その15:背中~チャンバラという「時代」を創ったその殺陣師は、故に生きて「伝説」と呼ばれる
一五、背中
その振り子時計を間近で見つめた者たちが口を揃えて〝年代物〟と唸ってしまう
両隣に置かれた観葉植物の鮮やかな枝葉が古めかしい印象を否応なく強調させてしまうのだが、何事にも無感情なキリサメは金属製の振り子がくすんだ光を撥ね返していることにさえ気付いていない。
〝眠れる獅子〟とも
絶えることも乱れることもなく規則的に刻まれる振り子の音は、
診察室とリハビリ室の入り口はこの待合室から分岐している為、昼間は大勢の患者たちがソファを取り合うほど賑わっているのだろう。本棚に収納された科学系の雑誌や漫画の単行本はいずれもくたびれており、そこにも〝藪医者〟の盛況が感じられた。
診察時間が終了した
戦前の趣を残した墨田区京島の長屋情緒へ押し込められたかのような洋館風の病院にキリサメたちが足を踏み入れてから二時間余りが経過しようとしている。
改めて
二人の到着を待たなければならなくなったキリサメは、さしずめ刑の執行を待つ罪人のような
『
希更から事態の収束を託されている
先程まで恭路が聞き耳を立てていた薄い壁を飛び越え、廊下を貫いて待合室に届いた喧騒もキリサメを落ち着かせてくれなかった。
一九七〇年代の
恋愛にまつわる話を好んでいるらしい筑摩は
未稲と上下屋敷も筑摩に続いたが、後者の場合は
その一方で寅之助は「ボクに内緒でそういうコトしちゃうんだ? ちょっと意味分かんないよ」などと血走った
電知当人は栩内によって明かされた過去の交際関係を真っ向から否定していた。「
「――ちょっと待て! 幾らなんでも〝女の敵〟はねぇだろ、この野郎! 『
「お前、それ、『夜叉美濃』ってアレだろ? 『
「想像力が豊か過ぎんぞ、
「お前、もう『
「今の発言はホストクラブにもホスト格闘技にも失礼だろ! いや、おれだって別に食い物になんかしてねーからな⁉ 何回か文通くらいなんだぜ⁉」
「文通っていうのは立派な男女交際でしょ? ていうか、この人とは文通するのに、どうしてボクには年賀状も暑中見舞いもくれないの? 毎年、返してくれないのは何で?」
「
過去の交際を巡っては電知と栩内の間にさえ大きなすれ違いが生じている模様だが、こうした主張は瞳孔が開き切った寅之助の耳には届かない。割って入った大鳥が仲裁を試みていなければ、おそらく電知は首を絞め殺されたことだろう。
(……寅之助の取り乱し方は異常だけど、大騒ぎになるのは分からないでもないかな)
関係性の差異はあれども電知と栩内、大鳥と筑摩という二組の男女が示し合わせたわけでもなく全くの偶然から同じ場所で遭遇する状況は、まさしく天文学的な確率であろう。夢見がちな発言の目立つ騎士が運命的な巡り合わせを感じ、「サトちゃんと私はどこで何をしていても惹かれ合うんですね」と妄想に浸ってしまうのも無理はなかった。
事務所から連絡が入ったと述べつつ社用の
「何じゃ? お主も居た堪れなくなって出てきたのか? それとも
「両方……ということにしておいてください」
「気持ちは分からぬでもないわい。……本音を申せば一秒でも早く岳殿にお主らを引き渡したいのじゃがな……」
「……お察しします」
総一郎が第一診察室から退出したのは若者たちが騒ぎ始めた直後である。腰掛けていた椅子の背もたれに白衣を引っ掛け、デスクの引き出しから一本の葉巻きタバコと、これを
洋風柵の内側に所在する藪家の居宅まで引き上げて一服していたのだろう。鼻腔に突き刺さるような強い残り香を全身に纏わせている。
尤も、燻らせた紫煙を
「……キリサメ君もな、嫁を取るときにはくれぐれも用心せいよ。愛は決して幻想ではないが、ごく稀に首輪を嵌められたかの如く感じるものじゃ。そこに男の
溜め息混じりの呟きを引き摺りながら第一診察室へ戻っていく総一郎は哀愁の二字を背負っていた。
関東に於いて大勢力を誇り、『
心臓が飛び跳ねるような戦慄を
あるいは自宅で出発を待つ妻から
相応の場所を押さえてあるのだろうから、仕事着のまま出掛けることなど有り得ないはずだ。身支度を整えた上で出発することを考えた場合、一九時を過ぎても岳たちが到着しないと夫婦仲の危機にまで発展し兼ねないわけだ。
それ故に総一郎のほうから待ち合わせ場所を変更するよう促しはしない。油断すると口から飛び出しそうなその一言を噛み殺し、己が請け負った責任を果たすつもりなのだ。
「……怒り顔の
誰に向けたものでもない疲れた溜め息が待合室と第一診察室を繋ぐ短い廊下に吸い込まれ、薄い壁を突き抜けた若者たちの喧騒に押し潰されていく。
長居せざるを得ない状況はキリサメにとっても心苦しいが、己の立場が立場だけに罪悪感を堪えて待機し続けるしかなかった。
「――一体全体、八雲岳は何をチンタラやってやがるんだァ? 野郎、渋谷から出張ってくるんだっけか? 確か京島まで半蔵門線で一発だろうによォ~!」
「僕とみーちゃんは秋葉原から電車に乗ったけど、最寄りの駅から
「ンな細けェコトなんざ知るか。手前ェの
「……なぎさ……さん?」
「〝インコ返し〟で聞き返さねぇで、ちったァ手前ェの頭で考えやがれ! ダンナのカミさんに決まってんだろうが! マジでどうしようもねェレベルのバカじゃねェの⁉」
「……〝インコ返し〟なんて言う人にバカ呼ばわりされると、さすがに腹が立つな……」
岳への悪態と藪家の家庭事情に〝鸚鵡返し〟の言い間違えまで織り交ぜながら総一郎の背中を見送ったのは、待合室と隣接する正面玄関で仁王立ちを続ける御剣恭路である。
寅之助の〝落とし前〟を巡る議論が一段落した
恭路が纏う〝短ラン〟の背面には所属するロックバンドの名称――『
『八雲道場』の周辺も住宅街であり、色とりどりの三角屋根が下北沢の空に向かって突き出しているのだが、藪整形外科医院から眺める光景には平屋建ての木造住宅が横へ横へ一本の棒の如く際限なく伸びていた。
亡き母による〝世界史〟の授業では一棟に建て連ねた日本独特の集合住宅を〝
最寄りの
同じ閉所でありながら
一棟に整理されているようで、妙に雑然とした印象が押し寄せてくる長屋風情は何とも
正面入口の前を通り過ぎたのみではあるものの、生まれて初めて銭湯と呼ばれる日本の入浴施設を目にしたのだ。藍地に『ゆ』の一字を赤く染め抜いた軒下の暖簾は長屋と併せて〝世界史〟で習った物と全く同じであり、何事にも無感情なキリサメでさえ少なからず気持ちが昂ったのである。
頭の上から白い湯気を立ち上らせ、
(……水を張った赤い洗面器を頭の上に乗せた
下町という共通点に己自身の
半世紀以上も昔から
そろそろ夕飯時を迎えることもあって長屋のそこかしこから胃袋を刺激する醤油の香りが漂ってくるものの、例えば物陰から
これもまた
栩内駒由の告白に端を発する大変な
「――おめー、腐っても現役高校生だろ? 最終学歴中卒のおれにだって〝鸚鵡返し〟くらい分かるぜ? 時間割の全部、ギターの練習を突っ込んでんのかよ」
恭路の誤用に対する
改めて
「まァ、ギターの腕前だけは一丁前なんじゃねェの? ケンカはからっきしなんだから、大人しくそっちに本腰入れとけよ。すぐにブチギレて商売道具を叩き壊すんじゃ、おマンマ食い上げだろうがよ」
果たして、藪整形外科医院の
「これだから中卒はイヤになるぜ。おう、アマカザリ、お前も聞いてたよな? 〝鸚鵡返し〟だってよ。何語だ、ソレ! 手前ェの頭が空っぽってコトも分かっちゃいねェと見えるぜ。ケツで風呂を沸かしちまわぁ!」
「……電知、僕はどうしたら良い? 正直、返事が迷子になっている。それとも今のは冗談のつもりなのか? 笑うところだったのか?」
「隣で見てるヤツまで困らせるって、マジでよっぽどだぜ、御剣。お前の人生、いっそ幼稚園くらいからやり直したほうが早くねぇか?」
「はァッ⁉ 急に人生語り出してんじゃねーよ! 元カノが路上ミュージシャンなら、てめーは路上詩人かァ⁉ こちとら保育園出身だァッ!」
「……
墓穴を掘り続ける恭路を鼻で笑いながらも言い争う声に元気が足りないのは、栩内との関係に好奇心が疼いた筑摩たちから一息つく間もなく質問攻めに遭った
馴れ初めから交際の経緯まで事細かに聞き出そうと、誰よりもしつこく食い下がっていたのは寅之助である。充血した眼の幼馴染みを伴っていないことがキリサメには不思議に思えたが、後から大慌てで追い掛けてくることもない。恭路と言い争う最中にも第一診察室のドアが開かれることはなかったのだ。
「寅之助が一緒じゃないなんて、何だか薄気味悪いな。下手をしたら栩内氏に飛び掛かるんじゃないかって怖いくらいだったのに」
「あ~、寅は今、それどころじゃねーんだ。今度は
「やりたい放題の王サマ気取りに見えて、あいつ、めちゃくちゃ押しに弱いんだよ。詰め寄られたら最後、隣で上下屋敷がブチギレるようなおノロケまで吐かされるだろうぜ」
「電知も人が悪いな」
上下屋敷の恨みを買ったら大変だと苦笑いを浮かべるキリサメに対し、電知は連帯責任を示すように鼻を鳴らしてみせた。
「因果応報って言ってくれ。目には目を歯には歯を――ハンムラビ法典だよ」
「インガオウホウにハンムラビだぁ? 何だ、そりゃ? 『
寅之助が案外に脆いことはキリサメも把握している。恭路が国語と世界史のテストで赤点ばかり取っていることと同じくらい明白なのだ。
〝
尊厳を踏み躙った相手が嘆きの声を洩らしただけでも酷く動揺し、腰が引ける有り様である。つい先程も総一郎から静かに威圧された途端、顔面に作り笑いを貼り付けることしかできなくなってしまったのだ。
動揺が鎮まっていない情況で次なる標的に定められてしまったのだから、
「寅之助みたいに必死になって問い詰める気はないけど、みーちゃんや筑摩氏の気持ちなら分からなくもないよ。……電知も隅に置けないな」
「キ、キリサメまで言うのかよ⁉」
愛想という言葉すら知らないように振る舞うキリサメにしては珍しく冗談を投げてくれたことが嬉しくもあり、同時に自身の過去を穿り返されることが恥ずかしくもあり、待合室中央に設えられたソファへ身を投げ出すように座った電知は「勘弁してくれ!」と照れ隠しの大声を天井に叩き付けた。
「さっきだってお前、女どもの質問攻めを隣で聞いてたろ⁉ 二回も同じコトを言わすなんて密かにドSかよ⁉ 気ままに目突き狙うし、最初からサディスティックの塊みたいなモンだったけどよぉ~」
「傍には居たけど、耳を傾けていたわけじゃないよ。一応、電知に悪いと思ってたから」
「ここに来て心変わりすんなって!」
「つか、アマカザリ相手に見栄張ってるだけだろ? 自分は女を知ってるんだぜってな具合に格好付けてよ。おまけにホントはフラれたのに『元カノじゃない』って強引に言い換えやがって……そこまでして
「ンなコトをやっておれに何の得があるってんだよ……
キリサメの声を押し退けるような恰好で割り込んだ恭路はソファの上へ器用に寝転んだ電知を覗き込むと、「てめー、またぐらにぶら下げたモンは飾りかよ⁉」と極めて下品なことを口走った。
「据え膳をフイにするバカがいるもんかよ! オレはチュウどころか、デートした
「見てたよな、キリサメ? 鼻息当たる至近距離で話してんのにおれの喋った
「はァ⁉ それならそうと早く言いやがれってんだ! おい、起きろよ! 立てよ! 肩組んで同志の舞いを踊り明かそうぜッ!」
「御剣はマジで人生楽しそうだな。ある意味、羨ましいぜ。
「オレが〝ファン喰い〟するようなゲス極まりねェバンドマンに見えんのか⁉ やっぱし表に出やがれ! そもそも『
何に対して感情を昂らせているのか、いよいよ意味不明になってきた恭路を黙殺し、右腕を枕にしつつ身体を横に向けた電知は首だけを捻らせて天井の誘導灯を眺めた。
今まさにドアの外へ飛び出そうとしている
そもそも栩内と交際していたという自覚が電知には絶無なのだ。強引且つ執拗に食い下がる筑摩たちへ明かした
「……アイツとは、栩内とは津軽地方を旅してる最中に出くわしたんだよ」
「ツガル……?」
「北海道上陸の一歩手前――本州最北端に近い辺りを津軽地方って呼ぶんだよ。お前のデビュー戦がある岩手の
「本州最北は山形県だろ。どこにどの県があるのかもアタマに入ってねぇのか」という余りにも虚しい恭路の笑い声はさておき――電知自らによる津軽地方の説明へほんの少し耳を傾けただけでキリサメには旅の理由まで察しが付いた。
古い時代の
厳密には津軽地方に位置する
「前田大先生は東京に
「その柔術とやらに自分の柔道が通じるかを試した――とか? 道場破りみたいだな」
「だったら面白かったんだけどな。……おれが青森へ行った頃には流派そのものが途絶えてたんだよ。
「……オトメ……」
「ああ――『留め置く』って書いて〝
若き日の
そもそも、恭路が仰々しく『
その事実を知る由もない二人に対して恭路は誇大広告を打ったようなものである。
「世の中、『捨てる神あれば拾う神あり』ってワケじゃねぇけど、困り果てて弘前の役所に駆け込んでみたら、少ねェながらも有志が指南書を基に『
「電知と同じような人が他にも居たんだな。しかも、それを繋いだのが前田光世――コンデ・コマ……か。その話を聞いたとき、もう一度、腰を抜かしただろ?」
「直後に思いっ切り飛び上がったけどな。
立て板に水の如く『
次の言葉を継げないまま苦笑いを浮かべ続けているが、口振りからして宿泊先の確保も忘れて『
「やっぱり、自転車で行ったのか?」
「……三月の青森県に
三月の弘前市に
「自転車ぁ? しかも、ママチャリぃ? ンなダセーもんじゃなくて
「青森行ったのは小学五年のときだからな。バイクなんか乗れるかよ。武者修行の旅なんだから
「東京・東北往復のサイクリングで何が武者修行だ。てめー、そんな
「……アクションスターを狙ってもいないし、なれるとも思ってない」
「自動二輪でラクばっかしてっから体力が出涸らしレベルでスカスカなんだよ。キリサメを襲ったときだって途中でバテやがったじゃねーか。今まで見た『
「てめーこそ
「一ヶ月でも良いからサイクリングを続けてみろ。おれの言ってる意味が身に沁みるだろうぜ、カッコだけのへっぴり腰がよ」
「表に出ろ、オラァッ! この短ランは『
「――三人も揃って先程から何回、脱線されるのですか。アマカザリさんも質問の内容をハッキリさせないと何時までも同じ平行線が続きます。野宿を避けられない状況と栩内さんの間に何の関係があるのですか――ご自分で問い直して下さい」
玄関に面したガラスのドアと待合室中央のソファの中間でぶつかり合う不毛な言い争いを呆れ顔で眺めていたキリサメの頭越しに四つ目の声が割って入った。
大きく長い水洗音を背にしつつ待合室の隅に設けられたドアを押し開いたのは希更・バロッサのマネージャーを務める大鳥聡起その人であった。
ハンカチでもって両手を拭いつつ三人の顔を涼しげに見回す背広姿の青年はキリサメが待合室へ足を向けるよりも、恭路が見張りを再開するよりも先に第一診察室を出ていた。放っておけば電知を絞め殺したであろう寅之助を食い止めた直後であったはずだ。
それはつまり、総一郎が葉巻きタバコを
「……強敵だったんですか」というキリサメの問い掛けを涼しげに受け流した大鳥は、ハンカチを持つ側とは対の手で背広から携帯電話を取り出し、片側の親指一本でこれを器用に操作していく。
次いでキリサメの鼻先へと翳された液晶画面には『
社交ダンスのように複数のキャラクターが一緒になって舞い踊り、
ファンイベントの最中、キリサメはビル群によって隔てられた場所で『タイガー・モリ式の剣道』と斬り結んでいた為、声こそ聞こえど姿を確かめることはなかったのだが、画面内の希更は植物の首飾りや腰蓑など伝統的なフラダンスの衣装である。
ファンイベントはトークショーと古式フラダンスの実演という二部構成であったはずだが、希更たちは同じ装いで登壇し、夕暮れを迎える風に剥き出しの肩を晒しながら陽気に語らい続けたのだろうか。
首飾りは極彩色の花ではなく草木の葉を繋ぎ合わせた物であり、大きなハイビスカスの髪飾りも耳の上に差してはいない。頭部を飾るのは南国情緒を抑えた草の冠である。同じフラダンスでも陽気に唄い踊る様式と〝古式〟では装束の選び方からして大きく異なっているのだろう。
ネットニュースの見出しには記事の公開時間も添えられていたが、一八時五分というのは大鳥がトイレに籠っていた時間帯と完全に重なっている。これを見て取った途端にキリサメは「……強敵だったんですか」という前言を振り返って居た堪れなくなった。
新聞紙や雑誌を持ち込んで三〇分近くトイレに立て籠もってしまう養父のことも想い出していたのだが、大鳥の場合は余人の接触あるいは盗み聞きの心配がない閉所にて担当声優の動向を確認していたのである。これと並行して自身の所属する
「……回りくどいことをしていないで空閑さんと栩内さんの馴れ初めを直撃すれば良いのでは? お互いに時間を持て余しているわけでもないのですから、それとなく正しい道筋を用意して差し上げるのがベターではないかと」
「……今の僕が持て余しているのは、大鳥氏の無理な注文ですよ……別にそこまでしつこく
速やかに事態を終えるよう大鳥は先ほど幼馴染みの筑摩に向けたものと同じ注意を繰り返した。
ファンイベントが終了した以上、一刻も早く希更と合流しなければならない大鳥の立場も理解できるのだが、キリサメとしても無責任に頷き返すことはできない。
ただでさえ自己主張の強い恭路や電知に本筋から脱線しないよう働きかけることは弁舌に優れているわけではない人間にとって不可能にも近い要請であり、眉根を寄せつつ一瞥して大鳥への
「関係っつったってなぁ~。週末っつうコトもあって民宿まで満室。高級ホテルに泊まるようなカネもねぇ。ないない
「家の前で凍死体が発見されたら栩内さんも溜まったものではありませんしね」
「借りを作るのは好きじゃねぇし、何度か断ったんだけど、最後は力ずくで引っ張り込まれてなぁ。一泊だけのつもりだったんだけど、結局、前田大先生の足跡を訪ね歩く拠点になっちまったよ」
「……成る程、確かに運の強そうな顔立ちをされています」
「褒め言葉として受け取っておくぜ。……本当に強運だったら寅の面倒を押し付けられるコトもなかったと思うがな」
「強運な面構えって何だよ。空閑の場合、単に小生意気なだけじゃねぇか。スーツさえ着てりゃ無茶な言い分も通るって勘違いしてるんだろうがよ、あんま適当なコトをブッこいてんじゃねーぞ」
「御剣さんはどうぞ院長先生から仰せ付かった役目に専念して下さい。自分はこれで診察室に戻りますが、貴方の様子を訊ねられたなら、またしてもサボっていたとしか報告できませんよ?」
「空閑の野郎は強運で、アンタの場合は兇悪だ! ……くそったれ! ダンナが入ってくるんじゃオレには逆らえねぇ……ッ!」
引き起こした上体を背もたれに預け、大鳥の質問に一つ一つ答えていく電知の横顔をキリサメは
武者修行という目的はともかくとして、小学生の自転車旅行とはこのように命懸けで敢行するものではないだろう。電知は過酷で知られる『ツール・ド・フランス』の出場者でもないのだ。栩内に発見されていなければ、その夜の内に心臓を流れる血液まで凍り付いたことであろう。
「
「……僕にも何となく分かってきたよ」
「
「そっちじゃなくて電知と栩内氏の関係のほうだよ。お前が尻に敷かれるタイプとはね」
「キリサメ~! お前にまで冷やかされちまったら、おれ、いよいよ逃げ場がねぇよ!」
大鳥から促される形で再開された電知の説明に耳を傾ける内、断片的な情報がキリサメの頭の中で一つに結ばれ始めた。
東北・津軽地方に所在する弘前市――即ち、奥義の復古に生涯を捧げても構わないとさえ思っている
これによって第一診察室での記憶も繋がった。「今度はボクが電ちゃんを
「ついさっき『顔を合わせたのだって何年ぶり』と話していたけど、その割には向こうの顔をすぐに分かったじゃないか。栩内氏のほうも一瞬で電知だって気付いたみたいだぞ」
「お、お互いに殆ど顔が変わってなかったからじゃねーの⁉ そ、そもそもだなぁ、文通だって何年もやってなかったんだぜ⁉ 中学に
「電話番号も交換していたんだろう? それなのに、どうして――」
どうして、親交が途切れてしまったのか――その理由を
栗色の長い髪をポニーテールに結わえた
電知が
「……文通が難しくなったのは……東日本大震災の影響……なのか?」
「……キリサメ……」
平成二三年三月一一日午後二時四六分に発生した東北地方太平洋沖地震と、これに端を発する東日本大震災――東京・浅草で暮らす電知と、当時は東北で過ごしていたであろう栩内を引き裂いたのは地球の裏側でも克明に報じられた未曽有の大災害ではないかとキリサメは考えてしまったのである。
いずれ移り住むとは想像もしていない〝外国〟の地図など正確には
岩手の隣県という電知の説明だけでは津軽地方並びに青森県弘前市の正確な位置を掴めなかったキリサメであるが、いずれも東北に含まれていることは理解できた。
先ほど電知は『中学校進学後、暫くして文通が途絶えた』といった旨を述べている。
高校へ進学していれば彼も寅之助と同じような学生服に袖を通していたはずだが、それはつまり、中学生時代が直接的に平成二三年と重なることをも意味しているのだった。
東日本大震災は
「……ペルーにも伝わってたんだな。あれだけのコトが起きたんだから当たり前か……」
「……新聞、テレビ、ラジオとあらゆるニュースを暫く独占していたよ。……ペルーは日系人も多いし、何より大きな地震も少なくない。他所の国のこととは思えないんだ」
電知の問い掛けにキリサメは小さく頷き返した。
ペルー人との混血とはいえ日本を
移民の子孫である日系人がおよそ一〇万人も根付き、青年海外協力隊を受け入れるなど日本との関係が深いペルーの人々は三月一一日の大災害を我がことのように嘆き、身を裂かれるような思いで事態を見守っていた。
「日本のニュースでも取り上げたのかな……災害に遭った人たちや土地の為に首都リマで大勢が祈ったんだよ。蝋燭と控えめな花を掲げて……」
「それは自分も初耳です。どこかで見落としていたのだろうか。……そうでしたか。遠い日本の為にペルーの方々が……」
スラックスのポケットに仕舞うことも忘れてハンカチを握り締め、キリサメの話へ聞き入っていた大鳥は今まさに振り向いたばかりの恭路と顔を見合わせ、互いに
次に二人が視線を巡らせた相手は電知であるが、彼もまた「なんでそんな大事なコトに気付かなかったかなぁ、おれ。『ユアセルフ銀幕』であの時期のニュース、片っ端から漁るかぁ⁉」と右の五指にて頭を掻いている。
(……あの人が――
この場に居合わせた誰一人としてペルーの祈りを知らなかったことがキリサメには残念でならなかった。メディア媒体の種類はともかく何らかの形で報道があったとしても海外情勢の一幕として省略され、大きく取り上げられることがなかったのだろう。
ロザリオを手首に掛けたペルーの人々が貧富や人種の別もなく大通りに集まり、左右それぞれの手に携えた蝋燭と花を掲げて夜空の向こうに祈りを捧げる
楽器になりそうな物を鼓笛隊の如く一斉に打ち鳴らし、「我らは自由だ! 常にそうあらんことを!」とペルー国歌の大合唱を引き摺りながら〝大統領宮殿〟へ詰め寄せていく反政府デモの群れに踏み荒らされた道が
母親は東日本大震災の四年前に亡くなったが、青年海外協力隊としてペルーへ派遣される直前に起きたという阪神・淡路大震災は社会科の授業で例に引き、「千羽鶴や応援の寄せ書きなんか被災地の
母が亡くなった直後の二〇〇七年八月にはペルーでも巨大地震が発生し、震源地からおよそ一五〇キロ近く離れた
亡き母の戒めに従うならば、リマの夜空を埋め尽くした荘厳な祈りは何の慰めにもならなかったかも知れない。現実的には彼女の言う通りであろうとキリサメにも
「――わたしの場合、サミーと違って
「――その節は真にありがとうございました。月並みな言葉では感謝の気持ちを半分も表せませんし、……おこがましいこととは存じますが、それでも敢えて御礼申し上げます。アマカザリさんを通して、ペルーの皆様にも届きますように」
「……僕は別にペルー代表でもないわけですから……」
キリサメは自分に向かって深々と
(……また
〝誰か〟に寄り添おうとする人たちの想いまで否定したくはない――このような言葉と衝動が心の
他者に寄り添うという行為は心のゆとりにも等しく、ひいては善意の〝施し〟を与えられるような経済的余裕をも意味している。名も知らない〝誰か〟を食い物にしなければ今日を生き延びられない〝貧しき者〟にとっては過分な贅沢であり、最底辺を見下す傲慢とさえ感じていたのだ。
それなのに
「見た目は勿論、日本語ペラペラなもんだからつい忘れちまうけど、アマカザリってマジでペルー人なんだな。……あ、いや――さっきの動画でも分かっちゃいたのによ」
可能な限り、顔を合わせたくないほど鬱陶しい恭路であるが、自分で切り出しておきながら口を噤んでしまいそうになる話を別の方向へ導いてくれたことにはキリサメも素直に感謝している。
ここに至るまでの言行に基づいて推察するに寅之助から何らかの形でペルーに関する情報を与えられたことは間違いなさそうだ。〝動画〟に言及したということは、もしかすると彼が『ユアセルフ銀幕』にて掻き集めた『七月の動乱』のニュース映像でも視聴したのかも知れない。
それもまたキリサメには厄介であるが、
本当ならば一字一句に注意を払うべきであろうが、キリサメの〝立場〟を危うくするような事実など一つとして動画から読み取れていないはずだ。
「……同じ遺伝子を持った人間同士だもんな。そりゃあ、どうしたって気になるわな」
「遺伝子という例えはおかしいだろうけど、……僕の場合はそれだけじゃなくて――」
「何だよ? 変に溜めて勿体ぶるんじゃねェよ。気になって夜も寝れなくなっちまわぁ」
「――向こうで知り合った日本人が、……東日本大震災の被災者……だったんだ」
「……そう……か……そういうコトも……あらァな……」
極めて繊細な問題を孕んでいる為、慎重に慎重を重ねて言葉を選ぶキリサメと恭路の間に会話が途絶え、振り子の音色が不意の沈黙へ
時を刻む音がキリサメの鼓膜を規則的に打ち据え、これによって東日本大震災の被災者と分かち合った足跡を振り返らせる。
『七月の動乱』の直接的な
〝大統領宮殿〟に対する憎悪の暴発に先立つこと二週間前――地元の新聞では
犠牲となった港湾労働者の中には
その折に自分と同じ目的で事件現場周辺へと侵入し、気性の荒い港湾労働者から取り囲まれてしまった一人の日本人記者を救出したのである。
強引に押し付けられた名刺は半月も
その日本人女性にペルー滞在中の
郷里の岩手県で津波に巻き込まれて全てを
(変わらないノリであちこち取材に飛び回っているんだろうな。……今となっては顔を合わせることもできないけど……)
結局は格差社会の最下層で生き延びる為に『
「……
沈黙を焦燥に換える振り子と秒針の二重奏を押し退け、再び
栩内との文通が途絶えてしまった原因が東日本大震災にあるのではないかと
「三月一一日に起きたコトで東北全体が酷く傷付いたのは間違いねぇよ。電話が通じねぇどころか、流通網自体が一時期、完全にブッ壊されちまったし。……こういうのもペルーのニュースでやってたんか?」
「そこまではさすがに
およそ半年ほど時期が遅れるものの、同じ二〇一一年にはペルーでも大地震があったと言い添えるキリサメに電知は極めて神妙な面持ちで頷き返した。生真面目な大鳥は言うに及ばず、何かと
「幸い――いや、『幸い』なんて言い方は良くねぇよな……同じ青森でも弘前のほうは被害が比較的、……そう、比較的大きくはなかったんだ」
「青森港も正常な機能が損なわれておりませんでしたのでガソリンや灯油、生活用品などを運び入れたのではなかったかと」
補足説明の答え合わせでも求めるかのように視線を巡らせる大鳥であったが、これを受け止めた電知も震災当時の港湾情報までは把握しておらず、「
些細な行き違いはさておき――電知は慎重に言葉を選びつつ栩内の郷里が壊滅的な被害を受けたわけではないと説明していく。
ダミ声を我慢しているのは二分半が限界なのだろう。「おめーに直接、関係のあるハナシなのに他人事みてェなツラしてんなよッ!」とキリサメを怒鳴り付け、電知の説明へ強引に割り込んだのは恭路であった。
「アマカザリの
「……どうして、そこで岳氏が出てくるんだ? 話の
「想像力ゼロかよ、てめーは。あのおっさん、震災直後くらいにはトラック飛ばして被災地へ救援物資を届けたんだぜ。……あれ? つうことはわざわざ一度、青森入ってから福島や岩手まで陸路か? 効率クソ悪いじゃねーか。てめーの
「長話はどうでも良い。……岳氏が被災地に?」
「あ?
恭路が語った
顔も知らない亡き父――
恭路の話によれば、その岳も災害に苦しむ東北を救わんと力を尽くし、被災地にまで駆け付けたというのだ。
岳本人どころか、未稲にも
「手前ェの勘違いを事実みてェにキリサメに吹き込むんじゃねーよ、バカ御剣。トラック借りて救援物資も詰めるだけ詰め込んで現地入りしたっつうニュースはおれも見たけど、八雲のおっさん、東京から通行止めにならなかった下道抜けていったそうじゃねーか。別の救援隊とゴチャゴチャになってるだろ、てめー」
「自分も八雲さんの移動手段は船ではなかったと記憶していますね。同じようにトラックで東北に入ったお笑いタレントの方と落ち合ったとか、入れ違いだったとか。それに物資を運ぶだけでなく炊き出しも行ったはず」
電知も大鳥も記憶の糸を手繰るような素振りも見せずに恭路へ反応したということは、当時にも相当な話題になったのだろう。
主催者である『サムライ・アスレチックス』と契約を取り交わした際、簡単に説明されただけなので具体的な活動は失念してしまったが、『
ひょっとすると『
居ても立っても居られなくなって被災地に飛び込んでいく姿も、樋口や麦泉へ復興チャリティーを説く姿もキリサメには容易く想像できた。恭路は自己主張が控えめと揶揄していたが、そもそも岳は己の武勇伝を語る小賢しさなど持ち合わせていないのである。
語る言葉には表裏も飾り気もなく、幼稚とも感じられるほど真っ正直で、何事にも体当たりでぶつかっていくからこそ『
お前はオレだよ――その言葉に込められた意図は未だに理解できず、向き合う時間を重ねるほど何から何まで正反対としか思えなくなるのだが、リマの市街地と
〝太陽のような男〟とパンフレットのプロフィール欄に記されていたが、それが比喩でないことにも今のキリサメは躊躇いなく頷けるのだった。
「首都圏と東北全体の行き来が一時的に難しくなったのは間違いねぇけど、別に栩内とはそれで疎遠になったワケじゃねぇからよ。……だから、キリサメも『言っちゃマズいコトをやらかしちまった』みてェな
「……いや、……僕は……」
「クソ真面目はお前の良いトコだけど、考え過ぎるのも良くねぇぜ。闘ってるときの目突きみてェにあれこれ気軽に捌いていこうや――って、スナック菓子摘まむみてェに目ン玉狙われるのも敵わねぇけどな」
自分と栩内の間に交際関係などはなかったという釈明より失言を恥じて押し黙ったようにも見える人間への気遣いを優先させる電知も、岳と同じ〝太陽のような男〟と呼ぶべき存在であろう。
「……電知の良いところは、こうやって良縁に恵まれることにも顕れている気がするよ」
「きゅ、急に何をそんなこっ
「栩内氏だけに限った話じゃないよ。合宿のときも初対面だった『まつしろピラミッドプロレス』の人たちと短時間で打ち解けていたじゃないか。そういうところだよ」
「もっとこっ
予想だにしない称賛が照れ臭くて仕方ない様子の電知は、
敵対する『
暴力性と結び付いてしまう短慮を補って余りある人間的な魅力が空閑電知という少年には宿っていると、キリサメは強く感じていた。苛烈極まりない言行も裏返せば純粋な心根の表れである。それが証拠に一度でも認めた相手には敵対関係であろうとも真っ直ぐな敬意と親愛を示すのだ。
互いの立場や
(……我ながらどうかしているとしか思えない贔屓目だな……)
気恥ずかしさもあって口に出すつもりはないが、同い年とは思えない器の大きさにキリサメは敬服していた。勢いが強過ぎて仰け反りそうになる瞬間があるにはあるものの、先に進むことを恐れて足踏みしている人間の手を掴み、初めの一歩を引き出してしまえるのだから
〝世界最強の男〟を夢見るこの少年は在りし日の
今度の一件には関わっておらず、藪整形外科医院にも駆け付けていないのだが、過去に中国のMMA団体『
そればかりか、人格が歪み切っている瀬古谷寅之助を問題行動と共に受け止め、
三月の弘前市内で偶然から栩内と出逢い、夜間の凍死を免れた筋運びについて恭路は悪運などと揶揄していたが、命の恩人となる存在を引き寄せることができたのは、しがらみを超えて信頼される人徳の為せる業ではないだろうか――迷信の類に一つとして価値を見出していないキリサメでさえ電知は幸運の女神に導かれたとしか思えなかった。
人智を超えた存在すら振り向かせる器の持ち主であったればこそ電知は良縁に恵まれ、左右田や上下屋敷といった仲間たちが
それは養父の真っ直ぐな姿にも重なる。八雲岳という男は己に浴びせられる剥き出しの憎悪すら抱き留め、背負ってしまえる大器の持ち主であった。
〝太陽のような男たち〟と比べるまでもなく、自分は厄介な存在ばかりを引き寄せていると、キリサメは何とも例え難い薄笑いを浮かべた。
己の身に流れるものと同じ〝血〟を禍々しい刃に吸わせた『
「――やっぱり寅のコトは間違いだって後悔してんだろ? 今からでも遅くねぇから撤回してこいって。構いやしねぇよ、『後悔先に立たず』ってヤツだ」
キリサメの正面まで回り込んだ電知が筋肉の悲鳴を聞くほどに強く両肩を掴んだのは、意識の有無に関わらず〝闇〟の深淵へ呼応してしまう己の有り様を「どこかで
次いで電知は
友達想いで真摯な眼差しがキリサメには眩しくてならなかった。ともすれば心の奥底にて
「……自分の
「――聞いたかよ? 妙な連中だってよ。あんた、言われちまってるぜ?」
二人のやり取りを静かに見守り続ける大鳥の肩を掌でもって叩いた恭路は、彼のことを〝妙な連中〟の一人と見なしてせせら笑った。
その瞬間、大鳥当人は顎が外れるのではないかと案じられるほど大きく口を開け広げたまま固まってしまった。反論一つ絞り出せないほどに呆れ返っていた。
出で立ちから言行に至るまで奇妙奇天烈な恭路こそキリサメは〝妙な連中〟に含めているはずだ。よしんば彼の
この場の誰よりも選ばれる可能性の高い恭路が自分以外の人間を〝妙な連中〟と見下しているわけだ。己のことを
もはや、放言に付き合ってはいられないと
「……耳が痛ェぜ。おれなんか〝妙な連中〟の筆頭格だろ?」
「事情を知らない人がその風貌を見たら変わり者と思うだろうけどね」
「世間サマの目なんざ知ったこっちゃねーけどよ、キリサメはこの
「少し前なら仮装行列の一員と間違えたハズだけど、今はもう
「最初の頃と比べたら前田大先生の名前を
「……いや、でも、そうだな……やっぱり電知も変わり者かな」
「どっちだよ! 急に手のひらを返すなよっ!」
「こんな得体の知れない日系人と仲良くしてくれるんだ。十分に変わり者と言えるんじゃないかな」
「いやいや、その理屈はおかしーだろ。それじゃお前まで変わり者に入っちまうぜ。目突きが趣味っつうくらいで寅みてェにイカレてるワケじゃねぇのによォ」
「そんな電知が見限ったりしないで付き合い続けているのが寅之助だろう? 僕にはそれが信用の裏付けだよ。油断のならない相手のほうが効果的と藪氏は話していたけどね」
「……おれの顔を潰さない為に気を遣ってるんならマジで怒るからな?」
「未稲氏と岳氏の安全も懸かっているんだ。自分の頭で考えて、自分で決めたことだよ」
余りにも長い付き合いと、その道程に於ける経験から電知は『八雲道場』の一員として寅之助を迎え入れる
寅之助とは電知よりも深い付き合いである上下屋敷には数え切れないほど翻意を促されてしまった。ゲーミングサークルのオフ会を通じて友人関係となったらしい未稲に問題行動の多い恋人を近寄らせたくないという彼女の気持ちも酌んではいるものの、それ以上に
「……もう二度と寅之助の好きにはさせない」
「……わーったよ。これ以上は何も言わねぇさ。
諦めにも似た調子で首を頷かせ、キリサメの両肩に喰い込ませていた左右の五指を引き剥がした電知は、互いの視線が交わる正面から背後へと回り込んでいく。
「……厚かましいっつーのは百も承知だし、ふざけんなって怒られるかもだけどよ、できりゃあ寅とも仲良くしてやって欲しいとは思うんだわ。四六時中、神経トガらせっぱなしじゃキリサメだって参っちまうだろうしよ」
やがて背中合わせとなる位置に立った電知が肩越しに訴えたのはキリサメと寅之助双方を友人と呼ぶ者としての願いであり、その声は儚く思えるほど小さかった。
「回りくどい芝居まで打ってお前にケンカ吹っかけたのは、真っ当な剣道の試合に出られねぇ鬱憤ってのも有ると思うんだよな。……アイツが受け継いだ技は剣道でも古流剣術でもねぇ独特なモンだからよ」
寅之助が振るう剣の性質まで含めて、電知の話にはキリサメも思い当たるフシがある。秋葉原で斬り合う最中にも腕比べの相手が限られるといった旨を確かに呟いていたのだ。
電知が語ったように瀬古谷の道場にて研がれてきた技は打撃や投げまで体系に組み込まれており、現代剣道からは大きく掛け離れてしまっている。日本史上最強の剣士と名高い森寅雄の系譜を継ぐものでありながら剣道選手権などに
『
〝現代での
しかし、電知は『
対する寅之助は剣道選手権の代わりとなるような〝戦場〟など望むべくもなかった。
生まれてくる時代を誤った虚しい剣としか表しようもない。
その剣を〝現代〟の法治国家日本で生かすとすれば、
竹刀や木刀から
太平洋戦争の時代に学校機関を通して広められた『
「だからって寅に情けを掛けろとは言わねーよ。生まれ付いたのは瀬古谷の道場だが、剣を取ったのはアイツの意思だ。てめーの頭で考えて、てめーで決めたこと――キリサメの言葉を借りるなら、こんな具合になるかな」
ムエ・カッチューアの名門――バロッサ家に対する逆恨みのような皮肉など、生まれ落ちた境遇から噴き出したとしか思えない醜悪な感情に触れてしまったキリサメは電知の言葉へ頷くことを躊躇いそうになったが、物心つく前から共に育ってきた幼馴染みが自己矛盾という〝闇〟に勘付いていないはずもない。
瀬古谷寅之助という青年の表裏を全て受け止めていることは、次に紡がれた言葉からも瞭然であった。
「
「――さっきもすこぶる満ち足りた
他者を退けてまで主張を押し通すことのないキリサメにしては珍しく、電知が言葉を紡いでいる最中に己の声を重ねた。
それは途中で話を遮ったというよりも、最後まで言葉にしなくても電知の願いは既に受け止めているという意思表示に近い。寅之助について考えていることは互いに同じと言外に伝えたわけだ。
無論、電知もキリサメの気持ちを汲んでいる。思いも寄らない筋運びに驚き、僅かばかり目を丸くしたものの、次の瞬間にはじんわりと口元が綻んでいく。背中合わせで立っている為に緩み切った表情を見せることは叶わないので、代わりに右肘でもって腰の辺りを軽く突いた。
寅之助の
雇った相手に過分なほど気を遣うようなものだが、
未稲も繰り返し懸念を示していたが、互いの息遣いが鼓膜を打つ距離で接触し続ければ互いの〝闇〟が増幅され兼ねず、危険な賭けであることを疑う理由はない。
しかし、一秒たりとも油断の許されない緊張感こそが総一郎から説かれた抑止力を発揮するとも考えられるのだ。そして、それは〝太陽のような男たち〟が相手では得られない効果でもある。
互いの暴力性を溢れさせないよう精神の状態を一定に保ち続ける
人間の深淵を覗き込むことによって
(……いずれにしても寅之助と同じように矛盾を背負うわけだな……)
瀬古谷寅之助は『恥の壁』に象徴される
キリサメ・アマカザリという少年の拳に伝う〝闇〟を惨たらしく抉り出した相手だからこそ、これを映す魂の鏡となり得るのだ。
「マジで付き合い切れねぇと思ったらすぐに連絡してこいよ。後でお前のツレに
「……ありがとう、電知」
背後からキリサメに飛び付き、右腕を首に引っ掛けた電知は一等大きく笑った。
眩しいくらいに爽やかな友情の一幕であるが、これを間近で眺めていた恭路は晴れ晴れとした表情になるどころか、秒を刻む
「自由気ままに青春ドラマを
「……意味が分からないのは
兄貴分だけに相応しい役回りを横から奪われたという被害妄想に取り憑かれ、振り子の音を掻き消すほど強く地団駄を踏み続ける恭路であったが、思い込みに凝り固まった言行の一つ一つがキリサメ当人を
「キリサメが御剣に助けられたっつーのは聞いたけど、無駄にしゃしゃり出てくるのがおれには分かんねーよ。キリサメのことを死ぬほど嫌ってたじゃねーか。
「総長、呼び捨てにすんな! てめーこそ記憶力ブッ壊れてんなァ? いい加減に脳味噌にブチ込みやがれ! オレとアマカザリは魂の兄弟なんだよッ!」
勢いよく首を振り向かせた恭路から「そうだよなッ⁉」と大声で同意を求められるキリサメであったが、彼の視線は電知のほうに向かっており、〝魂の兄弟〟などと呼び付けられることが耐えられないとばかりに
「知り合いになっちまった
「てめーこそポリ公に言い付けてやろうか、あァッ⁉ オレに何の断りもなく馴れ馴れしくしやがって! ……大体、てめー、アマザリがペルーでどんな目に遭わされたのか、一個も知らねぇだろ⁉ コイツが何を味わって、何を
さしものキリサメのこのときばかりは身を強張らせた。今まさに恭路が明かそうとしているのは寅之助から刷り込まれたものと
その上、恭路は「何を味わって、何を
キリサメ自身は当該の映像を確認していないが、あるいは周囲に燻る硝煙を警察馬の鞍上から見下ろす姿まで映り込んでいるかも知れない。レインコートのフードによって顔面が覆い隠されていようとも右肩に『
格差社会の最下層で身に付いてしまった喧嘩殺法は目突きや金的蹴りという形で電知自身に叩き込んでいる為、最初から隠しようがない。ひょっとすると調べ上げた情報を寅之助から既に吹き込まれているかも知れない。
それでも電知にだけは地球の裏側に置いてきたはずの罪を知られたくないと、キリサメは心の底から思っていた。割れた桃の置物を受付台に見つけた瞬間、恭路を黙らせるべくこれを投げつけようとさえ考えてしまったのだ。
「バカに付ける薬はねぇって
「――ンはァうッ!」
藪家の家紋を模った置物へ手を伸ばしそうになるキリサメであったが、そうして自ら動く必要はなかった。無神経にも他人の過去を紐解こうとする恭路の股間へ電知の右足が割り込み、凄まじい勢いで金的を抉ったのだ。
振り上げられた蹴り足はキリサメの動体視力を
即ち、本気の蹴りというわけだ。『コンデ・コマ式の柔道』を磨いてきた電知と比べて技の切れ味が大幅に劣る恭路では防御も回避も間に合うはずもあるまい。
衝撃が臀部まで突き抜けた様子の恭路は右手で股間を、左手で尾てい骨の辺りを押さえながら床の上をのた打ち回っていた。額から噴き出した脂汗は大きく開け広げられた口の中へと滑り落ち、代わりに人間の言葉とは思えない悲鳴を洩らしていた。
柔道を主体としながら『
キリサメ自身も金的蹴りを得意としている。一時的とはいえ身のこなしを大幅に減退させる効果まで理解しているだけに自らの股間を我知らず両手で庇ってしまうのだった。
「昔話ってのは他人がペラペラ喋るもんじゃねーんだよ。粋じゃねーな、
「さんざん……瀬古谷の昔話……穿り返しといて……どの口が……言いやがる……ッ」
「そーゆー台詞が出てくる時点で
「……だッ……大体……オレは山梨出身だ……勝手に
「おれの知ってる山梨
希更・バロッサと共に『
トークショーにて語られた内容から察するに独特な喋り方が鼓膜にこびり付いて離れないカマプアアはフラダンスの本場・ハワイで生まれ育ったらしいのだが、如何にも日本語らしい響きと意味を持つ「ヤボ」という言葉が常夏の南国でも通用する事実をキリサメは少しばかりの驚きと共に想い出していた。
「おれはこのウスラバカほど無粋じゃねェよ。……江戸っ子の端くれだしな」
脳天まで駆け上がるほどの激痛に苛まれ、ついには全身を痙攣させ始めた恭路を冷ややかに見下ろす電知はキリサメに背を向けたまま、それだけを言い切った。
過去に
背負い投げを仕掛けられたときにも、沖縄クレープを求めて自転車の後部に乗せられたときにも間近で見つめた背中は以前よりも遥かに頼もしく感じられる。
(……変わらなくちゃいけないんだな、僕は……)
その一言が
不都合を未然に防ぐべく割れた桃の置物へ手を伸ばしてしまったが、もはや、短慮を起こしている場合ではないのだ。「
〝
自分が如何なる変化を求めているのかも定かではなく、具体的な指針など未だに持ち得ない状態であるが、地球の裏側より移り住んだからには魂を
今までは〝法治国家〟そのものに対する違和感などから日本に居場所を作ることを避けてきたような気もするが、「環境の違いが馴染まない」という屁理屈と共に背を向けることはそれ自体が堕落の罪に他ならないのである。
未稲との誓いも、城渡との約束も、自らを甘やかしていては果たせるはずもあるまい。
「――今さら何をどうやって誤魔化すつもりなの? どんなに自分に言い訳したって変われっこないと思うよ。そんなの、サミーが一番良く分かるでしょ? 全身に染み付いた血の臭いはもう一生消せないんだから」
二度と揺らいでしまわないよう「変わらなくちゃならない」と一等強く念じた瞬間、黄昏の彼方より
「やっぱり、サミーはわたしたち、〝貧しき側〟の仲間だよ。『
せせら笑うような一言を最後に
(……あの瞬間に聞こえた
どれだけ会いたいと願っても二度と手が届かなくなるほど離れ離れになってしまったというのに、一秒たりとも忘れたことのなかった声で鼓膜を打ち据えられる
ノコギリ状の刃が寅之助の頸動脈を食い破るか否かという間際には雛鳥を抱き留める親鳥のように両手を大きく広げ、「おかえり」などと相好を崩したものだが、その直後に矛盾する二つの言葉が
「サミーの絵心なら最低限、その日を食い繋ぐことくらいできるでしょ。自分一人を食べさせれば良いんだし」
「サミーのヘタクソな絵なんて売り物にならないよ。……これからどうするの?」
発せられた状況こそ異なるものの、いずれも同じ
(……確かに
過去と現在の混濁とも
恭路が持ち場として守らなければならなかった玄関から一際大きな人影が飛び込んできたのである。丁度、キリサメと電知の双眸がそれぞれ全面ガラスのドアとは異なるモノを捉えていたときだ。
ただでさえ脆いガラスが砕け散ってしまうのではないかと心配になるほどの勢いでドアを開け放ったのは『
予定よりも大幅な遅刻となったが、ようやく藪整形外科医院まで辿り着いたのだ。
首の付け根からはみ出すほど伸ばした髪を強引に撫で付け、頭頂部よりやや後ろの位置で花弁の如く束ねた髪型はともかくとして、背広の上から着込んだ袖なしの陣羽織は網膜に突き刺さるほど色合いが明るい。
しかも、教え子であるカリガネイダーのプロレスマスクと同じ赤地である。
暗がりであっても着物の如く華やかに見えるのは全体に金銀の刺繍をあしらっているからだ。裾から腰にかけて銀の叢雲が流れ、これを貫くような形で右胸に大阪城の天守閣、左胸に上田城の
嶺子に連れられて自宅を出発する前に見た
金糸による縁取りなどは〝富める者〟の道楽にしか見えない。極めつけは両肩の開口部から飛び出した白鳥の羽根だ。おそらくは模造品であろうが、余りにも奇抜過ぎて意図が一つも分からなかった。
キリサメがこれまで目にした陣羽織の中で最も
折り返した左右の
(……とうとう刑の執行か。
何事にも無感情なキリサメもこのときばかりは身を強張らせ、不格好な〝火の玉〟を避けるように俯き加減となってしまった。
寅之助の計略に嵌められたとはいえ〝
樋口たちの裏工作によって社会的な難は去ったが、〝プロ〟のMMA選手にあるまじき不祥事を起こして所属団体の足元を脅かしてしまったのだ。
日本MMAを再び破滅に追い込みかねない事態に直面して、統括本部長の肩書きを背負う人間が温情など掛けるはずもあるまい。しかも、当事者の一人は
平素から穏やかで優しい人間が本気で腹を立てた場合、心臓が凍り付くほど恐ろしいものであるが、天を焦がすほどに逆巻く怒りも今夜は甘んじて受け入れるしかなかった。
待合室に
革靴を脱いだままスリッパに履き替えることまで失念しているのだから、もはや、些末なことなど気に留めていられない情況なのだろう。
「――東京ドーム! 東京ドームッ! 東京ドームだぜ、キリー! みんなで東京ドームに行くぞ! いや、東京ドームにみんなが来るぞッ!」
想像とは真逆の様子に面食らい、唖然呆然と立ち尽くすキリサメの両肩を掴んだ岳は、
うわ言のように東京ドームと繰り返すばかりで、口から飛び出す内容は全く要領を得ていない。悶え苦しむ恭路の顔面を踏み付けている電知も岳が伝えたいことを一つとして掴み兼ねており、助けを求めるようなキリサメの眼差しにも小首を傾げるしかなかった。
叱声や折檻は何処に行ってしまったのだろうか――とキリサメは目を丸くするばかりである。未稲から事件の
「……センパイ、今の最優先は『
案の定というべきか、養父の肩越しに見つけた麦泉は呆れ果てた様子で溜め息を吐いていた。サンバの衣装と見紛うばかりの陣羽織とは異なり、彼のほうは至って普通の背広姿である。ともすれば地味を極めたような印象だが、
*
壁掛け時計の針が二一時に最も近付く頃、京島の
四方を取り囲むような形で設えられた木製の棚には古今東西を問わず様々な武具が収納されており、運動用のマットも丸めた状態で垂直に立てられている。身のこなしを確認する為の姿見まで揃えてあった。
壁の高い位置には神棚があり、その近くには道場主と
床の全面に敷き詰められた灰色のクッションシートを踏み締め、照明に接触してしまう心配の要らない高い天井の下で意気軒高と太刀や手持ちの槍を振り回す者たちは、その大半が白い
手足の如く自由自在に武芸を操るものの、白い
そして、これを明確に示すべく左の胸元に〝
彼らが背負う看板の名は、殺陣道場『
日本では古くから時代劇や特撮作品が盛んであり、迫真の大立ち回りが目玉の一つとして取り上げられる場合も多い。古今東西の武術とその表現方法に精通した専門家が細かな所作などを役者や監督に指導し、臨場感溢れる名場面を作り上げていく。
役者の個性を見極め、彼らが秘めた能力を最大限に引き出し、一瞬の緊張を劇的に変化させることで本当に命のやり取りをしているかのように魅せられる領域を指して殺陣あるいは
ある者は日本刀でもって胸を貫かれ、その場に膝から崩れ落ちていった――が、実際の剣先は脇の下を通り抜けている。真横から見ると本当に突き刺したかのように錯覚してしまうのだ。カメラの位置あるいは受け手の視点まで意識し、本気で斬り合っているとしか思えないくらい臨場感を作り込んでいくのが殺陣というものである。
刃が相手に触れるか否かという刹那の交錯を見極め、互いに怪我をしないよう剣先がすり抜けていくのだから、厳密には〝寸止め〟とも異なっているのだった。
殺陣道場『
左右の生え際から後方に向かっていく二筋の白線と共に黒い髪を撫で付け、襟足の辺りで軽く縛った老齢の男性こそ名道場の主であり、殺陣の世界に
壁のパネルに記された『芸能生活三〇周年』も今となっては遠い昔のことであろう。威勢の良い声が心地良くて仕方がないのか、稽古を見守りながら一等嬉しそうに綻ばせた顔には人生の碑文とも
身のこなしを検証し、腰の捻り方や足の運び方を理論的に解説している殺陣師は師範の立場に
中には
一般向けの教室は二〇時に終了する為、正規の練習生は一人も残っていないのだが、その内の誰かが忘れ物の回収にでも戻ってきたなら腰を抜かして驚くことだろう。テレビドラマで頻繁に見かける俳優が腰の帯に鞘を差し、片手に抜き身の刀を握っているのだ。
壁際に立って心配そうに稽古を見守っているのは同行マネージャーである。
「世界的劇団で鍛えただけはありますね。
二〇代半ばほどであろう俳優の太刀捌きを好々爺の面持ちで見つめる大膳に声を掛けたのは先程まで当人と刀を交えていた殺陣師の青年である。休憩に入ったばかりということもあって全身から白い蒸気を立ち上らせていた。大量の汗が切れ長の目の脇を滑り落ち、妖艶な雰囲気を醸し出している。
腰の鞘に納めた刀のツカ
「他の皆さんも立ち回りに慣れてきたようですし、明智軍の兵士としても来週の撮影が楽しみですよ。主演の彼も参戦したら時代劇史上最高レベルの大立ち回りが作れるでしょうけど、肝心の主人公が
「片足が思うように動かせない設定だからこそ、最小の動作で最大の効果を生み出すというのは研究熱心な彼が何より燃えるところだろうね」
「それを考えたら、ますます惜しいですよ。
「人には人の持ち場というものがある。一所懸命もまた百里の一歩だよ、
自身と同じ白い
毎週日曜日に一年間に亘って放送される大型連続時代劇は二〇一四年の題材として
二人の目の前では同作で織田信長とその正室・
戦国末期の一大転機であり、この時期を題材とする大型連続時代劇では一年間の折り返し地点に配置されることが多い『本能寺の変』の撮影が迫っている為、一般向けの殺陣教室が終了した後に当該シーンの主だった出演者による強化訓練が設定されたのである。
実際の殺陣を作り込むのは明智光秀の軍勢に包囲される本能寺を再現した収録現場であるが、立ち回りに用いる武具は脚本に基づいた打ち合わせが済んでいる。その使い方と殺陣としての所作を身体に馴染ませようという試みであった。
『信長』も『濃姫』も、真平にとっては若年層の支持を集める現代劇で親しんだ顔だ。それが
真平が斬り合いの稽古相手を務めた俳優は『本能寺の変』一番の花形とも呼ぶべき
「斬り合いといえば、さっき妙な話を聞きましたよ。練習生たちが話題にしていたんですけど、なんでも秋葉原で〝
「それ、真平くんも聞いたのかい? 私も背景や経緯は少しも掴めていないんだけどね」
大膳が眼を丸くすると、これに釣られて真平までもが怪訝な表情となった。
顔を見合わせながら首を傾げる師弟であったが、それは別々の場所で同じことを耳にするという巡り合わせを不思議に感じただけであって、一般には馴染みのない〝撃剣興行〟という言葉は完全に共有している。
「携帯電話が手元にないのでネットで確かめることもできませんが、〝
「……私の記憶違いではないと思うのだけど、ごく最近にも道場でマクアフティルが話題にならなかったかい?」
「ええ、自分も間違いなく
「縁というのはどこに転がっているか、本当に分からないものだね」
世にも珍しい剣を殺陣道場の
形状などを互いに確認し合うこともなく会話を進めていくのだが、古今東西の武具に精通する『
「それにしても〝
「そうそう、コレは真平君の創作活動にも重なるものだったね」
「そもそも、どうして〝
「一応、ネットの記事とやらも印刷して貰ったがね、何がどうなって
大膳は〝
記事に添えられた写真を覗き込んでいることは明らかだが、その様子が尋常ではない。
「……これ、知り合いです、これ……」
「……『これ』って二回も言っちゃってるよ、真平君」
絞り出された呻き声を受けて、今度は大膳のほうが絶句する番であった。
真平の人差し指は横薙ぎに振り抜かれたマクアフティルを西洋の
バケツをひっくり返したような形状の兜で顔面を覆っている為、大膳の目には表情の一つも判らないのだが、別の相手に翳した
写真と土産話でしか触れたことはなかったが、四振りの剣と八枚の旗を組み合わせた紋章だけならば大膳も記憶している。
愛弟子の真平は中世の甲冑や武器を再現させて合戦さながらに斬り結ぶ
「真平君の友人と一緒に写っているということはマクアフティルの子も
「そう……ですね、マクアフティルは長谷川先生が仰られた条件には合いません。でも、う~ん……筑摩さんの――自分の知り合いの知り合いかもですけど、
「どちらか片方でも居てくれたら何か分かりそうだが、二人とも別件で外れているしね」
「本当に姫若子さんたちが話していたのと同じ子なら
「ということは
無楽ちゃん――と知り合いの愛称を呟きつつ、マクアフティルの横薙ぎを切り取った写真に目を落とした大膳は我が子を愛でるような優しい面持ちとなり、「見れば見るほど現代の
好意的に表すなら〝率直な意見〟ということになるだろう。
口から飛び出した内容と好々爺の顔付きが一致しなかったことはともかくとして、大膳が見ているのは一枚の写真――つまり、静止画なのだ。動画のようにマクアフティルが閃いた軌道さえ判らないはずだが、シャツの袖から覗く筋肉の膨らみ方や腰の捻り方、踏み込んだ際の姿勢といった僅かな手掛かりだけで秘めたる潜在能力を見抜いたようである。
長谷川大膳のことを〝生きた伝説〟と讃える殺陣師も多いが、そこには媚びを売ろうという浅ましさはなく、一つの事実を述べているだけなのだ。
「……『
二人が覗き込んだネットニュースの記事によれば〝
「我々に総合格闘技団体と揉める理由はないだろう? 地下格闘技だったかな――黒河内君の
「我々『
「我々は何もやましいことなどしていないのだ。堂々と構えていよう」
真平の懸念に答えつつも大膳は差していた刀を左脇に挟み、次いで赤い帯を締め直していく。その視線を辿ってみれば、槍の取り回しが思い通りにならないらしい『信長』が悔しそうに呻いているではないか。
そして、役者たちの全身全霊を見逃すような長谷川大膳ではない。左脇に挟んでいた刀を赤い帯へ戻す頃には小さく優しげな双眸に凛然たる気魄が漲っていた。
「――ただし、その少年や真平君の友人に何らかの迷惑が及ぶようなら黙ってはいない」
「承知」
侍が使う
「そういえば、真平君、マクアフティルの使い手という子の名前は聞いているかい?」
「確か……キリサメ――そう、キリサメ・アマカザリではなかったかと。上下の名前が逆様なんて芸名みたいですね。いや、リングネームというべきでしょうか」
「風流な名前じゃないか。ますます気に入った」
キリサメ・アマカザリという名前を幾度か反芻し、次いで『信長』のもとへ歩み寄った大膳は、彼の槍を借り受けると二筋の白線が辿り着く後ろ髪を風に踊らせながらこれを頭上に構えて振り回していく。巧みな実演を交えつつ「両腕だけでなく身体全体を使って遠心力を作り出す」といった要点を解説しようというわけだ。
小さな竜巻が天井に届くより早く右の五指を
実践と理論の両面から工夫を教えられた『信長』は大膳に倣って
苦労の報酬とも
「
マクアフティルを――『
殺陣道場『
二人の縁は当人たちの知らない間に結び付いていたわけだが、これも瀬古谷寅之助による〝汚染〟の一つと数えるべきかも知れない。何しろインターネットという文明の利器に明るくない大膳の耳まで届いてしまうほどキリサメ・アマカザリの名前は加速度的に広まりつつあるのだ。
寅之助が仕掛けた〝
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