第12話 死に場所
今生きているということが一体何なのか完全に分からなくなった。それ程にこの森の闇の深さは生命の根幹を失っていた。
あの焚火からどのくらい歩いたのか、もう考えなくなり始めていた頃だった。ふいに、ふとなんの脈略もなく目の前に月明かりが差し込む空間が広がった。そこはほの白く浮き立つようにそこだけ空間が霞んでいた。僕は直感的にここだと思った。
ゆっくりとその薄明かりの中に入っていくと、まるでこの場所が自分を待っていたかのように包み込まれる感覚があった。
「ここか」
僕は辺りを改めて見回した。僕はここで死ぬ。
「ここか」
何の感慨も実感も湧かなかったが、僕はもう一度心の中で呟いた。
僕はその中心に生えている大きな木の根の根と根の間に人が一人寝られるちょうどいい場所を見つけると、そこに忘れていた疲労と共に座りこんだ。
薄明かりの外は壁のように真っ暗だ。その暗闇の壁に閉じ込められたような感覚は不思議と僕に安らぎを与えてくれた。
「死ぬのってもっと、寂しくて怖いものだと思っていた」
僕は枝の間から見える月を見上げながらつぶやいた。自分でも不思議なくらい心が落ち着いていた。むしろ、今は自分の人生の中で一番心が平穏なのかもしれない。
僕はポケットから、小さなビニール袋に入った睡眠薬をとり出すと、掌の上に全て広げた。しかし、その時になって初めて、僕は水を持ってきていない事に気づいた。長時間歩いたせいで喉はからからだった。徐々に冷えてくる体を頭の片隅で感じながら、僕はどうするか考えた。しかし考えてもしょうがない。水は無いのだ。僕は薬を一粒一粒口の中に入れて、噛み砕きながら、少しずつ湧き出す微量の唾液を使ってゆっくりと喉の奥に押し込んだ。
時間を掛け睡眠薬を全部喉の奥まで飲み下すと、僕は全ての力を脱力して木の根元を枕にゆっくりと仰向けに横になった。
夜空を見上げていると、それを取り囲むように木々の枝が揺れていた。やはり、不思議とこれから死ぬという恐怖は全く感じなかった。心はずっと穏やかなままだった。
夜空を眺めていると頭がなんだか、ボーっとしてきて気持ち良くなってきた。睡眠薬が効いてきたらしい。この気持ち良さに身を任せて眠ってしまえばそのまま僕は終わる。
終わる・・・、
全てがどうでもよかった。死ぬことも今まで生きてきたことも。今までの僕の人生の全てが全て無駄だったと感じた。何かを得たことだけではなく、悩んだり苦しんだことすらも全てが無駄だったと心の底から思った。いや分かったと言った方が良いかもしれない。全ては無駄だった。もう何もかもが本当にどうでもよく今この時がただあるだけだった。
体が少し冷たくなってきた。でも、気持ちいい。このままどうなってもいい・・・、―――とにかく気持ちがよかった。
―――僕は誰だ?体が痛い。でもどこが痛いのかはっきり分からない。いや、寒いのかもしれない。よく分からない。でも、はっきりと何かの不快感が全身を覆っている。でも、猛烈に眠い。不快感よりも圧倒的に眠気が勝っている。このまま何とも言えない苦しさを無視して寝てしまおう。今ならそれが出来る気がした。もう一度、意識を眠気にゆだね目を閉じよう。気持ちいいその強烈な眠気に全てをゆだねて。そして、僕の意識はまた淡い快楽の中に沈んでいった。
その時、突如うっすらと瞼の隙間に白い光が入り込んできた。沈んでいく意識の中にあって、なぜかその光が気になった。何度もこのまま眠ってしまおうかと思ったが、その光がどうしても気になった。僕はゆっくりと重い瞼を持ち上げた。眩しくてよく目が開けられない。徐々に目を慣らしゆっくりと目を開けていく。
徐々に、ゆっくりと外の世界がおぼろに見え始めた。最初それが何なのか分からなかった。見えてはいるがそれを認識できない。認識できないというよりも、どうしようもなく、それは僕の認知機能を超えてあまりに輝き、美しすぎた。
目の前には神々しいばかりに光り輝く世界が広がっていた。それはあまりに白くあまりに光り輝いていた。一瞬何がどうなっているのか頭の一部が痺れていた。あまりの美しさと現実離れした光景にただ圧倒され茫然としていた。
雪だ。雪が積もっているのだ。僕の意識はその時はっきりと目覚めた。雪に朝日が木々の間から差し込み、絶妙な光を浮き上がらせ白金のように鋭利に輝いていた。
こんな美しい光景を見たのは初めてだった。風景を見てこんなに感動したことも初めてだった。心が直接世界と繋がり、光が直接心の奥の美しさという概念そのものを照らしだし、心のもっと深い場所、魂で直接見ているような、魂で直接美しさを感じているような、そんな感覚だった。
僕は泣いていた。気付いた時にはもう知らずに僕の頬をいく筋も涙がつたっていた。悲しくもないのに涙を流したのも初めてだった。なぜ自分が泣いているのか自分の感情が分からなかった。でも僕は泣いていた。今、目の前に広がる光景が、ただ堪らなく美しかった。
「彼らはこれを見たんだ」
アウシュビッツで明日をも知れぬユダヤ人たちは、極限状態の中で夕食を食べるのも忘れて美しい夕日に見入ったという。僕は初めてそれを読んだ時、全く彼らの心境が理解できなかった。食べ物も乏しく生きるか死ぬかのギリギリの中で、食べることよりも夕日に見とれることの価値観が全く完全に想像すらできなかった。でも今なら分かる。彼らはこれを見たのだ。
「彼らはこれを見たんだ」
その時、僕は僕を取り戻した。
気づくと僕の体は冷たく固まっていた。体の感覚が麻痺していて腕を持ち上げようとしても何か重い鉄の塊のようにピクリとも動かない。体の感覚が全く無く、体の質量だけがそこにあった。それに反して意識は徐々にはっきりとしてきて、今置かれている状況がいかにヤバイかも分かってきた。体全体が全く動かない。
しかし、不思議と心は何かに満たされ、とても落ち着き幸福感に満たされていた。それがこの風景のせいなのか、僕の内面の変化なのか、はたまたそれ以外の何かなのかは分からなかったが、心の底の方から次から次へと湧き出るように多幸感が溢れ出ていた。
―――時間が経つと少しずつだが、指が微妙に曲がるようになってきた。最初は微量に震える程度だった動きもその動きを繰り返していくうちにその動ける範囲も広がってきた。
時間を掛け何度も何度も少しずつ指を動かしていくと指は遂に握れるようにまでなってきた。少しずつだが腕や足も動かせるようになってきた。そして、遂に右腕が持ち上がるようになると、それと同時に全身に勢いよく温かい血液が駆け巡るのを感じた。だがそれと同時に今度は全身が激しく震えだし、それとともに空気の冷たさが感じられるようになってきた。僕は激しく震え、急激に襲ってきた寒さと戦った。歯の根が合わず、ガタガタと激しい歯と歯のぶつかる音が口の中から直接脳みその中に鳴り響いた。
僕は強烈に間接の痛むガチガチの体を引きずるようにしてゆっくりと上体を起こすと、枕にしていた木の幹に背中をもたれかけさせ座った。
僕は改めてその目の前に広がる景色を眺めた。もうその景色はさっき見たその神秘性を失っていた。だが、雪がしんしんと静かに、光り輝くようにゆっくりと次から次へと降りてきて、それを木々の枝葉の間から差し込む光が照らしだし、地面に積もった雪の膜を淡く輝かせていた。そこには今までに見たことのない光の波長があり、見たことのない光の色があった。僕は寒さに震え込みながらそれにひたすら見入った。
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