その4:悪童~破魔神拳!伝説の彼方より降臨!?

 四、悪童


 金色のパンチパーマにこわもてを引っ提げ、仲間にも狂犬の如く恐れられるつるぎきょうがキリサメを長野県まで追い掛けてきたのは彼個人に殺意を抱いたからではなく、『天叢雲アメノムラクモ』ひいてはこれを主催する『サムライ・アスレチックス』への怒りが暴発した為であった。

 改めてつまびらかとするまでもないが、発端はキリサメと城渡のマッチメイクである。

 対戦相手が最初に予定されていたロシア人選手、ビェールクト・ヴォズネセンスキーから無名の新人選手へ変更となった経緯を城渡本人に教わった恭路は己が崇め奉る〝総長〟が虚仮にされたと感じて激怒し、『サムライ・アスレチックス』のオフィスへ殴り込みを仕掛けるとまで息巻いたのである。

 城渡本人も最初は樋口による侮辱と受け取って逆上したのだから、激情それが舎弟に伝播してしまうのは当然かも知れない。

 対戦相手の変更を一方的に通達された時点で恭路は暴発寸前であったのだ。そこに格闘家としての実績を何も持たない新人選手を宛がわれたわけであり、我慢の限界を超えないはずがなかった。

 その上、他者を貶める物言いで知られるスポーツ・ルポライターや『天叢雲アメノムラクモ』の試合内容を細かく分析する〝キャラクター〟――あつミヤズから引退勧告にも等しい酷評を受けた直後でもある。

 メディアによる批判をチーム内に広め、報復を焚きつけたのも恭路本人だった。


「イワシの頭も信心っつーでしょ⁉ 中身スカスカなウスラバカほどこーゆー間違ったハナシを頭から信じ込んじまう! 総長が弱ェなんてとんでもねェ誤解が広まる前に手ェ打たねーといけねェッ! 先制攻撃をブチかましてやるんスよ!」


 動画配信サイト『ユアセルフ銀幕』に投稿されたあつミヤズの動画ビデオを仲間たちへ押し付けた恭路は「こんなこと、許されてたまッか!」とV字型シェイプのエレキギターを怒りに任せて掻き鳴らしたのだ。

 その勢いに呑まれた暴走族チーム『武運崩龍ブラックホール』の面々はことわざの引用が大きく誤っていると指摘することも忘れて共にとうと頷き合ったのである。

 銭坪満吉には日本MMAの〝不良債権〟とまで扱き下ろされている。これに同調したかのような『天叢雲アメノムラクモ』の決定を黙って見過ごせるはずもなかった。

 このときには城渡当人と二本松が二人掛かりで押し止めた為、恭路たちも暴発には至らなかった。そのまま時間が経過すれば自然と怒りも鎮まっていったはずなのだが、る人物が引き金となって事態は急展開を迎えた。

 それは城渡とも親しい日向ひなたすけという青年がバイク屋へ来訪したことから始まった。

 自分より僅かに年上の青年のことを恭路は以前から毛嫌いしている。定職にも就かず、ただひたすら自らの趣味へ打ち込む姿勢が〝硬派〟を自負する彼には癇に障るのだ。

 馴れ馴れしく話しかけられるたびに不愛想な態度で追い払う程であったが、その日だけは例外的に小日向の言葉へ耳を傾けた。彼は城渡に対して対戦相手キリサメの新たな情報をもたらしたのである。

 何でも小日向はキリサメと同じ殺陣道場の体験会ワークショップへ参加したそうだ。

 店内のホウキを借り、パイナップルの葉のような形に固めた頭髪を揺らすくらい大きな身振りで小日向が再現したのはくだんのワークショップでキリサメが披露した古代インカ帝国のけんであるという。

 実演の精度が低すぎるので傍目にはデタラメに棒切れを振るっているようにしか見えないだろうが、キリサメ本人は剣舞の為だけに『マクアフティル』と呼ばれる古代のつるぎまでわざわざ持参したのだ――と、小日向は興奮した調子で語った。

 キリサメは中世ヨーロッパにも現存しないだろう『聖なる剣』を振るったらしいが、その話を聞くと小日向の奇天烈な動作うごきまで神秘的に思えてくるから恭路には不思議だった。

 船のオールにも見える木製の『聖剣』は表面に古めかしい紋様まで刻まれていたという。


「インカ文明の剣術なんざ聞いたこともねぇが、……やっぱり〝何か〟カジッていやがるんだな、あのガキ」

「俺っちはアレこそインカ帝国の殺人奥義じゃねぇかってニラんでるんですよ。手合せして分かりましたけど、マジで只者じゃないッスよ。手も足も出なかったくらいだし」

「……フン――腐っても統括本部長か。ただのガキを引っ張っちゃこねぇわな」


 小日向の話を聞きながら、城渡総長はマッチメイクの場で相対したキリサメ・アマカザリのことを思い返している様子だった。格闘家としての実績は持たずとも、拳の握り方すら知らない本物の素人でないことは感じ取っていたらしい。

 無論、これは恭路の頭の中で捏ね繰られた想像であって本人に確かめたわけではない。だが、総長の浮かべた好戦的な笑みに嫉妬を覚えたこともまた事実である。

 拳を交えてもいない内に城渡総長から力量を評価されるなど不遜も同然であろうと、恭路の心は荒れ狂った。


「それにしても何で殺陣の道場なんだ? 『ダン・タン・タイン』みてェなアクション俳優と二足の草鞋でも狙おうってのかよ。八雲の入れ知恵に違いねぇだろうが、意味が分かんねェな」


 当の総長はMMAのトレーニングに殺陣を取り入れるという発想に小首を傾げる程度であったが、キリサメが『華斗改メかとうあらため』のワークショップへ参加した事実に恭路は腹が立って仕方なかった。

 総長が口にした『ダンタンタイン』とは『NSB』に所属するベトナム人選手である。

 総合格闘家として活躍する一方、本業は映画俳優と公言してはばからず、一歩でも間違えば生死に関わるほど危険なアクションシーンもスタントを用いずにやってのけるなど三〇歳の若さで世界的スターとしての地位を不動の物にした傑物であった。

 新人選手ルーキーの分際で最初から兼業を模索しようとする姿勢は、まさしく城渡総長を侮っている証拠であろう。マスメディアによって捏造された事実無根の情報を信じ込み、俳優業の片手間でもKOノックアウトできると見下しているのだ。

 妬ましいくらい力量を認められておきながら自分では城渡総長を侮り続けるキリサメに恭路は腸が煮えくり返っていた。独りで勝手に敵愾心を膨らませていた。


「八雲さんにも色々考えてるみたいッスよ。今週末に『まつしろピラミッドプロレス』がすがだいら高原で張るっていう強化キャンプにも参加するんじゃないかなァ」

「あ~、八雲がコーチやってるっつう社会人プロレスだっけ。鬼貫さんトコの店でもたまに興行やってんだよな。オレ、一度も見たコトねぇや」

「俺っちもバイト入ってて見逃しちまったんスけど、ついこの間もやったんスよ。そのときに花形レスラーが肉離れ起こしたっていうんでホームページ覗いてみたら、完治記念だか何だかでキャンプやるぞーってね」

ナマった肉体からだは痛めつけてこそ本調子になるけど、そんな簡単に完治する肉離れならそもそも大したコトねぇな。つーか、怪我だって筋書きシナリオの内なんだろうがよ」

「そいつは言わないお約束ッスよ~」


 『天叢雲アメノムラクモ』に対する憤慨を総長から押さえ込まれ、ずっと燻り続けていた恭路の目に小日向は救いの神のように映っていた。

 つまり、長野の地方プロレス団体が合宿を行っている日にすがだいら高原まで押し掛ければ、城渡総長の対戦相手に接触できるということである。

 こうなったからにはキリサメ・アマカザリが本当に城渡総長への挑戦権を有しているのか、自らの手で試さなくてはならなかった。聞けば、『サムライ・アスレチックス』は契約に当たって試験テストすら課さなかったというではないか。

 城渡を倒したいのであれば、自分たち『武運崩龍ブラックホール』を先に退けなければならないのだと『天叢雲アメノムラクモ』に――否、日本全国に示す覚悟であった。

 小日向はキリサメという少年について『インカ帝国にルーツを持つ殺人拳の伝承者』と評していた。ひょっとすれば死闘の果てに命を落とすかも知れないが、偉大なる男へ殉じることができるのなら、それこそ本懐というものだ。


「先立つ不孝を許して下さい、総長……ッ!」


 小日向と城渡総長との雑談に出てきた四月最後の土曜日――その夜明け前に書き置きだけを残し、恭路は『ガンドラグーンゼロしき』へ跨った次第である。

 湘南から信濃を目指して出発した時点では『まつしろピラミッドプロレス』の合宿に八雲岳が参加する確証があったわけではない。ましてやそこにキリサメが同行する確率など全くの未知数という有りさまだ。

 小日向が雑談の中で述べた根拠のない予想を鵜呑みにする思い込みの激しさと、元気があれば何でもできると言わんばかりの行動力が恭路を衝き動かしているのだが、それは無軌道としか表しようのない暴走であった。

 彼が道路地図ロードマップを忘れてきたことに気付いたのは首都高を抜けて上信越自動車道へ入った頃である。城渡から追及されないよう電源を落としているので、携帯電話ガラケーで目的地までの経路を検索することもできない。

 あちこちのコンビニで地図を借り、何度も道を間違えながらすがだいら高原に入ったのは日暮れ間際のことであった。

 そして、山の日没は早い。到着から間もなく夕焼けは星空へと塗り替わり、『まつしろピラミッドプロレス』の合宿先を突き止めることさえ叶わないまま暗闇の山道を彷徨う羽目になったのである。

 一度ひとたび、迷ってしまうと遭難の可能性が高いすがだいらを恭路は何周も走り回った。万策尽きた果てに奥ダボスへと続く一本道に入り込み、そこで標的キリサメと邂逅したのだ。

 恭路はキリサメの顔すら定かにはおぼえていない。『天叢雲アメノムラクモ』長野興行を取り上げた衛星放送の格闘技番組『パンプアップ・ビジョン』の中で八雲岳の家族とおぼしき少年がカメラへ移り込んだのだが、これを目にした程度である。彼がキリサメ本人であることすら確かめていない。

 それでも恭路は〝龍の口〟より迫り出したヘッドライトがキリサメの顔を照らした瞬間にハンドルから右手を離して夜空へ拳を突き上げた。

 かおかたちは定かには記憶していなかったが、『眠れる獅子』ともたとえるべきくらい双眸だけはどうあっても忘れようがない。これをもって己が挑むべき標的と確信したのである。

 かつての知り合いも同じようにくらい瞳をしていたのだ。

 今でもまぶたの裏に思い描けるもう一匹の『眠れる獅子』――その幻像まぼろしから溢れ出す〝闇〟が標的キリサメに導いてくれたのだと恭路は信じて疑わない。


(……〝あの人〟と違ってクソ親父のはドブみたいに腐っちまったけどな……)


 不意に甦った忌むべき記憶と共にキリサメを轢き殺すべく恭路は〝ゾク車〟の前輪を高々と持ち上げ、問答無用の突撃を敢行した次第であった。

 この瞬間、恭路は本気でキリサメのことを車輪の下敷きにするつもりだった。地上最強と信じて疑わない城渡総長の対戦相手に相応しいか否か、これを確かめる為ならば己が罪に問われることも厭わなかった。


「――本物のおとこってモンを教えてやるぜッ!」


 総長に向けられた侮辱は我が身をもって拭う――その覚悟おもいでキリサメに挑んだ恭路はすがだいら高原の片隅で夜明けを迎え、現在いまは同地で美化活動に

 彼が乗り込むつもりだった『まつしろピラミッドプロレス』の特別強化合宿は一泊二日のスケジュールであり、最終日は午前中までトレーニングを行ったのち、昼食を挟んで山荘の清掃と近隣のゴミ拾いを実施することになっていた。

 二日間、世話になったすがだいら高原へ参加者総出で恩返しするわけだ。

 『まつしろピラミッドプロレス』は地域貢献の思いがとても強く、街頭のゴミ拾いや募金活動、安全運転の呼びかけなど様々なボランティア活動にも積極的に取り組んでいる。災害時には物資搬送などに従事することもあった。

 これもまた〝地方プロレス〟を冠する団体にとって重要な活動なのである。合宿最終日の昼食を炊き出し形式にし、すがだいら高原で暮らす住民ひとたちへ振る舞ったのも地域貢献の一環だ。

 キリサメたち外部参加者は全員が東京在住だが、『まつしろピラミッドプロレス』の方針や奉仕活動に反対する理由などなく、協力も惜しまなかった。

 人のことを不意打ちで轢き殺そうとする二〇歳はたちの高校生と同じように無法者アウトローめいた態度を取ることが多い為、こういった状況下で最も不満を漏らしそうに思われていた電知であるが、意外にも彼は誰より張り切っていた。

 参加者を二手に分けることになり、電知はカリガネイダーたちと共にゴミ拾いの担当に回ったのだが、彼は先頭を切って空き缶などを拾い、交通の邪魔になるほど大きな枯れ木は指示に従って道端まで片付けていった。

 隣に立つキリサメは最初こそ珍しいこともあるものだと目を丸くしていたが、彼の一本気な性格を想い出した途端に合点がいった。敵とした相手には私刑リンチも辞さない一方で根は大真面目なのである。

 それ故に視野狭窄となってしまうこともあるのだが、現在いまはそれを愛嬌として受け容れられるようになっている。しゃかりきになって働く電知の後姿を頼もしそうに眺め、キリサメも透明なゴミ袋を担いだ。右手にはステンレス製の火バサミも持っている。

 外部参加者である電知に負けじと他の面々レスラーも張り切り、清掃は大いに捗った。山荘の付近からは間もなく紙ゴミ一つなくなるだろう。


「つーか、どうしてオレがこんなコトしなくちゃなんねーんだよ⁉ ギターを掻き鳴らすのは処刑開始の合図だっつったろ⁉ 警察上等法律無用のブッちぎりバトルがインテリヤクザの詐欺紛いな手口で社会へのご奉仕にすり替わったとでも言うのかよ⁉ 誰か、納得いく説明しやがれ! ちなみに『ご奉仕』って言葉は破廉恥おピンクな意味で嫌いじゃねェッ!」


 電知と同じく野卑な振る舞いを見せてきた恭路のほうは凶暴そうな面構えの通り、中心部と奥ダボスを貫く一本道の真ん中で美化活動へ鬱憤を爆発させた。

 V字型シェイプのエレキギターから持ち替えさせられた火バサミを地面に叩き付け、撥ね返った小石で顔面を強打し、その場に蹲った恭路は降り掛かる災難の全てがキリサメの所為せいだと毒づく有り様だった。

 本物のおとこなどと口先だけは勇ましい恭路と、軍手でこすった鼻先が汚れても構わずにすがだいら高原へ礼を尽くす電知は全く正反対である。

 自分の置かれた状況に我慢ならない様子の恭路に対し、カリガネイダーは呆れ返ったように肩を竦めてみせた。


「私にだってキミくらいと同じ年頃があったから気に喰わないコトは八つ当たりで発散したくなるのも分からんでもない。しかしだね、城渡さんから〝償い〟を命じられたのは誰でもないキミ自身だろう? それを放棄するのはキミの為にならないのではないかな」

「ぬぐッ――あ、足元見やがって、クソったれめがッ!」

「自分の足元に墓穴を掘ったのは誰だったかね」


 カリガネイダーから城渡の名前を突き付けられた途端に恭路は悔しげに呻き、比喩でなく本当に頭を抱えてしまった。

 己の全てをなげうってでもいていくと決めた名前である。他者ひとの口から紡がれただけとはいえ、逆らうことなどできようはずもなかった。


「マジやってらんねぇっつの! こうなったのも全部、アマカザリの所為せいだぜ!」

「そこでキリサメ君に当たるのは幾らなんでも筋違いだろう。キミの場合は菅平ここに現れる前から筋違いなコトを続けていたようなものだ。何もかも身から出た錆だよ」

「オレだけはスジ通してるだろ! てめーら、おかしいんじゃねぇか⁉」


 不条理という言葉が服を着て歩いているような恭路の扱いにはさしものカリガネイダーも困ってしまい、助けを求めるようにキリサメと電知を順繰りに見つめた。


「……おれ、こんなメチャクチャだったの?」

「少なくともバロッサ氏を狙った理由だけは同レベルだよ」

「くそう、反論できねぇのが痛いぜ」


 『天叢雲アメノムラクモ』の選手へリングの外で攻撃を仕掛けた電知も常軌を逸してはいるが、〝金儲けの興行イベント〟の為に己の理想である伝説の柔道家――前田光世コンデ・コマの名をけがされた怒りという点にいては道理が通っていた。

 世界最強という見果てぬ夢を目指さんとする意志の強さが本物であることもキリサメには伝わってきた。今より一歩でも強くなる為、死の危険にも敢えて飛び込んでいく勇気は簡単に真似できるものではないだろう。

 希更襲撃の是非はともかくとして、格闘技への愛は誠実そのものなのだ。

 恭路の場合はそれら精神こころの芯とも呼ぶべきモノが抜け落ちているように思える。

 遭遇から一晩が経過した今も彼については不明瞭なことが多い。それ以前に思考あたま構造つくりからして理解不能なのである。大弱りといった様子で腕組みするカリガネイダーにも答えようがないわけだ。

 恭路にとっては『総長へ報いる』という一念こそ精神こころの芯であり、彼なりの誠実さであろうが、今のキリサメたちには城渡の存在を口実にして無分別な『暴力』を愉しんでいるようにしか見えなかった。

 事実、物に当たらなければ憂さ晴らしの一つもできないようだ。道端に転がっていた空き缶を乱暴に踏み潰し、「次はお前がこうなる番だぜ、アマカザリ!」などと口走る恭路の姿に電知は何も言えなかった。

 人間ひととしての器が余りにも小さい青年と自分との間に似通う部分があるという事実は、打撃などとは比べ物にならないくらい電知を叩きのめしていた。

 一方のキリサメも昨夜の出来事が頭痛と共に蘇っており、カリガネイダーと顔を見合わせながら首を横に振るばかりである。


 『ガンドラグーンゼロしき』――龍に見立てた〝ゾク車〟のヘッドライトが夜の一本道を照らす中、キリサメは恭路を迎え撃つ羽目になったのだが、それは何とも例えようのない珍事であった。

 先手は恭路である。激情に任せてアスファルトの地面へ叩き付け、そのまま暫く足元に転がしておいたヘルメットをキリサメの顔面目掛けて蹴り飛ばしたのだ。

 一個の弾丸と化したヘルメットをキリサメが片手で弾いたとき、恭路は勝利を確信していた。飛び道具自体が相手の姿勢を崩し、また正面に注意を引き付ける為のフェイントなのだ。

 夜風を裂いて飛ぶヘルメットを追い掛けるように間合いを詰める最中、彼は先程まで奏でていたV字型シェイプのエレキギターを両手でもって大きく振りかぶった。

 フェイントの一つも見破れない雑魚に総長と闘う資格などあるものか――恭路の目にキリサメは城渡総長とは釣り合わない大間抜けとして映っている。


「――からたけわりでんとがよみ』! 縦打ち場外ホームラン、カァッキィィィィィィンッ!」


 六弦を軋ませるほど強くネックを握り締め、意味不明な吼え声と共にエレキギターのボディを振り落とす恭路であったが、キリサメの残像すら捉えることが叶わず、結局はアスファルトを叩くのみに終わった。

 飛び道具を用いたフェイントなど貧民街に巣食う強盗の常套手段である。これに慣れ切っているキリサメには驚くほどのものでもなかったわけだ。その上、恭路は突進する直前にエレキギターを振りかぶっており、真の狙いが一目瞭然という有りさまだった。

 他者を大間抜けと嘲笑う本人に同じ蔑称よびなが撥ね返った次第である。身をかわしたキリサメをすり抜けるように急降下していった木製のボディは見るも無残に砕け散り、金具による拘束から解き放たれた六本の弦は甲高い音を立てて夜空を裂いた。


「てめー、人のギターになんて真似しやがる! 弁償させるぞ、コラァッ!」

「……はあ?」


 この怒号を浴びせられた瞬間からキリサメには御剣恭路という人間がいよいよ分からなくなった。

 V字型シェイプのエレキギターが壊れた原因は誰の目にも明らかである。それにも関わらず、当の恭路は自分こそ被害者だと主張を始めたのだ。自棄を起こして開き直ったのではなく、本気でキリサメの所為せいと思っているような剣幕だった。


「こんな風にギターを叩き付けたら壊れるに決まってるだろう」

「ギターは叩き付けてナンボだろが! 『ロンドン・コーリング』も知らねぇのかッ⁉」


 支離滅裂な発言は留まることを知らなかった。

 恭路が口にした『ロンドン・コーリング』とは英国のパンクロック・バンド、『ザ・クラッシュ』を代表するCDアルバムのことであった。メンバーであるポール・シムノンがステージ上で弦楽器を叩き壊す写真がジャケットを飾り、大反響を呼んだのだが、彼はそれを模倣したというのだろうか。

 尤も、写真の中の弦楽器はベースギターであって恭路が携えてきた物とは種類が違う。ましてやポール・シムノンは縦一文字の攻撃をかわされたわけでもないのだ。


「……ギターはくものだろ」


 キリサメの正論ツッコミは極めて冷静だった。電知とカリガネイダーも全く同じ言葉を彼に合わせるようなタイミングで紡いでいた。

 三人掛かりで責められたと感じたらしい恭路は「てめーらにはパンクロックの何たるかが分かっちゃいねぇんだ! 世の中全部に逆らってなきゃ生きてる価値もねェ!」などと喚き散らし、腹癒せとばかりに壊れたエレキギターで電知たちを狙った。


「喰らえ、ばしりのでん――『かみぎよめ』だァッ!」


 恭路はアルファルトの路面にエレキギターの残骸を滑らせることで二人の足元を脅かそうとした。

 尤も、意味不明な雄叫びを終えるまで攻撃に移らず、また動作もやたらと大きいので投擲を試みていることはすぐに見破られた。破損箇所を更に増やした残骸が散開し終えた二人の間をすり抜けていき、やがて道路と隣接する畑に埋まった。


「同じ緊急回避にしたって、そこはせめてオレのほうへ飛び込むカンジでジャンプだろうがよ! 対空の『くうじん』で撃墜おとされるまでが黄金パターンじゃねぇかよ!」


 負け惜しみじみた怒鳴り声を聞き流しながら、キリサメは隙だらけで地団駄を踏む恭路に拳一つを繰り出すこともなく首を傾げていた。

 目の前の青年は言動だけでなく戦い方までおかしい。城渡の一番弟子を称していながら『天叢雲アメノムラクモ』のリングで彼が見せた様式スタイルとは似ても似つかないのだ。いざというときには総長の盾となる親衛隊長らしいが、そもそも〝実戦〟を経験しているのかも疑わしい。

 エレキギターの残骸は手元に残してこそ役立つのであって、飛び道具に使うという判断は有効な武器を自ら放り出す愚行にも等しい。

 壊れたボディで殴打すると見せ掛けておいて、六本の鞭と化した弦で双眸を狙えば相当な脅威となるだろう。何しろ〝龍の口〟がくわえたヘッドライトくらいしか足元を照らす物がない状況なのだ。後方に一本だけ立つ照明器具はやや遠く、ここまでは届かない。暗闇の只中では細い弦を視認することなど不可能に近かった。

 素手の人間に武器を持って襲い掛かること自体はキリサメも咎めるつもりはない。格闘技の〝試合〟ではないルール無用の〝戦い〟にいてはあらゆる手段が有効であり、自分自身も電知と対峙したときには鉄パイプを握ったのだ。

 どうせ武器を持つのなら、もっと巧く使えば良い――上等なラグビーボールを手に入れておきながらもそれを巨大なアーモンドと勘違いしてチョコレートで包んでしまうとんちんかんを見ているような気持ちになってきた。


「キリサメ狙いかと思いきや、全方位にケンカ売るつもりかよ。そっちがその気なら、お望み通りにしてやらなきゃいけねぇわな」

「ここは僕が引き受けるよ、電知。元々、この男の狙いは僕みたいだから」

「そりゃあ、この程度のウスラバカならキリサメ一人で十分だろうけどよぉ、囲んでシメちまったほうが手っ取り早くねェか? なァ、公務員のおっさん?」

「物騒な相談を青少年育成へ力を注ぐ人間に持ち掛けないでくれたまえよ、キミ」

「ベチャクチャとなァにお喋りしてんのかと思ったら本人目の前にして陰口三昧ィ⁉ どこまでもイイ度胸してやがって! どいつもこいつも極刑強制執行だかんな! まずはキリサメ・アマカザリ! 次に覆面野郎! シメにチビ! 順番にヤキ入れてやるから首の皮一枚繋げて待ってやがれッ!」

「何故に電知君より私の順番のほうが先なのか、納得できる説明を願おうか。それより何より『首を洗って待っていろ』と言いたかったのかね? 首の皮一枚は先走りも良いところだし、自分でそんな真似ができるわけないだろう」

「こ、細かいコトをグチグチ突っつくな! 図体ばっかしデカくて器は一〇〇円均一ひゃっきん薄利多売パターンか⁉ モテてデキる男はキズモノだって一番星オンリーワンだぜ⁉」


 キリサメが自分のことを侮って加勢の申し出を断ったものと考えた恭路は金色のパンチパーマを掻き毟って唸り、次いで〝ボンタン〟のズボンより取り出した武器を両手に装着していった。

げんでん――『ひじりがさね』を喰らわせてやる! 残虐ファイトを絵に描いた乱れ打ちに何発耐えられるか見物だぜ!」


 例によって例の如く掛け声のように聞こえなくもない雄叫びを引き摺りながらキリサメに殴り掛かった恭路は両手に拳具ナックルダスターを装着していた。親指を除く四指に嵌め込み、拳の前面を金属で覆う武器であり、『メリケンサック』なる俗称でも広く知られている。

 耳のような形状の把手を掌中へ握り込むことで力を込め易くなり、生身に渾身の一撃を受ければ骨を砕かれるかも知れない。

 何しろ今はデビュー戦を目前に控えた大事な時期である。骨折だけは絶対に避けなければならず、いざというときには己を盾に代えてでもキリサメを守ろうと身構えるカリガネイダーであったが、間もなくそれが取り越し苦労でしかないことを悟った。


「おっさんがリキむ必要はねぇぜ。さっきも言ったろ? キリサメ一人で十分だってな」

「そのよう……だな……」


 電知の苦笑いに釣られて、カリガネイダーは覆面プロレスマスクの上から困ったように頬を掻いた。

 真鍮色に煌めくナックルダスターが〝ゾク車〟のヘッドライトを反射すると夜空に炎の塊がぜたように見える。あるいはがねいろの花とでもたとえるべきであろうか。

 恭路はおとぎ話の『花咲か爺さん』のように高原の夜空を美麗な花々で彩っていた。

 それはつまり、絶え間ない猛攻が一撃たりとも命中していないことを意味している。


「ガードがお留守だぜーッ!」


 両手をだらりと垂れ下げているキリサメの姿から防御の基本すら満足に体得していないと考えた恭路は横薙ぎの右拳が避けられるや否や腰を大きく捻り込み、地面を擦るような恰好で対の左拳を突き上げていった。

 がねいろの光線がアッパーカットを追い掛ける様は目を奪われるほど美しいが、結局はキリサメの身を抉ることもなく夜空に虚しく掻き消えていった。

 キリサメは防御の基本を疎かにしているわけではない。恭路と相対する場合に限ってはその必要性を感じないだけである。

 げんでんひじりがさね』という意味の良く分からない宣言以来、恭路は飽きることもなく左右の拳を繰り出し続けており、その執念だけはキリサメも認めざるを得なかった。

 だが、いずれの技も身のこなしが無意味に過剰なのである。拳を放たんとする寸前まで引き付けても回避が間に合うほど速度で劣るのならば、仰々しい動作や雄叫びなどは本末転倒であろう。

 これはエレキギターを用いた攻撃にも共通することである。だからこそ、キリサメは猛攻に晒されながらもカスリ傷一つ負っていないのだ。


でんは続くぜ、どこまでも――お次は『なのさか』! 懐が甘ェぜ!」


 アッパーカットまでかわされても追撃を諦めない恭路は、身体を大きく開きながら右足を水平に突き出す蹴り技へと変化した。合金製の拳具ナックルダスターを装着した両拳よりも数段重い音で風を裂いたのは、革靴の内部に鉄板でも仕込んでいるからだろう。地団駄を踏んだときにも耳障りな異音おとが響いたのである。

 電知と共に希更を取り囲んだ上下屋敷も靴底に鉄板を挟んでいたが、恭路は同様の箇所だけでなく甲部や爪先まで強度を高め、革靴そのものを一個の凶器と化したらしい。

 鉄板の上から黒革を張ったような靴で蹴りなど打ち込まれようものなら防御ガードの上からでも骨を粉砕されてしまうだろう。

 キリサメの懐から耳障りな音が聞こえてこないのは、つまりはである。


(……自分の間抜けを思い知らされるようで落ち着かないな……)


 命中率を著しく損なう大振りな攻撃を避けながら、キリサメは電知と拳を交えた夜のことを振り返っていた。路上戦ストリートファイトの最中に自分の喧嘩殺法わざを『素人同然の力押しばかり』と揶揄されてしまったのだが、彼の目には今の恭路と同じように見えていたのだろう。

 以前にペルーで知り合った人間にも「一撃必殺狙いがパターン化してる。手数も乏しいし、良くも悪くも単調シンプル」と弱点を指摘されたのだが、それと同じことが『あらがみふうじ』なるモノを振るう恭路にも当てはまるのだった。

 人の振り見て我が振り直せ――亡き母から教わった日本のことわざが脳裏をよぎった。


の伝説拳『あらがみふうじ』にここまでいてくるなんざ、思ってた以上にみてーだな。ちと考えを改めなきゃいけねぇか――」


 渾身の蹴りもくうを切り、これによって急激に体力を消耗してしまったのだろう。一度、後方に飛び退いた恭路はパンチパーマから溢れ出した汗を〝短ラン〟の袖で拭った。

 呼吸も乱れ切っているのだが、どういうわけか、口元には不敵な笑みを浮かべていた。

 数え切れないほど四肢を振り回したにも関わらず、一度たりとも命中させられていないのだから、相手との力量差を思い知って顔面蒼白になっていてもおかしくないだろう。

 それなのに恭路は遥かな高みからキリサメを見下ろすような態度を崩さない。


「――半分合格ってコトにしといてやるよ。とりあえず、城渡総長の前に立つ資格だけは持ってるらしーからな。本物のド素人だったらマジ轢き殺して畑に埋めて、高原野菜と一緒に生やしてやるトコだったぜ」


 がねいろの花々が夜空にぜる猛攻を凌いだことによって、恭路は目の前に立つ少年キリサメが城渡総長と同じ戦場へ臨むだけのだれであると初めて認めたのである。

 あたかも上位者が自分より劣るであろう人間に試練を与え、その結果を褒め称えるかのような口振りではないか。自分一人で勝手に納得し、胸を反り返らせて高笑いする恭路に呆れ果てた電知は、もはや、皮肉を飛ばす気も起らなかった。

 余りにも尊大だった。そして、それは大いなる勘違いでもあった。慢心もここまで極まれば一つの持ち味であろうと、カリガネイダーは妙に感心してしまっている。

 その大いなる勘違いを相手にしなくてはならないキリサメは、前言を翻して今からでも傍観者二人と交代したいくらいに大変だった。

 勇ましく攻め掛かってきた恭路ではあるものの、仰々しい物言いに実力が全く追い付いていなかった。ただやかましいだけでなく、無駄な動作うごきが多過ぎる。

 集団で襲い掛かるすべはともかく、個々では〝実戦〟に慣れていないペルーの少年強盗団よりも身のこなしが悪いのだ。くうに残像を映すのではないかと思えるほどはやい電知であれば、恭路が両腕を振り回すたびに切れ味鋭くアスファルトの路面へ投げ落としただろう。


(アラガミフウジっていうのは分からないけど、……ここまで弱いと逆にりにくいな)


 ペルーから日本に移り住み、『天叢雲アメノムラクモ』と出逢って以来、岳や希更といった優れた格闘家たちを間近で見る機会に恵まれた。殺陣道場『華斗改メかとうあらため』のワークショップではひめ截拳道ジークンドーに魂を震わされた。

 自分自身、『コンデ・コマ式の柔道』を使う電知と路上で立ち合ったのだ。

 彼らと比べて――否、比べるまでもなく恭路の腕前は数段劣っている。城渡の親衛隊長とも称していたが、他の暴走族チームとの乱闘では少しも役に立っていなかったのではないだろうか。

 アッパーカットを繰り出す寸前には「ガードがお留守」などと口走っていたが、彼のほうこそ防御の基礎すら体得していないのではないだろうか。反撃を試みるにしても相手が〝本物のド素人〟では力を込め過ぎると命を脅かし兼ねない。

 だからこそ、大変なのだ。『天叢雲アメノムラクモ』と契約し、デビュー戦を控えた身である。例え正当防衛であろうとも大怪我をさせようものなら樋口社長から「ワケのわからない人たち」と教えられた無責任なワイドショーの餌食にされるだろう。ひいては自分を受けれてくれた団体にも迷惑を掛けてしまう。

 同じ路上戦ストリートファイトではあるものの、電知を退けたときとは〝立場〟が違う――そのことはキリサメにも理解わかっていた。互いに血の一滴も流さないよう立ち回り、戦意を挫くしかないのだが、負けん気だけは人並み以上であろう恭路の場合、それが最も難しそうだった。


「てめー、思いっ切り〝口だけ番長〟だけじゃねーか! キリサメの本気を引っ張り出すには全ッ然足りねーぞ!」


 力量が全く伴わない思い上がりに苛立ってきたのだろう。不愉快そうに眉根を寄せた電知が横合いから恭路のことを挑発し始めた。

 この状況で闘争心を煽られては困るのだが、キリサメにも電知の気持ちが全く理解できないわけではない。強くなることへ真っ直ぐに突き進む彼にとっては恭路のような人間タイプが最もしゃくに障るはずだ。


「出し惜しみはデカい減点ポイントだぜ、オイ! 血の小便出し尽くす気合いで掛かってこいってんだよ! てめーの本気を確かめるまでオレは何度だって立ちはだかるつもりだからよォ――自分は雑魚なんかじゃねぇって証明しやがれッ!」

「僕のほうから挑んでいるような言い方をするな」

「おうおう、そーゆースカしたツラも役作りのつもりか? ダン・タン・タインはもっと演技派だぜ⁉ 所詮、てめーはアクションスターの器じゃねぇんだよッ!」

「……ダン・タン・タインって『ワープスピード!』シリーズの主演か? それが一体、何だって言うんだ」

「てめーじゃダンの足元にも及ばねぇ! 身の程知らずと思い上がりだけなら天下一品だなァッ!」


 電知から煽られた為か、恭路の声量こえは一等大きくなっているのだが、肝心の意味がキリサメには何も理解できなかった。

 彼が唐突に挙げたのはキリサメが生まれて初めておぼえた映画俳優の名前である。流行り物に疎い人間でさえ知っているほど高名なアクションスターとも言い換えられるだろう。

 母が存命であった頃、キリサメもタインが主演した初期作品を映画館まで観に行ったことがある。ベトナム武術を巧みに取り入れたアクションの数々は比喩でなく本当に人間離れしており、幼い彼の心にも深く刻み込まれたのだ。

 アクション映画に不可欠なワイヤーやCGには頼らず、スタントマンさえ用いずに類稀な身体能力と胆力で危険なシーンを演じ切る――これを謳い文句にした主演作品『ワープスピード!』はシリーズ化され、タイン自身も名実ともにベトナム史上最高の映画俳優となったのである。

 題名タイトルの通り、ワープとしかたとえようのない速度スピードの超人的なアクションには世界中の誰もが胸を熱くしている。それは紛れもない事実である。しかし、この場にいてタインの名前を挙げる理由がキリサメには分からない。しかも、恭路には世界的なアクションスターの猿真似と決め付けられているようなのだ。


「すっトボけんじゃねーよ、とっくの昔に調べは済んでるんだぜ⁉ 『二一世紀のダン・タン・タイン』を目指して殺陣道場とやらに通い詰めてんだろーが! アクション俳優になりてェのか、MMAをやりてェのか、どっちなんだ、コラァッ⁉」

「タインさんも二一世紀の俳優だろうに……それからベトナムでは姓ではなく名のほうで呼び掛けるのが正しい。この場合はダンさんではなくタインさんだな。余所でやらないよう気を付けなさい」

「う、うるせぇぞ、覆面野郎! 口を挟むなら、もうちょっとアツくなれるモンにしやがれよ! こんなときにベトナム豆知識なんざシラけるだけだぜッ!」

「……いっそ僕のことは放っておいて、あんたたち二人だけでやってくれ……」


 口伝『つくいり』――半分姿勢を崩すほど不格好なかかと落としが縦一文字に切り裂いたのは、後方に身を移すキリサメが残していった溜め息である。

 確かに殺陣道場のワークショップには参加したが、ただそれだけのことで俳優志望という結論まで飛躍してしまう恭路の思考あたまにこそキリサメはおののいていた。

 希更という好例と接しながらも〝兼業〟など一度たりとも考えたことがなかった。レオニダス・ドス・サントス・タファレルのようにタレント活動までこなせるほど器用ではないのだ。ましてや〝富める者の座興〟ともたとえるべき華やかな世界に飛び込むなど持ち合わせていないのである。

 そもそも、演劇スタジオで開催された体験会ワークショップにたった一度参加しただけで『華斗改メかとうあらため』の道場自体には足を踏み入れたこともないのだ。


「てめー、いい加減にしとけよ。キリサメは総合格闘家としての腕を磨いてんだ。そりゃおれだってスタートが殺陣道場って聞かされたときはポカ~ンとしちまったがよ、俳優やりたきゃ専門の養成所行くだろうが。だったら、殺陣それも強くなるのに必要なことなんだろうよ。それを変な具合に引っ掻き回すんじゃねぇ」

「おトモダチに庇って貰って満足かよ、アマカザリィ? 麗しの友情ってヤツだなァ!」

「いや、僕も岳氏に連れていかれただけで、殺陣を習いたかったワケじゃないよ。ワークショップの最中どころか、今だって岳氏の狙いが良く分からないし……」

「だーかーら、この期に及んでしらばっくれんなっつってんだろ! むしろ、夢は熱くデカくキラキラと語りやがれ! 二一世紀のタイン結構! 千葉真一ちばしん上等! アクションでも何でも自分に言い訳しねェで誇らしく咲き誇れ――って、素直に夢を語れない悩める少年演じてオレを納得させようとすんな! 言葉巧みに罠を仕掛けやがってからにッ!」

「……今、どうして僕は説教されてるんだ……」

「ンなもん、当然だろ⁉ 二匹のウサギを一緒に狙ってどっちも喰っちまおうっていけ好かねェ根性はブチ折って当然なんだよ! ……アマカザリ、てめーが闘う相手は城渡総長だぞ! 地上の誰より手強い御方なんだぞ⁉ 狙うウサギは一匹だけにして余計な夢は全部切り捨てやがれ! 総長とぶつかるからには半端者ハンチクなんぞ許さねぇッ!」

「……夢を追い掛けろって僕にプレッシャー掛けてから数秒もしない内に前言撤回か。あんた、自分で自分の話してる内容コトが分かってないだろ」

「屁理屈ばっかしやッかましいぜ! 言い訳ばかりで夢にも素直になれねェ雑魚が総長の前に立てると思うなよ! 前言撤回はその通り! やっぱし、てめーは不合格! そんでもって即公開極刑だァッ!」


 自分の考えが明後日の方角に飛んでいたことを悟って引っ込みがつかなくなった人間ほど多弁となり、勢いでもって誤りごと押し切ろうと焦るものだが、勿論、恭路の場合は違う。そのような殊勝さは最初から持ち合わせていないのだ。

 早とちりと思い込みに基づく誤解を真実として頑なに信じ込む恭路には如何なる言葉も届かなかった。何事も自分にとって都合の良いように考えてしまう人間は見兼ねた者が口を挟んでも決して耳を貸さないのである。


「総長は夢をデカく語り合うのが大好きなんだ! そのデッケェ人の視界にてめー如きを入れたら何もかも台無しになっちまわァ! ンなこと、許せるワケがねーだろッ!」


 〝短ラン〟に背負った『げき』の二字は伊達や酔狂ではなく堪え性を欠いていることを知らしめる注意書きなのか――と、成り行きを見守っていたカリガネイダーもやるせない溜め息をいた。


そうそうでん――『うきぐも』! 二匹のウサギをまとめて喰う方法を刻んでやるぜ!」

「……言おうか言うまいか、迷っていたんだけど、ウサギの数え方が間違っているぞ。二匹じゃなくて二羽だ」

「バ~カ! 小学生くらいからやり直してこいよ! ウサギと鳥の区別もつかね~とか終わってるぜッ!」


 勝手にキリサメをアクション俳優志望と勘違いし、城渡総長を侮っていると一人で怒り狂った恭路は喉笛に喰らい付かんとする勢いで再び突進していく。

 これから仕掛ける技の名称を吼え、地面を蹴り出すまでの動作は大仰だが、その先はキリサメの足元にギターピックを放り投げて以来、最も鋭かった。全身を激しく動かしただけで息切れするほど体力も乏しいが、運動神経自体はに優れているらしい。


「どらッ! うるあァッ!」


 電知ほどではないにせよ素早く間合いを詰めた恭路は〝ふたつの爪〟とたとえた通り、左右の足を立て続けに振り上げていく。

 対するキリサメは最初に繰り出された右の爪先を顎に触れるか否かという間際まで引き付けてから僅かに後方へ下がり、これを避け切った。

 そうして逃れた先を対の蹴り足が追尾したのである。右足を引き戻す際に生じた反動を乗せている為、二撃目の蹴りは更に速く、そして重い。今度こそ確実に仕留めるべくキリサメの顎先を脅かした。

 『あて』と呼ばれる打撃技へ投げ技・関節技などを巧みに連ねる電知ほど高い技量の持ち主であったなら、間違いなく人体急所の一つに命中させたはずである。しかし、先程の猛攻で消耗した分だけ切れ味が鈍くなっており、左方へ逃げ道を求めて跳ねたキリサメには二撃目をもってしてもかすり傷さえ負わせることが叶わなかった。

 しかし、この瞬間のキリサメには一つだけ見落としがあった。二段蹴りにしては跳躍が異様に高かったのだ。突き上げた左足は爪先ではなく踵でもって顎を砕こうとしていたほどである。


「取ったぜッ! 『あざむき』ィ――」


 果たして、恭路は空中で身を翻しながら勝ち誇ったように高笑いした。

 『あざむき』という技名なまえが表すように〝ふたつの爪〟ともたとえられた最初の攻撃自体がフェイントなのかも知れない。二段蹴りによって相手の姿勢を崩し、無防備となったところへ〝本命〟を叩き込むというわけだ。

 もしも、空中にるのが自分であったなら恭路のように腰を捻り込んで蹴りでも見舞うだろう――鋼鉄で鍛えられたような靴で急所を強打されてはさすがに危うく、キリサメも頭部を庇う形で防御ガードを固めた。

 案の定とでもいうべきか、器用にも空中で逆様となった恭路は次いで両足を揃え、これをキリサメ目掛けて振り落とそうとしたが、曲芸じみた蹴り技が完成する前に跳躍の頂点から垂直落下し、アスファルトの路面に鈍い音を跳ね返した。


「――ほげぇッ!」


 脳天から真っ逆様に急降下したのだから当然だが、これ以上ないくらい間の抜けた悲鳴をらして固い地面へ身を放り出した恭路は、そのままぴくりとも動かなくなった。

 彼が白目を剥いて失神したことなど、慌てて駆け寄ったカリガネイダーが確認するまでもなく明らかであろう。何しろ恭路は受け身すら満足に取れなかったのだ。

 宙返りを伴う三撃目を完成させるにはもっと高い跳躍が必要だったらしい。

 そもそも、己のほうから仕掛けた攻撃による自爆など有り得ないだろう。〝実戦〟の経験を欠いている様子の恭路だけに「オレには何だってやれる」と思い上がり、身の丈に合わない大技へ練習もなく初挑戦したのかも知れない。

 カリガネイダーから目を覚ますよう呼び掛けられても全く反応しないのだから、今夜中の仕切り直しなど望むべくもあるまい。


「……結局、こいつは何だったんだ?」

「だから、おれにくなって。……地下格闘技アンダーグラウンドのハナシを例えにするのは的外れかもだけど、対戦相手の〝身内〟が場外でケンカを吹っ掛けてくるコトもないわけじゃねーよ。それだって試合前に相手を襲って弱らせておこうってモンじゃなく、もっぱら意趣返しのパターンだぜ。その場合は逆恨みとも言うがな」

「逆恨みと先制攻撃なら電知だって似たようなものじゃないか」

「言われると思ったぜ! 話してる途中にもツッコミ入るって予想できたさ!」


 巨大な予算が動き、相応の収容人数キャパシティを備えた会場へ全国から数千という観客を招き入れる『天叢雲アメノムラクモ』の興行イベントと比較した場合、〝アマチュア団体〟に分類される地下格闘技アンダーグラウンドの試合はリング内外の人間が物理的にも極めて近い。潰れた倉庫や酒場の一角といった狭い空間を借りる為、観客たちも選手の間近まで接近するわけだ。

 それはつまり、選手の応援に駆け付けた〝身内〟の声が相手側まで直接的に届くことをも意味している。リングの上空を飛び交っていたが両選手のファン同士による口論にすり替わり、ひいては乱闘騒ぎにまで発展することも地下格闘技アンダーグラウンドでは少なくなかった。

 選手と観客が揃って詰め込まれる窮屈な環境には血の臭いが充満し、『天叢雲アメノムラクモ』以上に〝実戦〟の臨場感を引き上げている。この距離こそ『E・Gイラプション・ゲーム』が支持を集める理由であるが、一方でグローブを嵌めない素手ベアナックルまで許諾されてしまうはげしい試合形式と合わさり、攻撃的な感情を増幅させ易いのだ。

 電知が一例として挙げたように敗れた側の〝身内〟がリングに飛び込んで筋違いの報復を仕掛けることもある。その場合は選手本人どころか、贔屓の選手に不利な判定を下したレフェリーまで標的とされてしまうのだった。


公務員のおっさんカリガネイダーたちがやってるようなショープロレスの筋書きシナリオならともかく、少なくとも『E・Gイラプション・ゲーム』じゃ試合前に対戦相手が狙われるってハナシは聞いたコトねぇや」


 地下格闘技アンダーグラウンドに参加する選手は試合とは別のところから降り掛かってくる危険リスクと常に隣り合わせなのである。過去に自分自身が巻き込まれた乱闘騒ぎを振り返る電知にはリングの外でパイプ椅子を投げ付けてきた人間と恭路が重なって見えた。

 しかし、全く同じではないようにも思える。慕ってやまない〝総長〟の不遇を口実に暴れ回っていることだけは間違いなさそうであるが、目的そのものは依然として掴み切れないのだ。試合前に城渡の対戦相手を弱らせておこうという画策でもないらしい。

 それ故に電知も首を傾げるしかなく、キリサメを納得させられるだけの回答こたえも用意できないのだった。


「こんなもん、八雲のおっさんの耳に入ったら一発でアウトじゃねーか。城渡のメンツも丸潰れだっつーのによ。マジで何を考えてるのか分かんねぇぜ。何も考えてねぇ可能性も高いけど、それにしたってもっとこう……なァ?」

「殺陣のワークショップに一度出たくらいでダン・タン・タインを目指してるって勘違いするくらいだからな……」


 電知の話に首を頷かせつつもキリサメの目はカリガネイダーの介抱を受ける恭路に向けられていた。

 今の騒動さわぎから得た成果といえば、動作の大きい攻撃が相対する側からどのように見えるのかを実感できたことであろう。それは一撃必殺を重視する喧嘩殺法の術理にも通じており、己の不出来を省みる機会と思えなくもなかった。

 私生活での取るに足らない行動すら周囲にあらぬ想定外の誤解を与えてしまうことも教わった気がする。今回は恭路個人の暴走で済んだが、場合によっては以前に樋口が示した懸念の通り、些細な出来事を針小棒大に誇張して笑い者にするワイドショーの餌食とされてしまうだろう。

 デビュー戦を迎える前に〝プロ〟のMMA選手として心に留めるべき教訓を拾い上げることができたのだから、恭路の襲来も決して無意味ではあるまい――そうやって自分を慰めたくなるほどキリサメには不毛な時間であった。


 そこから先は更に締まりのない筋運びとなった。

 頭を打って気絶したのは完全な自業自得である。しかも、恭路はキリサメのことを轢き殺そうとまでしたのだ。助ける義理などあるはずもなく、〝ゾク車〟ごと田圃たんぼにでも放り投げておくよう電知は吐き捨てたのだが、役所勤めというを持ち、この場の誰よりも常識というものを弁えたカリガネイダーはそのままにしておけなかった。

 電知に呆れられながらも自ら恭路を負ぶって山荘まで運び、手厚く介抱したのである。

 尤も、意識を取り戻した恭路は敵のを受けたことを知るや否や、礼を述べるどころか、顔を真っ赤にしてパンチパーマを掻き毟り、自分を助けてくれた相手カリガネイダーにまで「てめーらに助けられるくらいなら野垂れ死んだほうがマシだ!」と暴言を吐いたのだ。

 カリガネイダー本人が「自分が勝手にやったことだし、彼の言い分が正しい」と制していなければ、今度は電知が恭路に挑みかかっただろう。山荘の外まで引き摺り出し、彼に対して〝ゾク車〟を投げ付けたかも知れない。

 カリガネイダーに頼まれて恭路の〝ゾク車〟を人力で押してきたキリサメも電知を押し止めることはなかったはずである。

 あと少しで日付が変わる真夜中に尋常ではない喚き声が轟いたのだから当然であるが、昼間のトレーニングに疲れ果てて高いびきをかいていたレスラーたちが起き出すなど山荘内は騒然となった。

 一人で広間に居残り、キリサメのPVプロモーションビデオ作成を続けていた嶺子は合宿の参加者ではない青年が山荘内へと運び込まれ、気絶から立ち直るまでの一部始終を眺めていたが、言葉を交わすまでもなく恭路の為人ひととなりを理解したらしい。


「行き倒れを助けられたんだろう? 謝礼くらいは言い値で払うのがスジってもんさ。どうも城渡から仁義のカケラさえ学んじゃいないようだね。そもそも、あいつに人を見る目がなかっただけかも知れないがねぇ」


 カリガネイダーの制止を振り切って玄関に向かおうとする背中に嶺子は最も堪えるだろう皮肉を浴びせた。


「あんた、『げき』とかってバンドのギタリストだろ? 『ユアセルフ銀幕』でライブ映像を見たコトがあるよ。風の噂に城渡の舎弟がメンバーって聞いたから試してみたけど、心に何も届かないワケが今ので理解わかったね。中身のないカスじゃどうしようもないさ」


 どうやら嶺子は恭路が背負った造語に心当たりがあったらしい。エレキギターを大切にしない点からも甚だ怪しいが、『げき』とは彼が所属するバンドの名称なまえであるようだ。


「なんだ、ババァ⁉ 『激我オレら』のファンと思わせといて急に手のひら大回転しやがってからに! すっかりサイン色紙を受け取る構えになってたオレの純情を返しやがれ!」

「一応、知り合いの知り合いだからね、数分前まではひと欠片かけらくらいの期待はあったよ。今はバンド名だって記憶から消したいくらいさ。『作品の評価は作者は分けて考えろ』ってホトケさんみたいな人も世の中にはいるけれど、あんたにゃそんな憐れみも必要ないね」

「サインの代わりに地獄へのビザを発行してやろうか⁉ 〝ハコ〟だって単独ピンでも満席にしてみせらァ! 先物取引の鉄則は赤マル急上昇から目を離さないことじゃねーのッ⁉」


 嶺子の罵声はそのまま不可視の油となり、恭路のうちにて燃え盛る怒りの炎へと注がれていった――が、このときには既に岳の携帯電話スマホを用いて城渡に経過を報告した後である。


「これ以上、醜態を晒したら、そのときは覚悟しておけ」


 城渡に連絡を入れた麦泉が携帯電話スマホの向こうより預かった伝言をそのまま述べた途端、恭路は腰を抜かしてしまった。蒼白い顔面からは生気が完全に失せており、唇に至っては病的な紫色に染まっている。

 麦泉に物騒極まりない伝言を託したのは城渡本人ではない。『天叢雲アメノムラクモ』の試合では彼のセコンドを務め、暴走族チーム『武運崩龍ブラックホール』にいては副長として荒くれ者たちを取り仕切る二本松剛の通告ことばだった。

 書き置き一つを残して行方をくらました挙げ句、他所に迷惑を振り撒いた大馬鹿者を今すぐ引き取りに向かうと激怒した城渡を宥め、彼に代わって通話を引き受けた二本松は極めて冷静だった。まずはキリサメと巻き込まれた二人に陳謝し、次いでカリガネイダーに礼を述べ、今後の対応について麦泉と話し合った。

 翌日の夕方近くになってしまうものの、恭路の身柄を引き取る為、二本松は城渡と共にすがだいら高原まで赴くつもりであった。その上で合流までの間、彼の身柄を預かっていて欲しいと『まつしろピラミッドプロレス』に頼み込んだのである。


「必要経費は全て言い値でお支払いします。賠償請求でも何なりとお申し付けて下さい。……ご覧になった通り、恭路あれは野放しにすると何を仕出かすか、我々にも分かりません。こんなことを頼める義理ではないと重々承知していますが、これ以上、被害を拡大させないようご協力を願えればと……」


 淡々と示談交渉を進めていく二本松は口調こそ冷静であったが、城渡のように直線的に激情を表さないだけで内心では舎弟の不始末にはらわたが煮えくり返っているわけだ。通話を代わろうかと麦泉から問われたときなど「無分別な悪童ガキとは話す価値もありません」と一言で切り捨てたほどである。

 二本松副長の伝言を聞かされてからというもの、恭路は比喩でなく本当に頭を抱え、全身を小刻みに震わせていた。引きった顔には先程までの威勢の良さなど少しも残っておらず、『げき』の二字が空々しく感じられるほどであった。

 この青年にとって二本松副長は尊敬以上に恐怖の対象であるらしい。


「詰んだ……マジで詰んだ……副長に殺されるようなことになったら、てめーの所為せいだからな、アマカザリィッ! 毎晩、枕元に立ってやるァッ!」

「自業自得だろ」


 今度は電知とカリガネイダーだけでなく、その場に居合わせた誰もがキリサメと合わせるようなタイミングで同じ言葉を紡いだ。

 そこまで恭路が恐れるのも頷けるくらいいかれる二本松は容赦がなかった。

 山荘の庭に立つ一際大きな木の枝から全身をロープで縛られた恭路がミノムシのような恰好で吊り下げられたのは二本松の要請である。これもまた迷惑を掛けられたキリサメたちへの償いというわけだ。彼らの流儀に則って言い換えるならば『落とし前』であった。

 キリサメが昼間のトレーニングで片手懸垂を行った木の枝であり、一晩中、恭路の身を吊っていても折れないくらい丈夫であることは証明されている。

 宙吊り状態となった恭路の眼下――木の幹には先んじて岳がロープによって縛り付けられていた。改めてつまびらかとするまでもなく、嶺子に対するる失言の制裁だった。

 彼の顔面に青痣あざや引っ掻き傷を刻んだ相手も明白であろう。


「……クソッたれが! すぐそこに『ガンドラグーンゼロしき』が見えてんのに手も足も出やしねぇ! 速攻でズラからなきゃ副長十八番おはこのアルゼンチンバックブリーカーで背骨ブチ壊されちまうってのに!」

「聞いたぜ。お前、マッチの子分だってな。道理で元気一杯なワケだ。宮本武蔵も若い頃は元気過ぎて木の枝から吊られたっつーしな。きっとお前もマッチと肩を並べるくらい大物になるよ。……あ、武蔵の逸話は史実じゃなくて創作だっけ?」

「馴れ馴れしくすんじゃねーよ、諸悪の根源が! 大体、宮本武蔵って誰だ⁉ 四国の海に立ってる銅像のことかァ⁉ 何年か前に日曜日の時代劇で主役ハッてた気がすっけど、こちとら、その頃は暗黒時代まっしぐらだったんだ! 想い出させんなや!」

「お前、面白ェな! 坂本龍馬と宮本武蔵を間違えるヤツなんか初めて見たぜ! 時代も全然違うのに! お~し、気に入った! 夜は長ェし、楽しくやろうや!」

「このクソ寒ィ中、仲良しこよしのお喋りなんかできっかァ! 頭上から鼻水垂れたってオレは責任持てねーからな! 文句は山荘いえン中でぬくぬくやってる野郎どもに言え!」


 一本の同じ木に縛られたことは双方にとって僥倖さいわいだった。会話自体は噛み合わなくとも一晩中、言葉を交わしていられたのである。こうして眠気を飛ばしていなければ、本当に凍死したかも知れないのだ。

 こよみの上では初夏が間近に近付いているとはいえ、未だに豪雪の名残を残す四月末のすがだいら高原では夜間から明け方にかけて氷点下まで冷え込むことも少なくなかった。

 そして、翌日――城渡から命じられた通り、恭路は『まつしろピラミッドプロレス』の合宿へ雑用係として協力することになったのだ。

 二本松ではなく城渡の指示である。静かに怒る『武運崩龍ブラックホール』の副長は自分たちが迎えに行くまで木に吊るしておいて欲しいと話していたが、情け容赦ない処罰を隣で聞かされた総長は慌てて携帯電話を奪い取り、別の方法での〝償い〟を申し入れたのであった。

 連絡を受けた直後こそ舎弟の暴挙に怒り狂った城渡であるが、半日以上も宙吊りのままでは幾らなんでも可哀想と思い直したようだ。城渡本人には届いていないだろうが、それはまさしく親心である。電話の向こうでは二本松から彼のことを甘やかしてはならないと窘められたに違いない。

 カリガネイダーも二本松より城渡の提案を優先させるつもりだった。夜明けには岳ともども解放し、未稲に付いて朝食の配膳を手伝うことから始めてもらったのである。

 午前中のトレーニングではタオルやスポーツドリンクなどの支度を任せていた。

 山荘の庭に設置されたリングではキリサメと電知も打撃の猛特訓に励んでおり、恭路も仕事をこなしながら二人の様子を密かに窺っていた。

 闘争心に火が付こうものなら昨晩の繰り返しになり兼ねないと懸念し、身を強張らせるカリガネイダーであったが、「これ以上、醜態を晒すな」と二本松に釘を刺された為か、リングへ乱入するようなことはなかった。

 寝不足もあって元気がなく、一晩を経て頭も冷えたのだろうと捉えてカリガネイダーは胸を撫で下ろし、その直後に早計であったことを思い知った。結局のところ、恭路は口を噤んだまま心の奥底に鬱憤を溜め込んでいたのだ。


 恭路が再び暴発したのは昼食を挟んで午後に行われたゴミ拾いが終わろうかという頃合であった。

 ゴミ拾いに当たって未稲とひろたかもキリサメたちと同じグループに分けられたが、皆から少し離れた地点で火バサミを使っている。群れることを嫌う弟が人の居ない場所ばかり行きたがるので、姉のほうもそれに引っ張られているのだ。

 ひろたかは後からいてくる未稲とも殆ど会話を持とうとしなかった。一方的に話しかけられる内容に対して、時折、相槌を打つ程度なのだ。誰の目にもコミュニケーションが取れているようには見えなかった。

 数分とたず物別れとなりそうな姉弟ふたりを心配している最中に恭路が不満を喚き始め、キリサメも振り返るだけで馬鹿馬鹿しくなる昨夜の騒動さわぎを想い出したのである。

 近隣住民や別荘の利用者も訪れた昼食――鹿カレーの炊き出しのときには腹立ち紛れに誰かへ噛み付くようなことはなかった。愛想こそ悪かったものの、その時点ではまだ二本松の通告ことばに効力が残っていたのだ。

 そうやって抑圧されている間に鬱憤が膨張し、ついに破裂の瞬間を迎えたのだろう。


「――恭路あれは野放しにすると何を仕出かすか、我々にも分かりません」


 麦泉との示談交渉の折にもそのようなことを仄めかしていたのだが、恐怖の対象である二本松さえ恭路の蛮行は抑え込めないらしい。

 未稲とひろたかが自分たちから離れていたことをキリサメは僥倖さいわいと思った。道端へ投げ捨てられていたビールの空き缶を腹癒せに踏み潰す粗暴な男に二人を近付けたくないのだ。

 幾らひろたかが勉強熱心とはいえ、潰した拍子に靴底へ嵌ってしまった空き缶を外そうとアスファルトの路面を何度も蹴り付け、それが上手くいかなくて苛立ったように唸る二〇歳はたちの高校生から学ぶことなど何もないだろう。


「そうか、分かった! ピンと来たッ! 燃え上がる怒りがオレの脳細胞を活性化させやがったぜ! 不当な仕打ちの数々はオレを挑発する策ってワケだな⁉ オレをブチギレさせて総長たちのメンツを潰そうってハラか! そうはさせっか、クソが! いや、大義名分的にはこれもこれでアリ⁉ てめーらの悪だくみを読み切った名推理に恐れ入れッ!」


 またしても恭路が支離滅裂なことを喚き始めたが、もはや、キリアメすらまともに取り合おうとはしなかった。彼の言行には理屈というものが殆ど存在しないので、正面から受け止めて整合性を求めると却って混乱してしまうのだ。

 今も思い付いたことを大仰に騒いでいるだけであろう。〝推理〟とは考察と理論から組み立てられるものであって、悪い意味で直線的な恭路には結び付かないのである。


「おーしおしおしィ! そうと分かれば心置きなくアマカザリをブッ潰せるってモンよ。罠にハメられたとあっちゃ二本松副長だってオレに加勢してくれるだろーぜ!」

「キミが並べたのは推理じゃなくて無理矢理なこじつけだよ。……麦泉先生が二本松さんから預かった通告ことばをもう忘れたのかい」

「逃げ口上に付き合うつもりはねーよ! まだケリはついちゃいなかったよな、アマカザリィ⁉ 『あらがみふうじ』の――破魔の最終決戦奥義だって見せちゃいねーんだぜッ!」


 カリガネイダーから二本松の通告ことばで脅かされても現在いまの恭路には全く効果が認められなかった。ひょっとすると湘南の方角より幻聴きこえてくるバイクのエンジン音に怯えて昨夜より焦っているのかも知れない。

 無理矢理なこじつけであろうと己こそ正しいと押し通せば、城渡総長たちも今度のことを許してくれる――傍目には〝帳尻合わせ〟を狙っているようにしか見えなかった。

 ベルトの代わりに巻いていたバイクのチェーンを〝ボンタン〟の腰から引き抜いた恭路は、これを鞭の如く振り回し始めた。

 チェーンを握り締めた手を高くかざし、頭上に小さな竜巻を起こそうとしている恭路を眺めながら「おれ、こいつとそっくりだったんか」と改めて我が身を省みた電知の顔は夜明け前のすがだいら高原を吹き抜ける風よりも冷ややかだった。


「最終決戦奥義はまだ早過ぎるからな! 先に秘奥義――『あらがみふうじよう』をご馳走してやるぜ! 奥の手の一つだ! 有り難く思いなァッ!」

「……なんつーか、後に引けなくなってねェか? イキがって突っかかって自滅して、手前ェのメンツがブッ潰れたのは分かるがよ、キリサメと殴り合う理由をでっち上げてるようにしか見えねぇぞ」

「またてめーは安っぽい挑発をカマしてきやがって! もうその手には乗らねェぞ! オレは今こそこいつをブッ叩く! 抹殺リストの順番を勝手に変えようとすんな!」

「目的が変わってるじゃねーか。『ブッ叩く』って何だよ? 昨夜は『試す』っつったのは誰だっけ? 昨夜、おれが訊いたことをまんま認めてるぜ、てめェ」


 エレキギターを掻き鳴らすのに夢中だった恭路は気付かなかったらしいが、初めて遭遇したとき、試合前に対戦相手を弱らせておくよう城渡が刺客を差し向けたのではないかと電知は訝っている。


「はァァァッ⁉ てめーみたいな三下の言うコトなんざいちいち聞いてられっかッ! 結局、こいつに総長と向かい合う資格はなかった! それが確認できたら速やかに処刑するだけじゃねぇか! バカみたいに喚いてねェで、ちょっとは頭働かせろよ!」

「キリサメ、やっぱりこのウスラバカはおれが引き受けるわ。復帰戦の腕鳴らしだ」


 近くに立っていたブラックトイシマンへ自分のゴミ袋を預けた電知はじゅうどうの帯を締め直しながら恭路へと向かっていく。日本一の無鉄砲といっても過言ではない相手から頭の働きが鈍いと嘲られてはさすがに黙っていられないのだ。


「昨夜も言ったハズだよ。こいつの狙いは僕だ。人任せにはできない」


 これを右腕でもって制したキリサメは同じ側の拳を恭路に向かって突き出し、次いで人差し指を伸ばした。彼の意識が指先に向いたことを見て取ると、道路を挟んで山荘の反対側に位置するエリアへと視線を誘導していく。

 キリサメの右人差し指が示したのはゴルフ場であった。広大なフェアウェイのあちこちに薄汚れた雪が残り、生え変わる時期を待つ芝生は生気を失ったように色褪せている。

 シーズンオフであることは一目瞭然である。


「まさか、ゴルフ勝負をご提案ってワケじゃねーだろうな⁉ ダン・タン・タイン路線がダメだったときはエイモス・ファニング路線に切り替えって魂胆かァ⁉ 竿の旗でボール包んでホールインワンくらいじゃねーとプロゴルファーなんか無理だぜ、バァーカ!」

「エイモス・ファニングはプロバスケだろ。せめてタイガー・ウッズの名前くらい出てこねぇのかよ。ウッズのほうは〝兼業〟じゃねぇけど」

「ちょ、ちょっと間違えただけだろが! ナリの通り、小さいコトばっかブチブチ言いやがってからに!」


 恭路の喚き声とこれに対する電知の指摘ツッコミを背中で受け止めつつ、キリサメは道路とゴルフ場とを隔てる植え込みを飛び越えて枯草同然の芝生の上に降り立った。

 これによってようやくキリサメの意図を察した恭路はチェーンを振り回したまま植え込みを踏み付け、フェアウェイにて待つ背中を追い掛けていく。


「おうおうおう、良い度胸じゃねーか! やる気のねェ野郎を一方的にボコッたんじゃ総長に叱られちまう! 殴り合いは気持ちよく対等にやらなくっちゃなァ!」


 振り向いたキリサメの顔に応戦の意思を見て取った恭路は、例によって例の如く「ばしりのでん――『かみぎよめ』! 喰らえぇぇぇッ!」などと叫びつつ、芝生の上を滑らせるような形でチェーンを放り出した。

 鞭の如くしならせて直接攻撃に用いるものと思っていたのだが、足に絡めて身動きを封じる策に切り替えたようだ。

 朝露で濡れているとはいえ、芝生の上を滑らせようものならたちまち部品の継ぎ目などに引っ掛かってしまいそうだが、恭路の右手より放たれたチェーンは勢いを増してキリサメに向かっていく。

 昨夜、同じ技を披露したときには壊れたエレキギターを滑らせたのだが、今度は地面を這っているかのようにも見える極端に低い軌道で風を切り裂き、標的の足元を脅かすつもりである。


(……ろくでなしは一緒みたいだけど、こいつ、じゃないだろうな……)


 キリサメは大昔に亡き母から教わった〝いしり〟という遊びを想い出していた。川に向かって小石を投げ、水面を跳ねさせた回数や対岸まで到達できるかを競うものだが、恭路の小器用さはを得意としていた幼馴染みにとても良く似ているのだ。

 を生業としていた幼馴染みもまた指先が器用であった。


(あれって『秘奥義』とか何とか恰好付けて振り上げた物じゃなかったのか? ……ていうか、飛び道具になりそうな物なら何でも良いのか……)


 恭路に幼馴染みとの類似点を見出す一方、キリサメの頭には何とも野暮な指摘ツッコミが浮かんでいた。何の変哲もないスニーカーで踏み付けにされるような物は間違っても『秘奥義』とは呼ばれないだろう。


「――おりゃァァァッ! カッ飛んできたぜェェェッ!」


 そうして飛び道具を封じた直後のことである。バイクのチェーンを追い掛けるようにして間合いを詰めた恭路が全身でぶつかるような肘打ちを繰り出した。

 これもまた昨夜と同じである。ヘルメットからチェーンに切り替えてはいるものの、今度も相手の意識を引き付けておくフェイントとして飛び道具を用いたわけだ。

 右の肘打ちをかわされるや否や、恭路は『れん』なる掛け声を挟んで垂直に跳ね飛び、その勢いに乗せて対の左肘を突き上げた。

 一度、地面を強く踏み締めることで足腰のバネを引き絞る為、今までの技よりも遥かに動作が大きい。跳躍自体は矢のように鋭かったものの、命中などするはずもなかった。

 敢えて恭路の着地を待ち、次いでキリサメは『まつしろピラミッドプロレス』の面々が立つ道路から離れるようにゴルフ場の奥へと移動し始めた。

 当然、頭に血が上っている恭路は疑念も差し挟まずに背中を追い掛けていくのだが、それこそが狙いである。この状況で騒動さわぎを起こせば程なく未稲とひろたかも駆け付けるだろう。キリサメとしては狂犬じみた男と姉弟を接触させたくはない。その前に恭路をゴルフ場の奥深くまで誘い込み、両者を引き離す算段であった。

 未稲辺りが植え込みを越えようとしたときには『まつしろピラミッドプロレス』の誰かが制してくれるだろう。彼らは〝大人〟である。危険と分かっている場所へ立ち入ろうとする少女を看過できないはずだ。


「てめ、この――背中がガラ空きだぜッ!」


 潰れた空き缶がはまったままの右足を喧しく鳴らしながら追いすがり、その間に昨夜と同じ拳具ナックルダスターを装着した恭路はキリサメの正面まで回り込むや否や、両腕を轟々と繰り出した。

 全力疾走によって疲れた所為せいか、昨夜よりも命中率が落ちている。腰を大きく捻り込むアッパーカットを避けられた直後、同じ側の肘を振り落として追撃を試みたのだが、そのときには既にキリサメは間合いを取った後である。

 恭路の眼光が追い掛けたとき、彼はグリーンに隣接するバンカーの中へ陣取っていた。


「逃げ足ばっかり上手いドヘタレが! やっぱし失格にして正解だったぜ! この一発で沈めてやンよッ!」


 でんはなれがいな』――高らかに吼えながら間合いを詰め、キリサメを射程圏内に捉えた恭路は拳具ナックルダスターによってがねいろに煌めく拳を突き込もうと右腕を大きく振りかぶった。軸の対である左足まで高く持ち上げた姿は直球ストレート勝負を挑む野球投手ピッチャーを彷彿とさせる。これならば全身の力を打撃に乗せることができるだろう。

 無論、キリサメに真っ向勝負へ付き合う義務はない。恭路が右拳を振り落とそうとする寸前にバンカーを蹴り、彼の顔面に大量の砂を浴びせた。

 出鼻を挫かれた恭路は片足一本で立っていたこともあって大きくよろめき、間合いを取るようにして後退あとずさった。


「トンズラ上手の弱虫毛虫野郎とブチ当たるなんざ総長のメンツも丸潰れだぜ! おまけに『客寄せパンダ』と来たもんだ! ……それだけはまかりならねぇんだよ! 真っ当な格闘家なのか、そうじゃねぇチンピラなのか、『天叢雲アメノムラクモ』の主催者どもに代わって確かめてやったんだ! それなのに! 一度は合格させてやったのに! 大逆転で失格ゥ⁉ マジで救いようがねぇッ!」


 口内に吸い込んでしまった砂と共に恭路が吐き出した罵声は負け惜しみにも近かった。

 何しろ足を止めて呼吸いきを整えなければ肉体からだを動かすこともままならないのだ。涼しげな顔で立つキリサメを恨めしそうにめ付ける姿を見れば、もはや、勝敗など決したようなものであろう。


「隙だらけなんだし、もうケリつけちまえって。これ以上、付きまとわれても仕方ねェだろ? 打撃訓練の成果を試す好機チャンスと思ってよ」

「それはそうなんだけど……」


 カリガネイダーと共にゴルフ場まで追い掛けてきた電知の言う通り、恭路が息切れを起こしている間に幾らでも反撃を見舞うことができた。それをキリサメが留まったのは彼の言葉に初めて関心を引かれたからだ。

 城渡総長の面子メンツを潰させるわけにはいかない――と己の意志を明確に示したのである。

 口数が多い割には感情が先走って発言の趣旨が分かりにくく、「城渡総長と対戦するのに相応しいかを試す」という一点張りで要領を得なかった。その為、恭路が指向していた崇高な試練などキリサメとの間で共有されていないのだ。

 事情や背景が掴めないまま一方的に攻撃されてきたキリサメからすれば通り魔でしかなかったのだが、断片的な情報を繋ぎ合わせることによって、ようやく自分が狙われる理由を把握した。

 如何なる必要があって恭路は闘わなくてはならなかったのか――この背景も随分な遠回りを経て理解わかってきたのである。


「城渡氏の格に見合った相手でなければ対戦してもマイナスになる。格が落ちるって言いたいんだな。〝資格〟を確かめるってのはそういうことか」

「今頃、気付いたのかよ⁉ 果てしないニブチンだな、おい! 今ドキ、ラブコメの主人公だってもうちょっと勘が冴えてんぞ⁉ そんなんじゃモテ期をモノにできねェぜ!」

「人を鈍いと詰る前に肝心なことをちゃんと言え」


 今度もキリサメの正論ツッコミは冷静であり、電知とカリガネイダーの二人もやはり同じ言葉を彼に合わせるようなタイミングで紡いだ。

 またしても異口同音で責められる形となった恭路が金色のパンチパーマを掻き毟ったのは言うまでもあるまい。


「大体、総長の気持ちを考えたコトがあんのか⁉ 試験プロテストもクソもなく縁故採用されたヤツと闘わされる屈辱を! ……『天叢雲アメノムラクモ』の主催者連中、許せねぇッ!」

「僕に怒ってるのかと思ったのに途中から別の所へ飛んだな。それは僕に怒鳴っても意味ないだろう。僕だって城渡氏と同じ〝立場〟なんだぞ」

「ニブチンの次は自意識過剰⁉ クソ野郎丸出しになってきたな! オレがてめーなんぞにキレるワケねーだろ! 『天叢雲アメノムラクモ』のナメ腐ったやり口が気に喰わねぇ! ヤツらに任せてらんねーから、こうして出張プロテストをしてやってんじゃねぇか! てめーンに手間賃請求してやっから、そのつもりでいやがれ!」

「分かってはいたつもりだけど、メチャクチャだな、あんた……」


 要するに恭路は『天叢雲アメノムラクモ』の落ち度に対する抗議と個人的な恨みを〝城渡の対戦相手〟にぶつけようとしているわけだ。

 それならば、一方的な物言いとなるのも頷ける。前田光世コンデ・コマの名が〝金儲けの催し物〟に利用されたことへ怒り狂った電知がそうであったように、恭路もまた己にこそ正義があると信じ切っている。だからこそ、一片の迷いもなく『暴力』を振るえるのだった。


(樋口氏は敵を作り易いとは思っていたけど、……このザマで良く人がいてきたよな。麦泉氏の苦労が偲ばれるよ……)


 不満を持つ者による襲撃という点にいては電知たち『E・Gイラプション・ゲーム』から包囲されたときと経緯が似ていなくもないが、団体間の抗争が背景にあった前回の騒動と違って今度の一件は樋口の強引なマッチメイクが招いた結果であり、広い意味では内輪揉めなのだ。

 キリサメからすれば巻き添えを食らったようなものであった。

 城渡の試合内容がバラエティー番組などで扱き下ろされるといった不幸が重なったとはいえ、『サムライ・アスレチックス』による根回しが一つでもあれば、おそらくは回避できたはずの諍いであろう。


「……ああ、そうだ! 総長は誰よりも強ェんだよ! ルポライターだか漫画家だか知らねェが、他人ひとの悪口でギャラ貰うようなクソカスに扱き下ろされる筋合いはねェ! MMA未経験で実績もねぇ格下のてめーなんぞと闘わされたら、またヤツらの笑い者にされちまわァ! やっぱし、さっき轢き殺してやるんだったぜッ!」

「……しっかり僕に怒ってるじゃないか」

「つーか、ただの逆恨みだろ。総長総長うるせぇと思ったけど、ここまで下らねェ理由とはな。独り善がりのブチギレにキリサメを付き合わせるつもりかよ」

「電知君に逆恨み云々を語る資格はないと思うがね……」

「逆恨み上等だぜ! てめーには逆恨みを受け止める責任があるんだよ、キリサメ・アマカザリィ! 地獄の果てまで逆恨まれろッ!」


 傍観者たちの言葉を噛み砕くほど大きな喚き声を引き摺りながら、恭路はキリサメが立つバンカーへと飛び込んでいった。突進の勢いを乗せるようにして腰を捻り、突き上げた左拳でもって胴を抉るつもりのようだ。今度は『しゅちょう』などと叫んでいる。

 電知の批難に含まれていた「逆恨み」という一言に開き直り、その後ろめたさを吹き飛ばすことへ躍起になっているようにも見える。

 キリサメが最も気になったのは恭路の行動原理だ。『サムライ・アスレチックス』のオフィスを初めて訪れた際に樋口から見せられたバラエティー番組が彼を衝き動かしていることは明らかだが、暴発の直接的な引き金は総長に対する強い忠誠心だろう。


(……いよいよ厄介な話になってきた……)


 キリサメは故郷ペルーに大いなる災いを持ち込んだ武装組織のことを想い出していた。

 国内各所に点在する貧民街――『非合法街区バリアーダス』の一つに潜伏していた一派は格差社会の〝革命〟を唱えており、これに期待を寄せる貧困層の中には協力者も少なくなかった。

 くだんの組織が拠点としていたのは貧困層と富裕層の居住区が万里の長城の如き壁で隔絶された非合法街区バリアーダスである。同地の人々から『恥の壁』と忌々しげに呼ばれるは絶望的な貧富の格差と、ここから生じる差別意識の象徴であった。

 国家警察のおとりという〝立場〟で『恥の壁』まで足を運んだとき、くだんの組織を手助けする者たちから山刀マチェーテでもって襲撃されたのだが、そうした〝革命〟の盲信と恭路の姿がキリサメには重なって見えたのである。

 己の全存在を捧げるほど心を傾け、盲信にまで至った人間は脅した程度でたじろぐことはない。『恥の壁』にいても『聖剣エクセルシス』を振るい、力ずくで薙ぎ払うしかなかったのだ。

 そして、それは総長への忠誠心が道義すら上回る恭路も同様だろう。

 人の一念の恐ろしさをキリサメは身をもって知っていた。

 〝革命〟の呼び声のもと、反政府活動の先兵に仕立て上げられたのは貧富の格差に喘ぐ人々であった。その一念は巨大な塊と化して〝大統領宮殿〟まで押し寄せ、ついには死傷者を出すほどの騒乱を引き起こしたのである。

 こうなった以上、恭路に対してるべき選択肢は一つしかなかった。もはや、喧嘩殺法ちからもってして〝資格〟を示さなければ暴走は止まるまい。

 大振りの左拳をかわされた恭路はバンカーの砂を巻き上げながら腰を逆方向に捻り、対の拳にて胴を抉る打撃ボディーブローを試みた。左右の拳を連続して突き込むことで『しゅちょう』なる技は完成されるのだろう。

 がねいろの一閃を断ち切るようにして左の五指を繰り出し、恭路の右手首を素早く掴んだキリサメは続けて己の背中と相手の腹を密着させ、そこから上体を撥ね起こして投げ技を仕掛けた。


「ごめん。ちょっと技を借りたよ、電知」

「この野郎、嬉しいコトしてくれるじゃね~か!」


 それは電知が路上戦ストリートファイトいて用いた投げ技の一つである。今し方の恭路のように片腕を突き上げた瞬間、何が起きたのかも分からない内に攻守を引っ繰り返されたのだ。

 反撃を図ろうとした瞬間にくだんの技が脳裏を掠め、反射的に模倣を試みた次第である。

 完全には術理を理解していないものの、上昇する勢いに相手を巻き込むことだけは察している。勘が頼りという見様見真似だけに瞬間移動と錯覚するような速度には程遠いが、喜色満面の電知を窺う限り、落第点は免れたらしい。

 隣に立つカリガネイダーの肩を叩いて喜ぶ電知に対し、片手一本で投げ捨てられた恭路は呆けたようにキリサメの顔を仰いでいた。

 電知に投げられた直後の自分も彼のように間の抜けた顔を晒していたのだろうと、キリサメは身のうちがむず痒くなった。何しろ気付いたときには景色が回転していたのである。


「な、なかなか良いモン、持ってんじゃねーか!」


 カップ・ホール付近まで身を転がして間合いを取り、砂まみれの上体を引き起こした恭路は瞬間的に両足から力が抜け、大きく姿勢を崩してしまった。

 反撃に備えて身構えていたキリサメには拍子抜けも良いところである。受け身が取れないことは予想していたが、肉体からだが軋むほど強く叩き付けたわけではなかった。砂の上に軽く転がしたつもりだったのだ。

 ひょっとすると恭路は『あらがみふうじ』なる流派を称し、また城渡総長の親衛隊長などと胸を張っておきながら、他者ひとから反撃を受けることにすら慣れていないのかも知れない。


(……桁外れの過保護なのかな、城渡氏は……)


 やはり、素人に毛が生えた程度という見立ては誤りではなさそうだ。標的を殴り付けるすべは知っていても〝実戦〟経験など皆無に等しいのだろう。あるいは恭路のほうこそ城渡たちに守られていたのではないだろうか。


「待ちたまえ、キリサメ君! キミはもう〝プロ〟の総合格闘家なのだ! 私の言っている意味が分かるねッ⁉」


 電知の真隣で攻防を見守っていたカリガネイダーは、キリサメが恭路を投げ捨てた直後から身を強張らせている。

 これまで恭路の技をかわすことのみに努めてきたキリサメが初めて反撃したのである。それはつまり、〝交戦〟の意思表示でもあるわけだ。

 だからこそ、カリガネイダーは自重を呼び掛けずにはいられなかった。

 彼の脳裏にはキリサメと電知が繰り広げた凄惨な路上戦ストリートファイトの記憶が生々しく甦っている。己の双眸で確認したのは攻防の終盤のみであったが、どちらかの命が失われたかも知れない戦慄は二人の足元を染めた鮮血の色と共に網膜に焼き付いているのだ。


「〝素人〟をブン殴ったら大会に出れなくなるかもってか? 『天叢雲アメノムラクモ』はボクシングと違ってライセンス制でもねぇってのに小せェコトにビビってんじゃねぇぜ!」


 カリガネイダーの呼び掛けを受け、キリサメ本人に向かって挑発めいた言葉を浴びせる恭路だったが、反撃された動揺から立ち直れないのか、その声は明らかに震えていた。


「ヘタレ根性を蹴っ飛ばしてやるぜ! 次は天空三連脚のでんらく』――」

「――あんたは本当に城渡氏のことを考えているのか? 考え抜いて、その程度か?」


 バンカーからグリーンへ歩を進めてくるキリサメに『げき』の二字が記された背中を向け、その状態から後ろ回し蹴りを繰り出そうとする恭路であったが、一段と大掛かりな動作は攻撃へ移る前に堰き止められてしまった。

 右の五指にて〝短ラン〟を捉えたキリサメが学校指定の物ではない改造ボタンごと恭路の胸倉を掴み上げたのである。

 恭路の口から焦ったような呻き声が洩れたのは無理からぬことであろう。肉体からだの輪郭がジャージで隠されると細身にしか見えないキリサメに腕一本で持ち上げられてしまったのだ。両足を激しく振り回して抵抗しているが、今や彼の身は地面から完全に離れていた。

 宙吊りに近い状態でもがく恭路の顔をキリサメは一等冷たい眼差しで見据えている。


「今、ここに警察が駆け付けたらどうなる? あんたが言うように僕は『天叢雲アメノムラクモ』から追い出されるだろうな。でも、それだけで済む問題なのか?」

「ビ、ビビりが何をゴタク並べていやがる! と、とっとと降ろしやがれ!」

「警察は僕を釈放しても、あんただけは逃さないハズだ。バカな真似をした理由も取り調べで吐かされる。……強情張って口を割らなくても警察は必ず城渡氏まで辿り着くぞ」

「ンなの、知ったことか! 警察サツが怖くて〝ゾク車〟転がしてられっかよ! こいつはオレらの間の問題だ! 公僕にだって邪魔なんかさせねぇぜ!」

「ペルーの連中はカネさえ払えば見逃してくれたけど、日本の警官も同じくらい無能なのか? あんたの独り善がりが通じる相手なのか?」

「はァッ⁉ ヘンな名前だなーとは思ったけど、お前、ペルー人なのかよ⁉ どこまでもバカにしやがって! 『コテコテの日本人ッス』ってなツラしてオレを騙してやがったんだもんなァ! やっぱし信用ならねークソカスだぜ!」

「僕を否定できる理由が見つかってそんなに嬉しいか。……自分にとって都合の悪いことを喚き声で誤魔化さないで、現実を見つめろよ」


 恭路に投げ掛けられる言葉を聞き、誰より安堵したのはカリガネイダーだった。まさしくそれは彼自身がキリサメに訴えたかったことなのだ。

 何しろ恭路は立ち居振る舞いの全てが大きく、張り上げる声も喧しい。太陽が燦々と輝く昼下がりにオフシーズンのゴルフ場で騒動さわぎを起こせば、近隣住民が不審者と思って警察に通報するだろう。

 パトカーが現場ここに到着したとき、電知と繰り広げた路上戦ストリートファイトのような惨たらしい有り様であったなら「ふざけて小突き合っていただけ」という言い訳も通用しないのだ。

 そこから先は『天叢雲アメノムラクモ』ひいては『まつしろピラミッドプロレス』をも巻き込んだ最悪の事態しか考えられないのだが、どうやらキリサメ自身が〝プロの格闘家〟として超えてはならない一線を弁えている様子だった。

 理路整然と恭路を諭せるくらいだから冷静さも保っているのだろう。以前の路上戦ストリートファイトでは法すら踏み破りそうな気配を漂わせていただけに『天叢雲アメノムラクモ』と契約を交わした〝立場〟を自覚していることへカリガネイダーも胸を撫で下ろしたわけである。

 勿論、過剰防衛の兆しを感じたときには両者の間に割って入ってでも食い止めるつもりだった。若者が道を誤らないよう見守ることこそ〝大人〟の務めなのだ。


「一体全体、何が言いたいんだ、てめーは⁉ 小難しいコトをベラベラとォッ!」

「あんたのやっていること自体が城渡氏の顔に泥を塗るってことだ。あんたが逮捕されたら城渡氏はどうなる? メンツどころか、今の〝立場〟だって丸ごと吹き飛ぶんだぞ」

「ンなこと、どうしててめーに分かんだよ⁉ 何様なんだ、この野郎! 世紀の大予言者ノストラダムス気取りなんざ今ドキ流行らねーぜ!」

「……どうしてあんたは理解わからないんだ」


 息苦しそうに自分の右腕を叩き続ける恭路のパンチパーマを見上げたキリサメは、そこに彼が総長と慕ってやまない城渡のリーゼント頭を想い出していた。

 城渡マッチと顔を合わせたのはマッチメイクの交渉が行われたとき――ただ一度のみである。最初は剥き出しの敵意を浴びせられたが、MMAへ挑む勇気と度胸を示す内に態度も軟化していき、キリサメ自身も彼の気風を理解できたつもりでいる。

 ひとたび、対戦相手を認めたからには承服し難い条件まで呑み込むという度量を備えていればこそ、荒くれ者たちを率いることができるのだろう。

 その大器うつわがたった一人の手前勝手な暴走の所為せいで台無しにされようとしている。何事にも無感情なキリサメであるが、こればかりは見過ごせなかった。現在いまの彼にとって城渡は『天叢雲アメノムラクモ』の先達であり、同じ戦場リングに立つ〝同僚〟なのだ。


「メンツや〝立場〟だけの話じゃない。自分の所為せいであんたが暴走したと知ったら、あの人はどう思う? さっき総長の気持ちを考えたことがあるのかって訊いたよな。その言葉をそっくりあんたに返すよ。……城渡氏を悲しませるな」


 我が身に置き換えてみれば岳が背負った統括本部長という肩書きに泥を塗るようなものである。そして、凶行に走った理由を知らされた養父は立ち直れないほど深く傷付いてしまうだろう。大切に育んできたつもりなのにそれが一つも届かず、力を尽くしたこと全てが間違いだった――そこまで追い詰めてしまうかもしれないのだ。

 敬愛する人の為に起ち上がりながら、誤った道をどこまでも突き進んでいく恭路を野放しにはしておけない。何としてもで終わらせなくてはならなかった。


「ペラペラペラペラと好き放題に何なんだ、てめー⁉ 『武運崩龍ブラックホール』の仲間でもねぇし、ちょっとばかしお喋りしただけのてめー如きに総長の何が分かるってんだ⁉ あんま図に乗ってっとマジ轢き殺すぞッ!」

「……そうだ。城渡氏とは一回だけ会ったきりだよ。その程度しか付き合いのない僕に分かることが長年の仲間にどうして分からない? 一体、あの人の何を見てきたんだ?」

「総長はなぁッ! ……総長は親に捨てられて人生ドン底だったオレを見捨てずにいてくれたんだ! あの人がいなきゃオレはクソ親父みたいに落ちぶれて――そんなでっけぇ人をてめーなんかに理解わかられてたまっかァッ!」

「恩義は口先で自慢するもんじゃなく、行動で返すものだと母も言っていたよ。あんたは言っていることとやっていることがデタラメだ」

「急にマザコンキャラを出してきやがって! とにかくてめーはうるせぇ! ひたすらうるせぇッ! うるっせぇぇぇぇぇぇェェェェェェッ!」


 ついにキリサメの説得ことばが恭路に届くことはなかった。それどころか、彼の怒りを煽り立てる結果に終わってしまった。

 訳知り顔で城渡総長の心情を語ることが許せなかったのだろう。〝短ラン〟を掴んでいた右腕をかんしゃくでも起したかのような激しさで振り解き、着地するや否や、血走った眼で彼の顔面に唾を吐きかけた。

 大人であることを誇示しながらもカリガネイダーのような思考かんがえは持ち得ず、自分の思い通りとならないことに駄々を捏ねる幼児と大して変わらないように見える。

 あるいは身のうちから湧き起こる激情に彼自身が振り回されているのかも知れない。熱い雫が双眸より迸っていた。


(……口が上手くもないのに出しゃばり過ぎたな……)


 頬に掛かった唾と涙をジャージの袖で拭いつつ、キリサメは言葉選びの失敗を心の中で悔やんだ。

 理詰めで突き刺しはしたものの、恭路を暴走に駆り立てた激情ものが全く理解できないわけではないのだ。最初こそ言行の全てを意味不明としか思えなかったが、喚き声が鼓膜を打つ間に己と似通う部分も少しずつ見えてきたのである。

 もしも、現在いまの城渡と同じような状況に岳が陥ったとしたら、きっと自分も恭路と同じことを仕出かすに違いない。その原因が樋口であれば『聖剣エクセルシス』を担いで渋谷のオフィスに討ち入ったはずである。

 初めて言葉を交わしてからまだふたつき程度しか経ってはいないものの、自分のような人間を〝家族〟として迎え入れてくれただけでなく、分不相応ともいうべき挑戦をも支えてくれる養父には一生を費やしても返せないほどの恩義を感じているのだ。

 恭路もまた同様の想いを秘めてこの場に立っている――それだけは間違いなかった。


「とことんキリサメと相性悪いみてーだな、このチンドン屋もどき。痛ェトコをグサグサ抉られたらキレても仕方ねぇけどよ。……こうなったらお前の手で〝始末〟を付けなきゃ終わらねぇぜ」

「ああ、……そのつもりだ」


 電知から覚悟を問われるまでもなく、最初から〝始末〟の付け方は分かっている。

 だから、キリサメは腕をだらりと垂れ下げたまま両拳を握り締めた。カリガネイダーの不安そうな眼差しも感じてはいるが、もはや、力で応じるしかないのだ。

 格闘技を『暴力』と断じて嘲る鹿しかの薄ら笑いが不意に脳裏を掠めたが、現在いま、この瞬間ときには恥じ入ることなど何もなかった。


「完全オリジナルのオレ式でブッ殺してやる――『J・H・Sジャンピング・ハイペリオン・サディスティックキック』だァッ!」


 一度、間合いを取って呼吸を整えながらも零れ出す涙はそのままにして、恭路は猛獣のように吼えた。冗長な技名なまえから察するに飛び蹴りの一種なのだろう。キリサメに向かって跳ね飛び、鉄板を仕込んだ革靴でもって頭部を脅かそうというのかも知れない。

 キリサメは今度こそ真っ向勝負で応じようとしている。恭路の動きに合わせて自らも跳躍し、この勢いに乗せて渾身の右拳を叩き落とすつもりなのだ。左の五指で対の手首を掴んだのは両腕を振りかぶる前段階であった。

 キリサメ・アマカザリという新人選手ルーキーは城渡マッチと対戦するだけの資格を本当に備えているのか――遭遇してから今まで恭路はその一点を問い続けていた。これを示すことはキリサメとしても望むところである。

 改めてつまびらかとするまでもなく、恭路は『サムライ・アスレチックス』とは無関係だ。それ故に城渡への挑戦権を彼から勝ち取っても『天叢雲アメノムラクモ』には何の効力も発揮しない。しかし、己の心に垂れ込めていた〝靄〟を晴らすことはできるだろう。

 樋口社長の独断と権限に基づき、MMA選手として不可欠であろうはずの体力チェックや予備知識のテストが免除され、ほんの数分間の面接だけで〝プロ〟として認められてしまったのだ。

 その点は恭路よりも先に城渡本人から厳しく糾弾されており、キリサメの中でも蟠りのように引っ掛かっていた。

 己が本当に〝プロ〟として相応しいのか、今でも確信が持てずにいる。そのように宙ぶらりんな心を持て余していたからこそ、城渡や恭路から『天叢雲アメノムラクモ』の戦場リングに上がる資格を疑われてしまったのである。


(……そうとも。僕はもう貧民街スラムの悪童じゃいられないんだ――ッ!)


 恭路一人を納得させられなくて〝プロ〟の世界で通用するとは思えない。銭坪満吉のように悪質な人間が蔓延はびこるワイドショーは〝プロ〟にあるまじき姿を少しでも見せれば私刑リンチ同然に誹謗中傷を繰り返すだろう。それもまた岳の名誉を傷付けることに繋がるのだ。

 養父ちちの期待に応え、その恩に報いる為にも、未稲との誓いを果たす為にも――今、ここで恭路が求める資格を開示しなけれならない。それが〝プロ〟としての第一歩なのだ。


「受けて立つ――」

「――ほげぇッ!」


 しかし、恭路とキリサメが空中で交錯することはなかった。今まさに飛び蹴りを放とうとした瞬間、右の靴底に嵌ったままだった空き缶で足を滑らせ、勢いよく転んでしまったのである。朝露に濡れた芝生が災いしたようだ。

 しかも、左右の足裏が青空を仰ぐほど盛大な横転だった。爪先を追い掛ける鈍い音も恭路の耳に届いていたはずだが、本人の脳がを認識することはなかっただろう。泡を吹いて白目を剥いたのは後頭部をしたたか打った証拠である。

 唾に込められた怒りも、涙として溢れた城渡総長への思いも、どちらも受け止める覚悟で拳を握ったキリサメは想像を遥かに上回る幕切れに思考あたまいていけず、助けを求めるように電知を見つめるのだった。


「やっぱり、吊るしとくか?」

「二本松さんにも野放しにしないよう頼まれたからね。気は進まんが、どうするね?」


 電知とカリガネイダーからたずねられても呆けた顔のキリサメには答えようがなかった。

 〝プロ〟のMMA選手として覚悟をもって応戦するつもりだったのに見せられたのは自滅の再現である。今時、不出来な喜劇コメディ映画でもバナナの皮で滑る末路オチなど使わないはずだ。


「――おっ? 恭路のヤツ、道路で昼寝とは大胆じゃん。昨夜、あんま寝てねぇもんな。風邪引かないよう毛布代わりに陣羽織コレでも掛けてやるか」


 不意に割り込んできた声の方角へ首だけ振り向かせると、右腕を大きく突き上げつつ道路のほうから歩いてくる岳の姿が認められた。一夜明けても青痣あざが消えない痛々しい顔ではつらつと笑うものだから何とも薄気味悪い。


「昼寝なんて……暢気なことを言ってる場合ですか」


 隣には麦泉も並んでいるのだが、ここに至る経緯をブラックトイシマンにでも教わったようで岳とは正反対に一等険しい表情かおであった。

 山荘の清掃は彼と岳が中心となって取り仕切っていた。誰かが緊急事態の収拾を求めたのでなければ、二手に分けた片方のグループのほうが持ち場を先に片付け終えたということになる。

 それはつまり、最後の一つを残して合宿の日程スケジュールが完了したことを意味しているのだ。


(……一体、僕は何をやっているんだろうな……)


 〝プロ〟の決意を握り締めた拳を見つめながら己に問い掛けても、「不毛な時間」という答えしか返ってこない。それどころか、午前中に電知と行った激しい打撃訓練以上の疲労が圧し掛かってきたような気がして溜め息も洩らしてしまった。

 それでも、今から己がすべきことはただ一つだと見定めている。

 昨夜と同じように駆け寄ろうとするカリガネイダーを制し、二本松から恐怖の通告ことばを預けられた麦泉をも目配せで押し止めたキリサメはひっくり返ったままの恭路を背負った。

 身長は恭路のほうが少しばかり高いが、体重は想像よりも軽く、キリサメの筋力で苦もなく持ち上げることができた。実際、〝短ラン〟から覗く胸板も相当に薄い。『あらがみふうじ』などと厳めしく流派の名を掲げていながら日常的に鍛えているわけではないのだろう。


「……情が移っちまったみてェだけど、日本じゃゴリラをペットにできねェハズだぜ」

「そうじゃない。……ただ放っておけないんだ」


 理解に苦しむといった面持ちで目を丸くする電知にはキリサメも苦笑いを浮かべるしかなかった。恭路を背に負ぶった本人こそ誰よりも己の行動に驚いているのだ。

 おそらくは無意識に漏らしてしまったことだろうが、激しい感情を爆発させた瞬間とき、恭路は親から捨てられて路頭に迷いそうになったところを城渡に救われたと語っていた。

 自分と同じように養父ちちへの恩に衝き動かされる恭路のことをキリサメはどうしても人任せにしておけなかったのである。


「――お前はオレだよ、キリー」


 初めて出会った故郷ペルーで握手を求められたときに岳から掛けられた言葉が脳裏に甦った。

 養父ちちの過去については殆ど知らない。詮索しようとも思わない。しかし、生まれも育ちも違う誰かに自分を重ねてしまう〝何か〟があったのだろう。

 ほんの少しではあるものの、今、キリサメは初めて養父ちちの気持ちを理解できたような心持ちであった。


「そういうのを情が移ったっつーんだよ」

「……こんなの、ただの根負けに過ぎないよ」


 呆れたように肩を竦めてみせる電知ではあったが、決してキリサメを揶揄することはない。静かに微笑みながら〝親友〟の行動を誇らしげに見守っていた。

 ふと目を転じると、岳までもが蕩けるような笑顔を浮かべているではないか。「折角だから携帯電話スマホで記念写真撮っとこう!」などと無粋なことを言い出し、麦泉から脇腹への肘鉄砲で押し止められる始末だった。


「――そーか、そーかッ! 根負けっつったか! オレに負けを認めたってか! おい、今の敗北宣言を録音したヤツはいねーのか⁉ やっぱし常勝無敗の『武運崩龍ブラックホール』に無理はなかったぜッ!」


 いつの間にか意識を取り戻したらしい恭路が背中で喧しく大笑いし始めたが、こればかりはキリサメも黙殺を決め込んでいる。「根負け」の一言を拡大解釈して己の勝利と信じ込める人間は相槌一つでも有頂天になるだろう。余計に調子付かせることはなかった。

 尤も、恭路がキリサメの背中でピースサインを作っていられたのは一瞬のことである。遠くから凄まじい爆音が聞こえてきた途端、彼は口を真一文字に引き締め、全身を小刻みに震わせ始めた。

 二台分の爆音は奇しくも恭路のバイクが駆け抜けた道を辿り、キリサメたちのもとへ一直線に近付きつつある。山荘の庭に停められた『ガンドラグーンゼロしき』と同じようにマフラーを改造した〝ゾク車〟なのだろう。

 『ガンドラグーンゼロしき』こそに倣ったと表すほうが正確に近いのかも知れない。


「良かったじゃね~か、恭路。お迎え、予定より早く来てくれたみたいだぜ!」


 岳の口からが発せられるや否や、恭路は「助けてッ! 降ろしてッ! 頼むから見逃してッ!」と身も世もない悲鳴を上げつつキリサメの背中で暴れ始めた。

 無論、この場から逃れるすべがないことは恭路自身が誰よりも良く分かっている。それでも金色のパンチパーマを掻き毟り、「この世にゃ神も仏もねーのか⁉」と叫ばずにはいられなかったのである。


「この恨み、絶対に晴らすからな! 死ぬまで許さねーからな、アマカザリ! いや、今日が命日になるかもだけどッ⁉」

「遺言くらいなら聴いてやる」

「縁起でもないからマジでやめてェッ!」


 すぐ近くで二台分のエンジン音が止まった。このゴルフ場が自分の墓場になることを恭路はいよいよ覚悟するのだった。


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