第5話 統合失調症のたかし君

 僕は戦闘機の轟音とともに目覚めた。頭が割れそうに痛い。

「う~ん」

 時計を見るといつも通り昼の少し前だ。体も鉛のように重い。いつもあの殺人チューハイを飲むと、酷い悪酔いをする。一体あのチューハイには何が入っているのだろうか。噂によると相当質の悪い合成酒が使われているらしいというが・・。

「・・・」

 僕はなんとか布団をはねのけ上半身を起こすと、自分の部屋のあり様を眺めた。そこには昼間だというのに薄暗く、これ以上汚くしようのない雑然とした絶望的光景が広がっている。それはまさに僕の堕落しつくした心そのものだった。

 口の中が酸っぱい。部屋も最悪だが、気分も最悪だ。昨日、しおりの部屋に行ったことは覚えている。でも、あれが現実だったのか夢だったのか――、あまりに意識が濁り過ぎて確信が持てなかった。

 また一機の戦闘機が頭上をその轟音とともに飛んで行く。今日は何か大きな軍事訓練でもあるのだろうか。イラつくほど何度も何度も、やたらと低空飛行で凄まじい轟音を僕に押しつけるように残して、戦闘機は僕の頭上を嫌がらせのごとく飛んで行く。

 僕はニートと言うらしい。それを最近知った。この間見たテレビでやっていたニートの定義に、僕は見事に、すべて当てはまっていた。

「僕はニートだったんだ」

 僕は新しい自分を発見した。

 重い頭を抱え上げるようにして布団から立ち上がると、僕は冷蔵庫へよろよろと歩いて行った。少し立ちくらみがして、視界がぼやける。冷蔵庫に辿りつくと、そこから牛乳を取り出し、からからの喉からぐちゃぐちゃの胃にそれを思いっきり流し込んだ。息が続く限り飲み続けて、やっと口から牛乳のパックを離すと

「あ~」

 という言葉にならないうめき声が漏れた。不思議と一日のうちでこの瞬間が一番生きているという実感が湧く。

 ふとその隣りの水槽を見ると、相変わらずウーパールーパーはとぼけた顔で、カタカタと回る水槽の中で悟りを開いたがごとく佇んでいる。

「・・・」

 そのつぶらな瞳が見ている世界を僕も見てみたいと、まだ、ぼやけた頭でなんとなく思った。

 言葉はいつも、僕を切り取ってしまう。僕はニートという言葉に切り取られてしまった。ダメ人間、社会不適合者、人格障害、ブサイク、フリーター、そしてニート。僕は自由でいたいだけなのに、僕はどんどん切り取られてしまう。

 僕は自分の預かり知らないところでどんどん不自由になっていく。ニートになる前の僕はもう少し自由だった気がする。でも、その時の僕にはもう戻ることは出来ない。

 少しだけ寝起きと二日酔いの苦痛が和らぐと、急に目の前に容赦のない現実が立ち現われてきた。僕の貯金は来月で尽きるのだ。僕の未来は薄暗い。薄暗い部屋のすえた淀んだ空気が、僕の中に直接入りこんで、交じり合うようだった。不安はいつも、ほっ、とした時に、ふっ、とやって来る。僕はその絶望に立ちすくんだ。

 ピンポ~ン

 突然、玄関のチャイムが鳴った。僕は無視をした。どうせ、NHKか新聞の勧誘だろう。

 しかし、少し間をおいてからまた鳴った。今回はしつこそうだ。さっき湧きおこった不安に不快感までが乗っかって、堪らなく嫌な気分になった。

 僕は新聞を取るほど、金も社会に対する興味もないし、勝手に映しといて金を取るNHKに払えるような金も心の余裕もないのだ。それにみんなのNHKと言うけれど僕はそのみんなの中に入れてもらえていないじゃないか。僕は立派に孤独だ。

 しかし、チャイムはそんな僕の憤慨を無視してまた鳴った。諦めの悪い奴だ。頭にきてどんな奴かと玄関まで行って、ドアの覗きレンズから外を覗いてみた。

「ん?」

 そこには、レンズで歪んだ青年が、ぬぼーっと立っていた。それは、統合失調症のたかし君だった。僕はすぐに鍵を開け玄関のドアを開けた。

「どうしたの?」

 僕はやさしく訊いた。しかし、たかし君はなんの反応もなく、虚ろにその場に突っ立っているだけだ。

「何かあったの?」

 僕は、もう一度聞いてみた。

「僕は本当に誰なんでしょう?」

 たかし君は、焦点の合わない目を僕に向けた。

「君はたかし君だよ」

「たかし君ていうのは誰なんですか」

「たかし君というのは君だよ」

「僕がたかし君という・・、そのたかし君は誰なんですか」

「う~ん、たかし君はたかし君だよ」

「・・・?」

 たかし君は呆けたように、まったく理解できないといった表情で、ぽか~んとしている。

 その時、向かいの部屋のドアがふいに開いた。

 その隙間から、原色の強烈な濃い化粧が施された平たくでかい顔に乗っかった、浮世絵に描かれた女のごとく糸のように細いなんとも厭らしい目が、ぬーっと現れ、僕らを鋭く睨む。そして、妙に若々しい五十代に見えるその顔の奥から、のそりとその顔とのアンバランスさがまた不気味な、七十代か、八十代の腰が曲がったよぼよぼの体が這い出てきた。

「・・・」

 向かいのばあさんはその何ともいやらしい目で、無遠慮に僕ら二人の全身をひとしきり上から舐めまわすように睨みつけると、何かに怒ったように、どこかへさっさと出かけて行った。

 僕らはただ無防備に、ばあさんのその厭らしい視線に晒されるしかなかった。僕の心は、何か強烈な有害物質に汚染されたみたいに、心いっぱいに不快になった。

「なんなんだ、あの生物は」

 ものの数秒でこれだけ人を不快な気分にさせるとは、ある意味すごい生き物だ。僕はばあさんの去って行った階段下を怒りと共に茫然と眺めた。

「たかし君、部屋に上がるかい?」

 僕は気を取り直して、たかし君に向き直ると訊いた。

「はい」

 たかし君は、目は虚ろだったがはっきりと答えた。

「きれいな部屋ですね」

 たかし君は、部屋に上がるなりすえた臭いのする散らかりまくった僕の部屋を、ゆっくりと大きく巡るように眺めてから言った。

 僕は冗談を言っているのかと思ったが、たかし君の表情を見ると、どうもまじめにそう言っているらしい。僕のこの部屋をきれいと言えるたかし君の部屋を一度見てみたいと思いながら、僕は真っ昼間なのに閉まり切っていたカーテンを勢いよく開けた。冬真っ盛りとはいえ昼ともなれば日差しは強烈だ。その圧倒的な光がカーテンを開けたとたん部屋を襲う。団地はすべて南向きに設計されている。しかも、冬の低い太陽の光は絶妙の角度で僕の部屋に飛び込んでくる。

「僕は本当に自分が荒んでいると感じるよ」

 僕は思わず呟いた。輝かしい圧倒的な光との対比で自分をそう感じるのだ。

「・・・」

でも、たかし君はそんな僕の言葉に対して、なんの反応もなく、部屋の入口に黙って虚ろに立っているだけだった。

 僕は畳の上を覆っている色んな雑誌やらなんやらを端の方へ押しやって、なんとかたかし君が座れるスペースを作った。

「座りなよ」

 何とか作った即席のスペースにたかし君を促した。

「あの、これ」

 たかし君は、その即席のスペースに座りながら、持っていたビニール袋を僕に差し出した。何だろうと、それを受け取り、中を覗くとそこには、二十本くらいはついている、ひと房の大きなバナナが入っていた。

「おみやげ?」

 たかし君は少し恥ずかしそうに頷いた。

 早速食べようと袋から出すと、そのバナナは半分腐っていた。でも、僕たちはバナナの腐っているところをよけながら食べられる部分を食べた。

「おいしいよ」

 僕は言った。食べにくかったが実際おいしかった。たかし君は心なしかうれしそうな表情をした。

 僕たちがバナナを食べている間もひっきりなしに戦闘機は、僕らの頭上を轟音をあげて飛んで行く。

「彼女とはうまくいってる?」

 たかし君には、真っ赤な高級スポーツカーに乗った、とてもきれいな年上の彼女がいるのだ。

「はい」

 たかし君はその端正な顔を赤らめた。たかし君は統合失調症だけど、顔はとてもよいのだ。

「どうやって、あんな年上のきれいな女性とつき合えたの?」

「分かりません」

「分からないんだ」

「はい、寄って来るんです。知らない間に。僕はただそれを受け入れるだけです」

「なるほど」

 醜い僕にはなんの参考にもならない話だった。僕たちはまた黙々とバナナを食べた。

「なぜ彼女を作らないんですか」

 ふいにたかし君が、バナナを食べる手を止めて真顔で僕に訊いた。

「作らないんじゃなくて、作れないんだよ」

「なぜです?」

 たかし君は本当に分からないといった表情で僕の顔を見つめる

「なぜと言われても、顔が醜いからだよ」

「顔が醜いと彼女が出来ないんですか」

「顔が醜いと彼女は出来ないんだよ」

「でも、あなたは障害者じゃないじゃないですか」

「今の時代、醜いって事は障害者よりも厳しいことなんだよ」

「そうだったんですか」

「障害者は社会が障害者という枠で許容してくれるけど、なぜか醜い人間は自己責任の範疇だからね。誰も理解してくれないし、守ってもくれない」

「そうなんですか」

「むしろ、障害者でも顔のよい君みたいな人間の方がモテるんだよ」

「今ってそんなことになってるんですか」

「今はそんなことになっているんだよ」

「大変ですね」

「大変だよ」

 そして、会話は途切れた。僕たちはまた黙々とバナナを食べた。

 ぼ~ん、ぼ~ん、ぼ~ん――

 僕たちが黙々とバナナを食べていると、あのどこに設置してあるのか分からない、いつも夕方五時になると夕焼け小焼けが流されるスピーカーから、突如として気の抜けた鐘の音が鳴り響いた。

「なんだ?」

 まだ夕方には早過ぎる。すると、男の低くくぐもった声がゆっくりとそのスピーカーから流れ始めた。

「こちらは善人町警察です。昨日の夕方からおばあさんが一人行方不明になっております」

 この町ではよくお年寄りが行方不明になるのだ。

「おばあさんの特徴は身長百五十センチ位のやせ形で真っ赤な靴を履いています」

その話し方はゆっくりと機械的で淡々としているわりに、とても不気味で聞き取りにくかった。

「もし、見かけられた方がおられましたら、近くの交番か善人町役場の方までご連絡ください」

 大体いつも翌日には無事見つかって、また同じ低くくぐもった声で、その報告の放送がされる。だから、僕は特に気にも留めず聞いていた。老人が死んでも、それはそれで当たり前のことなのだし、はっきり言って僕には関係ない。僕はバナナを食べ続けた。

「ん?」

 ふと、顔を上げ、たかし君を見ると、顔が真っ青になり小刻みに震えている。

「どうしたの?」

 僕は慌てて訊いた。

「・・・、赤い靴・・」

 たかし君はそれだけを、何かに怯えるようにぼそりとつぶやいた。

 赤い靴というワードがたかし君の中の何かに反応したらしい。たかし君はその場に横向きに倒れ込むとそのまま頭を抱えてうずくまってしまった。

「たかし君」

 僕は慌てて近寄って声を掛けた。しかし、たかし君は何の反応もなく、ただひたすら小刻みに震えている。僕はどうすることもできず、ただたかし君の傍らでおろおろするばかりだった。 

 救急車を呼ぶべきなのか?僕は考えたが、それはなんだか違う気がしてやめた。

たかし君は時々、

「赤い靴」

 と小さな声を漏らしている。

 しかし、僕にはどうする事もできない。

 その後、いろいろ考えたがよい考えは浮かばず、仕方ないので僕はうずくまるたかし君の隣りで再びバナナの続きを食べ始めた。何もしないのは、申し訳ないと思ったが、今の僕には、結局何もできない。

 しばらく経っても、たかし君は時々ピクピクと思い出したように痙攣する以外はまったく自分の世界に入ってしまっている。僕は食べるバナナもなくなり、途方に暮れた。

 どうしたものか。僕は考えたがやはりまったくよいアイデアは浮かばない。仕方ないので昨日読み終わったマンガ雑誌をもう一度読むことにした。マンガは何度読んでもおもしろいものだ。

 たかし君は、声をかける余地もないほど、完全に自分の世界に入ってしまっていた。僕はそんなたかし君を横目に、漫画を読みふけった。 

 先週、先々週のマンガ雑誌を読破して、その前の週のをもう一度読もうか読むまいか迷っていると、ふいにたかし君はゆっくりと頭を持ち上げた。

「大丈夫かい?」

 僕はすぐにたかし君の顔を覗くように見た。たかし君の顔は真っ青だった。

「僕は今ものすごい絶望の中にいました」

 たかし君は苦しそうにそれだけ言った。

「心配したよ。突然うずくまってしまうから」

「・・・」

 たかし君はしばらく茫然と虚空を見つめてから、思い出したようにまた話しだした。

「すみません。いつも突然なんです。どこかから声が聞こえてきて、ものすごい寂しさがこみ上げて来るんです」

「あんなきれいな年上の彼女がいてもそんなに絶望するほど寂しいの?」

「無限に寂しいんです。何をしても埋まらない寂しさです。それがものすごい勢いでおそってくるんです」

 僕には、あんなきれいな彼女がいるたかし君が幸せな人間にしか見えない。だから、そう言われてもピンとこなかった。どう考えても僕の方が寂しい人間だろうとしか思えない。

「客観的な現実なんてあまり意味はないんです」

 たかし君はそんな僕の心を見透かすように言った。なんだかしおりもそんなことを言っていたような気がする。僕は昨日の夜の出来事を想った。

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