1章-2
鼻孔をいい匂いがくすぐった。魚の焼けた香ばしい匂いだ。
意識が覚醒するにつれ香りは強くなり、強くなった香りがさらに意識を覚醒させる。
階下から黄色い声が聞こえてくる。光代と、もうひとりの声。
――また来てるのかよ……。
光成は盛大にため息をついてダイニングへと向かった。
「あ、おはよー!」
料理をしていた旭川柚葉が光成に気がついて振り向いた。少し癖のある長い髪をポニーテールにまとめ、制服の上にエプロンを着けている。窓から射しこむ朝日に照らされて、柚葉の笑顔が輝いている。
「ああ、うん……」
しかし光成のぶすっとしてダイニングのイスに座った。
柚葉は光成の幼なじみだ。しかし徹底的に性格が合わない。
どちらかと言えば家で落ち着いて読書をしたいタイプの光成とは違い、柚葉は選択肢の最上位に「とりあえず外に出て身体を動かそう」が厳然と、それこそ殿堂入りするレベルで常にランクインしているような娘だった。
――合わない、じゃないな。苦手なんだ。
子供のころ、アニメが見たいと言っているのに強引に外に連れ出され、引っぱり回されたあげく、どこか知らない街に置き去りにされたことがある。あのときは光成が行方不明になったと近所を巻きこんでの大騒動になった。また別のときには、公園の一番高い木に無理やり登らされて、落っこちて腕を骨折した。右腕の内側にはそのときの手術跡が残っている。
柚葉といるとろくなことがない。これはもう一種の刷りこみだった。
テーブルに朝食が並べられる。白米に味噌汁、アジの塩焼き、漬け物、納豆。柚葉の作るメニューはいつも純和風だ。
――そして悔しいことに、めちゃくちゃおいしい。
味噌汁の出汁の風味も、アジの塩加減も完璧だった。柚葉の料理を食べているときだけ、柚葉への苦手意識が雲散霧消する。
その神懸かり的な味付けに、光成はうめいた。
「ほんとに……なんなんだお前。どうやって作ってるんだこれ」
「んー? わかんない」
光成の正面に座り、頬杖をついていた柚葉は小首を傾げた。
レシピは適当なのだ。だから毎回味が違う。なのに毎回うまい。
メシマズという言葉がある。有り体に言えば料理が下手、あるいは下手なひとのことだ。彼らあるいは彼女らは、レシピ無視のアレンジを施して失敗するのが定番である。
「メシマズキャラじゃないとおかしいだろ……」
「メシマズ?」
「料理が下手な奴のことだよ」
「え、わたし、下手かな……」
「違う、逆だ。うますぎてなにかチートを使ってるんじゃないかって言ってるんだ」
「うますぎて……」
柚葉はにへーとだらしない表情になった。
「いや、チートだぞチート。意味わかってるか?」
「イタリアのパセリかなにかでしょ?」
「そのイタリアのパセリへの信頼感はなんだ。あとイタリアのパセリの名前ははまんまイタリアンパセリだろうが。そうじゃなくて、ずるだ。なにか不正をやってるんじゃないかって言ってるんだ」
「ええ? してないよお」
「お前の料理がうまい理由を長年考えてきたけど答えが出ない。解明できれば世の中からメシマズが消えて世界平和に貢献できるかもしれないんだ。だから真面目に答えろ」
柚葉は腕を組み「う~ん」と考えこんだ。そして光成を上目遣いでうかがう。
「あ、愛情、とか……」
柚葉の顔が真っ赤になった。恐らく光成の顔も同じ色になっている。
「な、なんて! なんてね!」
「新婚夫婦みたいだねえ」
換気扇の下で煙草を吹かしていた光代がぼそりと言った。
「それはない!」
照れもあり、光成は間髪入れず否定した。
「孫は男女ひとりずつな。名前は龍基と安娜」
「ビジョンが明確すぎて怖い。あとヤンキー臭さを少しは隠せよ」
「もー! おばさんったらもー! コウくんも……困るよね?」
柚葉は照れながら、ちらっと光成の顔を見る。
――くっ……!
光成は柚葉のこの表情が苦手だった。期待と不安が入り交じったような笑顔。この笑顔のせいで光成は行方不明になり骨折した。くわえて味噌汁のうまさで苦手意識のハードルが下がっている。そうなると柚葉は、
『自分を好いてくれる幼なじみの美少女』
でしかなくなる。
「ごちそうさま!」
そう意識したとたん急に恥ずかしくなって、光成は叩きつけるように箸を置き、ダイニングを出る。
「あ、待って待って!」
柚葉が「これ、よかったら……」と指しだしたのは、青い巾着に入った弁当だった。これももちろん柚葉の手作りだ。
「いや、前にも言ったけど、こういうのはちょっと……」
「そ、そうだよね。迷惑だよね。ごめん……」
と、寂しそうな笑みを浮かべる。
――だからその顔はやめろって……。
「ああ、待て待て」
背を向けた柚葉に声をかける。
――これはシミュレーション。ヒロインを悲しませないためのシミュレーションだ。
「ウインナーはタコになってるのか?」
「なってるけど……」
「じゃあやっぱりもらうよ。好きなんだ、あれ」
「……うん!」
柚葉は満面に喜色をたたえた。
――くそ……。なんか今日はずいぶん積極的だなこいつ……。
光代が「ちょろさは父親似だな」とつぶやいた。光成は光代をにらみつけたが反論はしなかった。そのとおりだと思ったからだ。
柚葉はエプロンをはずした。
「今日はどこの助っ人だ?」
「バレー部!」
柚葉は玄関を飛び出して一度振り返り、ぶんぶんと手を振ってから走っていった。
「朝から元気だな、まったく」
やはり彼女とは生きる速度が違うなと光成は改めて思った。
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