第13話 再びしおりの部屋
僕は善人町の駅を降りると、僕が見たあの感動を一刻も早くどうしても伝えたくて、しおりの部屋までノンストップで飛ぶように走っていった。まだ、体はどこかおかしく衰弱していたが、なぜかわけの分からないエネルギーが体の奥底から湧き上がっていて疲れを全く感じなかった。
駅からの十キロ近い距離を一気に走り切り、団地の階段を駆け上がるとしおりの部屋のチャイムをコンマ一秒も惜しんで素早く押した。
しおりはいつものように、長い無音の間の後、無愛想な表情に乗っかった不機嫌な目を開けた扉の間から覗かせた。寝ていたのかいつもより格段に無愛想だ。
「寝ようとしてたんだけど」
言葉に棘があった。でも、僕の興奮は抑えられなかった。
「僕は見たんだ」
「寝ようとしてたんだけど」
「僕は見たんだよ」
「寝ようとしてたんだけど」
しおりの口調に静かな怒気が籠った。
「ごめん」
「なんでそんなに全身汚れているの」
しおりは僕の全身を上から下までジロジロと眺めた。
そう言われて初めて気付いたのだが、よく見れば僕の全身は泥だらけで、指の先からはところどころ血が滲んでいた。僕はよくこんな恰好で電車に乗ってきたなと驚きつつ、やはり、それどころではないと再び叫んだ。
「僕は見たんだ」
「僕はすごいものを見たんだよ」
僕は興奮に目を剥きだし、しおりに迫った。
しかし、しおりは僕の異常な興奮度とは真逆に、氷河期も真っ青な冷め切った表情で僕を見つめ、「ふ~ん」とだけそっけなく言って部屋の中に消えた。でも、カギは掛けられなかった。僕はとりあえず入ってもいいのだなと思い、慌ててしおりの後を追いかけて部屋の中に入った。
いつものように玄関を上がって奥の畳の部屋に入ろうとした。その時だった。
「ダメ」
しおりが叫んだ。僕は突如コンセントを抜かれたロボットのようにピタッと止まった。
「あなたは汚いからこの部屋に入ってはだめよ」
しおりはいつもの畳の部屋から少しきつい口調で言った。
「そこのダイニングならいいわ。フローリングだから」
僕は仕方なくしおりのいる六畳の畳の部屋と襖で仕切られている隣の台所に通じるフローリング敷きのダイニングに正座した。確かに今の僕はどうしようもなく汚れていた。靴下も申し訳ないくらい泥で真っ黒だった。
しおりは、ダイニングと畳の部屋とを仕切っている敷居の前で、僕と向かい合う形で、いつものように体育座りでそこに静かに座った。敷居を挟んで向かい合っている僕たちはなんだかヘンテコだった。
しおりの部屋は、ダイニングも含めて相変わらず何も無かった。変わっているのは六畳間に布団が敷いてあることぐらいだ。
改めてしおりを見ると風呂に入ったばかりなのか、顔が上気してうっすらピンク色にほてっている。色白なしおりの肌にその淡いピンクは絶妙のコントラストで艶めかしさと透明感を際立たせ、僕は一瞬、はっとした。
「で、何を見たの?」
しおりに言われてまたハッと自分がここに来たわけを思い出した。
「僕は見たんだ」
「それはさっき散々聞いたわ」
しおりの機嫌は少し和らいでいた。
―――僕が興奮して一方的にまくしたてる話を、しおりはいつものように眉ひとつ動かさず無表情に聞いていた。
「今度私も行くわ」
全ての話しを聞き終わるとしおりはしばらく目を閉じ沈黙した後、再び目を開け、言った。
「それはダメだよ」
僕は即座に答えた。
「なぜ?」
「だって、君と行ったら僕は孤独ではなくなってしまう。僕は孤独だから死のうとしたんだ」
「そう、残念だわ」
しおりは本当に残念そうに言った。
「ごめんね」
僕はなんだかとても申し訳ない気持ちになった。
「いいのよ。あなたの言ってること分かるから。私も一人で行くべきなんだわ。そういう所なのよ。樹海って」
「僕はアウシュビッツのユダヤ人たちはとても不幸な人たちだと思っていたよ」
「人は外からは分からないものよ」
「うん」
僕はしおりに話をしに来て良かったと思った。
「ところで、この部屋には何かいるね」
僕はふすまを隔てた隣の四畳半の部屋でふと何かを感じて言った。
「そうよ。幽霊がいるわ。頭の禿げたおじいさんの幽霊よ」
「えっ」
「この部屋に越してきて、半年で気付いたわ」
「ええっ、それでまだ住んでるの。それに気づくまでになんか、ちょっと時間かかってるとこがまた気になるけど・・、」
「孤独な独居老人よ。自殺ね。今じゃ珍しくもないわ」
「君は・・・・、怖くないの・・・、」
「全然。怖くなんかないわ」
「君は強いんだね」
「強くなんかないわ。幽霊より人間の方が怖いだけ、それに家賃も安くなったし」
「へぇ~、僕は幽霊の方が怖いけどなぁ」
「あなたはまだ本当の人間の怖さを知らないからよ」
「そんなもんかな」
僕も人は怖いけど、やっぱり幽霊の方が怖い。
「でも、あなたがこの部屋の幽霊に気づくとは思わなかったわ。今まで一度も気づかなかったじゃない」
「う~ん。確かにそう言われるとそうだね。やっぱり一度死にかけたからかな」
僕は首を傾げた。
「私も死のうとした事があるのよ」
「そうなの?」
「でも痛いからやめたわ」
しおりはさらっと言った。
「僕もやめた。同じだね」
「ええ、理由は違うけれど」
そこで、しおりは少し微笑んだ。
その時、戦闘機がものすごい轟音と共にちょうどこの団地の真上を通過していった。その残った轟音が部屋中に轟き渡り障子ががたがたと激しく音を立てた。
「あなたは生きるのね」
「うん」
「生きていくなら、パートナーが必要だわ」
戦闘機が残して行った余音が消え、部屋はまた静かになった。
「そうだね」
その時、突然しおりは大きく伸びをした。
「あ~あ、しょうがないな」
しおりは、なぜか少し嬉しそうにそう言った。
「何がしょうがないの?」
僕がきょとんとして訊くと、しおりは悪戯っぽい笑みを浮かべて僕を見た。しおりは笑うとやはりとてもかわいかった。
「私がパートナーになってやるか」
しおりはしょうがないなという割には、どこか嬉しそうだった。
「えっ?」
「不満?」
しおりは少し首を傾げて僕の顔を覗き込む。
「そんなことないよ。とても満足だよ」
「ふふふふっ」
しおりはまた悪戯っぽく笑った。
「あなた今幸せでしょ」
しおりは腰を浮かせ、僕の顔に触れそうになるくらい顔を近づけて僕の顔を覗き込んだ。しおりの温もりや息遣いを直接感じた。
「うん、幸せ」
僕は本当に幸せだった。二人の頭上をもう一機、戦闘機が轟音を上げて飛び去っていった。
「自分なんてあてにならないね」
僕が言った。
「そうよ。この世にあてになるものなんかないのよ」
しおりはそう言って、僕の胸に入り込んできた。とても、やわらかく真っ白い体だけどとても温かかった。
「でも、私はいるわ」
しおりは僕の胸に顔をうずめて言った。
「うん」
僕はしおりの体の重み、温かさ、臭い、感触、全てをあの樹海での光景のように体の全てで感じることができた。
「結局、平和なんだね。この町は」
僕は言った。
「そんなものよ」
しおりは言った。
その時、僕の携帯が鳴った。
「もしもし」
「僕は誰ですか?」
「たかし君だよ」
「分かりました。ガチャッ、プープープー」
また、たかし君からだった。
みんな常に自分を確かめているのだ。
今日も気付けば、大将の店で閉店過ぎまで飲んでいた。最後に残るのはまたいつもの常連メンバーだ。
「この店の唯一気に食わないところはキムチが無い事だ」
在日朝鮮人のおじさんが不平をもらす。
「ねえ、ところで、この焼き肉ってなんの肉なの?」
ふいに太ったソープ嬢が、大きな肉の塊を口に入れながら呟いた。店の壁に貼られた貼り紙には、ただ「肉」としか書かれていない。
テーブルを囲んだ全員が首を傾げ、その後、いつものように誰が食べるのか分からないキャベツ炒めをせっせと炒めている大将の方を見た。
「へへへへっ」
大将は鉄板から立ち上る湯気の向こうで、その熱気で上気したピンク色に膨らませた子どものような笑顔をこちらにただ向けているだけだった。
「そう言えば、ここの近くに動物園あったな」
元殺人犯のおじいさんが呟いた。
「最近バクが死んだってニュースで言ってたな」
在日朝鮮人のおじさんが言った。みんなもう一度一斉に大将を見る。
「へへへへっ」
大将はやはり、そのピンク色に上気した頬をまん丸に膨らませ、子どものように無邪気に笑っているだけだった。
今日も特に意味もない一日が月夜の闇の中に更けていく。人通りの無くなった静かな町に、大将の小気味よいコッコッというキャベツを炒める音が軽快に響いていった。
世界の果ての501号室 ロッドユール @rod0yuuru
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