その3:合宿~頼れる修行仲間は社会人レスラー!

 三、合宿


 長野県を拠点に活動する地方プロレス団体『まつしろピラミッドプロレス』――昨今のローカルヒーローブームなど〝地方〟を発祥とする文化が観光資源として注目される中、彼らはまさしく飛躍を迎えていた。

 先日も異種格闘技食堂『ダイニングこん』の特設リングで東北を代表する二大プロレス団体と激闘を演じ、惜しくも敗れはしたものの、観客から熱烈な声援を受けたのである。

 本業を他に持つ社会人が結成した『アマチュアのプロレス団体』ではあるものの、己の肉体からだを張ってリングへ闘魂の華を咲かせるレスラーに変わりはない。怪我とも無縁ではいられず、トップレスラーのあかぞなえ人間カリガネイダーなどは東北の雄との決戦で肉離れを悪化させていた。

 一時は長期の戦線離脱も危ぶまれたが、同団体が本拠地を置く長野市松代の温泉で湯治を行ったところ、負傷した足が劇的に回復。ライバルレスラーのブラックトイシマンをして「松代歴代藩主のオーラが秘湯を通して彼の肉体からだに新しき力を与えたのだ」と言わしめる奇跡の復活を遂げたのだった。

 復帰したカリガネイダーはすぐさま特別強化合宿を宣言。療養中になまってしまった肉体からだを引き締め直すと同時に所属レスラーたちに活を入れようというのだ。

 観客から褒め称えられるほど善戦したとはいえ奥羽の雄に敗れたのは紛れもない事実。次こそは信濃最強の名誉挽回を果たすという決意表明である。

 カリガネイダーが合宿先として選んだのは標高二〇〇〇メートル級の山々に囲まれた冷涼な地――すがだいら高原であった。

 豊かな自然と清涼な空気、喧騒とは無縁の静けさの中に温泉まで湧き出していることから〝日本のダボス〟とまで呼ばれる国内有数の別荘地である。

 それはつまり、スポーツにも最適の環境ということを意味している。すがだいら高原は日本全国各地からアスリートたちが集結する合宿地としても有名なのだ。町中に運動施設が点在しており、体育館を併設するホテルも少なくなかった。

 ロードワークは特に爽快だ。白樺の木々が立ち並ぶ一本道を『まつしろピラミッドプロレス』の所属レスラーと練習生たちは威勢よく駆け抜けていった。すがだいらは高原地帯だけに坂道が多く、身も心も鍛えられていくのだった。

 五月の足音が聞こえ始めた時期にも関わらず、山肌には冬の名残が白く煌めいている。高原地帯とはいえ例年ならばスキー場の営業が終わり、雪解けを迎えているはずなので、あるいは日本列島を凍て付かせた豪雪被害の爪痕と呼ぶべきかも知れない。

 『まつしろピラミッドプロレス』の面々は残雪これを溶かしてしまうのではないかと錯覚するような熱気に包まれていた。


「――どうだ⁉ 身体の芯から燃えたぎってくるのを感じるだろ⁉ それが筋肉マッスルだッ!」


 自転車に跨って伴走するのは外部コーチとして技術指導を担当する八雲岳だ。一人一人の様子を見守りながら叱咤激励を飛ばし、落伍者を出さないよう導いている。

 その一団に風変わりな少年が混ざっていた。

 『まつしろピラミッドプロレス』のメンバーは正規レスラーと練習生の区別もなく、外部コーチまで含めて皆が揃いのランニングウェアを身に付けているのだが、その少年だけは自前とおぼしきエンジ色のジャージ姿なのである。

 戦国武将のようにまげを結わえ、古銭の刺繍を水玉模様に似せて全体にあしらった陣羽織まで纏う岳も浮いてはいるが、教え子たちと同じランニングウェアで全身を包んでいることに変わりはない。これによって『まつしろピラミッドプロレス』の連帯を示しているわけだ。

 周囲に全く溶け込まない服装の少年はキリサメ・アマカザリであった。仲間外れのような状況も気にならないのか、ただただ黙々と走り込みをこなしている。

 山の景色を一望できるサッカーグラウンドではフィールドの端から端まで幾度となく往復したが、体力不足の練習生がを上げる中、キリサメは先頭に立って全力疾走し続けている。さすがに汗みずくではあるものの、呼吸は殆ど乱れておらず、体力も底を突きそうになかった。

 今回の強化合宿はなるべく器具に頼らないよう岳から指示が出されている。その為、走り込みや二人一組による筋力トレーニングが中心となっており、芝生の上で相撲に興じるような一幕もあった

 社会人団体ということもあって『まつしろピラミッドプロレス』は気さくな者が多い。口数の少ないキリサメにも積極的に話しかけ、特訓メニューへ一緒に取り組んでいた。

 苦しそうに腕立て伏せをする相手に励ましの声を掛けることもこの少年は初めてだったのだろう。何ということもない応援も躊躇ためらいがちであり、戸惑いに震える頬は気恥ずかしさで紅潮していた。

 一通りの筋力トレーニングが済むと、いよいよプロレスラーらしい練習に移った。

 『まつしろピラミッドプロレス』が合宿所として借りたのは奥ダボスの手前に所在する古い山荘である。木立に囲まれた広い庭へ設置したプロレス用のリングの上で岳による技術指導が行われるわけだ。

 狭いリングへ全員で上がることは物理的に不可能なので、数名ごとに交替で指導を受ける段取りとなっている。

 無論、待機中の者たちもリングサイドでトレーニングを続けている。順番の近い者はストレッチで身体をほぐし、またる者は反復横飛びなどによって更なる身体強化に努めていた。二人一組となり、地面に敷いた運動用のマットで寝技の練習に励む練習生も多い。

 ここでもキリサメは異彩を放っていた。よほどの巨漢でもなければ、ぶら下がって折れる心配がなさそうな太い木の枝に掴まり、片手懸垂を交互に繰り返しているのだ。

 掴んだ枝より高く身体を持ち上げる度に練習生から感嘆の溜め息がこぼれた。汗で濡れそぼったシャツを脱がない為、生身を確かめることはできないのだが、尋常ではないほどに筋肉が発達しているのだろう。


「……あのリングも『ハルトマン・プロダクツ』製なのか。何でも作ってるんだな……」


 持久力とて桁外れである。片手懸垂の最中、彼は一息つくことすらなかったのだ。それどころか、リング上のマットに刷り込まれたメーカー名を読み取るほど余裕だった。


「――よ~し、キリー! お前もこっち来い。できる限り、身体を動かしとけ!」


 リング上でスパーリングが開始されると、岳はキリサメにも加わるよう呼びかけた。

 彼の相手はトップレスラーのカリガネイダーが直々に務めたのだが、アマチュアとはいえ二回りは大きなプロレスラーと組み合ってもキリサメは全く力負けしなかった。

 キリサメの素質を見抜いたカリガネイダーは手加減無用と考えて全力で臨んでいる。だからこそ、自分が競り負けつつある現実に愕然としたのである。


「少年……! キミの強さは承知していたハズだが……余りにも予想外! いや、この場合は規格外というべきかな⁉ 八雲先生のスパルタ特訓の成果だろうかッ!」

「いえ、岳氏は筋トレとかあまり教えてくれなくて……。もうすぐ試合なのに今のままで大丈夫なのか、正直、心配になっています」

「それでかね! ……全く末恐ろしいなァッ!」


 痩せ気味にも見える肉体にどれだけの潜在能力ポテンシャルを秘めているのだろうか。

 相撲を取ったときのことを振り返っても彼の強靭さは明白だった。ラグビーのスクラムのように練習生が数人がかりで突進しても微動だにせず、軽く押し返していたのだ。

 現在いまもカリガネイダーは首に両手を回して押し潰そうと図っているのだが、左右の足で踏ん張るキリサメは少しもたじろがない。根競べのような状態に陥れば、あるいは反対に突き崩されてしまうかも知れなかった。


「ふんぬーッ!」


 切り返しを図ったカリガネイダーはキリサメから離れ、鋭いフットワークで側面より再び攻めかかる。間もなく右腕を捉え、岳直伝の関節技へ持ち込もうと試みた。

 これを見て取った岳は、その場で回転するようキリサメに指示を飛ばした。

 果たしてキリサメは命じられた通りの動きを実行し、腕を完全にからめ取られる前に技を外してしまった。岳から求められた緊急回避動作の原理まで一瞬で把握したのだろう。着地と同時に右手を引き抜くと、追撃を警戒して後方に飛び退いた。

 もしも、相手カリガネイダーが突進してきたときには顔面に迎撃カウンターのパンチを見舞ったことだろう。

 次にコーナーポストの上に登ったカリガネイダーが急降下の勢いを乗せた体当たりを仕掛けてくると、キリサメは接触するか否かというギリギリまで引き付けてから横に跳ね、これを避け切った。


「良いカンジだったぜ、今の動き! キリーの反応速度は今日も冴え渡ってるなァ!」

「似たような技なら故郷リマで岳氏が使っているところ、見ていましたし……」

「マジかよ⁉ 父ちゃん、嬉しくて堪らねぇぜッ!」


 わざわざ待ち構えていなくとも十分に回避できる大掛かりな攻撃であったのだが、これもまた岳の指示通りである。彼曰く防御の技術テクニックを磨く特訓とのことだ。

 結局、スパーリングにいて確認できたのは特訓の必要がないと思えるほどにキリサメの身体能力や勝負勘が優れていることだけだった。事前の打ち合わせもなく、突発的な指示でさえ難なくやってのけたのである。

 天賦の才を見せつけられてはカリガネイダーも悔しさを突き抜けて、ただただ感心するしかなかった。

 一方のキリサメも決してカリガネイダーを見下したりはしない。スパーリングの相手を務めてくれることに感謝して一礼し、岳からの指導も真摯に受け止めている。このように誠実な少年には脱帽の二字しか持ち得なかった。

 キリサメ・アマカザリにとって、すがだいら合宿は疑似的な学校なのかも知れない。

 先生である岳から指示された通りにミドルキックを放ち、相手カリガネイダーがどのような形で防御を固めるのか、細かく観察しているのだ。これこそまさに学習――学生の本分だろう。

 試行錯誤を経る度に彼の身のこなしは鋭さを増していく。いつしかカリガネイダーのほうもキリサメの飛躍を嬉しく感じるようになり、リングサイドへ降りた後も引き続いて組み合っていた。

 その日の練習が一区切りを迎える頃にはすっかり打ち解けており、互いの健闘を称えるかのように力強く握手を交わし、同じ先生のもとで学ぶ同級生になったのだった。

 陽が暮れると、今度はバーベキュー大会である。

 分厚い肉の塊やすがだいらで収穫された新鮮な高原野菜に舌鼓を打ち、キャンプファイヤーではカリガネイダーと共に奥羽の雄と闘ったブラックトイシマンがウクレレを披露した。

 若き日に演歌の道を志したというカリガネイダーのライバルは驚くほどの美声であり、耳を傾けるキリサメを心地良い充足感が満たしていった。

 天を焦がさんばかりに逆巻く炎の色を映した顔にも安らかな微笑みを浮かべており、きたるべき初陣に向けて英気を養ったことが察せられた。

 天空のインカ帝国より遣わされた聖なる鳥が『天叢雲アメノムラクモ』の戦場リングへ舞い降りるのは、もう間もなくである。



「――こんな感じでどうよ?」

「いえ、あの……『どうよ?』って言われても……」


 半ば強引に見せられた映像について感想を求められても答えようがなく、キリサメはただただ困惑するばかりだった。

 すがだいら高原の名所案内のような点描が始まったかと思えば、『まつしろピラミッドプロレス』の強化合宿に混じって練習に励む自分の姿が映し出されたのだ。

 しかも、全て隠し撮りである。何時、カメラを向けられていたのかもキリサメ本人には分からず、そもそも撮影を許可したおぼえすらない。

 ありていに言うと裁判で勝てる事案である。証拠物件として扱っても差し支えのない映像ものを見せておきながら撮影者のほうは自慢げなのである。悪事に手を染めたという自覚がないのは明らかであり、これほど反応リアクションに困る相手もいなかった。

 合宿所である山荘の広間には六人掛けの楕円型オーバルテーブルが設えられており、その上に置かれたヤニ臭いノートパソコンの画面でくだんの映像は再生されていた。

 撮影者もとい曰く、映像に付けられたナレーションは仮の物であり、完成品では鬼貫道明の声と差し替えられるそうである。

 キリサメが求めているのは映像の補足説明ではない。どういう了見で隠し撮りという犯罪をかしたのか、紙巻きタバコをくわえる作成者はそこから釈明すべきであろう。

 ナレーションに関してもキリサメは愉快とは言い難い感情を抱いていた。

 場面シーンの展開に合わせて彼の心情も添えられているのだが、当該する状況で実際に何を考えていたのか、インタビューを受けた記憶もない。映像に声を吹き込んだ人間が好き勝手に他人の気持ちを想像しているだけなのだ。

 それだけであったなら事実無根の妄言と切り捨てるだけで済んだが、その時々に考えていたことを正確に言い当てられてしまっていた。だからこそキリサメも心穏やかでいられなかったのである。

 映像の作成者に心の内を見透かされたようなものであり、殆ど恐怖体験に近かった。

 意味不明な箇所も多い。締めくくりに引用された『天空のインカ帝国より遣わされた聖なる鳥』とは何なのか。ペルーで生まれ育ったキリサメでさえ聞いたおぼえがなかった。


(……あー、確かマチュ・ピチュが空中楼閣とか天空都市とか呼ばれていたっけ。そこから思い付いたのか? ……僕はアンデスの山間部で暮らしていたわけじゃないのに)


 隣の席で咽び泣くカリガネイダーのこともキリサメには理解できない。自分の姿が画面に映った瞬間からシャツの裾で涙を拭っていたが、淡々と練習メニューをこなしていく場面のどこに感極まる要素があったというのか。


おもて先生の〝煽りVTR〟に出演できるなんて……人生最高の感激ですッ!」


 やたらと連呼される「感激」の二字から推察するに映像の一部に関わったという事実だけでカリガネイダーを興奮させるほど作成者は有名であるらしい。

 だからといって名声は隠し撮りの免罪符にはなるまい。


「……ねぇ、お母さん。すっかりキリくん、固まっちゃったんだけど、〝煽りVTR〟を撮影する話は通してあったんだよね? 無許可なんてことは有り得ないよね?」

「キリーの場合、デビュー戦だろう? 一発目のインパクトは大事だからねェ。実録系のドキュメンタリータッチで攻めてみたよ。ああ、ちなみに今のポカーンとした顔もパソコンのカメラで録画してるから完成品のオチに期待しといてくれ」

「……ごめんね、キリくん。うちのお母さん、見ての通りのカンジだからさ。私のほうから全身全霊で謝るよ……」


 キリサメの向かい側に座ってノートパソコンを覗き込み、次いで頭を抱えた未稲は映像の作成者に向かって「お母さん」と呼び掛けた。

 しかし、カリガネイダーはこの女性のことを「おもて先生」と呼んでいる。未稲の母親なのに『八雲』ではなく『おもて』である。

 フルネームはおもてみね――キリサメも詳しく教わってはいないのだが、紙巻きタバコから立ち上る紫煙の向こうにノートパソコンの画面を見つめる女性は、岳と離婚した元妻であるという。

 それ故に苗字が異なっているものの、未稲にとっては正真正銘の実母なのだ。薄紫に染められたベリーショートの髪は枝毛が多く、確かに彼女とも似通っている。髪質というよりは手入れに無関心な性格の相似である。

 本人なりのこだわりなのか、額の中央に掛かる前髪の一部だけ毛先が紅かった。


「前の大会ンときを振り返ってみな、キリー。選手がリングに入場する前、モニターに面白いPVプロモが流れてたろ。嶺子はああいうのを手掛ける映像作家なんだよ。『天叢雲アメノムラクモ』だけじゃなくて国内外の色んなトコからオファーを受けてんのさ」

「自分の才能が怖くなるよ。こないだも大リーグのPVプロモをやっちまったんだからねェ」


 一緒に映像を眺めていた岳も得意満面といった調子で元妻のキャリアを披露していく。

 『映像作家』の具体的な業務がキリサメには掴めなかったが、『天叢雲アメノムラクモ』の興行で使用されるPVプロモーションビデオ――カリガネイダーが煽りVTRと呼称した物だ――の作成を一手に引き受けていることだけは理解できた。

 『天叢雲アメノムラクモ』の選手としては、ひとまずそれだけを把握していれば十分だろう。

 腑に落ちないことがないわけでもない。顔を合わせて仕事の話をしている元夫婦も、そんな光景を平然と受け止めている未稲も、キリサメには不思議でならなかった。

 『天叢雲アメノムラクモ』のPVプロモーションビデオを手掛けるからには統括本部長とも打ち合わせを行うはずだが、その席で気まずくはならないのだろうか。未稲も未稲で、離婚した両親に対する屈折などは少しも見られない。

 傍目には三人の仲は良好そうに見える。双方とも納得した上での円満離婚というものであろうか――楕円型オーバルテーブルに腰掛けている麦泉へ目配せでもって訊ねると、キリサメの意図を察した彼は「そっとしておいて」とばかりに首を横に振った。

 間もなく麦泉は広間を出ていったが、キリサメの追及から逃れたかったわけではないようだ。何やら慌ただしく廊下へ向かうとき、彼の手には携帯電話スマホが握られていた。


「んじゃ、キリーの入場はコレで決まりだね! ペルーの映像もちょいちょい挿れとくからさ! だからってホームシックになられたら困るよ!」

「そうとも、少年! しんりゃくすること火の如く! 私と共に火の玉と化して燃え上がろうではないか! これこそ闘魂が『闘魂』と呼ばれる所以ゆえんだよッ!」

「……お好きなように……」


 諦めたように溜め息を吐き、大興奮で両腕を突き上げるカリガネイダーへ無感情に相槌を打つキリサメは、岳の元妻との対面は言うに及ばず、殆ど何も聞かされないまますがだいら高原まで連行されていたのである。

 発端は数日前まで遡る。

 殺陣道場『華斗改メかとうあらため』のワークショップにて学んだことを復習していたる日、キリサメは岳から『まつしろピラミッドプロレス』との合同トレーニングを持ち掛けられた。

 カリガネイダーが一泊二日の特別強化合宿を計画しているので自分たちもそこに混ざろうと言い出したのである。

 思い付きの行動のようにも思えたが、岳ならば絶対に間違った判断はしないと信じるキリサメは二つ返事でこれを承諾。『八雲道場』所属選手のマネジメントを担当している麦泉も伴い、新幹線で一ヶ月ぶりに長野へ向かったのである。

 ところが、長野駅に到着して間もなくキリサメを唖然とさせる事態が発生した。

 駅前には『まつしろピラミッドプロレス』の手配したレンタルバスが待機しており、大型自動車第二種免許を所持するカリガネイダーが運転席に腰掛けていた。火の玉の色のプロレスマスクを被ったままで運転手ドライバーを務めようというわけである。

 近くの駐車場には同団体のロゴマークが入ったトラックが停まっている。大量の機材を積載した車輛はレンタルバスへ追従する段取りとなっているのだろう。

 この時点でおかしいと気付くべきだった。くだんの団体が拠点としている松代の体育館に向かうのであれば、所属レスラー全員が乗り込むような大型車輛など手配するはずがない。

 果たしてレンタルバスは松代を通過して峠道に入り、呆然としているキリサメをすがだいら高原まで一気に運んでしまったのである。

 嶺子は一足早く自家用車で合宿所の山荘に到着していた。

 降車してすぐに挨拶を交わし、岳と彼女が元夫婦であることを教わったのだが、このときにはPVプロモーションビデオを撮影する話など全くなかった。それどころか、映像作家という職業すら伏せられていたのである。

 こうした経緯からも岳が隠し撮りに加担していたことは疑いようがない。キリサメが非難の目を向けると能天気にもピースサインで応じる始末であった。


(……こんな両親のもとに生まれついて、よく気がおかしくならなかったな。みーちゃんのこと、改めて尊敬するよ……)


 結局、彼は何も知らないままトレーニングの様子を撮影され、夜になってようやく真実を知った次第である。

 それでもキリサメは養父への恩義からふんまんを飲み込んだ。しかし、隣の席に陣取ったもう一人の少年は我慢ならなかったようで、風変わりなじゅうどうに包まれた全身を怒りに震わせていた。


「――おれの出番が全カットじゃねーか! キリサメとペア組んでたのはおれなのに!」


 大声で文句を垂れるのは鼻背に小さなガーゼを貼り付けた空閑電知である。

 この少年は『天叢雲アメノムラクモ』の契約選手でも『まつしろピラミッドプロレス』の練習生でもないのだが、キリサメを尾行して強引に潜り込んだわけではない。東京を発つときから行動を共にしており、特別強化合宿にも正式なメンバーとして参加していた。

 キリサメに折られた鼻骨がほぼ完治した彼も地下格闘技アンダーグラウンドの復帰戦を控えており、今は最終調整に取り組む段階であった。

 デビュー戦が迫ったキリサメとの稽古ならば互いに得るものも多いだろうと思い付いた電知は模擬戦スパーリング相手パートナーを頼むべく『八雲道場』まで赴き、そこで岳から合宿に誘われた次第である。

 一時停戦のような状況とはいえ、依然として『天叢雲アメノムラクモ』と『E・Gイラプション・ゲーム』の対立関係は続いており、両団体に所属する人間が頻繁に交流することは決して好ましくないのだが、岳からしてみれば電知もまた格闘技の次世代を担う一人である。大らかな気持ちで手を差し伸べたのであった。

 キリサメと一緒に稽古できるわけだから電知にも断る理由がない。「前田光世大先生の御名をけがした罪はちょっとの間だけ忘れといてやらァ」と調子の良い建前を述べたのち、意気揚々と新幹線、次いでレンタルバスに乗り込んだ。

 キリサメとの路上戦ストリートファイトで破壊され、修理が済んだばかりの『ワイルウェフごう』――自転車ママチャリは『八雲道場』の庭先に停めてある。万が一にも『E・Gイラプション・ゲーム』の仲間に目撃されようものなら内通や寝返りを疑われるかも知れないのだが、キリサメとの合宿に大興奮している電知にとってはそれすらも些末なことであった。

 さすがはキリサメと互角以上の勝負を繰り広げた少年というべきだろう。傷が癒えたばかりだというのにキリサメと肩を並べて過酷な特訓メニューをこなし、スパーリングでもカリガネイダーを一本背負いで仕留め、「肉離れが再発する」と悲鳴まで上げさせている。

 他のレスラーたちも初めて目の当たりにする『コンデ・コマ式の柔道』の切れ味に瞠目し、大喝采を送っていたのだ。

 しかし、そのような勇姿は試作のPVプロモーションビデオに全く映っていなかった。一瞬たりとも出番がなかったのである。

 嶺子は電知の姿がカメラに入らないよう工夫し、誤って映り込んでしまった場面を巧みに削ぎ落とし、彼が存在した形跡そのものを徹底的に消し去っていた。

 悪意に満ちているとしか思えない編集の仕方に彼は立腹したわけだ。映像の中には山荘の風呂場で身体を洗う場面も含まれていたのだが、キリサメの背中を流したのは他ならぬ電知なのである。

 いつの間に撮られたのか、キリサメにも全く分からなかった。風呂場の窓を僅かに開けてカメラを差し込んだとしか思えないのだが、それは罰すべき犯罪行為であり、未稲の実母でなかったら椅子で殴り付けていたかも知れない。


「アンタ、『天叢雲アメノムラクモ』の人間じゃないだろ。『E・Gイラプション・ゲーム』の所為せいでこっちがどんだけ迷惑してるか、自覚ないのかい。敵にカメラ振る物好きなんかいるもんか」


 電知のことを『天叢雲アメノムラクモ』の〝敵〟と言い捨てた嶺子は口の中に溜め込んだ紫煙けむりを彼の顔面に吹き付け、せ返る様子を笑い飛ばした。


「でも、キリサメの親友マブダチだぜ⁉ 懸垂のときはカウント係までやったのに!」

「そんなもん、音楽被せて潰しちまえば一発楽勝だよ。つーか、声だけでも残すと思ったんかい。見てくれ通りの大バカだね、コイツは」

「スポーツマンシップもクソもねぇババァだなァ! チックショ~!」

「うちの選手をボコろうとした乱暴者にスポーツマンシップを説かれるなんざ、アタシもヤキが回ったもんだよ」

「それに関しては証人たる私も表木先生に完全同意だな! キミの闘魂は本物だが、あの夜に犯した罪がそれであがなわれるわけではない! 血に染まったどうを衆目に晒さぬことは表木先生の優しさと心得るべしッ!」

「ここぞとばかりに〝ヨイショ〟かよ⁉ 覆面マスク剥ぐぞ、てめーッ!」


 自分から噛み付いていって返り討ちに遭った電知は頭を掻きむしって悔しがった。


「あんなモノで盛り上がれるなんて幸せな人たちですね。ワケが分かりません」


 不毛な言い争いを続ける嶺子と電知を嘲った声はこの場の誰よりも幼かった。だからこそキリサメも振り向くより先に声の主が分かったのだ。

 おもてひろたか――今年で七歳になるという男の子は、岳の説明によると彼のもう一人の子どもであるそうだ。無論、隠し子などではない。

 八雲家の養子であるキリサメにとっては義弟ということになるのだが、岳に別れた妻がいることも、そちらに引き取られた子どもがいることも、すがだいらの山荘で初めて知らされたのである。ペルーで出会ってから今日まで一度たりとも説明はなかったはずだ。

 もはや、それは驚愕の二字をもってしても表せるものではなく、「お前の弟だぜ!」と岳から自己紹介を促されたキリサメは、暫くの間、声も出せずに固まり続けたのだった。

 今は離れて暮らす母や弟のことも養子キリサメに打ち明けていると信じていた未稲は、無責任極まりない実父に呆れ果て、比喩でなく本当に頭を抱えていた。


「どうせ何時かはご対面になるんだし、折角ならサプライズのほうが面白ェと思ってな。仏頂面のキリーからあんなイカした表情かおを引き出せたんだから、今日まで黙っといて大正解だったぜ!」


 これが合宿で顔を合わせる当日までひろたかのことを伏せていた岳の主張であるが、一つとして納得できる部分がなく、嶺子にも「世の中には喜ばれるサプライズと絶対許されないモンがあるってコト、そろそろおぼえたほうが良いねェ!」と尻を蹴飛ばされていた。


「嶺子の遺伝子が強かったのかもだけど、ヒロ坊は我が家でも珍しい頭脳派でな。末は総理大臣じゃね~かって父ちゃんは期待してるワケよ。あと何年かしたら、飛び級で大学生とか漫画みてェな展開をリアルで見せてくれるんじゃね~かな⁉」


 〝親バカ〟の如く岳はひろたかの利発さを褒めちぎっていたが、キリサメはどこをどう探しても義弟に養父の面影を見つけることができなかった。

 確かに耳の形などは嶺子と良く似ている。しかし、その一方で両目は垂れ気味であり、鼻も外国人のように高い。これらは両親のどちらにも共通していない部分だ。更に付け加えるならば未稲の目は垂れておらず、鼻はむしろ小さい。

 際立って強い個性を示しているのは太い眉毛である。墨汁を吸い込んだ毛筆ともたとえるべきは一本一本が竹の如くしなやかで逞しい。迂闊に指で触れようものなら皮膚を貫くのではないだろうか。

 似ていないのは顔の構造つくりだけではなさそうだ。『天叢雲アメノムラクモ』に深く関わっている両親や姉とは異なり、この男の子は総合格闘技MMAに否定的な様子であった。

 あるいは格闘技そのものに善からぬ感情を抱いているのかも知れない。

 嶺子ははおやの手がけた映像をもひろたかは「あんなモノ」とせせら笑ったが、その声には一〇歳にも満たない子どもに宿るはずのない負の想念――軽蔑が込められていたのである。

 すがだいら高原などひろたか本人は来たくなかったのであろう。母によって強引に連行された為、四六時中、不貞腐れた顔で分厚い本を読み続けているわけだ。

 表紙に刷り込まれた『南北朝時代の刑法』なる著書名タイトルだけは読み取れたものの、具体的な内容などキリサメには見当も付かなかった。唯一、確信を持てたのは小学生になったばかりの男の子が読むには極めて難解だろうということである。

 自分が七歳の頃は活字が羅列された書物など全く受け付けなかった。生前の母が専門書を読んでいるところにも近寄らなかったくらいなのだ。

 これに対してひろたかのほうは意味不明としか思えない文字の塊を難なく読み進めている様子だった。時おり少し前のぺーじへ遡り、しゃくするかのように首を頷かせている。それはつまり、書物に記された内容を理解している証拠あかしだった。

 黙々と読書に耽ることから物静かな印象を与えるものの、気性の激しさは母親から受け継いでいるらしい。好ましく思っていないらしい相手が「父ちゃん」と名乗ったときには聞こえよがしに舌打ちを披露したのだ。

 離婚した親を嫌悪しているのかも知れないが、それにしても凄まじい拒絶反応だった。

 そもそも、ひろたかのほうから岳に話しかけたところをキリサメは見たおぼえがない。言葉を交わさないばかりか、一度たりとも目を合わせなかった。己の視界から八雲岳という存在を追い出しているとしか思えないのだ。

 岳にとっては我が子から父親と認められていないようなものである。


(まるで再婚相手に懐かない連れ子みたいだけど、みーちゃんやその母親とは血の繋がりが間違いなくあるわけで、……何だか思考あたまがこんがらがって来たな)


 感情の爆発を抑えられないという一点だけを切り取れば年齢相応と思えなくもないが、父母が大人気ない行動を取り始めると、途端に憂いを帯びた表情へ替わるのだ。

 この場の誰より幼い男の子が最も大人びた面構えという状況自体は滑稽だが、そこにひろたかの生まれ育った環境が透けて見えるようであった。

 そんなひろたかのことが気になって仕方がないキリサメはわざわざ彼の傍まで歩み寄ると、正面から幼い顔を覗き込んだ。ひろたかも一応は義兄ということになる相手を不審そうに見つめ返したが、言葉までは交わしたくないのか、何の真似かとただすこともない。

 互いに何も喋らない為、キリサメとひろたかは無言で見つめ合う形となった。


「何やってんだ、お前ら……」


 大仰に首を傾げた電知の呟きにはひろたかの心情がそのまま表れている。

 当惑を深めたひろたかは暫しの逡巡ののち、おもむろに右の人差し指を突き出した。キリサメもこの動作を模倣し、やがて、両者の人差し指の先が重なった。


「……お兄さんは宇宙人か何かですか?」

「いや、日系ペルー人だけど……」

「……もう良いです……」


 少ないやり取りだけでキリサメに対する全ての興味を失ったのか、ひろたかの意識は再び分厚い書物に戻っていった。

 岳と話をしていて噛み合わなくなったときに決まり文句として呟いてしまう一言が自分に向けられる日が来ようとは――と、キリサメは愕然とした思いで頭を掻いた。


「ちびっ子人気取り作戦、失敗か? スキンシップから入るのは急ぎ過ぎかもだぜ」

「これはこれで正しいと思うぞ、少年! 子どもの心はいつだって自分以外の体温ぬくもりを求めているものだからね!」

「……放っておいてくれ」


 一連の流れを傍らで眺めていた電知とカリガネイダーから苦笑いされても、キリサメはひろたかから離れようとしなかった。

 己もまた口数が少なく、人から不愛想と思われていることも自覚しているが、この男の子の場合、接触を図ってくる人間を一切拒絶するような雰囲気を纏わせている。少なくともキリサメにはそのように感じられた。

 何しろ実の母親にまで突き放すような目を向けるくらいである。産みの親を否定することほど哀しいことはなく、それ故にキリサメはひろたかが気に掛かるのだった。


(……何となく自分に似ているって言ったら、もっと不機嫌になるかな……)


 自分も作草部さくさべゆきという実父の存在を認めていないが、それでも亡き母のことだけは今も大切に想い、遺してくれた言葉を人生の指針と受け止めている。


「ウチのガキの面倒見てくれてたんかい、キリー。いやあ、助かるよぉ! 内気っつーかネクラっつーか、姉ちゃんにもあんま懐かないからねぇ。それとも久しぶりに会って照れてるのかい? ウブだねぇ、このコは!」

「……のことを姉と呼ばせて貰うのは気がするんだけど……」


 岳が父親を称することを嫌悪するひろたかは血を分けた未稲すら姉とは呼ばないのである。この男の子が家族らしい呼び方を用いるのは一緒に暮らす母親だけであった。


「今さら何を言ってんだい。もっと小さい頃はお風呂だって一緒に入ってたじゃないか、アンタ。どう粋がったってオムツ換えてもらった過去は消せないんだからねェ」


 その嶺子ははおやは口に溜めた紫煙けむりを輪の形にして吐きつつ、息子のことを揶揄している。


「ほんのちょっと前なんだよ? そのときはお姉ちゃんお姉ちゃんって可愛かったんだけどなぁ。男の子ってよく分かんないなぁ」

「……やめて。そういう話は、ほんと……」


 ひろたかの背後に回り込んだ未稲は無遠慮にも弟の頬を指で摘まみ、気持ちよさそうに揉み始めた。


「まだまだもちもちのぷにぷにな年頃なのに甘えてくれないのは寂しいよぅ」


 虚無の表情で押し黙る弟の様子に気付かず、瑞々しい頬を弄ぶ未稲のことを見ていられなくなったキリサメは思わず俯き加減となった。

 未稲の行動や嶺子ははおやとの会話へ耳を傾けながらひろたかに憐憫を抱かずにはいられなかった。姉に懐かないのも当然ではないかと心の中で呻いたほどだ。

 立ち入ってはならない領域であると弁えているので親権の決着など仔細を穿り返そうとは思わない。離婚した両親にそれぞれ引き取られたものと察している。

 複雑な環境が子どもに与える影響というものは計り知れない。両親の離婚がまだ幼いひろたかの心の中に暗い影を落としたことは想像に難くないのだが、一方の姉は家族を引き裂いた当事者二人と屈託なく付き合っているのである。

 家族の形が壊されたことへ痛みも何も感じていないようにしか見えない姉にひろたかが反抗的な態度を取ってしまうのは当然であろう。

 ひょっとすると、そこには岳とひろたかが驚くほど似ていない事情が関わっているのかも知れない。


(みーちゃんとこの子は中身もまるで違うけど、まさか、腹違いなんてことは……)


 キリサメの脳裏に浮かんだ想像の真偽はともかく――心が年齢不相応に冷え切ってしまう条件が整っていることだけは間違いなかった。

 水兵服を象ったジャケットに裾を折り返したジーンズというひろたかに対して、他の三人は『まつしろピラミッドプロレス』のTシャツとスウェットパンツの組み合わせで揃えている。服装にまで家族の断絶を感じてしまうのだった。


「そうだ! 明日のお昼ごはんはヒロくんの食べたいものにするよ。何が良い?」

「はあァッ⁉ それはお前、カレーっつったろ⁉ 『まつしろピラミッドプロレス』特製の大盛り鹿カレーだって! おれの胃袋が全力で鹿肉を求めてんだ! なのに勝手に変えようとすんじゃねぇッ!」

「知ったこっちゃないでーす! どうしても信濃のご当地グルメを堪能したいんだったらその辺の野草を好きなだけど~ぞ!」

「まぁまぁ、落ち着きたまえ! 明日の炊き出しは予定通りに行うよ! 鹿カレーは我々を迎え入れてくれたすがだいらの皆さんへのお礼も兼ねているからね!」

「そこまで気を遣う必要なんかないですよ、カリガネイダーさん。この人のお皿には鹿肉の代わりに白樺の皮でも盛ってやりましょう。剥がれて道路に散らばってる残骸やつを」

「いちいちムカつくな、てめーは! やっぱし一発、ブン殴っときゃ良かったぜ!」


 無遠慮に頬を揉み続け、更には頭上で電知と言い争いを始めた未稲に嫌気が差したのだろう。無言で書物を閉じたひろたかは姉の指を引き剥がすようにして勢いよく立ち上がり、そのまま二階に割り当てられた部屋へと引っ込んでしまった。

 溜め息を引き摺るのみで〝家族〟の誰かを振り返ることもない。


「待ってよ、ヒロくん。もっとお姉ちゃんと遊ぼうってば~」

「その辺にしておきなよ。僕も男だから分かるけど、構われ過ぎるのは厭なものなんだ」

「う~、そう? キリくんにはそう見えた?」

「あんなに嫌われるなんざ一種の才能だぜ」

「キミには聞いてないし! てゆーか、キミだってキリくんにウザがられてるじゃん!」


 慌てて弟の後を追い掛けようとする未稲にキリサメは制止の声を飛ばした。

 よしんば追い付いたところで今の未稲は邪険に扱われるだけであろう。傍らの電知にさえ痛々しい結果が見えていた。


「……みーちゃん、あんまり余計なことは言いたくないんだけど――」


 キリサメとしても差し出がましい真似はしたくなかった。家庭の事情に踏み込むことへの躊躇いもある。しかし、自分もその一員なのだ。やはり、言うべきことは言っておかなくてはならない――その気持ちに衝き動かされ、未稲に釘を刺そうと身を乗り出した。

 キリサメ自身が誰より驚いた行動は何かを言い掛けたところで止まってしまった。未稲の携帯電話(スマホ)から希更の歌声が流れ始め、当人もそちらへ飛び付いていったのだ。

 改めてつまびらかとするまでもなく、それは希更の主演アニメ『かいしんイシュタロア』の挿入歌――『イン・ゴッデス・ウィー・トラスト』であった。


 異種格闘技食堂『ダイニングこん』で食事を摂ったときと同様である。目の色を変えて液晶画面に向かっているということはネットゲームの仲間から連絡でも入ったのだろう。

 架空の世界の住人へ返信おくるメッセージを昂奮した様子で入力する姿を見せられてしまうと、もはや、何かを訴えようという気持ちも萎えてしまうのだった。


(……みーちゃん、こういうトコがあるよね……)


 未稲と一つ屋根の下で暮らし始めて二ヶ月になるが、ネットゲームに対する没入の度合いが尋常でないことにキリサメも気付き始めていた。

 ログインする時間を合わせてグループ全員で一緒に遊ぶという約束だけでなく、新たに加入したメンバーの歓待やオフ会の支度といったゲーミングサークルの事情までもが〝現実〟の生活くらしを蝕んでいるのだ。

 ネットゲームという文化自体が故郷ペルーの貧民街に存在しなかったので当然だが、自宅に籠りながら外部の世界と交流できる利点を含むとはいえ、趣味の為だけにここまで時間と金を費やす人間をかつて見たことがなかった。

 インターネットひいては電脳空間から遠いところに居るキリサメには未稲が何もかも犠牲にしていっときの愉悦を得ているように見えるわけだ。

 これもまた〝富める者〟の戯れであろう。

 同様の症状を貧民街の記憶に求めるならば、最も近いのは薬物中毒者ジャンキーだろうか。

 ネットゲームという名の麻薬へ依存しているように思えてならず、丸メガネのレンズに映るアプリケーションソフトの画面を一瞥しただけで胃の底から何とも例え難い不快感が込み上げてくるのだった。


(……自分の性根が厭になる。みーちゃんにまでこんな気持ちになるなんて……)


 くらい面持ちで頭を掻くキリサメを嶺子が豪快に笑い飛ばした。どうやらひろたかから黙殺されて落ち込んだように見えたらしい。


「うちのヒロとキリーは波長が似てるねぇ。あのコ、あんたに興味津々だと思うよ」

「……思い切りフラれたんですけど、ご覧になってなかったんですか?」

「がっかりするこたァねぇぜ。ここンとこ、急にマセてシャイになっちまっけどよ、ヒロ坊もアレで人懐っこいコだからよォ。オレも昔はよく肩車してやったもんさ」


 キリサメにとって意外だったのは岳である。彼こそ合宿が始まって以来、ひろたかから無視され続けているのだ。それにも関わらず、周囲まわりには落ち込んだりも見せなかった。

 携帯電話スマホへ触れることを娘に拒絶されただけでも真剣に傷付く岳なのだから、普段は会えない息子に冷たい態度を取られようものなら一等激しく落ち込んでも不思議ではない。

 自分以外の人間ひとの為に涙を流せる岳であっても、離れて暮らす相手とは心の距離が遠ざかってしまうということなのだろうか。

 馬鹿が付くほど真っ直ぐな養父を信じて己の運命を預けたキリサメだけに、ひろたかへの反応が薄皮を破る刺のように引っ掛かるのだった。


「その人懐っこい子から相手にされないのは、……岳氏だって一緒でしょう? 僕より付き合い長いみーちゃんだって構って貰えなかったし……」

「岳も話したろ? あのコはマセガキ気取ってんのさ」


 そういって嶺子は岳と肩を組んで豪快に笑った。相変わらず紙巻きタバコをくわえたままなので歯の隙間から紫煙けむりが吹き出している。

 出会ってまだ半日程度しか経ってはいないものの、嶺子が岳の〝同類項〟であることはキリサメも十分に思い知った。電知とは別の意味で馴れ馴れしい。思ったことを何でも口に出してしまう辺り、かつての夫に匹敵するくらい無神経なのである。

 似たもの夫婦とは二人の為にあるような言葉だろう。

 何しろ初めて顔を合わせてから一分と経たない内に「キリー」と愛称ニックネームで呼び捨てにされてしまったのだ。こういったものは親密になってから徐々に用いるのではないだろうか。相手との距離など一切考慮せず、気ままに割り込んでくるところも岳そっくりだった。

 勿論、岳とは似ても似つかない部分がないわけではない。

 タバコと酒で喉が焼けたのか、彼女は声が常に濁っていた。それ自体は嶺子本人の嗜好なので咎める理由もないが、未稲やひろたかの前でも平気で喫煙していたことだけは疑問に思わざるを得なかった。子どもの健康を害する可能性にも無頓着というわけだ。

 映像作家としては世界に通じる力量なのかも知れないが、興味の対象から外れるものは全く視界に入らないのだろう。それならば、隠し撮りに罪悪感など持つはずもあるまい。

 だと割り切るしかない――と、キリサメは己に言い聞かせた。


「横槍の所為せいで話が途切れちまったけど、とりあえず、第一弾のPVプロモはこんな感じさ。明日も撮影してやっからイケてるを頼むよ、キリー。そこのチビ助は出しゃばンな」

「こうなったらおれも意地だぜ! 四六時中、キリサメにへばり付いてやらァよ!」


 ノートパソコンを閉じながら嶺子は新しい紙巻きタバコに火を付けていく。

 吸殻を灰皿にねじ込んでから三〇秒も経たないのに口寂しくなったのだろう。ネットゲームに触れていないと気持ちが落ち着かない未稲と同じように、嶺子もまた紙巻きタバコから切り離されては生きていけないらしい。


「デビュー戦ってコトでバックボーンの紹介メインの地味な構成にしてみたけど、『コンデ・コマ・パスコア』に出場るときゃド派手にブチかましてやるからねぇ。ど~やってイズリアル・モニワの度肝を抜いてやろうか、もうワクワクしてきたよ」

「いえ、どうなるかは何も……」


 どうやら嶺子の中ではキリサメが『NSB』との合同大会へ参戦することは既定路線のようである。

 しかし、肝心のキリサメはデビュー戦すら終えていない。そのような状況で今後の展望を勝手に決め付けられても答えようがないわけだ。

 キリサメとしては自分に期待を寄せるよりも周囲まわり家族こどもたちに気を配って欲しかった。


「おい、待て! 前田光世大先生の――」

「――それはもう分かったから」


 例によって例の如く前田光世コンデ・コマの名前を引用した総合格闘技大会へ抗議しようとする電知だったが、これはキリサメが先手を打って抑え込んだ。

 これだけ付きまとわれていれば、彼の行動パターンも読めるようになるわけだ。


「――おう、『コンデ・コマ・パスコア』で想い出したぜ! 嶺子ンとこに藤太から連絡行ってねぇか? メールとか電話とかよォ」

「……は?」

「しらばっくれんじゃねーって。藤太だよ、進士藤太。『コンデ・コマ・パスコア』でヤツと対戦するコトになりそうなんだよ、オレ! マッチメイクのコト、お前に何か言わなかったか? オレの話とかしてんじゃねェかなーってさ」


 岳が『進士藤太』という名前を口にした途端、嶺子と未稲の表情が同時に凍り付いた。

 進士何某なにがしはキリサメも聞きおぼえがないが、二人の様子を見ただけでも禁句であることは察せられる。岳は不可視の地雷を踏み抜いたわけだ。


「……PVプロモの試作品も見せて貰ったことだし、私はそろそろ寝ようかな。それじゃ、みなさん、お休みなさい――」


 一秒でも時間を無駄にしたくないと言わんばかりに携帯電話スマホへ向かっていた未稲が急に二階へ引き上げてしまったことからも岳の失態がどれほど深刻だったのか、察しが付くであろう。

 彼女が取ったのはあからさまな退避行動であった。


「……電知、ちょっとコンビニまで付き合ってくれないかな。喉が渇いてさ」

「えっ⁉ 今……おれのこと、名前で呼んでくれた⁉ い、行く行く行くッ! どこまでもいてくぜェーっ!」

「待ちたまえ、少年たち! コンビニと言ってもすがだいらに不案内なキミたちでは場所が分からないだろう⁉ この私が案内しようじゃないか!」



 今からこの部屋はに見舞われるだろうと直感したキリサメは、電知とカリガネイダーを伴って速やかに退室した。

 道案内を買って出たカリガネイダーなどは戦慄にてられて声が震えてしまっている。

 二階の未稲と大陸ひろたかにも声を掛けたかったのだが、一刻も早く山荘から脱出しないと自分たちまで巻き込まれてしまうかも知れず、心の中で二人に謝りつつ玄関のドアを開けた。


「――驚いちゃったよ。社長のケータイに電話したのに、さんが出るんだもん。今日は二人とも休みのはずなんだけど、急ぎの仕事で出社したのかなぁ。申し訳ないなァ」


 山荘の外で電話をしていた麦泉と入れ違いになったが、彼はこれから広間に戻ったことを後悔するだろう。生き地獄さながらのの中へ身を投じるようなものなのだ。



 すがだいら高原の別荘地には最小限の街灯しか設置されておらず、夜のとばりが下りる頃には中心部以外は暗闇に閉ざされる。土地勘のある人間でないと迷走を繰り返した末に遭難する可能性も高いという。

 すがだいらで幾度となく『まつしろピラミッドプロレス』の合宿を張り、夜道を案内できる程度には同地に詳しいカリガネイダーの説明によれば、山荘から目当てのコンビニまで往復で一時間近く要するそうだ。

 山肌の残雪から運ばれてくる夜風が肌を刺し、吐く息まで白くなる時間帯の散歩としては長い道程だが、帰りが遅くなる分には構わない。その間に騒ぎが鎮まっていることを祈るばかりだった。


「――あんたはどーしてそう無神経なんだいッ⁉」

「み、嶺子、カンベンッ!」


 山荘の外にまではっきりと聞こえてきた大音声は『まつしろピラミッドプロレス』のメンバーに割り当てられた二階の大部屋まで突き抜けたことだろう。岳を痛罵する相手に対し、キリサメは「あなただって無神経さでは負けていませんよ」と心の中で毒づいた。


「おれ、ちょっと小腹空いちまったな~。おい、公務員のおっさん、近くにラーメン屋とかねぇのかよ?」

「私は公務員ではなくカリガネイダーだぞ――だが、その質問には残念と答えておこう。風光明媚な高原地帯だけにこんな遅くまで開いている食堂など殆どないのだよ。居酒屋なら少しはあるが、未成年を連れていくことはできないぞ!」

「別におれは気にしねぇのに。ショットバーにだってメシ食いに行くし」

「だったら、コンビニでカップ麺を買えば良いじゃないか。僕もパンか何か買うよ」

「それもそうか、店でお湯入れてな。でも、それはそれで大変だぜ、キリサメ? 今度は山荘ここまで持ってこれねえじゃん。いくらなんでも麺が伸びちまうぜ」

「行儀は悪いかも知れないが、店先で頂いてしまおうではないか。腹が減っては帰り道も難儀するだろうからな。少年、そこは臨機応変だ」

「だよな? 仕方ないよな? 食うのに時間掛っちまっても、アツアツのカレーうどんなんだからど~しようもねぇよな?」

「うん、急いで食べて舌を火傷するのは良くない」


 山荘内部にて繰り広げられているだろう惨状を察した電知も、帰りの時間を引き延ばし得る手立てを自ら提案していく。キリサメもカリガネイダーも一切反対せず、受け答えは白々しいほどに棒読みであった。

 懐中電灯も持たずに慌てて飛び出した上に新月にも近いので、夜道を照らすものといえば星明かりくらいしかなかったが、三人で肩を並べていれば道に迷うことはあるまい。

 山荘周辺は電柱だけで照明あかりがなく、星の輝きが網膜に焼き付くくらいだった。

 先月より遥かに近く信濃の夜空を仰いだキリサメは、手を伸ばせば届くのではないかと錯覚してしまうくらい大粒な星々に目を細め、その瞬間に一つの驚愕が心を揺さぶった。

 サン・クリストバルの丘から見つめた星空を想い出せなかったのだ。

 改めてつまびらかとするまでもなく、記憶力に障りがあるわけではない。生まれたときから身近な風景だったので、意識して記憶に刻み必要がなかったのだ。

 離れる前は取るに足らないと感じていた故郷の想い出である。真っ先に消えていくのは自明であり、同時に大いなる皮肉であったのだが、己の付けた足跡が砂塵に埋もれてなくなってしまう虚しさは抑えようもなかった。


(……思えば遠くに来たもんだ……)


 初めてキリサメに郷愁が押し寄せていた。遥か遠き故郷への想いを駆り立てるサイモン&ガーファンクルの『コンドルは飛んでゆく』を無意識に口ずさみそうになったのだ。

 地球の裏側を〝二度とは戻れない場所〟と感じたことも初めてかも知れない。

 常に携えていないと落ち着かなかった『聖剣エクセルシス』は部屋へ置いてある。故郷ペルーで〝はかもり〟の真似をしていた頃には考えられないことだ。

 最近は『E・Gイラプション・ゲーム』から『八雲道場』へ差し向けられたカラーギャングに見張られることもなくなり、少し前までのように四六時中、神経を張り詰める必要もない。日本という環境へ心身ともに溶け込むのは当然であろう。

 だから、殺陣道場のワークショップで教わったことを復習する以外に『聖剣エクセルシス』を振るう理由がなかった。

 ほんの二ヶ月前までノコギリ状の刃へ毎日のように生き血を吸わせていたのだが、今や貧民街に垂れ込めていた死臭すら懐かしい。心に起こったざわめきは己の意識が〝富める者〟の側へ近付いていく違和感と呼ぶべきかも知れなかった。

 『聖剣エクセルシス』が閃くたびに巻き起こす腥風かぜを浴び、骨の髄まで恐怖を刻み込まれた人間が再びキリサメの前に現れることはなかった。例え禍々しい刃から生き延びたとしても圧倒的な戦慄によって心が圧し折られてしまうのだ。

 狂気が入り混じる殺意に憑かれた者か、心根を本当に理解する者でなければ、血塗られた『聖剣エクセルシス』を肩に担ぐキリサメには誰も近寄らない。母の私塾で共に学び、幼少期の想い出を分かち合う旧友たちと疎遠になってしまった主因きっかけも全身から漂わせる血腥なまぐさ死臭においであった。


っつったら、キリサメは『がんじゅ~い』ってクレープ屋を知ってっか? オーソドックスな洋菓子風とは一味違うメニューを売り出してんだけどよ」


 馴れ馴れしさをうっとうしく感じる瞬間があるほど纏わりついてくる電知のことがキリサメには不思議でならない。

 『聖剣エクセルシス』こそ振りかざさなかったものの、それに匹敵する凶器で命を脅かした。容赦なく双眸を狙い、鼻骨まで叩き折ったというのに、この少年は恐れをなしてあと退ずさるどころか、純粋無垢な友情をぶつけてくるようになったのである。

 拳を交えた後にも交流が続いた相手は〝同い年の少年〟ということに限れば電知が初めてだった。

 親友マブダチと真っ直ぐに呼んでくれる少年へ何時の間にか感化されてしまったのか――気付いたときには「電知」と、己自身で驚くほど自然に彼の名前を紡いでいたのである。


「沖縄クレープってヤツかな。何度か岳氏が買ってきたよ。確か箱にもそんなような店名なまえが入ってたような……」

「おう! 多分、それだ――てか、八雲のおっさんも面倒見が良いなァ。そもそも『がんじゅ~い』ってのは一昔前の総合格闘家が現役引退後に始めた店なんだよ。その辺はもうおっさんから教わったんか?」

「いや、初耳だよ。古い付き合いということくらいしか知らない」

「今じゃ格闘家やってたときより有名なんじゃねーかな。結構、テレビにも出てるらしいけど、お前、観たことあるんじゃねェ?」

「どうだろう。僕は『マイナスイオン』が出演してる番組くらいしか興味ないし……」

「好きだなぁ、そのお笑いトリオ! 何ならデビュー戦に招待しちまえよ!」

「僕にはテレビで眺めているくらいで丁度良いんだよ」


 同世代の少年と大して中身のない雑談に興じたのは何年振りだろうか。未稲と会話を楽しんでいるときとも違う感覚が妙にくすぐったい。


「以前、仕事で上京したついでに店主殿を訪ねたのだが、油みそをチーズとカレーソースにアレンジしたポーポーは絶品だぞ! 信州味噌で同じようなコトができないものかとその場で交渉してしまったほどだ!」

「味噌入りカスタードのチンビンが並び出したのはあんたの入れ知恵かよ! 大手柄じゃねーか、長野の公務員! アレ、塩バニラみたいでイケてたぜ!」

「海の国と山の国、二つのグルメが奇跡を呼び起こしたのだよ!」


 くだんの店にいて沖縄クレープと総称される食べ物はスイーツ系のチンビンとスナック系のポーポーといった具合に大きく分けられている。

 電知とカリガネイダーはこれまでに堪能した沖縄クレープの感想を述べ合い、大いに盛り上がっていた。


(……ほんの少し前まで他人ひとと騒ぐこと自体、煩わしいだけだったのにな……)


 今は親しくしてくれる彼らも自分が故郷ペルーで犯した罪の数々を知ったら、相容れない存在ものと見做して去っていくのだろうか――そのようなことを考えたくもなかった。


「何かのテレビ番組に『マイナスイオン』がゲストで出演たときも『がんじゅ~い』の移動先を追い掛けてったハズだぜ。決まり切った場所に店舗を構えるんじゃなくて、フードトラックってェのを使って移動販売やってんだよ、じゃどうのおっさん」

「自分が訪ねたときは都庁の近くで営業していたな!」


 この国の土を初めて踏んだ日、未稲と買い出しに向かった先で風変わりな自動車に撥ねられそうになったのだが、おそらくはが電知の語ったフードトラックなのだろう。

 目を凝らして確認したわけでもないので記憶は曖昧であるが、車体のあちこちに『がんじゅ~い』という名称が入っていたはずだ。

 運転席から飛び出し、近くで選挙演説を行っていた東京都知事候補と何故か取っ組み合いを始めた店主について未稲には〝知り合い〟としか教わっていない。電知の話を聞かなかったなら、自分の〝先輩〟であることにも気付かないままであったはずだ。

 これまでに伝え聞いた情報から推察するに、『天叢雲アメノムラクモ』の前身の時代にいて『最年少選手』と呼ばれた男の〝同僚〟なのだろう。

 キリサメが顔もおぼえていない〝先輩〟のことを電知はじゃどうと呼んでいた。営業中は自らさんしんという伝統楽器を奏で、沖縄民謡でもって陽気に客を出迎えるそうだ。


「客相手はともかく知り合いにゃカネ儲けの話しかしねーから、キリサメも最初はビックリするかもな。沖縄の人って財布の感覚が割かし大らかなイメージだったんだけど、じゃどうのおっさんは例外中の例外かねェ。あんなにガメつい人、見たことねーよ」

「バラエティーに出演したときにも決め台詞のように『世の中はカネだ』と公言して共演者をドン引きさせていたな! 『人生崖っぷちからの大復活劇』みたく分かり易いお涙頂戴路線に持っていこうとしたテレビ局へ一撃喰らわせたみたいで痛快だったがね!」


 電知とカリガネイダーが苦笑交じりで語らう『がんじゅ~い』の店主は、岳と同じリングへ上がっていた格闘家らしく相当にな人物のようだ。


「パイナップルソースたっぷりのチンビンがおれのオススメだな。焼き立ての香ばしいトコをかぶりり付くと格別なんだわ。話してるだけで口ン中に涎が溜まってきやがった!」

「僕は黒蜜を塗ったチンビンが一番口に合ったかな。沖縄のことはまだ全然知らないんだけど、肉を包んだポーポーはペルーのエンパナーダに似ていたかも知れない」

「ほほう? 沖縄のグルメは長野どころか、地球の裏側とも繋がっているというのかね。これは興味深い話を聞かせて貰ったぞ、少年! 胃袋の音は地球を駆ける!」

「エンパナーダはクレープというよりミートパイなんですけどね。……それにしても焼き立てか。てっきり岳氏はケーキ屋みたいな場所ところで買ってきているとばかり思ってたよ」

「今度、焼きたてを食いに行こうぜ。『ワイルウェフごう』で〝ニケツ〟してやっから」

「……気が向いたらね」


 消えゆくペルーの想い出の中でおそらくは爪痕のように遺り続ける幻像まぼろし――リマの街角でエンパナーダを頬張る幼馴染みの横顔が脳裏を掠めたとき、キリサメの瞳が前方に街灯あかりらしきものを捉えた。

 カリガネイダーの説明によればようやく中間地点に差し掛かったところなので、は市街地への道標とは言い難い。背の高い照明器具によって照らされているのは道路の右脇に広がる農場だった。ここでレタスなど高原野菜を栽培するそうだ。豪雪の名残を留めた畑に隣接する形で透明なビニールハウスが幾つも建ち並んでいる。

 不意の幻像まぼろしが地球の裏側まで呼び戻そうとしたキリサメの意識はすがだいら高原ならではの風景によって引き留められた。

 農場の真隣にはラグビー場がある。アーモンドにも似たボールが外に飛び出してしまわないようグラウンドはネットで囲まれていた。

 幼馴染みの幻像まぼろしを持て余したキリサメが口を真一文字に引き締めたことで星空の下には沈黙が舞い降りた。


「――あのチビっ子、なんかワケありっぽかったな。八雲のおっさんの息子らしいけど、キリサメは何も知らねぇのか? 思いっ切り初対面っぽく見えたけどよ」


 沈黙これを最初に破ったのは電知だった。

 先程までの明るい調子とは打って変わって声色も重苦しい。何事にも直線的な電知にしては珍しく相手の出方を探るような物言いなのだ。沖縄クレープの話題で盛り上がっている最中にもを切り出すタイミングを計っていたのかも知れない。


「嶺子氏だって挨拶するのは初めてだったよ。……日本に来て半年も経っていない僕より電知のほうが詳しいんじゃないか? 岳氏のコトも嗅ぎ回っていたんだろう?」

「映像作家やってる前のカミさん本人はともかく、その子どもなんて調べようがねぇよ。二人姉弟きょうだいっつうコトも初めて聞いたくらいだもん。公務員のおっさんはど~よ?」

「そろそろカリガネイダーと呼んで欲しいものだがね――我々『まつしろピラミッドプロレス』は八雲先生に教えを授かる立場。そうでなくともプライベートなことを詮索するのは人の道に反する。……お身内のことで知っているのは表木先生の父上が八雲先生の御師匠様ということくらいだよ」


 親族でもない人間が明かしてしまうことへの罪悪感を滲ませつつ、カリガネイダーが控えめに語ったのは岳が忍術を叩き込んでくれた師匠の愛娘と結婚したという事実である。

 言わずもがな、それが表木嶺子であった。

 それはそれで養子キリサメには興味深い話であるが、ひろたかのことと直接的には結び付くまい。


「……事情が分からないのはみんな一緒か。こっちから話しかけるきっかけでも分かればと思ったんだけどな」

「あれはこじらせるとヒキコモリになり兼ねねぇよ。……なんとか手ェ打ってやりてェな」


 電知もまた大陸ひろたかの様子が気に掛かっていたらしい。それほどまでに彼の纏う空気は危うかったということであろう。

 珍しく神妙そうな面持ちの電知を横目で眺めている内、キリサメは『警視庁捜査一課 組織暴力予備軍対策係』を名乗る鹿しか刑事と遭遇した夜のことを想い出していた。

 鹿しかは『E・Gイラプション・ゲーム』ひいては地下格闘技アンダーグラウンドそのものを壊滅させようと画策している様子であった。応じるつもりのない人間へ協力を言い付けるなど捜査の方法もかなり強引だ。事情聴取を受けた折に掌中へねじ込まれた紙切れは未だに自宅の部屋にて保管している。何かあったときには、そこに記された番号へ電話を掛けるよう強いられたのだ。

 火守鹿かもしか刑事のことはまだ電知には伝えていない。想い出すだけでも腹が立つので合宿の最中は忘れるよう心掛けていたくらいなのである。

 『昭和の伝説』こと鬼貫道明が経営する異種格闘技食堂『ダイニング士魂しこん』での食事会が解散となった直後、岳と麦泉には鹿しかのことを報告した。

 すると、この一件を『E・Gイラプション・ゲーム』のメンバーには漏らさないよう釘を刺されてしまったのである。


火守鹿あいつの話は適当に聞き流しときゃ良いんだよ。キリーだってあいつの事情コトは何も知らねぇんだし。その内、オレがハナシ付けといてやっからよ」

「間違っても外部そとにリークしちゃダメだよ。捜査妨害と見なされたら、キミまで逮捕されてしまうからね。……『E・Gイラプション・ゲーム』の友達に話すのはもってのほかだ」


 暢気を絵に描いたような赤ら顔の岳に対し、麦泉は何時になく険しい表情だった。逮捕の可能性までほのめかされてはキリサメとしても頷くしかなかった。

 尤も、麦泉の真意はキリサメにも分からない。

 彼は『サムライ・アスレチックス』の社員スタッフである。キリサメが公務執行妨害などの罪に問われないよう釘を刺しただけでなく、自分たちが主催するMMA団体へ攻撃を繰り返している『E・Gイラプション・ゲーム』には消滅して貰ったほうが好都合と考えているのかも知れなかった。

 麦泉の上司である樋口社長ならば、それくらいは素知らぬ顔で謀るだろう。


「ヤツにもあったし、なかなか強く出れねェんだよなぁ。近寄り過ぎると罠にハメられ、離れたら離れたで気になって仕方ねェ――お互いの為にも現在いまはこれくらいの距離感で良いんだよ、……現在いまはな」

「またセンパイは甘いことを……。昔のことはどうあれ今となっては誰にも取り返しのつかないことじゃないですか。彼の個人的な〝事情〟に僕らが付き合う必要はありません」


 岳も麦泉も鹿しかのことを以前から良く知っているような口振りだった。前者に至ってはくだんの刑事との和解を望んでいるようにすら思えるが、キリサメは養父ほど鷹揚になれそうもなかった。

 一つの事実として鹿しかは『E・Gイラプション・ゲーム』を組織暴力と決め付けているのだ。それどころか、格闘技自体を単なる『暴力』と見下しているようにも感じられた。

 それならば、カリガネイダーが先頭を走る『まつしろピラミッドプロレス』はどうなるのか。あらかじめ取り決められた筋書き《シナリオ》通りに試合を行い、肉体を駆使したショーとして観客たちを魅了しているのだ。

 楽しませたい――その想いだけで結成された地方プロレス団体さえも鹿しかは『暴力』扱いするのだろうか。

 自分が〝誇り〟の為に臨もうとしている『天叢雲アメノムラクモ』は組織暴力を取り締まる刑事の目にはどのように映るのだろうか。

 脳裏に蘇った薄笑いの鹿しかから挑発されているような気持ちになったキリサメは、我知らず右拳を握りしめていた。


「お~い、どうした~、キリサメ~? あのチビっ子のコト、そこまでマジに考えてんのかよ? だったら、おれも腹括って付き合うぜ?」

「自分はまだ結婚すらしていないが、それでも構わなければ、幾らでも子育て相談に乗ろうではないか! 誰かを元気付けたいという思いに理由なんかいらないのだ!」


 急に押し黙ってしまったキリサメを心配し、電知とカリガネイダーが一緒になって顔を覗き込んでくる。

 何でもないと答えるよう首を横に振ったキリサメは、再び星空の下を歩き始めた。

 岳の言う通り、あのような刑事のことは無視していれば良い――そう自分に諭しながらも鹿しかの言葉は鋭いトゲとなって心に突き刺さり、いつまでもうずき続けるのだった。


「それにしたって子育て相談はねーだろ。義理の弟ってだけでキリサメもチビっ子を引き取るワケじゃねーんだから」

「いやいや! 本気で子どもと向き合うのなら、それくらいの覚悟は欠かせまいよ!」

「あんたの場合はただの言い間違いだろ? 取り繕ってボロ出す前に認めとけって」


 カリガネイダーの発言を電知がおどけた調子で混ぜ返した直後のことである。前方の暗闇へ光の玉が浮かび上がった。

 水平に並んだは徐々に膨らんでいるようだ。そして、その背後から夜の別荘地には全く不似合いな異音が飛び込んでくる。

 高原の静かな眠りを妨げる獰猛な唸り声は全開で蒸かし上げられたエンジン音である。大型バイクが発するものと考えて間違いないだろうが、時おり混じる破裂音は何なのか。

 このような爆音をキリサメはかつて聞いたことがなかった。


「マフラー、改造いじってるっぽいな、このだせェ音は」

「マフラーって首に巻くアレ……か?」

「まさか、お澄まし顔のキリサメ君がコテコテでお約束な天然ボケを見せるとは……」

「排気ガスを外に出す為の装置だよ。単車や自動車のケツに付いてるアレのこと」


 けたたましい異音はキリサメたちのもとへ急速に接近しつつある。これと連動して光の玉も大きさを増していくのだが、膨張そのものは間もなく頭打ちとなるだろう。次に押し寄せてくるのは視界を白く塗り潰すほどの眩しさである。

 それはつまり、双方の交錯が鼻先まで迫っているということであった。

 近隣の農家が翌朝に備えて寝床に入ろうかという頃合である。現地で暮らす人々の迷惑など微塵も考えず、星空に爆音を轟かせる無神経な人間ライダーが自分たちの宿所がる方向へ直進していくのは非常に気掛かりだが、だからといって追い返す権利もない。

 やむなく三人は通行の妨げにならないよう道路の脇へ移った。キリサメが右側に、電知とカリガネイダーがその向かい側にそれぞれ別れていく。

 通過を見届けるまではその場に留まるつもりであったが、夜道に居眠り運転でもしているのか、当のバイクはキリサメが立つ側へと急速に寄っていくではないか。

 このままでは間違いなく轢き殺されてしまうだろう。


「キリサメ、避けろ! こいつ、おかしいぜッ!」


 異常に気付いた電知から呼び掛けるまでもなく、キリサメも自分に向かって突っ込んでくるバイクを油断なく注視していた――が、予想を大きく上回る事態にはさすがに反応が遅れてしまった。

 爆音が鼓膜を劈くほどに近付いた瞬間、暗闇の向こうに空想上の生き物である龍の頭部が浮かび上がったのだ。思わず我が目を疑うキリサメであったが、光の玉をくわえたようにも見える幻獣が確かに自分をめ付けている。

 キリサメが呆然と立ち尽くしている間に龍は天へと昇らんばかりに全身をうねらせ、そこからバイクの前輪が現れた。龍の肉体は鋼鉄の部品を幾つも組み立てることで完成された機械モノである。

 龍からバイクへ変身したかのような事態にキリサメの思考あたまはますます混乱したが、一等激しさを増したエンジン音と共に前輪が――否、車体そのものが頭上まで迫っている状況は認識できている。


「キリサメッ!」

「大丈夫。これなら問題ない」


 シートへ跨ったままブレーキすら使おうとしない相手ライダーへ飛び掛かってでも食い止めようとする電知をキリサメが制した。今まさに突っ込まれようとしている状況で誰かに助太刀を乞うとかえって危ないのだ。

 心配無用と答えた通り、混乱を抱えてもなおキリサメには回避する自信があった。命の危機を直感して〝眠れる獅子〟の如き双眸が見開かれることもない。

 前輪を高く持ち上げる為に著しく減速しており、そこに付け入るべき隙が生じる。どれだけハンドルを巧みに操作できようとも、原則的に二輪車は前進以外の機能を持たないのだ。それだけに相手ライダーの狙いも見極め易いのである。

 大量に撒き散らされた排ガスの只中を突っ切るだけで、キリサメは垂直落下してくる前輪をかわし切った。タイヤのゴムがアスファルトへ焼き付いたような臭いが鼻孔を刺激し、思わずせそうになったのが唯一のダメージであろう。


「な、何者だッ⁉ 平和なすがだいらでこのような乱暴狼藉! 悪逆非道を続けるつもりならばこのあかぞなえ人間カリガネイダーが教育的指導をお見舞いするぞッ⁉」


 殺人未遂としか表しようのない事態に驚き、尻餅をついてしまったカリガネイダーも即座に立ち上がり、やや気後れしつつ時代がかった口調で非難の声を浴びせた。

 居眠りで運転を誤ったわけではないと、誰もが確信している。このバイクは一〇〇キロを超えるだろう重量でもって押し潰すべくキリサメに急速接近していったのだ。

 それはつまり、彼一人に狙いを定めた攻撃に他ならないのである。


「マジで大丈夫なのかよ、キリサメ。撥ね飛ばされるんじゃねぇかって冷や冷やしたぜ」

「カスリ傷も受けてないよ。大袈裟なアクションだったから助かったというべきかな」


 『天叢雲アメノムラクモ』への憎悪を募らせている『E・Gイラプション・ゲーム』の仲間が代表の意向を無視して暴走するのではないかと危惧していた電知は、我が身を盾にしてキリサメを庇った。カリガネイダーもキリサメの隣に立って追い撃ちを警戒している。


「一体、僕に何の用が――」


 奇襲を受けた本人キリサメは無関係の二人を巻き込むまいと〝ライダー〟へ直接向き合おうとしたのだが、それも一瞬のことで、喉から飛び出しかけた言葉を呑み込んでしまった。

 エンジンを蒸かし上げながらその場に停まったバイクを視認した瞬間、電知とカリガネイダーも揃って口を開け広げ、絶句した。キリサメの目に一度は龍として映ったバイクは個性の二字からも逸脱するほど珍妙であったのだ。

 余人には理解し難い感性センスというべきか、バイク全体を一匹の龍に見立てたかのようなデザインなのである。車体の大半をカウルという合成樹脂のカバーで覆っているのだが、その表面に龍鱗うろこを模したものとおぼしき緑色の塗装が施されていた。

 ハンドル周りに至っては龍の頭部そのものであり、口の中からヘッドライトが迫り出している。高く突き出した背もたれバックレストはさしずめ尻尾というわけだ。これもまた緑色の合成皮革の物がわざわざ選ばれている。

 龍の背に跨る気分を味わう為だけに改造を重ねたとしか思えなかった。


「ゾクしゃァッ⁉」


 電知が声を裏返らせて発した〝ゾク車〟なる言葉の意味がキリサメには分からない。改造車といった意味合いであろうことが辛うじて察せられたくらいだ。


「――オレの『ガンドラグーンゼロしき』を切り抜けるとは予想外だったぜ。さっきのでくたばるくらい弱っちけりゃ即時失格で手っ取り早かったんだがな」


 第一声として発した『ガンドラグーンゼロしき』というのはバイクに付けた名称なまえだろう。電知も自転車ママチャリのことを『ワイルウェフごう』などと呼んでいるが、日本では愛車への命名が大流行なのだろうか――と、キリサメは妙なところで首を傾げた。

 勿論、彼にとって最も不可解なのは〝ゾク車〟ではない。しかし、見ず知らずの人間が不意打ちを仕掛けてきた理由でもない。シートから勢いよく飛び降りた青年が頭頂から爪先に至るまで尋常ならざる存在キワモノであった為、面食らってしまったのである。

 頭には安全用のヘルメットを被っているが、これは取り立てて騒ぐほどでもない。『げき』という造語らしい二字を意匠化したステッカーを貼り付けていることには気付いてもいなかった。

 鼻の下に蓄えた髭によって粗暴さが一等際立つ青年ライダーは〝短ラン〟と呼ばれる変形の学生服を素肌の上に羽織っている。〝ゾク車〟から飛び降りた際に裾が大きくめくれ上がって紫の裏地が露となったのだが、どうやら荒れ狂う龍の刺繍が施されているらしい。

 学校指定の物ではない改造ボタンは一個も留めておらず、剥き出しの腹にはサラシを巻いていた。

 太腿の部分が異様に広く、裾が細い変形の黒ズボンをくだんの変形学生服に合わせている。いわゆる〝ボンタン〟である。ベルトは用いず、バイクの物であろうチェーンを帯の代わりに締めていた。

 使い古された様子の革靴も素足のまま履いているようだ。見た目には何の変哲もない市販品なのだが、着地の際に鉄の塊をアスファルトへ急降下させたような重量感のある音を跳ね返している。

 いずれも昭和後期の非行少年ヤンキーたちの間で流行った服装である。社会や学校に対する反骨精神を形として表しているわけだが、それを平成二〇年代も後半に差し掛かったこんにちに敢えて再現したのは本人の並々ならないこだわりであろう。

 日本の文化に明るくないキリサメが奇怪きっかいと感じたのは、それが学生服だからである。同じような装いの少年は都内で何度となく見掛けている。どこで聞いたのかは定かにはおぼえていないが、未稲からあのタイプの学生服は都内でも指折りの不良ワルが集まるしまじゅうこうぎょうこうこう――通称『シマコー』の物だと説明もされていた。

 いくら荒んだ学校に通っているとはいえ、仮にも高校生が夜更けの他県でバイクを乗り回している状況は異常としか表しようがあるまい。

 極め付けはケースにも収納せず抜き身で背負ったエレキギターである。V字型シェイプのそれを担ったままでは特別製の背もたれバックレストに身を預けることは不可能だろう。わざわざ取り付けた意味がなかった。


「気を付けたまえ、キリサメ君! ゼロしきなどと謳っているが、このテのタイプは単純シンプルに二台目と名乗るのがカッコ悪いと思って『改』とか『ネメシス』とか付けるのだよ! 二台目で『ひゃくはちしき』を使ってしまったので三台目に『ゼロしき』を選んだと見たッ!」

「ツッコミ入れるの、そこかよ⁉ さてはてめぇ、仮面の名探偵か⁉ あ――いや、別にそんなんじゃねーし! 『チキン・ラン』やるときゃ爆発四散しにいくってコトでゼロしきなんだしよ! そうだッ! こいつはいつ死んでも構わねェって覚悟の表れだぜッ!」


 カリガネイダーの珍妙な指摘ツッコミに対し、青年ライダーは上擦った声で喚いている。過剰な反応を示すということは、どうやら図星を指されたらしい。


(嶺子氏みたいに酒かタバコで喉がイカれたようなダミ声――何だか聴きおぼえがあるぞ)


 自己主張を追い求めた挙げ句、そもそもの出発点を忘れてしまったかのような風体なのだが、血走った狐目も含めてキリサメには何故か見憶おぼえがあった。

 明確に想い出せないことが何とも歯がゆいが、鬼貫道明の〝声〟と同じようにどこかで記憶に刷り込まれたのである。一つでも手掛かりがあればそのときの場景が甦るはずだ。


「他にも言いたいことは山ほどあるけど、そんな恰好で寒くねーの?」

「てめーにだけは言われたくねーぞ、チビ助! 道衣そいつは何だァ? 空手か、柔道か? 山籠もり修行にしては片眉剃るような根性も見られねェな⁉ 半端者が出しゃばんなッ!」

「いつぞやの電知を想い出す人だね。大体、同じようなことを言ってたよ」

「……マジ? おれ、こんなのと一緒なの? 今度から気を付けねぇと……」


 カリガネイダーの次に指摘ツッコミへ動いたのは電知である。

 どのような意図があるのか、見当も付かないのだが、目の前の青年ライダーはシャツを着ないどころか、〝短ラン〟の袖までまくって肘から下を寒空に晒しているのだ。

 風変わりなじゅうどうに身を包み、四肢それぞれが半分ほど剥き出しとなっている電知には確かに揶揄されたくないだろうが、寒々しい恰好で〝ゾク車〟を駆ってきたのである。

 この場の誰よりも吐息が白い。頻繁に鼻水をすする辺り、すがだいらの夜風にこごえているのは明らかだった。

 尤も、〝寒々しい恰好〟ということであれば半袖のシャツを着たカリガネイダーも同様であろう。彼などは袖を完全にまくり上げて肩を露にしているのだ。逞しさを誇示したいのかも知れないが、〝龍の口〟にくわえられたヘッドライトは鳥肌も照らし出している。

 ここに至って薄着の三人による我慢比べの様相を呈してきたわけだ。誰も彼も畑やラグビー場の片隅にうずたかく積もった残雪ゆきが目に入っていないのか。

 冷静な部分で気付いてしまったのだが、〝この場〟に即した出で立ちはジャージを着込んだ自分一人なのである。近隣住民の誰かが悶着を目撃し、然るべき場所に通報したならば覆面レスラーに風変わりな柔道少年、更には改造学生服の青年ライダーという奇々怪々な取り合わせに駆け付けた警察官も当惑するはずだ。


(ワケ分からない風貌ってことなら岳氏だって大概だけどな……)


 各人のおかしな服装はさておき――ここまでのやり取りからキリサメを轢き殺そうとした青年ライダーが電知の仲間でないことは確認できた。

 無論、このことに誰より安堵したのは電知当人である。だからこそ不意打ちを仕掛けた青年ライダーの正体が分からなくなった。

 『E・Gイラプション・ゲーム』の舎弟分となっている中野のカラーギャングも非行集団の一つだが、入念に改造を施したバイクを乗り回して暴れるような人間はいないだろう。『E・Gイラプション・ゲーム』と繋がりのあるカラーギャングは、むしろ〝ゾク車〟に跨る者を鼻で嘲笑わらう側であった。身なりからして彼らは小奇麗なのだ。

 『E・Gイラプション・ゲーム』とも舎弟分のカラーギャングとも無関係であろう青年ライダーは攻撃対象たるキリサメに向かって右拳を突き出し、次いで中指を立てた。

 外国で同じ仕草ゼスチャーを見せようものなら拳銃で撃たれ兼ねない危険な挑発行為である。


「こそこそ隠れ回りやがってオトコらしくねぇぜ、キリサメ・アマカザリッ! そんなにオレらがおっかねぇか? イキがることしか能がねェ身の程知らずほどビビんのが早ぇぜ!」

「……やっぱり僕狙いか」


 一直線に突撃してきたのだから当然だろうが、キリサメ・アマカザリという名前を口にしたことで〝敵〟の狙いが確定されたわけだ。

 尤も、その言動は非常に怪しい。合宿の間、誰かの影に怯えて隠れたことなど一度もなかったのだ。それは共に行動していた電知とカリガネイダーが良く分かっている。合宿の間、キリサメはすがだいらの空の下で堂々と訓練トレーニングに励んでいたのである。

 青年ライダーは一挙手一投足が支離滅裂で、キリサメは恐怖とは別の意味で不安が募ってきた。先ほど『オレら』とも名乗っていたが、彼のような人間が他にもいるのかと想像しただけで頭痛と寒気が同時に押し寄せてくるのだった。


「てめーの首級クビが総長に相応しいかどうか、試してやるっつってんだよッ!」

「総長――」


 自分の言行に対する相手キリサメの反応すら確かめず、勢いに任せて怒号を張り上げた青年ライダーは剥ぎ取ったヘルメットをアスファルトの路面に叩き付けた。

 露となった金髪のパンチパーマを見て取った瞬間、おぼろげだった記憶が目の前の青年ライダーと結び付いた。極めて鋭角な額の剃り込みが曖昧だった輪郭へ陰影を与えてくれたようなものである。

 これもまた一つの因縁というべきか――電知やカリガネイダーと同じく以前まえに長野を訪れた際、たまたま視界に入った顔なのだ。


「――あんた、じょうわた氏の仲間だな」

「城渡? あの城渡マッチかよ?」


 青年ライダーへの問い掛けを電知が遮り、再確認を求めるような瞳にキリサメも首を頷かせた。

 三月に開催された『天叢雲アメノムラクモ』第一二回興行には出場選手である城渡マッチの舎弟――即ち、暴走族チームも観客席に詰め寄せていた。その中でも群を抜いて目立っていたのがこの青年ライダーだったのだ。

 〝総長〟を慕って長野まで駆け付けた舎弟は大半が三〇代半ばを超えた中年層であり、〝若者〟と呼んで差し支えがないのは青年ライダーただ一人であった。それに加えてこの強烈な出で立ちだ。今の今まで忘れていたのが不思議なくらいである。

 カリガネイダーも『天叢雲アメノムラクモ』の興行には『まつしろピラミッドプロレス』の仲間たちを引き連れて駆け付けており、城渡の暴走族チームとも会場で何度か顔を合わせている。彼もまたキリサメと同じように印象的な髪型を目にして城渡の舎弟と気付いたらしく、得心したと言わんばかりに右の拳を対の手のひらへ打ち付けていた。


「絶滅危惧種の不良ヤンキーみてェな恰好ナリも城渡のパクリかよ。それなら全部納得だぜ」


 電知が指摘した通り、青年ライダーの装いは城渡マッチと共通する部分が多い。試合に臨まんとする〝総長〟も〝ボンタン〟を穿き、胴にサラシを巻いていたのだ。


「何様のつもりで総長を呼び捨てにしてんだ、クソチビがッ! キリサメ・アマカザリより先にてめーからブチ殺してやっか⁉ おォうッ⁉」


 電知としては青年ライダー猿真似パクリ呼ばわりで挑発したつもりだったのだが、本人は自分のことよりも〝総長〟を軽んじられるほうが許せないようだ。

 長野興行のときも〝総長〟への拍手が聞こえてこない観客席を血走った眼で睨み付け、口汚く罵っていた。城渡のセコンドを務めた二本松に止められていなければ、自分が望む通りの声援を送らなかった観客たちに危害を加えていたかも知れない。


 まさしく狂犬じみた忠誠心といえるだろう。今度はそれが電知に向けられたのである。

「オレの名前はつるぎきょうッ! 城渡総長の一番弟子にして『武運崩龍ブラックホール』の鉄砲玉! その名と裏腹に任されてンのは親衛隊長よォ! デキる男は秘密兵器扱いでニクいぜ!」


 親衛隊長ということは他の暴走族チームとの抗争に際して城渡の身辺を警護する側近ということである――が、能力の高さを買われての抜擢ではなく、厄介事が起きても即座に制止し得る範囲へ留め置かなくては安心できないということなのだろう。

 何しろ青年ライダーは――恭路は言行の一つ一つが常軌を逸しているのだ。

 キリサメに対して宣戦布告を行ったかと思えば、何の脈絡もなくエレキギターを構え、ポケットから取り出したピックで六本の弦を荒々しく掻き鳴らし始めたのである。

 アンプ内蔵型ではないので迫力に満ち溢れた音には程遠く、それすらも〝ゾク車〟のエンジンの唸り声に咬み砕かれて殆ど聞こえない有り様だった。

 それでいて全身を上下左右に大きく揺すらせるものだから、傍目にはやけに激しい形態模写にしか見えなかった。

 エレキギターを担っているときには分からなかったのだが、〝短ラン〟の背面には『げき』の二字が荒々しい筆致でペイントされていた。ヘルメットのステッカーと共通する造語は余人には御し難い気性を表したものであろうか。


「いつもは総長から背中を預けて頂いてるこのオレだが! 今度ばかりは一番槍で特攻するっきゃねェ! 総長アタマをナメられたときまでお行儀良くしてたらおとこが廃っちまわァッ!」

「……この人はさっきから何を言ってるんだ?」

「おれに訊くのかよ⁉」

「今一つ要領を得ないのだが、キリサメ君に何らかの恨みを持っていることだけは間違いなさそうだぞ! ついでに付け加えるならば! 『一番槍』という言葉も使い方を微妙に誤っているな!」


 御剣恭路という存在がいよいよ理解の範疇を超えたキリサメは、答えなど持ち合わせていないはずの電知とカリガネイダーに助けを求めてしまった。

 先程から恭路は身に覚えのないことばかりを並べ立てているのだ。キリサメには城渡を貶めたおぼえなどない。どちらかといえば、侮られていたのはキリサメのほうであったのだ。

 マッチメイクの場では樋口の所為せいで行き違いもあった。そこから物別れにもなりかけたのだが、最後には全てが落着したとキリサメは信じていたのだ。

 それとも城渡が対戦を了承してくれたのは嘘だったのか。二本松と二人でこちらを騙しておいて、リング外での不意打ちを舎弟に仕掛けさせるほど怒り狂っていたのだろうか。


(……もしも、そんな卑怯者だったらこんなにも慕われているハズないよな……)


 一瞬だけ脳裏をよぎった厭な予感は上体を反り返らせながらギター演奏に興じる恭路が打ち消してくれた。

 この男は城渡から命を捨てろと命じられたら喜んで従いそうである。そこまで人を心酔させるには相応の器が備わっていなくてはならないだろう。キリサメは恭路を通して城渡マッチという男の大きさを見極めたのである。

 立ち居振る舞いこそ野卑そのものだが、城渡は口にする言葉の一つ一つに筋が通っていたのだ。卑劣な策略を弄する人間とはとても思えなかった。

 かつてペルーの民を反政府の尖兵に仕立て上げようとした武装組織の長は弁舌こそ巧みであったが、自分以外の人間を道具のように扱う上に言葉と策謀が入り混じっている為、何もかもが空虚だったのである。

 対する城渡は喚き声にも人間らしい温もりがあった。それ故にキリサメも血の通った人間の言葉として受け止めることができた。大勢の舎弟を従える大器とも頷けるのだ。

 そうなると恭路の暴走という結論しかなくなってしまう。そして、その可能性が最も高いと皆に確信させるくらいとんちんかんなのである。


「城渡の鉄砲玉とやらが何でキリサメを狙うんだ? 総長サマの差し金か? 試合前に相手を甚振って弱らせようってハラかよ? クサれた真似する気ならおれが代わりに――」

「――拍手の一つもねーのかよ⁉ 『げき』のリードギターが生演奏してんだぜ⁉ 泣き叫んでアンコールねだるのがフツーだろ! 耳アカ詰まり過ぎじゃねーのッ⁉」


 至極真っ当な電知の問い掛けに対し、恭路は何一つ交わることのない言葉を重ねて押し切った。他者ひとの話を聞かずに自分の想いだけで突き進む傾向が強い電知をも閉口させてしまったわけである。

 これもまた理解に苦しむことであるが、形態模写にしか見えないギター演奏に誰も反応しなかったことで恭路の怒りは最高潮に達したようなのだ。


「そもそも何なんだよ、『げき』って。演芸会なら他所でやってくれ」


 どういう意図があってエレキギターを弾き始めたのか、それすらも三人は知らされていないのだ。置いてきぼりにされた挙げ句、一方的に怒声を浴びせられては堪ったものではあるまい。


「そうだな、弦をはじく指使いは見どころがあるように思ったぞ! 私の相棒ライバルにウクレレ奏者がいるのだが、彼とはまた違った味わいのようだ! 今の粗削りな状態を抜ければ、ゆくゆくはプロも目指せるのではないかな⁉」

「そこじゃねェよ! さっきの推理力はどこ行った⁉ オレの魂に触れたのかって訊いてんだ! オレがギターを鳴らすのは開戦の儀式って決まってんだろがッ!」

「……知るわけないだろ……」


 カリガネイダーの気遣いとキリサメの溜め息を怒鳴り声でもって押し流した恭路はエレキギターを右肩に担ぎつつ、ヤニで黄ばんだ歯を剥き出しにして笑った。


「オレのピックが飛ぶのはバトルでもライブでもウォームアップ終了の合図! そして、それはてめーの最期と同じ意味だぜ、キリサメ・アマカザリ! ……念仏唱える時間だけはくれてやる! 今年、成人式を迎えたばかりのオレが大人の責任で〝総長侮辱罪〟のクソガキに極刑執行だァ――」


 恭路の指から弾かれ、キリサメの足元へと落下したギターピックが意味することはただ一つしかない。


「――本物のおとこってモンを教えてやるぜッ!」


 言うが早いか、恭路は自分の足元に転がっていたヘルメットをキリサメ目掛けて蹴り飛ばした。

 飛び道具による一撃で機先を制しておいて一気呵成に畳み掛ける腹積もりなのだろう。〝龍の口〟がくわえたヘッドライトを背にして彼自身も突進し始めていた。


(僕が城渡氏に相応しいかを試すって言ってたけど、一体全体、どういう意味だ?)


 し崩しのような筋運びで御剣恭路を迎え撃つ羽目になったキリサメであるが、彼に狙われる理由は依然として分からない。成人式を迎えたとも称していたが、そのような大人が何故に現在いま島津十寺工業高校シマコーの学生服を着ているのか――問い質したいことは山ほどあるのだ。

 もはや、キリサメには何もかもが理解不能であった。


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