その3:合宿~頼れる修行仲間は社会人レスラー!
三、合宿
長野県を拠点に活動する地方プロレス団体『まつしろピラミッドプロレス』――昨今のローカルヒーローブームなど〝地方〟を発祥とする文化が観光資源として注目される中、彼らはまさしく飛躍を迎えていた。
先日も異種格闘技食堂『ダイニング
本業を他に持つ社会人が結成した『アマチュアのプロレス団体』ではあるものの、己の
一時は長期の戦線離脱も危ぶまれたが、同団体が本拠地を置く長野市松代の温泉で湯治を行ったところ、負傷した足が劇的に回復。ライバルレスラーのブラックトイシマンをして「松代歴代藩主のオーラが秘湯を通して彼の
復帰したカリガネイダーはすぐさま特別強化合宿を宣言。療養中に
観客から褒め称えられるほど善戦したとはいえ奥羽の雄に敗れたのは紛れもない事実。次こそは信濃最強の名誉挽回を果たすという決意表明である。
カリガネイダーが合宿先として選んだのは標高二〇〇〇メートル級の山々に囲まれた冷涼な地――
豊かな自然と清涼な空気、喧騒とは無縁の静けさの中に温泉まで湧き出していることから〝日本のダボス〟とまで呼ばれる国内有数の別荘地である。
それはつまり、スポーツにも最適の環境ということを意味している。
ロードワークは特に爽快だ。白樺の木々が立ち並ぶ一本道を『まつしろピラミッドプロレス』の所属レスラーと練習生たちは威勢よく駆け抜けていった。
五月の足音が聞こえ始めた時期にも関わらず、山肌には冬の名残が白く煌めいている。高原地帯とはいえ例年ならばスキー場の営業が終わり、雪解けを迎えているはずなので、あるいは日本列島を凍て付かせた豪雪被害の爪痕と呼ぶべきかも知れない。
『まつしろピラミッドプロレス』の面々は
「――どうだ⁉ 身体の芯から燃え
自転車に跨って伴走するのは外部コーチとして技術指導を担当する八雲岳だ。一人一人の様子を見守りながら叱咤激励を飛ばし、落伍者を出さないよう導いている。
その一団に風変わりな少年が混ざっていた。
『まつしろピラミッドプロレス』のメンバーは正規レスラーと練習生の区別もなく、外部コーチまで含めて皆が揃いのランニングウェアを身に付けているのだが、その少年だけは自前と
戦国武将のように
周囲に全く溶け込まない服装の少年はキリサメ・アマカザリであった。仲間外れのような状況も気にならないのか、ただただ黙々と走り込みをこなしている。
山の景色を一望できるサッカーグラウンドではフィールドの端から端まで幾度となく往復したが、体力不足の練習生が
今回の強化合宿はなるべく器具に頼らないよう岳から指示が出されている。その為、走り込みや二人一組による筋力トレーニングが中心となっており、芝生の上で相撲に興じるような一幕もあった
社会人団体ということもあって『まつしろピラミッドプロレス』は気さくな者が多い。口数の少ないキリサメにも積極的に話しかけ、特訓メニューへ一緒に取り組んでいた。
苦しそうに腕立て伏せをする相手に励ましの声を掛けることもこの少年は初めてだったのだろう。何ということもない応援も
一通りの筋力トレーニングが済むと、いよいよプロレスラーらしい練習に移った。
『まつしろピラミッドプロレス』が合宿所として借りたのは奥ダボスの手前に所在する古い山荘である。木立に囲まれた広い庭へ設置したプロレス用のリングの上で岳による技術指導が行われるわけだ。
狭いリングへ全員で上がることは物理的に不可能なので、数名ごとに交替で指導を受ける段取りとなっている。
無論、待機中の者たちもリングサイドでトレーニングを続けている。順番の近い者はストレッチで身体をほぐし、また
ここでもキリサメは異彩を放っていた。よほどの巨漢でもなければ、ぶら下がって折れる心配がなさそうな太い木の枝に掴まり、片手懸垂を交互に繰り返しているのだ。
掴んだ枝より高く身体を持ち上げる度に練習生から感嘆の溜め息が
「……あのリングも『ハルトマン・プロダクツ』製なのか。何でも作ってるんだな……」
持久力とて桁外れである。片手懸垂の最中、彼は一息つくことすらなかったのだ。それどころか、リング上のマットに刷り込まれたメーカー名を読み取るほど余裕だった。
「――よ~し、キリー! お前もこっち来い。できる限り、身体を動かしとけ!」
リング上でスパーリングが開始されると、岳はキリサメにも加わるよう呼びかけた。
彼の相手はトップレスラーのカリガネイダーが直々に務めたのだが、アマチュアとはいえ二回りは大きなプロレスラーと組み合ってもキリサメは全く力負けしなかった。
キリサメの素質を見抜いたカリガネイダーは手加減無用と考えて全力で臨んでいる。だからこそ、自分が競り負けつつある現実に愕然としたのである。
「少年……! キミの強さは承知していたハズだが……余りにも予想外! いや、この場合は規格外というべきかな⁉ 八雲先生のスパルタ特訓の成果だろうかッ!」
「いえ、岳氏は筋トレとかあまり教えてくれなくて……。もうすぐ試合なのに今のままで大丈夫なのか、正直、心配になっています」
「それでコレかね! ……全く末恐ろしいなァッ!」
痩せ気味にも見える肉体にどれだけの
相撲を取ったときのことを振り返っても彼の強靭さは明白だった。ラグビーのスクラムのように練習生が数人がかりで突進しても微動だにせず、軽く押し返していたのだ。
「ふんぬーッ!」
切り返しを図ったカリガネイダーはキリサメから離れ、鋭いフットワークで側面より再び攻めかかる。間もなく右腕を捉え、岳直伝の関節技へ持ち込もうと試みた。
これを見て取った岳は、その場で回転するようキリサメに指示を飛ばした。
果たしてキリサメは命じられた通りの動きを実行し、腕を完全に
もしも、
次にコーナーポストの上に登ったカリガネイダーが急降下の勢いを乗せた体当たりを仕掛けてくると、キリサメは接触するか否かというギリギリまで引き付けてから横に跳ね、これを避け切った。
「良いカンジだったぜ、今の動き! キリーの反応速度は今日も冴え渡ってるなァ!」
「似たような技なら
「マジかよ⁉ 父ちゃん、嬉しくて堪らねぇぜッ!」
わざわざ待ち構えていなくとも十分に回避できる大掛かりな攻撃であったのだが、これもまた岳の指示通りである。彼曰く防御の
結局、スパーリングに
天賦の才を見せつけられてはカリガネイダーも悔しさを突き抜けて、ただただ感心するしかなかった。
一方のキリサメも決してカリガネイダーを見下したりはしない。スパーリングの相手を務めてくれることに感謝して一礼し、岳からの指導も真摯に受け止めている。このように誠実な少年には脱帽の二字しか持ち得なかった。
キリサメ・アマカザリにとって、
先生である岳から指示された通りにミドルキックを放ち、
試行錯誤を経る度に彼の身のこなしは鋭さを増していく。いつしかカリガネイダーのほうもキリサメの飛躍を嬉しく感じるようになり、リングサイドへ降りた後も引き続いて組み合っていた。
その日の練習が一区切りを迎える頃にはすっかり打ち解けており、互いの健闘を称えるかのように力強く握手を交わし、同じ先生のもとで学ぶ同級生になったのだった。
陽が暮れると、今度はバーベキュー大会である。
分厚い肉の塊や
若き日に演歌の道を志したというカリガネイダーのライバルは驚くほどの美声であり、耳を傾けるキリサメを心地良い充足感が満たしていった。
天を焦がさんばかりに逆巻く炎の色を映した顔にも安らかな微笑みを浮かべており、
天空のインカ帝国より遣わされた聖なる鳥が『
「――こんな感じでどうよ?」
「いえ、あの……『どうよ?』って言われても……」
半ば強引に見せられた映像について感想を求められても答えようがなく、キリサメはただただ困惑するばかりだった。
しかも、全て隠し撮りである。何時、カメラを向けられていたのかもキリサメ本人には分からず、そもそも撮影を許可した
合宿所である山荘の広間には六人掛けの
撮影者もとい作成者曰く、映像に付けられたナレーションは仮の物であり、完成品では鬼貫道明の声と差し替えられるそうである。
キリサメが求めているのは映像の補足説明ではない。どういう了見で隠し撮りという犯罪を
ナレーションに関してもキリサメは愉快とは言い難い感情を抱いていた。
それだけであったなら事実無根の妄言と切り捨てるだけで済んだが、その時々に考えていたことを正確に言い当てられてしまっていた。だからこそキリサメも心穏やかでいられなかったのである。
映像の作成者に心の内を見透かされたようなものであり、殆ど恐怖体験に近かった。
意味不明な箇所も多い。締めくくりに引用された『天空のインカ帝国より遣わされた聖なる鳥』とは何なのか。ペルーで生まれ育ったキリサメでさえ聞いた
(……あー、確かマチュ・ピチュが空中楼閣とか天空都市とか呼ばれていたっけ。そこから思い付いたのか? ……僕はアンデスの山間部で暮らしていたわけじゃないのに)
隣の席で咽び泣くカリガネイダーのこともキリサメには理解できない。自分の姿が画面に映った瞬間からシャツの裾で涙を拭っていたが、淡々と練習メニューをこなしていく場面のどこに感極まる要素があったというのか。
「
やたらと連呼される「感激」の二字から推察するに映像の一部に関わったという事実だけでカリガネイダーを興奮させるほど作成者は有名であるらしい。
だからといって名声は隠し撮りの免罪符にはなるまい。
「……ねぇ、お母さん。すっかりキリくん、固まっちゃったんだけど、〝煽りVTR〟を撮影する話は通してあったんだよね? 無許可なんてことは有り得ないよね?」
「キリーの場合、デビュー戦だろう? 一発目のインパクトは大事だからねェ。実録系のドキュメンタリータッチで攻めてみたよ。ああ、ちなみに今のポカーンとした顔もパソコンのカメラで録画してるから完成品のオチに期待しといてくれ」
「……ごめんね、キリくん。うちのお母さん、見ての通りのカンジだからさ。私のほうから全身全霊で謝るよ……」
キリサメの向かい側に座ってノートパソコンを覗き込み、次いで頭を抱えた未稲は映像の作成者に向かって「お母さん」と呼び掛けた。
しかし、カリガネイダーはこの女性のことを「
フルネームは
それ故に苗字が異なっているものの、未稲にとっては正真正銘の実母なのだ。薄紫に染められたベリーショートの髪は枝毛が多く、確かに彼女とも似通っている。髪質というよりは手入れに無関心な性格の相似である。
本人なりのこだわりなのか、額の中央に掛かる前髪の一部だけ毛先が紅かった。
「前の大会ンときを振り返ってみな、キリー。選手がリングに入場する前、モニターに面白い
「自分の才能が怖くなるよ。こないだも大リーグの
一緒に映像を眺めていた岳も得意満面といった調子で元妻のキャリアを披露していく。
『映像作家』の具体的な業務がキリサメには掴めなかったが、『
『
腑に落ちないことがないわけでもない。顔を合わせて仕事の話をしている元夫婦も、そんな光景を平然と受け止めている未稲も、キリサメには不思議でならなかった。
『
傍目には三人の仲は良好そうに見える。双方とも納得した上での円満離婚というものであろうか――
間もなく麦泉は広間を出ていったが、キリサメの追及から逃れたかったわけではないようだ。何やら慌ただしく廊下へ向かうとき、彼の手には
「んじゃ、キリーの入場はコレで決まりだね! ペルーの映像もちょいちょい挿れとくからさ! だからってホームシックになられたら困るよ!」
「そうとも、少年!
「……お好きなように……」
諦めたように溜め息を吐き、大興奮で両腕を突き上げるカリガネイダーへ無感情に相槌を打つキリサメは、岳の元妻との対面は言うに及ばず、殆ど何も聞かされないまま
発端は数日前まで遡る。
殺陣道場『
カリガネイダーが一泊二日の特別強化合宿を計画しているので自分たちもそこに混ざろうと言い出したのである。
思い付きの行動のようにも思えたが、岳ならば絶対に間違った判断はしないと信じるキリサメは二つ返事でこれを承諾。『八雲道場』所属選手のマネジメントを担当している麦泉も伴い、新幹線で一ヶ月ぶりに長野へ向かったのである。
ところが、長野駅に到着して間もなくキリサメを唖然とさせる事態が発生した。
駅前には『まつしろピラミッドプロレス』の手配したレンタルバスが待機しており、大型自動車第二種免許を所持するカリガネイダーが運転席に腰掛けていた。火の玉の色のプロレスマスクを被ったままで
近くの駐車場には同団体のロゴマークが入ったトラックが停まっている。大量の機材を積載した車輛はレンタルバスへ追従する段取りとなっているのだろう。
この時点でおかしいと気付くべきだった。
果たしてレンタルバスは松代を通過して峠道に入り、呆然としているキリサメを
嶺子は一足早く自家用車で合宿所の山荘に到着していた。
降車してすぐに挨拶を交わし、岳と彼女が元夫婦であることを教わったのだが、このときには
こうした経緯からも岳が隠し撮りに加担していたことは疑いようがない。キリサメが非難の目を向けると能天気にもピースサインで応じる始末であった。
(……こんな両親のもとに生まれついて、よく気がおかしくならなかったな。みーちゃんのこと、改めて尊敬するよ……)
結局、彼は何も知らないままトレーニングの様子を撮影され、夜になってようやく真実を知った次第である。
それでもキリサメは養父への恩義から
「――おれの出番が全カットじゃねーか! キリサメとペア組んでたのはおれなのに!」
大声で文句を垂れるのは鼻背に小さなガーゼを貼り付けた空閑電知である。
この少年は『
キリサメに折られた鼻骨がほぼ完治した彼も
デビュー戦が迫ったキリサメとの稽古ならば互いに得るものも多いだろうと思い付いた電知は
一時停戦のような状況とはいえ、依然として『
キリサメと一緒に稽古できるわけだから電知にも断る理由がない。「前田光世大先生の御名を
キリサメとの
さすがはキリサメと互角以上の勝負を繰り広げた少年というべきだろう。傷が癒えたばかりだというのに
他のレスラーたちも初めて目の当たりにする『コンデ・コマ式の柔道』の切れ味に瞠目し、大喝采を送っていたのだ。
しかし、そのような勇姿は試作の
嶺子は電知の姿がカメラに入らないよう工夫し、誤って映り込んでしまった場面を巧みに削ぎ落とし、彼が存在した形跡そのものを徹底的に消し去っていた。
悪意に満ちているとしか思えない編集の仕方に彼は立腹したわけだ。映像の中には山荘の風呂場で身体を洗う場面も含まれていたのだが、キリサメの背中を流したのは他ならぬ電知なのである。
いつの間に撮られたのか、キリサメにも全く分からなかった。風呂場の窓を僅かに開けてカメラを差し込んだとしか思えないのだが、それは罰すべき犯罪行為であり、未稲の実母でなかったら椅子で殴り付けていたかも知れない。
「アンタ、『
電知のことを『
「でも、キリサメの
「そんなもん、音楽被せて潰しちまえば一発楽勝だよ。つーか、声だけでも残すと思ったんかい。見てくれ通りの大バカだね、コイツは」
「スポーツマンシップもクソもねぇババァだなァ! チックショ~!」
「うちの選手をボコろうとした乱暴者にスポーツマンシップを説かれるなんざ、アタシもヤキが回ったもんだよ」
「それに関しては証人たる私も表木先生に完全同意だな! キミの闘魂は本物だが、あの夜に犯した罪がそれで
「ここぞとばかりに〝ヨイショ〟かよ⁉
自分から噛み付いていって返り討ちに遭った電知は頭を掻き
「あんなモノで盛り上がれるなんて幸せな人たちですね。ワケが分かりません」
不毛な言い争いを続ける嶺子と電知を嘲った声はこの場の誰よりも幼かった。だからこそキリサメも振り向くより先に声の主が分かったのだ。
八雲家の養子であるキリサメにとっては義弟ということになるのだが、岳に別れた妻がいることも、そちらに引き取られた子どもがいることも、
もはや、それは驚愕の二字を
今は離れて暮らす母や弟のことも
「どうせ何時かはご対面になるんだし、折角ならサプライズのほうが面白ェと思ってな。仏頂面のキリーからあんなイカした
これが合宿で顔を合わせる当日まで
「嶺子の遺伝子が強かったのかもだけど、ヒロ坊は我が家でも珍しい頭脳派でな。末は総理大臣じゃね~かって父ちゃんは期待してるワケよ。あと何年かしたら、飛び級で大学生とか漫画みてェな展開をリアルで見せてくれるんじゃね~かな⁉」
〝親バカ〟の如く岳は
確かに耳の形などは嶺子と良く似ている。しかし、その一方で両目は垂れ気味であり、鼻も外国人のように高い。これらは両親のどちらにも共通していない部分だ。更に付け加えるならば未稲の目は垂れておらず、鼻はむしろ小さい。
際立って強い個性を示しているのは太い眉毛である。墨汁を吸い込んだ毛筆とも
似ていないのは顔の
あるいは格闘技そのものに善からぬ感情を抱いているのかも知れない。
表紙に刷り込まれた『南北朝時代の刑法』なる
自分が七歳の頃は活字が羅列された書物など全く受け付けなかった。生前の母が専門書を読んでいるところにも近寄らなかったくらいなのだ。
これに対して
黙々と読書に耽ることから物静かな印象を与えるものの、気性の激しさは母親から受け継いでいるらしい。好ましく思っていないらしい相手が「父ちゃん」と名乗ったときには聞こえよがしに舌打ちを披露したのだ。
離婚した親を嫌悪しているのかも知れないが、それにしても凄まじい拒絶反応だった。
そもそも、
岳にとっては我が子から父親と認められていないようなものである。
(まるで再婚相手に懐かない連れ子みたいだけど、みーちゃんやその母親とは血の繋がりが間違いなくあるわけで、……何だか
感情の爆発を抑えられないという一点だけを切り取れば年齢相応と思えなくもないが、父母が大人気ない行動を取り始めると、途端に憂いを帯びた表情へ替わるのだ。
この場の誰より幼い男の子が最も大人びた面構えという状況自体は滑稽だが、そこに
そんな
互いに何も喋らない為、キリサメと
「何やってんだ、お前ら……」
大仰に首を傾げた電知の呟きには
当惑を深めた
「……お兄さんは宇宙人か何かですか?」
「いや、日系ペルー人だけど……」
「……もう良いです……」
少ないやり取りだけでキリサメに対する全ての興味を失ったのか、
岳と話をしていて噛み合わなくなったときに決まり文句として呟いてしまう一言が自分に向けられる日が来ようとは――と、キリサメは愕然とした思いで頭を掻いた。
「ちびっ子人気取り作戦、失敗か? スキンシップから入るのは急ぎ過ぎかもだぜ」
「これはこれで正しいと思うぞ、少年! 子どもの心はいつだって自分以外の
「……放っておいてくれ」
一連の流れを傍らで眺めていた電知とカリガネイダーから苦笑いされても、キリサメは
己もまた口数が少なく、人から不愛想と思われていることも自覚しているが、この男の子の場合、接触を図ってくる人間を一切拒絶するような雰囲気を纏わせている。少なくともキリサメにはそのように感じられた。
何しろ実の母親にまで突き放すような目を向けるくらいである。産みの親を否定することほど哀しいことはなく、それ故にキリサメは
(……何となく自分に似ているって言ったら、もっと不機嫌になるかな……)
自分も
「ウチのガキの面倒見てくれてたんかい、キリー。いやあ、助かるよぉ! 内気っつーかネクラっつーか、姉ちゃんにもあんま懐かないからねぇ。それとも久しぶりに会って照れてるのかい? ウブだねぇ、このコは!」
「……未稲さんのことを姉と呼ばせて貰うのは違う気がするんだけど……」
岳が父親を称することを嫌悪する
「今さら何を言ってんだい。もっと小さい頃はお風呂だって一緒に入ってたじゃないか、アンタ。どう粋がったってオムツ換えてもらった過去は消せないんだからねェ」
その
「ほんのちょっと前なんだよ? そのときはお姉ちゃんお姉ちゃんって可愛かったんだけどなぁ。男の子ってよく分かんないなぁ」
「……やめて。そういう話は、ほんと……」
「まだまだもちもちのぷにぷにな年頃なのに甘えてくれないのは寂しいよぅ」
虚無の表情で押し黙る弟の様子に気付かず、瑞々しい頬を弄ぶ未稲のことを見ていられなくなったキリサメは思わず俯き加減となった。
未稲の行動や
立ち入ってはならない領域であると弁えているので親権の決着など仔細を穿り返そうとは思わない。離婚した両親にそれぞれ引き取られたものと察している。
複雑な環境が子どもに与える影響というものは計り知れない。両親の離婚がまだ幼い
家族の形が壊されたことへ痛みも何も感じていないようにしか見えない姉に
ひょっとすると、そこには岳と
(みーちゃんとこの子は中身もまるで違うけど、まさか、腹違いなんてことは……)
キリサメの脳裏に浮かんだ想像の真偽はともかく――心が年齢不相応に冷え切ってしまう条件が整っていることだけは間違いなかった。
水兵服を象ったジャケットに裾を折り返したジーンズという
「そうだ! 明日のお昼ごはんはヒロくんの食べたいものにするよ。何が良い?」
「はあァッ⁉ それはお前、カレーっつったろ⁉ 『まつしろピラミッドプロレス』特製の大盛り鹿カレーだって! おれの胃袋が全力で鹿肉を求めてんだ! なのに勝手に変えようとすんじゃねぇッ!」
「知ったこっちゃないでーす! どうしても信濃のご当地グルメを堪能したいんだったらその辺の野草を好きなだけど~ぞ!」
「まぁまぁ、落ち着きたまえ! 明日の炊き出しは予定通りに行うよ! 鹿カレーは我々を迎え入れてくれた
「そこまで気を遣う必要なんかないですよ、カリガネイダーさん。この人のお皿には鹿肉の代わりに白樺の皮でも盛ってやりましょう。剥がれて道路に散らばってる
「いちいちムカつくな、てめーは! やっぱし一発、ブン殴っときゃ良かったぜ!」
無遠慮に頬を揉み続け、更には頭上で電知と言い争いを始めた未稲に嫌気が差したのだろう。無言で書物を閉じた
溜め息を引き摺るのみで〝家族〟の誰かを振り返ることもない。
「待ってよ、ヒロくん。もっとお姉ちゃんと遊ぼうってば~」
「その辺にしておきなよ。僕も男だから分かるけど、構われ過ぎるのは厭なものなんだ」
「う~、そう? キリくんにはそう見えた?」
「あんなに嫌われるなんざ一種の才能だぜ」
「キミには聞いてないし! てゆーか、キミだってキリくんにウザがられてるじゃん!」
慌てて弟の後を追い掛けようとする未稲にキリサメは制止の声を飛ばした。
よしんば追い付いたところで今の未稲は邪険に扱われるだけであろう。傍らの電知にさえ痛々しい結果が見えていた。
「……みーちゃん、あんまり余計なことは言いたくないんだけど――」
キリサメとしても差し出がましい真似はしたくなかった。家庭の事情に踏み込むことへの躊躇いもある。しかし、自分もその一員なのだ。やはり、言うべきことは言っておかなくてはならない――その気持ちに衝き動かされ、未稲に釘を刺そうと身を乗り出した。
キリサメ自身が誰より驚いた行動は何かを言い掛けたところで止まってしまった。未稲の携帯電話(スマホ)から希更の歌声が流れ始め、当人もそちらへ飛び付いていったのだ。
改めて
異種格闘技食堂『ダイニング
架空の世界の住人へ
(……みーちゃん、こういうトコがあるよね……)
未稲と一つ屋根の下で暮らし始めて二ヶ月になるが、ネットゲームに対する没入の度合いが尋常でないことにキリサメも気付き始めていた。
ログインする時間を合わせてグループ全員で一緒に遊ぶという約束だけでなく、新たに加入したメンバーの歓待やオフ会の支度といったゲーミングサークルの事情までもが〝現実〟の
ネットゲームという文化自体が
インターネットひいては電脳空間から遠いところに居るキリサメには未稲が何もかも犠牲にして
これもまた〝富める者〟の戯れであろう。
同様の症状を貧民街の記憶に求めるならば、最も近いのは
ネットゲームという名の麻薬へ依存しているように思えてならず、丸メガネのレンズに映るアプリケーションソフトの画面を一瞥しただけで胃の底から何とも例え難い不快感が込み上げてくるのだった。
(……自分の性根が厭になる。みーちゃんにまでこんな気持ちになるなんて……)
「うちのヒロとキリーは波長が似てるねぇ。あのコ、あんたに興味津々だと思うよ」
「……思い切りフラれたんですけど、ご覧になってなかったんですか?」
「がっかりするこたァねぇぜ。ここンとこ、急にマセてシャイになっちまっけどよ、ヒロ坊もアレで人懐っこいコだからよォ。オレも昔はよく肩車してやったもんさ」
キリサメにとって意外だったのは岳である。彼こそ合宿が始まって以来、
自分以外の
馬鹿が付くほど真っ直ぐな養父を信じて己の運命を預けたキリサメだけに、
「その人懐っこい子から相手にされないのは、……岳氏だって一緒でしょう? 僕より付き合い長いみーちゃんだって構って貰えなかったし……」
「岳も話したろ? あのコはマセガキ気取ってんのさ」
そういって嶺子は岳と肩を組んで豪快に笑った。相変わらず紙巻きタバコを
出会ってまだ半日程度しか経ってはいないものの、嶺子が岳の〝同類項〟であることはキリサメも十分に思い知った。電知とは別の意味で馴れ馴れしい。思ったことを何でも口に出してしまう辺り、かつての夫に匹敵するくらい無神経なのである。
似たもの夫婦とは二人の為にあるような言葉だろう。
何しろ初めて顔を合わせてから一分と経たない内に「キリー」と
勿論、岳とは似ても似つかない部分がないわけではない。
タバコと酒で喉が焼けたのか、彼女は声が常に濁っていた。それ自体は嶺子本人の嗜好なので咎める理由もないが、未稲や
映像作家としては世界に通じる力量なのかも知れないが、興味の対象から外れるものは全く視界に入らないのだろう。それならば、隠し撮りに罪悪感など持つはずもあるまい。
そういう人間だと割り切るしかない――と、キリサメは己に言い聞かせた。
「横槍の
「こうなったらおれも意地だぜ! 四六時中、キリサメにへばり付いてやらァよ!」
ノートパソコンを閉じながら嶺子は新しい紙巻きタバコに火を付けていく。
吸殻を灰皿にねじ込んでから三〇秒も経たないのに口寂しくなったのだろう。ネットゲームに触れていないと気持ちが落ち着かない未稲と同じように、嶺子もまた紙巻きタバコから切り離されては生きていけないらしい。
「デビュー戦ってコトでバックボーンの紹介メインの地味な構成にしてみたけど、『コンデ・コマ・パスコア』に
「いえ、どうなるかは何も……」
どうやら嶺子の中ではキリサメが『NSB』との合同大会へ参戦することは既定路線のようである。
しかし、肝心のキリサメはデビュー戦すら終えていない。そのような状況で今後の展望を勝手に決め付けられても答えようがないわけだ。
「おい、待て! 前田光世大先生の――」
「――それはもう分かったから」
例によって例の如く
これだけ付きまとわれていれば、彼の行動パターンも読めるようになるわけだ。
「――おう、『コンデ・コマ・パスコア』で想い出したぜ! 嶺子ンとこに藤太から連絡行ってねぇか? メールとか電話とかよォ」
「……は?」
「しらばっくれんじゃねーって。藤太だよ、進士藤太。『コンデ・コマ・パスコア』でヤツと対戦するコトになりそうなんだよ、オレ! マッチメイクのコト、お前に何か言わなかったか? オレの話とかしてんじゃねェかなーってさ」
岳が『進士藤太』という名前を口にした途端、嶺子と未稲の表情が同時に凍り付いた。
進士
「……
一秒でも時間を無駄にしたくないと言わんばかりに
彼女が取ったのはあからさまな退避行動であった。
「……電知、ちょっとコンビニまで付き合ってくれないかな。喉が渇いてさ」
「えっ⁉ 今……おれのこと、名前で呼んでくれた⁉ い、行く行く行くッ! どこまでも
「待ちたまえ、少年たち! コンビニと言っても
今からこの部屋は大嵐に見舞われるだろうと直感したキリサメは、電知とカリガネイダーを伴って速やかに退室した。
道案内を買って出たカリガネイダーなどは戦慄に
二階の未稲と
「――驚いちゃったよ。社長のケータイに電話したのに、
山荘の外で電話をしていた麦泉と入れ違いになったが、彼はこれから広間に戻ったことを後悔するだろう。生き地獄さながらの大火事の中へ身を投じるようなものなのだ。
山肌の残雪から運ばれてくる夜風が肌を刺し、吐く息まで白くなる時間帯の散歩としては長い道程だが、帰りが遅くなる分には構わない。その間に騒ぎが鎮まっていることを祈るばかりだった。
「――あんたはどーしてそう無神経なんだいッ⁉」
「み、嶺子、カンベンッ!」
山荘の外にまではっきりと聞こえてきた大音声は『まつしろピラミッドプロレス』のメンバーに割り当てられた二階の大部屋まで突き抜けたことだろう。岳を痛罵する相手に対し、キリサメは「あなただって無神経さでは負けていませんよ」と心の中で毒づいた。
「おれ、ちょっと小腹空いちまったな~。おい、公務員のおっさん、近くにラーメン屋とかねぇのかよ?」
「私は公務員ではなくカリガネイダーだぞ――だが、その質問には残念と答えておこう。風光明媚な高原地帯だけにこんな遅くまで開いている食堂など殆どないのだよ。居酒屋なら少しはあるが、未成年を連れていくことはできないぞ!」
「別におれは気にしねぇのに。ショットバーにだってメシ食いに行くし」
「だったら、コンビニでカップ麺を買えば良いじゃないか。僕もパンか何か買うよ」
「それもそうか、店でお湯入れてな。でも、それはそれで大変だぜ、キリサメ? 今度は
「行儀は悪いかも知れないが、店先で頂いてしまおうではないか。腹が減っては帰り道も難儀するだろうからな。少年、そこは臨機応変だ」
「だよな? 仕方ないよな? 食うのに時間掛っちまっても、アツアツのカレーうどんなんだからど~しようもねぇよな?」
「うん、急いで食べて舌を火傷するのは良くない」
山荘内部にて繰り広げられているだろう惨状を察した電知も、帰りの時間を引き延ばし得る手立てを自ら提案していく。キリサメもカリガネイダーも一切反対せず、受け答えは白々しいほどに棒読みであった。
懐中電灯も持たずに慌てて飛び出した上に新月にも近いので、夜道を照らすものといえば星明かりくらいしかなかったが、三人で肩を並べていれば道に迷うことはあるまい。
山荘周辺は電柱だけで
先月より遥かに近く信濃の夜空を仰いだキリサメは、手を伸ばせば届くのではないかと錯覚してしまうくらい大粒な星々に目を細め、その瞬間に一つの驚愕が心を揺さぶった。
サン・クリストバルの丘から見つめた星空を想い出せなかったのだ。
改めて
離れる前は取るに足らないと感じていた故郷の想い出である。真っ先に消えていくのは自明であり、同時に大いなる皮肉であったのだが、己の付けた足跡が砂塵に埋もれてなくなってしまう虚しさは抑えようもなかった。
(……思えば遠くに来たもんだ……)
初めてキリサメに郷愁が押し寄せていた。遥か遠き故郷への想いを駆り立てるサイモン&ガーファンクルの『コンドルは飛んでゆく』を無意識に口ずさみそうになったのだ。
地球の裏側を〝二度とは戻れない場所〟と感じたことも初めてかも知れない。
常に携えていないと落ち着かなかった『
最近は『
だから、殺陣道場のワークショップで教わったことを復習する以外に『
ほんの二ヶ月前までノコギリ状の刃へ毎日のように生き血を吸わせていたのだが、今や貧民街に垂れ込めていた死臭すら懐かしい。心に起こったざわめきは己の意識が〝富める者〟の側へ近付いていく違和感と呼ぶべきかも知れなかった。
『
狂気が入り混じる殺意に憑かれた者か、心根を本当に理解する者でなければ、血塗られた『
「小腹っつったら、キリサメは『がんじゅ~い』ってクレープ屋を知ってっか? オーソドックスな洋菓子風とは一味違うメニューを売り出してんだけどよ」
馴れ馴れしさを
『
拳を交えた後にも交流が続いた相手は〝同い年の少年〟ということに限れば電知が初めてだった。
「沖縄クレープってヤツかな。何度か岳氏が買ってきたよ。確か箱にもそんなような
「おう! 多分、それだ――てか、八雲のおっさんも面倒見が良いなァ。そもそも『がんじゅ~い』ってのは一昔前の総合格闘家が現役引退後に始めた店なんだよ。その辺はもうおっさんから教わったんか?」
「いや、初耳だよ。古い付き合いということくらいしか知らない」
「今じゃ格闘家やってたときより有名なんじゃねーかな。結構、テレビにも出てるらしいけど、お前、観たことあるんじゃねェ?」
「どうだろう。僕は『マイナスイオン』が出演してる番組くらいしか興味ないし……」
「好きだなぁ、そのお笑いトリオ! 何ならデビュー戦に招待しちまえよ!」
「僕にはテレビで眺めているくらいで丁度良いんだよ」
同世代の少年と大して中身のない雑談に興じたのは何年振りだろうか。未稲と会話を楽しんでいるときとも違う感覚が妙にくすぐったい。
「以前、仕事で上京したついでに店主殿を訪ねたのだが、油みそをチーズとカレーソースにアレンジしたポーポーは絶品だぞ! 信州味噌で同じようなコトができないものかとその場で交渉してしまったほどだ!」
「味噌入りカスタードのチンビンが並び出したのはあんたの入れ知恵かよ! 大手柄じゃねーか、長野の公務員! アレ、塩バニラみたいでイケてたぜ!」
「海の国と山の国、二つのグルメが奇跡を呼び起こしたのだよ!」
電知とカリガネイダーはこれまでに堪能した沖縄クレープの感想を述べ合い、大いに盛り上がっていた。
(……ほんの少し前まで
今は親しくしてくれる彼らも自分が
「何かのテレビ番組に『マイナスイオン』がゲストで
「自分が訪ねたときは都庁の近くで営業していたな!」
この国の土を初めて踏んだ日、未稲と買い出しに向かった先で風変わりな自動車に撥ねられそうになったのだが、おそらくはあれが電知の語ったフードトラックなのだろう。
目を凝らして確認したわけでもないので記憶は曖昧であるが、車体のあちこちに『がんじゅ~い』という名称が入っていたはずだ。
運転席から飛び出し、近くで選挙演説を行っていた東京都知事候補と何故か取っ組み合いを始めた店主について未稲には〝知り合い〟としか教わっていない。電知の話を聞かなかったなら、自分の〝先輩〟であることにも気付かないままであったはずだ。
これまでに伝え聞いた情報から推察するに、『
キリサメが顔も
「客相手はともかく知り合いにゃカネ儲けの話しかしねーから、キリサメも最初はビックリするかもな。沖縄の人って財布の感覚が割かし大らかなイメージだったんだけど、
「バラエティーに出演したときにも決め台詞のように『世の中はカネだ』と公言して共演者をドン引きさせていたな! 『人生崖っぷちからの大復活劇』みたく分かり易いお涙頂戴路線に持っていこうとしたテレビ局へ一撃喰らわせたみたいで痛快だったがね!」
電知とカリガネイダーが苦笑交じりで語らう『がんじゅ~い』の店主は、岳と同じリングへ上がっていた格闘家らしく相当に強烈な人物のようだ。
「パイナップルソースたっぷりのチンビンがおれのオススメだな。焼き立ての香ばしいトコを
「僕は黒蜜を塗ったチンビンが一番口に合ったかな。沖縄のことはまだ全然知らないんだけど、肉を包んだポーポーはペルーのエンパナーダに似ていたかも知れない」
「ほほう? 沖縄のグルメは長野どころか、地球の裏側とも繋がっているというのかね。これは興味深い話を聞かせて貰ったぞ、少年! 胃袋の音は地球を駆ける!」
「エンパナーダはクレープというよりミートパイなんですけどね。……それにしても焼き立てか。てっきり岳氏はケーキ屋みたいな
「今度、焼きたてを食いに行こうぜ。『ワイルウェフ
「……気が向いたらね」
消えゆくペルーの想い出の中でおそらくは爪痕のように遺り続ける
カリガネイダーの説明によればようやく中間地点に差し掛かったところなので、それは市街地への道標とは言い難い。背の高い照明器具によって照らされているのは道路の右脇に広がる農場だった。ここでレタスなど高原野菜を栽培するそうだ。豪雪の名残を留めた畑に隣接する形で透明なビニールハウスが幾つも建ち並んでいる。
不意の
農場の真隣にはラグビー場がある。アーモンドにも似たボールが外に飛び出してしまわないようグラウンドはネットで囲まれていた。
幼馴染みの
「――あのチビっ子、なんかワケありっぽかったな。八雲のおっさんの息子らしいけど、キリサメは何も知らねぇのか? 思いっ切り初対面っぽく見えたけどよ」
先程までの明るい調子とは打って変わって声色も重苦しい。何事にも直線的な電知にしては珍しく相手の出方を探るような物言いなのだ。沖縄クレープの話題で盛り上がっている最中にもこれを切り出すタイミングを計っていたのかも知れない。
「嶺子氏だって挨拶するのは初めてだったよ。……日本に来て半年も経っていない僕より電知のほうが詳しいんじゃないか? 岳氏のコトも嗅ぎ回っていたんだろう?」
「映像作家やってる前のカミさん本人はともかく、その子どもなんて調べようがねぇよ。
「そろそろカリガネイダーと呼んで欲しいものだがね――我々『まつしろピラミッドプロレス』は八雲先生に教えを授かる立場。そうでなくともプライベートなことを詮索するのは人の道に反する。……お身内のことで知っているのは表木先生の父上が八雲先生の御師匠様ということくらいだよ」
親族でもない人間が明かしてしまうことへの罪悪感を滲ませつつ、カリガネイダーが控えめに語ったのは岳が忍術を叩き込んでくれた師匠の愛娘と結婚したという事実である。
言わずもがな、それが表木嶺子であった。
それはそれで
「……事情が分からないのはみんな一緒か。こっちから話しかけるきっかけでも分かればと思ったんだけどな」
「あれは
電知もまた
珍しく神妙そうな面持ちの電知を横目で眺めている内、キリサメは『警視庁捜査一課 組織暴力予備軍対策係』を名乗る
『昭和の伝説』こと鬼貫道明が経営する異種格闘技食堂『ダイニング
すると、この一件を『
「
「間違っても
暢気を絵に描いたような赤ら顔の岳に対し、麦泉は何時になく険しい表情だった。逮捕の可能性まで
尤も、麦泉の真意はキリサメにも分からない。
彼は『サムライ・アスレチックス』の
麦泉の上司である樋口社長ならば、それくらいは素知らぬ顔で謀るだろう。
「ヤツにも色々あったし、なかなか強く出れねェんだよなぁ。近寄り過ぎると罠にハメられ、離れたら離れたで気になって仕方ねェ――お互いの為にも
「またセンパイは甘いことを……。昔のことはどうあれ今となっては誰にも取り返しのつかないことじゃないですか。彼の個人的な〝事情〟に僕らが付き合う必要はありません」
岳も麦泉も
一つの事実として
それならば、カリガネイダーが先頭を走る『まつしろピラミッドプロレス』はどうなるのか。あらかじめ取り決められた筋書き《シナリオ》通りに試合を行い、肉体を駆使したショーとして観客たちを魅了しているのだ。
楽しませたい――その想いだけで結成された地方プロレス団体さえも
自分が〝誇り〟の為に臨もうとしている『
脳裏に蘇った薄笑いの
「お~い、どうした~、キリサメ~? あのチビっ子のコト、そこまでマジに考えてんのかよ? だったら、おれも腹括って付き合うぜ?」
「自分はまだ結婚すらしていないが、それでも構わなければ、幾らでも子育て相談に乗ろうではないか! 誰かを元気付けたいという思いに理由なんかいらないのだ!」
急に押し黙ってしまったキリサメを心配し、電知とカリガネイダーが一緒になって顔を覗き込んでくる。
何でもないと答えるよう首を横に振ったキリサメは、再び星空の下を歩き始めた。
岳の言う通り、あのような刑事のことは無視していれば良い――そう自分に諭しながらも
「それにしたって子育て相談はねーだろ。義理の弟ってだけでキリサメもチビっ子を引き取るワケじゃねーんだから」
「いやいや! 本気で子どもと向き合うのなら、それくらいの覚悟は欠かせまいよ!」
「あんたの場合はただの言い間違いだろ? 取り繕ってボロ出す前に認めとけって」
カリガネイダーの発言を電知がおどけた調子で混ぜ返した直後のことである。前方の暗闇へ光の玉が浮かび上がった。
水平に並んだそれは徐々に膨らんでいるようだ。そして、その背後から夜の別荘地には全く不似合いな異音が飛び込んでくる。
高原の静かな眠りを妨げる獰猛な唸り声は全開で蒸かし上げられたエンジン音である。大型バイクが発するものと考えて間違いないだろうが、時おり混じる破裂音は何なのか。
このような爆音をキリサメはかつて聞いたことがなかった。
「マフラー、
「マフラーって首に巻くアレ……か?」
「まさか、お澄まし顔のキリサメ君がコテコテでお約束な天然ボケを見せるとは……」
「排気ガスを外に出す為の装置だよ。単車や自動車のケツに付いてるアレのこと」
けたたましい異音はキリサメたちのもとへ急速に接近しつつある。これと連動して光の玉も大きさを増していくのだが、膨張そのものは間もなく頭打ちとなるだろう。次に押し寄せてくるのは視界を白く塗り潰すほどの眩しさである。
それはつまり、双方の交錯が鼻先まで迫っているということであった。
近隣の農家が翌朝に備えて寝床に入ろうかという頃合である。現地で暮らす人々の迷惑など微塵も考えず、星空に爆音を轟かせる無神経な
やむなく三人は通行の妨げにならないよう道路の脇へ移った。キリサメが右側に、電知とカリガネイダーがその向かい側にそれぞれ別れていく。
通過を見届けるまではその場に留まるつもりであったが、夜道に居眠り運転でもしているのか、当のバイクはキリサメが立つ側へと急速に寄っていくではないか。
このままでは間違いなく轢き殺されてしまうだろう。
「キリサメ、避けろ! こいつ、おかしいぜッ!」
異常に気付いた電知から呼び掛けるまでもなく、キリサメも自分に向かって突っ込んでくるバイクを油断なく注視していた――が、予想を大きく上回る事態にはさすがに反応が遅れてしまった。
爆音が鼓膜を劈くほどに近付いた瞬間、暗闇の向こうに空想上の生き物である龍の頭部が浮かび上がったのだ。思わず我が目を疑うキリサメであったが、光の玉を
キリサメが呆然と立ち尽くしている間に龍は天へと昇らんばかりに全身をうねらせ、そこからバイクの前輪が現れた。龍の肉体は鋼鉄の部品を幾つも組み立てることで完成された
龍からバイクへ変身したかのような事態にキリサメの
「キリサメッ!」
「大丈夫。これなら問題ない」
シートへ跨ったままブレーキすら使おうとしない
心配無用と答えた通り、混乱を抱えてもなおキリサメには回避する自信があった。命の危機を直感して〝眠れる獅子〟の如き双眸が見開かれることもない。
前輪を高く持ち上げる為に著しく減速しており、そこに付け入るべき隙が生じる。どれだけハンドルを巧みに操作できようとも、原則的に二輪車は前進以外の機能を持たないのだ。それだけに
大量に撒き散らされた排ガスの只中を突っ切るだけで、キリサメは垂直落下してくる前輪を
「な、何者だッ⁉ 平和な
殺人未遂としか表しようのない事態に驚き、尻餅をついてしまったカリガネイダーも即座に立ち上がり、やや気後れしつつ時代がかった口調で非難の声を浴びせた。
居眠りで運転を誤ったわけではないと、誰もが確信している。このバイクは一〇〇キロを超えるだろう重量でもって押し潰すべくキリサメに急速接近していったのだ。
それはつまり、彼一人に狙いを定めた攻撃に他ならないのである。
「マジで大丈夫なのかよ、キリサメ。撥ね飛ばされるんじゃねぇかって冷や冷やしたぜ」
「カスリ傷も受けてないよ。大袈裟なアクションだったから助かったというべきかな」
『
「一体、僕に何の用が――」
奇襲を受けた
エンジンを蒸かし上げながらその場に停まったバイクを視認した瞬間、電知とカリガネイダーも揃って口を開け広げ、絶句した。キリサメの目に一度は龍として映ったバイクは個性の二字からも逸脱するほど珍妙であったのだ。
余人には理解し難い
ハンドル周りに至っては龍の頭部そのものであり、口の中からヘッドライトが迫り出している。高く突き出した
龍の背に跨る気分を味わう為だけに改造を重ねたとしか思えなかった。
「ゾク
電知が声を裏返らせて発した〝ゾク車〟なる言葉の意味がキリサメには分からない。改造車といった意味合いであろうことが辛うじて察せられたくらいだ。
「――オレの『ガンドラグーン
第一声として発した『ガンドラグーン
勿論、彼にとって最も不可解なのは〝ゾク車〟ではない。しかし、見ず知らずの人間が不意打ちを仕掛けてきた理由でもない。シートから勢いよく飛び降りた青年が頭頂から爪先に至るまで尋常ならざる
頭には安全用のヘルメットを被っているが、これは取り立てて騒ぐほどでもない。『
鼻の下に蓄えた髭によって粗暴さが一等際立つ
学校指定の物ではない改造ボタンは一個も留めておらず、剥き出しの腹にはサラシを巻いていた。
太腿の部分が異様に広く、裾が細い変形の黒ズボンを
使い古された様子の革靴も素足のまま履いているようだ。見た目には何の変哲もない市販品なのだが、着地の際に鉄の塊をアスファルトへ急降下させたような重量感のある音を跳ね返している。
いずれも昭和後期の
日本の文化に明るくないキリサメが
いくら荒んだ学校に通っているとはいえ、仮にも高校生が夜更けの他県でバイクを乗り回している状況は異常としか表しようがあるまい。
極め付けはケースにも収納せず抜き身で背負ったエレキギターである。V
「気を付けたまえ、キリサメ君!
「ツッコミ入れるの、そこかよ⁉ さてはてめぇ、仮面の名探偵か⁉ あ――いや、別にそんなんじゃねーし! 『チキン・ラン』やるときゃ爆発四散しにいくってコトで
カリガネイダーの珍妙な
(嶺子氏みたいに酒かタバコで喉がイカれたようなダミ声――何だか聴き
自己主張を追い求めた挙げ句、そもそもの出発点を忘れてしまったかのような風体なのだが、血走った狐目も含めてキリサメには何故か
明確に想い出せないことが何とも歯
「他にも言いたいことは山ほどあるけど、そんな恰好で寒くねーの?」
「てめーにだけは言われたくねーぞ、チビ助!
「いつぞやの電知を想い出す人だね。大体、同じようなことを言ってたよ」
「……マジ? おれ、こんなのと一緒なの? 今度から気を付けねぇと……」
カリガネイダーの次に
どのような意図があるのか、見当も付かないのだが、目の前の
風変わりな
この場の誰よりも吐息が白い。頻繁に鼻水を
尤も、〝寒々しい恰好〟ということであれば半袖のシャツを着たカリガネイダーも同様であろう。彼などは袖を完全に
ここに至って薄着の三人による我慢比べの様相を呈してきたわけだ。誰も彼も畑やラグビー場の片隅に
冷静な部分で気付いてしまったのだが、〝この場〟に即した出で立ちはジャージを着込んだ自分一人なのである。近隣住民の誰かが悶着を目撃し、然るべき場所に通報したならば覆面レスラーに風変わりな柔道少年、更には改造学生服の
(ワケ分からない風貌ってことなら岳氏だって大概だけどな……)
各人のおかしな服装はさておき――ここまでのやり取りからキリサメを轢き殺そうとした
無論、このことに誰より安堵したのは電知当人である。だからこそ不意打ちを仕掛けた
『
『
外国で同じ
「こそこそ隠れ回りやがって
「……やっぱり僕狙いか」
一直線に突撃してきたのだから当然だろうが、キリサメ・アマカザリという名前を口にしたことで〝敵〟の狙いが確定されたわけだ。
尤も、その言動は非常に怪しい。合宿の間、誰かの影に怯えて隠れたことなど一度もなかったのだ。それは共に行動していた電知とカリガネイダーが良く分かっている。合宿の間、キリサメは
「てめーの
「総長――」
自分の言行に対する
露となった金髪のパンチパーマを見て取った瞬間、おぼろげだった記憶が目の前の
これもまた一つの因縁というべきか――電知やカリガネイダーと同じく
「――あんた、
「城渡? あの城渡マッチかよ?」
三月に開催された『
〝総長〟を慕って長野まで駆け付けた舎弟は大半が三〇代半ばを超えた中年層であり、〝若者〟と呼んで差し支えがないのは
カリガネイダーも『
「絶滅危惧種の
電知が指摘した通り、
「何様のつもりで総長を呼び捨てにしてんだ、クソチビがッ! キリサメ・アマカザリより先にてめーからブチ殺してやっか⁉ おォうッ⁉」
電知としては
長野興行のときも〝総長〟への拍手が聞こえてこない観客席を血走った眼で睨み付け、口汚く罵っていた。城渡のセコンドを務めた二本松に止められていなければ、自分が望む通りの声援を送らなかった観客たちに危害を加えていたかも知れない。
まさしく狂犬じみた忠誠心といえるだろう。今度はそれが電知に向けられたのである。
「オレの名前は
親衛隊長ということは他の暴走族チームとの抗争に際して城渡の身辺を警護する側近ということである――が、能力の高さを買われての抜擢ではなく、厄介事が起きても即座に制止し得る範囲へ留め置かなくては安心できないということなのだろう。
何しろ
キリサメに対して宣戦布告を行ったかと思えば、何の脈絡もなくエレキギターを構え、ポケットから取り出したピックで六本の弦を荒々しく掻き鳴らし始めたのである。
アンプ内蔵型ではないので迫力に満ち溢れた音には程遠く、それすらも〝ゾク車〟のエンジンの唸り声に咬み砕かれて殆ど聞こえない有り様だった。
それでいて全身を上下左右に大きく揺すらせるものだから、傍目にはやけに激しい形態模写にしか見えなかった。
エレキギターを担っているときには分からなかったのだが、〝短ラン〟の背面には『
「いつもは総長から背中を預けて頂いてるこのオレだが! 今度ばかりは一番槍で特攻するっきゃねェ!
「……この人はさっきから何を言ってるんだ?」
「おれに訊くのかよ⁉」
「今一つ要領を得ないのだが、キリサメ君に何らかの恨みを持っていることだけは間違いなさそうだぞ! ついでに付け加えるならば! 『一番槍』という言葉も使い方を微妙に誤っているな!」
御剣恭路という存在がいよいよ理解の範疇を超えたキリサメは、答えなど持ち合わせていないはずの電知とカリガネイダーに助けを求めてしまった。
先程から恭路は身に覚えのないことばかりを並べ立てているのだ。キリサメには城渡を貶めた
マッチメイクの場では樋口の
それとも城渡が対戦を了承してくれたのは嘘だったのか。二本松と二人でこちらを騙しておいて、リング外での不意打ちを舎弟に仕掛けさせるほど怒り狂っていたのだろうか。
(……もしも、そんな卑怯者だったらこんなにも慕われているハズないよな……)
一瞬だけ脳裏を
この男は城渡から命を捨てろと命じられたら喜んで従いそうである。そこまで人を心酔させるには相応の器が備わっていなくてはならないだろう。キリサメは恭路を通して城渡マッチという男の大きさを見極めたのである。
立ち居振る舞いこそ野卑そのものだが、城渡は口にする言葉の一つ一つに筋が通っていたのだ。卑劣な策略を弄する人間とはとても思えなかった。
かつてペルーの民を反政府の尖兵に仕立て上げようとした武装組織の長は弁舌こそ巧みであったが、自分以外の人間を道具のように扱う上に言葉と策謀が入り混じっている為、何もかもが空虚だったのである。
対する城渡は喚き声にも人間らしい温もりがあった。それ故にキリサメも血の通った人間の言葉として受け止めることができた。大勢の舎弟を従える大器とも頷けるのだ。
そうなると恭路の暴走という結論しかなくなってしまう。そして、その可能性が最も高いと皆に確信させるくらい
「城渡の鉄砲玉とやらが何でキリサメを狙うんだ? 総長サマの差し金か? 試合前に相手を甚振って弱らせようってハラかよ?
「――拍手の一つもねーのかよ⁉ 『
至極真っ当な電知の問い掛けに対し、恭路は何一つ交わることのない言葉を重ねて押し切った。
これもまた理解に苦しむことであるが、形態模写にしか見えないギター演奏に誰も反応しなかったことで恭路の怒りは最高潮に達したようなのだ。
「そもそも何なんだよ、『
どういう意図があってエレキギターを弾き始めたのか、それすらも三人は知らされていないのだ。置いてきぼりにされた挙げ句、一方的に怒声を浴びせられては堪ったものではあるまい。
「そうだな、弦を
「そこじゃねェよ! さっきの推理力はどこ行った⁉ オレの魂に触れたのかって訊いてんだ! オレがギターを鳴らすのは開戦の儀式って決まってんだろがッ!」
「……知るわけないだろ……」
カリガネイダーの気遣いとキリサメの溜め息を怒鳴り声でもって押し流した恭路はエレキギターを右肩に担ぎつつ、ヤニで黄ばんだ歯を剥き出しにして笑った。
「オレのピックが飛ぶのはバトルでもライブでもウォームアップ終了の合図! そして、それはてめーの最期と同じ意味だぜ、キリサメ・アマカザリ! ……念仏唱える時間だけはくれてやる! 今年、成人式を迎えたばかりのオレが大人の責任で〝総長侮辱罪〟のクソガキに極刑執行だァ――」
恭路の指から弾かれ、キリサメの足元へと落下したギターピックが意味することはただ一つしかない。
「――本物の
言うが早いか、恭路は自分の足元に転がっていたヘルメットをキリサメ目掛けて蹴り飛ばした。
飛び道具による一撃で機先を制しておいて一気呵成に畳み掛ける腹積もりなのだろう。〝龍の口〟が
(僕が城渡氏に相応しいかを試すって言ってたけど、一体全体、どういう意味だ?)
もはや、キリサメには何もかもが理解不能であった。
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