第7話

 夏休みが始まった。けれど、何も手に付かない。私はすっかり抜け殻のようになってしまって、母はそんな私を見ておろおろするし、父もそんな私達を見て慌てては母や私の好物や、夏だからとアイスクリームや、夏バテなのではと豚肉やらを、やたらと差し入れし出す始末。


「もう。二人共、心配しすぎだよ」

「だって、花波ちゃんがそんなに元気ないなんて、初めてだから」

「そうだぞ、パパもママもそんな花波を見たことがなくて驚いてるし、それに元気になってもらいたいんだ。どうすればいい?」


 なんて優しい両親だろう。この二人の心をこれ以上痛めさせる訳にはいかないだろう。


「じゃあ、おばあちゃん達の町に、今年はいつもより早く行こうよ。海が見たいの」


 私が反応したのが嬉しかったのか、提案したことが良かったのか、翌日には帰省することになった。


 朝から両親は浮き足立っている。自分達の地元に帰れる喜びもあるのだろう。二人は出身地が同じだ。いわゆる幼馴染みという関係から結婚し、今でもとても仲が良い。私の理想の二人。そんな憧れでもある二人だからこそ、私なんかのあれこれで気に病んで欲しくはない。でも、空回りする気持ちは炭酸の抜けたコーラのように味気ないまま、飲み干せずにいる。


「花波ちゃん! 行くわよ!」

「……ふぅ、……はーい!」


 そんな私は封じ込めるに限る。せめて夏の間だけは、高遠くんのことも、冬政くんのことも、忘れていたかった。のに。


「えっと、花波ちゃんのお友達……?」

「あの、クラスメイトなんですが、……あ、佐伯さん!」

「……高遠……くん」


 玄関の門扉の前に、高遠くんが立っていた。


「ママ、クラスメイトの高遠くんだよ。先に車に乗ってて」

「……分かったわ。荷物は貸して。一緒に積んでおくから」

「有難う、ママ」


 お気に入りの花柄のボストンバッグを母に手渡す。母はチラチラとこちらを何度も振り返りながら、車の方へと消えた。ドアが閉まるのを確認してから、口を開こうと思ったのだけど、先を越される。


「何処か行くの」

「……うん。田舎の、おばあちゃん達の所に。海の近くの田舎町なの」

「そっ……か。夏休み、だもんな」

「うん。毎年の恒例行事」

「そういうの、何かいいね」

「そう?」

「うん。僕の家には田舎がないから羨ましい」

「そうなんだ。割と有名な町だよ。海が綺麗だから、いつか高遠くんも行ってみたらいいと思う」

「うん、そうだね」

「……」

「……」

「……もう、行かなきゃ」

「あ……あのさ」


 高遠くんの顔を見ずに今まで話している。彼が門を掴んでいる、その骨ばった手を眺める。全然冬政くんの手とは違う。まだ柔らかさを残した、幼い手とは。


「あの時は、ごめん。変なところ、見せた。今度もう一度ゆっくり話をしよう」

「……別に、話すことなんて、ないと思うよ」

「佐伯さ、」

「だってさ、私達、ただのクラスメイトだもん。そうでしょ?」

「……うん、そうだね」

「私、あなたのこと、多分好きでした。でも、今はそこまで好きじゃないです。ごめんなさい」

「それは、こないだのせいで、」

「……勘違い、しないで」


 自分で思っているよりも、低い声が出る。これは拒絶の声だ。彼が傷つかないことだけを願うしかない。


「あなたのことを好きだった時は、凄く幸せだったの。でも、そんな風に幸せになれない気持ちを知ってしまったの。きっと、こっちが本当なんだよ。苦しくて、痛くて、胸の奥がきゅうっとして、口の中も苦くて。とっても辛いけど、多分、こっちが本物なの。私の勝手な片想いは、私の勝手で消えたんです。だから、……ごめんなさい」


 せめて、笑おう。自分の為に。こうなったら何処までもエゴイストになっておこう。彼が私を嫌ってもいいように、逃げ道を用意しておこう。

 笑えるかな。引き攣った頬が、口元が、目尻が、痛い。


「私とあなたは、ただの友達。ね?」


 高遠くんも笑っている。力なく、けれど何処か悲しそうに。


「そう、だね。佐伯さん、有難う。ごめんね」


 そっと、静かに彼の手が門扉の上から離れていく。


「じゃあ、旅行、楽しんで」

「うん、じゃあね。また夏休み明けに」

「うん、じゃあ」


 背中を向けて、両親の待つ車へ向かう。ああ。これでもう、失くしたんだ。幸福に満ちたソーダみたいな恋にさよならしたんだ。そう思うと、どうしようもなく切なくて、喉の奥が痛かった。

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