八.麟ノ国第三王子ピンイン(壱)



 ユンジェは吊り橋を渡った先にある渓谷の、広い洞窟に身を隠していた。

 そこは謀反人の間諜と呼ばれる者達の隠れ場となっており、中に入ると人間が快適に過ごせるよう、松明たいまつが焚かれ、三つの天幕が張られていた。


 洞窟の奥には、岩で囲まれた水場があり、その中では迷い込んできた川魚が泳いでいる。人が暮らしていくには十分な環境であった。

 謀反人の間諜は怪我を負ったティエンは勿論のこと、ユンジェにも親切にしてくれる。


 彼とは別の天幕に連れられてしまったものの、丁寧な手当てを施してくれた。

 それだけでなく、温かな汁物と握り飯をくれる。至れり尽くせりとは、まさにこのことであった。


「すまんかったな。助けてやれんで」


 ユンジェを世話してくれたのは、カグムという若い青年。

 歳はティエンと同じくらいであろうか。端正な顔をしているのに、笑うと幼く見える、感じの良い男であった。


 彼は真摯に詫びた。それは、ユンジェが甚振られている時、助けに行けなかったことについてだ。


 曰く、彼らの目的はピンイン王子の保護。

 そのために、間諜の身分を隠して、兵にまぎれていた。安易に飛び出せば、王子を助ける機会を失ってしまう。


 だから見て見ぬふりをすることしかできなかったのだと、カグムは申し訳なさそうに眉を下げた。


「あれは許されることじゃない。それが分かっていたというのに、俺は何もできなかった。本当にすまない。お前にはつらい思いをさせてしまったな」


「カグムのせいじゃない。タオシュンのせいだよ」


 ユンジェはかぶりを横に振る。

 結果的に助けてもらったのだ。あの時のことは、誰も文句が言えまい。寧ろ、美味い飯にありつけている今に感謝したいくらいだ。


「ティエン……じゃない、ピンイン王子は大丈夫なの?」


 食事を終えたユンジェは、カグムにティエンの容態について尋ねた。本当はすぐにでも傍に行き、彼の看病をしてやりたい。


 けれど、同じ天幕にいることすらユンジェは許されなかった。


 彼は本当に高い身分なのだろう。どんなに頼み込んでも、首を横に振られてしまった。農民が傍にいるのは好ましくないらしい。



(ティエンが目を覚ましたら、たくさん聞きたいことがあったのに)



 あんなに近かった彼の存在が、ひどく遠く思える。


 浮かない顔を作るユンジェに、カグムは勘違いをしたのだろう。命に別条はないと返事した。


「ピンイン王子なら大丈夫。傷は縫ったし、高い熱も出していない。よく眠られているよ。びっくりするほど、逞しくなられている。あの方は体が弱くてな。昔はしょっちゅう熱を出して、寝込んでいたんだ」


 容易に想像ができる。彼を拾った数か月も、よく熱を出して、床に入っていたものだ。


「あれだけの傷を負っても、高い熱を出していないなんて。人は大きく変われるもんなんだな」


「昔話が出るってことは、ピンイン王子と仲が良かったの?」


「あーまあ……近衛兵このえへいだったから、とでも言っておくよ」


 歯切れが悪い。仲が良くないのだろうか。


「カグム、近衛兵って?」


「専属の親兵のことだ」


「うーんっと」


「まだ難しいか? そうだな。簡単に言うと、君主を守る人間だ。俺はピンイン王子を守る兵だったんだ」


 だった。ということは、もう違うのか。

 ユンジェは相手の表情を一瞥し、無用な詮索は控えることにした。


(王子って守られる存在なのか。なら、ティエンってすごく偉いんだろうな)


 なのに、命を狙われていたのだから訳が分からない。カグムに真相を聞きたかったが、ぐっと堪えた。

 そういう話はティエン自身から聞くと決めている。


「坊主がピンイン王子を匿ってくれていたんだな。ありがとう。お前さんが油屋で盗み聞きしていた時は、俺達と同じ間諜だと思って警戒していたんだが……どうやら思い過ごしだったようだな」


 カグムが礼を告げてきた。

 彼は仲間と一年間ピンイン王子を探していたのだと、話してくれる。感謝をされることは悪い気持ちではないが、ひとまずカグムには言っておきたいことがある。


「……俺、ユンジェっていうんだけど」


 坊主ではない。不満気に言うと、カグムが大笑いした。すまんすまん、と片手を出してくる。


 唇を尖らせて不貞腐れ面を作っていたユンジェだが、カグムが盗み聞きしていた自分の姿を見ていた、という発言に時間差で驚いてしまう。


 では、あそこで感じた悪寒がするような視線はカグムだったのか。


「俺は盗み聞きするお前が間諜だと怪しみ、町を出るまでつけていた。妙な動きを見せれば、速攻で捕らえるつもりだったんだが……お前は賢かった。おかげさまで、余計に怪しんだよ」


 ユンジェには間諜という意味が分からない。しかし、なんとなくカグムが言いたいことは分かったので、それに答えた。


「だって。あそこで俺が取り乱せば、王子の行方を知っていると言っているようなものじゃん。俺が捕まれば、あいつのことを喋らされるだろうし、あいつも危なくなる。それだけは避けたかったんだ」


「自分だけ逃げる、という考えには至らなかったのか?」


「俺があいつを拾ったのに、最後は見捨てて終わり、なんて後味悪いじゃんか」


 そんなことができるなら、まず彼を拾っていない。ユンジェはきっぱりと言いきった。


「じゃあ、もう一つ。じつはお前の家に向かった、兵の中に俺達の仲間がいた。隙を見て、ピンイン王子を保護するつもりだったんだが、途中で邪魔が入り、家に閉じ込められた」


 ありゃ。ユンジェは冷汗を流し、目を泳がせた。それの邪魔をしたのは、まぎれもなく自分である。


「あ、あれは仕方がなかったんだぞ! あいつ、顔に怪我をしていたし……取り押さえられていたから、その、はやく助けなきゃと思って」


 語尾が萎んでいく。

 どう言い訳しようが、カグムの仲間をすきで殴り、家に閉じ込めた事実は変わらない。後で謝罪しなければいけないだろう。


 しかし、カグムは詫びの言葉を聞きたいわけではなく、ユンジェに疑問をぶつけてきた。

 なぜ、あの時、家で火を焚いたのかと。

 それも仲間に聞いたのだろう。真剣に尋ねてくる彼に、ユンジェは首を傾げた。そんなの決まっているではないか。


「不意打ちと、敵の数を減らすためだよ。大人に真っ向から勝負して勝てるわけないじゃんか。雨の日に家から白煙が出ていたら、誰かが様子を見に来るだろ?」


 そこにユンジェの、さも今、帰宅した台詞をつければ、必ず様子を見に来る。

 あの場にいた大人は三人。ティエンは二人がかりで押さえつけられていた。必然的に一人で来ると計算ができる。


「大人は強い。そこに纏まった数がいたら、力のある厚い壁だ。だから、数をばらけさせたんだ。大人一人相手に不意打ちでなら、俺でも勝てるしね」


 説明に耳を傾けていたカグムが、小さく噴き出す。

 何もおかしいことは言っていないというのに、彼はユンジェを恐ろしい子どもだ、と言って笑いをかみ殺す。


 そんなカグムの言葉こそ、ユンジェはおかしいと思ってならない。


「恐ろしくも何もないじゃん。俺はあいつと逃げるために、自分にできることを考えただけだよ。カグムだってピンイン王子を助けるために、敵にまぎれようと考えたんじゃないの?」


「俺は間諜という役目があって、敵兵にまぎれていたんだ。けどお前は違う。普通ガキってのは、兵三人相手に、考えて立ち向かおうとしないんだよ」


 それをやってのけたユンジェは勇敢であり、無謀な奴だとカグム。褒められているのか、貶されているのか分からない。


 ただ、これだけは言える。


「そうしないと、あいつと逃げられなかったから、そうしただけ。べつに立ち向かったわけじゃないんだ。俺は弱いしね」


 するとカグムは、まなじりを和らげ、感心したように小さく頷いた。


「己の力量を知っているお前は、やっぱり賢い奴だよ」


 末恐ろしいガキだと、いつまでも笑っていた。




 カグムはとても面倒見の良い男であった。

 ティエンに会いたがるユンジェの気持ちを汲み、彼の分まで話し相手になってくれた。そのおかげで幾分、心は軽くなったが、彼を心配する気持ちは変わらない。


 一目だけでも会わせてもらえれば、心配する気持ちも軽減するのに。


 また、ユンジェ自身も怪我人だ。長い時間は起きていられず、人目を盗んでティエンに会いに行くこともできない。

 行動を起こしたところで、動きの鈍い体では、天幕の前で見つかるのが関の山だろう。


(……ティエン。本当は怪我が酷いんじゃ。命に別条はないって言ってたけど)


 床に入る度に、ユンジェは暗い思考に襲われてしまう。今も瞼の裏に焼きついている。ティエンが己を庇う、痛々しい光景を。


 あの時、注意を払って吊り橋へ向かうべきだったのに、ユンジェはそれを怠ってしまった。

 どうして、もっとよく考えて動かなかったのだろう。あれは回避できたことなのに。


 ああ、吊り橋が見えたことで、気持ちが先走ってしまった。出口がそこにあると、気が緩んでしまった。それがこの結果だ。

 危機感が足りなかった自分に、嫌悪したくなる。ティエンが怪我を負ったのは自分のせいだ。あそこの判断さえ間違えなければ、彼は傷を負うことがなかった。タオシュン達に捕まることもなかった。痛い思いをさせなかった。


(ごめん。ティエン。本当にごめん)


 押し潰されそうな孤独に耐えるために、ティエンの懐剣を腕に抱く。


 けれど、それを見る度にタオシュンの首を躊躇なく刺した、非道な己が蘇ってくる。

 ユンジェはまた罪を犯してしまった。

 あの男は血しぶきを上げながら大刀を振っていたが、あの後どうしてしまったのだろう。死んでしまったのだろうか。


 相手はティエンに苦しみを味わわせようとした、外道畜生だ。同情する余地など何処にもない。分かっている、分かっているのに。


(変だよな。襲われたのは俺なのに、心苦しい思いをするのも俺なんだから)


 追い剥ぎも、タオシュンも、殺意を持って襲ってきた。

 ユンジェはそれから逃げようと必死であった。生き延びようとした。その結果が人殺しだなんて、まったく笑えない。


(……俺、ろくな死に方しないな。それでもいい。天に裁かれてもいい。ただ、ティエンは取り上げないで欲しい。じじの時のように、あいつまで取り上げないで欲しい。それをされるくらいなら、この身に裁きを受けたい)


 ユンジェは懐剣を腕に抱きなおすと、浅い眠りに就く。

 彼が目を覚ましたら、たくさん話したいことがある。謝罪したいこともある。この懐剣や麒麟、王子についても、彼から聞かなければ。


(はやくティエンが目を覚まして、元気になりますように)


 遠のく意識の中で、ユンジェは強く願った。






「――……だっ! ……いない……王子っ! ……誰かっ!……」



 ようやく眠りが深くなり始めたところで、ユンジェの意識が浮上する。

 天幕の外で、何やら騒がしい声が聞こえる。まだ夜明け前だというのに。もしや敵に居所がばれてしまったのだろうか。


(むり。起きれねーよ)


 騒ぎを知りたい好奇心はあるが体は痛く、重たく、まるで鉛のよう。

 まだ眠っておきたい。誰かが起こしに来るまで、もうひと眠りしよう。非常事態であれば、誰かが来るだろう。ユンジェはゆるりと瞼を閉じた。


 ふっと腹を優しく叩かれる。

 それは昔、よくじじにしてもらったこと。ユンジェが怖がったり、怯えたり、不安になると、いつも腹を叩いてあやしてくれた。


 これは夢だろうか。いや違う。優しいぬくもりが、ここにある。

 目を開け、急いで顔を持ち上げた。小さな笑声が聞こえたと思ったら、いたずらっぽく髪を撫ぜられる。その笑い声には、しっかりと音があった。聞き慣れたものであったが、よく耳にしていた、掠れるばかりの笑い声ではない。


 高くも低くもない、安心する声の正体を知るべく、体を起こす。


「てぃ、えん?」


 その正体は、彼であって欲しいと願った。

 そして、それが本当に叶った時、ユンジェはどんな顔をすればいいのか分からなくなる。

 嬉しいとか、驚いたとか、そんな感情は吹き飛んでしまった。


 暗い天幕の内で、己を見つめてくる美しい顔と向かい合い、いつまでも呆けてしまう。

 やはりこれは、夢なのではないだろうか。ティエンがこんなところにいるはずがない。彼は別の天幕で療養しているはずなのだから。


 なのに。ユンジェが口を開けた瞬間、ティエンの長い人差し指が制してくる。


 その指が天幕の入り口に向けられた。

 耳をすませると、男達の焦った声が聞こえてくる。ピンイン王子はどこだ。なぜ天幕にいない。見張りは何をしていたのだ――と。


「お、お前っ。黙って抜け出してきたのかっ」


 いや手始めに意識を取り戻していたのか、と言葉を投げるべきか。いやいや、まずティエンが此処にいる意味を問うべきか。

 ユンジェは混乱してしまう。寝起きの頭では、何も考えられなかった。


 そんなユンジェを目で笑い、ティエンが答えた。いつものようの目で訴えるのではなく、己の口で、声で、言葉で、はっきりと。


「こうでもしないと、お前に会えないと思ったんだ。私は誰よりも、一番にユンジェに会いたかった。今のように向かい合い、言葉を交わしたかった」


 ティエンは少し前から、目を覚ましていたそうだ。しかし、天幕を抜け出す機会を窺うため、眠る振りを続けていたという。


 何故なら、周りの人間がユンジェと会う邪魔をすると分かっていたからだ。

 彼は天幕の内から聞いていた。ユンジェが必死になって、ティエンに会わせて欲しいと頼み込み、それを断り続けられた一連の流れを。


「兵は誰ひとり、お前を通そうとはしなかった。ユンジェは私の大切な恩人で、家族だというのに……だったらもう、私から行く他に手はないと思ってな」


 それがこの騒動らしい。

 今頃、天幕の外ではピンイン王子が姿を消したことに、てんてこ舞いになっているはずだ。彼は面白おかしく語った。


 だが笑い話では済まされない。ユンジェは血相を変えた。


「なっ、なに無茶をしているんだよ。お前、傷を縫っているんだぞ。下手に動けば、傷が開くかもしれないのに。時間が経てば、俺に会う機会なんて、いくらでも作れたじゃないか」


「私はお前と違って、我慢が苦手なんだ。ユンジェの下に行くためなら、無茶だってするさ。さあ、少しは褒めておくれ。叱られてばかりでは、私の努力が報われないだろう? 感謝してくれてもいいぞ」


 なんとまあ、口を開けば偉そうなこと。偉そうなこと。


 ユンジェが想像していた以上に、ティエンは上から物を言う男であった。

 さすが高い身分にいる男。まったくもって可愛げない。口が利けない方が、まだ可愛げがあった。


 頭の片隅で毒づくも、そんなティエンでも良いと思う自分がいた。

 だって、目を覚ましたティエンがそこにいるのだ。これ以上に何を望むというのだろう。


「あ、あのさ」


 ユンジェは真っ先に謝ろうと思った。いや、先に心配の言葉を投げようと思った。違う、懐剣や麒麟の話を振ろうと考えた。


 その結果、何も言えずに失敗してしまった。

 言葉が出ないのだ。どうしたって喉元で突っかかってしまう。喉の奥が燃えるように熱く、苦く、しょっぱい。


「おっ、おれ。ティエンっ……けがっ……」


 やっとの思いで言葉を絞り出すも、「ユンジェ」と、名前を呼ばれてしまい、また失敗してしまう。謝れると思ったのに。


 忙しなく肩を上下に動かしていると、ティエンが背中を擦ってきた。


「目を覚ました時から、ずっと懸念していた。お前のことだから、色んなことを背負い込んで、心に溜め込んでいるんじゃないかと。自分を責めているんじゃないかと」


 本当に気が気ではなかった。彼はす、と目を細める。


「ユンジェ、お前は私と違って辛抱強い。いつもそうだった。出逢った頃の私が食事に我儘を見せても、塩屋の主人に砂糖をぼったくられても、大人達から理不尽なことをされても、怒ることすらしなかった。お前はいつも仕方がない、と流していた」


 そうしないと、生きていけない環境にいたユンジェの心を、ティエンはいつも心配していたという。

 溜め込むばかりで、吐き出すことをしないこの子どもは、いずれ自滅して心を壊してしまうのではないか、と。


 追い剥ぎの話を聞いた時、それが本当になりそうで恐怖した、と彼は苦言する。


「だから私は決めていた。声が戻ったら、ユンジェに心の吐き方を教えようと――ユンジェ、感情を出すことは許されることなんだ。お前はもっと怒っていい。自分のことで怒っていいんだぞ」


 ティエンは何を言っているのだ。ユンジェの中に怒りなどない。

 寧ろ、あるのは申し訳なさや心配、罪悪感ばかりなのに。彼は怒れと言う。訳が分からない。本当に訳が分からない。


「よく分かんないよ。おれ、べつに怒りたくないよ」


 だからユンジェは、ティエンの言葉を突っぱねた。

 意味が分からないと言って、上ずった声で返事し、それよりも怪我の具合はどうなのだと尋ねた。必死に話題を替えようとした。


 なのに。ティエンはいつまでも、黙ったまま見つめてくる。ユンジェの気持ちを汲んでくれない。

 ついつい腹が立ってしまった。


「お前は何がしたいんだよ。くそっ、怪我しているくせに……俺を庇ったばっかりに、怪我をしたんだぞ! 分かってるのか、ティエン!」


 体が弱い癖に、なんで庇ったんだと怒鳴ってしまった。

 ティエンが倒れた時、本当に心臓が凍るかと思った。目が覚めない間、死を想像しては頭がおかしくなりそうだった。

 心配させるなと体を叩いた。謝ろうと思っていた気持ちが消え、癇癪を起こしてしまった。


 芋づるにタオシュンに対する怒りがこみ上げる。


 なんでか、追い剥ぎのことも思い出して、毒を吐いた。油屋の主人のことも思い出した。自分を残して死んでしまったじじにまで、その怒りの矛先が向いた。


 ずっと蓋していた感情が、わき水のようにこぼれ落ちていく。子どものように泣き喚く歳は、とうに過ぎたと思っていたのに。


「なんで俺ばっかりっ、我慢しなきゃいけないんだよ。痛い思いしなきゃいけないんだよ。苦しい思いしないといけないんだよっ。おれ、何も悪いことしていないのにっ」


「ああ。そうだな」


「きらいだっ、こんな思いをさせる奴等なんて。もう嫌だよ。俺をひとりにするなよ。消えるなよ。置いて行くなよ。苦しくて消えたいのは――俺の方だよっ!」


 ユンジェは癇癪を起こしたまま、ティエンのひざ元に顔を埋めて泣きじゃくった。これこそユンジェの本音であった。


「それは困るな。私が困る。お前が消えたら、誰が畑仕事を教えてくれるんだ。私一人では、生活していけないぞ」


 うるさいと怒鳴るユンジェの癇癪はやがて、心の奥底で眠っていた恐怖や不安、罪悪感を呼び起こす。タオシュン達から受けた痛み、命を狙われた恐れ、兄のように慕っていた男にいつまでも会わせてもらえない悲しみ。どれもユンジェにとって、苦しみでしかなかった。


 それらから逃れたいユンジェは、ティエンに目いっぱい謝った。

 もう何に対して「ごめんなさい」と、言っているのか分からない。ただ楽になりたい一心で謝り続けた。心はぐちゃぐちゃだった。


「謝りたいのは私の方だ。お前にはどれほど迷惑を掛けてきたか……悪かったな、ユンジェ。本当にすまなかった。心細い思いをさせたな。私はもう、大丈夫だ。ユンジェ、大丈夫」


 じじがいつも口ずさんでいた「大丈夫」の呪文が、一層涙を誘う。

 悔しい。もう十四になったというのに、いつもティエンに心を見通されてしまう。これじゃあ、いつまでも子ども扱いだ。


「ピンインさま。ここにいらっしゃ……ユンジェ」


 泣き声が天幕の外にまで響いていたのだろう。カグムがお供を連れて、中に入ってくる。

 誰が来ても構わなかった。そんな余裕、欠片もないのだから。


 ユンジェは、頭を撫でてくれるティエンに縋って泣き続けた。

 心細かったと声を上げ、本気で泣き続けた。甘えを許してくれた男のひざ元で、空っぽになるまで心を吐き続けた。



 ◆◆



 ティエンは泣き疲れた子どもに、寝具用の衣を掛けてやる。

 ずいぶんと心労が溜まっていたようだ。自分が別の天幕にいる間、ずっと自責していたのだろう。


 この子は頭が良い。とても考える子だ。

 その分、考えなくてもいいことまで、難しく考えてしまう。これはユンジェの強みであり、弱みだろう。


 子どもの傍に置いている懐剣に視線を留める。


(あろうことか、ユンジェが懐剣を抜いてしまった。この子の運命は大きく変わってしまった。私はお前を巻き込んでばかりだな……と、言ったら、またお前は怒るんだろうな。自分のことでは怒らないくせに)


 ティエンは考える。

 ユンジェが物事をよく考えるように、自分も懐剣を見つめ、よく考えた。


 さて、これからどうするべきだろう。


「ピンインさま。どうか、お戻りください。この天幕は平民が使用する、粗末なものです。王族の貴方様がいるべき場所ではございません」


 待機していたカグムが、頃合いを見計らったように声を掛けてくる。


 他者と共に片膝をつき、恭しい振る舞いをする男の姿に、腹を抱えて笑いそうになった。


 この近衛兵はティエンを『なきもの』にしようとした男の一人。己に刃を向けた者。トドメを刺した者。

 それが、またこうやって頭を下げてくるとは――それも間諜として己を救う側に回ったとは、にわかに信じられないもの。


 その肚に一体、何を隠している。


「なっ。ピンインさま。何をしているのです!」


 カグム達の驚く声を余所に、ティエンは彼等と向き合うと、膝を折り畳んで平伏した。

 王族が平民に頭を下げる行為が、どれほど重く恥辱であるか、彼らは分かっている。


 だからこそ青い顔を作り、戸惑いを見せた。


(これでいい)


 いまの自分に王族の自尊心など爪先もない。

 ティエンは忍び笑いを浮かべ、頭を下げたまま、こう告げる。


「お心遣い、まことにありがとうございます。しかしながら私は農民、卑賎の身。この天幕にいるべき者にございます。どうかユンジェと此処に置いて下さいませ」


「ピンインさま!」



「私の名前はティエン――ピンインは一年前の『あの日』に天上しました」



 呪われし王族の己は勿論のこと、懐剣を抜いた子どもが利用される未来も、容易に想像できる。


 それだけはさせない、絶対に。


 ティエンは両の手から色が無くなるほど、強い力で握りこぶしを作った。


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