第9話 精神科医の話

 僕はふと思い立ち、町の精神科へ行ってみた。もしかしたら僕は死ななくていいのかもしれない。そんな希望が突如湧いたのだ。僕は思い立つとすぐに動いてしまう癖がある。それが、いい方向に行く時もあるが、悪く行く方が多い。だが、僕という人間は、そんな経験を積んでもあまり変わらなかった。

 その医院は、団地群の南西から少し外れた一面の田んぼと畑の広がる真ん中に、大きな名も知れぬ木と共にぽつんと立っていた。周囲の閑散とした田舎風景とは裏腹に、白い小さな建物はそこだけが別世界のように浮き立っていた。

 重厚なガラスのドアを押すと、すぐ目の前に待合室が広がっていた。少し冷たい感じのする待合室は、その小さな外観からは想像できないくらい人で埋まっていた。二十人以上はいるだろうか。しかし、不思議と人の熱気のようなものはなかった。反対にその狭い待合室にはお通夜のような独特の重い静けさが漂っていた。

「・・・」

 僕はその雰囲気に少し怯んだが、なんとか自分を奮い立たせ、重いドアをそのまま押し開け中に入った。患者たちの冷たい視線を感じながら、靴をスリッパに履き替えると、患者たちの間を抜け、奥にある受付けに向かって歩いた。患者たちの様々な視線が僕を追っているのが分かった。

 誰もいない受付けのカウンターまで来ると、その奥を覗いた。そこにはやる気のなさそうな看護婦が、暇そうに一人爪の手入れをしながら椅子に座っていた。その看護婦は実際若いのか、本当は若く見えるが若くない人なのか、年齢不詳の怪しさを醸しながら、しかし、その顔はやたらとエロかった。赤く塗られた厚い濡れた唇は、甘い濃厚な蜜のように男を欲情させ、その輝くような美しい目の上の絶妙な二本のカーブを描いた垂れ下がる二重の輪郭は一目で男を惹きつけ誘った。でも、制服の着こなしは貞淑だった。

「初めてなんですが」

 おずおずと診察券を差し出す僕に、そのやたらとエロイ顔の看護婦は何も言わず、無表情にただ黙って診察券を受け取った。そして、ぶっきらぼうにじろじろと診察券を何回か裏と表をひっくり返して見た後、そのまま何も言わず、また暇そうに爪の手入れに戻った。

「・・・」

 何だかよく分からないが、まあ、大丈夫なのだろうと、しばらくそのエロイ顔の看護婦の横顔を見つめた後、僕は振り返って待合室を見渡し、座る場所を探した。しかし、どこの席もいっぱいで座るところは隙間もなかった。仕方なく僕は入口まで戻ってその片隅に寂しいトーテムポールのように黙って立った。

 やはり、この待合室はどこか冷たい感じがする。片隅に立っていてあらためて僕は思った。待っている患者たちは誰一人として口を利く者はいない。それどころか、どこか虚ろな目を上げようとすらしない。沈鬱な空気はどこか妖気すらも漂わせ始めていた。僕はここに来たことを早くも後悔し始めた。

 その時、突然右の壁際に設置してあった三人掛けの長イスの真ん中に座っていた、半分眠ったような夢遊病者のような表情をした、太ったおばさんなのか太った少年なのか判別できない、まん丸く太った人物が何の前触れもなく突然立ち上がった。僕は驚いてその彼なのか彼女なのかを見た。

 その夢遊病者のような人物は夢遊病のように僕が立っているところと反対の、部屋の奥の方にゆらゆらっとのっそり歩いて行くと、壁際で軍人が回れ右をするように小気味よくきれいに形よく、そこだけくるっと素早く振り返り、そして、壁を背に僕をじとーっとその夢見心地の目で見つめ、さらににこっと笑った。いや、それが笑顔なのか、もっと違う何かなのかも僕にははっきりとは判別できなかったが、少なくともその時はそう感じた。

「・・・」

 僕に座れということなのだろうか。僕はその表情の読めない太った人物の顔色をしばし見つめた。その夢遊病者のようなおばさんなのか少年なのか分からない人物はやはり笑っているように見えた。僕はその表情を何度も確かめながら、その空いた席に恐る恐る歩いて行った。そしてもう一度見ると、やはり笑っているように見えたので空けてくれたその席にやはり恐る恐る座った。座った後、もう一度その太った人物を恐る恐る見ると、満足げな表情をしているので、やはり、僕に席を譲ったのだなと、ほっとした。

 しかし、座ってほっとする間もなく、受付けのやたらとエロイ顔の看護婦が診察室に入るよう相変わらず無表情で僕を呼んだ。僕より先に来ている人は沢山いるような気がするが、待っている人たちは別段気にする風もなく各々の世界に浸っている。僕は恐る恐る立ち上がって診察室の入口の方へ向かった。

 診察室のドアを開けると、そこは待合室の十倍は広かった。そして、何もなかった。コンクリートがむき出しのその部屋は待合室よりも冷たい感じがした。

「無駄に広いでしょう」

 突然遠くから声がしてその方を見ると、部屋の奥の片隅に安っぽい使い古された事務机が置かれていて、その机の前に白衣を着た痩せた男が静かに座っていた。

「ええ」

 僕は相手に届くように少し声を大きくして答えた。僕の声は無機質な部屋にやたらと大きく響いた。僕はこの部屋では声を大きくする必要がないことをすぐに理解した。

 僕は目の前の簡素な階段を降りた。診察室は、なぜか、待合室から一段下がったところにあった。僕は、階段を下り、やはりコンクリート剥き出しの床に立つと、そのままその医者の前まで歩いて行き、椅子に座る医者の前に立った。

「どうぞ」

 医者は向かいに置かれた丸い椅子に座るよう促した。僕はそこに静かに座った。

 医者は医者という概念そのままの顔をした男だった。多分、僕が医者を絵で説明しろと言われたら、この顔を描くだろうという顔だった。もちろん眼鏡を掛けていた。

「無駄に広いでしょう」

 医者はあらためてもう一度同じことを言った。

「心には無駄が必要なんです」

 医者は少し笑った。冷たい笑い方だった。その無駄に広い部屋には机と椅子以外何もなかった。筆記用具や、書類、もちろんそれを仕舞う棚もなかった。

「あなたはとても辛い状況にある」

 僕がこの部屋の状況に慣れる前に、医者は不意を突くように突然言った。

「はい」

「・・・」

 しかし、それ以上は何も言わなかった。そして、医者は黙って僕を見つめた。

「僕は死にたいと思っているのですが、治りますか」

 仕方なく僕が口を開いた。僕はここに来るまでに話すことをあれこれ、いろいろと考えていたが、出てきた言葉は考えていたこととはまったく違っていた。

「治りませんね」

 医者ははっきりと、そしてゆっくりと言った。そして、眼鏡の奥の細い目が冷たく僕を見据えた。

「やっぱり、そうですか」

 僕は期待はしていたが、それほど落ち込みもしなかった。なんだか、そんな予感はしていたし、絶望には慣れていた。

「人は死ぬ時は何を言っても死にますからね。それを変えることは誰にもできません」

「そうですか。お医者さんが言うんだからそうなんでしょうね」

「精神病院というのは生きることも死ぬこともできない人の姥捨て山なんです」

「病気を治すところではないんですか」

「心の病気なんて治りゃしません。深い身体性と結びついていますしね。もし治るとしたらそれはもう、完全な別人になるか、人間を超越するってことです。心が変わるってことはそういうことです。ま、そもそも、人間の持つ自我の同一性自体が怪しげなものですがね」

「じゃあ、もう死ぬしかないんですね」

「死ねる人はまだ幸せですよ」

 そう言って医者はまた薄く笑った。やはり、冷たい笑い方だった。この診察室は本当に無駄に広い。剥き出しのコンクリートの冷たさと相まって、その無駄な広さが医者の冷たい笑いをさらに増幅させていた。

「あなただから言うんです。他の患者だったら言いません。私は分かる人にしかこんな話はしません」

「そうですか。ありがとうございます」

 僕はよく分からないが、お礼を言った。

 無駄に広い診察室には、冷たく静かな時間が流れていた。窓は少なかった。上の方に付けられた横長の小さな窓から、薄い小さな光だけがかろうじて外の世界を感じさせた。

「受付けの看護婦、エロいでしょう」

 医者は突然話題を変え、僕に訊いてきた。僕は受付けにいたやたらとエロい看護婦の顔を思い浮かべた。それだけで、何か熱いものが込み上げるのを感じた。それほどにエロいものをその顔に持っていた。

「僕たちは毎日仕事の隙を見つけてはセックスをしているんですよ」

 医者は力を抜いて、イスの背もたれにもたれかかりながら足を組んだ。

「今日もあなたが来る前に、もう二回しました」

 医者はどこか遠くを見つめた。今日やったセックスを回想しているのだろうか。

「痩せていますがね、あれで意外とおっぱいが大きいんですよ」

 医者は少し嬉しそうに、空中に右手の微妙な湾曲でそのおっぱいを形作り、僕にその形を示した。僕はその大きなおっぱいを想像してみた。それはとても形のよい魅惑的なおっぱいだった。

「人間はあなたが思っている以上に醜悪で残忍なんですよ」

 医者はまた話題を変えた。少し声の調子が強くなっていた。

「私はそのことに気づいてしまった。一時的な心の状態は変えられても、人間の本質は変わらない」

 医者はゆっくりと膝の上で、両手の指を絡ませるように合わせた。医者はその冷たさの下で少し興奮しているようだった。

「チンパンジーはね」

「チンパンジー?」

「そう、チンパンジー」

 医者は僕を見据えた。

「チンパンジーはね、敵対する群れのオスを集団で襲うんです。一匹になって群れからはぐれたオスなんかをね。そして、徹底的にリンチする」

「はあ」

「殴る蹴る、そりゃぁもう凄惨なものですよ。卑怯だとか卑劣だとかいう倫理観なんて彼らにはありませんからね。集団で一匹をやりたい放題ボコボコにするわけです」

「はあ」

「その後どうすると思います?」

 医者は少し興奮した目で僕を見た。

「さあ」

「生きたまま手や足を千切っていくんですよ」

「生きたままですか」

「そう、生きたまま、ゆっくり、ゆっくりとね。楽しむように。そういう時の彼らは心なしか笑っているように見えるそうですよ」

「・・・」

「まあ、彼らからしたら、遊びや娯楽の延長なんでしょうね」

 そう言って医者は少し満足気に私の顔を見て薄く笑った。

「そして、すべてが終わるとその千切った手や足を食うんですよ。誇らしげにね」

 医者はその細い目を、少し見開いて、僕を見た。

「どこかの動物園のチンパンジーのボスが、ある朝殺されていたそうです。その死体はきん玉が食いちぎられて、そのオスの口の中に押し込まれていたそうですよ」

 医者は僕の目を見たまま、自分の口にきん玉が押し込まれる様を、ジェスチャーを交え何度もやって見せた。

「・・・」

 僕はそれをただ黙って見ていた。

 診察室は相変わらず冷たい静寂が支配していた。すぐ隣の待合室にあれだけの人がいることがウソのようだった。

「ある時、一人の老人が眠れないとやってきました」

 医者の話はまたふいに変わった。

「その方はまったく普通の一般的なご老人です。どちらかといえば気品もあった」

空調が効いて温かいはずの診察室は、ゾクッとするほど冷たい感じがした。

「彼の話をいくら聞いてもまったく原因が分からない。仕事も多少のストレスはあるにしろ順調にやられていた。ご家庭も時々けんかもするが、いたって穏やかで平和的な普通の家庭だった。金銭的な苦労もない。お孫さんにも恵まれそのことを大変喜んでおられた。まったく不眠の原因が分からない。年のせいだ。そう片付けるのはかんたんでしたが、話し振りからするとどうも様子が違う。何かこう苦しいのだと、その人は訴える。でもまったく原因が分からない」

 医者は軽く息を吐いた。

「ある日、私はなぜか急に思い立ち、本当に突然その考えが思い浮かび、本当に突然です。何の脈略もなくです。浮かんだんです。「あなたは人を殺したことがありますか?」とその老人に訊いた。まったくそんな雰囲気を醸した人ではありません。今まで語った中にそんなニュアンスが含まれていたわけでもありません。本当にただの思いつきです。本当に何か急に閃いたのです」

 医者は僕を固くじっと見つめていた。

「すると、老人はしばらく呆けたように黙って私を見つめた後、「あります」。と言ったのです」

 医者の僕を見る目が鋭くなった。

「彼は、先の大戦で中国に兵士として出征していた。そして彼はそこで人を殺していた・・」

 医者はそこで少しの間黙った。

「しかも、数え切れないくらいの中国人を殺していた・・」

 そして、独り言のようにそう言うと、医者はまたしばらく黙った。

「そのご老人はゆっくりと語り出しました。それは、腐臭漂う腐りきったはらわたのような反吐が出そうなほどの凄惨な話だった。どうしてそこまで残酷に、そして鬼畜以下の行為が出来るのかまったく分からないことを、日常のようにやっていた。本当に同じ人間が、同じ日本人がそんなことをやったのか、どこか遠い国のファンタジーを聞いているような、いや、ファンタジーであって欲しいと懇願したかった」

 医者はそこで大きく息を吐いた。

「私はその話を聞きました。辛抱強く。その老人が語るがままに。語りたいがままに聞きました。正直、きつかった。私自身が病んでしまいそうでした・・、本当に狂ってしまいそうでした」

 医者はそこで少し苦しそうに目を伏せた。

「しかし、彼は、それを平然と語るのです。さもそれが、なんでもないことのように。誰にでもある思い出話のように滔々と語るのです。まるで他人事のように。誰か、自分とはまったく関係のない、責任のない人間が行ったことのように、平然と淡々と語って行くのです」

「・・・」

「本当に淡々と語るのです。本当に平然と語るのです。普通の人なら気が狂ってしまうような凄惨な話を・・」

「それが私には分からなかった。なぜそれができるのか。私にはまったく分からなかった。なぜそんなに淡々と平然と語れるのか」

 医者の目はしっかりと僕を見据えていた。

「それからしばらくたって、また老人がやって来ました。そして、嬉しそうに言うのです。眠れるようになりました。先生のおかげです。ありがとうございました」

 医者の目が僕の中に飛び込んできそうなほど、医者は僕を見つめた。

「私にはまったく分からなかった。彼が一体何に苦しんでいたのか。もちろん誰もが考えるように、残虐な行為をしたことに対する自責の念に駆られてと最初は私も考えました。しかし、人を殺したことに苦しんでいたのなら、あんなにかんたんに回復するわけがない。あんなに平然と人に語れるわけがない」

 医者はそこで組んでいた足を組み替えた。

「でも、それはある日分かったのです」

 医者は僕を鋭く見つめた。冷たい目だった。

「彼は、ただ自分に与えられた仕事を忠実にこなしただけだったのです」

「仕事をこなしただけ・・?」

「そう、彼はただ仕事を真面目にこなしただけだったのです。サラリーマンが上司に言われた仕事をまじめに律義に忠実にこなしていくように、彼は、中国人を殺し、略奪し、拷問し、辱め、そして中国人の女を強姦した。彼はただそれを忠実にこなした。ただそれだけだった。周りの兵士と同じように、同じことをただひたすらまじめに遂行していった。つまり彼は、人を殺したことではなく、殺す作業を肯定してもらえなかったことに苦しんでいた。彼は立派にまじめに完ぺきに教えられた通り、言われた通り任務を遂行した。上司に言われたことは完全完璧にこなした。しかし、日本は戦争に負けてしまった。彼らのやったことは突然後ろ暗い犯罪になってしまった。彼は仕事を、与えられた仕事を完璧にこなした。完璧過ぎるほどにやった。でも、それはもう誰も認めてくれない。誰も褒めてくれない。そのことに彼は不満だった」

「・・・」

「彼は言っていた。先輩の兵士が、その辺の農家の女を畑の中で犯しながら、行進している自分たちに向かって笑顔で手を振っていたと。そして、手を振られた自分たちはそれを笑いながら見ていたと。手を振り返しながら」

「・・・」

「彼はさらに言っていた。中国人は母親を犯すんだと。多分、彼らが銃剣で脅してやらせたのでしょう」

「・・・」

「その後、その母子はどうなったと思います?」

 僕には想像もできなかった。

「生きたまま焼かれたのです。ガソリンをかけられて」

「・・・」

「他の兵士が、まだ小学生にもなっていないような少女を犯したそうです。そして、殺された。小さな体をバラバラにされて」

 医者はそこで初めて険しい表情になって黙った。

「冷たい少女の顔は苦悶のまま固まり、少女の手は地べたに生えていた草を力いっぱい握りしめていたそうですよ」

 医者は目の高さに挙げた拳を力いっぱい握りしめた。

「鬼畜だ。鬼畜以下だ」

 医者は一人叫んだ。冷たい部屋に沈黙が流れた。

「彼はそれを淡々と、本当に世間話か思い出話のように語るのです。本当に話す姿だけを見ればただの普通の気のよいおじいさんでしかなかった」

 医者は診察室のコンクリート剥き出しの冷たい壁を見つめた。

「日本兵が中国でよくやった拷問を知っていますか」

 医者は冷静な口調に戻っていた。僕は小さく首を横に振った。

「手足を縛って、仰向けの顔に濡れた布をかけるのです」

 医者はそこで少し笑ったように見えた。

「地味ですがこれはとても苦しい。絶妙に死なないように、気を失うこともしないようにやるわけです。もうそれはそれは苦しい。呼吸ができないというのは、想像以上に苦しいのです。全身を縛られているので、身を動かすことすら出来ない」

 医者の話し方はどこか嬉しそうだった。僕は呼吸のできない自分を想像してみた。だが、やはりそれは想像でしかなかった。

「それを周囲を囲んだ日本兵が、順番に取ったり掛けたりを繰り返す。もちろん中国人の苦しむさまを笑いながらね。それはある種のレクリエーションだった」

「・・・」

「先の戦争で日本人は中国人にありとあらゆることをやった。人の想像しうるありとあらゆる残虐な事を平然とやった。殺すことなど当たり前です。どう残虐に殺すか、苦しませて殺すか、最後はもう殺すことがめんどくさくなり、どう効率よく低燃費で殺すかです。銃の弾さえもケチって、倉庫に集め生きたまま焼くのです。もはや、悪も罪もありません。それが日常だったのです」

 いつしか熱く語っている医者を見ながら、いつからこんな話になったのだったか、僕は思い返していた。

「確かに戦争は終わりましたよ」

 医者は興奮して机を叩いた。僕はその大きなドンッと言う音に驚き、ビクッと少し尻を浮かせた。

「でもね。たかだか七十年かそこらで、人間が進化すると思いますか」

 医者の口調が激しくなった。

「人間の本質なんか何も変わりはしないんだよ。平和な時代には平和な時代の暴力があるだけなんだよ」

 医者は前のめりに僕に顔を近づけ大粒の口角泡を飛ばしながら叫んだ。目が向きだされ、白めに走る細かい血管が見えた。しかし、無駄に広い診察室のその無駄な空間に、医者の発した大声は虚しく拡散されていった。

「何の役にも立たなかった」

 医者は再び椅子に深々と腰を据えると呟くように言った。

「何の役にも立たなかった。知識など。大学で学んだこと・・、必死で勉強したありとあらゆるすべてがまったく何の役にも立たなかった。実際の現場には理屈の通用する秩序がそもそもなかった。教科書に書いてあることも、尊敬していた学者の書いた本も、教授たちの言うことも、そんなものは目の前の患者たちの前では屁ほどの価値もなかった。それは限定された秩序の中だけで生きていけるような、そこから出たらすぐに死んでしまうようなどうしようもなく生命力のないそんな陳腐な代物だった」

 そう語る医者のそれはまったく独り言みたいだった。そこに僕は完全にいなかった。

「私の娘は自殺したんですよ」

 医者は静かに僕を見た。医者はまたもとの冷静な医者に戻っていた。

「自殺・・、ですか」

「いじめですよ。まあ、最近じゃよくある話ですがね」

 医者はまた冷たく笑った。

「最近の小学生のいじめってどんなことをするかご存知ですか」

「いえ、無視とかですか」

 僕はおずおずと答えた。

「いえいえ、そんな生やさしいものじゃありません」

「リンチとかですか」

 医者はあなたは本当に何も分かっていないというように、軽く目を閉じて首を横に振って小さく笑った。そして、しばらく黙考した。

「笑うんです」

「笑う?」

「そう、笑うんです」

「それだけですか?」

「そう、それだけ、ただ笑うんです。ニヤニヤと」

「ニヤニヤ?・・ですか」

「そう、ニヤニヤと笑うんです。決して怒ることも問いただす事も出来ない絶妙の距離感でその子を見つめ笑うんです。ニヤニヤと」

「ニヤニヤ・・」

「これもまた絶妙な笑い方です。相手が深読みしたくなるような、なんともいやらしい笑い方です。それをみんなで交互に連携してね。それも本当に巧みにやるんです。訓練してもこうはなかなか出来ないような本当に素晴らしい連動ですよ。こういう、人を追い込む時の人間というのは本当に素晴らしい団結力と連帯感を発揮するものですね。人間の持つ本能なんでしょうかね。それを自然とやる」

「・・・」

「そして、どうすると思います?」

「・・・、さあ?想像もつきません」

「普通の友だちのように接するんですよ」

「普通にですか?」

「そう、知らない人間が見たら、親友のようにすら見えたでしょうね」

「・・・、なんだか恐ろしい話ですね」

「そう、とても恐ろしい話しですよ。結局、人間の苦しみなんて根本的には自分で自分を追いつめているだけですからね。それを助けてやればいいだけの話なんです。直接手を下す必要はまったくないわけです。人を苦しめるのに」

 そこで医者は、軽く息をついた。

「死んだ後」

「えっ?」

「娘が自殺した後、私は感情にまかせて、娘のクラスに乗り込んだんですよ」

 僕はこの冷たく見える医者にも、そんな感情があったのかと少し驚いた。

「私は最初、子どもたちが少しは自分たちのやったことに罪悪感や恐怖を感じているのかと思ったんですよ。だから、私は激情にかられながらも、子どもたちを傷つけてはいけないと、自分を自制することを考えていた」

「でも、教室に入ってすぐに分かりましたよ。彼らは何も感じていないって。微塵も動揺していないんですよ。本当に微塵もです。全員、一人残らず落ち着き払っているんです。そういうのは隠せるものではないんです。ましてや相手は小学生です。つまり、はなから何も感じていないんです。これっぽっちの罪悪感も、それどころかいじめをしたという意識そのものがそもそもなかったんです。彼ら彼女らにしたら、遊びの延長なんです。私は愕然としました。もちろん、いじめの証拠なんてありませんからね。私は逆に子どもたち全員から変な目でジロジロ見られましたよ」

 医者はその時の光景を思い出しているのか自嘲気味に笑った。

「精神病者の中にもヒエラルキーがあるんです」

 医者の話はまた変わった。

「独特の価値観ですがね。社会から疎外された彼らは疎外された者同士でより弱い者を見つけ出し、見下すんです。そして、見下された者はさらに・・、傍から見たら醜い、堪らなく醜い光景です」

 医者はそう言って少し黙った。

「人間はどこまで行っても人間なんですよ。その人間に救いを求めても無駄です」

 医者は最後に冷たくそう言った。

 

 医院のあの重いガラスのドアを開けて外に出ると、真冬にもかかわらず真夏のように暑かった。蝉の鳴き声すら聞こえてきそうだった。

 しばらく歩いてから振り返り、改めて医院を見るとやはりそこは、そこだけ別世界のように浮き立っていた。

 僕はあの診察室が地下室のような部屋だったのだと、今さらながら気づいた。でも、それはいまさらどうでもいい事だった。

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