九.麟ノ国第三王子ピンイン(弐)
「……俺、どうしちゃったんだろう」
勢いよく起き上がったユンジェは、目の前に広がる
ここはどこだ。それが、いま胸の内に占める感情であった。
(この場所は天幕、だよな?)
今までいた天幕とは大違いだ。
ユンジェがいた天幕は、簡素な内装になっており、必要最低限の支柱と覆う布、敷物が広げてある程度であった。
他は生活物資の入った荷やら、明かりとして使う燭台やら、申し訳程度に寝床の場所があるだけ。その寝床も、薄い敷物を何枚にも重ね、衣をかぶって寝るところだった。
なのに、ここはどうだ。
覆う布には一々装飾が施されており、何枚もの絹織物が飾られている。それは
燭台は滑らかな陶器、しかも麒麟のかたちをしている。
寝床に使用している敷物には、綿が詰められている。こんなに柔らかな寝床は初めてだ。藁の山よりも弾力があって、寝心地が良い。
ユンジェはすっかり挙動不審になっていた。それも仕様のない話、目が覚めたら、見知らぬ天幕にいたのだから。
(なっ、なんだここ。俺は寝ている間に、天の上にでも来たのか? 怖いくらい心地が良いんだけど……贅沢だ。ここはとても贅沢な場所だ)
泣き疲れた後の記憶がないユンジェだ。知らない間に、死んでしまったのか、と我が目を疑ってしまう。
「お前は起きて早々元気だな。少しは寛いだらどうだ? ユンジェ」
背後から小さな笑い声が聞こえる。振り返ると、ティエンが横になっていた。枕元には懐剣が横たわっている。
お前も死んでしまったのか、と尋ねると、勝手に殺すなと返された。どうやら、ここは天の上ではないらしい。
しかし、信じられない。こんなにも心地の良い場所があっていいのだろうか。
「お、俺のいた天幕はどこにいっちゃったんだよ。ティエン、ここって……」
「王族が使用する天幕だ。兵に頼んでお前を運んでもらった。私はお前と共に、平民の天幕で良いと言ったんだが、どうしても聞いてもらえなくてな」
さっぱり話が見えない。分かることは、ユンジェが別の天幕にいるということ。おおよそ、ティエンがいた天幕だろう。
(高い身分にいると、こんなところで寝かされるのか)
ユンジェは、ただただ感心するしかない。
「すまない。ユンジェ、手を貸してくれるか?」
体を起こしたいのだろう。ティエンに近寄ると、肩や背中の傷を刺激しないように、手を入れて支えてやる。
その際、彼の目を見たユンジェは、起き上がった目的に気付き、周りをきょろきょろと見渡した。
支柱の傍に置いてある
「うえっ。この水、色が付いている。飲めるのか? 酒でもなさそうだし」
ユンジェは顔を顰めた。
ティエンの喉の渇きに気付いて、こうして水を持ってきたわけだが、湯飲みに注ぐと色のついた水が出てきた。白い湯飲みだから、よく分かる。薄い黄か茶のような、そんな色をしている。
嗅いでみると、妙なにおいがした。ますます飲めるのか怪しい。変なにおいではないのだが、水にしてはおかしい。
「ふふっ、そうか。ユンジェは
ティエンが湯飲みを受け取り、躊躇いなくそれで喉を潤す。そして、もう一度、湯飲みに色付き水を注ぎ、ユンジェに差し出した。飲んでみろ、と目で笑われる。
「……ティエン。それ飲んで、腹壊さないか?」
色の付いた水に不安を抱いてしまう。色があるだけでも不安なのに、妙な香りがするのだ。当然、腹の心配をしてしまう。
「お前も喉が渇いているだろ? 体の水分が空っぽになる勢いで泣いたんだから」
瞬く間に顔を紅潮させてしまう。耳まで赤く染めた。
好きで泣いたわけではない。あれはティエンが悪いのだ、いや、自分が悪いのだろうか? とにかく、それについては触れられたくない。
ティエンが笑いを噛み殺してくる。ユンジェの気恥ずかしい思いを見抜いているのだろう。嫌な男だ。
ムキになって湯飲みを奪うと、それを一気に飲み干した。
「どうだ?」
「……とても不思議な味がする」
まずいとは言わないが、美味しいとも言えない。初めての味だ。率直な感想を告げ、ティエンにこれの正体を尋ねる。
「それはな。銭を煮詰め、花で香りづけした汁なんだ。高価な味がするだろう?」
「ええ? お金って飲めるの?」
ユンジェは空っぽとなった湯飲みを凝視する。銭を煮詰めるなど、聞いたことも無い。
「と、言ったらどうする?」
「はあ? ……お、お前っ、からかいやがったな!」
「ふふっ。ユンジェは素直な反応してくれるから、とても楽しいな」
思惑通りにいったことが、嬉しくて仕方がないのだろう。ティエンは肩を震わせている。
この男、口が利けない時は慎ましい人間として振る舞っていたくせに、声が戻った途端これだ。彼は思った以上に、いたずら者なのかもしれない。
白目を向けるユンジェに、彼は今度こそ答えを教えてくれた。
「お前がいま、飲んだのはお茶だ。それは
お茶は贅沢品である。ユンジェは感嘆の声を上げた。
「へえ。これがお茶なのか」
お茶っ葉の存在は知っていたものの、飲み物としてお目に掛かるのは初めてだ。農民の大半は水を一度沸騰させ、それを冷まして飲むが主流なので、まずお茶に触れる機会がない。お茶っ葉を買うくらいなら、米や塩を買っている。
これはティエンのお気に入りだそうだ。一日一回は飲んでいたという。
すごいな、とユンジェは思った。毎日お茶が飲めるなんて、相当な金持ちだ。王子だから飲めるのだろう。
(そうだ。今度こそ、ティエンのことを聞かなきゃ。懐剣のことも)
束の間のこと。
ユンジェは持っていた湯飲みを取り上げられ、強引に寝かしつけられる。説明が欲しいところであったが、衣を掛けてくるティエンの目を見て、ゆるりと瞼を閉じる。
天幕の入り口から人の気配を感じた。誰かが入って来たようだ。
「ピンインさま。間もなく夕餉のお時間となります。その前に、包帯のお取替えを」
カグムの声だ。
「後でユンジェに手伝って頂きます。お気遣いなく」
驚くほどティエンの声は硬く、冷たく、棘があった。
ユンジェは薄目を開ける。
とりわけカグムに警戒心を抱いているようで、少しでも彼に動きがあると、ティエンの凍てついた眼光が鋭くなる。目は訴えていた、近付くものなら命は無い、と。
対照的に、カグムは弱り果てているようだ。小さなため息が聞こえる。
「その子どもは、まだ眠っておられるのですか?」
「ユンジェは疲れているのです。そっとしておいて下さい」
「まことの話であれば、そのように致しましょう」
断言していい。カグムはユンジェの狸寝入りを見抜いている。含みある返事が、揺るぎない確信を宿している。
「用件は御済みでしょうか? そうであれば、ご退室をお願い致します。夕餉の刻まで、体を休めたいものでして」
言葉は
彼のことが嫌いなのだろうか。
ユンジェはカグムに世話を焼いてもらったので、複雑な気持ちになってしまう。
「僭越ながら、進言させて頂きます。やはり王族の貴方様の隣に、農民の子を寝かせるというのは如何なものかと。他の者も困惑しております」
と、カグムがティエンに意見する。それはユンジェに深く関わるものであった。
「その子どもは、王族と同じ枕の高さで寝られるようなご身分ではございません。いま一度、考え直して頂けないでしょうか?」
ユンジェには、王族の身分とやらがよく分からない。
けれども、農民の身分がとても低い位置にいることは理解できた。
ティエンの隣に農民が寝ることは、しごく失礼に値するらしい。王族は天に次ぐ、偉い身分なのだろうか?
「では、私とユンジェを平民の天幕に移して頂きたい。何度も申し上げているように、私はこの子と同じく農民の身分。王族ではございません」
深いため息が聞こえた。あれはわざと、ティエンに聞かせているのだろう。息をつく音が白々しい。
「また、そのような戯言を。周りの混乱を招くような発言はお控え下さいませ」
「戯言? 私は有りの儘に申し上げているだけですよ。貴殿は私を未だに第三王子として扱っているようですが、あれは一年も前に死に絶えた――カグム、貴殿がピンインにとどめを刺した」
声を上げそうになる。いま、ティエンは何と言った? だって彼はティエンを守る、近衛兵だったはず。なのに、とどめを刺した、とは。
「私はユンジェに拾われ、新たに名前を賜りました。ゆえに、身分はこの子どもと同じ。今さら、王族として接するのは筋違いではございませんか?」
「平民に対する敬語はおやめ下さい。王族の品位が損なわれます」
「果たして、それに何の価値があるのか。一農民として畑仕事をする方が、まだ価値がありますよ」
まるで話が噛みあわない。
謂わずも、双方の仲は最悪だ。天幕の内に漂う空気が、どんどん冷たくなっていく。ここだけ真冬のようだ。会話が無くなり、沈黙が訪れる。つらい。
先に動いたのはカグムだった。
「どう仰られようとも、貴方様を農民として扱うつもりは、毛頭もございません。どうぞ、ユンジェをカグムにお預け下さい。その子どもが王族の誇りを奪っていると言っても、過言ではありません」
歩み寄る音と、懐剣を抜く音が重なる。
金属のぶつかり合う高い音に、ユンジェは飛び起きた。目の前でティエンの懐剣と、カグムの護身用の短剣の刃が衝突している。
「ばっ、ばか! ティエン、何しているんだよ! 落ち着け、傷が開くぞ!」
慌てて体に縋るが、ティエンの目はカグムしか捉えていない。
「ユンジェに触れてみろ。その喉を切り裂いてやる」
「これは驚きました。私の腕を知りながら、剣を抜くとは。一年見ない間に、ずいぶんと勇猛な男になられましたね」
あの頃は、周囲の顔色を窺うばかりの
「この子は今の私にとって、たった一人の大切な繋がり。貴様なんぞに預けると思うか。カグムっ! 今さら間諜に成り下がり、何を肚の内に隠しているっ!」
ティエンも懐剣を押した。
ぶつかり合う二つの刃が、かちかち、かちかち、と音を鳴らす。
押し合う力が拮抗している。いや、ティエンの方がやや劣勢だ。彼の力では、カグムの短剣を押し返すことは難しい。
なおも、ティエンの激情が冷めることがない。
「カグム、貴様も見ていたはずだ。我が麟ノ懐剣を抜くユンジェの姿を。それがどういう意味に値するのか、私の近衛兵だった貴様なら知っているはず」
「ええ。だからこそユンジェも大切に『保護』しているのですよ――しかしながら、所詮農民の子。身を弁えて頂きたいのです」
持ち手に力を入れたカグムが、ティエンの手から懐剣を真上に弾き飛ばす。
「貴方の負けですよ。ピンインさま。私の言葉に耳を傾けて頂けますか?」
カグムの短剣がティエンに向けられる。
その瞬間、ユンジェに強い使命が過ぎった。
所有者が丸腰になってしまった。ああ、守らなければ。突き上げられる感情に流されるがまま宙に飛んだ懐剣を掴むと、カグムの短剣目掛けて振る。
甲高い音が天幕に響き、真っ二つとなった刃が敷物の上に落ちる。それはまるで、短剣の断末魔のようであった。
(まずい、折っちまった。そんなに力入れてねーんだけど)
まさか折れるとは思わず。
我に返ったユンジェは、静まり返る双方を見やり、折れた短剣の刃をそっと拾った。
「えーっと……引き分けでいいか、な?」
いつまでも沈黙が続いた。
◆◆
「お前は馬鹿だな、ティエン。自分から進んで、農民になろうとするなんて。高い身分にいる方が絶対に得するのに」
ユンジェはティエンの包帯を替えていた。
勝負を引き分けに持ち込めたおかげで、今も王族の天幕に留まることができている。もっとも、カグムに押し負けたティエンは、自分の不甲斐ない腕に憤りを感じているようだ。仏頂面を作ったまま口を開こうとしない。
またティエンに押し勝ったカグムは、天幕の外で待機している。
彼は元々包帯を替えに来たのだが、ティエンが強く拒絶したため、そのお役をユンジェに任せた。
替え終わったら声を掛けてほしい、と困ったように笑う姿は、到底ティエンの命を狙った者とは思えない。
甲斐甲斐しく世話を焼いてくれた、優しいカグムしか知らないユンジェなので、命を狙った話が俄かに信じられずにいる。
しかし。ティエンが嘘を言っているとも思えない。二人の間に一体、何が遭ったのだろうか。
「王族と農民は一緒に寝ちゃいけないんだな。失礼になるなんて知らなかったよ。出逢った頃のお前が、俺を寝台に上がらせなかったわけだな」
重い空気を晴らすため、ユンジェは思い出話を始める。
今となっては笑い話だが、彼に出逢った当初は、一つしかない寝台を占領されていたものだ。
なんで家主の自分が冷たい床で寝なければいけないのだと、あの頃は毎日のように頭を抱えていた。
あれは単なる我儘でなく、ちゃんと理由があったのだ。
「なあ、ティエン。俺を気遣わなくてもいいんだぞ。お前は俺と違って農民じゃない、王族ってやつなんだろう? だったら、それに戻るべきだと思う。ピンイン王子って呼ぶべきか?」
古い包帯の結び目を解いていると、ようやくティエンが口を開いた。
「それは一年前に死んだ。いや、殺された、というべきだろうか。ユンジェ、私は王族であって王族ではないんだ。誰もが私の命を狙い、亡き者とする。消えて欲しい存在なんだ」
ユンジェは生々しい矢の痕を見つめ、彼の言葉を反芻する。
けれど、一抹も理解ができなかった。分かることはティエンが消えて欲しい存在、ということだけ。
それについて深く追究したいところであったが、ユンジェは口を閉じることにした。話はすべてを聞き終えてからだ。
「私は麟ノ国第二十代クンル王の血を継ぐ者、第三王子ピンインという。お前に分かりやすく言えば、土地を統べる者の子どもだ。ユンジェ、お前は国というものが分かるか?」
首を横に振る。町や森は分かるが、国は分からない。
「簡単に言えば、広い土地だな。町や森よりも、もっと広い範囲を指す。お前が生きているこの地は、
四瑞大陸には四つの国があり、それらは各々、
この四つを総じて四瑞大陸と呼び、ユンジェがいる場所は
その中に、ユンジェの暮らす森や町が含まれているのだという。
聞き慣れない言葉ばかり並ぶので、理解するのに時間を要してしまったユンジェだが、どうにか話をかみ砕いていく。そして、なるほど、と一つ頷いた。
「つまり。麟ノ国は王族のもので、それに森や町、畑が含まれているんだな。地主よりも、ずっとずっと偉いんだな」
「ああ。そんなところだ」
ティエンは語る。
麟ノ国第三王子として生まれた自分は、呪われた王子として周囲から疎まれ、忌み嫌われていた。幼少は離宮で幽閉状態であった、と。
「私は呪われていた。生まれたその瞬間から」
代々王族はこの世に生を受ける子のために、麒麟の体毛に似た
それは国を守護する麒麟への貢ぎ物。受け取った麒麟は己の霊気を黄玉に宿し、国を統べる王族に加護を与え、それを預ける。
そして、この世を去る時に、黄玉を麒麟に返上するとされている。
ティエンもそうなるはずであった。
「しかし、私が誕生した時、捧げた黄玉は砕け散ったそうだ。幾度繰り返しても同じ。加護は与えられなかった。周囲は恐れた。この子どもは麒麟の逆鱗に触れているのだと」
ティエンが誕生してからというものの、国に不幸が続いた。
雨量不足による渇水。それに伴った大飢饉。流行り病の多発。貧しい土地では戦が起きるようになり、国内は荒れた。
いつしか皆が皆、口にするようになる。この子どもは国を亡ぼしかねない、と。
幽閉されて育ったティエンは、いつ処刑されてもおかしくない状況下にいた。国の内情が父王の怒りに触れたのだ。これのせいで国は不幸になる。それが口癖だった。
なおも、処刑されなかったのは、得体の知れない呪いを恐れたからだ。
「私が病になる度に、周りは喜んだものだ。早く死んでくれと、陰口を言われたよ。だが、私はしぶとかった。体が弱いくせに、いつも生きながらえる」
表向きでは優しく接してくれる侍女達も、守る近衛兵達も、陰ではティエンを恐れ、早くどうにかしてくれないかと口ずさんでいた。皆、ティエンの死を望んでいた。
ティエンは孤独だった。
周りの顔色を窺いながら、毎日を生きなければいけなかった。死にたくない。けれど周りは死を望む。その状況が苦しく、どうすればいいのか分からない日々を送っていた。
「そんな私に、たった一人だけ友として接してくれた奴がいた」
それが近衛兵のカグムだった。
彼はティエンが十二の時に出逢った兵で、同い年ということもあり、よく気さくに話し掛けてくれた。周りが蔑む目を向ける中、彼だけは親しく接してくれた。
「あいつに町のことや庶民の暮らし、弓を教えてもらったよ。あの日々は楽しかった」
救われる思いだった、とティエンは懐かしそうに語る。それだけ、孤独な日々を送っていたのだろう。その表情はさみしそうだ。
「だが、友人と思っていたのは、私だけだった」
ティエンが十八の誕生日を迎えた日。
父王の命により離宮を去って、地方の地へ向かった。そこの領地を任されることになったのだ。死を望んでいた父が、まさか自分に土地を任せるとは思わず、ティエンは驚いた。
また土地を任されたのは、谷と山を越えた先の見知らぬ土地。離宮ばかりにいたティエンは、大きな不安を抱いていた。
けれど、友のカグムも連れて行けるので、なんとかやっていけるだろうと思った。
出発して三日目の夜。
事件は起きる。ティエンは泊まった宿先で、自分を守護するはずの近衛兵達に襲われてしまったのだ。
それを命じたのは父王本人であり、近衛兵達を指揮したのは、あのタオシュンであった。輩は兵に呪術師をまぎれさせ、ティエンの声を奪うよう命じた。誰にも悲鳴を聞かせないように。それがあの黒蛇だという。
ティエンは命辛々宿から抜け出し、谷の淵を沿うように逃げ回った。
周りから死ねと言われ続けていたものの、やはり死ぬことは怖かった。誰かに言われて死ねるほど、ティエンは強い男ではなかった。
だが、鍛えられた兵達の足から逃れられるはずもなく、ティエンはすぐに追い詰められてしまう。
悲しいことに、友だと思っていたカグムに剣を向けられ、言い放たれた――やっと貴方を殺せる、国のために死んで欲しい、と。
ティエンは絶望した。
同時に恐怖した。彼に殺されるのだと頭で分かった瞬間、足が竦んで動かなくなった。そんなティエンに、問答無用で剣を向け、カグムは彼を切りつけて谷に突き落とした。
これがティエンのいう、とどめを刺した真相だ。
「落ちていく最中、私は夜の雲の切れ間から、麒麟が翔け降りてくる姿を目にした。それが夢なのか幻なのかは、定かではないが……私は麒麟の背に乗せられ、風になった記憶がある」
ふと気が付くと、ティエンは右も左も分からない森の奥地にいた。
体は擦り傷だらけで、腹部は打撲し、頭からは血を流していたが、助かったのだと直感で思った。
ティエンは歩いた。とにかく歩き、自分の命を狙う兵達から逃れようと必死になった。
けれど、それも力尽き、ついに木の下で凭れるように倒れてしまう。
そこにユンジェが通りかかり、傷付いた彼を見つけたのだ。
「目が覚めた私は、何もかも信じることができなくなっていた。せっかく助けてくれたのに、ユンジェのことすら命を狙う者だと疑心暗鬼になっていたんだ。あの時はすまなかったな。私はお前に懐剣を向けた」
経緯を聞けば、そうなっても仕方がないことだろう。ユンジェは謝罪してくるティエンに向かって、そっと首を横に振る。
「友を失い、声を失い、居場所を失い……その上、身分の低い農民に拾われた私は、お前に八つ当たりをしていた。こんな子どもが王族に触れるなんて失礼極まりない、と毎日のように思っていた」
実のところ、ティエンはユンジェを、あまりよく思っていなかった。
農民のくせに、王族の自分に身の程も弁えず接してくる。
その上、食事はお粗末で、寝る時は隣に寝ようとする。無礼な子どもだと思った。まさか呪われた第三王子と知って、そういう扱いをしているのでは。
そう考えては腹を立てていた。卑屈になっていた。
「そんな時だ。お前が痣を作って帰って来たのは。ユンジェは謝罪してきたな。獣が獲れず、米と交換できなかったと。その代わりに、桃饅頭を食べてほしいと」
ティエンは衝撃を受けた。
まさか子供が、赤の他人に、髪を売って桃饅頭を買ってくるとは思わなかったのだ。
王族は髪を大切にする風習がある。そのため、ユンジェの行為がとても重いものに感じられた。
「鈍い私はようやく全てを察した。この家は本当に貧しいのだと。それでもなお、私を面倒看てくれているのだと」
朝は早くから畑に出て、夜は遅くまで藁で縄や
一人で生活しているのだと知ったティエンは、ただただ言葉を失った。
米ばかり要求していた自分は、どれだけ子どもを困らせていたのだろう。大人げない振る舞いに、とても気恥ずかしくなった。追い出されてもおかしくない振る舞いばかりしてきた。
なのに、ユンジェはティエンを家に置いた。
一緒に畑仕事をしようと誘い、生きる術を懇切丁寧に教えてくれた。苦しい生活でも笑っていた。
大人の理不尽な仕打ちに耐えながら、それでも懸命に生きようとする子どもの姿を目にして、ティエンは思った。王族を捨て、ユンジェと共に農民として生きよう、と。
だから髪を切った。
子どものため、生活の足しになればと思ったのだ。
また子どもと同じ身分になり、第三王子『ピンイン』の自分は捨てた。王族の自分は、あの夜に死んだのだ。己の名は『ティエン』、これからティエンとして生きる。強く気持ちを固めた。
「私は生かされてばかりだった。何もせずとも、飯と寝床が与えられ、贅沢品を献上された。だが、幸せとは言い難い日々だった」
誰彼に言われ、それに頷く毎日に、到底生きる実感は湧かなかった。
「ユンジェ。お前に出逢えたこの一年は、しかと自分で生きているのだと思えたんだ」
農民の生活は不便であった。
汗水たらしても、満足に食べることができず、ひもじい思いもたくさんした。肉体労働はつらく、寝込むことも多かった。それでもティエンの心は満たされていた。
その暮らしの中で、生きる実感と、大切な繋がりを得ていたのだから。
兄のように慕ってくれる子どもと二人で生活する日々は、孤独だったティエンにとって、かけがえのものとなっていた。
「ユンジェだけだった。誰もが私の死を望んでいたのに、お前は必死に走り、よく考え、守ろうとしてくれた。そんなお前につけてもらった『ティエン』という名は私の誇りなんだ」
それこそ王族の自尊心よりも、品位よりも、ずっと気高いものだと彼は柔和に頬を緩める。
農民であり続けようとするのは、子どもと対等でありたいがため。血の繋がった家族よりも、深い繋がりを得たためだとティエンは嬉しそうに語った。
ユンジェは口を曲げて、ふうんと鼻を鳴らす。見え見えの照れ隠しであった。
「それに、私が農民を名乗ることは、カグム達にとっても不都合極まりない。ユンジェ、お前も感じていると思うが、農民は平民の中で最も立場が弱い」
それはユンジェにも理解ができた。対等な立場であれば、一方的な物々交換を強いられることもないのだから。
「わざわざ間諜として、敵兵にまぎれていたのだ。ここにいる者達は、おおよそ呪われた王子を
「ティエンが農民だと、カグム達は利用できないの?」
彼は小さく頷いた。
曰く、ピンイン王子の『保護』は麟ノ国に深く関わるものであり、政が絡んでいると断言して良い。
麟ノ国を変えたいのか、王族を討ちたいのか、はたまた別の目的があってのことなのか。なんにせよ、麟ノ国と王族に関わる内容だろうとティエン。
呪われた王子を利用したい彼らは、ピンイン王子に『王族』のままでいてもらわなければ困る。
王族の肩書きは強い。それがあるだけで、国が動かせる。なのに、力の弱い農民に成り下がられては、目的を達することも、利用をすることもできない。
今頃、カグム達は焦っていることだろう。ティエンは薄ら笑いを浮かべた。
「私は今まで頷くばかりの人間だった。人の言うことはなんでも聞く人間だった。ゆえにこれは、向こうにとって想定外のことだろう。またユンジェ、お前の存在も輩達にとって、予想できない存在だった」
ユンジェは目を丸くする。
「お前は私の懐剣を抜いた者。すなわち、麒麟に使命を与えられた者だ」
あれは麟ノ国王族にのみ、持つことが許される麟ノ懐剣。麒麟の角を磨き上げ、刃にしたと云われているもの。
それには麒麟の心魂が宿っており、王族以外の人間には抜くことができない。持っていれば、麒麟と対話ができると信じられている。
王族は皆、加護を宿した
ティエンは麒麟から加護を受けられずにいたが、懐剣は抜くことができた。加護が宿らなかったからこそ、誰よりも大切に持っていたそうだ。
「懐剣の殆どは、所有者の王族が持つだけに終わる。しかし稀に王族以外の者が、懐剣を抜くことがある。それが麒麟に使命を与えられた者だ」
包帯を替え終わると、ティエンが衣を肩まで引き戻し、ユンジェを見つめた。
その目を見つめ返し、傍に置いていた懐剣を手繰り寄せる。鞘に注目すると、装飾された
「これは?」
「麒麟の加護だ。私はようやく一人前の王族になれたようだな。十八年掛かってしまったが」
十八年前に宿ってくれたら、どれだけ良かったか。彼は吐息をついた。
「麒麟は王族に加護を与え、国を守るよう使命を授ける。その王族の所有する懐剣を、お前は抜いてしまった。お前は所有者に関わる使命を、麒麟から授かったんだ」
麒麟の心魂が宿った懐剣は、麒麟の使命に合わせて力を発揮し、時に麒麟そのものが天から降りてくると云われている。
ユンジェは麒麟に選ばれた。その小さな背中に使命を授かった。所有者を守護する、という大きな使命を。
その肩書きは麒麟の使いだと、ティエンは静かに語った。
(使い、ね)
では、先ほどカグムの短剣を簡単に折ってしまったのは、剣を向けてくる輩から所有者を守るために力が発揮されたのか。ユンジェは懐剣をいつまでも見つめる。
「昔、カグムがこれ半分ほど抜いたことがあった。だが途中で気分が悪くなり、すべてを抜くことは叶わなかった」
似た経験をしているユンジェは、胸に秘めていた冬の日の行いを告白する。
「じつは俺も、お前に黙って半分くらい抜いたことがあったんだ。でも気分が悪くなってやめちまった」
ユンジェは夢で見た麒麟を思い出す。
あれは、使命を与えようとしていた。しかし、与えようとするだけで強制はしなかった。受け取るかどうかは、本人の意思に委ねている様子であった。
あの時のユンジェは戸惑うばかりで、使命について深く考えたことはなかったが、懐剣を抜いた今なら分かる。
抜くためには、それ相応の大きな覚悟が必要だったのだ。責務を果たすことができるかどうか、それを麒麟は見抜いていたに違いない。
「俺はこれを抜く時、絶対に死ねないって思ったんだ。俺が死んだら、お前はひとりになる。約束が守れなくなる……って。最後まで巻き込めって言ったのは俺なのに、死んだら元も子もないもんな」
ユンジェの強い意思と覚悟が、懐剣を抜く力に変えたのだろう。
「俺が麒麟に与えられた使命はお前を守り、生かすこと。お前を守護する懐剣になることだ」
麒麟はティエンに生きてもらいたいのだろう。
その証拠にカグムに切られ谷から落ちた時も、タオシュン達に追い詰められた時も、荒れ狂う急流に落ちた時も、麒麟は天から降りて手を差し伸べた。すべてはティエンを生かすために。
「俺もティエンに生きてほしい。お前が呪われた王子だろうと、周りが死ねと願おうと、俺はお前に生きてもらいたいよ」
見つめてくるティエンの目が小さく笑う。
それはどこか、物言いたげな顔であったため、「謝ったら怒るからな」と、釘を刺しておいた。
ユンジェは謝ってほしくなどなかった。感謝されたいわけでもなかった。ただ一言、返して欲しかった。「生きる」と。
「誰かに望まれたからって、簡単に死ぬな。ティエンの死に場所はここじゃない」
真剣に物申しているというのに、彼の表情は柔らかい。表情を崩したまま、小さく頷く。
「分かっているさ。私は謝らない。お前を巻き込む覚悟は、とうに決めている。私はもう、誰の指図も受けない」
ティエンの声が掠れた。ユンジェの額に、彼の額が重なってくる。
頭に添えてくる両手が震えていた。ユンジェは泣いてもいなければ、傷付いてもいない。
なのに、ティエンは子ども扱いしてくる。慰めようとしてくる。額を強く合わせてくる。仕方がないので、ユンジェは黙って慰められることにする。
「俺は最後まで傍にいるからさ。ちゃんと巻き込まれてやるから」
形は違えど、ユンジェもティエンも孤独であった。ひとりの無力さを、侘しさを、つらさを知っている。知っているからこそ。
「ここではもう無理だけど、遠いところで土地を探して畑でも耕そう。また芋や豆を育てよう。二人で一緒に」
だから。
「生きよう、ティエン。よく考えて、生き続ける方法を考えよう」
「死ねと言われ慣れているせいか、面と向かって生きろと言われると、なんだか照れくさいな」
数滴、懐剣に零れ落ちてくるそれを見つめ、ユンジェはひたすら彼の言葉を待つ。
「ユンジェ。私は這ってでも生きる。誰に望まれようとも、私はお前と生き続ける。死んでやるものか。簡単に死んでやるものかっ。私の死に場所は、私が決める」
その言葉が聞けるまで、じっと息を潜めた。
ユンジェにはピンイン王子の呪いだとか、王族の内情だとか、政の利用だとか、国の難しい話はよく分からない。
しかし、人と人が複雑に絡み合い、傷付け傷付きあう現実があることは知っている。
「お待たせ。終わったよ」
包帯を替え終わったユンジェは、天幕の外で待つカグムに声を掛けた。
ずいぶんと時間が経ったのにも関わらず、彼は文句のひとつも言わず待っていた。どこか、ぼんやりとした顔ではあったが、ひたすら終わる時間を待ってくれていた。
二人の時間を尊重してくれたのだろう。
「お疲れユンジェ、ピンインに夕餉を持ってくると伝え……ピンインさまに伝えてくれ」
昔の名残があるのか、カグムは彼の名前を呼び捨てにした。とても親しかったのだろう。
ユンジェは二人の過去に触れるつもりはない。
なんでティエンを裏切ったのだとか、どうしてトドメを刺したのに、一年も探し回っていたのか、だとか。
そんなこと部外者が根掘り葉掘り聞いたところで、それは野暮というものだ。
ただ、ひとつ。彼に聞きたいことがある。
「カグム。お前さ、わざとティエンを怒らせたんじゃないのか?」
ティエンと親しかった彼なら、ある程度予測していたはずだ。身分を理由に、ティエンとユンジェを離そうとしたら、どうなるのか。
ユンジェから包帯の入った布袋を受け取り、カグムは意味深に笑うと、頭をぐしゃぐしゃに撫でてくる。そしてわざとらしい声の大きさで、ユンジェに告げた。
「必ずや、このカグムがユンジェをお預かりします。貴方の力は、この目の拝見させて頂きました――麒麟の使いは我々のものです」
天幕の内から激しい物音が聞こえた。
間もなく顔を出す、殺気溢れたティエンに目で笑うとカグムは恭しく頭を下げて、その場を去った。
(やっぱりわざとじゃん)
ユンジェはティエンに呼ばれるまで、カグムの背中を見送り続けた。
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