その2:青空(二)~日本で初めてプロレスラーになった男と、日本に初めてプロレス興行を招いた男
二、Here Today Act.2
三年前の岳も被災地から東京に戻ってからは
「我が師匠に――力道山を手本にしようって心意気は素直に嬉しいが、幾らなんでも発想が前時代的過ぎるぜ、岳。戦後プロレスから約六〇年だ。その半世紀の間に日本格闘技界は幾つもの流れに分かれた。……いや、流れそのものが変わった。自分の口で認めるのは悲しいがな、街頭テレビのプロレス中継に日本中が集まる時代ではないんだよ」
心まで焼け野原にしてしまった人々を力道山の熱闘が奮い立たせたように新たなMMA団体を旗揚げして全国を元気にしたいと握り拳を作った岳の前に〝日本プロレスの父〟の直弟子が立ちはだかった形である。
「異種格闘技から総合格闘技へ至るまでの道程をよくよく振り返ってみるんだ、岳。日本のプロレスを――いや、格闘技そのものの流れを変えた旗振り役は俺たちじゃないか」
「ちょ、ちょっと待ってくださいよ、兄貴! オレが言ってるのは格闘技の
「娯楽の多様化に触れてくれて助かるよ。俺が言いたかったのはまさしくそれだよ。コンデ・コマ――前田光世がブラジルで興した流れと、力道山が日本に定着させた流れが必ずしも交わるとは限らない。
「話を無理にややこしい方向へ持っていこうとしてません⁉」
「力道山の最盛期はプロレスが格闘技という〝娯楽〟の王様だった。しかし、その流れが無数に枝分かれした
「だって、戦後間もなくは格闘技を〝娯楽〟として楽しんでもらうイベントなんてプロレスくらいしかなかったし! 明治まで巻き戻せば柔道最強・
明治時代に日本から飛び出し、世界を相手に他流試合を展開した
そこで培われたノウハウが
これに対して日本の近代格闘技史は力道山から始まったといっても過言ではない。
戦後のリングで〝世界〟を相手に闘った〝日本プロレスの父〟は格闘技を志す者たちにとって一本の〝道〟となり、昭和から平成へと時代が移ろう中で幾筋もの流れに分かれ、『新鬼道プロレス』が目指した異種格闘技戦を経てMMAに辿り着いたのである。
力道山から直接的に教えを受けた最後の世代に当たる鬼貫道明は、名実ともに近代日本格闘技史の生き証人であった。
〝日本プロレスの父〟に勝るとも劣らない巨人が人並み外れて逞しい顎を撫でつつ錆び付いた発想を止めるよう『鬼の遺伝子』を継ぐ岳に言い放ったのである。
「鬼貫の兄貴こそ要らねェ気を回し過ぎなんだよな~。リングに上がるオレたちと、闘魂を楽しんでくれる人たちの両方で通じ合うモンは六〇年前から二〇一一年の今日まで何一つとして変わっていねぇでしょうに!」
「一度、深呼吸して足元を確かめてみろと言っているんだ。思い込んだら一直線なのは良くも悪くもお前の美徳だが、六〇年も経てば力道山の名前を知らん人のほうが多くなる。格闘技ファンの中にもな。それなのにお前の理想がどうして響くと言うんだ?」
「
「大体、お前は力道山本人と話したことすらないだろうに。自分が生まれた頃にはとっくに三回忌も済んでいた故人から何をどう受け取ったって言うんだ? ……
「鬼貫道明という偉大なレスラーは
「……僕たち、『鬼の遺伝子』が
力道山最後の弟子と正面切って意見を闘わせる岳から不意に加勢を求められた文多であるが、彼の立場と
椅子を蹴って立ち上がるような素振りすら見せないまま、如何にも大弱りといった
「僕だって『新鬼道プロレス』の末席を汚した身ですから自分以外の誰かが懸命になって頑張る姿に励まされる人が多いことを十分に理解していますよ? それでも今は余りにも時期が悪い。悪過ぎるというべきでしょう。下手を打てば、本来なら好意的に受け止めてくれる人たちの神経すら逆撫でしてしまうかも知れません」
「文多も鬼貫さんも、何時からそんな悲観主義になっちゃったんだい? コレをやったら二度と
「……話をややこしくしないでくださいよ、吉見さん……」
議論を継続するにせよ、感情ばかりが先走っていては間もなく平行線を辿るであろうと判断し、もう少し落ち着くよう
正式には『アーム・アキンボー』とも呼ばれるものであり、現存する写真の多くで〝日本プロレスの父〟が披露している定番の
「やってやろうじゃなの、ウーたん! 全国のお母さん代表はウーたんしかいないッ!」
〝
「いやいやいや! 座り直すなんてらしくないじゃないの! そこは岳にも挑みかかる勢いで立たなきゃさ~!
「センパイを焚き付けるのもやめてください、吉見さん……。プロレスの何たるかを語るおつもりならマイクパフォーマンスをそのまま持ち込むのもどうかと思いますが……」
「オレは別に構わないぜ!
「センパイもセンパイで話を余計にややこしくしないでください! 自分でセッティングしておいて途中からマッチメイクの席と勘違いされたら全員迷子も良いトコです!」
一等熱烈な声で「こういうときに黙ってられないのがウーたんじゃない!」と畳み掛けられても寂しげに眉根を寄せるだけでどうしても応じられなかった。
子どもたちの未来を守る為に――被災地で産声を上げた新しき生命に誰よりも強く呼応したギロチン・ウータンの心が岳や吉見の言葉によって揺さぶられないわけがない。娘を持つ母として力を尽くしたいと思わないはずがなかった。それでも彼女には元の椅子に座り直すしかなかったのである。
当然ながら吉見の傍らに立つ
改めて
「天然でとんでもない殺し文句をブッ
「兄貴こそ定香の話を聞いてなかったんですか? 元気がなけりゃどうにもならねぇってときに悲観主義はいけねぇよ!」
「
「それをここで持ち出しますぅッ⁉」
鬼貫が例に引いた『プロ柔道』とは力道山の戦後プロレスとほぼ同時期に昭和を代表する柔道家たちが取り組んだ興行である。GHQによる武道禁止令を受けて活動の場が制限され、生計を立てることが難しくなった柔道家の経済的自立を援けるべく終戦から五年後に運営団体が旗揚げされた次第である。
明治維新と廃刀令によって
講道館が禁じた危険な技の復活や歌謡界との提携など〝興行〟としての可能性を模索し続けたものの、運営団体に名を連ねた昭和柔道界の重鎮たちを嘲笑うかのように集客は伸び悩み、第一回興行から半年と経たない内に有力選手の脱退騒動が発生。挙げ句の果てにスポンサーの撤退という最悪の事態を招いてはとても耐えられまい。
榊原鍵吉を支えた骨接ぎの名門――千住の『
『プロ柔道』に参加した有力選手であり、
〝昭和の巌流島〟などと称された上、深い恨みを残してしまった力道山と木村政彦の直接対決を岳が知らないはずもない。これに前後する『プロ柔道』の顛末も当然ながら把握しているわけだ。
大仰としか表しようのない反応が何よりの証拠である。計画性に乏しい興行は定着しないまま短期間で悲惨な結末を迎えることも
「もしも、『プロ柔道』の二の舞になってみろ? いつかは日本で完全復活できたかも知れないMMAに本気でトドメを刺すことになっちまうぞ。お前くらいの器なら力道山の再来になれるだろうが、平成の『三国山庄吉』を探すのはなかなか難しい。……文多、お前はなれるか? 自信の程はどうだ?」
「……『三国山庄吉』の代わりなんて、幾らなんでも荷が重過ぎますよ……」
またしても二人の言い合いに巻き込まれてしまった麦泉であるが、鬼貫の口から『三国山庄吉』という名前が飛び出した瞬間、今度は首を横に振って明確な否定を示した。
三国山庄吉――浜田庄吉という本名にちなんだ異称はコラキチ・ハマダ。それは明治時代にアメリカへと渡り、日本人初のプロレスラーであるソラキチ・マツダと共に同地のリングで闘った人物である。
右肩の故障による引退まで『鬼の遺伝子』として闘魂を燃やしていた麦泉からすれば偉大という二字を
正式な呼称ではなく『欧米相撲』あるいは『西洋相撲』という和名が当て嵌められてしまうほど明治の日本に
海を渡った
『冒険世界』に先駆けて欧米のプロレスを日本に報せたのは明治一七年四月二四日に発行された『開花新聞』であった。
彼の盟友である
「――外国人プロレスラー軍団を率いて東京に乗り込んだコラキチ・ハマダという日本人の話は私もどこかで聞いた
岳と鬼貫の間に
向かい合う形で不死鳥の絨毯の上に一列ずつ並べられたテーブルの内、MMA日本協会の関係者たちが陣取った側に着席している。歩行の支えに用いた杖を天板に置き、秘書の女性を傍らに控えさせていた。
斜向かいの位置には麦泉が腰掛けているのだが、蒸かしたばかりの柔らかい饅頭を幾つも積み重ねたかのような体格の男性が現れたことによって彼は〝室内で最も恰幅の良い人間〟ではなくなった。〝二番目〟に格下げとなったことは誰の目にも明らかである。
鬼貫道明と同世代であろう饅頭の如き男性は
同協会の最長老は副理事長の地位に
先ほど社長自らが口にした『ハリアーズギャンビット』も同企業が開発・発売したビデオゲームのタイトルである。架空の格闘家たちが一対一で対戦し、二本先取で勝敗を決するオーソドックスな
若かりし頃の鬼貫道明がプロレスラーとして登場する同作は稼働開始から二〇年近く経過しており、マニア向けの店舗を除く殆どのゲームセンターに
このように『ラッシュモア・ソフト』は根強いファンを掴み続けるメーカーであり、昭和から平成へと時代が移ろう中でゲーム事業以外の分野でも大きな成功を収めている。創業四〇年を超えた現在ではフィットネスクラブなどの運営や将来のオリンピアンを育てるスポーツ選手の支援活動にも力を注いでいた。
経済界から〝巨大王国〟とも揶揄されるように今や『ラッシュモア・ソフト』の規模は全国に及んでいる――それはつまり、東日本大震災に
欧米諸国ではプロ選手による国際大会が開催されるほど盛んな〝文化〟にも関わらず、普及に至らないどころか、〝パソコン
MMA日本協会にて存在感を示す最長老は、同時に一代で築き上げた〝巨大王国〟を守らなければならなかった。三月一一日から一〇日を数える現在も被害状況の確認や支援計画の策定に追われており、本来ならば岳の招聘に応じることなど不可能に近いのだ。
老体に堪えるほど睡眠時間を削る状況下にも関わらず、MMA日本協会副理事としての使命を重んじ、国会議員である岡田会長と同じように僅かな時間を捻り出して小会議室に現れた次第である。
それ故に徳丸の遅刻を咎める者など一人としていない。樋口に至っては彼が座るべき椅子を秘書に成り代わって引き、最大限の礼節を
「私の記憶に誤りがなければ、コラキチ・ハマダの目論見は目も当てられないような大失敗に終わったのではなかったかな? 明治の日本に欧米のプロレスはまだ早過ぎた。昭和の力道山を待つしかなかった――歓迎すべきことではないが、あれの代わりを見つけるのは大して難しくなかろうよ。逆の意味で麦泉君には代わりなど務まるまい」
『新鬼道プロレス』のリングで長らく
他の面々とは明確に異なる役割を担っているわけだが、日本MMAを牽引した『バイオスピリッツ』が汚辱の中で崩壊したこともあり、客観性が高く、且つ厳正な視点が格闘技とは離れた位置に
その上、彼は世界を股に掛ける実業家の一人でもある。明治の日本で初めて開催されたプロレス興行の結果を誰よりも厳しく捉えているのは当然であろう。
事実、明治二〇年六月の銀座・木挽町三丁目の広場で開催された『西洋大角力』は錦絵をポスターとして採用するなど並々ならないほど力の入った
「私の口からわざわざ説明しなくとも麦泉君なら知っているだろうが、あの時代の記者というか、
徳丸が挙げた『山本笑月』とは明治から大正へと至るまでの〝庶民〟の文化を調べ上げた研究者である。
その成果を取りまとめた『明治世相百話』なる著書の中で山本は日本初のプロレス興行を紹介しているのだが、徳丸が容赦のない分析と前置きしたように
「しかも、コラキチ・ハマダは嘉納治五郎の甥っ子が『国際柔拳倶楽部』を設立するより二〇年も先駆けた日本人初のボクサーとも言われているのだろう? 『拳闘』と『欧米相撲』の両方を知り尽くしておきながら
日本初のプロレス興行は同時にボクシング興行も兼ねており、同著の記述も『初見参の拳闘と西洋相撲』なる見出しから始まっている。少年時代に観戦したものと
その一方で『欧米相撲』には恐ろしく冷ややかな目を向けているわけだ。これを認識した上でMMA日本協会の副理事は敢えて『明治世相百話』を例に引いたのである。一人の実業家としても
彼に深い畏敬を示した麦泉や鬼貫とは真逆の反応であった。
「いや~、それがですね、徳丸さん……一番最初の『西洋大角力』は興収的に振るいませんでしたけど、そこからはちゃんと挽回してるんですよ。鬼貫さんが『平成の三国山庄吉になれるのか』って文多に問い質したのはそっちの意味じゃないかな~って」
「助かったぜ、定香。このままじゃ三国山庄吉に本題を乗っ取られるトコだったよ。徳丸さんね、自分も岳も、文多だって明治のプロレスを無謀な挑戦とは思っておらんのです」
「おや、そうなのかい? 私が聞いていた話とは随分と違うようだなぁ。吉見君と鬼貫君が言うことだから、そちらのほうこそ正確なのだろうがね」
「人のウワサも長い長い年表にも失敗のほうが根深く残っちゃうから徳丸さんが誤解するのも仕方ありませんけどね。鬼貫さんの話に乗っかるなら無謀な挑戦じゃなく勇気ある第一歩と呼ぶべきかしら? 躓いた場所からの立て直しも含めてね!」
「日本人ボクサー第一号にプロレスラー第二号という二つの肩書きを併せ持った三国山庄吉は徳丸さんが仰ったように両方の競技を知り尽くしていましたよ。その上、日本の相撲にも明るいと来たもんだ。定香が話していた立て直しは東西の角界と手を組むところから始まったんです」
「ショービジネスが盛んなアメリカで三国山庄吉は興行師としての手腕まで磨いてたってワケね。そういう意味じゃ徳丸さんと同じタイプかも知れませんよ」
「それはまた興味深いね」
MMAに挑戦する以前はプロレスラーとしてリングに上がり、その歴史にも詳しい吉見定香が徳丸にやんわりと諭した上、テーブルから離れた位置で鬼貫が首を頷かせた通り、
ソラキチ・マツダこと松田幸次郎が東京相撲で『荒竹寅吉』と称したように『三国山庄吉』もまた四股名である。所属した部屋こそ違えども二人は明治一六年五月の時点に
特別製の列車に乗って全米を回り、地上最大とも謳われるサーカス巡業を行っていた伝説的な興行師――フィニアス・テイラー・バーナムのスタッフが同時期の横浜に滞在しており、そこで告知された〝芸人募集〟に応じて二人の若き力士は海を渡った次第である。
日本人のプロレスとボクシングは脱走という何とも聞こえが悪い筋運びから始まったわけだが、それで角界との繋がりが完全に絶たれたわけではない。木挽町での第一回興行を失敗した三国山庄吉は再起を期して古巣に協力を依頼したのだ。
〝日米大相撲〟とも
見事に東京での雪辱を果たした
明治半ばのことである。同時期には渋沢栄一や五代友厚といった実業家たちが洋装姿で辣腕を振るい、幕末維新後の日本経済を大いに前進させていた。
力道山と戦後プロレスが果たした役割に倣わんとする姿勢を崩さない岳に翻意を促すべく敢えて鬼貫が
徳丸が
「近代アメリカを代表する〝サーカス王〟が日本でも団員を募ったという話は私にも聞き
二人の若き力士が希望を胸にアメリカへ渡ったのは
およそ一三〇年の歳月を経た二〇一一年に
戦後間もないアメリカには日本人・日系人に対する負の想念が根強く残っていたが、自分たちに向けられる攻撃的な感情を逆手に取って
彼もまたソラキチ・マツダやコラキチ・ハマダと同様にプロレスラーとして
帰国後は力士時代の後援者や当時の日本を代表する興行師の協力を取り付けるなどプロレス興行開催に向けた布石を次々と打っていく――つまり、力道山は大勝負を仕掛ける為の下準備に時間と労力を惜しみなく費やしたということである。
これに対して八雲岳の場合は〝日本プロレスの父〟の魂こそ現代日本の復興に欠かせないと勇ましく吼えておきながら具体的な計画は一つとして示していない。傷付いた被災地を放っておけないという衝動に任せて、ただただ
最後の弟子として力道山という存在を直接的に知っている鬼貫が
「徳丸さんが仰った通り、ソラキチ・マツダたちと
「力道山門下OB会のきっかけになった日のコトだろ? ほらほら~! やっぱり兄貴の心には今も偉大な魂が宿ってるんじゃないの!」
「これをツッコむのは人生で何回目か分からんが、一体全体、お前の耳はどういう構造をしとるんだ。おまけにここまでの
「いやいやいや! 兄貴こそオレの話を思いっきり聞き流してるじゃねェですか! それなのにオレばっか問題児扱いなんてヒドいんだもんなぁ~」
人並み外れて逞しい顎を撫でた
「オカケンからも岳に何か言ってやってくれ。力道山の為したコトは必ずしも平成に当て嵌まるワケじゃないって。あの頃と比較にならないほど〝娯楽〟が増えた今、街頭テレビの前で人間が塊になる状況など有り得んし、一個の価値観をゴリ押しするのが逆効果というコトは力道山直系の『大王道プロレス』を導いてきたお前さんなら痛いほど――」
街頭テレビで放送される戦後プロレスのように庶民の娯楽が限られていた昭和と、「何を趣味にするか」という選択肢が増えて価値観そのものが多様化した平成では感覚からして噛み合うはずもないと指摘し続けているわけだが、良くも悪くも握り締めた情熱を手放さない岳には少しも響いてはいなかった。
これに対して鬼貫道明の側は新宿駅前にて異種格闘技食堂『ダイニング
もはや、水掛け論に陥っていることを痛感した鬼貫は行き詰まった状況を打開するべく岡田健に加勢を求めたが、彼の側へと振り向いた直後に二度見を挟んで両目を見開き、次いで言葉を失った。
白い布の反対端を掴んでいるMMA日本協会の会長は「滝の如く」としか
赤子同然の有り様としか表しようがなく、この場に政治記者が居合わせたなら「国会議員にあるまじき醜態」といった厭らしい見出しで侮辱的な内容を書き立てたに違いない。
激しく咳き込み始めたのは肺の中が空となり、窒息しそうになった証拠であろう。堪え切れないほどの感情が身の
「――根本的な
「えっ、徳丸さんまでダメ出しするの⁉ ていうか、
「そこで
「参ったわね、岳。私らを数で押し切ろうってハラだわよ。いっそこの場の全員で多数決でも取ろうかしら? 民主主義の大原則に従って手っ取り早くケリつけましょうよ!」
「……定香。徳丸先生はそんなこと、仰っていないでしょう? 鬼貫さんが八雲に言ったのと同じ台詞を貴女にまで使わなければならないわね。耳は良いほうじゃなかった?」
岡田の
最初に口を挟んだのは徳丸富久千代である。復興支援の手掛かりとして力道山へ倣うにしても先立つものがなければ興行を成り立たせることさえ不可能という問題提起は鬼貫にとって何よりの加勢であった。
その
二人がかりで
今日の会合には代理を派遣しているMMA日本協会理事長――
「仮に
右の耳朶を同じ側の五指にて摘まみつつ、徳丸は賛成でき兼ねる理由を岳と吉見の二人へ言い聞かせていく。
『ラッシュモア・ソフト』を率いる当代随一の実業家が語った〝今〟とは、改めて
「八雲君には耳の痛い話だろうが、私は成功する確率のほうが遥かに低いと見ているよ。MMA日本協会の立場としてもそれは看過し難い事態だ。一経済人としては尚更のこと」
「机の上の計算だけで
「日本人初のプロレスラーたちがアメリカンドリームに賭けたのは〝今〟の日本みたいに経済の先行きが見通せない状況をブチ破る為だったハズよ! あの二人が船出したのは秩父のほうで『世直し一揆』みたいな騒ぎが起きる直前くらいっだったもの!」
「そうだぜ、定香! どうなるか分からねェ状況ってのは〝今〟も昔も
「八雲君も吉見君も、まあ、お聞きなさい。一先ず深呼吸でもして〝今〟というものを見回してご覧。企業のCMが一切流れないテレビを観れば一目瞭然のように自粛々々の有り様だ。娯楽を求める気持ちさえも悪いコトのように見なされる空気が日本中に垂れ込めている。……娯楽の最前線に携わる私でなくとも肌で感じているのではないかい?」
徳丸は〝今〟の日本に横たわる一つの事実を岳と吉見に突き付けていた。
三月一一日午後二時四六分に東北地方太平洋沖で発生した本震直後からテレビは震災関連のニュースを報じ続けている。その大半は途切れる間もない生放送であったが、数日を経る頃には少しずつ
民放各局はスポンサーから提供される資金に基づいてテレビ番組を制作している。その見返りとして幕間に挟むCMで宣伝活動を代行する形となるわけだが、『三・一一』以降から公共広告の映像にことごとく差し替えられ、出資企業の
それはつまり、利益を目的としたCMが放送し難い状況に陥ったことを意味している。多くの企業は宣伝活動を自発的に控えたのだが、この風潮に前後して「被災地とは異なることに目を向けるのは人間として間違っている」といった奇怪な〝使命感〟がどこからともなく流れ込み、決して少なくはない数の〝良心〟を揺さぶるようになっていた。
週が明けた三月一四日を境にして報道特別番組ばかりが詰め込まれていた編成も震災以前の内容に戻り始めたのだが、CMだけは公共広告のまま変わらず、企業の自粛は依然として続いている。
長時間に亘ってテレビと接し続ける視聴者にとって同じ内容の公共広告が繰り返される事態は檻の中に閉じ込められているかのような抑圧を意識させるものであった。
そして、溜め込まれた焦燥は極限的な状況下ゆえに他のやり場もなく、捌け口を求めるならばそこに余人から批難されないだけの〝正義〟が必要となる。心がやつれ切ってしまう前に娯楽へ救いを求めた人間が〝悪〟として標的にされるまで時間は掛からなかった。
一部の心ない人々――あるいは自分以外の〝誰か〟に鬱積したモノを叩き付けなければ破裂してしまいそうな人々が匿名性の高い
「徳丸先生の言う通り、二人とも自分の足元をきちんと確かめるべきよ。被災地を回っていた八雲は把握していないのかも知れないけれど、今日、旗揚げ大会を行うはずだった女子プロレスの新団体でさえ断腸の思いで中止を決めたのよ。携わった全員が一生の想い出にできたはずの第一歩を……。無理を押し通してどうにかできる状況じゃないわ」
岳の招聘に応じられる状況ではない女子プロレス団体を例に引きつつ、
冷静になるよう二人に繰り返しながら、それが必ずしも本心ではないと自ら明かしてしまう声とも言い換えられるだろう。
その一方、
記念すべき日が掻き消えてしまった〝同胞〟の悲しみを我がことのように想い、全身を引き裂かれるような痛みに苛まれているのかも知れない。
感情が昂る余り、常時一〇〇キロを
「……熱意だけで何とかできるのなら、『メアズ・レイグ』がとっくにやっているわ。だけど、〝現実〟はそれほど甘いものじゃない。二人とも本震の大きさを振り返ってみることね。あれと同じレベルの余震に襲われるかも知れない状況でスポンサーたちが開催に納得すると思う? ましてや、それを世間から批難されたら? ……今、動いている格闘技団体だって瀬戸際に立たされているのよ……ッ!」
ギロチン・ウータンが尋常ならざる有り様に変わってしまった理由を推し量り、気遣わしげな眼差しでもって寄り添う
彼女が代表として率いている女子MMA団体『メアズ・レイグ』は三月一一日に新宿のコンサートホールで
安全の確保が不可能に近い為、延期ではなく中止という決断を下したものの、〝娯楽〟の全てを〝悪〟と断じる風潮がこれから先も続くようであれば五月に新木場で予定している
運営そのものが立ち行かなくなるという理由で開催を強行しようものなら、まず間違いなく〝不謹慎狩り〟の餌食となる。ひいては連座を恐れたスポンサー企業が一斉に引き上げてしまうだろう。何よりも信頼関係が重んじられる以上は出資者の体面を傷付けるわけにもいかず、
それは未曾有の震災が刻み込んだ恐怖と不安を糧として吸い込み、歪な形に膨らんでいく正義感である。都心に
倒壊の心配がない家屋に籠り、満たされた腹を撫でながら暖房まで使える
今回は被災を免れたものの、〝次〟は自分の番に違いないという不安が平素の比ではない暴力的な反応を引きずり出し、世間の大勢が〝悪〟と見做した標的にこれを叩き付けてしまうわけだが、己の心に走った亀裂を誰かの慟哭で虚しく補ったとしても何一つとして慰めにはなるまい。
しかし、誰一人として救われない憤怒の暴走を「人間の薄汚れた本性」などという尤もらしい一言で片付けてしまうのは浅薄にして傲慢であろう。
示された日から一〇年余りが経過した
その再来とも感じられる状況をテレビが加速させているのだ。倒壊した自宅の前で悲嘆に暮れる被災者を探し、末世的な空気を意図的に醸し出そうとした番組が放送倫理を問われたことはこの場の誰もが恥ずべき悪例として受け止めている。
己一人では抱えきれないほど大きな不安に取り憑かれた
鬼貫も窓の外に見つけた買い物客へ顔を顰めていたが、ここ数日でトイレットペーパーの買い占めが深刻さを増している。工場の被災によって紙製品全般が市場に出回らなくなると様々なテレビ番組が報じ、ただでさえ不安に苛まれていた人々が備蓄を求めて陳列棚に殺到した次第である。
昭和のオイルショックに
「自粛ムード真っ只中で名乗りを上げるスポンサーが日本のどこにいるのかしら? 財源がなければ興行の支度はできないし、何より出場選手だって集められない。日本人選手はまず無理よね? ……これは東北だけの問題じゃないわ。今は日本のみんなが被災者も同然よ。海外の選手へ呼び掛けるにしたって、安全を確約し切れない傷だらけの日本に迎え入れるのは無責任極まりないわ!」
「今日の千代田区は輪番の中に含まれておらんが、震災の影響で始まった計画停電は当たり前のように享受していた〝日常〟が、もはや、そうではなくなったと強く実感させものだよ。これだけでもストレスが溜まってしまうのに最近は己の為すことをどこかの誰かに見張られているような薄気味悪さが付き纏っておる。そこにテレビが圧迫感を上乗せしてきたどうなるか――正常な判断力が壊される条件が今の日本には溢れておるのよ」
己の身に圧し掛かっている難題を一つ一つ数えるような恰好で岳へと言い募る
MMA日本協会副理事長の見解は今まで以上に大きく心を揺さぶったのであろう。ギロチン・ウータンは我知らず床を強く踏み締めてしまい、激情を抑え込むべく幾度も幾度も深呼吸を繰り返した。
小粒な瞳は
「
「MMA自体が不謹慎扱いされて袋叩きに遭うとでも? 上等ですよ! 不当な
そういって吉見は何者かを捜すように忙しなく首を回し、小会議室の隅々まで行き届く大声でもって「今こそ出番よ、
敬称を付けて館山と呼び付けられたのは弁護士の立場でMMA日本協会に参加する女性であった。法律の専門家という独特の視点からMMAのルール策定などに携わっているのだが、自分の事務所を経営するほど優秀な弁護士が震災直後の大混乱に接して本業以外に時間を割けるはずもあるまい。
被災した現地では避難所に
法律家の立場による復興支援が託された館山が吉見の呼び声に返事などできようはずもあるまい。彼女のような人間は日本格闘技界にも多く、MMA日本協会の中にさえ館山以外の欠席者がいないわけではない。
むしろ、現役の国会議員と日本を代表する実業家が岳の招聘に応じられたことこそ奇跡と呼ぶべきであろう。
「腰砕けになりそうな流れだけど、何のその。
「――定香と岳さんの真っ直ぐさを私は尊敬している。自分も子どもたちの力になりたいという気持ちには大賛成だよ。でも、これはもっと視野を広げて考えなきゃいけないことではないかな? 慎重に慎重を重ねても追い付かないくらいに。釈迦に説法でも敢えて言わせて貰うよ。……不特定多数からの誹謗中傷を甘く考えてはいけない」
勢いに任せて勇ましさで畳み掛けようとする吉見を遮ったのは、自身に割り当てられた椅子の座面に鞄を置き、
どれだけ吉見から加勢を求められても重い腰を上げようとせず、喧しいほどの呼び掛けも無言で受け止めるのみに留めていたギロチン・ウータンがこの会合に
立ち上がった拍子に零れた一粒の涙がこれ以上ないというくらい重い意味を皆に投げ掛けている。
不特定多数からの誹謗中傷を甘く考えてはいけない――震える声で吐き出された一言には吉見に応じられなかった理由の全てが込められている。先程も恥ずべき暴挙としか表しようのない〝不謹慎狩り〟への憤激を比喩でなく文字通りに噛み殺していたわけだ。
拳を交えたこともある吉見は
プロレスそのものを全く理解していない人間はギロチン・ウータンに代表されるヒールレスラーという存在が
相手の攻撃をわざわざ
それはつまり、「徹底的に追い詰めても殴り返されることがなく、また第三者から非道と咎められる心配も不要な対象」とも言い換えられるだろう。
勧善懲悪の
長年に亘り、第一線で日本の女子ヒールレスラーを引率してきたギロチン・ウータンは
〝
そして、このような被害がプロレスとは無関係の家族にまで及んでしまう
ファンとの交流すら禁じられており、サインを求める友好的な声にも怒号を返して追い払うしかなかったのである。一秒たりとも途切れることなく〝
無論、これは女子団体に限定された問題ではない。一九八〇年代といえば
ギロチン・ウータンはヒールレスラーの人格を犠牲にして興行を盛り上げるような二者択一のイメージ戦略を刷新しようと取り組み始めた世代の一人であった。
当時はプロレス団体の
所属団体の
二〇〇〇年代半ばに『超嬢プロレス』という団体を創業し、自らの手で舵取りを行うようになってからは子どもたちと触れ合う交流会も積極的に開催。試合に
かつてヒールレスラーを苦しめたイメージ戦略を
「昔は〝
「……〝パソコン通信〟が流行り始めてからはヒールレスラーも〝キャラクター〟の見せ方を本格的に練り直さなきゃいけなかったわね。
「時代に合わせて変わらなければならなかった理由は、今の状況にも徳丸さんの話にも通じている――それもオッケーね?」
岳と同じく昂揚に身を委ねてしまう吉見に対し、彼女を諭していくギロチン・ウータンの声はリングに
自らの意見を主張する際に相手の気持ちを挫いてしまおうと凄むことはなく、睨み据えて威嚇することもない。必要な言葉だけを丁寧に述べていく姿からも〝
このように誰からも慕われる本来の
〝
インターネットの普及に伴って心ない声がレスラーたちへ直線的に届く時代となってしまったのだ。二〇〇〇年代に至り、双方向の交流を利便化する
〝憎まれることが一種の美学だった時代〟のギロチン・ウータンには俗に言う〝カミソリレター〟が日々大量に送り付けられていた。便箋の中にカミソリの刃を同封するだけでなく、開封する場所に仕込んで確実に怪我をさせる悪質な物も多かった。
嫌がらせの
しかし、
それは形を変えた〝カミソリレター〟に他ならない。暴言を受信しないよう設定し、悪質な
インターネットの世界で社交を促進するSNSは直接的に人間関係が繋がる為、憎悪も抜き身のまま届いてしまう。一通や二通ならば黙殺すれば済むのだが、数分と経たない間に大量の罵声が押し寄せてくるのだから、精神的な苦痛も過去の〝カミソリレター〟とは比べ物にならないのである。
しかも、暴言の対象はレスラー本人だけに留まらない。その家族や友人がSNSを利用している場合は被害が際限なく拡大してしまうのだ。吉見定香が「堂々と名乗りを上げてケンカすることもできやしないアホ」と罵るような人間は〝
これら全ての
「自分の経験上、実際の被害が確認されない以上は警察も迂闊には動けない。殺人予告同然の手紙が届く状況でも漫画や映画みたいな身辺警護は有り得ないわ。裁判所も接近禁止命令を出しようがないのだから、あらゆる対応がどうしても後手後手に回ってしまう。その間に身近な人たちが攻撃対象になってしまったら? ……裁判は〝落とし前〟を付ける手段ではあるけれど、物理的な盾になってくれるワケじゃないのよ、定香」
法律に基づく対処で報復は可能だが、裁判所に頼らざるを得ない時点で、既に取り返しのつかない事態が起きている――指摘そのものには意外性もなく、誰もが想定できる範囲であったが、ギロチン・ウータンの発言という事実によって重みが全く変わるのだ。
子どもたちの力になりたいという吉見や岳の気持ちに呼応しながらもギロチン・ウータンが賛同に至らなかった理由をこの場の誰もが理解している。
過去の〝カミソリレター〟は激しい憎悪の顕れである。善悪と是非はともかくとしてカミソリの刃で〝制裁〟を加える方法にも工夫が凝らされていた。並大抵の執念がなければ途中で頓挫するようなものであり、そこまで力を注げる人間も必然的に限られるわけだ。
しかし、
〝
「私たちはプロレスという文化を腐らせる大敵としてずっと忌み嫌われてきた。連中からすれば犯罪という意識もない正義の裁きというワケね。それだけなら古い笑い話に換えられなくもないけれど、天災の直後というこの時節に同じような意識が高まれば〝カミソリレター〟とは別の
「……関東大震災と同じ過ちが格闘技界で再現される事態だけは何としても避けなければなりませんよね? 正直、一度は危ないところまで行きましたし……」
かつては『新鬼道プロレス』に所属し、負傷による引退まで『鬼の遺伝子』の一員として闘った麦泉から答え合わせを求められたギロチン・ウータンは一等強く頷き返し、全国に支部を持つ空手道場『
それは日本格闘技の関係者の間に冷たい戦慄を伴って駆け抜けた急報である。
東北の被災者は大勢が避難所での
玄関や壁が破壊されたまま冷たい風に晒されている家屋は忍び込むことも容易く、流出を免れた金庫などは入れ食いも同然であろう。実際に窃盗目的でボランティアに紛れ込んだ人間も少なからず確認されており、被災した信用金庫やATMから現金を奪った者たちが何人も逮捕されている。
一定の説得力を持つ
『
ギロチン・ウータンより示された仮定を受けて麦泉も例に引いたのだが、遡ること八八年前――大正一二年九月一日に発生した関東大震災でも同様の事態が起きている。焼け野原と化した東京の治安維持を掲げていたはずの自警団が事実無根の流言飛語に惑わされ、国内外の人間を不当に殺傷する事件が多発したのだ。
自警団を構成する大多数が錯乱状態に陥り、組織的な暴力としての側面が先鋭化した成れの果てといえるだろう。遠回しながら実例に触れた麦泉のみならず、この場の誰もが八八年前の過ちを繰り返してはならないと
『
関東大震災の事例に限らず、洋の東西も問わず、自警団と呼ばれる組織は処罰の対象を現行の法律に求めるのではなく、個人の主観で決めてしまう点に本当の恐ろしさが潜んでいる。公平な裁判も差し挟まない〝私刑〟に過ぎないわけだ。それ故に「疑わしい」と感じたその気持ちだけで処断できてしまうのである。
ギロチン・ウータンは注意や自重を促したのではない。格闘技や武道に携わる誰もが共有しなければならない問題に対して深刻な警鐘を鳴らしたのだった。
「……〝不謹慎狩り〟と自警団か。メディアは自粛ムードという人目を引きそうな標語を連呼して、この両方の可能性を煽り立てている。下手にカチ合えば暴力の連鎖になるのは必定――いや、暴力の応酬まで行き着くことは免れまいな」
「自分たちの信じる正義の反対側にいる〝悪〟にはどこまでも無慈悲になれるのが人間という生き物です。私の実家は窓という窓を投石で破られる程度で済みましたが、日本中が錯乱し掛けている今なら大岩を担いで乗り込んでくるのは間違いないです。……認めたくはありませんけど、〝不謹慎狩り〟は私たちの反対側に
「暴力の連鎖」という言葉に対し、ギロチン・ウータンは発言者である徳丸の顔面に右の人差し指を向けるほど強く反応してしまった。我知らず無礼を働いてしまったことを即座に詫びたものの、至近距離であったなら指先が鼻の
「潰し合い同然の状況まで拗れたらワイドショーは〝数字〟欲しさに視聴者が飽きるまで取り上げるだろうよ。『どっちが正しいのか、ハッキリさせないとみんな納得しない』などと
「……『みんな』と、いちいち味方を付けなければ持論も話せないのは情けないですね」
ギロチン・ウータンの問題意識を理解しているMMA日本協会の副理事長は過剰な反応を戒めることもなく、その指摘に自らの見解を重ねていく。
事件の発生と立件・起訴という段階を踏まなければ裁判所も頼りにならず、法律も取り返しのつかない事態を物理的に防いでくれる盾ではない――先ほどギロチン・ウータンが訴えた危険性は徳丸が述べた〝暴力の応酬〟とも表裏一体なのである。
八雲岳は日本中に蔓延する自粛ムードへ逆らおうとしている。〝不謹慎狩り〟の餌食にされることは間違いないが、彼に〝制裁〟を加えんとする者たちは当人を叩き潰すだけでは飽き足らず、抹殺しても許される対象の中に未稲や嶺子をも含めていくことだろう。抗う力すら持たない小さな
根底に流れる歪んだ正義は関東大震災に
「こうなって来ると、いよいよ
『デラシネ』とは水面を浮かぶ根無し草のことであり、転じて特定の組織に所属しないフリーランスの殺し屋を指す隠し言葉であった。裏社会の事情に詳しい人間でもなければそもそも接点すらなく、麦泉と
樋口郁郎と鬼貫道明はそれぞれの立つ場所で同時に口元を引き攣らせ、岳などは「アンタが言うとシャレに聞こえねぇんだよなァ」と盛大に肩を竦めてみせた。MMAの海外普及という〝スポーツ外交〟に携わっている吉見定香も『デラシネ』という裏社会の隠し言葉を聞いた
「……
銭坪満吉とは歯に衣着せぬ物言いが昼間のワイドショーにて持て
遡ること一年前――他を寄せ付けない圧倒的な強さで横綱に上り詰めたモンゴル・ウランバートル出身の『
憤りを込めた諧謔か、怒りに突き動かされた本心であるのかはともかくとして、〝裏の仕事人〟を差し向けたいとMMA日本協会の副理事長が口走ってしまうことも頷ける人物というわけであった。
その銭坪に小遣い欲しさで日本格闘技界の内情を漏洩する裏切り者など混ざってはいないかと疑うよう徳丸は瞳に力を込め、不死鳥の絨毯の上に立つ人々を見回した。
スポーツ・ルポライターとも認め難い男に内通しているのではないかと勘繰られた恰好であり、無遠慮に
MMA日本協会の役員でありながら格闘技と接点のない〝部外者〟という意識も働き、徳丸を取り巻く空気はたちまち張り詰めていく。尤も、『ラッシュモア・ソフト』の社長はあらゆる方向から突き刺さる視線すら意に介さず、右の耳朶を同じ側の五指で摘まみ続けていた。
〝巨大王国〟の一員だけに肝が据わっているようで、徳丸が伴ってきた秘書も敵意に満ちた視線を浴びながらたじろぎもしないのだ。
「銭坪の野郎なんて倅がMMAの挑戦に躓いちまったもんだから、オレたちを逆恨みしてるだけじゃないですか。詐欺紛いの意趣返しなんて
「我々が相手にしなくとも汚い声こそ世間は聞き耳を立てるのだよ、八雲君。新団体立ち上げの為に震災を〝餌〟にしたと下世話なワイドショーで吹聴されたらどうなる? 彼女の懸念が最悪のシナリオとして的中してしまうぞ」
徳丸の目配せを受け止めたギロチン・ウータンは、室内の視線が己に集中するのを見計らってから重々しく首を頷かせた。改めて
「鬼貫くんの言葉を借りるようだが、今度こそ日本のMMAには致命傷になる。……あれは同調圧力を作り出すのが腹立たしいほど上手い。昨今の自粛ムードを誰よりも歓迎しているのはあの忌まわしい男であろうよ」
徳丸副理事はMMAという〝娯楽〟が日本社会の自粛ムードに対する反逆としてマスメディアの餌食となり、不謹慎という反論し難い烙印を押される事態に懸念を示していた。
日本MMAに携わる人間は被災地の痛みと悲しみを分かち合うべきときに非常識な金儲けを平気でやってのける――低俗ながらも大勢の目に触れるワイドショーで銭坪がそのように吹聴してしまえば、根拠のない誹謗中傷が〝真実〟の如く蔓延し、この国でMMAの
『メアズ・レイグ』といった活動中の団体をも巻き込んで破滅する危険性が極めて高いのだから、MMA日本協会の副理事としては慎重とならざるを得ないのである。
「想い出してくれ、八雲君。戦後プロレスと力道山が昭和の日本人を励まし、高度経済成長に貢献したことは間違いない。しかしだね、それも終戦直後ではなかった筈だ。敗戦で荒んだ心が多少なりとも落ち着いた頃だよ。焼け野原のド真ん中で〝娯楽〟に熱狂できるほど人間は強くはない」
「空襲で焼き払われた更地を勝手にロープで区切って、
「……復興支援自体には私も異論はないさ。鬼貫君だってその点は同じ気持ちの筈だ。しかし、それを受け取る側のゆとりまで考慮しなくては一方的な押し付けになってしまうのではないかね? そうなっては善意ではなくただの独り善がりだ」
コントローラーの操作は指先の細かい運動になり、テレビゲームという〝情報処理〟が脳の活性化にも繋がるとして
岳の志を自分たちも共有していると明言した上で同意に至らない最後の一線を示した。
「私の知る限り、独り善がりに付き合ってくれる企業はどこにもない。情熱一つで共感してくれるのは不況の恐ろしさを理解していない作家が気ままに書いた絵空事だけだ。申し訳ないが、私だって出資は控えるよ。……スポンサーが慈善活動でないことは八雲君も思い知っているだろう? あくまでも広報ひいては経済活動なのだよ。共倒れは誰だって避けたい。力道山に倣おうというのなら旗揚げのタイミングこそ見計らう必要が――」
「――それでは何時ならMMAを再開できるのですか? 私たちが命を懸けているのは押し付けなんかではないっ」
岳に成り代わって徳丸に問い質したのは今まで窘める側であった
MMA日本協会の最長老の言葉をかなり強い語気で遮ってしまった形であるが、それは
自分まで冷静さを失っては折角の会合が物別れに終わってしまうだろうと懸命に押し殺してきた感情が不意に溢れ出したわけだ。その気持ちが痛いくらいに
斜向かいに座っている徳丸だけはそれに気付き、拍手の代わりであろうことも理解すると機嫌を損ねるどころか、麦泉と
「――復興への貢献というビジョンは大前提として、八雲先生の発案をコンスタントに行う経済活動と捉えるか、期間限定の支援活動と考えるか。この軸を見定めないことには
「お、おォうっ? 次は
この会合にはタートルネックのセーターにレザージャケットを組み合わせた出で立ちで出席しているが、新聞やテレビのニュース、
齢七〇という徳丸富久千代を超える者は居ないが、
それにも関わらず、物腰から日本MMA復活という発案に対する反応まで非常に老成しており、ホテルの従業員が上げる悲鳴ごと泥だらけの長靴でもって不死鳥の絨毯を踏み付けにする男のほうが年下と見えるくらいだ。
「参戦ということなら僕は最初からそのつもりで臨んでいますよ。〝自分たちの力〟を東北支援にどう繋げるのか、居並ぶ誰もが真剣に考えているからこそ、話し合いも熱が入るのでしょう。八雲先生もそう願って『日本晴れ応援團』を名乗ったのでしょうし」
相手を見据えて語る双眸が何よりも印象的な男である。今も岳を瞳の中央に捉えたまま微動だにせず、瞬きの回数が極端に少ない。そして、〝瞳の中央〟に相手の身を映しながらも傍目にはどこか焦点が合っていないように見えた。
歩行時の支えとなる杖をテーブルにも立て掛けていることからも察せられる通り、佐志の双眸は緑内障によって光を失っている。一度でも聞けば記憶に刻まれ、完全に聞き分けられるというので最初の発言のみに限定しているものの、皆が
視覚として岳の出で立ちを確認することが佐志には叶わないものの、研ぎ澄まされた四つの感覚でもって相手との距離から位置関係に至るまで本人の声や周囲の反応から正確に読み取っていた。
白い布に大書された文言を諳んじたことが何よりの証左である。他の出席者たちの呟きから一字一字を読んだわけだが、彼の知覚神経は思いも寄らない異論に慌てふためく岳の
佐志輔頼が現代日本を代表する柔道家であることは誰もが認めている。視力のハンデをも力に換える武道――〝ブラインド柔道〟の選手なのだ。あるいは二〇〇八年に
「二択っつうコトなら、そりゃあ、息の長い団体にしないといけねぇって思うよ。一度や二度、興行を打つだけならコンビニで募金するのと大して効果も変わらねぇ。持続的に義援金を送れるような仕組みにしねぇと。契約して貰う選手だって短期間で解散しちまうんじゃ張り合いないだろうぜ」
「それでは長期的な展望を模索する方向で参りましょう。過去のチャリティー
「
ブラインド柔道の将来を背負って立つパラリンピアンであるのと同時に佐志は極めて優れたビジネスパーソンでもある。心身にハンデを持つ人たちに安心して働ける場を提供する人材派遣会社に於いてスタッフのマネジメントを担当しており、組織の運営というものを多角的かつ深く掘り下げていく視点は知識や経験によって裏打ちされているのだ。
思考の展開は起業家として通用するほど冴え渡っており、目標だけで中身の乏しい〝夢物語〟とは違って一言一言が揺るぎのない自信に満ち溢れている。代表として団体を率いる
必ずしも自分と同じ反対意見ではないものの、佐志の立論には経済人として感じ入る部分が多いのだろう。徳丸は一つ隣に腰掛けている若き才能に頼もしそうに見つめ、頬を緩ませていた。
組織運営の〝現実〟を知る者たちを揃って驚嘆させた佐志の思考では団体の立ち上げと興行をそれぞれ別個に捉えるわけがない。企業に置き換えて考えてみれば、事業計画を失念したまま資金繰りに関する議論が延々と繰り返されているようなものである。それが定まらなければ出資者への
「テレビ中継ってテがないワケじゃねぇけど、やっぱり現地開催でなけりゃ届けられる元気も半分! それじゃ少しも足らねぇよ! 救援物資は『ジプシアン・フーズ』――オレの
「自分はブラジリアン柔術も習っていますし、間に合ったというか、二つの瞳で
「
「
格闘技全般を幅広く取り扱うチャンネルがあり、テレビの地上波放送から撤退せざるを得なくなった日本MMAが最後の拠り所とした衛星放送すら選択肢から切り捨てられてしまった樋口は本人に気取られないよう佐志から窓に目を転じた。
買い物帰りと
「それなら、やっぱり現地! 現地で
「さすがに被災地を巡る
「兄貴たちよりずっとキツいぜ! 一個一個を理詰めで潰されてる感じ! なんつーか、今なら〝モグラ叩き〟のモグラの気持ちが切なく
「つまり、俺の言いたかったことが佐志君を通してようやく伝わり始めたというワケか。……岳とは三〇年の付き合いだが、コイツを理屈で説き伏せる人間なんて初めて見たぞ」
「ま、まだまだ~! これしきでへこたれちゃいられません! 負けてなるものかッ!」
鬼貫と福丸に続いて佐志にまだ異論を唱えられてしまった岳は、比喩でなく本当に泥まみれの頭を抱えた。
偶然ながら同時に異種格闘技食堂『ダイニング
自分と同じく両目の光を失いながらブラインド柔道を極め、一九八八年ソウルパラリンピックに
牛窪道場がバリアフリーの改修工事を実施したのはパラリンピックから三年後――日本ではその発想自体が珍しかった一九九一年のことである。この偉大なる先駆者と同じように自分もまた心や
しかも、目的意識ばかりを高く設定した〝夢物語〟ではない。人材派遣の
そこに起業家としての才覚を感じ取った岳は、新しいMMA団体の旗揚げには佐志輔頼こそが手掛かりになるだろうと期待して
「八雲先生にセッティングして頂いたのは話し合いの場であって、勝ち負けを競うものではありませんよ。それに自分としては鬼貫先生よりも八雲先生に気持ちは近いつもりでおります。
「矛先が向いているのは実はこっちなのか⁉ 若人よ、老人はいたわってくれ!」
岳に負けないほど大仰に悲鳴を上げる鬼貫へと双眸を向けた佐志は「無礼を重ねて本当に申し訳ございません」と
建設的な思考の持ち主だけに感情ではなく要点を押さえた言葉を連ねており、傍目には遠慮の二字を心得ていないように思えるが、それはあくまでもビジネスパーソンとしての一面であって、佐志本人が礼節を重んじる人柄であることは物腰からも明らかである。
頭を抱えて見せた岳は言うに及ばず、鬼貫の側も悲鳴こそ上げたが、本気で困っているわけではなく、〝
「僕も一〇〇パーセント、八雲先生を支持してはいません。現地開催へのこだわりは如何にも危うい。災害対応で忙しい中へ無理矢理に押し掛けていって、反対に迷惑を掛けてしまったら目も当てられませんし、そういうケースは過去にも数え切れません」
「そうは言うけど、佐志君よォ……
「そもそも自宅まで戻れない方はテレビ視聴自体が難しい状況ではありませんか? 避難所では災害情報の確認が最優先ですから個人的な趣味で特定のチャンネルに合わせ始めたら大喧嘩になるのでは?」
佐志が並べ続ける指摘は一つ一つがその場の皆を納得させ、首を頷かせるものである。避難所という個人の感情を抑えていないと物事が立ち行かない環境でごく一部の人間のみを満足させる娯楽が共有物のテレビを独占すれば、風船の如く膨らんだ鬱憤はたちまち破裂することだろう。
「個人の趣味が個人の権利として心置きなく楽しめる形で映像を届けるというのはどうでしょうか?
「つまり、『ユアセルフ
「まさしく『ユアセルフ
反論を受けて落ちそうになった岳の肩を引き留めたのも佐志の言葉である。彼は反対の意思を表明するだけでなく、その
「充電や電波の確保といった課題は残していますが、携帯電話さえ手元にあれば、どこでも誰でも個人的に趣味のチャンネルを楽しむことができます」
「どうしたってテレビに依存せざるを得ない
「いえいえ、自分は弁護士を目指していました」
佐志の提案に誰よりも早く良好な反応を見せたのは離れた位置で聞き耳を立てていた樋口である。右の中指と親指を打ち鳴らし、同じ側の人差し指でもって彼を示しながらインターネットに活路を見出すという発想を口笛まで交えて讃えた。
「俺みたいに脳が半分錆び付いちゃったみたいなおっさんには逆立ちしたって出てこないアイディアだよ。その点、若い子は伸びやかで良い! ネット配信、大いに面白いじゃないの。本当に必要としている人だけが選ぶワケだから合理性の極みだもん。
おどけた調子で褒めそやしながらも、あまり目は笑っていないので腹の底では納得し切れていない様子だが、個人的な感情を飲み下してしまえるくらい〝若い才能〟が生み出した発案に値打ちを見出していることは間違いないだろう。
「
「日本のMMAが今まで長い年月を掛けて培ってきたテレビ番組的なセオリーやノウハウから飛び越えちゃうのもネット配信ならではってトコだね。しかし、その場合は観客席はどうするんだい? 今のトコのアイディアだと選手やスタッフの安全は確保できそうだけど、観客を放り出して自分らだけ逃げるワケにもいかないだろう?」
「いっそ無観客試合で行きましょう、当日の試合は
「今は何が不満を破裂させる〝針〟に換わるか分からん情況だしねぇ。佐志君、テレビ局からヘッドハントが来てるんじゃない? 俺も〝数字〟は気にしてたけど、そこまで視聴者目線に立っていたかと言われたら、ちょっと自信ねぇなァ」
研ぎ澄まされた四つの感覚で樋口の腹の底を読み抜いたのかは余人には判らないが、佐志輔頼は己の発案こそ現時点で最善と確信している為、口篭もる瞬間がない。
パラリンピックといった国際大会の規定に
「それにしても無観客試合とは懐かしいじゃないの。ⅠT社会の最先端を連発した後に古めかしいモノを持ってくるのがまた奥ゆかしいね。鬼貫さんが
「……二〇年以上前の話を今さら持ち出すか。しかも、あのときは試合の緊張感を盛り上げる趣向であって、必要に迫られて客を入れなかったワケでもない。実例として取り上げるのは適切とは言い難いんだがなぁ……」
出席者の中で最も年若い佐志輔頼が貫録と呼んでも差し支えのない雰囲気を纏わせる一方、樋口から唐突に巻き込まれてしまった鬼貫道明は口元を歪めながら面食らっている。
樋口が例に引いたのは一九八七年一〇日の
白い布の反対側で何やら号泣し続けている岡田健も同じ巌流島で同様の試みを行っている上に海を渡ったアメリカのマットでも類例は多く、プロレスの世界に
だからこそ、プロレスラーたちは無観客試合と
かつて『新鬼道プロレス』のプロレスラーであった麦泉も、樋口郁郎とは正反対に動画サイトのシステムを利用した無観客試合の配信には消極的な態度を取っている。他者の意見を肯定的に受け止める傾向の強い彼にしては珍しく左右の腕を組み、「それこそ準備が難航して復興支援が滞るんじゃないかなぁ」と眉根を寄せているのだ。
麦泉も『バイオスピリッツ』の運営に関わっていたのだが、同団体はアメリカ最大規模のMMA団体『NSB』とは異なってインターネットによる試合の配信そのものに立ち遅れていた為、撮影に必要な機材を一つとして思い浮かべられない有り様であった。
先ほど樋口も述べていたが、情報社会の申し子――いわゆる『デジタルネイティブ』の発想は〝パソコン通信〟という
業務の中でインターネットや電子メールを利用する程度であり、専門的な知識とは接点すら持ち得ない人間はこの場に麦泉一人というわけでもない。
「……無知を晒すようで情けないのですが、義援金はどうやって募るのですか? チャリティー
日本MMAがIT産業に乗り遅れてしまった現状を曝け出していく麦泉に対し、MMA日本協会の役員たちは誰一人として反論しなかった。国際的にも名声が響き渡ったゲームメーカーの経営者である徳丸でさえ口を真一文字に結んでいた。
「そこは
「おうおうおう! 基金はオレも大賛成だぜ!
「こうやって一個一個、それぞれの意見を少しずつでも擦り合わせて参りましょう。八雲先生と僕たちでは目的に至るプロセスが違っているのかも知れませんけど、被災した皆さんを
感情という抽象的なものに焦点が当たり、膠着状態に陥りかけていた会合は佐志輔頼の存在によって歯車が大きく動き始めている。一つの軸である八雲岳の主張を彼は賛否の二極で分けてはいない。反対意見を述べることはあっても実現に向けた対案を着実に積み重ねていくのである。
佐志が口を開いたことで初めて〝議論〟が本来の意味を持ったといえるだろう。それを認めていればこそ〝不謹慎狩り〟の暴発という観点から強く反対したギロチン・ウータンも
「……とはいえ、ネット配信にはそれ相応の機材が欠かせませんし、結局は費用の工面が立ちはだかってくるワケですが……」
現実的な視点から新団体発足の計画を捉えているからこそ幾度も繰り返された問題に佐志も辿り着いてしまうのだ。『デジタルネイティブ』であろうとなかろうと、
「しかし、どうもなぁ、無観客な上に現地以外での開催だと一体感がなぁ。いや、問題は選手の気分だけじゃねぇんだよ。リングと観客席が一体になるからこそ元気がうなぎ登りに盛り上がるんだぜ? オレが現地開催にこだわる理由がそれなんだよ! 意見の擦り合わせはそこから! 先に解決すべきは
「グルーヴ感は演出次第といったところでしょう。『ユアセルフ
「理屈では分かるんだがなぁ~、理屈じゃねぇんだよなぁ~、こ~ゆ~のはよォ~」
「一体感ということで、今、ちょっと思ったのですけど、新しい団体を旗揚げするのではなくて各団体の提携による〝合同大会〟という形ではどうでしょう? 僕の貧乏臭さが滲み出る発想で恐縮なのですが、これなら必要な予算も折半できると思うんです」
「いきなりとんでもねェ爆弾発言をブチ込んでくるな、オイ⁉ 『今、ちょっと思ったのですが』っつう一言で仕切り直しできるモンじゃねぇって!」
「協賛して頂ける団体で負担を分散できるという現実的な
佐志が示した発案は「新しい団体の旗揚げによって日本MMAを復活させる」という呼びかけを根底から覆すものであったが、徳丸から
「本日、お集まりの皆さんも佐志君のアイディアがどれだけ有効か、痛いくらいの実感でご理解頂けるでしょうなァ。資金繰りに頭を悩ませるのはみんな一緒だもん」
〝新しいMMA団体の発足〟から〝既存の格闘技団体による合同大会〟へ切り替えようとする佐志へ真っ先に同調したのは今度も樋口郁郎であるが、その双眸はどこか遠くを見つめており、物言いとは別に腹の底で〝何か〟を思案している様子であった。
「その資金繰りに『スポーツファンド』を持ち出さないでいてくれたのは有難いよ。何しろ
泥だらけの岳がホテルの設備を傷付けないよう小会議室の片隅にて目を光らせている従業員が怪訝そうな表情を浮かべたのは、吉見定香が自嘲の溜め息と共に『スポーツファンド』という耳慣れない
力道山の魂に倣わんとする岳に呼応して一等盛り上がり、空手チョップまで繰り出して風を切り裂いた姿が幻であったかのように神妙な面持ちではないか。吉見副会長の呻き声はMMA日本協会と『スポーツファンド』の穏やかならざる関係を示していた。
三年前の会合を紐解いていく
U字側溝や鉄板などが等間隔で積み重ねられた資材置き場は絶えず砂埃が巻き上がるほど大型トラックの出入りが激しく、それらの駆動音によって鼓膜を打ちのめされたキリサメは以前に瀬古谷寅之助が口にしていた『スポーツマフィア』と『スポーツファンド』を最初は聞き間違えてしまった。
耳を澄ませて正確に聞き取ることはできたが、結局、『スポーツファンド』なる
そもそも投資ファンドの仕組みすら殆ど理解していない。亡き母による社会科の授業で有価・金融証券の取引と併せて概要だけは教わったのだが、そのときにも品物と代金のやり取りによって成立する一般的な商売との違いが飲み込めなかった。投資と収益の原理などは想像すら及ばない。
自分の学習や知識が不足していると感じたときには虚勢など張らず、その〝道〟に通じる人間へ素直に頼るべし――亡き母が繰り返してきた教えに従い、キリサメは話を先に進めようとする沙門を引き留めて「三年前の話に出てきた『スポーツファンド』とは具体的にどういうものですか」と
これに応じる沙門は無知などと言って呆れるどころか、片目を瞑りながら微笑み、「任しとけ!」とばかりに右拳の親指を垂直に立てた。『
「俺も金融関係は専門外なんだけどな。アマカザリ、投資ファンドは分かるかい?」
「ほんのあらまし程度ですけど……」
「ざっくり言うと出資の見返りに企業の株式を押さえて、投資先の値打ちが高まったところでそれを売り抜けて収益を出すって寸法さ。……大雑把な解説ですまないな」
ファンド会社にとっては資金の調達先となる投資家には分配金を支払わなければならないので、その
彼の解説によってファンドが収益を得る仕組みを初めて理解できたのである。
「ほんのちょっと前だけど、日本じゃ『ファンド』って
「株じゃなくて企業自体を売り飛ばす外資系は『ヴァルチャーファンド』なんて呼ばれていましたね。外資系以外のファンドもそういうのがいたなぁ……」
「破綻寸前で値崩れを起こした企業の株を買い占めて支配下に置くということか。……それで『ヴァルチャー』か。言い得て妙というか、何というか……」
「アマカザリは頭の回転が早いから説明も最小限で済むよ。銀行が不良債権として抱える不動産を投資ファンドに売り飛ばすケースもあったんだ。在庫一括処分みたいなデカい取引は『バルクセール』って呼ばれていたっけなァ」
「……投資ファンドはそれを売って儲けを出すんだな……」
「あんまり口に出したくない話だけど、……筆頭株主っていう強権を盾に元の経営者を追い出してね。ハゲタカ呼ばわりされるにはね、キリくん、それなりの理由があるんだよ」
沙門に続いて未稲も説明を加えたが、多くの日本人にとって『ファンド』という
投資と売却の対象には一般企業や工場だけでなくホテル・旅館といったリゾート施設も含まれている。三年前の会合の舞台となった
ついには裁判にまで発展し、正当な権利を有する筆頭株主でありながら濫用的買収者と見做されて敗訴する投資ファンドもあった。このときには従来の経営陣が新株を発行して買収側の持ち株比率とその効力を希薄化させるという奇策を実行している。それが裁判所の判決によって正当と認められ、抗告まで棄却されたのは二〇〇七年のことであった。
「ちなみに吉見さんがクソ面白くもなさそうに話していた『スポーツファンド』はシンガポールに本社を置く会社だよ。『アキレウス・ヒール・パートナーズ』って言ってな、俺の記憶違いでなけりゃ二〇〇〇年代半ば過ぎくらいにスタートアップしたハズだ」
『
「……シンガポールのファンド会社がどうやってMMA日本協会と揉めるんですか?」
鸚鵡返しの如く沙門に質問を投げ掛けてしまったキリサメにはシンガポールのファンド会社という点が意外でならなかった。莫大な
「シンガポールはMMAもかなり盛り上がってるんだ。それでもって『
「つまり、『スポーツファンド』というのは幾つか持つ顔の一つに過ぎない――と?」
「そんなに大仰な話でもないぜ? そのスジのトップランナーは何個もファンド会社を持つのが普通だって聞いたコトもあるし。……どういう
「沙門氏の
「褒め言葉なのか? 褒め言葉だよな? ニュアンス次第じゃこの場で泣き崩れるぞっ」
自分の意図が伝わらなかったことに慌てるキリサメの脇を「冗談に決まってるだろ」とおどけた調子で小突く沙門が更に言い添えたのは『スポーツファンド』という事業そのものに対する解説だ。ようやく
二〇一四年六月現在の日本では知名度など皆無に等しいものの、海外では何年も前から投資活動の一形態として普及しているという。沙門による先程の解説でも触れていたが、読んで字の如くスポーツに関連する銘柄――株式に投資することで
「……株式のことは死んだ母から少し習った程度だから、間違っていたら申し訳ないのですけど、企業を金銭面でサポートするのは銀行の役目ではないのですか? ファンドに頼る前に銀行の融資という選択肢があるような……」
「バブルの頃ならまだしも
「つまり、貸し渋り……というヤツですか?」
「スポーツを観光資源――つまり、立派な〝産業〟と見做して利用している国なんかは銀行のほうが積極的にバックアップするくらいなんだが、日本はその辺りがなかなか〝前〟に進んでいかないってワケ。実業を評価するのは間違いじゃないが、娯楽にこそビジネスチャンスが秘められているって気付いてくれたら俺たちもラクなのになァ」
マイナス成長の時代では生命の維持に関わりのない事業は無価値と決めつけられ、最初に切り捨てられてしまう――重苦しい溜め息と共に絞り出された沙門の言葉を受けて、未稲もまた「銀行がアテにならないのはイヤな時代ですよね」と苦々しげに呟いた。
MMA団体『
「もう一つ、質問を追加させて頂きますが、……スポーツへ投資する仕組みが僕にはどうしてもイメージが掴めなくて……例えばスポーツチームは選手の集まりであって会社ではありませんよね? 銀行の融資でもないファンド会社は〝何〟に投資するのか……」
「一口に『スポーツファンド』と言っても色々と種類があるから俺の知っている『
銀行主導による『スポーツファンド』では、投資活動を通して確保した資金をスポーツ団体へ寄付するシステムもある――沙門は自身の知り得る実例を更に言い添えた。『サムライ・アスレチックス』のような運営企業の側が資金提供の受け皿としてファンドを立ち上げることもあるそうだ。
投資先も競技団体だけでなくスポーツメーカーやフィットネスジムなど多岐に渡る。アスリートの健康を整えるサプリメントの開発事業まで対象に含まれるのだから、沙門が述べたように『スポーツファンド』は
「私もキリくんと同じで『スポーツファンド』は全然分からないんですけど、
「でも、株主の特権で内政干渉みたいな真似はするんですよね? 企業と株式のどちらを売り飛ばすかはともかく、口出しできる権利を買い叩くようなものですし……」
「まァ、そこは銀行や
「会社はそれを資金に回して軌道に乗せて、ファンド会社のほうは株を売り抜けて儲けを確保する計算なんですね。持ちつ持たれつという関係は確かに銀行や
鼓膜が破れるのではないかと心配になるくらい大型トラックの駆動音が唸り続ける資材置き場の付近から波の音が一等強く聞こえる場所へ移動するまでの間にキリサメはファンド会社そのものに対する理解が深くなっていた。
スポーツとこれに関連する事業への融資に銀行が慎重とならざるを得ないことも理屈では分かる。如何に金融機関といえども
『体育』という言葉が示すように健康な
さりとて〝闇金融〟――違法貸金業者で活動資金を調達できるはずもなく、銀行が融資を渋るほど経済が冷え込んだ時代に私財を
「かくいう『
「……ひょっとして経営が傾きかけた頃に――ですか?」
キリサメが訝るような表情を浮かべる一方で、未稲の側には心当たりがあったようだ。推察の答え合わせを求める眼差しに対して沙門は
「付き合いがあるのは今まさに話していた『
「確か『三・一一』以降の自粛ムードの影響をモロに受けて、前代未聞のレベルで客足が遠のいたんですよね? 『
「こればっかりは誰も責められないけどね。東北だけじゃなく、日本中が娯楽にカネを払える状況でもなかったもん」
『バイオスピリッツ』の解散に伴い、名実ともに日本最大の格闘技団体となった『
未曽有の大震災は格闘技興行という〝経済活動〟にも大打撃となった。動員数の大幅な減少と、それに伴う興行収益の急落によって経営状況が著しく悪化した『
二〇〇〇年代半ばに『
「私もニュースで見ていてヤバそうな気配は感じてたんですけど、案の定、モメまくったんですね……」
「こういう場合、自己資本以外のカネがどれくらいの比率で組織を動かしているのかってのがキモになるだろう? 万が一にも
「普通の会社で
「アマカザリ、
『ポイズンピル』とは新株の大量発行によって買収側が保有する株式を希薄化させ、その効力を大きく減退させる防衛策のことである。かつて
組織の主権と直結する株主構成の比率に基づき、対策を求める人間はまだ真っ当といるだろう。憎悪が先行する余り、『スポーツファンド』と『ヴァルチャーファンド』を混同して感情的に反対する者も多かったという。この時期には既に競技統括プロデューサーへ就任していた沙門の
今でこそ金融業界以外にも名称が知れ渡った『クラウドファンディング』の運用が日本で本格的に始まったのは二〇一一年三月以降――東日本大震災に
「沙門氏のお陰でMMA日本協会がどういう状況に立たされたのか、何となく読めてきましたよ。直接、協会が実害を受けたのではなくて直轄するMMA団体のほうが『スポーツファンド』と揉めたんですね」
「例の『ヴァルチャーファンド』みたいな企業買収だとか、筆頭株主の強権を喰らって運営がメチャクチャにされたってワケじゃないんだがな。若き億万長者であろうが『リーマン・ショック』の煽りは免れなかったってハナシさ」
『バイオスピリッツ』が解散に追い込まれたのは二〇〇〇年代半ばのことである。そこから新しいMMA団体の旗揚げを試みた為、全世界を恐慌状態に陥らせた戦後最悪の経済危機――二〇〇八年の『リーマン・ショック』と重なってしまったのである。
沙門も仄めかせる程度に言及したが、外資系ファンド会社への影響が尋常ならざるほど深刻であったことはキリサメにも察せられた。
「当時、MMA日本協会が主導していた団体も
一番の取引先である銀行との交渉でさえ難航するのだからスポンサー企業は言わずもがな――そのように沙門の解説を補足した未稲は何とも例え難い
「お嬢ちゃんが付け足してくれたようにいよいよ首が回らなくなって『
「向こうも向こうで『リーマン・ショック』の損害が大き過ぎて、結局、投資の
三人の中で日本MMAの趨勢を最も身近に感じている未稲は『リーマン・ショック』に翻弄された吉見定香たちの慟哭を想像し、思わず身震いしてしまった。
しかも、活動停止に追い込まれたMMA団体はシンガポールの企業に買収され、現在では〝塩漬け〟にも近い状態で放置されているという。手塩に掛けた団体がそのような仕打ちを受けたのだから吉見定香が『
何しろ
未稲は丸メガネの向こうに憤りを湛え、舌を大回転させる勢いで三年前の会合について語り続けてきた沙門が今度は異常なほど歯切れが悪い。両名とも投資ファンドそのものに善からぬ感情を抱いているのは明らかであり、前者に至っては胸中にて恥知らずと軽蔑している様子であった。
(……祇園のナントカっていう通称だったか――
しかし、キリサメは『
そのように割り切る一方で、次々と岳に対案を示し続けた佐志輔頼が資金調達の手段として『スポーツファンド』を一度も口にしなかった理由が分からなくもなかった。
三年前ということは、おそらくは
資金調達については日本MMAとの関わり合いが皆無に等しい自分は論じる立場にいないことを佐志は吉見定香にも他の面々にも強調していたという。
(いや、……そもそも佐志氏のアイディアはどこに消えていったのか……)
岳が思い描いた大きな
困っている人を
それ故に三年前の会合でも対案という形で岳に貢献したのである。
名前からして義を重んじる武士のようであったが、長崎・佐世保を出身地とする佐志の先祖を辿っていくと、鎌倉時代中期に勃発した文永・弘安の役――世に言う蒙古襲来である――に
その佐志輔頼の名前が『
「お嬢ちゃんは毛嫌いしてそうだけど、ファヴォスもスポーツマンだから俺たちの気持ちが全く分からないワケじゃないと思うんだよなァ。MMA日本協会と上手い具合にやれなかったのも苦渋の決断だったに違いないぜ」
「えっ! ファヴォスさんってそうだったんですか⁉ 私はてっきり自分と同じ〝クソオタ〟とばかり思ってましたよっ⁉」
「よくぞそこまで誤解できたモンだって感心しちまうぜ。オリンピックとパラリンピックの違いもあるから一緒に闘ったとは言い難いんだが、佐志さんとファヴォスは同じ
「……アメリカ代表? シンガポールの
未稲に続いて今度はキリサメが目を丸くする順番だった。『
そこで沙門の話を振り返り、自らの浅慮を反省したのだが、確かに彼はファヴォスなる人物のことをシンガポール出身者とは一度も明言していなかった。
沙門の回答によればニューヨーク州出身のアメリカ人であり、二〇〇〇年代半ばに起業先のシンガポールへ移住したという。正確な時期は彼も把握していなかったが、
「日本の諺に『天は二物を与えず』というものがあったと記憶していますが、話を聞かせて頂いたファヴォス氏も佐志氏も、それを飛び越えていますね。それを言い始めたら声の仕事で成功している希更氏や、クレープ屋の
「
「沙門氏も『天が二物を与えた人』の中に入ると思いますが……」
二人の顔を見比べた未稲が「いよいよ解説コーナーみたいになってきてない?」と呆れ返るのも当然であろう。ここまで外資系の『スポーツファンド』について話し込むとは思ってもみなかったのである。
「……『
「それはまたキナ臭い話かい?」
「色々とあり過ぎたから、キリくん、ひょっとしたら
「さすがに忘れてはいないよ。コンピューターを乗っ取られたっていう事件だったよね」
「フィーナ・ユークリッドも――
「だから、その出会いとやらを私はひとッかけらも聞いていないんですよ! 世間話で済むようなコトをどこまで引っ張るつもりですかっ?」
秋葉原の
犯人の動機やテロの背景までは把握していないが、シリコンバレーを根城とするIT長者が飛行中のアメリカ合衆国大統領専用機――エアフォースワンに電波ジャックを仕掛けて機内を混乱に陥れるという〝テロ事件〟が発生したのである。
電波ジャック自体はサイバーテロと呼ぶにも値しない悪戯のようなものであったが、最終的には公務執行妨害など様々な罪状が積み重なり、首謀者はカリフォルニア州に所在する重罪犯専用のフォルサム刑務所へ収監されたことを日本のニュースでも報じていた。
(あれは
自問自答の他に意識を集中できる情況ではなかった為、不可思議な響きであったという印象を記憶に留めているのみであり、
「でも、そのテロ事件とシンガポールの『スポーツファンド』にどういう関連が……」
「ファヴォスっていう『
「……元々、僕は想像力豊かなほうじゃないけど、それを抜きにしてもまるで予想できないことになってきたな。それはその、……男女の関係だったということなのかな」
「そういうウワサもあるねぇ。一つだけ間違いなく確かなのはサタナスとファヴォスがビジネスパートナーだったこと。……私が遊んでる〝ネトゲ〟の『エストスクール・オンライン』ってあるでしょ? 照ちゃんや
「へぇ? お嬢ちゃん、『エストスクール・オンライン』で遊んでんの! 俺も最初期の頃はやったなァ~。その当時はまだファヴォスも
「
「冗談にしちゃキツ過ぎるぜ、お嬢ちゃん! 俺もこの週末に初陣だっつーのにっ」
未稲が寝食も忘れて没頭している大規模多人数同時参加型
彼女の説明から察するにファヴォスなる人物は『共同設立者』という肩書きでサタナスと共に一つのゲーム企業を動かしていたのだろう――これを理解する一方で、キリサメは
サタナスという最重要人物の逮捕によって企業価値が大暴落し、その果てに同社が提供している全てのネットゲームが停止に追い込まれることを未稲は案じていたのである。当然ながら『エストスクール・オンライン』もその中に含まれている。
「会社のトップが国家反逆罪みたいな真似をしちまったモンだし、『エストスクール・オンライン』もサービス終了かな。一個人の不祥事ではあるけど、会社の運営が吹っ飛んでもおかしくなレベルだぜ」
「ハーバード在学中、最初に企画を立ち上げたのはサタナスですけど、とっくの昔にプロジェクトから離れているからゲームのほうには特に何もなかったんですよ。逮捕直後のチャットがその話題で持ちきりになったくらいかな。……サービス継続の
キリサメが思い浮かべた一つの疑問は未稲と沙門の会話によって解き明かされた。
未稲と同じように全世界の
現在も事件以前と全く変わらずにサービスが提供されていることがキリサメには何とも忌々しかった。未稲の気持ちが落ち着かなかったのは贔屓のネットゲームが存続の危機に立たされたからではない。誰よりも親しいという『デザート・フォックス』との交流が絶たれることを恐れているのだ。
数日を経てようやくそのことを理解したキリサメは、普段から眠たげな印象を与える左右の瞼を白目と黒目の判別が難しくなるほどに閉ざした。
「……ゲームだか何だか知らないけど、サタナスと一緒に潰れたら良かったのにな……」
「キリくーん⁉ 急にどうしたの⁉ 瀬古谷さんの一件もあるから『エストスクール・オンライン』が気に食わないのは当たり前かもだけど、とびっきりブラックな――」
何事にも無感情なキリサメにしては珍しい〝毒舌〟に驚き、未稲は心配そうに彼の顔を覗き込んだのだが、次の瞬間には正面から伸びてきた手に
まさしく「唇を貪る」としか表しようがなかった。未稲の口から洩れようとする狼狽の声すらキリサメは自分の唇で閉じ込めようとしている。
恋敵に負けたくないなら実力行使で押しまくれ――これもまた亡き母の教えである。それ故に冷やかすような沙門の口笛も、たまたま近くを通りかかった
この時点で岳と麦泉は互いの姿が分からないほど進んでしまっていたが、例え二人の目が届く範囲であったとしてもキリサメは衝動を抑えるつもりもなかったはずである。
八雲岳という男はどのようなときでも遥か彼方を見つめている。大きな背中に数多の眼差しを集めながらもその全員に追い付くことなど叶わないのではないかと思わせてしまうほど遠くを目指し、ただひたすらに全力で駆け続けている。日本格闘技界を代表するような人々を自ら招聘した三年前の会合に
それ故に佐志輔頼の問いかけにも
「合同大会は合同大会で面白ェし、一年に一回はやりてェくらいだよ。でもな、一年に一回じゃ、それっきりじゃ少しも足りねぇんだ! 三ヶ月や二か月に一度っていう感覚でなけりゃ隅々まで元気を行き届かすことはできねぇ! それをずっとずっと続けて――その為にも独立した格闘技団体として動かなきゃならねぇ! 今こそ! 今こそMMAの復活が日本に必要なんだッ!」
ありとあらゆる現実問題を突き付けられながらも岳の志は決して揺るがない。日本MMAの復活と被災地での開催を皆に向かって改めて宣言する際にも全く躊躇わなかったのである。大恩ある鬼貫道明とこの場で決裂することになっても構わないという覚悟まで決めているのだろう。
最初からこの返答を予想していたらしい佐志は薄く微笑むのみであり、今度も岳の言葉を否定しなかった。「それを実現できる手立てをみんなで考えていきましょう」と頷き返すばかりである。
その佐志と己の忠告に耳を貸さない岳を見つめる鬼貫の眼差しは静かで温かい。
一寸先の
ソラキチ・マツダとコラキチ・ハマダ――明治日本を絶望の暗雲で包み、徒党を組んだ〝困民〟による武装蜂起まで招いた『松方デフレ』の時代に未来のみを信じ、新天地を目指した偉大なる先駆者である。
「口を開けば復活復活って連呼しまくるけどさぁ、そもそも日本のMMAが途絶えたコトなんか一度もなかったわよね、岳? 三月一一日の
「それについては私もツッコみたかったんだ。岳さんが離れている間も日本からMMAの火が完全に絶えたワケではないでしょうよ。私だってプロレスの巡業でMMAルールを経験しているくらいなのに。『復活』と言い切るのは国際交流を頑張っている定香に対しても失礼な話だな」
「お前ら、またそれをぶり返すのかァ⁉ どいつもこいつも不意打ちが心臓に悪いぜ!」
俄かに訪れた沈黙を和らげようと吉見が口にし、ギロチン・ウータンまでもが〝援軍〟として加わった冗談は岳を大いに慌てさせた。
日本MMAの〝復活〟を幾度となく繰り返してきたのだが、聞きようによっては『メアズ・レイグ』の否定にも等しく、同団体と関わりが深い日本初の女性MMA選手を敵に回し兼ねないわけだ。
背筋に冷たい汗が流れたことは引き攣った顔を見れば瞭然である。
「――やっぱりネットニュースにもなってるわ。
「だから、折原を持ち出すな、折原をっ!」
吉見が翳した
改めて
開催日と試合内容の一部変更を知らしめる記者会見が現在も都内のホテルにて開かれており、岳に先駆けてチャリティー
彼の代理として会合に出席している男性は吉見が翳した携帯電話を誇らしげに見つめ、岳のほうは「折原が頑張ってるのはオレだって分かってんだよ!」と歯ぎしりしていた。
「――今こそみんなで助け合おう。ただし、それぞれのやれる範囲で構いません。無理したら自分たちのほうが元気をなくしてしまうし、それでは本当に日本中のみんなが辛くなってしまう。今度の試合ではみんなの元気が必ず沸き立つでしょう。試合が終わったらボランティアにも行く予定です。二つの意味でこの天才シューターを待っていてください」
記者やネットニュースを通じ、そのように日本中を励ます折原へ劣等感を抱いたのではない。彼のように迅速果断に立ち回れない己の不甲斐なさが身の
「折原のトコはともかくMMA日本協会直轄の団体は残らず潰れたし、そのいずれもテレビの地上波放送まで漕ぎ着けなかった――岳はそれを言ってるんだろう? 『メアズ・レイグ』の試合も衛星の有料放送以外では深夜バラエティーでダイジェスト版を流すくらいじゃないの」
「樋口にだけは言われたくないわねェ~。あんたが『バイオスピリッツ』を最低最悪な形でブッ潰してくれたお陰で私らもクソみたいな迷惑を――」
「――やるべきだ、どうあっても! 岳が言うように新しい挑戦を見せるんだッ!」
皆とは少しばかり離れた窓辺から樋口郁郎が飛ばした皮肉に反論すべく吉見が身を乗り出した直後のことである。『日本晴れ応援團』と大書された白い布切れを鬼貫道明と二人で広げていた岡田健が突如として天井を貫かんばかりに吼えた。
向き合う相手を次々と替えながら力道山に倣うべきと一貫して訴え続ける岳を見守り、胸の議員バッジが値打ちを
今も拭わずにいる熱い雫が噴き出したのは、感情を抑え付けておく蓋が
「何があってもやるべきなんだ! 今こそ……今だからこそッ!」
樋口と吉見の口をまとめて噤ませ、不死鳥の絨毯の上に立つ一同を涙に濡れた瞳で見回した
(続く)
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