第6話 汁男優さとしくん
いつも気づけばおじさんの車に乗っている。昨日別れたはずなのに、僕はもうクラウンの助手席に座っていた。あれからたかし君は、薬を飲む時間なのでと言って、あっさり帰って行った。
「・・・」
たかし君の言う無限の寂しさとは一体どんな感じなのだろう。古いクラウンの助手席で揺られながら、僕は僕に出来うるありったけの想像力で想像してみた。
しかし、今の自分の寂しさ以上の寂しさは何も浮かんでは来なかった。たかし君の寂しさはたかし君の寂しさでしかなく、僕の寂しさは僕の寂しさでしかなかった。
いつもの時間にいつものガード下の元ヤクザと元暴走族特攻隊長の息子の店に着くと、珍しく先客がいた。小柄な男が一人ポツンと、申し訳なさそうにその場に縮こまるようにして、僕らがいつも座る右奥の四人掛けのテーブルの片隅に座っていた。
「弟っす」
元特攻隊長の兄が言った。僕たちは改めてその小柄な男を見た。
「ああ、あのAV男優の」
在日朝鮮人のおじさんが大声で合点した。おじさんはそのまま何の迷いもなく、さとしくんの座っているテーブルの向かいに座った。僕もおじさんの隣に座った。
「さとしと言います」
元特攻隊長の弟は、色白の顔を上げると、おどおどと恥ずかしそうに卑屈な笑顔で頭を軽く下げた。
僕たちは三人で一緒に飲むことにした。いつものようにすぐにテーブルの真ん中に大盛りのキャベツ炒めが置かれ、いつもの殺人的濃度のチュウハイがそれぞれの目の前に置かれた。
「かんぱ~い」
そしていつものように、おじさんはそう言うか早いか、直ぐに嬉々とした満面の笑顔でジョッキを煽った。
「おかわりね」
「ペース早過ぎないですか」
もはや決まり文句のように僕が心配してそう言っても。いつものようにおじさんは幸せそうに、へへへっと笑っているだけだ。
さとしくんは乾杯の後、小さくジョッキに口を付けただけで、何かに脅えるように静かに視線をテーブルに落としたまま小さく固まっていた。その姿は、ある種珍妙な小動物のよく分からない習性のようであった。
三十ちょっと過ぎぐらいに見えるさとしくんの頭はすでに禿げていた。禿げ方にもいろいろあるが、この禿げ方が一番醜いなと思わせる禿げ方だった。禿げてはいけない部分が見事に禿げており、ここまで来たらもう禿げてしまった方が良いと思わせるところが、無残に残っていた。
のび太くんとデコッパチを合わせたようなその顔は、うらなり顔におでこが妙に出っぱっていて、どこか奇形児を連想させた。目も細く重厚な一重で、小さい黒縁の眼鏡の奥のそれは、何を考えているのか人を不安にさせたし、あまりに白い肌は病者のようで、そこに吹き出た無数の吹き出物はその不気味さをより際立たせ、身に沁みついた卑屈さは全身を通しておどおどした目と表情に現れ、それは無条件に人をイラつかせ不快にさせた。
卑屈に笑うその前歯には歯が数本しか残っておらず、その残った歯も腫れた歯茎に奇妙に傾いてかろうじて残っているといったありさまだった。
僕が言うのもなんだが、初対面でこれほど嫌な気持ちになった人は初めてだった。それ以前に、こんな卑屈で不気味で不細工な人間を僕は見たことがなかった。それはある意味、逆の価値観で見れば芸術ですらあった。
「君はAV男優なんだろう?羨ましいな」
おじさんは二杯目のチュウハイを勢いよく煽ると、さとしくんを上から下へ舐めるようにジロジロと見つめ心底うらやましそうに言った。
「やっぱり、毎日毎日セックスするわけ?」
おじさんはさとしくんを更にいやらしく覗き込むようにして見た。
「い、いえ、毎日毎日セックスはしないです」
さとしくんはおどおどと答えた。
「毎日毎日セックスしないの?」
「はい、毎日毎日セックスしません」
「じゃあ何をするわけ」
さとしくんは、問い詰められた犯罪者のように怯え黙った。
「君はAV男優なんだろう?」
「いえ、僕はAV男優ではないんです」
さとしくんはそこまでしなくてもというくらい恐縮して言った。
「AV男優じゃないの?」
「AV男優ではないです。すみません」
「じゃあ、なんなの?」
「あの・・、汁男優です」
さとしくんは、しばらくもじもじとした後、それがまた人をいらだたせるのだが、何か重大な犯罪でも犯したみたいに大仰に申し訳なさそうに言った。なんだか本当に取り調べを受けている犯罪者のようだった。
「汁男優?」
「はい、汁男優です」
「汁男優ってなんだ?」
おじさんは急に僕の方を見た。僕は説明に困った。おじさんはそんな僕の顔をまじまじと覗きこんで、小首を傾げた。
「その汁男優っていうのは女の子とセックスしないわけ?」
おじさんは再びさとしくんを見た。
「はい、セックスはしません」
「じゃあ、何をするの」
「ただ出すんです」
「ただ出す?」
「はい、ただ出すだけです」
「それは女の子が出してくれるってこと?」
「いえ、自分で出すんです」
「自分で?」
「はい、自分で出すんです」
さとしくんは恥ずかしそうにうつむいた。
「ほんとに出すだけなの」
「はい、ほんとに出すだけです」
「毎日毎日、ただ出すの?」
「毎日毎日ただ出すんです」
「毎日毎日自分で出すの?」
「毎日毎日自分で出すんです」
おじさんはなんだかよく分からんという表情で少し考えてからまたさとしくんに質問した。
「う~ん、でも、毎日毎日セックスは見るわけだろう」
「はい、毎日毎日セックスは見ます」
「毎日毎日、生のセックスを見るわけだろう」
「はい、毎日毎日、生のセックスを見ます」
「それはやっぱり羨ましいよ。なあ」
おじさんはまた僕の方を見た。
「そうですよ。羨ましいですよ」
僕は大いに同意した。僕たちは羨望の眼差しでさとしくんを見た。
「そうでもないですよ」
さとしくんは、そんな視線に困惑するように小さく言った。
「そうでもないの?」
おじさんはまた僕の方を見た。
「いや、そこを僕に聞かれても」
「でもやっぱり羨ましいよ。なあ」
「はい、ものすごく羨ましいです。女の人の裸が見れる仕事なんて」
僕はまた大いに同意した。僕とおじさんは二人で勝手に妄想し興奮していた。さとしくんはそんな僕らの熱気に困惑し、黙ったままチュウハイを一口飲んだ。僕らもつられて、チュウハイを飲んだ。
「ところで君はなんで汁男優になったんだい?」
おじさんが改めて聞いた。
「僕は恋をしたんです」
「ん?」
僕とおじさんは顔を見合わせた。全く予想だにしない答えだった。そもそもその顔から恋などという単語が口をつくこと自体、自然の法則に反していた。
「君は恋をした」
「僕は恋をしました」
「恋をして汁男優になった」
「恋をして汁男優になりました」
「恋をすると汁男優になるの?」
おじさんはまた僕を見た。
「だから、僕に聞かれても」
僕とおじさんは、恋と汁男優が全く結びつかなかった。僕たちは二人揃って、またさとしくんをまじまじと見た。
「僕はAV女優に恋をしたのです」
さとしくんは少し頬を赤らめ、心底恥ずかしそうに言った。
「君はAV女優に恋をした」
「僕はAV女優に恋をしました」
「AV女優に恋をすると汁男優になるの?」
おじさんはまた僕を見た。
「いや、だから、僕に聞かれても」
「・・すみません」
さとしくんはなぜか謝った。
「でも、だったらAV男優になればいいんじゃないか」
おじさんは素朴な疑問を投げかけた。
「僕なんかがなれるのは汁男優くらいです」
「でもどうやってなるんだ汁男優は」
「AV見てたら募集してました」
「案外かんたんなんだな」
「はい、案外かんたんでした」
「でも、面接とか厳しいんだろ」
「行ったら即採用でした」
「そうなの?」
「汁男優は醜く卑屈な人間の方が良いのです。それに僕は見事に合致していました。僕は計らずも汁男優に向いていたのです」
「醜い方がいいのか」
「汁男優は逆に醜く卑屈で気持ち悪くなくてはならないのです。醜く卑屈で気持ち悪い男が美しい女優の方々にかけて汚す。そのことのマゾヒズムにこそ快感があるのです」
「なんだか複雑だな」
おじさんは小首をかしげた。なんだか良く分かっていないみたいだった。
「だから僕は直ぐにあちこちの現場で引っ張りだこになりました。自分でも驚くくらい多くの方々に絶賛されました」
「へぇ~、意外なところに意外な需要があるんだな」
「まさか自分にこんな才能があるとは全く思ってもいませんでした。僕は日本で初めてのプロの汁男優になりました」
「でも、ただ出すだけなんだな」
「はい、ただ出すだけです。汁男優はただただ出すだけです。決して主役にはなれません。なっていはいけないのです。決して目立たず部屋の片隅で卑屈にただただ出すんです。それ以上でもそれ以下でもありません。ただ出すんです。僕たちに人権などありません。かけさせていただく、それが僕たちの姿勢であり、存在なのです」
それまで大人しかった清くんが、熱を帯びたように急に語気を強めた。
「そこまで卑下しなくてもいいんじゃない」
「いえ、自分たちの存在など、ごみ以下なのです。それでいいのです」
そう言い切る清くんの目には何かを悟りきったかのような意思の強さがあった。
「ところでその恋した女優さんには会えたの」
「会えました」
「会えたんだ」
「会えました。彼女が指名してくれたんです」
「指名!」
「指名です」
僕とおじさんは、意外な展開に驚いて、再び顔を見合わせた。そして、またすぐにさとしくんの顔をまじまじと見つめた。
「憧れの彼女が目の前に立っている。それは、もう信じられない光景でした。こんな美しい人が、この世に存在するのか。僕はもう、現実を見ている気がしませんでした」
その時の情景をありありと思い出しているか、さとしくんは、その細い目を更に細めた。心なしかその重厚な瞼の奥の良く見えない、細い目が輝いているように見えた。
「実際に見る彼女は輝いていました。本当に輝いていたんです」
そこからさとしくんは、ゆっくりと遠い昔を懐かしむように語り出した。
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