九.麟ノ国第三王子ピンイン(弐)



「……俺、どうしちゃったんだろう」


 勢いよく起き上がったユンジェは、目の前に広がる絢爛豪華けんらんごうかな天幕の内装に呆気を取られていた。

 ここはどこだ。それが、いま胸の内に占める感情であった。


(この場所は天幕、だよな?)


 今までいた天幕とは大違いだ。

 ユンジェがいた天幕は、簡素な内装になっており、必要最低限の支柱と覆う布、敷物が広げてある程度であった。


 他は生活物資の入った荷やら、明かりとして使う燭台やら、申し訳程度に寝床の場所があるだけ。その寝床も、薄い敷物を何枚にも重ね、衣をかぶって寝るところだった。


 なのに、ここはどうだ。


 覆う布には一々装飾が施されており、何枚もの絹織物が飾られている。それは織金おりきんと呼ばれるものであった。

 燭台は滑らかな陶器、しかも麒麟のかたちをしている。

 寝床に使用している敷物には、綿が詰められている。こんなに柔らかな寝床は初めてだ。藁の山よりも弾力があって、寝心地が良い。


 ユンジェはすっかり挙動不審になっていた。それも仕様のない話、目が覚めたら、見知らぬ天幕にいたのだから。


(なっ、なんだここ。俺は寝ている間に、天の上にでも来たのか? 怖いくらい心地が良いんだけど……贅沢だ。ここはとても贅沢な場所だ)


 泣き疲れた後の記憶がないユンジェだ。知らない間に、死んでしまったのか、と我が目を疑ってしまう。


「お前は起きて早々元気だな。少しは寛いだらどうだ? ユンジェ」


 背後から小さな笑い声が聞こえる。振り返ると、ティエンが横になっていた。枕元には懐剣が横たわっている。

 お前も死んでしまったのか、と尋ねると、勝手に殺すなと返された。どうやら、ここは天の上ではないらしい。


 しかし、信じられない。こんなにも心地の良い場所があっていいのだろうか。


「お、俺のいた天幕はどこにいっちゃったんだよ。ティエン、ここって……」


「王族が使用する天幕だ。兵に頼んでお前を運んでもらった。私はお前と共に、平民の天幕で良いと言ったんだが、どうしても聞いてもらえなくてな」


 さっぱり話が見えない。分かることは、ユンジェが別の天幕にいるということ。おおよそ、ティエンがいた天幕だろう。


(高い身分にいると、こんなところで寝かされるのか)


 ユンジェは、ただただ感心するしかない。


「すまない。ユンジェ、手を貸してくれるか?」


 体を起こしたいのだろう。ティエンに近寄ると、肩や背中の傷を刺激しないように、手を入れて支えてやる。


 その際、彼の目を見たユンジェは、起き上がった目的に気付き、周りをきょろきょろと見渡した。

 支柱の傍に置いてあるすずの水差しを見つけると、湯飲みと一緒に持ってくる。


「うえっ。この水、色が付いている。飲めるのか? 酒でもなさそうだし」


 ユンジェは顔を顰めた。

 ティエンの喉の渇きに気付いて、こうして水を持ってきたわけだが、湯飲みに注ぐと色のついた水が出てきた。白い湯飲みだから、よく分かる。薄い黄か茶のような、そんな色をしている。


 嗅いでみると、妙なにおいがした。ますます飲めるのか怪しい。変なにおいではないのだが、水にしてはおかしい。


「ふふっ、そうか。ユンジェは茉莉花ジャスミン茶を知らないんだな」


 ティエンが湯飲みを受け取り、躊躇いなくそれで喉を潤す。そして、もう一度、湯飲みに色付き水を注ぎ、ユンジェに差し出した。飲んでみろ、と目で笑われる。


「……ティエン。それ飲んで、腹壊さないか?」


 色の付いた水に不安を抱いてしまう。色があるだけでも不安なのに、妙な香りがするのだ。当然、腹の心配をしてしまう。


「お前も喉が渇いているだろ? 体の水分が空っぽになる勢いで泣いたんだから」


 瞬く間に顔を紅潮させてしまう。耳まで赤く染めた。

 好きで泣いたわけではない。あれはティエンが悪いのだ、いや、自分が悪いのだろうか? とにかく、それについては触れられたくない。

 ティエンが笑いを噛み殺してくる。ユンジェの気恥ずかしい思いを見抜いているのだろう。嫌な男だ。

 ムキになって湯飲みを奪うと、それを一気に飲み干した。


「どうだ?」


「……とても不思議な味がする」


 まずいとは言わないが、美味しいとも言えない。初めての味だ。率直な感想を告げ、ティエンにこれの正体を尋ねる。


「それはな。銭を煮詰め、花で香りづけした汁なんだ。高価な味がするだろう?」


「ええ? お金って飲めるの?」


 ユンジェは空っぽとなった湯飲みを凝視する。銭を煮詰めるなど、聞いたことも無い。


「と、言ったらどうする?」


「はあ? ……お、お前っ、からかいやがったな!」


「ふふっ。ユンジェは素直な反応してくれるから、とても楽しいな」


 思惑通りにいったことが、嬉しくて仕方がないのだろう。ティエンは肩を震わせている。

 この男、口が利けない時は慎ましい人間として振る舞っていたくせに、声が戻った途端これだ。彼は思った以上に、いたずら者なのかもしれない。

 白目を向けるユンジェに、彼は今度こそ答えを教えてくれた。


「お前がいま、飲んだのはお茶だ。それは茉莉花ジャスミン茶という」


 お茶は贅沢品である。ユンジェは感嘆の声を上げた。


「へえ。これがお茶なのか」


 お茶っ葉の存在は知っていたものの、飲み物としてお目に掛かるのは初めてだ。農民の大半は水を一度沸騰させ、それを冷まして飲むが主流なので、まずお茶に触れる機会がない。お茶っ葉を買うくらいなら、米や塩を買っている。


 これはティエンのお気に入りだそうだ。一日一回は飲んでいたという。

 すごいな、とユンジェは思った。毎日お茶が飲めるなんて、相当な金持ちだ。王子だから飲めるのだろう。


(そうだ。今度こそ、ティエンのことを聞かなきゃ。懐剣のことも)


 束の間のこと。

 ユンジェは持っていた湯飲みを取り上げられ、強引に寝かしつけられる。説明が欲しいところであったが、衣を掛けてくるティエンの目を見て、ゆるりと瞼を閉じる。


 天幕の入り口から人の気配を感じた。誰かが入って来たようだ。


「ピンインさま。間もなく夕餉のお時間となります。その前に、包帯のお取替えを」


 カグムの声だ。


「後でユンジェに手伝って頂きます。お気遣いなく」


 驚くほどティエンの声は硬く、冷たく、棘があった。


 ユンジェは薄目を開ける。

 とりわけカグムに警戒心を抱いているようで、少しでも彼に動きがあると、ティエンの凍てついた眼光が鋭くなる。目は訴えていた、近付くものなら命は無い、と。


 対照的に、カグムは弱り果てているようだ。小さなため息が聞こえる。


「その子どもは、まだ眠っておられるのですか?」


「ユンジェは疲れているのです。そっとしておいて下さい」


「まことの話であれば、そのように致しましょう」


 断言していい。カグムはユンジェの狸寝入りを見抜いている。含みある返事が、揺るぎない確信を宿している。


「用件は御済みでしょうか? そうであれば、ご退室をお願い致します。夕餉の刻まで、体を休めたいものでして」


 言葉は慇懃いんぎん丁寧であるが、ティエンは早く出て行け、と遠回しに、カグムを邪険している。


 彼のことが嫌いなのだろうか。

 ユンジェはカグムに世話を焼いてもらったので、複雑な気持ちになってしまう。


「僭越ながら、進言させて頂きます。やはり王族の貴方様の隣に、農民の子を寝かせるというのは如何なものかと。他の者も困惑しております」


 と、カグムがティエンに意見する。それはユンジェに深く関わるものであった。


「その子どもは、王族と同じ枕の高さで寝られるようなご身分ではございません。いま一度、考え直して頂けないでしょうか?」


 ユンジェには、王族の身分とやらがよく分からない。

 けれども、農民の身分がとても低い位置にいることは理解できた。

 ティエンの隣に農民が寝ることは、しごく失礼に値するらしい。王族は天に次ぐ、偉い身分なのだろうか?


「では、私とユンジェを平民の天幕に移して頂きたい。何度も申し上げているように、私はこの子と同じく農民の身分。王族ではございません」


 深いため息が聞こえた。あれはわざと、ティエンに聞かせているのだろう。息をつく音が白々しい。


「また、そのような戯言を。周りの混乱を招くような発言はお控え下さいませ」


「戯言? 私は有りの儘に申し上げているだけですよ。貴殿は私を未だに第三王子として扱っているようですが、あれは一年も前に死に絶えた――カグム、貴殿がピンインにとどめを刺した」


 声を上げそうになる。いま、ティエンは何と言った? だって彼はティエンを守る、近衛兵だったはず。なのに、とどめを刺した、とは。


「私はユンジェに拾われ、新たに名前を賜りました。ゆえに、身分はこの子どもと同じ。今さら、王族として接するのは筋違いではございませんか?」


「平民に対する敬語はおやめ下さい。王族の品位が損なわれます」


「果たして、それに何の価値があるのか。一農民として畑仕事をする方が、まだ価値がありますよ」


 まるで話が噛みあわない。

 謂わずも、双方の仲は最悪だ。天幕の内に漂う空気が、どんどん冷たくなっていく。ここだけ真冬のようだ。会話が無くなり、沈黙が訪れる。つらい。


 先に動いたのはカグムだった。


「どう仰られようとも、貴方様を農民として扱うつもりは、毛頭もございません。どうぞ、ユンジェをカグムにお預け下さい。その子どもが王族の誇りを奪っていると言っても、過言ではありません」


 歩み寄る音と、懐剣を抜く音が重なる。

 金属のぶつかり合う高い音に、ユンジェは飛び起きた。目の前でティエンの懐剣と、カグムの護身用の短剣の刃が衝突している。


「ばっ、ばか! ティエン、何しているんだよ! 落ち着け、傷が開くぞ!」


 慌てて体に縋るが、ティエンの目はカグムしか捉えていない。


「ユンジェに触れてみろ。その喉を切り裂いてやる」


「これは驚きました。私の腕を知りながら、剣を抜くとは。一年見ない間に、ずいぶんと勇猛な男になられましたね」


 あの頃は、周囲の顔色を窺うばかりの木偶でくぼうだったというのに。一笑を零すカグムが短剣を押す。


「この子は今の私にとって、たった一人の大切な繋がり。貴様なんぞに預けると思うか。カグムっ! 今さら間諜に成り下がり、何を肚の内に隠しているっ!」


 ティエンも懐剣を押した。

 ぶつかり合う二つの刃が、かちかち、かちかち、と音を鳴らす。

 押し合う力が拮抗している。いや、ティエンの方がやや劣勢だ。彼の力では、カグムの短剣を押し返すことは難しい。


 なおも、ティエンの激情が冷めることがない。


「カグム、貴様も見ていたはずだ。我が麟ノ懐剣を抜くユンジェの姿を。それがどういう意味に値するのか、私の近衛兵だった貴様なら知っているはず」


「ええ。だからこそユンジェも大切に『保護』しているのですよ――しかしながら、所詮農民の子。身を弁えて頂きたいのです」


 持ち手に力を入れたカグムが、ティエンの手から懐剣を真上に弾き飛ばす。


「貴方の負けですよ。ピンインさま。私の言葉に耳を傾けて頂けますか?」


 カグムの短剣がティエンに向けられる。


 その瞬間、ユンジェに強い使命が過ぎった。

 所有者が丸腰になってしまった。ああ、守らなければ。突き上げられる感情に流されるがまま宙に飛んだ懐剣を掴むと、カグムの短剣目掛けて振る。


 甲高い音が天幕に響き、真っ二つとなった刃が敷物の上に落ちる。それはまるで、短剣の断末魔のようであった。


(まずい、折っちまった。そんなに力入れてねーんだけど)


 まさか折れるとは思わず。

 我に返ったユンジェは、静まり返る双方を見やり、折れた短剣の刃をそっと拾った。


「えーっと……引き分けでいいか、な?」


 いつまでも沈黙が続いた。



 ◆◆



「お前は馬鹿だな、ティエン。自分から進んで、農民になろうとするなんて。高い身分にいる方が絶対に得するのに」


 ユンジェはティエンの包帯を替えていた。

 勝負を引き分けに持ち込めたおかげで、今も王族の天幕に留まることができている。もっとも、カグムに押し負けたティエンは、自分の不甲斐ない腕に憤りを感じているようだ。仏頂面を作ったまま口を開こうとしない。


 またティエンに押し勝ったカグムは、天幕の外で待機している。


 彼は元々包帯を替えに来たのだが、ティエンが強く拒絶したため、そのお役をユンジェに任せた。


 替え終わったら声を掛けてほしい、と困ったように笑う姿は、到底ティエンの命を狙った者とは思えない。

 甲斐甲斐しく世話を焼いてくれた、優しいカグムしか知らないユンジェなので、命を狙った話が俄かに信じられずにいる。


 しかし。ティエンが嘘を言っているとも思えない。二人の間に一体、何が遭ったのだろうか。


「王族と農民は一緒に寝ちゃいけないんだな。失礼になるなんて知らなかったよ。出逢った頃のお前が、俺を寝台に上がらせなかったわけだな」


 重い空気を晴らすため、ユンジェは思い出話を始める。


 今となっては笑い話だが、彼に出逢った当初は、一つしかない寝台を占領されていたものだ。

 なんで家主の自分が冷たい床で寝なければいけないのだと、あの頃は毎日のように頭を抱えていた。


 あれは単なる我儘でなく、ちゃんと理由があったのだ。


「なあ、ティエン。俺を気遣わなくてもいいんだぞ。お前は俺と違って農民じゃない、王族ってやつなんだろう? だったら、それに戻るべきだと思う。ピンイン王子って呼ぶべきか?」


 古い包帯の結び目を解いていると、ようやくティエンが口を開いた。


「それは一年前に死んだ。いや、殺された、というべきだろうか。ユンジェ、私は王族であって王族ではないんだ。誰もが私の命を狙い、亡き者とする。消えて欲しい存在なんだ」


 ユンジェは生々しい矢の痕を見つめ、彼の言葉を反芻する。

 けれど、一抹も理解ができなかった。分かることはティエンが消えて欲しい存在、ということだけ。


 それについて深く追究したいところであったが、ユンジェは口を閉じることにした。話はすべてを聞き終えてからだ。


「私は麟ノ国第二十代クンル王の血を継ぐ者、第三王子ピンインという。お前に分かりやすく言えば、土地を統べる者の子どもだ。ユンジェ、お前は国というものが分かるか?」


 首を横に振る。町や森は分かるが、国は分からない。


「簡単に言えば、広い土地だな。町や森よりも、もっと広い範囲を指す。お前が生きているこの地は、四瑞しずい大陸の一つ、麟ノ国と呼ばれている場所なんだ。そして、その国を統べている者達を王族という」


 四瑞大陸には四つの国があり、それらは各々、瑞獣ずいじゅうと呼ばれる霊獣に、守られているとティエン。


 麒麟きりんが守護するりんノ国。

 鳳凰ほうおうが守護するほうノ国。

 霊亀れいきが守護するノ国。

 応竜おうりゅうが守護するりゅうノ国。


 この四つを総じて四瑞大陸と呼び、ユンジェがいる場所はりんノ国だと説明してくれた。

 その中に、ユンジェの暮らす森や町が含まれているのだという。

 聞き慣れない言葉ばかり並ぶので、理解するのに時間を要してしまったユンジェだが、どうにか話をかみ砕いていく。そして、なるほど、と一つ頷いた。


「つまり。麟ノ国は王族のもので、それに森や町、畑が含まれているんだな。地主よりも、ずっとずっと偉いんだな」


「ああ。そんなところだ」


 ティエンは語る。

 麟ノ国第三王子として生まれた自分は、呪われた王子として周囲から疎まれ、忌み嫌われていた。幼少は離宮で幽閉状態であった、と。


「私は呪われていた。生まれたその瞬間から」


 代々王族はこの世に生を受ける子のために、麒麟の体毛に似た黄玉トパーズを捧げる。

 それは国を守護する麒麟への貢ぎ物。受け取った麒麟は己の霊気を黄玉に宿し、国を統べる王族に加護を与え、それを預ける。

 そして、この世を去る時に、黄玉を麒麟に返上するとされている。

 ティエンもそうなるはずであった。


「しかし、私が誕生した時、捧げた黄玉は砕け散ったそうだ。幾度繰り返しても同じ。加護は与えられなかった。周囲は恐れた。この子どもは麒麟の逆鱗に触れているのだと」


 ティエンが誕生してからというものの、国に不幸が続いた。

 雨量不足による渇水。それに伴った大飢饉。流行り病の多発。貧しい土地では戦が起きるようになり、国内は荒れた。

 いつしか皆が皆、口にするようになる。この子どもは国を亡ぼしかねない、と。


 幽閉されて育ったティエンは、いつ処刑されてもおかしくない状況下にいた。国の内情が父王の怒りに触れたのだ。これのせいで国は不幸になる。それが口癖だった。

 なおも、処刑されなかったのは、得体の知れない呪いを恐れたからだ。


「私が病になる度に、周りは喜んだものだ。早く死んでくれと、陰口を言われたよ。だが、私はしぶとかった。体が弱いくせに、いつも生きながらえる」


 表向きでは優しく接してくれる侍女達も、守る近衛兵達も、陰ではティエンを恐れ、早くどうにかしてくれないかと口ずさんでいた。皆、ティエンの死を望んでいた。


 ティエンは孤独だった。

 周りの顔色を窺いながら、毎日を生きなければいけなかった。死にたくない。けれど周りは死を望む。その状況が苦しく、どうすればいいのか分からない日々を送っていた。


「そんな私に、たった一人だけ友として接してくれた奴がいた」


 それが近衛兵のカグムだった。

 彼はティエンが十二の時に出逢った兵で、同い年ということもあり、よく気さくに話し掛けてくれた。周りが蔑む目を向ける中、彼だけは親しく接してくれた。


「あいつに町のことや庶民の暮らし、弓を教えてもらったよ。あの日々は楽しかった」


 救われる思いだった、とティエンは懐かしそうに語る。それだけ、孤独な日々を送っていたのだろう。その表情はさみしそうだ。


「だが、友人と思っていたのは、私だけだった」


 ティエンが十八の誕生日を迎えた日。

 父王の命により離宮を去って、地方の地へ向かった。そこの領地を任されることになったのだ。死を望んでいた父が、まさか自分に土地を任せるとは思わず、ティエンは驚いた。

 また土地を任されたのは、谷と山を越えた先の見知らぬ土地。離宮ばかりにいたティエンは、大きな不安を抱いていた。


 けれど、友のカグムも連れて行けるので、なんとかやっていけるだろうと思った。



 出発して三日目の夜。

 事件は起きる。ティエンは泊まった宿先で、自分を守護するはずの近衛兵達に襲われてしまったのだ。


 それを命じたのは父王本人であり、近衛兵達を指揮したのは、あのタオシュンであった。輩は兵に呪術師をまぎれさせ、ティエンの声を奪うよう命じた。誰にも悲鳴を聞かせないように。それがあの黒蛇だという。


 ティエンは命辛々宿から抜け出し、谷の淵を沿うように逃げ回った。

 周りから死ねと言われ続けていたものの、やはり死ぬことは怖かった。誰かに言われて死ねるほど、ティエンは強い男ではなかった。


 だが、鍛えられた兵達の足から逃れられるはずもなく、ティエンはすぐに追い詰められてしまう。

 悲しいことに、友だと思っていたカグムに剣を向けられ、言い放たれた――やっと貴方を殺せる、国のために死んで欲しい、と。


 ティエンは絶望した。

 同時に恐怖した。彼に殺されるのだと頭で分かった瞬間、足が竦んで動かなくなった。そんなティエンに、問答無用で剣を向け、カグムは彼を切りつけて谷に突き落とした。

 これがティエンのいう、とどめを刺した真相だ。


「落ちていく最中、私は夜の雲の切れ間から、麒麟が翔け降りてくる姿を目にした。それが夢なのか幻なのかは、定かではないが……私は麒麟の背に乗せられ、風になった記憶がある」


 ふと気が付くと、ティエンは右も左も分からない森の奥地にいた。

 体は擦り傷だらけで、腹部は打撲し、頭からは血を流していたが、助かったのだと直感で思った。


 ティエンは歩いた。とにかく歩き、自分の命を狙う兵達から逃れようと必死になった。

 けれど、それも力尽き、ついに木の下で凭れるように倒れてしまう。

 そこにユンジェが通りかかり、傷付いた彼を見つけたのだ。


「目が覚めた私は、何もかも信じることができなくなっていた。せっかく助けてくれたのに、ユンジェのことすら命を狙う者だと疑心暗鬼になっていたんだ。あの時はすまなかったな。私はお前に懐剣を向けた」


 経緯を聞けば、そうなっても仕方がないことだろう。ユンジェは謝罪してくるティエンに向かって、そっと首を横に振る。


「友を失い、声を失い、居場所を失い……その上、身分の低い農民に拾われた私は、お前に八つ当たりをしていた。こんな子どもが王族に触れるなんて失礼極まりない、と毎日のように思っていた」


 実のところ、ティエンはユンジェを、あまりよく思っていなかった。


 農民のくせに、王族の自分に身の程も弁えず接してくる。

 その上、食事はお粗末で、寝る時は隣に寝ようとする。無礼な子どもだと思った。まさか呪われた第三王子と知って、そういう扱いをしているのでは。

 そう考えては腹を立てていた。卑屈になっていた。


「そんな時だ。お前が痣を作って帰って来たのは。ユンジェは謝罪してきたな。獣が獲れず、米と交換できなかったと。その代わりに、桃饅頭を食べてほしいと」


 ティエンは衝撃を受けた。

 まさか子供が、赤の他人に、髪を売って桃饅頭を買ってくるとは思わなかったのだ。

 王族は髪を大切にする風習がある。そのため、ユンジェの行為がとても重いものに感じられた。


「鈍い私はようやく全てを察した。この家は本当に貧しいのだと。それでもなお、私を面倒看てくれているのだと」


 朝は早くから畑に出て、夜は遅くまで藁で縄やむしろをこしらえる。しかも、家には子どもだけ。


 一人で生活しているのだと知ったティエンは、ただただ言葉を失った。

 米ばかり要求していた自分は、どれだけ子どもを困らせていたのだろう。大人げない振る舞いに、とても気恥ずかしくなった。追い出されてもおかしくない振る舞いばかりしてきた。


 なのに、ユンジェはティエンを家に置いた。

 一緒に畑仕事をしようと誘い、生きる術を懇切丁寧に教えてくれた。苦しい生活でも笑っていた。


 大人の理不尽な仕打ちに耐えながら、それでも懸命に生きようとする子どもの姿を目にして、ティエンは思った。王族を捨て、ユンジェと共に農民として生きよう、と。


 だから髪を切った。

 子どものため、生活の足しになればと思ったのだ。

 また子どもと同じ身分になり、第三王子『ピンイン』の自分は捨てた。王族の自分は、あの夜に死んだのだ。己の名は『ティエン』、これからティエンとして生きる。強く気持ちを固めた。


「私は生かされてばかりだった。何もせずとも、飯と寝床が与えられ、贅沢品を献上された。だが、幸せとは言い難い日々だった」


 誰彼に言われ、それに頷く毎日に、到底生きる実感は湧かなかった。


「ユンジェ。お前に出逢えたこの一年は、しかと自分で生きているのだと思えたんだ」


 農民の生活は不便であった。

 汗水たらしても、満足に食べることができず、ひもじい思いもたくさんした。肉体労働はつらく、寝込むことも多かった。それでもティエンの心は満たされていた。

 その暮らしの中で、生きる実感と、大切な繋がりを得ていたのだから。

 兄のように慕ってくれる子どもと二人で生活する日々は、孤独だったティエンにとって、かけがえのものとなっていた。


「ユンジェだけだった。誰もが私の死を望んでいたのに、お前は必死に走り、よく考え、守ろうとしてくれた。そんなお前につけてもらった『ティエン』という名は私の誇りなんだ」


 それこそ王族の自尊心よりも、品位よりも、ずっと気高いものだと彼は柔和に頬を緩める。

 農民であり続けようとするのは、子どもと対等でありたいがため。血の繋がった家族よりも、深い繋がりを得たためだとティエンは嬉しそうに語った。


 ユンジェは口を曲げて、ふうんと鼻を鳴らす。見え見えの照れ隠しであった。


「それに、私が農民を名乗ることは、カグム達にとっても不都合極まりない。ユンジェ、お前も感じていると思うが、農民は平民の中で最も立場が弱い」


 それはユンジェにも理解ができた。対等な立場であれば、一方的な物々交換を強いられることもないのだから。


「わざわざ間諜として、敵兵にまぎれていたのだ。ここにいる者達は、おおよそ呪われた王子をまつりごとに利用したいのだろう。でなければ、『保護』などするものか」


「ティエンが農民だと、カグム達は利用できないの?」


 彼は小さく頷いた。

 曰く、ピンイン王子の『保護』は麟ノ国に深く関わるものであり、政が絡んでいると断言して良い。


 麟ノ国を変えたいのか、王族を討ちたいのか、はたまた別の目的があってのことなのか。なんにせよ、麟ノ国と王族に関わる内容だろうとティエン。


 呪われた王子を利用したい彼らは、ピンイン王子に『王族』のままでいてもらわなければ困る。

 王族の肩書きは強い。それがあるだけで、国が動かせる。なのに、力の弱い農民に成り下がられては、目的を達することも、利用をすることもできない。


 今頃、カグム達は焦っていることだろう。ティエンは薄ら笑いを浮かべた。


「私は今まで頷くばかりの人間だった。人の言うことはなんでも聞く人間だった。ゆえにこれは、向こうにとって想定外のことだろう。またユンジェ、お前の存在も輩達にとって、予想できない存在だった」


 ユンジェは目を丸くする。


「お前は私の懐剣を抜いた者。すなわち、麒麟に使命を与えられた者だ」


 あれは麟ノ国王族にのみ、持つことが許される麟ノ懐剣。麒麟の角を磨き上げ、刃にしたと云われているもの。


 それには麒麟の心魂が宿っており、王族以外の人間には抜くことができない。持っていれば、麒麟と対話ができると信じられている。

 王族は皆、加護を宿した黄玉トパーズを鞘に装飾し、それを懐剣ふところがたなとして肌身離さず持つのだそうだ。


 ティエンは麒麟から加護を受けられずにいたが、懐剣は抜くことができた。加護が宿らなかったからこそ、誰よりも大切に持っていたそうだ。


「懐剣の殆どは、所有者の王族が持つだけに終わる。しかし稀に王族以外の者が、懐剣を抜くことがある。それが麒麟に使命を与えられた者だ」


 包帯を替え終わると、ティエンが衣を肩まで引き戻し、ユンジェを見つめた。

 その目を見つめ返し、傍に置いていた懐剣を手繰り寄せる。鞘に注目すると、装飾された黄玉トパーズに小さな炎が宿り、ゆらゆらと体を揺らしていた。


「これは?」

「麒麟の加護だ。私はようやく一人前の王族になれたようだな。十八年掛かってしまったが」


 十八年前に宿ってくれたら、どれだけ良かったか。彼は吐息をついた。


「麒麟は王族に加護を与え、国を守るよう使命を授ける。その王族の所有する懐剣を、お前は抜いてしまった。お前は所有者に関わる使命を、麒麟から授かったんだ」


 麒麟の心魂が宿った懐剣は、麒麟の使命に合わせて力を発揮し、時に麒麟そのものが天から降りてくると云われている。

 ユンジェは麒麟に選ばれた。その小さな背中に使命を授かった。所有者を守護する、という大きな使命を。


 その肩書きは麒麟の使いだと、ティエンは静かに語った。


(使い、ね)


 では、先ほどカグムの短剣を簡単に折ってしまったのは、剣を向けてくる輩から所有者を守るために力が発揮されたのか。ユンジェは懐剣をいつまでも見つめる。


「昔、カグムがこれ半分ほど抜いたことがあった。だが途中で気分が悪くなり、すべてを抜くことは叶わなかった」


 似た経験をしているユンジェは、胸に秘めていた冬の日の行いを告白する。


「じつは俺も、お前に黙って半分くらい抜いたことがあったんだ。でも気分が悪くなってやめちまった」


 ユンジェは夢で見た麒麟を思い出す。


 あれは、使命を与えようとしていた。しかし、与えようとするだけで強制はしなかった。受け取るかどうかは、本人の意思に委ねている様子であった。


 あの時のユンジェは戸惑うばかりで、使命について深く考えたことはなかったが、懐剣を抜いた今なら分かる。 

 抜くためには、それ相応の大きな覚悟が必要だったのだ。責務を果たすことができるかどうか、それを麒麟は見抜いていたに違いない。


「俺はこれを抜く時、絶対に死ねないって思ったんだ。俺が死んだら、お前はひとりになる。約束が守れなくなる……って。最後まで巻き込めって言ったのは俺なのに、死んだら元も子もないもんな」


 ユンジェの強い意思と覚悟が、懐剣を抜く力に変えたのだろう。


「俺が麒麟に与えられた使命はお前を守り、生かすこと。お前を守護する懐剣になることだ」


 麒麟はティエンに生きてもらいたいのだろう。

 その証拠にカグムに切られ谷から落ちた時も、タオシュン達に追い詰められた時も、荒れ狂う急流に落ちた時も、麒麟は天から降りて手を差し伸べた。すべてはティエンを生かすために。


「俺もティエンに生きてほしい。お前が呪われた王子だろうと、周りが死ねと願おうと、俺はお前に生きてもらいたいよ」


 見つめてくるティエンの目が小さく笑う。

 それはどこか、物言いたげな顔であったため、「謝ったら怒るからな」と、釘を刺しておいた。

 ユンジェは謝ってほしくなどなかった。感謝されたいわけでもなかった。ただ一言、返して欲しかった。「生きる」と。


「誰かに望まれたからって、簡単に死ぬな。ティエンの死に場所はここじゃない」


 真剣に物申しているというのに、彼の表情は柔らかい。表情を崩したまま、小さく頷く。


「分かっているさ。私は謝らない。お前を巻き込む覚悟は、とうに決めている。私はもう、誰の指図も受けない」


 ティエンの声が掠れた。ユンジェの額に、彼の額が重なってくる。

 頭に添えてくる両手が震えていた。ユンジェは泣いてもいなければ、傷付いてもいない。

 なのに、ティエンは子ども扱いしてくる。慰めようとしてくる。額を強く合わせてくる。仕方がないので、ユンジェは黙って慰められることにする。


「俺は最後まで傍にいるからさ。ちゃんと巻き込まれてやるから」


 形は違えど、ユンジェもティエンも孤独であった。ひとりの無力さを、侘しさを、つらさを知っている。知っているからこそ。


「ここではもう無理だけど、遠いところで土地を探して畑でも耕そう。また芋や豆を育てよう。二人で一緒に」


 だから。


「生きよう、ティエン。よく考えて、生き続ける方法を考えよう」


「死ねと言われ慣れているせいか、面と向かって生きろと言われると、なんだか照れくさいな」


 数滴、懐剣に零れ落ちてくるそれを見つめ、ユンジェはひたすら彼の言葉を待つ。


「ユンジェ。私は這ってでも生きる。誰に望まれようとも、私はお前と生き続ける。死んでやるものか。簡単に死んでやるものかっ。私の死に場所は、私が決める」


 その言葉が聞けるまで、じっと息を潜めた。




 ユンジェにはピンイン王子の呪いだとか、王族の内情だとか、政の利用だとか、国の難しい話はよく分からない。


 しかし、人と人が複雑に絡み合い、傷付け傷付きあう現実があることは知っている。


「お待たせ。終わったよ」


 包帯を替え終わったユンジェは、天幕の外で待つカグムに声を掛けた。

 ずいぶんと時間が経ったのにも関わらず、彼は文句のひとつも言わず待っていた。どこか、ぼんやりとした顔ではあったが、ひたすら終わる時間を待ってくれていた。


 二人の時間を尊重してくれたのだろう。


「お疲れユンジェ、ピンインに夕餉を持ってくると伝え……ピンインさまに伝えてくれ」


 昔の名残があるのか、カグムは彼の名前を呼び捨てにした。とても親しかったのだろう。


 ユンジェは二人の過去に触れるつもりはない。

 なんでティエンを裏切ったのだとか、どうしてトドメを刺したのに、一年も探し回っていたのか、だとか。


 そんなこと部外者が根掘り葉掘り聞いたところで、それは野暮というものだ。


 ただ、ひとつ。彼に聞きたいことがある。


「カグム。お前さ、わざとティエンを怒らせたんじゃないのか?」


 ティエンと親しかった彼なら、ある程度予測していたはずだ。身分を理由に、ティエンとユンジェを離そうとしたら、どうなるのか。

 ユンジェから包帯の入った布袋を受け取り、カグムは意味深に笑うと、頭をぐしゃぐしゃに撫でてくる。そしてわざとらしい声の大きさで、ユンジェに告げた。


「必ずや、このカグムがユンジェをお預かりします。貴方の力は、この目の拝見させて頂きました――麒麟の使いは我々のものです」


 天幕の内から激しい物音が聞こえた。

 間もなく顔を出す、殺気溢れたティエンに目で笑うとカグムは恭しく頭を下げて、その場を去った。


(やっぱりわざとじゃん)


 ユンジェはティエンに呼ばれるまで、カグムの背中を見送り続けた。


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