吉見定香にも、不可能だったと思えるわ。……星に手を伸ばす話は好みではないのだけれど、持って生まれた魂が太陽のように人を惹き付け、本人も実践という最善の形で輝いているわ。八雲岳――歴史に名を刻むに値する男よ」


 家族の名誉に胸を張るような性格ではない為、未稲からすれば居た堪れない気持ちのほうが大きく膨らんでしまうのだが、それで顔を顰めたわけでもない。盗み聞きもこのときには気にならなかった。

 間違いなくどこかで聞いたおぼえのある声なのだ。記憶の彼方に耳を澄ませてみると何かの演説スピーチおぼしき英語だけ僅かに聞こえてきたが、日本語を紡ぐ瞬間にはどうしても辿り着けない。当該する人物について名前の頭文字さえ思い浮かばず、未稲の混乱は更なる深みに嵌っていった。


「何がなんでも八雲岳の挑戦はやるべきであった。それだけの値打ちがあったのはあなたたちこそ誰よりも強く感じているでしょう? 誰が何と言おうとも、あの決断は絶対に間違っていない。その共感は海をも超えてに届き、一部の選手は自発的に動き始めてくれた。私はそのことを一生の誇りと思うし、日本のMMA選手にも同じ気持ちを八雲岳に捧げてあげて欲しいわね。MMA日本協会会長――いいえ、『昭和』の日本を代表するプロレスラーも〝あのとき〟こそ挑戦すべきだと確信してバトンを預けたハズだから」


 間もなく未稲の真正面に立った貴婦人は両手でもって帽子を外し、内側に纏めていた長い髪が零れ出した。陽の光を吸い込んだは艶めいた墨色のようにも見える。

 余程の目的でもなければ面倒の一言で手入れを怠ってしまう未稲は極上の絹ともたとえるべき貴婦人の髪に気後れを感じ、使い古された絵筆も同然の有り様で右肩を撫でる枝毛に視線を巡らせた。

 しかし、それも一瞬のことであった。自嘲混じりの溜め息を噛み殺した未稲が真正面の顔を改めて見据えた直後、丸メガネが鼻から滑り落ちたのである。

 目の前の貴婦人も執事の如き『VV』と同じ欧米系の人間であろうと未稲は思い込んでいた。彼女の背後うしろを注視し続けるキリサメも、瞬く間に鼻の下を伸ばした沙門もこれは変わらなかった。そこにと特徴を同じくする東洋系の顔立ちが現れたのだから面食らって息を飲むのは当然であろう。

 何がなんでも八雲岳の挑戦はやるべきであった――三年前に不死鳥の絨毯の上で岡田健が『大王道プロレス』の名誉会長という立場から発した言葉を受け止めたのは、東洋アジア圏を起源ルーツとしていることだけは察せられるものの、日本人のように見えてどこか違う不思議な雰囲気を纏った貴婦人である。しかも、互いの差異を具体的に並べることが難しいほど違和感自体も曖昧なのだ。


伊達だてまさむね公のお膝元でまた会えると思ってはいたのだけど、まさか、陸前高田市ここで先に叶うとは――いいえ、被災地をずっと気に掛けてきた八雲岳が東北の海まで足を運ばない理由もなかったわね。……今日、尊敬の念を更に強めた心持ちよ」


 プルメリアという小振りな花の刺繍を全体に散りばめた黒い長袖のワンピースは見る者に喪服のような印象を与えている。陽の光を浴びて鋭い光沢を発するシルバーグレーの背広とは奇しくも正反対であり、を羽織る沙門は「何だか運命的な巡り合わせを感じますね。俺たち、もしかすると不思議の糸で結ばれているのではありませんか」などと不調法な口笛を吹いていた。

 手袋や帽子と同じようにワンピースもまた絹の染め糸を織り上げた物であろう。似合うか否かで判断すべきことではないのだが、凛然たる佇まいの貴婦人には喪服の如き出で立ちが滑稽なほど馴染んでおらず、どうしてもミュージカルの衣装としか見えなかった。


「――ちょ、ちょちょちょ! ちょっと待って⁉ なんっ……なんであなたが日本にいるんですか⁉ 今週末、『NSB』の興行ってありましたっけ⁉ ないなら単にビックリ、あるならもっとビックリっていうか、大問題! 『NSB』の会場を盛大にお間違いではないでしょうかっ⁉」


 長袖でもないと肌を切られてしまいそうになる潮風かぜに撫でられ、美しく舞い踊る黒髪から爪先までぶるように視線を這わせていた未稲の中でようやく記憶の糸が繋がった次第である。

 今日まで挨拶も交わす機会に恵まれなかったものの、未稲の側からはその顔を非常に良く知っている。『天叢雲アメノムラクモ』統括本部長の娘として飽きるほど見てきたといっても過言ではないくらいだ。

 名前や肩書きと共に正体を想い出してしまったからこそ未稲の混乱は頂点に達し、ついには丸メガネが砂利の上に投げ出されたのである。先ほど微かに聞こえた演説スピーチの全文も、これを披露したリトル・トーキョーの風景も、今や彼女の脳内あたまに鮮明な形で甦っている。

 顔立ちには東洋の遺伝子が強くあらわれているものの、紛れもなくアメリカ合衆国の一員なのだ。それ故に未稲は目の前の女性が日本語に精通しているとは夢にも思わなかったのである。秒を刻むたびに驚愕が折り重なるのは無理からぬことであろう。


「お、お父さーん! 文多さーん! た、大変! 大変だよっ! サプライズゲストなんてレベルじゃないVIPが来ちゃってる! ……あれ⁉ さっき伊達だてまさむねのお膝元とか何とか言ってた⁉ サプライズじゃない可能性アリ⁉ もう私には何が何だかっ!」


 慌てふためいた調子で丸メガネを拾った未稲は上体を持ち上げることまで失念し、歩行には不向きな姿勢のまま実父の背中を追い掛けていった。


が言うようにこれは確かに大変だ。まさか、こんなに近くで言葉を交わす機会に恵まれるなんて夢にも思いませんでしたからね。日本で手に入る物だけなのが心苦しい限りですが、陶芸のほうも興味深く拝見させて頂いておりました。いずれ工房にもご挨拶に伺おうと思っていたのですよ? 勿論、しがらみも何も関係なくプライベートでね」

「あなたは確かきょういしともの――この地に想いを馳せてくれることは嬉しいのだけど、週末に『こんごうりき』のデビュー戦を控えているのでは? 調整は間に合ったのかしら?」

「これこそまことのサプライズですね。よもやまさか、のことをご存知であったとは夢のような心地ですよ。運命という言葉を意識させるのがあなたは本当にお上手だ」

「アメリカでも大いに盛んな『くうかん』空手の日本選手権連覇者を調べていないハズがないでしょう? の選手にも全米各支部の出身者は多いわ。加えてお父上――きょういしとも最高師範は『こんごうりき』でも要職かなめの一人。……沙門あなた個人の場合はにまで〝内政家〟の風聞うわさが聞こえているもの。これだけ揃ってノーチェックで見落とすようなら私は自分の肩書きを返上しなければいけなくなるわ」

「そこまで言って貰えたら光栄の極みですよ。今度は私のほうからあなたの話を聞かせて頂きたいものです。もっとお互いのことに詳しくなりたいじゃありませんか」

「インターネットで名前を検索するだけで、その望みは達成されるわ。お互いに一秒でも時間が惜しいでしょう? より手軽なほうを奨励させていただくわ」


 その一方、未稲を相手にしていたときとは真逆としか表しようのない紳士的な物腰で貴婦人に一礼した沙門は次から次へと情熱的な言葉を並べていく。左右の頬ばかりか、厚めの唇まで血色が良くなっているようであった。

 貴婦人の視線は未稲の背中を追い掛けており、自分の言葉など心の響いていないことも沙門には理解わかっているが、一方通行であっても前のめりの勢いは衰えない。

 双眸に熱い雫を溜めたまま口数まで減らしていた人間とは思えないほど気持ちの切り替えが早く、露骨なまでの扱いの違いに憤激した未稲は「おぼえてなさいよ! いつか誰かに訴えられたら証人として出廷してやるぁっ!」と、砂埃で曇っているレンズの向こうから怒れる眼光を叩き付けた。

 沙門には矢とも槍ともたとえるほど鋭い視線が別の方向からも突き立てられている。改めてつまびらかとするまでもなく、それは貴婦人の肩越しに飛び込んでくるものだ。執事の如く従う者としては、このように不埒な態度を見過ごすわけにはいかないのである。

 ありったけの怒りを込めた抗議と殺意にも近い気配――似て非なる二種ふたつの眼光を涼しげな表情かおで受け流し、無反応でも諦めずに甘やかな言葉を紡ぎ続ける沙門は不敵にも片方を見据え返した。

 からに替えるまでもなく『くうかん』の技を自在にふるうことのできる沙門の双眸は、貴婦人の横顔と『VV』の左腋下を緩やかに往復し続けている。キリサメと同じように彼もまた背広の下に隠された〝何か〟に気付き、これを見極めようとしているわけだ。

 だからこそキリサメは貴婦人の顔を確かめてもおらず、見おぼえがあることに気付いていない。顔の一部でも捉えていればロサンゼルスのリトル・トーキョーで行われた日米MMA団体の共同会見に養父と共に臨んだ人物と想い出したはずだが、彼女の正体よりもその後方うしろに控えた男の背広に浮かび上がる小さな膨らみこそ優先すべきと判断しているのだ。

 このようにして拳銃を隠し持つ無法者をキリサメは故郷ペルーの裏路地で飽きるほど返り討ちにしてきたのである。望むと望まざるとに関わらず経験が積み重なればというものであり、中口径の銃器をホルスターに収納していることまで見抜いていた。

 銃社会であれば珍しくもない状況だが、日本では売買と携行の両方が法律によって禁じられている。銃器ではないものの、キリサメ自身も故郷ペルーから『聖剣エクセルシス』を持ち込む際に様々な小細工を要したのである。仮に身辺警護ボディーガードの任務を担っているとしても異邦人が現行法の外に立ち得る理由とはならないはずだ。

 翻せば、この貴婦人が銃によって守護まもられるほどの〝人物〟という証左でもある。


「お父さんでも文多さんでも、どっちでも良いから気付いてって! 気付けやぁ! モニワさんっ! 『NSB』のっ! どういうワケだかさっぱりだけど、モニワ代表がこっちに居らしてらっしゃるっ!」

「はぁ~? よく聞こえねぇぞ、未稲~! ずんだ餅が何だって~⁉」

「どーゆー耳してんの⁉ 良いから文多さんと一緒に戻ってきて! いや、先に進んでとは言ってないでしょ! 笑ってないで少しはこっちの話を聞けぇーっ!」


 何者にも媚びることなく、彫像のように凛と立つ様子をマーガレット・サッチャーになぞらえ、『鉄の女』などと揶揄したスポーツ・ジャーナリストは重機の駆動音すら押し退けてしまうような八雲父娘おやこの大声に耳を傾け、控えめに微笑む姿には決して目が届かないのだろう。

 彼女の身辺に至るまで丁寧に取材し、極めて異例ながら二〇一三年にジャーナリズム公益部門のピューリッツァー賞を獲得したアメリカの格闘技雑誌ゴッドハンド・ジャーナルは〝組織〟という枠組みの中で揺れ動く内面まで繊細に切り取っていたのである。

 北米アメリカ最大の勢力を誇るMMA団体『NSBナチュラル・セレクション・バウト』の代表――イズリアル・モニワが穏やかとは言い難い面持ちの〝執事〟を従えて潮風の香る青空の下で静かに佇んでいた。




                                                                      (続く)

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