第10話 元特攻隊長のさとしくんの兄の話

 さとし君が自殺をした。

 二十七階にある自宅のマンションのベランダから飛び降り、即死だった。発見された時、彼の醜い顔は潰れ、目は飛び出し、内臓が口からはみ出し、脳味噌が鼻の穴から流れ出たまま、彼はコンクリートの上に横たわっていた。

 今日は連休最終日ということもあって、いつもの元やくざの大将の飲み屋は夜になっても僕とおじさんの二人だけだった。そこへ、暇なのか元特攻隊長の兄が珍しく自分でチュウハイを注ぐと、僕たちのテーブルに一緒に座って飲み始めた。

 外は昼過ぎからかなり激しい雨が降っている。ガード下にベニヤ板を貼っただけの簡素なつくりのこの店は道路に面して壁は無く、激しい水しぶきが店の入り口のところまではねてきていた。

「あいつ、童貞だったけど処女じゃなかったんですよ」

 元特攻隊長のさとしくんの兄の声が、突然静かな店内に響いた。さとしくんの兄の口元は思い出し笑いをかみ殺すみたいに、ニヤついていた。

「処女じゃない?」

 おじさんが怪訝な顔で訊き返した。

「あいつの高校時代のあだ名テンガなんすよ」

 兄は、クスクスと今にも噴き出しそうだった。 

「テンガ?」

 おじさんは首を傾げた。

「あいつの高校の番長がホモでさ」

 兄はおかしみをこらえきれないといった感じで話し続ける。

「ホモ?」 

 おじさんは眉根を寄せ、更に首を傾げた。

「あいつはよくケツの穴押さえてガニ股で歩いてましたよ」

 ついにこらえきれなくなった兄はそう言って噴き出した。

「あいつの行ってた高校はオレが行ってたヤンキー高校にも入れないような、本当にヤバイ奴らが行く、本当のバカ高校だったんですよ」

 今日の兄はいつになく饒舌だった。

「まあ、俺が言うのもなんですけど、ホントに最低な高校でしたよ。ホント」

 遠くの方からゴロゴロという雷の音が聞こえてきた。

「・・・」

 この前ここで、淡々と初恋の話しをしていた、さとしくんの顔が浮かんだ。

 雨は相変わらず降り続き、雨脚は全く衰える気配を見せない。そんな激しい雨の吹きすさぶ中、店の前を仕事帰りのサラリーマンやOLたちが傘をさしながら足早に駅の方へと歩いて行く。そんな彼らを見ながら僕はこの人たちはさとしくんが死んだことなど、いやそんな人間がこの世に存在したこと自体、誰も知らないのだろうなとふと思った。それは当然のことなのだけど、なぜかそれが、その時の僕には、余りに残酷で理不尽なことのように思えた。

「動物ってさぁ」

 兄が再び口を開いた。

「動物?」

 おじさんが訊き返す。

「そう、動物。ほら、たまにアフリカなんかの野生動物の番組とかやってるじゃない。ライオンとかチーターとかがシマウマとか草食動物狩ったりするやつ」

「ああ」

「ああいう世界って、弱い奴は真っ先に死んでくじゃない。ライオンとかに食われて」

「そうだな」

「そういうの子供の頃とか残酷だなぁとか思ってたのよね。だけど、今は、その方が実は幸せなんじゃないかとか思うのよ」

 兄の目は少し得意げだった。

「人間って自分で死ぬしかないわけじゃない。そういう奴って」

「・・・・」

「しかも、生態系の役に立つわけだし、食われればさぁ」

 雨はその激しさを増していた。

「僕は最低です・・」

 僕はさとしくんが、最後に力なく呟くように言った言葉を一人思い出していた。さとしくんの人生とはいったいなんだったのだろうか。そんな考えが、ほろほろと少し酔い始めた頭の中に漂うように浮かんだ。

 入り口の隣では大将がいつもの通りバカでかい鉄板の上で大量のキャベツ炒めを炒め続けていた。客は僕たちだけだというのに、その手は止まることはなかった。

「結局、遺伝子残せない奴は存在価値無いのよ」

 兄は訳知り顔で付け加えた。

 客のいない店内は、降りしきる激しい雨音と、大将の指の少ない手で器用にキャベツ炒めを炒める、ヘラの小気味よいコッコッという音だけが響き渡っていた。

「大将も一緒に飲もうよ。誰も客来ないんだし」

 在日のおじさんが大将に向かって言った。

「いや、あっしはキャベツ炒めるのが好きなもんで」

 大将は、鉄板の熱気で赤くなった顔に、子供のような笑顔を浮かべて言った。

「でもそれ、誰が食べるの?」

 在日のおじさんがそう訊いても、大将はへへへっと笑っているだけだった。

「小指だけじゃなく他の指まで無いのはヤクザの中でも最低のヤクザさ」

 在日のおじさんが昔、僕に教えてくれた。

 ヤクザは弱い人間を徹底的にしゃぶりつくす。それは同じヤクザに対しても同じだ。だから、徹底的にしゃぶりつくされ、もう何の存在価値も見出せなくなったヤクザは、ただのおもちゃになる。他のヤクザたちのただの余興のために、その場の退屈しのぎのためだけに、色々と難癖をつけられて指を詰めさせられる。

 僕は、ヘラを器用に動かす、大将の指の欠けた小気味よいリズミカルな手の動きを見つめた。


「俺にも二人の息子がいるよ」

 その日の帰りの、静かな車中でおじさんが突然言った。

「もう十年会っていない」

 なんだか、今日のおじさんはいつもと雰囲気が違った。

「おれは家族を捨てて逃げたんだ」

「・・・」

「家族だけじゃない、故郷の全てを捨てたんだ」

「・・・」

「兄貴は狂ったよ。連帯保証人になっていたからな」

「・・・」

 車を降りてから、おじさんの言葉の断片だけが頭に残った。僕は深くは訊かなかった。いや訊けなかった。

 ふと、上を見上げると、ちょうど僕の真上に月が出ていた。真っ黒な夜空にそれはいつも以上に光り輝いていた。でもそれは冷たい月だった。

 なんだか今日はとても寂しい夜だった・・。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る