第6話
誰かと喧嘩をしたのは初めてのことだと気が付いた。一人っ子だから兄弟や姉妹での喧嘩も出来る訳がない。近所には親戚もいないし、いたとしても歳の近い子供がいない。親族は大人ばかりだ。仲のいい友達はいたけれど、喧嘩をするほどの仲でもない。今はそんな友人すらいない。だから、楽しかった日常があんな形で終わってしまったことは、心残りでならなかった。大人気ないことも分かってる。でも、まだ心の奥の方が、ちくりと痛むから。どうしてこんなにも無性に悲しくて寂しい気持ちになるのだろう。
冬政くんのことばかり考えてしまって、結局夏休みの前日、終業式の日になってしまった。すっかり萎んでしまった勇気を奮い立たせ、玉砕覚悟で私は式の後、帰宅前の高遠くんを探した。彼の柔らかな髪の毛を探す。すらりとしたその長身はいつもすんなりと目に入るのに、今日に限って見当たらない。誰かに居場所を訊くことも出来ず、私は右に左に目を凝らす。と、体育館から教室に流れる列から外れて、何処かに向かう彼を見つけた。なんて好都合……! 私もそっと抜け出して、彼を追う。気分は兎を見つけたアリスだった。ドキドキとワクワクが足を速めて、鼓動を蹴り上げて止まらない。早く、早く言いたいの。あなたに、たった一言を。高遠くんの姿が消えた校舎裏へ私も続く。背中が見えると、頭の中が泡立った。しゅわしゅわり。ぷちぷちり。
「高遠く、ん…………?」
泡立った頭は一瞬で氷水をかけられたように醒めた。高遠くんのネクタイを掴んでいる誰かが、いて。それは、女の子、で。二人の唇は、触れ合って、いて。なに、これは。何が、起きてるの……?
「佐伯さ、」
こちらに気付いた高遠くんは女の子を引き剥がそうとして、それに失敗し、また引き寄せられてしまった。彼女は私を睨みながら、満足そうな笑顔で高遠くんの背中に手を回す。足が竦んで、全身が熱くて、でも力が抜けていて、その艶かしい視線と抱擁が私を釘付けにした。
「やめ、ろよ……!」
彼女を突き飛ばし、口を拭う高遠くんは、まるで知らない人のようで。
「いったぁい。何すんの、春ったら。彼女のこと突き飛ばすなんて」
「いつ彼女になったんだよ」
「あら。違うの?」
「……違う」
「違うんだ? 彼女でもない女とキスしちゃうんだ?」
「やめろよ、それはお前が勝手に」
「ふぅん? 可笑しいなぁ。キス以上のことだってしてるじゃない」
「デタラメ言うな! 佐伯さん、違うんだ。誤解だよ。彼女とは何でもないんだから」
いつもなら胸の真ん中から溢れ出る幸福の味が、しない。
「……ごめんね、邪魔しちゃって、私、行くね……!」
「待って……!」
掴まれた手の熱さで、冬政くんを思い出す。
「や、……!」
「あ……ご、ごめん」
「ち、違うの、ご、ごめん。本当に、ごめんなさい……!」
振り払ったのは、怖かったからじゃない。気持ち悪かったのでも、ない。あれは、あの感覚は。
走って教室まで戻ると、鞄を掴んで早々に校舎を抜け、校門から飛び出す。ああ。どうしよう。私、高遠くんのことがそんなにショックじゃないんだ。それなりのショックは受けたけど、あれは驚愕の感情の方が強かった。あとは知らない人に睨まれた恐怖も大きかった。歩いて落ち着けば落ち着くほど、分かる。私、高遠くんのキスに、ショックなんて受けてない。失恋、したんだよね……? なのに。全然痛くない。痛いのは、悲しいのは、あの小さな掌を振り払った少し前の自分を思い出したから。あの小さな背中を撫でてあげなかった自分の不甲斐なさを悔やんでいるから。
ああ。なんてことだろう。嘘でしょう。嘘だと言ってよ。鼓動はまだ駆け足を辞めない。新しいドキドキを見つけてしまって、痛いほどに震えている。舌の裏側からまるでレモネードみたいな味がするのを感じていた。
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