第22話 男はたまに頑張りすぎる
考えてみたら高校卒業してからの数年の間、身体を動かすとしたら、殆ど机とベッド間の移動と夕飯の調理だけ。全く働いていなかった俺が、いきなり新店開店準備なんて、随分無茶な話だったのかも知れない。味噌と醤油の試作を半月ごとに少しずつ加減を変えて仕込み続け、その結果を持って頭領と話し合いながら味噌と醤油の量産化方法の試作と打ち合わせをして、味噌料理の試作品を作り周りの人の意見を集める。そこまでは新店作りと直接関わりの無い作業だ。それとは別に、食材の仕入れ先を探し、担当者と値段交渉、品質の吟味、納品の形態の打ち合わせ、素材が集まってきたら試作、試食、売価を決めてメニュー札作り。昆布と煮干しの試作を受け取り試食してみたら、運良く思った以上に高品質で味噌汁を始め、和食系のメニューが広がりそうだと喜び。紅茶の試作もイイ感じで、紅茶場製造法を工房と詰めていき、カップケーキの試作をすればキトとリミュにも好評で、なんかとんとん拍子に形が出来ていくなぁと俺も超絶盛り上がって。そんな毎日を送っていたら、床と天井がぐにゃりと歪んで、なぜだか床が盛り上がってきて、え。また転移?んなわけないよなー?あ、そうか床が盛り上がってんじゃなくて、俺が倒れ込んでるのか。よくよく考えてみたら四日ぐらい寝てなかったわ俺。と考えながら、自宅のキッチンで俺は意識を失った。
「なんだこの香りは?」
驚愕の表情が貼り付いたままの頭領。口に含むとふわりと香る梨の様な、新鮮で鋭利な甘い香り。ふくよかな甘い香りは確かにあるが、味が甘ったるいわけでは無い。香りの後に、柔らかい舌触り。スルッと逃げる様に至福だけ残し消えていく。これぞ甘露だ。
「これですよ!これです!不思議ですよね?この果物の様な、ふわりと香る甘い香り。これが。これこそが発酵の奇跡です!米と水だけですよ!判りますか?米と水だけです!わかりますか?米と水だけでこんな香りがでますか!吟醸香です。日本の!俺の国の誇りなんです!ふぅーーーぅーーぅー!んがふぅーーっ!」
もう、なにがなんだか判らずに俺は叫んでいた。何代も続いた伝統的な酒蔵がたどり着く奇跡。そこに俺と頭領はたった数ヶ月で到達したのだ。叫ばずには居られまい。英国人がモータースポーツやサッカーで誇りを示せたときに、同じように我を失うだろう。日本人は醸しで奇跡を起こせたら、俺の様に奇声を発するに違いないのだ。
誰が騒いでんだうるせえなぁ。と思ったら俺だった。え?夢か。目覚めるとそこは見慣れた我が家の寝室だった。リミュとキトが俺をのぞき込んでいる。
「なんだ?お前もうダメか?死ぬか?」
「ど、どうしたの?ケンとうちゃん。死んじゃやだよ。俺また独りぼっちになっちゃうし」
俺が死ぬと気軽に想像してくれやがるリミュと、両親が亡くなったトラウマを思い出し泣きそうになっているキト。リミュは相変わらず俺のことをお前呼ばわりで、キトはケンとうちゃんと呼ぶ様になっている。
「目が覚めたのか。どうだ、大丈夫か?お前無茶しすぎなんじゃないか?この子らのためにも少し考えて行動すべきだろう?」
「え。リナ。なぜここに?」
「私が仕事帰りちょっと寄ったら、リミュがマウントポジションでお前をパンパンとビンタしてた。子供達に話を聞くと全然寝てなかったというから、ベッドに運んで寝かせてたんだ。それでまた仕事帰りに様子を見に寄ったわけだよ」
え?じゃ俺丸一日寝てたんだ。
「ここにはどうやって運んでくれたんですか?」
「え?普通に横抱きにして運んだよ。お前少し軽かったぞ?食事もろくに取ってなかったんじゃないか?二人のためにも気をつけろよ」
人生初のお姫様抱っこは、する方じゃなくてされる方だったよお母さん。じゃ、さっきの奇跡は夢か。まぁそうだよな。梨の香りの酒なんて、父親が誰かからの頂き物だと、家族で飲んでみた九州産の米焼酎だ。考えてみたら親父と酒を飲んで少し会話をした。なんてアレが最初で最後の経験だったなぁ。あれを飲んだとき、俺は日本人に生まれたことに誇りを感じたんだ。俺たちの夢の中での酒は日本酒だった。日本酒であの香りが出るかどうか自体俺は知らないし。しかし、夢か。残念だな。
不意にパンと音が鳴り、俺の右頬がジンジンと痛んだ。我に返ってみたら俺は、リミュにひっぱたかれたらしい。考え込んだことで、無反応になった俺に、リミュは急に不安を感じ、引き留めるつもりで衝動的に俺を叩いたのだ。
「し、死ぬのか?ダメなのか?」
不安そうなリミュの瞳。キトも涙を溜めた瞳で見上げている。想像以上にこの二人は俺のことを心配してくれていた様だ。俺は二人の背中に両腕を回して抱き寄せて言った。
「ごめんごめん、俺少し頑張りすぎた。沢山寝たからもう大丈夫。今考えてたのは、寝てる間の夢のことだ。心配させてごめんな」
ここのところ、忙しすぎて食事を満足に取っていなかったのに加え、丸一日寝ていた俺は酷い空腹感を覚えた。ふらつくのを隠しながら立ち上がり、
「さぁ、四人で食事にしよう」
と、俺は言った。
「と言うわけで、俺の国の料理などを揃えた店を作り始めたのだが、材料の手配などやらなくてはならないことが、多岐に渡りすぎて夢中になり過ぎちゃってさ、かれこれ四日ほど寝てなかったらしいんだ。まぁでも、取りあえず一通りの食材も決まったし、メニューの傾向も決まった。後は味の詰めと値段決めとか細々とした所ぐらいなんで少し余裕も出てきたんだ。見通しも出てきたし、もうこんな無茶はしないで済むよ」
味噌も醤油も新店も、全てはリミュとキトを育てるための手段だ。手段が目的になってしまったら本末転倒だ。俺は食事にパクつきながら、リナに弁解する為に、自分に言い聞かせるためにそう言った。
「そうだ。これさ、俺の国で昔から親しまれてるカップケーキなんだ。小麦粉とバターと卵、砂糖しか使わず作ってる。今度のお店は女性客を呼びたいんだ。このカップケーキ、リナが食べてみてどう感じる?」
リナにカップケーキを勧めてみた。一口食べたリナの顔がほころんだのを見て俺は心の中で拳を握りしめた。
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