1章-3

 春の朝はまだまだ空気がひんやりとしていて、鼻の奥がつんとする。

 柚葉ほどではないが、光成も少し早めの時間に登校することにしている。クラスメイトとニアミスせずに済むからだ。

 しかし今日は家を出るのが早すぎた。光代が柚葉との仲を茶化すからだ。光代はどうにか光成と柚葉をくっつけたいらしい。


 ――ない、それはない……。


 行方不明や骨折では済まない未来が容易に想像できる。うますぎる飯とストレスで胃腸がやられるのは間違いない。

 時間を潰すためにわざと遠回りする。住宅街のせまい路地を身体を横にしながら歩き、広い道へ出た。

 その瞬間。

 身体の側面を激しい衝撃が襲った。走ってきた誰かに追突されたらしい。


「きゃ……!」


 吹っ飛ばされて、地面に肩を打ちつける。うめき声を漏らしながらなんとか上体を起こし、尻餅をつく相手をにらみつけた。怒鳴りつけてやろうとしたのだ。


「……」


 しかし光成は馬鹿みたいに口をぽかんと開けることしかできなくなった。

 女の子だった。光成と同じ須部石高校の制服を着ている。ネクタイの色は緑、つまり光成と同じ学年ということになる。


 ――でも……。


 こんな女子は見たこともない。

 この『見たこともない』という言葉にはふたつの意味がある。ひとつ目は、学校内で彼女を目にしたことがない、ということ。もうひとつは、こんなライトノベルから飛び出してきたような現実離れした容姿の少女をいままで見たことがない、ということ。

 外国の血が混じっているのだろう、豊かな金髪のロングヘアーをサイドでくくっている。切れ長の目は南国の海みたいな碧眼で、いまは不快そうに歪んでいた。

 黒のサイハイソックスに包まれたすらっとした脚が投げだされている。ぶつかった勢いでスカートがめくれあがっているから当然、下着が見えるわけで、光成もちらっとは見たのだが、それよりも彼女が蕎麦の出前みたいに持ったトーストが気になってそちらに目を奪われた。

 少女は、はっとしたようにスカートを直して光成をにらみつけた。


「み、見たわね」


 トーストは顔の高さでキープしたままである。


「み、見たと言えば見たけど決して見たうちには入らない!」


「なによそれ」


「君の言う『見た』って言うのは全神経がパンツに向いた、ということだろう。悪いが、いやなにが悪いのかはわからないが、十割の意識のうち一割程度しかパンツには向いていない!」


 光成は早口で言い訳した。


 ――油断した……!


 トーストをくわえた美少女と曲がり角でぶつかるなんて王道中の王道、古典と言ってしまってもいい。ゆえにシミュレーションをおろそかにしてしまっていた。

 しかし光成はとっさに『脱衣所のドアを開けたら着替え中のヒロインがいた』シチュエーションのリアクションを頭から引き出し、応用したのだ。

 見た、見ていないなどという話は水掛け論にしかならない。だから見たことは認め、しかし意識のリソースは一割程度しか割いていない、と主張する。意識という定量的でないものに対して割合を持ちだすことにより直感的にわかりづらくし、煙に巻く算段だ。

 少女は眉をひそめている。少なくとも怒ってはいないらしい。なかなかよい対応ができたと光成は自画自賛した。


「要するに、見はしたのね?」


 煙に巻いても、要されると立つ瀬がない。


「そ、そうなる」


「そう!」


 怒号が襲いかかってくるかと思いきや、どういうわけか少女は我が意を得たりとばかりに破顔した。立ちあがり、スカートの埃を払う。身長は百七十センチほどだろうか、光成と同じくらいの背丈だった。


「で、ど、どうだった?」


「なにが?」


「なにか……感じた?」


「……は?」


「い、いや、だから……。わたしのパ……パンツ」


「……うん?」


「だから! わたしのパンツを見たときのあなたの気持ちを述べよって言ってるの!」


 ――なんだその現代文の設問みたいなのは。


 素直にパンツの感想を述べても罵られる未来しか見えない。それに正直なところパンツよりも、ずっとかかげられているトーストのほうが気になっている。


「いや、とくにはなにも。それよりそのト」


「はああ!? 馬鹿じゃないの!」


 なぜかキレられた。


「女神と見まごうばかりの美少女が下着を露わにしたというのになによその淡泊な反応!」


「お? 君はあれだな? 痛い子だな?」


「転んだんだから痛いに決まってるでしょ」


「その反応、もしかしなくても馬鹿だな?」


「パンツを見ないほうが馬鹿よ!」


「いやもうなんなの」


 痴漢されたことないのよ~、と残念そうに話すおばさんみたいなものだろうか。


 ――見なかったことに後悔がないといえば嘘になる。でも……。


 光成はトーストに目をやる。彼女はあいかわらず、カクテルをお盆に載せて運ぶバニーガールみたいにトーストをかかげている。

『パンツを見ないほうが馬鹿よ!』

 と、のたまったときもずっとかかげていた。どう考えても彼女のほうが馬鹿っぽい。

 なにか理由があるのではないか。思いもよらない、トーストをかかげざるを得ない理由が。だから光成はパンツよりトーストに目がいってしまうのだ。


「そのトーストさ、なんでかかげてるの?」


「トースト? いまはそんなことどうでも」


「いや、パンツをちゃんと見なかったのはそのトーストが気になったからで」


「なんで気になるのよ。食べてたに決まってるでしょ」


「いやそうじゃなくて。なんでお盆みたいに持ってるのかなって」


「だって、バター塗ってるし」


「ん?」


「いやだから、表にバターを塗ってるんだから、つまんだら指が汚れるでしょ」


「……。じゃ、じゃあなんで高くかかげてるんだよ」


「なんとなく食べ物は地面から離したいじゃない」


 光成は天を仰いだ。


 ――つまんねえ。


 事実は小説より奇なりというが、あれは例外的に突飛な出来事がピックアップされているだけで、九十九パーセントは小説のほうが奇である。そして今回の出来事はその九十九パーセントのほうであったということだ。

 光成は少女に背を向けて歩き出した。


「ちょ、ちょっと」


 少女が呼び止めた。


「なに急に落ちこんだみたいに」


「いや、なんか……こういうところなのかなって」


「こういうところ……?」


 光成はとつとつと語った。


「アドリブがさ、利かないんだよ……。だから俺は起こりえるシチュエーションをすべて想定し、こんなことを言われたらこんな言葉を返そうって、たくさんストックしておかなきゃまともに会話のキャッチボールもできない。『トーストお盆持ち』という想定外が起こっただけでこの体たらくだ……。こんなおいしい場面で洒落た言動もできなければ、逆にビンタのひとつも食らうことができない……。そんな俺を笑うがいいさ! はは、あははははははははははははははは!」


 光成は泣きながら笑った。少女は顔を引きつらせて後ずさりした。


「大半なに言ってるのかわからないけど……。なんかごめんね……」


 光成はゆるゆるとかぶりを振った。


「いいんだ」


 そして路地にもどる。


「え? ちょっと。いまあなた路地から出てきたわよね?」


「そうだけど」


「じゃあなんでもどるの」


「いま言ったろ」


「いつなにを言ったのよ」


「想定外の出来事に対処できないって」


「……だから?」


「想定内なら対処できるんだよ。だから『トーストお盆持ち』のパターンを練習しておきたい」


「わたしが協力する流れなの? これ」


「あくまでシミュレーションだから。大丈夫、君を好きになるとか、そういうことはまったくないから」


「ちょっと待って、なんでわたし振られたみたいになってるの?」


「ほんとごめんなさい」


「なんで振られたみたいになってるの!」


 少女は地団駄を踏んだ。

 興奮する彼女を見て精神的に優位に立てたためか、光成は冷静になった。


 ――考えてみればおかしな話だな、パンツを見せたいなんて。そういう性癖なのか、あるいは……。


 光成は息を飲んだ。


「もしかしていじめか?」


「は、はあ?」


「パンツを見せて誰か適当な男を引っかけてこい、とか」


 光成は目だけであたりを見回した。


「監視はされてるのか? されてるなら、そうだな……パンツを見た振りをしよう。実際は見ない。で、『あの男子は女の子には興味がない奴だった』とでも報告すればいい」


 少女はしばらくぽかんとしていたが、急にぷっと吹き出した。


「監視はされてないわ」


「そうか、それはよかった」


 鞄から生徒手帳をとりだし、メモのページに名前と電話番号を書いて、引きちぎり、少女に渡した。


「なにかあれば力になる」


 少女はメモを受けとった。


「あなた……ほんと、バカね。……まあいいわ」


 渡されたメモを人差し指と中指ではさみ、ひらひらと振る。


「ほら、もう行きなさいよ」


「君も同じ学校だろ」


「一緒に登校しようって? ナンパ? 地味そうなのに大胆ね」


「ち、違う」


「用事を思い出したの。別にあなたを振ったわけじゃないから傷つかなくていいわよ」


「俺だって別にナンパしたわけじゃない」


「はいはい。いいから行けって言ってるの。じゃあね」


 ――なんなんだよ……。


 光成は言われたとおり背を向けて歩き出した。

 しばらく歩いてから名前を聞いていなかったことに気がつき、


 ――ほらな。こういうところだ。こういうところがダメなんだよ、俺……。


 気分を落ちこませながら学校へと歩く。

 しかし、彼女の名は、すぐあとに知ることとなる。


          ○


「千歳初乃です。よろしくお願いします」


 転校生はそう自己紹介して優雅にお辞儀をした。

 頭を上げた初乃と目が合った。彼女は意味有りげな視線を寄こし、ウインクした。

 担任教師は初乃に窓側の後ろの席、光成の隣に座るよううながした。

 初乃はクラスメイトの視線を一身に浴びながらしずしずと歩み、隣の席に着席する。


「よろしく、光成」


「いきなり呼び捨てか」


「あなたもわたしを呼び捨てて構わないわよ?」


「う、うぃ……」


「それは同意? それとも噛んだのかしら」


 口元を押さえくすくすと笑う。光成はふてくされたように言った。


「それより、転校初日ってことは、さっきのやつはいじめではなかったのか?」


「当たり前じゃない。わたしがそんな弱――」


「なんだよ……よかった」


 光成はほうっと安堵のため息をついた。初乃は言葉を飲みこんでしまった。


「すまん、いまなんか言ったか?」


 初乃は顔をそらした。


「べ、別に。さっきのはただのハプニング。だから気にしないで」


「すごいな。激突からの転校なんて王道展開、ほんとにあるんだな。でもそれならさ、目が合ったら『あ、あんたはさっきの!』だろ」


「王道は理解しているつもりよ。でもわたしそんなキャラじゃないもの。それくらいの改変は許されるんじゃない?」


 初乃が机をくっつけてきた。


「教科書がないの。見せてもらえる?」


「そこはベタなのか」


「王道は理解してるって言ったでしょ?」


 初乃は首を傾げて微笑んだ。

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