第7話 汁男優さとしくんの話

「初めて会った彼女は、その美しい特徴のある大きな瞳で、僕の顔をまじまじと見つめました。そして緊張し過ぎて、ただその場に突っ立っているだけの僕に突然言いました。「あなたは最低だわ」。」

「僕は彼女のどこまでも透き通ったその瞳の奥にある輝きに囚われ、微塵も動くことが出来ませんでした。彼女は、僕に近づくと、そんな僕の顔を更にまじまじと覗き込み、言いました。「あなたは本当に最低だわ」。彼女はとても嬉しそうでした。「あなたはとても醜い」。「そして卑屈だわ」。僕をそう寸評していく彼女は本当に嬉しそうでした。しかし、僕は相変わらず、ただ茫然とアホ面を晒したまま、そんな彼女を見つめることしか出来ませんでした」

「彼女は更に、美しい花の香りのような彼女の息を感じるまでに、そんな固まったままの僕の鼻先までその美しい顔をゆっくりと近づけ、言いました。「私を汚して」。僕は彼女の言った言葉も、意味も、何も分からず彼女の瞳の中に、吸い込まれるようにただ魅入られていました」

「「あなたは今日から私のものよ。いい?」。最後に彼女はそう言いました。穏やかではありますが有無を言わせない口調でした。「はい」。そう言ったことだけは覚えています。後はなんだか夢の中の出来事のようで、全く現実感がありませんでした」

「その日から、僕は彼女の付き人兼汁男優になりました。いえ、そんな格好の良いものではありません。召使い、いや、奴隷と言ったところでしょうか。彼女の身の回りの世話から日常の雑事まで、全て僕がやることになりました」

「彼女はとてつもなく自己中で我がままでした。そして、世界一起伏の激しいジェットコースターのように、とてつもなく気分の移り変わりが激しかった。それはもう病的なほどです。「お茶っ」と言われて持っていくと、やっぱり「コーヒー」と言い、コーヒーを持っていくと、「やっぱ要らない」と言い、傍に居なさいと言われ傍に居ると、なんで居るのと、突然怒り出すといった具合です。言っていることに一貫性がなく、支離滅裂で、無茶苦茶でした。それでも彼女の傍にいられるだけで僕はとても幸せでした。彼女の過去の付き人はみな、三日と持たず次々辞めて行っていました。でも僕は幸せでした。彼女のその神々しいばかりの輝きを感じていられるだけで、十分過ぎる程満足でした」

「撮影も彼女の気分次第でした。彼女の気分が乗らないと、何時間でもスタッフは待たされました。結局朝まで何も撮影できないということもしょっちゅうでした。制作会社からしたら莫大な赤字です。しかし、彼女は売れっ子で、誰も彼女に意見できる人はいません。監督さんやメーカーのお偉いさんでさえ、何も言えないのです。それどころか、そんな人たちにでさえ、「○○駅前の自動販売機のコーラね」。などと無理難題を言ってパシリに使うのです。それに従わなければ、撮影が続けられないのをみんな知っているので誰も拒否できません。しかも、適当に近くのコンビニなどで買っていくと、その辺は妙に感が鋭く、すぐに見破られてしまうのです。そうなったら大変です。彼女は、撮影のことなどお構いなしにそのまま帰ってしまいます。押さえたスタジオや大金をかけて作ったセット、撮影機材、揃えたスタッフがみんなパーです。そうなったらもう、現場は大混乱です。しかし、はっきり言って、彼女の人気でみんな飯を食っているというのが現実です。誰も文句は言えませんし、彼女をクビにすることなど誰にもできません。結局、悪いのは百パーセント彼女のはずなのに、謝るのはいつもお偉いさんや現場のスタッフの人たちの方なのです」

「ある日など、スタッフから出演者からメーカーのお偉いさんまで総勢二十人以上にはなる大の大人たちが廊下に並ばされ、彼女に説教されていました。理由はベッドのシーツに一本皴があったとかいう、もうめちゃくちゃどうでもいい、難癖をつけるようなたったそれだけのことだけです。そんな神経質すぎるほどの些細なことで彼女は一時間も二時間も、時には五時間以上も深夜まで、あ~だこ~だと難癖をつけて、延々と説教をしていました。しかも、一回りも二回りもそれ以上に年上の立派な大人たちをです」

「でも、彼女の事を本気で嫌う人は誰もいませんでした。そこが彼女の不思議なところです。超わがままで、病的なほど自己中で、全てが無茶苦茶なのですが、それでもどこかみんな許せてしまうのです。彼女にはそんな不思議な魅力がありました。彼女は、現場の人間全てに愛されていました。やはり、華があるのです。彼女が現場に入ると、それだけで場が華やぎます。殺伐とした男だけの現場が急に明るく元気になるのです」

「仕事が終わった後、彼女はスタッフ全員をよく焼き肉に連れて行きました。なぜかいつも決まって焼き肉でした。男は肉を食わなければならない、肉を食ってこそ男なのだというのが、彼女の中のよく分からない信念でした。その時の食事代はいつも彼女が全部支払いました。スタッフから出演者から何から全員分です。いつも高級な焼き肉屋に行くので、食事代はいつも二十万、三十万は軽く超えていたと思います。でも、そういう時、絶対に他の人にはお金を払わせません。彼女はそういう振り幅の広い人でした」

「ある日、そんないつものように仕事が終わった後、彼女に従ってスタッフ全員と焼き肉を食べに行った時のことです。その日、彼女は珍しく機嫌よくみんなと談笑しながら食事をしていました。いつもは、焼き方や肉の焼く順番など細かい事にいちいち怒って、食べ始めたとたんに説教などが始まるのですが、その日は怖いくらいに平和に時間が流れていました。ちなみに、彼女は特上カルビや特上霜降り肉など、高い肉を僕らがどれだけ頼んでも、今まで一度も怒った事はありません。それに、下っ端のスタッフや出演者にも、一切差をつけることはありません。その辺の怒るポイントが独特でまた気難しいのです」

「そんな、みんなが和気あいあいと楽しそうに焼き肉を楽しんでいたその時です。ふいに彼女が突然、何の前触れもなく、自分の食べかけの肉を床に放り投げました。それは本当に何の脈略もなく、突然のことでした。肉は何か映画のワンシーンのスローモーションのように、ゆっくりと舞うように回転しながら、テーブル脇の白い人工大理石の床にべチャリと落ちました。その場にいた全員が、何事かとそれを見つめます。いったい何が起こったのか、何が始まったのか、みんな一瞬にして戦々恐々とした空気になりました。彼女は時折、突拍子もないことをやり始めたり言い始めるたりするので、大概そういう時は無理難題を言うことが多いので、スタッフのみんなはまた何事か彼女がまた言い始めるに違いないと思ったのです。その場は時間が止まったかのように、全員が物音ひとつ発することなく固まっていました」

「その時、彼女が、ゆっくりと試すように僕を、そのパッと見ひらかれた端正な瞳で見つめました。その場にいる全員が茫然とする中、その瞳の奥で彼女が何を言わんとしているのか、僕にはなぜか瞬時に分かりました。僕はゆっくりと立ち上がり、肉の前に立つと膝をつき、犬のように顔を近づけ、手を使わず口だけで床を舐めるようにその肉をくわえ、そしてそれを食べました。みんなが、その場にいた他のお客さんからお店の人まで全ての人が、そんな僕を目を丸くして茫然と、少し恐怖を滲ませ見つめていました。しかし、その時、僕はそんなことは全く気になりませんでした。僕にはその時、何か神の光のようなものが降っていたのです」

「僕は肉を飲み込むと、恐る恐る彼女を見上げました。彼女はとても満足そうな笑みと至福の表情を浮かべ、僕を見下ろしていました。僕はそんな彼女の満足そうな顔を見た瞬間、背筋にゾクゾクとした得も言われぬ喜びが、何かそういった生き物がくねくねと這い上がるように走るのを感じました。僕はその時、自分が生まれてきた意味を知ったのです。僕がなぜ今、この瞬間、ここに、こうして、この時代に、このように存在しているのか、全て分かったのです。はっきりと、その時分かったのです」

「生まれてきて良かった。僕はその時、心の底からそう思いました。今まで、僕の人生の中で、そんなことは一度たりとも思ったことはありません。むしろ生まれてこなければよかったと思わない日はありませんでした。僕の人生は、孤独で、惨めで、悲しいものばかりでした。でも、僕は今、そんな僕の生まれて来た意味を生まれて初めて知ったのです。僕は気付くと涙を流していました。感動の涙でした。よく、ある種の信仰に目覚めた人が、神の存在に気付き、涙すると言います。正にそれでした。僕はその時、神を見たのです。そんな僕を奇異な目で、その場にいた全員が見つめていました。でも、彼女だけは違っていました。彼女は僕のその喜びを分かっていたのです。彼女だけは僕を分かっていたのです」

「その焼き肉の日を境に、彼女の怒りの矛先は全て僕に向かうようになりました。しかし、僕はそれが嬉しくて嬉しくて堪りませんでした。彼女が僕だけを見ている。そう思うだけで、僕はもう得も言われぬ快感が腹の底から脳天に突き抜け、気が遠くなるほどでした。彼女は容赦なくみんなの見ている前で僕を蹴り、殴り、罵倒し、唾を吐きかける。しかし、その一つ一つに僕は堪らなく彼女の愛を感じるのです。堪らなく喜びを感じるのです。どうしようもなく堪らなく快感を感じるのです。もう、それだけでイってしまいそうなほどなのです」

「傍から見たら、哀れでかわいそうな奴に見えたかもしれません。しかし、僕はこの時、この上も無く幸せの絶頂にいました。生きている喜びを、生まれて来た感動を、全身で噛み締めていたのです」

「彼女に罵倒され、虐められ、徹底的に辱められる、そんな毎日が続きました。しかし、彼女に罵倒され、虐められ、辱められ、逆にそんな卑屈な人間に徹していくと、僕は逆に汁男優としてはこの上もなく評価され、更に仕事がどんどん入ってくるようになりました。彼女にいじめられればいじめられるほど、それに反比例して、汁男優としての評価が不思議とどんどん上がっていくのです」

「汁男優というのはあれで案外と難しいのです。出すタイミング、キレ、立ち位置、映り方など、その動きに繊細さと賢さが要求されるのです。そして、醜さ、卑屈さ、気持ち悪さを合わせ持ち、美しい女優さんを穢すという中に最高のエクスタシーを演出しなければなりません。しかも、代わりはいくらでもいます。汁男優といっても厳しい世界なのです。そんな厳しい世界の中にあって僕みたいな愚鈍な人間など、全く評価されるわけはありません。毎日毎日、監督やスタッフの方々にも怒られる日々でした」

「しかし、それが、彼女に罵倒され、虐められ、徹底的に辱められ、僕という弱い卑屈な人間が、その弱さと卑屈さを増し、極めていくほどに、現場では一目置かれ、僕を見る目が変わっていくのです。それはとても不思議な感覚でした。人間として蔑まれているはずなのに、しかし、そのことが汁男優としては僕を高めている。そしてその高みは、通常の価値観を超越し、なにか別の領域へと僕を導いていました・・」

「・・・そして、いつしか僕はカリスマなんて呼ばれるようになっていたのです」

「しかし、彼女はそんな僕に更なる怒りをぶつけました。「ちょっと売れっ子だからって調子こいてんじゃねぇぞ」。「お前最近態度でかくなってねぇか」。「お前が調子乗るなんて千年はええんだよ」。彼女はよくそう言って、僕を罵倒し、殴り、蹴りつけました。そして、僕を罵倒し、殴り、蹴りつけながら、彼女はさらに興奮していき、さらに罵倒し、殴り、蹴りつけ、怒りに身を狂わさんばかりにその勢いと激しさを強めていくのです。しかし、それがまた僕には堪らないのです。やはり、脳天を突き抜けるような堪らない快感が全身を貫くのです。全身を覆うような得も言われぬ喜びが、僕をもうどうしようもなく包み込み、身悶えするのです。それは愛でした。彼女の確かな愛でした。彼女の愛などと、僕が言うのはおこがましいです。しかし、僕はそう感じていました。確かな確信と共に・・、それは偉大なる神の愛だと」

「僕はとても忙しくなりました。彼女の付き人に加え、汁男優の仕事もひっきりなしに入ってくるので、それをこなすだけでも大変でした。毎日睡眠時間は二時間か三時間。昼間はもう意識が朦朧とするほどでした。しかし、彼女はもっと忙しかった。彼女は殺人的スケジュールを日々こなしていました。朝から晩まで働きどうしです。しかも出演する作品はハードなものばかり。まるでわざと自分をいじめているかのようでした」

「撮影中の彼女は普段他人をいびっている時の彼女とは完全に別人でした。彼女はAV男優や汁男優に汚され凌辱されている時、なぜかとても幸せそうでした。汁男優に精液をかけられ、悪辣なAV男優たちに乱暴にレイプまがいのセックスを強要されている時、彼女は汚い精液を垂らしながら恍惚と妖しくその目を光らせているのです。嬉々として、恐ろしいまでに自分をいじめては、彼女は何かに憑りつかれているかのように、何か別の領域の快感にイってしまっているようでした」

「僕はその時、本当の彼女が分かっていなかったのです。本当に彼女が求めていたものがなんなのか、本当に彼女が望んでいることがなんなのか、全く分かっていなかったのです・・」

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