魔王と宰相
魔王サタン・アン・ヒルデンの執務室は、簡素である。やるからには派手にやる、ということで有名な魔王のことだから、豪華絢爛だろうと民からは思われているが、そんなことはない。
サタンの執務室は、光る物も飾り物もない。あるとしたら、書類仕事をするための机と畳、それから資料を仕舞う本棚があるだけだ。壁も白ではなく苔色で、目に優しい色となっている。
官吏、庶民に限らず、家を持つグルーテリュスの自室は裸足で過ごすのが普通だ。魔王の自室も例外に漏れないが、執務室は仕事場となるので、土足で入れるようになっている。
だが、サタンの執務室の場合は土足で入れるようにはなっているものの、サタンの文机の下には畳が敷かれている。
本人曰く、こちらのほうが集中できるから、らしい。だが、魔王補佐官であるルシウスは知っている。たまに寝転がって、そのまま昼寝していることを。
そして、それは現在進行形である。
ルシウスは文机の横で寝転がり、膝を立てて、くうくうと寝息を立てるサタンを見下ろして、眉間に皺を寄せた。
「魔王」
静かな声でサタンを呼ぶ。
「狸寝入りしても無駄です」
するとサタンが目を開き、ルシウスを見た。
「お前、よく分かったな」
サタンが感心した様子で呟き、ルシウスはわざとらしく盛大な溜め息をついた。
「貴方はそんな寝方はしないでしょう」
「さすがに、自分が寝ている時の様子は分からんな。俺様はどんな寝方をしているんだ?」
「言うと思いで?」
「言わないだろうな。俺様が真似し始めるだろうから」
「真似という言葉は、見てから言いなさい」
吐き捨てるように言いながら、ルシウスは手に持っていた書類の山を畳の上に置いた。
「通行税に関する書類です。サインをお願いします」
サタンは寝転がりながら、書類の一枚を手に取った。書類に書かれている内容を見て、サタンは顔をしかめる。
「街道に外灯なんか付けたら、ルタポが寄ってくるだろうに」
「街道が明るいと、安心するという商人と民の要望に応えるとかで」
「書類作成したのは……ヴァンパイアのハテノ地官か。ヴァンパイアなのに外灯の設置か」
「彼らが苦手なのは太陽光ですからね。人工の光なら、抵抗がないのでしょう」
目を眇め、サタンは片手で書類を泳がせる。
「確かに暗いな。だが、光を極端に嫌うルタポには効果的だが、光を好むルタポが寄ってくる。どうしてもやるというのなら、赤い光を利用するしかないな」
「赤い街道、ですか。むしろ恐がりそうですね」
「慣れたらそうでもないな。いっそ名物にするか?」
「慣れるまで時間が掛かりますから、名物は無理でしょう。街道は一つではありませんし、一つだけ外灯を設置するのは、民が不満がります」
「わかっているさ」
サタンは頷いて、書類をルシウスに渡す。ルシウスは無言で書類を受け取り、サタンに視線を向けた。
「光に集まってくるルタポは、比較的弱いのばかりだが、寄ってこないことに越したことはない。だが、子供が怖がる、と苦情が来たら面倒なことこの上ない」
「そうですね」
「それに赤い光がルタポに効くか、実験してみないといかん。ルシウスの言うとおり、街道は一つだけじゃない。全ての街道に付けるとなると、かなりの金と時間が掛かる」
「引き継いだ習性が、そのまま反映されているか分かりませんからね……とりあえず、保留でよろしいでしょうか?」
「ああ。会議でどういうつもりか、ゆっくりと話し合う必要がある。採用するかはそれからだ」
ルシウスは頷いた。
「分かりました。ですが、ちゃんと座ってから仕事しなさい。昼寝させるために、畳を敷いたわけではないんですからね」
「お前は俺様の母か」
「二児の父親ですが何か?」
「へいへい」
サタンが軽く返事して、上半身を起こす。ルシウスな眉を顰めた。
「返事は、はい、でしょう」
「やはり母ではないか……俺様、お前より上だぞ」
胡座をかくサタンに、ルシウスは僅かに笑みを刷る。目は笑っていなかった。
「ええ、上ですね。身分的には。それは分かっていますよ。ええ、至極光栄なことに、宰相歴は貴方の在位歴と一緒ですよ。そう、なんだかんだで千年一緒にいるのですから、今更といえば今更ですね、ええ」
「千年か。言葉にすると、えらい長い付き合いだな。それはお互い子持ちになるな」
「ただ上だと言い張るのでしたら、それに見合った仕事と態度を見せてくれませんかね?」
「十分に見せているが?」
「仕事はなんだかんだでやっていますね。ええ、本当なら影がやるようなことをやって、余計に動き回るのは目に余りますが、それは今は置いておきましょう」
ルシウスは、片眼鏡の位置を直しながら、ぎろりとサタンを睨めつけた。
「ただ、その態度は単に怠けているだけです! まったく、少しはリズを見習いなさい! だいたい、貴方は」
「ああ、リズで思い出した」
ルシウスの小言を右から左へ流し、サタンは掌に拳をぽんっと叩く。
「リズに話したぞ」
「何をですか」
「本当の出生を」
「はぁ!?」
思わず声を荒らげて、ルシウスは慌てて手で口を覆う。足早に扉に向かい、扉の向こうに誰もいないことを確認し、ささっと元の場所に戻った。
「どこまでですか?」
リズの誕生日の夜。リズの両親を監視していた影が報告しに来たのだ。リズの両親が偽りの勇者を仕立て上げようとしている、と。
それを聞いたサタンが珍しく考え込む姿を見て、真実を言う時期はサタンに任せようと思ったのだ。
だが、予想以上に早かった。
「全部」
「貴方って人は……リズはまだ十歳ですよ? 話すにはまだ早かったのでは」
「ちゃんと考えて話したさ。あれと同じ土俵に立たせないと、公平ではないだろう?」
「で、リズの反応は?」
衝撃から立ち直り、ルシウスはサタンと目線を合わせるため屈む。
「受け入れたものの飲みきれていない、といったところだ。リズのことだ。時間が経てば、飲み込めることだろう」
「もし、リズがあちら側についたら?」
「それはないな。だが、もしもそのような未来が来たとしても、リズの決めたことだ。俺様は否定しない。お前もそうだろう?」
「まあ、あの子が裏切るとは思いませんが……しばらく見守るしかありませんね」
「この話はおしまいだ。とっとと終わらせるぞ」
ルシウスは軽く目を見張った。
「珍しくやる気ですね」
「俺様はいつもやる気に満ち溢れているだろう?」
「ええ。仕事をサボることに対しては、いつもやる気に満ち溢れていますね」
「あははは。褒めても何も出ないぞ」
「貴方の耳は、都合良く湾曲できる天才ですね」
嘆息しながら、ルシウスは立ち上がる。そして、柏手を叩いた。
「さぁ! やる気にある内に、片付けてください! 仕事は通行税に関する書類だけではないんですからね! さぁさぁ!」
「へいへい」
「返事ははい! もしくは分かった!」
「分かった、分かった」
「一回でよろしい!」
「やはりお前、母だな」
サタンが苦笑する。よっこらせ、と声を上げてサタンが文机と向き合った後、扉からコンコン、と音がした。返事をする前に扉は開かれた。
「サタン、いますか? 入りますよ~」
入ってきたのはユリエスだった。
花束を抱えるユリエスに、ルシウスは眉間に指を当てて言った。
「ユリエス様、ちゃんと返事が返ってから、入ってください」
「駄目になっちゃった花を持ってきたんです。ここ、殺風景ですから良いかなって」
「聞いてください」
「前向きに考えろ、ルシウス。前までノックもしなかったんだ。前進したろ?」
「貴方は何百年前のことを言っているんですか。たく……まあ、たしかに華が必要ですね」
「花瓶はどこですか?」
「そこに落ちていますよ」
「俺様の意見はなしか」
「せっかくユリエス様が持ってきてくださったのですよ? 飾る以外ないではないですか」
「では飾りますね~」
のほほんと笑いながら、ユリエスはルシウスに花束を渡して、隅で放置されている花瓶を取りに向かう。
「さてさて、どこに置きましょう?」
「そこに花瓶を置くための台があるので、そこにお願いします」
「なんで床に置いたんだったか」
「前にリズがあの花瓶を落としそうになって、怪我しそうになったからですよ」
「おお、そうだった」
「どんな風に飾りましょうかね~。センスが問われますから、悩みますね~」
微妙に音程が外れた鼻歌を口ずさみながら、うきうきと生け花を生ける彼をサタンが横目で少しだけ眺める。視線を逸らし、サタンは書類のほうに再び目を向けた。
「ユリエス様、それが終わったらリズの所も生けてくれませんか?」
「今はリズがいないので、無理ですね~」
「いない? 今日は家庭教師の日だったはずですが」
「その家庭教師が急遽休みに入ったみたいですよ」
「休み? そのような報告は受けていないのですが」
「ユリエス殿」
サタンが視線を書類からユリエスに移す。その眼光は鋭く、ユリエスは不思議そうに首を傾げた。
「理由は訊いていないか?」
「理由ですか? う~ん……ああ、なんでも親戚が怪我をしたとかで」
サタンが立ち上がる。その拍子に文机が裏返り、書類と墨が畳と床に散りばめられた。
「サタン?」
「ユリエス殿、リズが何処にいるか分かるだろうか?」
「キリランシェロと一緒に城下に行きましたが。レッキーニと一緒のはずですよ」
「リズを追いかけるぞ」
「ちょっと、魔王! どうしたんですか?」
羽織を肩に掛け、部屋から出る準備をし始めたサタンをルシウスが慌てて止める。
サタンはルシウスに視線を向けないまま、一言告げた。
「セシルに親戚はいない」
「なんですって」
「セシルは天涯孤独だ。調べもついている。休みを取るために、嘘をつく奴でもない」
「ということは、誰かの策略だと!?」
ルシウスの顔が青くなる。つまり、リズタルトといる息子のキリランシェロも危ないということだ。
「影」
サタンが呼ぶと、サタンの影から黒い人影が姿を現した。黒いマントで全身を覆い、顔も黒く塗り潰されているように真っ黒で、表情は窺えない。
「セシルが今何処にいるか、大本は何処からか。探せ」
「御意」
頭を下げて影は、サタンの影に溶け込んだ。
「行くぞ、ルシウス」
「はっ!」
ユリエスに軽く会釈をし、二人は急ぎ足で部屋を出て行った。
手を振りながら二人の後ろ姿を見送り、扉の向こうに消えたのを見て、ユリエスが呟く。
「いやはや、あの二人も大きくなりましたね~。すっかり父親だ」
十六年前から、何度も繰り返している言葉を、のほほんと口にして、さらに言葉を紡いだ。
「忠告はしたんですけどね~。さてはて、どうなることやら」
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