第四話 マリアのちから<前編>

 「ねーセンセ助けてって あれ?…センセ」



 マリアが振り返るとそこに源内は居なかった。

 源内はすでに橋の中腹をすぎるあたりを歩いていた。


一馬が源内に気づいて「先生っ!」と声を上げると、玄白が肩にポンと手を乗せた。


「さて一馬くん、われらも帰るとするか」

「え?」


 武士を捨て医者を目指している一馬に、玄白はするどい目を向けさとすようにかぶりを振った。


「医術は、自ら懸命けんめいに生きようと願う人間を救うことが使命なのだ」

「!」


 大川には水死体が流れついてくることはまれなことではなく、わりと日常的な風景であった。

この時代、何らかの事情で自ら命を絶つために入水にゅうすいする者たちも多かった。


 玄白は、


 自死じしするような事情に立ち入ってまで人を救うことは医者の領分りょうぶんを超えているのだ

 

と一馬にいたのだ。


一馬は玄白の低く振動した言葉に気圧けおされ息を飲んだ


が、若者は食い下がる。


「しかし、玄白先生。あの人が身投げや心中したと決まったわけじゃ…」

「それに!」


一馬が最後まで言い終わらぬうちに、それを制して玄白が続けようとした。


「それに?」

「…それに…」


玄白は


『今の源内には、明日をどう生きていくのかが逼迫ひっぱくの課題であり、それ以外の事にかまける余裕よゆうなど持てる状況ではないのだ』


と、言いかけたがその言葉を飲み込んだ。


*    *    *


源内と長い付き合いである玄白は、


もともと源内は自分と同じように

はんろくむ(藩から給料をもらっている身分)サラリーマン的生活保証がある身分であったが


長崎留学を機に脱藩

現代でいう個人事業主として独立


これまでの概念にとらわれない源内の天才的思考は花開き、いくつかの成功を手にするが、


時代の先を進みすぎた考え方は

次第に世の理解を得られなくなり


むしろ今ではなかあきれられ

まるで厄介者やっかいもののような扱いを受ける事も多くなってしまった


結果、今やいよいよ経済的に追い詰められ

理想とはかけ離れた毎日を送るしかできなくなっている源内の姿を、玄白は側で見てきたのだ。


 それだけに親友のプライドを傷つけまいと、口をつぐんだのであった。



*    *    *


 「ねー」


 源内が振り返ると、いつの間にやってきたのかマリアがぴったりとくっついてきた。


 源内はぷいと他所よその方角へ顔を向け視線を合わさない。


 「ねーねー」

 「 … 」


 源内はれていく町の様子を遠目でながめている。


 マリアは(右手は抜けたままなので)左手を源内の腕にからめ、大きなあおい瞳を向けた。


 「ねー?」

 「 … 」


 源内は無視

 右手を袖口そでぐちから出してくびの後ろをボリボリといて外方そっぽを向く


 マリアはしつこく

「ねーねー」

と源内の腕をつかんで揺する。


 源内、口を少しだけとがらせ横目でチラ見するもすぐに目をらしため息。

 「 … 」

 「センセー」


 「ねー」

 「 …(無視) 」


 「ねーねー」

 「 …(無視) 」


 「ねーねーねー」

 「 …(無…視)… 」



 「ねーねーねーねー」

 


 「助け…」

 と、マリアが言いかけた時

 浅草寺せんそうじの鐘が鳴り、それに合わせたように源内は立ち止まった。


 カアカアとからすの鳴き声が聞こえ、源内は空を仰ぎ見た。


 「なあマリア

  俺は長屋に帰っていろいろ考えねばならんのだ」

 

 「(じー…)」


 「 … あ、あのなマリア ぶっ壊されちまった見世物小屋の支払い、どーするかとかな 」

 

 「(じー…)」



 立ち止まって顔を見合っている源内とマリアの前方から蜆売しじみうりが走ってきて、空っぽになったおけをカラカラと揺らしながらすれ違っていった。





 「助けてってサ センセ」

 「マリア」  


源内は、しゃがみこんで目線の高さをマリアと同じにした。


 「身投げした女が助けて ってな、思いっきり訳有ワケアリじゃねえか。


 面倒事めんどうごとに巻き込まれんのは御免ごめんだ。


 俺にゃかかわりのえことだ。


 あのあたりの船宿ふなやどの誰かがもう、

 おかきに声かけてるさ。


 それに、 うわ!!!!」


 マリアは腕組うでぐみしたまま、源内を中心にぐるりと走り回転。


 「ぐるぐるー!」

 「ななな、なにすんだマリア!!」



<つづく>

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