その14:仕置~昔ばなし「ももたろう」に曰く
一四、
真っ二つに割られた桃という奇妙な家紋が看板に添えられた小さな病院は、東京大空襲による焼亡を免れた古い長屋が
太平洋戦争以前の風情を残す狭い路地の隙間へ無理矢理に押し込められたような洋館風の建物は、
正面玄関に立てられた看板からは
〝藪医者〟とは確かな実績に裏打ちされた
戦国時代の黎明期に
院長秘蔵の十文字槍も本来は
山岡屋栄枯盛衰の顛末は初代に付き従った
家伝『
口さがない者には先祖から当代に至るまで何もかも胡散臭いと揶揄されてしまう〝藪医者〟――院長の
それは訪問者に手渡された名刺である。
切れ長の双眸が正面の椅子に腰掛けている訪問者と名刺を交互に見つめる
祖先の山岡桃太郎は「誰より早く布団に入り、誰より早く床を上げるが、目の下は常に黒く腫れていた。寝不足でないなら悪鬼羅刹の如き心根が表れているのだろう」と
ワイシャツからスラックス、サスペンダーや靴下に至るまで全身を黒一色で揃えたのは本人なりのこだわりであろう。その上から清潔な白衣を羽織っている為、
口元の皺は深みのある陰影を刻んでおり、町医者というよりそれに扮するベテラン俳優といった佇まいである。緩やかに波打つ
「声優事務所『オフィス・アッポジャトゥーラ』――無学ゆえに芸能関係の会社というくらいしか儂には読み取れぬが、社員個々の我がままにも耳を傾ける風通しの良い社風なのじゃろうな。加えて慈善事業にも積極的と見えるわい」
舌にも馴染んだ癖なのだろう。総一郎は往年の時代劇
慇懃無礼な態度は名刺を差し出してきた相手に対する率直な反応といえるだろう。通院患者で溢れ返る時間帯に医療機器の売り込みにやって来たセールスパーソンを追い払う際にも同じような
「マネージャーの
音楽用語に由来するという企業名と併せて名刺に刷り込まれた個人名は、丸い診察椅子へ神妙そうに座っている細身の男性の物であった。背広を着込んだ姿は仕事帰りのビジネスパーソンといった印象であるが、名字の前に添えられた肩書きによると声優事務所にマネージャーとして勤務しているようだ。
差し向かいの二人はどちらも畏まった装いである。襟のないワイシャツに身を包む総一郎に対して、
院長から第一診察室に迎えられてはいるものの、大鳥は通院患者ではない。モニターに電子カルテが表示されたデスクトップパソコンの時計は一七時過ぎを指しているが、藪整形外科医院は土曜日の診察時間を一三時
入院施設は備えていないので院内に残っている医療スタッフは総一郎のみである。パソコンの隣へ設置された
何しろ今夜は最愛の妻と外食に出掛ける約束なのだ。
警視庁・科学捜査研究所――通称『
赤坂のランドマークである地上五四階の超高層ビル――ミッドタウン・タワーに所在するフレンチレストランの窓際を押さえてある。万が一にも東京ミッドタウンの夜景を一望できる特等席をキャンセルする事態に陥ったなら、妻からどのような仕打ちを受けるか、分かったものではない。
それでも急患として飛び込んできた人間を追い返さなかったことは、冗談めかして〝藪医者〟を自称する総一郎が誠実な医療従事者であるという何よりの
尤も、彼が診察すべき対象は正面に座っている青年――
「開業医ゆえにレントゲンも
総一郎が厭味を引き摺りながら視線を巡らせた先には患者に応急手当などを施す為の診療台が据え置かれており、その上にキリサメ・アマカザリと
改めて
「本当にすみませんでした……頼れるお医者さんが藪先生しかいないから、私、すごく無理をお願いしてしまって……」
「ああ、いや、……すまぬ。そこまで深刻に受け取られるとは思わなんだ。口が悪い
「……何もかも僕の
「キリサメ君まで真に受けるか……患者がお
総一郎の
SNSを通じてインターネット上に広く拡散された屋上庭園の〝
寅之助の太刀筋が敵兵を斬り倒すことに重点を置いた戦時下の剣道――『
一挙手一投足に至るまで段取りに則った〝
御剣恭路という存在によって虚構が現実を塗り潰してしまったわけである。彼が駆け付けていなかったら、『
〝
尤も、キリサメには戦いを継続するつもりなどなかった。当初は人質に取られたものと思われていた未稲も無事な姿が確認され、何より寅之助が正眼の構えを解いたのだ。応戦以外の目的で
〝生きていてはいけない存在〟を消滅せんと逸る激情も幼馴染みの
その『
屋上庭園から引き上げる間際のことであるが、集団のまま移動すればどうしても目立つと懸念する声が上がり、散り散りに京島の藪整形外科医院を目指す手筈となったのだ。
今度の
『ガンドラグーン
警察に確保されるより早く証拠物件の回収に成功したわけだ。
作戦の実行に当たって藪整形外科医院を合流地点として提案したのが未稲である。彼女の父である岳にとって総一郎は〝かかりつけ医〟であり、下北沢から京島までわざわざ通うほど八雲家との関係も深かった。
電知との
しかも、総一郎は岳による根回しではなく未稲当人の直接的な電話連絡に応じ、本来の診察時間が終了した後も玄関を施錠せずに急患の到着を待っていたのである。〝藪医者〟という自嘲に満ちた名乗り方が全く成り立たない篤志の人であった。
先祖の山岡桃太郎は商談の相手にさえ「貴様の話を聞いていると耳を水で洗い流したくなる」と罵られるほど邪悪な人物であったそうだが、同じ〝血〟を引きながらも子孫たる総一郎の性情は正反対で、厭味な態度は一種の照れ隠しであるのかも知れない。
「警察の間抜けは底ナシだね。秋葉原の駅前には交番だってあるのに工事現場のフェンスがブチ破られたって知らん顔だもん。通報を受けなくたって様子くらい見に来るってモンじゃないかなぁ、フツー。押収されなくて助かったけど、手元に
「真面目な話の最中に
総一郎と同等か、それ以上の皮肉を弄する寅之助の真隣には、彼から「照ちゃん」と呼ばれる上下屋敷が腰を下ろしていた。散り散りとなった際に何処かへと逃げ去ることがないよう藪整形外科医院まで張り付いてきたのである。
屋上庭園では二連の数珠を結び合わせたかのような鞭を寅之助の左手首に巻き付けていたが、愛犬の散歩に用いる長い
ただでさえ狭い診療台をベンチ代わりにして男女四人が並んで座る状況は、傍から見ても窮屈そのものである。それぞれの肩が完全に接触しているのだから、本人たちの感じる息苦しさは尋常ではないだろう。
総一郎も「そこは
「ところで、電ちゃんはいつまでその
週末の秋葉原に
真剣勝負を望んで止まない電知と、自分より先に命のやり取りを経験したキリサメと闘いたい。電知の身に刻まれたという破壊の技を自分も感じたい。電知が晒された戦慄を自分も味わわずにはいられない――キリサメが標的となった原因も、暴挙に至った発端も、全ては〝電ちゃん〟という一点に集約されているのだった。
自宅を出発したときと同じ姿の未稲がキリサメの隣へ腰掛けているからも瞭然のように
未稲に近付く為に同じネットゲームを遊び、ゲーミングサークルにまで潜り込むという手の込んだ計略も、地球の裏側に
子どもじみた我欲が文明の利器を通して
斬り合いそのものを〝
その手立てを先に踏み破ったキリサメのほうこそ注意を受けるべきと寅之助が肩を竦めた直後、堪え切れなくなった電知は勢いよくキリサメに額づき、傍若無人としか表せない幼馴染みの所業を詫びたのである。
己こそが寅之助を暴走に駆り立てたのだと、思い詰めていることは明白であった。
当然、キリサメの座った位置からは電知の背中を見下ろすことになる。
それ故に声を掛けることさえ憚り、俯き加減となりつつも丸まった背中から目を逸らしてしまう。如何なる理由があろうとも弱々しく感じる姿などキリサメは見たくなかった。
その気持ちを知ってか知らずしてか、当の電知はキリサメの眼下にて土下座の体勢を維持したまま長時間に
「他人事みてェに言ってんじゃねぇぞ、寅ァッ! てめぇ、自分がやらかしたコトの重大さが一ミリも理解できてねーのかよ⁉ 読解力までポンコツか!
寅之助の揶揄は電知にとって導火線にも等しいものであり、顔を上げるや否や、眼を血走らせ、
つまるところ、電知は無神経の極みとも呼ぶべき幼馴染みに代わって
電知の
同じように寅之助とキリサメの居場所を追跡していた上下屋敷と
全ては寅之助の暴挙を食い止め、キリサメのデビュー戦ぶ影響など出ないよう事態を収束させる為であった。
斬り結ぶ二人を捕捉した屋上庭園から藪整形外科医院へ移る際に
「要するに
発案者の電知は着想を得たという新撰組の
寅之助と恭路の言い争いでも
発想の原点はともかく作戦自体の合理性はキリサメも疑ってはおらず、未稲と共に電車でもって京島まで赴いたのである。秋葉原から
そして、それこそが電知なりに考え抜いた末の誠意であった。
幼馴染みの暴挙を心の底から詫びている最中だというのに、よりにもよって寅之助当人に鼻で笑われたのだから憤怒を爆発させるのは当然であろう。
真隣に陣取っている上下屋敷が寅之助の脇腹目掛けて肘を突き込み、電知の憤激を引き受けていなかったら、診察室という狭い空間で竜巻の如き一本背負いが披露されたことであろう。
屋上庭園で繰り広げた〝
本気で怒鳴り声を張り上げる上下屋敷に対して嬉しそうに微笑み返すのはこれを無作法への折檻ではなく寅之助が恋人同士のじゃれ合いの一つと感じているからに他ならない。
翻せば他人の感情には根本的に無関心という何よりの証しでもある。
「電知も立ってくれ。僕は何とも思ってないんだ」
「でも、それじゃお前だって気が済まねぇだろ」
「何の罪もない友人に頭を下げさせたくない。そっちのほうが僕には苦しいよ」
「……う~ん……ダチに気を遣わせちまうはアレだけどよぉ……」
これは偽らざる本音であった。電知は言うに及ばず、加害者である寅之助にも自分への謝罪など求めていないのだ。未稲から厳しく糾弾されるべき後者はともかくとして、前者に何の責任を問うというのか。
友人同士の衝突を止める為に秋葉原まで駆け付けてくれたことには感謝しかなく、眉間を床に
「――あ~、あったあった。どこかで見た気がしてたんだよ。さっきお兄さんがボクから竹刀を
その寅之助は右の人差し指で示した
あるいは上下屋敷よりも慕っているだろう相手が何を措いても自分へ寄り添ってくれる
「実際に見たのもやられたのも初めてだよ、『西洋剣術』。今日だけでサメちゃんとお兄さん、二人にボクの
右腕を掴んだキリサメから引き上げられ、電知は床の上に胡坐を掻いた。その頭を飛び越す形で寅之助が声を掛けた〝お兄さん〟とは、総一郎の正面で丸い診察椅子に腰掛けている背広姿の青年――大鳥聡起である。
丸い診療椅子を回転させて寅之助に向き直った大鳥は己の鼻先へ突き出された
インターネットに接続されているものと
その内の一人は中世ヨーロッパで用いられていた
英語による解説文では「刃で斬撃を受け止めた瞬間に空いている側の手を伸ばし、敵の剣のツカを握って素早く掠め取るのが
まるで教本の一部を抜き出したかのような写真は
「サメちゃんも電ちゃんも見てみなよ、ホラ。ていうか、サメちゃんだってお兄さんの神業を間近で見てたでしょ? やっぱり、コレと
「……僕は
頼んでもいないのに
しかしながら、何処かのホームページにて公開されている『西洋剣術』の写真と、大鳥が〝
写真の中の男性も寅之助も、キリサメの目にはそれぞれの得物を力ずくでもぎ取られたようにしか見えなかったのだが、さすがは剣士というべきか、後者は相手の剣のツカを瞬時にして握るという
「――只者じゃないと確信はしていましたけど、私の貧しい想像力なんか軽々と超えられちゃいました。『せいしょこたん』さん、剣の腕前だけじゃなくて目利きの〝心得〟もあるのですね。まさか、底ナシの才能がこんな身近にいるなんてビックリですよぉ」
寅之助の洞察力を柔らかな声でもって褒め称えたのは恭路に続いて屋上庭園の〝
大鳥の隣に用意された椅子には座らず、第一診察室の片隅に設置された人体の骨格標本を興味深そうに眺めながら近くの人影に「理科室にこういうの、置いてありましたね」と声を掛けていたが、この場の会話に耳だけは傾けていたようだ。
鋼鉄の
現代の法治国家日本には余りにも不似合いな
筑摩は中世から現代に甦った騎士たちによる合戦絵巻――『
堅牢の二字を具現化したかのような鎧姿こそが彼女にとっての〝制服〟というわけだ。寅之助を『せいしょこたん』と呼んだ筑摩当人は『ヘヴィガントレット』を
「絶対、『せいしょこたん』さんには
「今はもうオフ会じゃないし、
そこで用いられる装備は洋の東西を問わず〝中世〟と分類される時代の物を再現しているが、国際組織主催による世界大会が
騎士たちも知名度の向上や競技人口の拡大に努めている最中であり、今度の一件に巻き込まれて甲冑姿がSNSに晒されてしまった筑摩も「剣と盾と鎧――三種の神器は永遠の憧れですからね。注目を集めないハズないですよぉ」と良く言えば前向きに、悪く言えば能天気に構えて宣伝効果を期待しているくらいであった。
「さっきも竹胴より重い物を着たらって動けないってお断りしましたよね? ボクは剣道の心得があるだけで
「自然な流れでオレを巻き込むんじゃねーよ! どうやりゃ
「またフラれちゃいましたか~。次はもっと捻りを加えてお誘いしないとですね。それでも上下屋敷さんの約束は取り付けたのだから今日は大漁ですよぉ」
「いやいや待て待て! どこが大漁だ⁉ 釣り針に食い付いてもいねーってのに気ままに
「やっぱり『せいしょこたん』さん――瀬古谷さんも諦めきれませんよぉ。
ネットゲームの世界では『せいしょこたん』なる
隣同士で並んでみないと正確には判らないが、丸い診察椅子へ座っている大鳥と筑摩の身長は互いに立った場合に大して変わらないようだ。その
「八雲さんや上下屋敷さんに観て頂いた第一回世界大会の
左右の指先まで
「瀬古谷さんが見抜かれた通りに『西洋剣術』なのですけれど、一口に〝ヨーロッパ式〟といってもサトちゃんの場合は――」
「――依枝さん、『西洋剣術』の話はまた別の機会に。これ以上、脱線し続けては遅い時間に病院を開けてくださった院長さんにもご迷惑でしょうし……」
「むう~、サトちゃんのことなら三日三晩、お喋りしていられるのにぃ……」
『西洋剣術』にまつわる話を大鳥から遮られてしまった筑摩は左右の五指にて口元を隠し、次いで彼の頭越しに総一郎へ
『サトちゃん』なる
(……というか、『西洋剣術』とやらにも日本式みたいな流派とか道場があるのか?)
一方のキリサメも中世ヨーロッパの騎士と同じ
寅之助の片手突きを破った大鳥は言うに及ばず、筑摩も片手一本で握る
それはつまり、横殴りに飛び込んできた重量物を片腕一本のみで凌ぎ切ったということだ。ひょっとすると
その上、筑摩は
斬り結ぶ相手に意識が集中していたとはいえ、鉄靴がウッドパネルを軋ませたなら鼓膜まで届かないはずもなかろうに、実際に金属の擦れ合う音が響いたのは二人の少年の間へ割り込む寸前の一度きり――
そういう意味では野次馬たちの喧騒へ紛れる形で屋上庭園に潜り込み、寅之助から〝抜き足差し足忍び足〟の達人の如く讃えられた大鳥も同じようなものであろう。同門という関係性を端的に表しているようキリサメには感じられた。
「サトさん……だっけ? ボクはもっとお兄さんたちの話を聞きたいな。『西洋剣術』なんて滅多に遭遇できるもんじゃないし。『ヘヴィガントレット』さん――もとい、筑摩さんもお願いしますよ、ねェ?」
「てめーなぁ、マジでいい加減にしとけよ。脱線すんなって話が出たばっかしだろうが。上下屋敷も上下屋敷で、ちゃんと
「何でもかんでもオレに責任振るなよ。空閑にも止められねーもんをどうしろってんだ」
「サメちゃんだって興味あるよね? 何ならボクらでタッグマッチを挑んでも良いし」
「僕が一度でも
「そこまでズバッと言い切られてしまうと、
胡坐を掻いている電知から制止を訴えるように脛を蹴られ、キリサメと上下屋敷から冷たい視線を浴びせられても寅之助は『西洋剣術』に関する講釈を大鳥に求め続けた。
『サトさん』などと馴れ馴れしく呼び始めたのは強烈な関心を抱いた証左であり、同時に二人の剣士の
完全なる不意打ちではあったものの、〝
寅之助に翻弄され続けた一日を振り返り、同様の経験を何年も何年も積み重ねてきた電知と互いの顔を見合わせたキリサメは大鳥への同情を禁じ得なかった。興奮した声色から察するに寅之助が理不尽な勝負を挑む日も遠くはないはずだ。
「お
寅之助が顎でもって指し示したのは、言わずもがな筑摩の得物である。
よもや今日の内に挑戦するとは予想していなかったキリサメは、呆れたように溜め息を吐き捨てながら寅之助当人の足に目を転じた。スラックスの上から見ても分からないが、つい先ほど脛の手当てが終わったばかりである。
キリサメからしこたま
「自分は主に
「
「手前ェのデタラメを手前ェで引っ繰り返してんじゃねーよ、バカ。……頼むからもう大人しくしていてくれ。オレだって気が気じゃねーんだぞ」
大鳥の
さりとて寅之助自身も竹刀を握ることは叶わないはずだ。診療台から僅かでも腰を浮かせようものなら、左手首に巻き付いた数珠の如き鞭によって引き止められるだろう。
(多分、
標的をいたぶることが目的ではなく、相手が心の奥底に秘めている暴力性まで引き摺り出し、生と死が鼻先ですれ違うような〝実戦〟にこそ快楽を覚える寅之助の性格上、闇討ちあるいは辻斬りを仕出かすことはないだろうが、万が一、そのような状況に陥ったとしても大鳥は決して後れを取るまい。
キリサメの双眸は大鳥が羽織る背広の内側に何やら長細い膨らみを見つけている。おそらくは伸縮式の特殊警棒でも隠し持っているのだろう。
二〇一三年に起きた『七月の動乱』では反政府組織の策謀によって同種の武器が抗議デモ参加者の手に渡っており、警官隊が構えた強化プラスチックの盾が打ち砕かれていく様子をキリサメも目の当たりにしていた。折り畳んだ状態であれば
先ほど大鳥から明かされた業務内容を考えるならば、
「見れば見るほどおかしな集団よな。ハロウィンの渋谷を見ておるような心持ちよ。さすずめ大鳥殿は仮装大会の引率といったところじゃわい」
診察の結果とも〝
シャツにジーンズという至って
床に腰を下ろした電知に至っては黎明期に用いられた古い様式の
仮装行列と考えても
院内の別の場所に陣取っている御剣恭路まで仮想行列に加わったなら、ただでさえ窮屈極まりない第一診察室が更に息苦しさ――もとい、暑苦しさを増したはずだ。
「未稲君から連絡を貰ったときには、よもや
「いえ、自分は
「あらあらあら? 秋葉原でも無反応だった
総一郎の口から飛び出した言葉を受けて、筑摩は思わず前のめりとなった。彼の言い回しには
大鳥の両肩に手を置いていた筑摩は自然と彼の頭上に影を落とす体勢になったのだが、これは互いの身長差を何よりも強調するものである。総一郎の目は大鳥の眉間に縦皺が増える瞬間を見逃さなかった。
「未稲さんのお父さんがお世話になっていると伺っておりましたけど、先生も
「古い馴染みが
「ええ~、どなたですかぁ? 私やサトちゃんも知っている人かなぁ? サトちゃん、心当たりはどうですか?」
「だから、自分は
「う~ん、サトちゃんがそういうなら引き下がるしかないですねぇ~」
三人のやり取りには未稲も上下屋敷も目を丸くしていた。
古めかしい言葉遣いなど世間の流行り廃りに疎そうな印象を受けるが、『
院長室に模造品ではない本物の十文字槍が飾られていることも、悪質な来院者はこれを振り回して追い返していることも未稲は聞いているが、「昔取った杵柄」などではなく、今もまだ槍術の修練は続けているのかも知れない。鼻が利く物知りだとしても格闘家のかかりつけ医というだけでは武芸に関わる事柄へここまで敏感である必要はないだろう。
その一方でポルトガルから種子島に伝来し、紀州
武芸との向き合い方は正反対であろうが、総一郎の鋭敏な〝鼻〟は初代桃太郎の遺伝子を強く受け継いだのかも知れない。何しろ山岡屋は独自の
「竹刀だって基本的には両手持ちだから院長先生が言ってる条件にも合うね。やっぱり手合わせしようよ、サトさん。何ならサメちゃんのノコギリとやり合って貰うパターンでも構わないよ。見取り稽古だってボクには面白いし」
「……どうして僕をいちいち巻き込むんだ。
「厄介払いなら上下屋敷にしとけよ! おれだって別に
なおも『西洋剣術』にこだわる寅之助をキリサメが横目で
「左様に元気が有り余っておれば何の障りもなかろうて。念には念をとレントゲンも撮りはしたが、頭蓋骨、両腕、肋骨に至るまで亀裂の一本とて見られぬ。暫しの間、青く腫れて痛ましく見えようが、後は湿布と薬と時間が快癒してくれるはずじゃ」
来月のデビュー戦までには間違いなく全快する――と断言した総一郎に対して、キリサメよりも早く未稲のほうが頭を下げた。
微かに開かれた口から安堵の溜め息が滑り落ちていく。屋上庭園にて合流し、腕や頭部の手酷い打撲傷を見て取ったときからデビュー戦への影響を案じていた彼女にとって、それは祈るような想いで待ち続けた診断結果である。「怪我が治るだけじゃダメなんです。トレーニングの再開が遅れたら調整が間に合わなくなります」と、今後の治療計画を
「未稲君が気を揉むようなリハビリも特には必要あるまいて。痛みさえ引かば明日からでも軽い運動は始められよう。無論、医者としては完治まで養生を勧めたいがの。……儂は骨接ぎ稼業ゆえ脳は専門外。キリサメ君の症状を聞く限りでは心配ないと思うのじゃが、僅かでも違和感を覚えたときには然るべき専門医に駆け込むことじゃ」
「そこがボクには悔しいんだよなぁ。小手調べのときはともかく、本気で打ち込んだのにアバラの一本も折れなかったなんて自信喪失も良いところだよ。ヒビだって入ってないんでしょ? サメちゃん、ドーピングでもやってんじゃないかってくらいカタいよねぇ」
「てめーがやってんのはあくまでも〝剣道〟だろーが。事故ならともかく、わざと骨をブチ折りにいく剣道をガキんちょに教えてんのかよ。バカも休み休み言いやがれ」
「
「人の揚げ足取る前に手前ェの足元を見やがれってんだ。……敵ばかり作られたんじゃ、オレだってお前、気に病むこともなくはねーんだぜ……」
キリサメの人生を左右するほどの晴れ舞台が幕を開ける前に躓くのではないかと憂いている未稲を慮り、上下屋敷は寅之助の脇腹を再び肘でもって小突いた。友人の神経が逆撫でされるような暴言を聞き流すほど彼女も薄情ではない。
(……みーちゃんだって
己が仕出かした不始末の
そうして電知の座る床へと視線を垂直落下させた際に寅之助の両足を捉えたのである。
「肉体の頑丈さならば、お主とて大して変わらんじゃろう。何しろ裂傷が酷かった故、亀裂骨折くらいはあろうとレントゲンを撮ったというに
古い時代の剣道に組み込まれているという足技を封殺するべく脛や膝を何度も何度も執拗に蹴り続けたはずであるが、総一郎の診断結果によれば皮膚の裂け方や腫れ方が惨たらしい一方で骨と筋肉に異常は確認されなかったそうだ。
キリサメ自身の両腕と同じように負傷箇所の手当ても拍子抜けというくらい簡単に済んでしまった。
鋼鉄の塊とも
「兎にも角にも今日明日くらいは身体をゆっくりと休め、様子を見ておくことじゃ。さすれば、儂のほうから釘を刺しておくべき問題点など一つもない。キリサメ君も何ら患うことなく初陣を迎えられよう」
父親ともども長い付き合いである未稲を安心させようと、来月の試合には何の支障もない旨を強調する総一郎であったが、その言葉を傍らにて聞いていた電知は診療台の上から滑り落ちてくる安堵の溜め息とは真逆に誰よりも険しい
「……じゃれ合い小突き合いってェ言い訳が通じねぇ大騒ぎになったっつーのに不自然なくらい問題点がねぇんだよな、今度の一件はよォ……」
「お主からすれば友人二人が仕出かした事件じゃろうに、警察沙汰にもならず落着したのが気に喰わぬか?」
「気に喰わねぇのは裏でコソコソと動き回った連中だよ。……釈然としねぇぜ」
理不尽な言い掛かりとも感じられる電知の悪態が何を意味するのか、これを察した総一郎はパソコンのキーボードを左右の五指で素早く弾き、モニターの画面をキリサメと寅之助の電子カルテから
「みんな、そんなにカリカリしなくてたって良いじゃん。これもまた大人の対応だよ」
総一郎が表示させたネットニュースも、これを受けて穏やかならざる気配を纏い始めた人々も、まとめて揶揄するような寅之助の口笛にキリサメは頭を掻くしかなかった。
総合格闘技イベント『
寅之助が未稲の監禁を仄めかしたことに端を発する一連の騒動はキリサメが『
SNSを通じてインターネットの世界に拡散された決闘騒ぎは程なくして〝
そこに彩りを添えたのは自分だと主張するアコースティックギターの音色がどこからともなく聴こえたような気がした。
そもそも〝
丁度、机上のモニターには全文が表示されている。その中で樋口は
改めて
オフ会の欠席者である『デザート・フォックス』から届いた
秋葉原中心部の決闘騒ぎを最初に報じた二時間前の記事の見出しもモニター内に表示されているが、およそ一二〇分前後で樋口社長と『サムライ・アスレチックス』が事件収束の筋書きを書いたのだろう。統括本部長の独力で解決できるような事態ではないのだ。
「元々、樋口郁郎は
「手ェ回したのが見え見えだぜ。あのタヌキ親父、アコギなやり口なんかお手の
「照ちゃん、それね、少しもお父さんの
『
あるいは岳の
キリサメと電知が三月の長野で繰り広げた
皺くちゃのワイシャツを平気で着続けるだらしない風貌とは裏腹に煮ても焼いても食えない怪物であり、万事に
上下屋敷と電知の口からは批難の域を越えた誹謗中傷が矢継ぎ早に飛び出しているが、未稲は苦笑を浮かべるだけで一度も反駁しなかった。彼女の父親は樋口社長と関わりの深い統括本部長である。それだけに真っ当とは言い難い風聞も耳に届いているのだろう。
(尻拭いをして貰った立場で何かを言う資格はないけど、……薄ら寒いっていう電知の気持ちは分からなくもないかな。こんな
恩義を感じている樋口社長への罵声はキリサメとしても聞き捨てならないはずだが、捏造も含む情報操作を
(……
初代桃太郎から受け継いだ遺伝子によって鼻が利く為か、あるいは〝裏〟の社会の情報網に通じているのか――『
樋口の裏工作はこれからデビュー戦を迎える新人選手の立場を守る為に行われたものではなく、所属選手の不祥事によって『
敢えて口にはしないものの、総一郎は樋口郁郎という男が契約選手に対する
『
(
樋口郁郎も山岡桃太郎と大して変わるまい。キリサメの不祥事が
「――サトちゃんの大活躍を忘れて頂いては弱っちゃいますよ。何といっても決め手は私の幼馴染みなんですから」
「……依枝さん、これは別に自分の手柄というわけではないから……」
やがて山岡屋そのものの力を削ぎ落とすことになる先祖たちの内訌を振り返っていた総一郎の意識は、不意に口を挟んだ筑摩によって第一診察室へと引き戻された。
依然として大鳥の
鎧の下に着込んだ
入れ替わるような形で筑摩の
幼馴染みの手柄であると誇りたくなる気持ちも分からなくはないが、筑摩の語った〝決め手〟とは大鳥個人の
キリサメとも寅之助とも面識のない大鳥が屋上庭園まで駆け付けたのは
『
人気声優が何人も参加し、数え切れないほどのファンが
控室でSNSやネットニュースを確認した希更は状況の把握と対処を同行マネージャーである大鳥に託し、自分のことを心配してくれる共演者たちと共に努めて明るく登壇していったという。
「――バロッサ家が他流を研究した資料集でも見た
激しい息遣いや互いの
だからこそ、
「だけど、間に入って上手い具合に転がしたのはサトちゃんじゃないですか。もっと自慢してあげたいのになぁ~」
顎を撫でて耳まで駆け上がってくる不満げな声に大鳥は返事もしなかった。
一計を案じるにしても大鳥個人の判断と
すぐさま
方針決定後の大鳥は機敏そのものであった。宮崎物産館に程近い家電量販店で手持ちサイズのカメラを購入するとインターネット上の情報から同僚が割り出した〝
秋葉原で繰り広げられる斬り合いは『
〝
どちらか片方でも命を落とし兼ねない状況へ陥ったときには二人の間に割り込み、大音声でもって「カット」と宣言して〝
つまるところ、事件の裏側で二つの力が同時に働いていた。直接的に連携を図ったわけではないものの、『
キリサメと寅之助がどこで斬り合っているのかも特定し切れなかった未稲たちは焦燥感に駆られながら手探りで二人の足跡を追い掛け続けたのだが、当事者たちでさえ想像もしない裏舞台で〝事件〟は実質的に解決されていたわけだ。
大鳥から聞かされた説明と、
(
戦国時代の中国地方について記された他の史料では確認されない為、大幅な誇張が含まれているのだろうが、『
その当時に銀山の支配権を握っていた一族は桃太郎が吹き込んだ偽の情報に惑わされて本家と分家が相争う状況に陥り、自分たちが騙されていることにも気付かないまま滅亡の憂き目に遭ったのである。
「気付いたときには何もかも終わっている策略」とはこのことであり、当事者の目が届かない裏舞台で自分たちの都合が良いような筋運びに書き換えていく作法は時代が移ろうとも大して変わらないと、総一郎は心の中で厭味に笑った。
己の手のひらの上で転がされる哀れな者たちを見下ろすとき、桃太郎は決まって「足りぬやつだ」と嘲り、薄笑いを浮かべたと
採掘後に加工され、丸みを帯びた銀塊を桃太郎は『きびだんご』と称し、商売敵の買収工作にも大いに利用したそうである。鼻先にぶら下げられたカネに踊らされ、正常な判断力を失った人々も「足りぬやつ」の一言で切り捨てていったに違いない。
「サメちゃんってば愛されてるねぇ。ていうか、バロッサ家のお姉さんったら粘着質ギトギトでストーカー気質丸出しじゃない。お
「ストーカーって……どの口が言うんだ。今日だけでも
「さすがにあんなのと一緒にされたくはないなぁ。電ちゃんは勿論、サメちゃんだって久し振りに思い切り暴れられてスカッとしたでしょ? 楽しい〝鬼ごっこ〟に余興の剣舞まで付いて一〇〇点満点のレクリエーションと、自分がちょっぴり関わってるだけのアニメのトークショーを私物化する人なんて比べるまでもないじゃん」
「比べるまでもなく寅がクソ野郎なんだが、おれやキリサメが楽しんでるって疑わない絶対的な自信がどこから来るのか、全ッ然分からんねーわ。ずーっと付き合ってても未だにてめーの
「焦らし上手の二乗なんて興奮し過ぎて今晩、寝れなくなっちゃうよ。照ちゃん、夜更かしのお相手、よろしくね」
「……空閑の台詞を借りるみたいで
殺傷の技術という側面を持つ古代ビルマの伝統武術『ムエ・カッチューア』を極めた名門でありながら、それを
彼が暴行傷害事件の犯人ではなく
「タレント業ってのは媚びを売るのが商売だろうけど、やり口がダイナミックだよねぇ。事務所まで動かしてサメちゃんに気に入られようとするんだから根っからのストーカー気質だ。これから大変だよ? 恩着せがましく迫られちゃうよ~。『あたしのお陰で命拾いしたのよね』って言われたら、ナニされても抗えないでしょ」
武芸を志す者としての立場の違いと言い換えればそれらしく聞こえるが、寅之助の場合はバロッサ家に対する妬みとも逆恨みとも受け取れる
「弊社が行動を起こしたのは、失礼ながら貴方の為ではありません。ましてやバロッサさんに流されたわけでもない。あくまでも企業としての利害を重く受け止めた結果です。そのことをくれぐれもお忘れなきようお願い申し上げます」
「……僕が同じ場所に居るだけでもバロッサ氏にはマイナスになるってコトですか」
「そこまで事態を悪化させない為の措置でした。貴方もバロッサさんも『
「キリくん――というか、……暴力事件の犯人とバロッサさんの関係をマスコミに騒がれたら声優人生もお終いだって仰りたいんですよね? 事務所的にも稼ぎ頭の看板に傷が付いたら大変だって……」
「……よろしいですか? ほんの些細なことであろうとも犯罪と見なされる行為に加担することは絶対に有り得ません。万が一、所属声優が巻き込まれる可能性があるなら、我々は全力を尽くして守ります。あらゆる手段を放棄しないということです」
途中から押し黙ってしまったキリサメに成り代わり、未稲が尋ねたことに対して大鳥は企業人としての態度で頷き返した。その上で「我々はボランティアでマネジメント業をしているわけではありません」とも言い添えた。
「弊社は『
「本当に面白いね、このお兄さん。キナ臭い大人の都合を『
「アマカザリさんは総合格闘家である以前に本件の当事者です。全てを聞いて頂く義務があります」
揶揄を
先程までカメラのファインダーを覗き込んでいた右目は裁判官の如き厳粛さを湛えており、これに貫かれたキリサメは我知らず背筋を伸ばしていた。
「確かに企業間のことやリスクマネジメントはアマカザリさんとは無関係ですが、社長を動かしたのはビルさえ突き破って貴方に手を伸ばそうとしたバロッサさんの気持ちです。そのことをお忘れではありませんね?」
「……今、初めて『イシュタロア』を観たいと思っています……」
「……『今、初めて』なのですか? 『改めて観たい』のではなく? バロッサさんのマネージャーからしますと、非常に切ない
希更の心配りを無碍にするつもりならマネージャーとして捨て置くわけにはいかないと暗に仄めかすような大鳥に対し、キリサメは大きく深く頷き返した。
『
ビル群によって隔てられた宮崎物産館から屋上庭園へと飛び込み、ザクロの木立を震わせるほど大きく響いた希更の
最初はキリサメ自身も勘違いとしか思えなかったのだが、やはり、希更の呼び掛けは会場に詰め寄せたファンではなく同じ
寅之助が指摘した通り、それは主演作品のイベントを私物化することにも等しく、〝プロ〟としての信頼を失い兼ねないほど危険な行為である。理解ある共演者でなかったら登壇さえ叶わなかったはずだ。声優人生を天秤に掛けてでも『
だからこそ、『
己の短慮を恥じ入り、ついには皆に合わせる顔がないと俯き加減になってしまった。
「……僕なんかの
「――バカヤロ、キリサメは何も悪くねぇだろ。落とし前をつけるのは寅で――」
「――反省しなきゃいけないコトはあるけど、ここに居る誰も迷惑だなんて思っていないんだから! ……だから、キリくんはそのことで落ち込まなくて良いんだよっ!」
被害者でありながら自分の
顔面を思い切り張り飛ばしてやった電知と自分の顔とを交互に見比べるキリサメの肩に両手を置き、いつもより
剥き出しのこめかみに青筋を立てて「言いたかった台詞まで横取りかよッ!」と喚き、人体の骨格標本に八つ当たりの背負い投げを掛けようとして近くにいた人影から大人気ないと笑われた電知と、激情を持て余しているなら一戦を交えて発散させようと誘う寅之助を順繰りに窘め、椅子から腰を浮かせた総一郎にも目配せでもって詫びたキリサメは、忙しなく首を振り続ける間に両肩から浸透した未稲の体温によって心を丸ごと包まれた。
(……僕には……僕なんかには……この温もりを受け取る資格なんかないハズなのに。それなのに今もこんなに安らいでいる……)
電知を相手に苛烈な暴力を振るい、自らの獰猛さを省みて法治国家の日本で生きていくことを諦めかけたときと同じように今度も未稲は罪深い拳を受け止めてくれた。
格差社会の底辺で研いだ喧嘩殺法が人を壊す力ではなく、命を明日へ繋ぐ為の
例え心の底から溢れ出す〝闇〟に呑まれ、溺れそうになったとしても最後の一線だけは踏み止まり、自分たちを――〝家族〟を裏切ることはないと一片の疑いもなく信じているのだろう。
その手に暴力しか握り締めることのできない異質な存在の瞳を真っ直ぐに覗き込んでくれる。彼女の丸メガネに映り込んだ自分の顔が不貞腐れた
「ていうか、バロッサさんのことを『希更氏』って呼ばなかった、今? んんん? ついさっきまで名字だったよね? そ、それが急になんッ――ど~ゆ~心境の変化? 『せいしょこたん』さんが言ったように好感度が攻略対象までうなぎ上りィ⁉ あ、あのトークショーってば
「……ごめん、みーちゃん……」
「い、いい、今のは、ど、どどどっちに何を謝ってるのかななな? 判断に困るどころのハナシじゃなくてててぇ! こっ、こここれから先の一つ屋根の下にもトラブル標準実装になっちゃうんだけどォおうゥ⁉」
「自分としても今の発言は聞き捨てなりませんね。
間が悪かった為に未稲と大鳥の双方へ妙な誤解を与えてしまったようだが、
何よりも未稲に対する感謝の口付けを抑えることで忙しかった。肩から体温が伝わってきた直後には彼女の頬を両手で挟みそうになったくらいである。「大勢に見せつけるキスは結婚披露宴まで焦らしに焦らしてから全力でねじ込むべし」という亡き母の教えが脳裏を
「世界は愛で回っているのです。愛が世界を満たすんです。それだから愛に迷っちゃうんですよね、サトちゃん」
何故だか
大切な声優を預かるマネージャーの立場でキリサメと厳しく相対していた幼馴染みの姿にときめきを抑え切れない様子である。皆の視線が診察台のほうへと集中している為、彼女の様子に気付いたのは少しばかり離れた位置からこれを眺める総一郎のみであった。
「……儂は愛情どころか、家内から愛想を尽かされるかも知れぬわい……」
デスクトップパソコンに表示されている時計を横目で確かめた総一郎が
「――ったく。ダラダラ長々とてめーんトコの都合ばっかうるせぇぜ。キリサメの首が繋がったのはめでてェがよ、企業サマのメンツなんざ、こちとら知ったこっちゃねェんだ。……寅の〝落とし前〟をどうするか。これが一番だろうが」
悲哀に満ちた溜め息を押し流したのは、人体の骨格標本から手を離して寅之助を睨み付ける電知であった。
強い言葉に注目が集まるのは当然といえよう。〝落とし前〟とは寅之助に対する制裁のことである。
付き合いの長い幼馴染みとはいえ――否、〝闇〟を抱えた
能天気な口笛を返事に代えた寅之助を燃えるような瞳で見据えていた。
多くの場合、〝落とし前〟は法律に反した私的制裁を指している。あるいは公然と罪に問うことが難しい者を始末する際に用いられる手段とも言い換えられるだろう。
極めて野蛮な思考であり、法治国家日本では絶対に認められることのない振る舞いであるが、キリサメの人生を破綻寸前まで追い込む暴挙を仕出かしておきながら樋口たちの計略によって無罪放免となってしまった寅之助のことを電知が捨て置けるはずもあるまい。
どうしてもキリサメにまで累が及んでしまう為、寅之助は傷害の罪で追及することが不可能となっている。結果的に社会的制裁を免れたわけであるが、悪さを働いた側が得をする状況こそ電知には許し難いのだった。
「……ここで暴力事件を起こされては元の木阿弥です。お気持ちは分かりますが、私刑のような真似はアマカザリさんにもマイナスにしかならないことをお忘れなきように」
「それはそれ、これはこれだ! 寅の仕置きとキリサメは関係ねぇ!」
「失礼な言い方を先に謝罪しておきます。しかしながら、幼稚な屁理屈など社会と法律の前には全く通用しないのですよ。アマカザリさんの将来と、
「スジの通らねぇ理屈なんざ捨てちまえ! 道理って言葉を辞書で引いたこともねェ
秋葉原の騒動を何とか落着させた矢先に新たな暴力の気配を感じ取った大鳥は理詰めで電知に釘を刺したが、この場の誰に止められようとも彼は寅之助に制裁を加えるまで鎮まらないだろう。
『コンデ・コマ式の柔道』を研ぎ澄ませる『
暴力というものが感覚として身近に
藪整形外科医院の院長として制止を呼び掛けるよう大鳥から目配せでもって請われた総一郎は、おどけた調子で肩を竦めるのみである。
その態度は〝落とし前〟という殺伐とした言葉が飛び交う状況にも慣れている証拠であり、医療器具を壊されるような筋運びにでもならなければ椅子から立ち上がることもなさそうだった。
「何なら指でも詰めようか? お医者さんだからメスもあるだろうし」
「望みとあらば貸さんでもないが……『
「メスって大袈裟に
「……てめぇは……ッ!」
「電ちゃんがここまで
改めて
「そんなに
「いやぁ~、愛しの照ちゃんにそういう真似はさせたくないかな。いつも別の意味で悦ばせてもらってるのに、これ以上は欲しがりが過ぎるもん」
正面の未稲に脇へと移って貰い、診療台から立ち上がったキリサメは電知と上下屋敷に叱り飛ばされる寅之助ではなく、大鳥の動きを警戒し始めていた。
電知が口にした〝落とし前〟が私刑を意味することも、大鳥がこれを認めないことも把握している。力ずくでも阻止しなければならない状況に陥ったなら背広のポケットから特殊警棒を取り出し、
筑摩と同じ西洋剣術の使い手というが、
希更という存在を挟んではいるものの、立場上、一応は味方でもある。西洋剣術が電知へ向けられたときには新たな傷を増やす結果になっても割って入るつもりだが、双方を刺激しないよう押し止められる自信もなかった。
「ゲーミングサークルだって寅の悪だくみに巻き込まれたようなもんだしな。ケジメ取らなきゃアイツらに顔向けもできねぇよ」
「あれあれあれ~? 照ちゃんってそんなに『エストスクール・オンライン』にハマッてたっけ? それともオフ会が楽しすぎてほだされちゃったのかな?」
「ヘラヘラと茶化したら誤魔化せるなんて勘違いしないほうが良いぜ、寅。空閑は筋を通さねェてめーにキレてんだ。それはオレだって同じなんだぜ」
同じ『
寅之助は身勝手な目的の為に周囲の人間も巻き込んでいる。昼間に開催され、先ほど二次会まで無事に終了したという連絡が入ったオフ会もその中に含まれている。
『エストスクール・オンライン』という大規模多人数同時参加型
事実、キリサメは黄色を基調としたセーラー服という未稲の出で立ちを寅之助から吹き込まれた直後に『
自身に関わる人々とその絆を片端から踏み躙った寅之助に対して
何も知らなかったとはいえ、ゲーミングサークルに対する裏切りの片棒を担がされたようなものであろう。恋人である自分が蔑ろにされることには良くも悪くも慣れてしまったが、空閑電知を巡る因縁とは関わりのない〝仲間〟まで手のひらの上で転がすという振る舞いだけは、どうあっても許せなかった。
彼女も電知も親しい人間から
「照ちゃんがブチギレる気持ちも分かるけど、サークルのコトはとりあえず忘れて良いと思うよ。誰かが迷惑したってワケじゃないし。勝手に名前を使われたデザート・フォックスさんだけは怒る資格があるけどね」
「そうですよぉ~。上下屋敷さんと瀬古谷さんはサトちゃんと一緒に
「未稲が一番キレて良いんだぜ⁉ うちのバカに情けなんかいらねぇぞ。オレに気を遣う必要もねぇ。ていうか、約一名、ハナシを妙な方向にややこしくすんなっ!」
「……それについては同意見ですよ。さりげなく自分まで組み込まないで欲しい」
実際に巻き込まれた側――ゲーミングサークルの
寅之助に利用されたことは間違いないが、これによって損害を被った人間がいるわけでもないのだ。オフ会に出席したメンバーの一人は彼が用意してくれた
「ボクのコトよりも心配すべきはサメちゃんのほうだよ。明日からちょっとしたタレント気分だよ? 今日の〝
「……今、ほんのちょっとだけ照ちゃんにドツいて欲しくなったよ……」
さすがに言葉を失い、呆然と口を開け広げる未稲を鼻先で笑った寅之助は、壁に立て掛けてある得物――帆布製の袋に納められた竹刀へと近付いていった。
彼の左手首に数珠の如き鞭を巻き付けたままの上下屋敷も当然ながら追従していく。
寅之助が善からぬ行動を取ろうとしたときにはこれを引っ張り、
上下屋敷は言うに及ばず、今にも背広のポケットから得物を取り出しそうな目付きの大鳥も寅之助の一挙手一投足を注視している。そこにキリサメと電知の視線も加わるのだから、彼は鉄格子の檻とも
「ファンに追っ掛けられるだけならまだしも、タチの悪いヤツらに目を付けられる可能性もかなり高いよ? そういうゴミ虫が群がってきたときにもコレを振り回して追い払うのかな? どこからどう見ても威嚇には役立たずの物騒極まりない
顎でもって『
寅之助は恭路の知り合いという〝新撰組の剣〟を引き継いだとも吹聴していたのだ。
『
眉根を寄せた様子から自分の述べた内容が殆ど通じていないことを悟った寅之助は「ウソでも良いからサメちゃんはもうちょっと自分の職場に関心持ってあげなよ」と、これ見よがしに肩を竦めてみせた。
「八雲家の皆サマも性格が悪いねぇ。今の格闘技界隈にどんな連中が粘着しているか、それすら教えないままMMAをやらせようとするんだもん。日本ではまだ実害の話を聞いたコトがないけど、はてさてこれからどうなることやら」
〝連中〟と呼び付けるからには個人単位ではあるまい。『
キリサメには当該する〝何か〟が判らないものの、『
格闘技に携わる若者たちの中で穏やかならざる気配を纏わせていないのはキリサメや寅之助を除くと筑摩ただ一人である。彼女の場合は物憂げな大鳥に心がときめいたようで、この場には不似合いなほど
「サメちゃん、便所蠅みたいのが一斉に群がってきたら実力行使で薙ぎ払うでしょ? ウザいヤツらを叩き潰すことに一ミリも
「……そうだな。
「殴られたら殴られた分だけ相手を〝邪悪〟と詰る声が大きくなって、血が流れれば流れるほど怒りを燃え滾らすのが〝正義の味方〟ってヤツでしょう? ……許すまじってヒステリーを起こす〝不当な暴力〟自体を養分にしちゃうんだからタチが悪いね。サメちゃんみたいなのは大好物だと思うよ?」
「どこの誰とも判らないヤツらの大好物って言われても……。ピンと来ない以上は迎撃も何もないし、そもそもお前の知ったことじゃないだろう」
「いいや、今こそ『タイガー・モリ式の剣道』の出番だよ。集団ヒステリーに囲まれても平気なように、これからはボクがキミの剣になってあげる」
「はあァ~ッ⁉」
鼻から脳天まで突き抜けるかのように素っ頓狂な声を上げたのは、キリサメ当人ではなく彼の間近で寅之助を
「てめー、自分が何を喋ってるか分かってるか? マジで分かってるかァ?」
「平たく言えば
「ンなこたァ知ってらァ! フーリガン以前に
「落とし前落とし前って騒いでたのは電ちゃんじゃないか。
「無料奉仕は当たり前だろ! いや、当たり前じゃねぇよ! 当たり前のように今後もよろしくみてェな流れを作るんじゃねぇっつってんだ! 二度とキリサメに近付くなッ!」
「昼間は高校があるし、日によって小学校まで
「寅ァーッ!」
キリサメに向けておどけた調子で片目を瞑った青年は人間界の常識を超越したことばかり口走っている。どこからどのように切り取り、咀嚼し、反芻したところで全く理解できる
ここへ至るまでに己が仕出かした
それも無理からぬことであろう。〝落とし前〟――暴力に解決を求める私的制裁で脅かされていたはずの人間が勝手気ままに己の処罰を決めてしまったのである。そのような真似がキリサメに対する償いや慰めとなろうはずもあるまい。
「電ちゃんもさぁ、罪滅ぼしに前向きな人間を邪魔するもんじゃないよ。そうでなくてもボクとサメちゃんは友達なんだから、
予想外の発言に誰もが目を丸くし、呆れの声すら絞り出せずにいる。その存在を寅之助が仄めかし、未稲たちが揃って思い浮かべたであろう〝正義の味方〟の正体を確かめることも叶わないままキリサメの眼前で状況は速やかに移ろっていく。
「押し掛けてくるのはハイエナみたいな集団ヒステリーだけじゃないからね。注目度急上昇のサメちゃんが気に喰わないバカがしつこく絡んできたらどうするのかな? 素人に手を出すことのできない〝プロ〟を安全圏からイビろうっていうちっちゃいヤツは、岩の裏に隠れた虫と同じくらい多いからねぇ。そんなとき、サメちゃんに代わって暴れてあげようって言ってるんだよ。自衛策を整えるのだって立派な〝プロ〟の
自分を
「何なら『八雲道場』に住み込みで張り付いてあげても構わないよ。高校とか別行動している時間の穴埋めにもなるし」
「だ、ダメに決まってんだろぉ! お、お前、未稲と一つ屋根の下なんて……い、いけない過ちが起きちまったら、一体全体、どう責任取るんだ⁉」
寅之助の口から「住み込み」という言葉が飛び出した途端、上下屋敷は彼の左手首に巻き付けてある数珠のような鞭を急激に手繰り寄せた。散歩中に暴走した愛犬を長い
左腕を引っ張られた寅之助は上体を大きく傾かせながら「筑摩さんが言った通り、世界は愛が回しているんだね」と満面を喜色で染め上げている。
その一言を手掛かりに上下屋敷が動転した原因を見破った未稲は「ほっほ~う」と如何にも芝居がかった調子で両の眉を上下に動かしている。訳知り顔となった拍子に丸メガネが鼻から滑り落ちそうになり、右の人差し指一本で定位置まで押し上げられたが、この小さな仕草もわざとらしいのだ。
「いやぁ~、ラブコメだねぇ、青春だねぇ、照ちゃん。普段はツッパッてるコが好きな人の前で乙女心をポロッと漏らしちゃうシチュエーション、私も大好物だよ。今、ちょっとキュンと来ちゃったもん」
「ンなッ⁉ ……ば、ばば、ばばば、ばっきゃろォう! い、今のはそーゆーんじゃなくてだなぁ!」
「じゃあ、どーゆーコトかな? 私、清純派だからいけない過ちなんて言われても分っかんないなぁ~? 照ちゃん先生、詳しく教えて?」
「て、てめッ、未稲ェッ!」
未稲から揶揄された憤激と羞恥が入り混じった上下屋敷は瞬く間に全身が沸騰し、顔と言わず頭と言わず蒸気を噴き出しそうであった。
「て、てめーだって思いっ切りラブコメだったじゃねーかっ! アマカザリからブチギレた理由を聞かされたときのこと、想い出してみやがれってんだ! 両目がハートになってたぞ! 少女漫画か、てめーらッ!」
得意になって畳み掛けていたところへ強烈な
改めて詳らかとするまでもなく、キリサメが秋葉原の中心部で『
どのような事情があるとしても、リングを離れた場所での
現時点では『サムライ・アスレチックス』から
しかし、乙女心も黙ってはいられない。『
「――後先を考えなかったことは間違いないよ。言い訳はしない。だけど、みーちゃんが危なくなったときに自分の将来なんか考えてはいられない。今度また同じことが起きても僕は迷わないよ。みーちゃんを守る為なら僕は何度でも『
おまけに口説き文句のようなことまで添えられては一溜まりもない。手鏡で確かめることはなかったが、上下屋敷から指摘されたようにその
何しろ乙女心をときめかせる
「――それってまたノコギリを振り回すって意味? サメちゃんの
そのときにも寅之助はキリサメが抱える問題点を指摘したのだが、脳が蕩けそうな未稲の耳には届いていなかった。
「しょ、少女漫画みたいっていうけど、あんな破廉恥な真似はしてないよ! それを言うなら照ちゃんこそ
「ちょ、ちょっと待てよ! 最近の少女漫画ってそんなカンジにアレなのか? ……もう一つ待った。この服が何だって? は?
「深夜放送のアニメにもなったパソコンゲームの制服だよ! 知らずに着てたの⁉ その花びらみたいなスカートが
「寅ァッ!」
赤熱としか
「サメちゃんはさ、腕力に訴えて不都合を引っ繰り返すことに慣れ過ぎてるよね。
「……育ちが悪くて、すまなかったな」
「月並みな言い訳で自分を誤魔化していないで、もっと現実を見なよ。
感情の宿らない瞳で睨み返されても怯むことなくキリサメが抱えた問題を追及する寅之助の耳には、
「そりゃあ〝プロ〟の選手だって状況によっては場外での正当防衛も認められるだろうけどね、相手の目を容赦なくブチ抜いたら世間の皆サマはどう見るかな?」
「……その懸念には同意しますね。屋上庭園で斬り結んでいた折にアマカザリさんとぶつかったのは自分ですが、仮の他の
「おやおや~? 想いも寄らない援軍が来ちゃったよ。そうそう、このバカデカいノコギリの取り回しって意味でもサメちゃん、アブないコトばっかりやってたもんね」
「……自分は客観的な意見を述べたまで。別に味方をしたわけではありません」
言動の一つ一つが危うい寅之助を警戒し続ける大鳥であるが、真っ当と思える見解は感情を差し挟むことなく認めるようだ。
一度だけ首を頷かせ、寅之助への同意を示した大鳥から目を逸らし、誰にも聞こえないくらい小さな呻き声を洩らしたキリサメは、そのまま口を真一文字に結んでしまった。
大鳥が想像として述べた
希更から事態の収拾を託されたマネージャーが〝鬼ごっこ〟に追いついたのは最終盤であり、屋上庭園以外の場所に
我を忘れて『
「腕力に訴えて不都合を引っ繰り返すことに慣れ過ぎだよ、サメちゃん。ここはね、もう
「偉そうにペラペラ語ってるがよ、その〝プロ〟の資格とやらがブッ飛びそうになったのは
もう一度、念を押すかのようにして寅之助は同じ言葉を繰り返した。
即ち、深淵の如き〝闇〟と共に心の奥底で
そこに込められた意味は極めて重い。寅之助もキリサメも、電知の差し出口に反応などしてはいられなかった。
「だからこそ、キミが振るうハズの暴力をボクが引き受けるのさ。集団ヒステリーに取り囲まれたときとか、過剰防衛になりそうな場合は人目に付かない場所でサクッと始末するから大丈夫。『八雲道場』の看板にもキズを付けない安全健全プランをご提案だよ」
「過剰防衛前提のどこが安全で健全なんだよ。キリサメのスタッフがやらかしたっつって銭坪満吉辺りが大喜びで飛び付くだろうぜ。誰が手を下したのかなんてクソみたいなマスコミどもには関係ねぇしな」
「確か『
「
「ボクがサメちゃんの剣になる。『タイガー・モリ式の剣道』が『八雲道場』に降り掛かる災難を全て斬り払えることは、他の誰でもないキミ自身が一番
「何だよ、その『タイガー・モリ式の剣道』って……。てめー、とうとう『コンデ・コマ式の柔道』までパクりやがったのかよ」
合いの手のようにもってきた電知の差し出口を丸ごと聞き流した寅之助は、帆布製の袋の内側へ納めたままの竹刀をキリサメに向かって水平に翳した。
それはつまり、狂おしいほどに執着する〝電ちゃん〟の声を黙殺してキリサメただ一人に向き合っているということだ。
当のキリサメは寅之助本人とは目を合わさず、竹刀袋の
彼の仕出かした事態の深刻さと比べた場合、この罪滅ぼしはとても釣り合うものではない。しかし、
包帯で覆われた両腕は青く腫れている。もしも、寅之助の得物が
しかし、
〝生きていてはいけない存在〟という認識も微動だにしておらず、上下屋敷とは異なる意味で一つ屋根の下での共同生活など
地に伏せる虎の刺繍もキリサメの目には凶兆としか映らなかった。これまでの悪行を振り返るまでもなく、「罪滅ぼし」や「友達」といった耳に心地良い台詞も全く信用できないのだ。何もかも嘘に聞こえる自分のことを疑心暗鬼と嘲る気にはなれなかった。
(……
〝人間らしさ〟を教えてくれた場所で暮らしながら、心の働きは地球の裏側で砂塵に晒される暴力の巣窟に引き戻されてしまう――何時までも〝闇〟の深淵に囚われたままでは未稲との誓いなど果たせるはずもあるまい。
「――こやつを傍らに置くこと、あるいはお
椅子が軋む音と共にキリサメの思考へ割り込んだのは総一郎の声であった。「看板に偽りナシってか⁉ 正気かよ、この
「お
「……コンピューターで調べて貰えば分かるかと……」
「捻くれた
「それは、……当たり前です。これ以上、迷惑は掛けられません。もう誰にも……」
寅之助を迎え入れるということは自ら毒を呷るようなものであろう。総一郎の問い掛けに頷き返しながらも、そこに秘められた意図を読み切れないキリサメは幾度も首を傾げそうになった。
当の総一郎は
「こやつの行状、疑い始めれば
「……今の僕には寅之助を心から信じることは難しいです」
「
「藪氏の言葉を借りるようで申し訳ないのですが、……同じ過ちはもう二度と繰り返したりしません。寅之助から何を言われても、どんなことをされても決して……!」
「もはや、こやつに引き摺られることはないと申すのじゃな? 結構結構。されど、その自信はどこから来るのじゃ? いや、細かい男と笑ってくれるな。医者の性分ゆえ原因が確定せぬとなかなか安堵できぬのじゃよ」
「結局、寅之助と僕は似た者同士ですから――」
そこまで話して言葉を区切ったキリサメは刹那ほどの短さで寅之助を一瞥し、次いで総一郎に視線を戻すと、今度は自分のほうから彼の双眸を覗き返した。
言葉を交わす内に総一郎の真意が自然と脳裏に浮かび、不可思議と思えるくらい馴染んでいったのである。他者から受け取ったものにも関わらず、心の片隅に初めから存在していたかのようであった。
「寅之助とは似た者同士」という一言を自ずから発し、強く念じるよう総一郎に導かれたとも言い換えられるだろう。誰かに諭されて意識を向けるよりも自覚という形で見出したモノのほうが心を大きく振幅させるのだ。
「……寅之助を抑止力にする――と仰りたいのですね?」
前髪の向こうに覗く眉間に何本かの皺を寄せているキリサメに対し、総一郎は口の端を吊り上げることで答え合わせに代えた。
「要するに邪悪な
「……キリン? 日本に来て半年も経っていないので、藪氏が何を仰っているのか、僕にはさっぱり……」
「なんじゃい。最も通りが良いと思ったのじゃがな」
総一郎が例に引こうとしたのは日本を代表する名女優と伝説的ロックスターの結婚生活である。
夫のほうは破天荒を絵に描いたような人物であった為、一度や二度ではない女性問題や逮捕など傍目には順風満帆とは見えず、実際に四〇年もの間、別居し続けることになったのだが、それでも離婚にしなかった理由を
それを悪と見なして否定してしまったら何も生まれない――
「人間という生き物は面白いものでな、己が恐れるモノに限って他者に見つけてしまうのじゃよ。己が隠しておきたいもの、己でも持て余しておるものばかり他者という鏡に映り込むわけじゃ。それが為に己と似通う人間に苛立ち、目を背けるだけでは足らずに鏡まで割ろうとしてしまう……尤も至極よ。恐れ慄くモノが己を見下ろしておるのじゃからな」
「今日の僕みたいにですか?」と喉から飛び出しそうになったキリサメは、これを飲み下すべく慌てて口を噤んだ。
敢えて聞き返すまでもなかった。顔面に刻まれている数多の皺が
キリサメ・アマカザリという暴力の申し子だけでなく、先程の尋問では誰も言及していなかった寅之助の〝闇〟にも勘付いているはずだ。見据える相手は依然としてキリサメであるが、紡ぎ出される言葉の数々は寅之助にも当て嵌まるのだった。
「我執、超克、憧憬、解脱――身の丈を超えるほどの大望まで人間は己以外の誰かに映してしまうものよ。しかして、そこには魂を焦がした先に待つ虚しさが映し出されておる。大望を果たした理想の在り方など見えぬ。それ故に同じ貌の持ち主を恐れるのじゃ」
「
「然り――同じ貌の持ち主を間近で眺めておる間は苛立ちが身の
いつしか電知までもが総一郎の言葉へ神妙に頷いていた。話す内容も声さえも、耳を傾ける者に深く深く染み込んでいく。
『
古式ゆかしく大仰な語り口が空疎には聞こえず、自然と耳に馴染むのは古代より現代まで歴史と共に
尤も、
つまるところ、人の心をも読み解いてしまえる賢者の佇まいは遺伝ではなく総一郎自身の経験によって育まれたものであろう。
「……身に過ぎた欲は若者の特権じゃ。それを青春と懐かしむ日はまだまだ遠かろう」
痩せぎすの体重を支える椅子が天井に小さな軋み音を撥ね返した。
言葉を区切った
「……小難しいというか、小賢しいことを随分と並べてしもうたわい。心の在り方は
「電ちゃん、聞いた? ボクってばすっかり邪悪呼ばわりだよ」
「……むしろ、
この期に及んで悪ふざけのような態度を取り続ける寅之助に総一郎の話がどれほど響いたのかは分からないが、キリサメのほうは邪悪な
(……信じられない人間のほうが効果的っていうのも、どうかと思うけどな……)
生きていてはいけない存在――即ち、
今日のような情況は、二度とは有り得ないのだ。
〝プロ〟のMMA選手にあるまじき
単純に感謝すれば良いというものでもない。今日は希更たちの尽力に助けられたが、再び不祥事を仕出かしたときには二度目の奇跡など起こり得ないと、強く念じ続けるということでもあるのだ。
その為ならば、瀬古谷寅之助という毒を呷ることもやむを得ないだろう。
(――ま、当面は好きにやったら良いよ。ボクは誰かに飼い慣らされる気はないし、変わろうとも思わないけどね)
キリサメに態度の軟化を促した話をも心の中で切り捨てる寅之助であったが、味方となり得る総一郎に敢えて楯突く必要もなく、
「コペルニクスさんもビックリな逆転の発想ってコトは何となく伝わってきましたけど、幾らなんでも無理があるんじゃないですか⁉ 先生が想像している以上にキリくんって野性味溢れてるんですよ⁉
「一つ屋根の下はダメだって何度も言ったんだろ! どうしてもっつうならオレも一緒に居候だよ、この野郎! 未稲と同じ部屋で風呂まで一緒だ! 何が何でも
「もう一つ、コペルニクス的転回が舞い降りましたよぉ。
「院長先生は仏教でいうところの〝
何やら妄想にも近いことを口走った筑摩はさておき――未稲と上下屋敷は真っ向から総一郎に反対した。具足が擦れ合う音を真隣で聞くことを嫌がり、幼馴染みとの身長差を意識しない位置まで移動した大鳥も二人には同調している。
漫画やアニメの世界から飛び出してきたものと錯覚しそうな二種類の学生服が
むしろ、当然とさえ思っている。寅之助という〝同類項〟がキリサメの抑止力となり得る根拠は先に述べた通りだが、複雑で繊細な領域への作用である為、必ずしも成功するとは限らない。確証がない以上は危うい賭けでしかないのだ。
事実、未稲と大鳥も異なる見解に基づいてキリサメたちを引き寄せまいとしながら、悪化する危険性の高さに見合う試みではないという認識で一致している。
「そもそも先生のお
「そこで山岡桃太郎を持ち出すか……」
「瀬戸内海の『鬼』と合戦したときなんて、相手が立て籠もった砦のド真ん中に死んだ馬を放り投げて伝染病を引き起こしたんですよね? 最悪な前例を知っているのに、どうしてキリくんに無茶振りするんですかっ」
「……あのな、未稲な、確かに寅も性根が腐ってるけどな、オレもさすがに馬飛ばしてバイオハザード起こすようなヤツとはな、付き合っちゃいねぇんだぞぉ?」
過去に総一郎から聞かされた話として未稲が挙げたのは、初代桃太郎率いる山岡屋と瀬戸内の有力水軍との間で海運を巡って勃発した武力衝突である。家伝『
未稲が指摘した通り、『鬼』とも畏怖される水軍の砦を攻撃した際に山岡桃太郎は大量の馬を火縄銃で撃ち殺し、その遺骸をわざと腐乱させた上で投石機に乗せたという。籠城策を内側から崩壊せしめたのである。
「桃太郎さんが馬を飛ばしたのも相棒の入れ知恵って聞きましたけど、瀬古谷さんから悪い影響を受けちゃったら、キリくん、きっと大変なコトになりますよ」
「路上の殴り合いと競技としての試合が区別できない事態を恐れておる――と? そこはお
馬産担当の協力者から外道と罵られたこの戦術は〝伴星〟こと
持って生まれた悪徳はともかくとして、その歪みから絞り出される奸計を実行へと加速させたのは、深く交わった〝伴星〟の影響に違いあるまい。
「そもそもな、儂の御先祖と比較するのは幾らなんでもキリサメ君に失礼じゃろう。借金で首が回らなくなった者に火薬と石を詰めた樽を背負わせ、『鬼』の本陣で自爆させる鬼畜外道など極端な例にも程があるわい」
未稲から言われるまでもなく、総一郎の脳裏にも初代とその〝伴星〟が
「未稲君はキリサメ君を信じ切れぬか? 何事も蹴る殴るの暴力で楽に済ませるほうに流され、溺れて終わると見えるかの? 儂の経験上、〝人間らしさ〟をすっかり失うほど堕ちる者は彼ほど心根が素直ではなかったぞ?」
「……ずるいなぁ、先生。そんな風に言われると反論できなくなっちゃいますよ」
「いずれにせよ、蠅が
「それはどうかなぁ……キリくんってば手段を選ばないトコロもあるし、似たようなコトもやり兼ねないかな~って……」
「そこまで気長な真似はしないよ、みーちゃん。敵の拠点に何かを投げ込むのならパイプ爆弾のほうが手っ取り早いし」
総一郎による説得を丸ごと覆し兼ねない物騒な発言も飛び出し、未稲は困ったように口を噤んでしまった。
答えに窮したものと見て取った総一郎から「お
「今後も連れ立って行動し続ければ、ネット上の
「手鏡扱いの次は悪党呼ばわりで、今度は真っ当な雇われ者? 今日一日だけでボクも大忙しだねぇ。さっきはサメちゃんのお嫁さんみたいに言われちゃったし」
さすがは商人の子孫というべきであろうか――総一郎はキリサメの傍に寅之助を付ける実利をも未稲たちに示していった。
(……この人、一体、何者なんだろうな……)
精神面に期待される作用と、樋口たちの計略とも結びつく有効性――二種の影響を理詰めで説いていく総一郎の横顔を眺めながら、キリサメは何とも例え難い気持ちを持て余していた。
初めて診察を受けた日も同じであった。信じ難い
亡き母も青年海外協力隊時代の旧友が日本から訪ねてきた折に同じ表情を見せたものと記憶している。
それ以来、キリサメは総一郎の眼差しから深い親愛の情を感じ取るようになった。主治医と患者という立場や長い付き合いである八雲岳との関係性も飛び越え、慇懃無礼な
ひょっとすると総一郎は
厳めしい物言いで幾つもの実例を挙げていたが、その間にも此処には居ない〝誰か〟を思い浮かべていたのかも知れない。総一郎にとってはキリサメこそが懐かしい面影を映す鏡なのだろう。
自分と同じく猛毒を呷るよう迫られた〝誰か〟なのか、あるいは総一郎が猛毒と感じる相手であったのか――普段は何事にも無感情なキリサメであるが、〝同類項〟かも知れない人物だけに興味を惹かれないといえば嘘になる。
無神経と弁えているので詮索するつもりはないが、仮に後者であったなら奥底に
一方のキリサメも総一郎の双眸に
背筋が冷たくなるような洞察力を備えた総一郎の瞳は、寅之助が陽気な立ち居振る舞いの裏に隠し持っている〝闇〟をも見抜いたが、それは〝表〟の社会で生きる者には触れる機会もないモノである。
他者の心を読み解く慧眼とはいえ、
それはつまり、藪総一郎も余人には窺い知れないほどの〝闇〟を抱えた一人という証左である。破壊の本能にも直結する
だからこそ、社会の〝裏〟を主戦場とするワマン警部や、その深淵を根城にするニット帽の日本人男性が総一郎と重なったのだ。
破壊と殺戮の衝動に飲み込まれたキリサメのように分かり易く妖気を撒き散らすことがない慧眼は、心の働きに
「――激情を溜めておく器の底が抜けているようにお見受けしましたが」
先程まで己を脅かしていた竹刀と、これを納めた帆布製の袋へ視線を巡らせたとき、大鳥から示された懸念がキリサメの脳裏に甦った。
もはや、己自身が竹刀袋に刺繍された虎の如く地に伏せるしかないのだろう。
(……頭の中身をイジられるみたいで、どうしようもなく気持ち悪いけどな――)
瞑目を挿むほど
気遣わしげな
「――ちょっと待って下さいや、総一郎のダンナァ! こんなもんが後始末になるんですかい⁉ 何のお咎めもナシたァ釈然としねぇよ! ああ、納得いかねぇッ!」
キリサメから寅之助に向けられるはずであった言葉は、突如として割り込んできた大声によって最初の一言から無残に押し流されてしまった。
第一診察室に居合わせた全員の鼓膜をまとめて痛め付ける大声からも乱入者の正体は明らかであろう。壁に叩き付けるような勢いで開け放たれたドアの向こうに立っていたのは当然の如く御剣恭路その人だ。
ドアの近くから聞こえてきた悲鳴を黙殺し、一等吊り上げた狐目で寅之助を睨み据え、「そうやってアマカザリの隙を狙おうってハラなんだろうが!」と指差した恭路の強面は何時にも増して迫力が漲っている。
尤も、狭量という言葉が〝短ラン〟を着て遠吠えしているような中身も、『
そもそも恭路は秋葉原を揺るがす大騒動の当事者――『
キリサメに向かって「オレに任せとけって! お前に指一本、触れさせるかよ!」と豪快に請け負ったのが己自身ということまで忘れ去っている可能性が高い。
「
「どうもおれには分からねぇんだけど、御剣の野郎、さっきからキリサメのことを弟分みてェに扱ってるよな? お前ら、何時の間に義兄弟の契りなんか交わしたんだよ?」
「……僕のほうが
「別に『
「二人してツッコミ入れるのはそこなのかい。恭ちゃんってば自分の持ち場を勝手に離れてるんだよ。玄関、施錠されていないんでしょ?
「るせーな! てめぇがまたアマカザリにちょっかい出すんじゃねーかって、そればっかり気になって仕方ねーんだよ! つか、その『恭ちゃん』はやめろっつってんだろッ!」
案の定というべきか、恭路は早々に持ち場から引き上げてきたようだ。
その寅之助に対する制裁の行方を恭路は全て把握している。一〇分と経たない内に己の役目に飽きてしまい、第一診察室の外で長時間に亘って聞き耳を立てていたのだ。
薄壁一枚を隔てた向こうで結論に至るまでの経緯を盗み聞きしていたようなものだが、無粋な追跡からキリサメを遠ざけるという大切な役割さえ簡単に放り出してしまえる男が更に難易度の高い
「……恭路、お
「そりゃねェッスよ、総一郎のダンナァ! 瀬古谷のクソ野郎はペルーの悪魔に雇われた刺客なんスよ⁉ アマカザリの絶体絶命なんだ! ダンナが得意だったっつう逆さ吊りの刑で悪の計画を洗いざらい吐かせましょうやッ!」
「阿呆め。仮にも院内で左様に血腥い真似ができるか。五寸釘も百目蝋燭も買い置きがないわ。……お
総一郎から目配せでもって答え合わせを求められた寅之助は、大仰に肩を竦めつつ頷き返した。
早とちりと思い込みが御剣恭路という人生の大半を占めていることに理解があるらしい総一郎は「ますます親父に似てきたのォ」と
「あやつも――『
「あ、あのクソ親父とそっくりってのだけは勘弁して下さいや! 名前を聞いただけで蕁麻疹が出ちまわァッ!」
互いの呼び名からも明白であったが、総一郎と恭路は旧知の間柄であるようだ。
長い付き合いであることも間違いなく、「入院患者は
聞き耳を立てながらも入室まで踏み切れなかったのは、身勝手に持ち場から引き上げたことを総一郎に叱られたくなかった為であるのかも知れない。
「……瀬古谷の野郎、『
「うッわぁ~、恭ちゃんってば本当に話をややこしくしてくれるなぁ。
「ウソつけ! 殺し屋一味みてェに
「ツッコミ入れるの、そこなのかい」
恭路が寅之助へ食って掛かる間に総一郎の眼差しが少しずつ変わっていった。
目付きそのものが険しくなったわけではなく、変調などは殆ど見受けられないが、瞳の奥に得体の知れない〝何か〟が蠢き始めている。
間もなく寅之助を射抜いた眼差しは
「……ちょっとした知り合いのカラーギャングから教えて貰ったんです。中野界隈でふんぞり返る『桃色ラビッシュ』って名前くらいは聞いたことがありません? 少し前にも警察沙汰を起こした
『仏捨』の二字を隊旗に掲げ、揃いの黒装束を纏っていたという集団について、これを知り得た経緯や、個々の隊士は一人として把握していないことを寅之助は皮肉の一つも交えず素直に自白していった。
隣に立つ上下屋敷をも竦ませるほど
「恭路が持って帰ったあの布切れ、何か見
パッションピンクのカラーギャングと電知たちが所属する
電知に本気で闘ってもらうことを至上の夢とする寅之助はその際に
壊滅的ともいうべき大敗後、『
上下屋敷が震える声で付け足した
「……
「……院長先生、どうして大親分の名前を――」
「――
手術直前の医師も洗浄後の清潔な状態を保つべくこうした姿勢で患者と向き合うが、総一郎の場合は真っ二つに割れた桃をそれぞれの手で持ったようにも、天秤を模った構えのようにも見える。
おそらく寅之助の目には後者と映ったことだろう。総一郎は
天秤を模った左右の手には割れた桃ではなく生命が握られている。ほんの一瞬ではあるものの、総一郎の目の下が黒ずんだように誰もが錯覚した。
「その
「……ボクは
「
「ちょっと待ってくだせェ! それじゃあ、結局、お咎めナシじゃねェッスか!
「こやつの言葉を借りるなら儂ゃ
裁定に納得できないらしい恭路は硬い音を撥ね返す靴で地団駄を踏み続けたが、総一郎当人も寅之助も、彼の喚き声など全く相手にしていない。
瞳の奥で蠢いていた得体の知れない〝何か〟も今では鎮まったようだ。
尤も、大鳥などは『
恭路本人だけでなく、彼の父親とも古い付き合いであったことが総一郎の言葉から窺えた――口に出して確認しようとは思わないが、キリサメは己の認識が他の者たちにも共有されていることを疑わなかった。
岳ともども藪整形外科医院を懇意にしている未稲は『
(御剣氏だってシャットアウトするべきなんだろうけど、……それを言い出したら岳氏が藪整形外科医院に通っていること自体、おかしな話になってしまうよな……)
商業ビルの工事現場にて寅之助へ挑みかかった際、恭路は
その最中に己の父親も
あくまでも想像のみに留めている。
もしも、得体の知れない瞳が自分に向けられていたら、心の奥底に
『
フランス
使い方次第で殺傷の
「――で、わたしは何時までここにいなくちゃいけないんですか?」
飽きもせずに喚き続ける恭路を除いて第一診察室の皆が口を噤んだ瞬間、人体の骨格標本の近くに控えていた一人の女性が己の存在感を示すように右腕を、次いで左腕を続けて突き上げた。
薔薇の花びらと見紛うほど大量のフリルをあしらったロングスカートを穿いている上下屋敷と似たような出で立ちの女性シンガーである。
秋葉原駅前で
キリサメたちの斬り合いを
もはや、一連の騒動は終息した。誰に断るでもなく藪整形外科医院を後にしても構わなかったはずだが、ときには身を刺すほど張り詰める空気に呑まれてしまい、今の今まで満足な自己主張も叶わなかったのだ。
居た堪れない気持ちを持て余したまま時間だけが無為に過ぎ、先程も暴力的な勢いで開け放たれたドアに巻き込まれそうになっていた。迷惑極まりない恭路から奪い返し、大事そうに抱えていたアコースティックギターを叩き壊されるところであったわけだ。
その女性シンガーに大鳥は恐縮した様子で陳謝し、これを一瞥した電知は「とっとと帰りやがれってんだ」と素っ気なく言い捨てた。
「わたしだって帰りたかったけど、雰囲気的に居残ってなきゃダメな感じだったじゃん。後で電知くんに『先にトンズラしやがった』とか文句言われるのもイヤだし」
「知らねーよ。ボケーッと間抜け
「そこまで言うなら『何してんだ』って一声掛けてくれたら良いじゃん。今さら言っても後出しじゃんけんでしかないよ。電知くんっていつまで経っても気が利かないね」
「ほっとけ!」
砕けた調子で言い争うということは、電知と女性シンガーが旧知の間柄であることは間違いない。屋上庭園で鉢合わせした折にも互いのことを名前で呼び付けていたのだ。
電知のほうからは女性シンガーに『
キリサメは寅之助に、未稲は上下屋敷にそれぞれ目配せでもって栩内という少女の
『
「とぉ~っても仲良しさんですけど、一体、お二人はどういうお付き合いなのです?」
傍目には気心が知れた関係としか見えない二人に強い興味を抱き、真相に迫った筑摩は想像と極めて近い
「……おれが答えなきゃいけねぇのかよ。面倒臭ェなぁ……」
「そこでウジウジするって! 肝心なトコで男らしくないなぁ。この人、わたしの元カレなんです」
「
栩内の発言を大慌てで否定し、「私とサトちゃんの遭遇も合わせたら天文学的な確率ですよね。そのレベルの再会なんて奇跡じゃなくて運命ですよぉ」と鼻息の荒い筑摩にも訂正を促そうとする電知であったが、もはや、それは後の祭りというものであろう。
藪整形外科医院は洋風柵の向こうを行き交う京島の人々が仰天してしまうほどの大騒ぎとなった。
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