第9話
海辺を三人で歩く。何だか照れ臭い気持ちとくすぐったい気持ち、そして気まずさが入り交じり、私達の間を無言が支配している。私を先頭にして兄弟が後ろから付いてきている並びが、とてつもなく心地が悪い。寄せては返す波とハーモニーを奏でるかのような海鳴りが、私達から言葉を奪っていくようだった。時折強く吹く風にワンピースの裾が激しく翻り、帽子が飛ばされそうになる。更には柔らかな砂浜が靴丸ごと飲み込もうとするものだから、私の体はどうしてもふらついてしまう。
「あっ」
転ぶ、と思った瞬間に目を固く閉じたものの衝撃はなく、代わりによろけた方の右肩と、宙を掴んだはずの左手が温かい。
「大丈夫? 佐伯さん」
「……たくっ、あんたって本当に危なっかしい」
「あ、有難う、二人共……何だかごめんね」
「何で謝るの。謝らなきゃいけないのは、寧ろ僕らの方だよ」
「というか兄貴だろ」
「……俺はちゃんと謝った後だ。お前だろ」
「……チッ」
二人の手からそっと離れて、向き合う。
「えっと。そもそもどうしてここに……?」
「冬政がね、行こうって」
「あっ! 言わないって約束だろ!」
「いいじゃん、今更。佐伯さんが話してくれてたの、覚えてたんだって。この町が好きだっていう話。……本当にいい所だね、あの日言ってた通り。海がとっても綺麗だ」
「高遠くん……」
「ほら、冬政」
俯いたままの冬政くんの手が震えていることに気が付いた。緊張なのか、それとも。
「……私もね、謝らなきゃいけなくて」
持っていた「嘘の花」の絵と、花の図表を冬政くんに見せる。
「分かったよ。あなたの気持ち」
「えっ、」
「白い花でこの花弁の形は、マーガレット。その周りの紫へのグラデーションが綺麗な花弁はクロッカスだよね。その周りが苺で、どれも五枚から成ってるところと、この分かりやすい
冬政くんの顔が、首筋から耳の先まで赤く染まっていく。夕陽が差しているだけとは思えないほどに、真っ赤に。
「心に秘めた愛。私はあなたの虜。尊敬と愛。あなたに出会えて良かった。そして……愛したことを後悔する。ねぇ、冬政くん。今も、後悔、してる……?」
冬政くんは唇を噛み締めながら、ゆっくりと口を開いた。
「……してるよ、後悔。いつだって、してる。あんたなんか、好きにならなきゃ良かったって、いつだって思ってる」
「冬政……!」
私は、胸を押さえる。そうすれば少しでも痛みが消えてくれるような気がして。
「だって! だって仕方ないじゃんか! あんたは高校生で! 小学生の俺なんかガキ過ぎるだろ! 酷いことばっか言ってさ、あんたのこと傷付けてばっかで泣かせてばっかで……! 好きにならなきゃ良かったよ、そしたらあんたも苦しめずに済んだんだから……!!」
「冬政くん……」
「それにあんたが好きなのは兄貴だろ! 兄貴は酷いやつだけど、あんたのこと泣かせるって分かってたから、告白するって聞いた時も、心臓が破裂するかと思ったんだ……。止めてくれよ、泣かないでくれよって思ったら、俺が泣かせちゃった。その時分かったんだ。俺じゃダメだって。兄貴にも敵わないし、あんたのことも大切になんかしてやれない自分が、情けなくて仕方がないんだよ……!」
その小さな体の何処から、そこまでの熱情が湧き出てくるのかと私は驚きながら、目がどんどん溶けていくのが分かった。
「な、何で泣くんだよ……! 俺、また何か言ったか……!?」
「違うの、違うんだよ、冬政くん、ごめんね、ごめん、泣き虫でごめん、」
私の頭を撫でてくれるのは高遠くんだ。優しい手が向けられることで、また一つ痛みが増えていく。
「それにね、冬政。俺、振られてるから」
「はぁ!?」
「俺が酷い奴ってことも現場見られてバレた後。だから俺のことなんか気にしなくていいんだぜ」
「おまっ、お前! だからあれほど言ったのに!!」
そんな兄弟のやり取りに、ふふふ、と笑い声が洩れてしまった。
「仲が良いんだね」
「ぜんっぜん」
「誰が!」
「二人して噛み付いてくるし」
泣き顔を見られている気恥ずかしさも手伝って、私は段々おかしくなってきて、笑いが止まらなくなってしまった。夕陽が少しずつ高度を下げていく。どうして太陽は沈み始めるとあっという間に水平線の向こう側へ消えてしまうのだろう。そんな情景すら起爆剤になっていく。
「あー、お腹痛い。二人のせいだからね」
「俺何もしてねぇもん!」
「僕だって。心外だよ」
一頻り笑った後、私は涙を拭いて再び冬政くんに向き合う。
「私は、あなたのことが好きだよ。あなたの意地悪なところには泣いちゃうけど、本当はとってもいい子だって知っちゃったし、それに私のこと考えてこんなに素敵なお花を考えちゃうような人のこと、好きにならない訳がないでしょう?」
「えっ、えっ、」
「まだ後悔してる?」
「し、してる!」
「……してるんだ……」
「ち、違う! そういう後悔じゃない! お、俺の心臓が持たないから!」
何だろ。今までにない胸の痛みが走った。全身を駆け巡るような、甘くて烈しい痛みが。
「か、可愛いっ!」
思わずその小さな体を抱き締める。
「や、止めろよ! 俺だって男なんだぞ!」
「うんうん、そうだよねぇ、でも可愛いんだもん冬政くん! 可愛いこと言う方が悪いんだもん!」
「ちょ、花波! 離れろ! あ、兄貴! 助けてよ!!」
「……うん、ちょっと俺も宣言して良いかな」
冬政くんを抱き締めたまま、振り向くと、高遠くんが何だか怖い顔で笑っている。
「ど、どうしたの、高遠くん」
「うん。俺ね、真面目に好きになっちゃったから。佐伯さんのこと」
「へっ、」
「は、はぁ!?」
「だから、さ」
一瞬のうちに高遠くんが私と冬政くんを引き剥がし、あっという間に私は彼の腕の中に収まってしまった。
「た、高遠くん! 近い!」
「本気で振り向かせることにしたから、宜しくね?」
「な、なな、」
「あと、俺のことも高遠くんじゃなくて、春臣って呼んでね。俺も花波って呼ぶから」
……ああ。何がどうなっているんだろう。
「言っとくけど、これで正式なライバルだからな、冬政。弟だからって手加減しないから。それに俺の方が先に好きになってもらってた実績あるから、そこんとこ宜しく」
「こンの……糞兄貴ー!!」
冬政くんの叫び声が潮風に乗って響き渡る。高遠くん、いや、春臣くんが私を抱き上げて砂浜を走り始める。私は余りの可笑しさとドキドキと鼻の奥の痺れるような痛みのせいで、思わずまた泣いてしまった。
これからの日々がどうなっていくのかは分からない。けれど、私の喪失感はすっかり波に攫われて、頬を伝うはずだった涙は違う意味を持って優しい潮風に撫でられている。私の心と体の中にはまたサイダーのような甘やかな泡が昇り始める。しゅわしゅわり。そして弾けていくのだ。ぷちぷちり。アイスクリームにさくらんぼまで乗っけてしまった贅沢なデザートを、私は何処から食べるか迷いながら、溶けていく未来を恐れながら、でも今だけは、と願う。今だけは、その噎せ返るほどの甘い香りの中で、炭酸の泡に溺れて、骨まで溶かされていたいのだ。
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