第4話 引きこもり少女しおりの部屋

 その日も、本来十二時閉店の、閉店時間を大きく超過した深夜二時過ぎまで飲んで、おじさんに車で送ってもらった。

「・・・」

 車で走る町は、暗闇の中に寂く沈黙していた。まるでそこはすべての生物が死に絶えてしまった別の世界のように静かな闇に包まれていた。

「おじさんは、ほんと酒に酔っても運転だけはうまいですね」

 僕はもう、殺人級に濃いチューハイで、頭がもうろうとし、ろれつがうまくまわらない。

「ああ、俺は酒に酔っても運転だけはうまいよ」

「・・・」

 車の中での会話はこれだけだった。その後は、静かな車内に、クラウンの静かなエンジン音だけが響いていた。

 車の窓から、僕の住む団地群の北の端が見えた。もうほとんどの部屋の明かりは消え、その同じ形をした建物群は外灯の薄明かりに照らされ闇の中に不気味にそびえていた。僕はその一番北側の西の端の最上階の部屋を探した。団地群の中で僕の部屋からちょうど斜めに向かって真反対の端になる部屋だ。この部屋に引きこもりの少女、しおりが住んでいる。

 僕は、酔って鈍った頭をフル回転させて、しおりの住む棟の部屋を順番に端から目で追っていった。

「あっ」

 まったく明かりの消えた一番北側の西の端の建物の一番西の最上階の部屋だけに、明かりがついているのが見えた。しおりは生きている。

「あ、おじさん、僕ここでいいです」

「なんだ、ここから君の部屋までまだかなりあるぞ」

 団地は広大に広かった。

「知り合いがいるんです。そこに寄っていきます」

「こんな夜中にか?」

「こんな夜中だからです。夜中じゃないと会えないんです」

「そうか」

 おじさんは、それ以上は深く追求せず車を路肩に止めた。

 僕が車から降りると、おじさんはさっさと車を走らせ行ってしまった。この町の端にあるスラムのような一角に、おじさんの住む古い賃貸のアパートがある。ワンDK家賃一万九千円。風呂なし、光熱費はなぜか込み。僕の団地の部屋の家賃四万六千円、風呂あり、光熱費別が、なんだか贅沢なお城のように思えてくる部屋だった。おじさんはこれからそこに一人帰って行くのだ。そこで何時間か寝て、明日もいつもの仕事へと出かけるのだ。おじさんは容赦なく今日も朝から白い壁の前に立たなければならない。おじさんの車のテールランプの明かりだけが暗闇の中で赤く残り、それも次第に暗闇の中に寂しく消えていった。

「・・・」

 暗い道路にぽつんと残された僕はなんだか急に寂しくなった。妙に風も冷たく、心の底まで冷えて行くようだった。

 僕は、団地の棟を覆うように生えている大きな楠の間を通って、一番北西に建つ棟へ向かって歩きだした。

 遠くの方で猫の喧嘩する激しい鳴き声が響いた。深夜の団地は独特の不気味さと不安を醸していた。何千人と住んでいるはずの場所に、まったく人の気配どころか何かかが生きている感覚すらを感じさせない。ただ冷たい暗闇が無機質に辺り一帯を漂っていた。それはどこか死の世界の匂いがした。実際にその中を歩いていると、本当にこのままそういった世界に行ってしまいそうな気がした。

 古い蛍光灯のくすんだ明かりに照らされた剥き出しのコンクリートの階段を上っていく。何度も何度もペンキの塗り重ねられた壁は、ところどころ大きく剥落し、各階の踊り場を照らす蛍光灯は、小さな虫の死体がこびりつくようにして汚れていた。

「コッコッ」

 辺りが静か過ぎて、妙にコンクリートの無機質な建物に自分の靴音が響く。

 コッコッ

 僕の発するこの靴音をこの団地に住んでいるすべての人間が息を殺して聞いているような気がした。それが確かなことで、踊り場の両脇についている分厚い鉄の扉の向こうにいるであろう人たちの気配すらない沈黙が、とても恐ろしく感じられた。階段を一歩一歩上がって行く一足一足に僕は怯えた。

 最後の踊り場を回り、僕は最上階に着いた。最上階の五階の右側の扉の部屋がしおりの部屋だった。他の部屋とまったく同じ形の分厚い鉄の扉の前には、人を拒絶する冷たさが漂っていた。

「・・・」

 玄関横の表札には何も掛かっていない。心臓が軽く鼓動を強くしている。五階の階段を上がっただけで運動不足の僕は少し息が上がっていた。

 僕は少し緊張気味に玄関の隣りに設置されている小さなチャイムのボタンを押した。小さな感触と同時に、扉の遠い向こう側で僕の部屋のチャイムと同じ金属音のようなメロディーが鳴っているのが聞こえた。

「・・・」

 チャイムを押してから、もしかしたらここにはもう誰も住んでいないのではないかと不安になるほどの長い間の後、鍵の開く音がしてやっと重い扉は開いた。

「あなたはいつも突然ね」

 しおりは不機嫌そうな顔を、少しだけ開かれた扉の隙間から覗かせた。

「ごめん」

「前もそう言ったわ」

「うん」

 しおりは僕が困った顔をして俯くと、しばらく僕の顔をその大きな目で見つめてから、もういいわというように部屋の奥へと背を向けた。僕は取りあえず許してもらえたと思い、恐縮しながら、おずおずと玄関が閉まりきらないうちに、扉の中に滑り込んだ。

 部屋の間取りは2LDKと僕の部屋とまったく一緒だ。唯一違うのは部屋の配置が鏡のように反転していることだ。同じ角部屋でも右と左ではそうなってしまう。

 しおりは黙ったまま一番奥の六畳間の畳の部屋のさらにその一番奥の壁にもたれて座った。部屋の中は相変わらず何もない。テレビやテーブルがないのはもちろん、カーテンやこまごまとした生活必需品すらも見当たらず、引っ越し前の部屋のように閑散としている。台所は冷蔵庫もなく、使っている気配すらもない。本当に人間が住んでいるのか疑問に思うほど、物がないだけでなく生活感そのものがなかった。

 僕はしおりの前におずおずと適度な距離をとって座った。

「あなた、酔っているのね」

「うん、酔っ払っている」

 僕は少し申し訳なさそうに言った。僕はポケットから携帯電話を取り出して時間を見た。もうすでに深夜二時半を回っていた。

「普通、人間の来る時間じゃないわ」

「うん」

 僕はますます申し訳なくなってきた。

「深夜じゃないと会えないと思ったんだ」

「ま、実際その通りね」

 しおりは案外素直だった。

「今度、しおりも飲みに行こうよ。いつも話している在日朝鮮人のおじさんとか飲み屋の人とか、みんないい人だよ」

「私はいいわ」

「なんでだい?」

「人が嫌いなの」

 しおりは即答した。

「僕はいいの?」

「あなたはいいの」

「なんでだい?」

「いいから、いいのよ。人の嗜好のすべてに言葉や理屈はつけられないわ」

「複雑なんだね。君は」

「そうかしら」

 しおりは突っぱねるように言った。

「それより、あなたは携帯を持っているのに、なぜ、いつもここに来る前に電話しないのかしら」

 しおりは少し目を細めて僕を見た。

「いつも突然来たくなるんだ」

「変な癖ね」

「うん、ごめん・・」

 しおりはしばらく黙って、さらに目を細くして僕を見つめた。

「まあ、いいわ。私は常にここにいる訳だし」

「怒った?」

「別に」

 しおりは窓の方を見た。

「なんだか、機嫌が悪そうだね」

「実際悪いわ」

「どうしたの」

「父親が来たの。あなたみたいに突然」

「そうだったの」

 僕はなんだかとても悪いことをした気分になった。

「顔も見たくない人間に愛されるってとても辛いことよ」

「それは僕も分かるよ。僕も親とはうまくいっていない」

「玄関チャイムが鳴った瞬間、父親だって分かったわ。鳴らし方で分かるの。とても、嫌な鳴らし方をするの。本当に嫌~な感じの音よ。ねちっこくて粘り気があるの」

 しおりは眉間に深い縦のしわを寄せ、心底嫌そうな表情をして言った。

「それは嫌だね」

「私は無視したわ。でも帰らないの。チャイムを何度も何度も鳴らして、扉も何度も何度も叩くのよ。ピンポンピンポン、ドンドンドンドンって。そしてドアノブまで回したわ。ガチャガチャ、ガチャガチャって。ピンポンピンポン、ドンドンドンドン、ガチャガチャ、ガチャガチャ。何度も何度も、ドアノブの回し方は気違いのそれだったわ」

「それはちょっと怖いね」

「怖いなんてもんじゃないわ。不気味よ。まるでホラー映画だわ。もし鍵が開いていたら入って来ていたのよ」

 そう言ってしおりは足元の畳を見つめ、体育座りをした体を縮めた。本当に怖かったのだろうと僕は思った。

「でも、今日あなたが来てくれてよかったわ」

 しおりは畳を見つめたまま、小さな声で言った。

「うん」

 僕はなんだかうれしかった。来てよかったと思った。

「・・・」

 そして、部屋に静かな時間が流れた。しおりは黙って畳を見つめ続けた。僕も黙ってしおりの足元付近の畳目を見つめた。それは不思議と心地のよい沈黙だった。僕は生まれて初めて心地のよい沈黙を体験した。沈黙は大抵の場合気まずいものだ。

 僕は自分の呼吸を久しぶりに感じた。心臓の音が体の内側に響き渡る。この鼓動をしおりも聞いているのではないかと思った。

 しおりの肌は長年引きこもっているせいか真っ白だった。もたれている壁の白い壁紙よりも際立って白いため、そこからほの白く浮き上がっているように見えた。

「君はなぜ外に出ないの?」

 僕はなぜかいきなり、考えていることとは違う言葉を口走っていた。いつもそうだ。口が勝手に先走ってしまう。そして、しまったと思った時にはもうしゃべり終わっている。

 しおりは両膝の間に俯けたその真っ白い顔をゆっくりと僕に向けた。

「視線が怖いのよ」

 しおりはさらりと言った。

「なぜ、視線が怖いの?」

「醜いと思われてると思うからよ」

「でも、君はとてもかわいいじゃないか」

「ええ、そうよ」

 しおりはなんのてらいもなく答えた。

「えっ?」

 僕はしおりの言っている意味がまったく理解できなかった。

「でも怖いの・・」

「怖いのよ」

 しおりは自分で確認するように二度言った。

「感じるの」

「感じる?」

「そう、感じるの」

「自分が醜いって。頭とは別にね・・、感じるの・・、強烈に・・、残酷に・・」

「でも、君はとてもかわいい・・」

「人間は理性だけで生きているわけじゃないわ。そう感じてしまうものはどうしようもないのよ」

「医者には行ったの?」

「医者なんて全員クソだったわ。医者もカウンセラーも看護師も何もかもが」

しおりは思い出すのも嫌そうに吐き捨てた。

「薬でそういうの、今は治るとか何とかテレビで言っていた気がするけど」

「薬を飲んだら死にたくなったわ」

 そこでしおりは、限りなく呼吸に近いかすかな溜息をついた。

「でも不思議だね。僕みたいな醜い顔の人間が自由に外を歩き回って、君みたいなかわいい子が外に出られないなんて」

「そんなものよ。人間にとって客観的真実なんてどうでもいいことなのよ。あるのは自分の世界だけ」

「なんだか哲学的だね」

「暇なのよ」

 しおりは少し投げやりに言った。

「暇だと哲学的になるの?」

「暇以外に哲学的になることなんてある?」

「う~ん、分からないな」

「哲学者なんてみんな暇なのよ」

「それもなんだか哲学的だね」

「暇過ぎるんだわ」

 無気力に壁にもたれていたしおりは、天井を見上げるとさらに脱力して一つ大きなため息をついた。

「哲学なんて口だけ。生きていないわ」

 その溜息の音が消えると部屋の中は再び静寂に包まれた。閑散とした六畳の畳の部屋は、時間が止まったかのように音が消えた。

 今度の静寂はどこか沈鬱としていた。その沈鬱な静寂をさらに団地全体の薄暗い静寂が包んでいく。巨大な何か恐ろしい何かが、この部屋の静寂を飲み込もうとしていくかのように、それはゆっくりと確実に僕らを覆っていった。

 その時突然、僕はなんだか今この時、世界中に僕としおり二人だけしか存在していないような気がした。世界中のすべての人間が忽然と消えてしまって僕としおりだけがこの世界に存在している。しかもそれは限りなく一人に近い二人っきり。しおりの存在さえも妖しく感じられた。

 この明かりのついた六畳の空間だけが人間の意識される世界でそれ以外はただの暗い沈黙。その暗い沈黙は永遠にどこまでもどこまでも空間的にも時間的にも広がっていて、僕らの知らない絶対で永遠の世界へとつながっている。

 僕は堪らなく不安になった。

「ねえ、世界に今僕たち二人だけだったらどうする。外に出たら誰もいないんだ。世界中の人間が消えてしまっているんだ」

「あなたはいつも突然話が変わるのね」

「思いついたことをすぐに言葉にしてしまうんだ」

 僕は恐縮した。

「まあ、別にいいけど」

 しおりは少しため息交じりに言った。

「僕は病気なんだろうか」

「病気だと思えば誰だって病気だわ」

 しおりはカーテンのない窓の外を見つめた。

「自分以外は全員気違い。みんなそう思っているのが本当のところよ」

「でも本当に二人だけだったら・・」

「別にどうもしないわ」

 しおりはもう一度僕に顔を向け直し言った。

「だって、私は今と何も変わらないもの」

「そうか・・、でも・・」

「もともと、自分以外の存在なんていい加減なものよ」

「しおりの存在もなんだか不安になったよ」

「そんなものよ。世界なんて信じている程しっかりしちゃいないわ」

「しおりもいなかったら・・」

「人は結局一人だわ」

「もしそれが真実だとしたら、本当の世界ってとても寂しいものなんだね」

「真実はいつも人間には都合が悪いのよ」

「う~ん」

「ふふふっ」

 しおりは困惑した僕を見て、なぜか小さく笑った。その笑い方はとても不可思議で可愛かった。

「真実はいつも残酷なのよ」

 しおりはまた視線を畳に落として黙った。

「僕は時々怖くなるんだ」

しおりがすぐにまた顔を上げ僕を見た。

「在日のおじさんがいつも言っているみたいに、人間はとても残酷だ」

「そうね、とても残酷だわ」

「僕もその時が来たら、人をあんな風に殺すんだろうか」

「その時はその時よ」

「うん」

「殺す時は殺すし、殺さない時は何があったって殺さないわ」

「なんで人は人を殺すんだろう」

「結局好きなのよ」

「人を殺す事がってこと?」

「本当に嫌いだったらやらないわ。どんな事があっても。絶対に」

「そうかもしれない」

「あるのは、どこまでいっても生々しい人間の現実だけよ」

 僕はなんだか分からないけど、納得した。世界は理屈だけでできているわけじゃない。こういう納得もあるのだ。なんだかよく分からないけど・・。

「あなた、とっても好きな彼女がDV女だったらどうする?」

 今度は突然しおりが話題を変えた。

「僕は多少のDVなら耐えられるよ」

「あなたマゾじゃないでしょうね」

「うん、僕は気は小さいけどエスなんだ」

「ふ~ん、以外ね」

 その時、突然僕の携帯が鳴った。

「もしもし」

「僕は誰ですか?」

「たかし君だよ」

「分かりました。ガチャ、プープープー」

 また、たかし君からだ。

「あなたも大変ね」

 携帯をポケットにしまう僕を見て、しおりは言った。

 しおりの部屋を出た僕は数キロ離れている自分の部屋まで歩いた。

 道はおじさんの車から降りた時と変わらず、暗くそして寂しかった。なぜ、こんなにたくさんの人がいる場所がこんなに寂しいのだろう。僕は、団地の連なりを見上げた。そこはただの暗闇だけではない、さらなる別の異質な暗闇が覆っていた。

 自分の号棟にもう少しというところで、新聞配達の限りなくおじいさんんに近いおじさんがのんびりと自転車を漕ぎながら僕の目の前を通り過ぎて行った。忙しない競争社会など、どこ吹く風といった堂々たるのんびりさだった。僕もああなりたいものだ。そう思った。

 自分の号棟に辿り着いた時には、酔いと眠気もあってくたくたになっていた。僕は部屋に上がる前にいつもそうするように階段入口脇にあるステンレス制の郵便受けを開けた。

 中にはビラが一枚だけ入っていた。何やら、政治の事について書かれている。軽く読むと対立候補をこれでもかと誹謗中傷したビラだった。

「ああ、選挙が近いんだなぁ」

 世間は僕と関係なく確実に動いている。でも、僕は世間をこんな形でしか知らない。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る