第8話 汁男優さとしくんの話しの続き

「僕は汁男優のプロです。プロとして監督や女優さんの求める汁男優でなければなりません。プロとして、他の汁男優の模範になる汁男優でなければなりません。いえ、AVなどどうでもよかった。彼女に、彼女に気にいってもらいたかった。愛してなどおこがましい事は言いません。ただ必要としてもらいたかった。ただそれだけだった・・」

 さとしくんはどこか悲しい目をして言った。

「ある日の撮影中のことでした。突然、「私を殴りなさい」。彼女が僕に言いました。僕はまったく意味が分からず、ただその場に突っ立ったまま彼女をきょとんと見つめ返していました。彼女はそんなアホ面をしているだけの僕に呆れ、「もういいわ」と言って乱暴に立ち上がると、僕を思いっきり殴りつけ、そして突き飛ばし、そのまま足早に去って行きました。彼女が何に怒り、何に不満なのか、その時の僕にはまったく分からず、そんな彼女の背中をただ茫然と見送っていました。ただ、彼女の苛立ち。それはいつもの事でしたが、でも何か違う、いつものそれとは決定的な何かが違う、そんな予感がしていました」

「その日、深夜に突然彼女から電話で呼び出されました。当然、僕は何はさておき、急いで彼女のマンションの部屋に駆けつけました。その時はまたいつもの我がままを言われるのだろうくらいに思っていました。また、何か無理難題を言って来るのだろうと、その程度くらいにしか考えていませんでした。しかし、部屋に入ると彼女はまったく別人のように力なく部屋の片隅に一人、散乱したゴミと共にうずくまっていました。その姿はまるで生気を吸い取られた廃人のようでした。急いで彼女の下に走りよると、「ほっといて」。彼女は小さく叫びました。その声にすら、まったく生気というか、生きているという感触がありません。僕は心配で、すぐにでも彼女の下に行きたかった。でも、そこには近寄る余地のない断固とした空気がありました。でも、だからといって帰るわけにもいきません。僕は、仕方なく彼女から遠く離れた部屋の片隅に、同じようにうずくまりました」

「どれくらい時間が経ってでしょうか。彼女はその状態のまままったく動きませんでした。彼女はまるで、ゴミ捨て場に捨てられた壊れた人形のようでした。まったく生きている生気がなく、ただそこに生きる屍のように転がっているだけでした。僕は心配でしたが、どうすることもできません。結局彼女は、一睡もせず、朝までそのままの姿で部屋の片隅に沈んでいました。相変わらずバカな僕には、彼女が何を求めているのかまったく分かりませんでした。でも、やはり何かいつもと違う。それだけははっきりと感じていました」

「それから彼女はよく、突然電話で僕を部屋に呼び出すようになりました。それは夜中であったり、深夜であったり、昼間であったり早朝であったり、様々でした。当然仕事中の時もありましたし、寝ている時もありました。でも、僕は監督に怒られても殴られても、違約金を払ってでも、仕事を抜け出して彼女の下に駆けつけました。深夜に電車がなくてもタクシーで、タクシーがつかまらなければ自転車で、自転車が無ければ、何キロも何十キロも何時間も走って、彼女の下に駆けつけました。僕にとって彼女は全てにおいて優先されるべき絶対でした」

「そうして駆けつけた、そんな時の彼女は、普段とは別人のようにいつもとても傷ついていました。生きることの苦しみに、憔悴し絶望しきっている、そんな痛ましさを滲み出した、そんな傷つき方でした。そんな彼女はいつも虚ろな目をして、広い部屋の片隅に一人ぽつんと転がっていました。本当に物が転がるように、ぞんざいに、なげやりに、散乱した物やゴミの中で死んだように虚ろんでいました。そんな時、やはり、僕はいつも声を掛けることすらも出来ず、同じ部屋でただ彼女を黙って見守ることしか出来ませんでした・・」

 さとしくんは心底の悲しみをたたえるように言った。

「彼女の苦しみを、僕は何も分かってあげることができなかった。どうしてあげることも出来なかった。彼女が何に苦しみ、何に絶望しているのか僕には分からなかった。僕は・・、僕は・・、ただ、何もできず・・」

「帰り道、僕は悔しくて泣きました。悔しくて悔しくて、僕は自分のあまりのふがいなさに号泣しました。通勤ラッシュの駅の雑踏の中で、僕は人の目もはばからず泣き続けました」

「ある日の夜中に呼び出された時です。「眠れないの」。そう言った彼女はまるで十才くらいの幼い子どものようでした。彼女は、幼い子どもが父親に甘えるように、僕にその身を預けてきました。彼女の体温が、やさしい体温が、僕の全身を包み込みました。それは彼女の生きている存在そのもでした。僕はそれを感じました。彼女のやわらかさ、温かさ、彼女の存在をそのまま僕は感じていました。それはとても華奢で弱弱しかった・・」

「僕はその日、彼女に請われるままに、添い寝をしました。もちろん、決して女優さんとは一線を超えない。それが汁男優の掟であり、プロとしてのプライドです。いえ、そんなことはどうでもいい、言い訳です。そもそも僕と彼女では圧倒的に身分が違うのです。僕のようなチビで醜い、根暗で小心者の学歴も肩書も金も社会的立場も、友達も恋人もいない、何もないどうしようもない社会的最下層の顔も頭も性格も根性も悪い屑人間が、彼女を抱けるなどとおこがましいことを考えるだけで、それは重大な罪であり犯罪です。それはあってはならない、ありえないことなのです」

「彼女は、僕の胸の中で怯えた小動物のように小刻みに震えていました。「夜中に目が覚めるの」。彼女はまるで小さな子どもが、母親に何か聞いて欲しい悲しみを甘えながら訴えるかのように、僕の胸の中で小さく語り始めました。「そういう時、自分を頭の中で切り刻むの」。「全身を目一杯」。「そして自分を土の中に埋めるの」。「私という存在をこの世から消し去るの。私というすべてを消し去るの。そうすると安心して眠れるの」。」

「「私はぶっかけられる精液やおしっこの温もりだけが人の温もりなの」。ゆきずりの汚いおっさんや、自分を買ってくれる小汚い底辺の男たちに犯される事だけが、人との関わりなの」。「自分が汚され、凌辱されている時だけが生きている実感なの」。僕にしがみつくようにしているその右手には、自ら切ったのだろう痛々しいほどの無数の切り傷がありました」

「「ねえ、私はなんで生きてるの?」彼女は自分に問いかけるみたいに、僕に呟きました。「・・・」。当然、僕にこたえられるわけがありません。僕は自分の無力さとふがいなさに血が出るほど唇を噛みました。僕は彼女のためなら死んでもいいと思っていました。自分のこの情けない命など、彼女のためなら喜んで差し出す覚悟は当たり前のようにありました。しかし、僕は彼女のちっぽけな力にさえ、心の支えの一助にさえなれていないのです。僕は自分の無力さに、怒り、絶望し、震えました」

「彼女はずっと僕の胸の中で小さく小刻みに震えていました。彼女はとてもとても深い深い完全な絶望の中にいた。彼女はその絶望の中に生きていた。昼間尊大に我がまま放題に振舞っていても、彼女の本当の部分は、とてもか弱く、繊細で、いつも深く傷ついていたのです。人知れず、彼女の心は完全な絶望の中にいたのです」

「「私は最低の人間なの」。「生きていてはいけない最低の人間なの」。「だからあなたみたいな下劣で醜悪で卑賤な男に私は汚される」。「そうすることで私という最低の人間は完成するの」。「だからあなたは醜く卑屈でどうしようもない醜悪な人間でなければならない」。彼女は誰かまったくここにいない人間に囁いているみたいに言いました。僕はそれを黙って聞いていました。そして、その時、僕は心の中で決心していました。彼女に、僕のすべてを捧げようと・・」

「僕はどうやったら最低の人間になるか日々考え、研究しました。毎日少しずつ、髪の毛を一本一本毛抜きで抜き、禿げを作っていきました。目も重い一重に整形し、おでこにはシリコンを入れました。歯医者に行き、歯医者が必死で説得するのも聞かず、前歯も抜きました。健康本を読み漁りその逆を徹底して、ぶよぶよな体形になり、顔中に吹き出物も出し、体の底から不健康になりました。わざとガラの悪い連中のいそうなバイトを見つけてはそこでいじめられ、馬鹿にされることで元々あった卑屈さにさらなる磨きをかけ、体に浸み込ませました」

「僕は目だけはよかったのですが、眼鏡を掛けるためにパソコン画面を毎日何時間も間近で見つ続け、時には太陽も直視して近視にしました。伊達でいいと思うかもしれません。でも、ウソではダメなのです。身に着いた本物の醜さでなくてはダメなのです。そうでなければ彼女に対して失礼になる・・」

 そう語るさとしくんの目には狂気めいたものが宿っていた。

「僕の最低っぷりは日に日に成長していきました。それは周囲の反応からも分かりました。見知らぬ人から、おぞましい物でも見るような目で見られるのは当たり前です。若い女性に睨まれる、叫ばれる、逃げられる、そんなことも日常です。意味も無く、通りすがりの若者に絡まれ殴られることもしょっちゅうでした。時には見知らぬ通りすがりの人に突然、唾を吐きかけられこともありました。小学生に突然背後から蹴りを入れられたこともあります。通りすがりのよぼよぼのおばあさんに、杖で殴りかかられたこともありました。どこからともなく石が飛んできたことも一度や二度ではありません。ただ街を歩いているだけで警察に通報され、犬や猫までが一目見ただけで、唸り声を上げるほどです」

「しかし、一方、ある意味凄みを帯びてきた僕に、AVの現場の人たちはさらなる畏怖の眼差しで一目置くようになっていきました。我の強い、空気などまったく読まない、譲り合いの精神など欠片もなかった他の汁男優たちが、僕に一番おいしい見せ場を自然と譲るようになっていました。今まで汁男優などゴキブリを見るような目以下で見下していたAV男優やスタッフの人たちまでが、僕が歩いていると慌てて道を譲るようになっていました。大物AV女優さんから、名指しで出演依頼をいただくこともありました。やはり、彼女の求める最低な人間になればなるほど、汁男優としては、不思議と恐ろしいほどに評価を上げていくのです。それはもう、どこか神がかった恐怖さえ感じさせるほどでした」

「しかし、彼女は僕の評価が増せば増すほど、やはり、そんな僕をさらに容赦なく罵倒し罵りました。殴り蹴り、突き飛ばし、時にはその場にあったポットや照明用のスタンドなどで思いっきり殴りつけました。それが額にクリーンヒットし、天井まで血が拭き上がったこともあります。その上、あまりの痛みにうずくまる僕を、さらにその上からガンガン殴るのです。その勢いに慌てて、周りのスタッフや男優さんたちがとめに入るほどです。それでも彼女は容赦しませんでした。「死ねぇ~」と絶叫しながら、僕をガンガン殴るのです。その目は鬼のように真っ赤に血走っていました。そのまま、血だるまになって救急車で運ばれていったことも何度もありました。そんな僕を見て、運んでいく救急隊員は一体何事が起こったのか、いつも目を丸くしていました。でも、僕はそれでも、その中で幸せを感じていたのです。堪らない至福の中にいたのです」

「「あんた、このままいったら死ぬよ」。ある日、僕を懇意に使ってくださっていた監督さんが僕に言いました。「ほんと死ぬよ」。でも、僕はそれでよかった。彼女に殺されるならそれはそれで本望です。「かまいません」。僕は毅然として言いました。監督さんはそんな僕に呆れ、笑っていました」

「そんな日々の続いたある日のことでした。その日、また、僕は夜中に突然彼女に呼び出されました。「私を殴りなさい。卑屈でいて、高圧的に」。部屋に着くなり、彼女はしっかりと僕の目を見て言いました。それは逃げ場のない、完全絶対の命令でした。僕は背中にツララのような細長い氷柱が突き抜けていく、痛みのような冷たさを感じました。遂にその時が来た。そう思いました。自分が彼女に傷つけられる。それはもうまったくどうでもいいことでした。でも・・、彼女を・・、彼女を傷つける・・、それは・・、僕には・・、僕にはあってはならないことでした・・、それは神を傷つけるに等しい、絶対に許されない行為でした・・」

「「殴りなさい」。彼女がもう一度言いました。それは絶対に逆らえない絶対でした。僕は震える手で彼女を殴りました。「手加減はいらないわ」。彼女は僕を睨みつけました。僕はもう一度殴りました。彼女の小さな体は非力な僕の力でさえ、かんたんに吹っ飛んでいきました。僕の右手拳には罪悪感と共に、なんとも言えない生々しい彼女のやわらかい感触が残りました・・」

「僕は遂に・・、僕の中に堪らない恐怖と不安が沸き上がりました。僕は遂に・・、遂にやってしまった。僕の全身が、決して超えてはいけない何かを超えてしまった恐怖で震えました」

「しかし、起き上がった彼女の目はこれまでになく恍惚として輝いていました。溢れ出るどうしようもない喜びをこらえきれない子どものようなキラキラと輝いた目で、彼女は僕を見つめてきました。「私の首を絞めて」。彼女はまるで小さな子どもが、お気に入りのおもちゃで遊んでというように無邪気に言いました。僕は彼女の首を絞めました。僕に首を絞められている時、彼女は、まるで天国へでも上っているかのように、恍惚とした本当に幸せそうな表情をしていました」

「「汚すのよ」。「もっと、もっと私を汚すの」。彼女は激しく、欲望の渇望にのたうつように言いました。僕は、彼女の望むままに震える拳で彼女を殴り、凌辱し、蹴り上げました」

「「ああ~」。快感の呻きを漏らす彼女はもう恍惚を超えた別の領域で、どこまでもイってしまっていました」

「その時の彼女は美しかった。とても美しかった。僕はそんな彼女に魅せられたように見惚れていました。神話の中の聖者が死ぬ間際に見た神の光の神々しささえも凌駕する輝きをその時の彼女は持っていた。それはもう超えるはずのない美を超えた圧倒的感動だった。その時の彼女は、神がかった美しさと、無垢な赤ん坊のような美しさを、同時に全身から発していました」

「でも、同時に、世界で一番大切な彼女を傷つけていることの最低さ。僕は魂までも最低になっていく・・。彼女を殴っている時、僕は心の底からそう感じていました。彼女を殴る拳の一つ一つが、決して汚してはいけない、汚れることのできないはずの僕の普遍的魂を汚していく。僕は確実に地獄へ落ちている実感を持っていた。しかし、僕が魂の底から醜くおぞましい人間になっていけばいくほど、そんな僕に傷つけられる彼女はより最低の人間になることができる・・。彼女が幸せなら、僕はそれでいい。彼女が幸せならそれで・・」

「僕は彼女を心の底から愛していました。堪らなく、どうしようもなく愛していた。分かってもらえないかもしれませんが、彼女を傷つける拳一つ一つに、首を絞める手に力を籠める一瞬一瞬に自分が切り刻まれるように傷ついていく、剥き出しの心の血肉が擦り切れていくその痛み一つ一つの苦しみこそが僕の愛でした。彼女を傷つけたくない。寸分でも傷つけたくなどなかった・・。でも、僕は彼女を愛していた・・」

「苦しかった。彼女を傷つけることは堪らなく苦しかった。細胞の一つ一つ、神経の一本一本から痛みと苦しみがその奥から滲み出てくるようでした。でも、それが僕の愛でした・・。僕の全身全霊の愛でした」

「彼女はもっと、僕に最低な人間を要求しました。愛する人間を平気で傷つけられる鬼畜のような本当に最低の人間です。傲慢で高圧的に人を見下し、何の躊躇もなく徹底的に容赦なく傷つけることのできる人間。それでいて卑屈で弱く、どうしようもなく下劣で最低な人間。彼女は僕に完璧を求めました」

「僕は冷酷に徹し、彼女を殴り、蹴り上げました。突き飛ばし、顔を踏みつけました。唾を吐きかけ、おしっこをかけ、精液をかけまくりました。しかし、彼女は満足しませんでした。「もっとよ。もっと汚しなさい」。僕がどれほどやっても、そう彼女は叫び続けました。僕はさらに力を込めました。「もっとよ、もっと」。彼女は叫びました。それはもう狂いきってしまった餓鬼のようでした。地獄から生き返ろうとする猛り狂う亡者のようでした。僕はさらに力を込めました。「もっとよ。もっと」。彼女は叫び続けました」

「僕たちは、毎日、毎日、激しくお互いを傷つけ合いました。現場では彼女が僕を、徹底的に罵倒し、殴り、蹴る。そして、そんなボコボコに凌辱された僕が部屋に帰って彼女を、ありとあらゆる方法で殴り蹴り、凌辱する。僕たちは休むことなく、壮絶にお互いを傷つけ合いました。そんな激しい、あまりに激しいぶつかり合いに、近所から警察を呼ばれたことも一度や二度ではありません。真剣に、スタッフや監督さんや関係者の人たちに、やめるよう説得されたこともありました。「本当に死ぬぞ」。みんなに真剣な顔でそう言われました」

「でも、その時、僕たちは生きていたのです。本当に生きていたのです。堪らなく生きているという実感が、僕たちを突き上げていたのです。深い深い、生命の根源的な感覚の部分で、「生きている」。「本当に今生きている」。と、そんな強烈な実感が僕たちにはあった・・」

「その時、僕たちは、生きるために傷つけ合い、傷つけ合うことで生きていた・・」

「そんな壮絶な、あまりに壮絶な僕と彼女の日常の果てに、性も根もつき果て、疲れきった僕たち二人は、剥き出しの床に転がり、どちらからともなく抱き合いました。漂う虚無がすべての時間と空間を覆っていました。その時、彼女は僕の胸の中で小さく、本当に小さく「ありがとう」。と、そう言いました」

「その微かな彼女の声を聞いた時、もう、終わりが来ているんだな。そんな予感がしました・・」

「そして、その時がきました。「私を殺して」。ある日、僕に首を絞められている彼女は言いました。彼女の目は「もういいわ」。そう言っていました。生きることに疲れた。生きることになんの未練もない。生きることの絶望を目の前ではっきりと見てしまったそんな目でした」

「僕は静かに彼女の首を絞める手に力を込めました。それはギリギリときしむ音が、コンマ何秒の世界で連続していく永遠の時間でした――」

「締めあげられていく彼女の細胞一つ一つの、かすかな声が手に伝わってくるような彼女の苦しみは、だんだんと恍惚とした表情に変わっていきました。彼女の目はもう別の世界を見ていた。あともう少し、あとほんのちょっと力を籠めるだけ、それだけで彼女は・・」

「彼女は完成した完全なる幸福の世界に旅立とうとしていた。あと少し、ほんの少しの力で・・」」

「でも、僕はその瞬間、首を絞める手を緩めてしまった。なぜかは分かりません。最後のほんのちょっと。ほんの・・、ほんとにあと、ほんのちょっとだった・・」

「「あなたは本当に最低ね」。彼女が冷たく言いました。それは完全に失望し、蔑んだ目でした。今までも蔑まれてはいた。でも、そこにはどこか愛があり信頼が含まれていた。でも、もうそこには何もなかった。まったく何も・・、彼女の目の中で、僕に対するすべての色が消えていた。ただ冷たいだけの目がそこにはあった。僕は彼女のその目が何よりも辛かった。殴られるよりも、蹴られるよりも・・、殺されるよりも・・」

「僕は彼女のすべてを失ったことを知りました。僕はその場にうなだれ、崩れ落ちました」

「でも、僕にはできなかった・・・」

「僕は彼女を殺せなかった・・」

「その後すぐ、数日して彼女は死んでしまった。死因は分かりません。でも、多分自殺です」

「彼女はもう、僕を殴ってくれませんでした。罵ってくれませんでした・・」

「彼女は死んでしまった・・、たった一人で・・」

「自宅で一人ベッドに横たわったまま、死んでいたそうです。発見された時には体中ウジが湧き、部屋中ハエが飛び回り、腐敗が進んでドロドロになった彼女の体液は、下の階まで染み込み、流れ出していたそうです」

「彼女は、自分を世界で一番最低な人間だと思っていた。そんな自分を徹底的に汚すことで、徹底的に傷つけることで、彼女はなんとか自分を保ち生きていた。そして、そんな自分が徹底的にいじめ、屈辱を味合わせた僕に汚され、殺されることでその最低な人間は完成した。彼女にとってそれが救いだった」

「僕があの時・・、殺してあげていたら・・、彼女の言うように彼女の理想は完成していたのかもしれません・・」

「僕は最低です。彼女を一人で死なせてしまった。彼女のささやかな望みさえも叶えて上げられなかった」

 さとしくんは頭を抱えた。

「・・僕は本当に最低です」

 そして、さとしくんは最後にぽつりと言った。

「・・・」

 僕とおじさんは何も言えず黙っていた。

 店の中はちらほらと客が入り始めていた。僕たちの隣りのテーブルにも、若いサラリーマンのグループが仕事終わりの解放感を漂わせ、楽しく飲み始めていた。

「これが僕の最初で最後の恋です」

 しばらく経って、さとしくんは沈黙を打ち消すように、顔を上げ少し照れたように笑った。

「最後ってわけじゃないんじゃない」

 おじさんが言った。でも、さとしくんはそれには答えず寂しそうに微かに笑っただけだった。

「つまらない話をしてしまってすみません。どうしても誰かに聞いてほしかったんです。今日を逃したら一生言えない気がして」

 さとしくんはまた恥ずかしそうに笑った。

「いや、とても面白かったよ」

 僕とおじさんは心の底からそう言った。

「今日は僕がおごります。じゃんじゃん飲んでください」

 さとしくんは明るくそう言うと、大将に新しいチューハイとこの店で一番高い一皿二百円の焼肉を三つ注文した。

 客が入りだした店の中は、酔っ払いの笑い声と歓声が響いていた。気づけばいつの間にか外はもう暗く、辺りは華やかな夜の街へと変貌していた。 

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