第3話 在日朝鮮人のおじさんの話

「日本人がどうやって、朝鮮人をレイプするか知ってるか?」

 突然、ドスの利いた声が響いた。見るとおじさんの目はすでにすわっていた。

「あちゃ~」

 僕は顔を歪める。

 おじさんは気づかないうちに、もうチューハイの五杯目を飲み始めていた。テーブルの脇には空になったジョッキが四つある。僕はこの殺人級に濃いチューハイの一杯目を、まだちびちびとジョッキの五分の一ほどしか飲んでいない。

「その話、もう三百回は聞きましたよ」

 僕はこれを言うのも面倒くさかった。

「日本人はな」

 しかし、それでもおじさんはおかまいなしに話しを続けようとする。

「だから聞きましたよ」

「だまれ」

 おじさんの目は完全にすわっている。

「・・・」

 仕方なく僕は目の前のキャベツ炒めをつまんだ。

「日本人はまず・・」

「子どもを犯すんでしょ」

「そうだ。子どもを犯す」

「そして、最終的に食うんでしょ」

「そうだ。食うんだ。よく分かってるじゃないか」

「だから、聞いたってさっき言ったでしょ」

「なぜ、最初に子どもを犯すか分かるか」

「それを親に見せるためでしょ」

「そうだ」

 おじさんに言わせると、日本人は生れたばかりの赤ん坊から死ぬ寸前のお年寄りまですべての朝鮮人の女性をレイプし、それでも飽き足らず今度は赤ん坊から死ぬ寸前のお年寄りまですべての朝鮮人の男性をレイプし、さらにそれでも飽き足らず、生まれたばかりの赤ん坊から死ぬ寸前のお年寄りまで、すべての朝鮮人に人間が思いつく限りの残虐な拷問と辱めを行い、生まれたばかりの赤ん坊から死ぬ寸前のお年寄りまですべての朝鮮人を人間が思いもつかないような残酷なやり方で殺すのだという。 そして、さらにそれらすべての朝鮮人の死体もレイプし、それでも飽き足らず、すべての朝鮮人の死者の魂までレイプするのだと言う。

「秀吉はなぁ」

「秀吉?」

「秀吉は善良で何の罪もない平和で温厚な民である朝鮮人を、突然やって来て、殺して殺して殺しまくったんだぞ」

「四百年前の話しじゃないですか」

 いきなり何の話をするかと思えば、四百年も前の話だった。しかし、おじさんの目はマジだった。

 まあ、でも、これもいつもの話ではあった。おじさんの話はいつも、大日本帝国の三十六年統治に始まり、関東大震災の朝鮮人虐殺を経由して、慰安婦、強制連行と辿って、時々秀吉の朝鮮出兵が出てきて、近所のおばちゃんの自分に対する態度があまりに冷たいという話に至る。だいたい言う事はいつも一緒だ。

「秀吉のヤロ~、平和に穏やかに生きていただけの善良で純粋な朝鮮に、いきなり攻めてきやがって」

 おじさんの語気がさらに荒くなってきた。なんかいつにも増して、やばい雰囲気を感じる。

「あ~あ」

 だが、こうなってはもう完全にお手上げだった。こうなってしまっては、いつも僕が何を言ってもおじさんは駅のない急行列車のようにしゃべり続けるだけだ。僕は諦め、キャベツ炒めに集中した。

「無抵抗の朝鮮人たちは、ナスのヘタを取るみたいに、片っ端から鼻や耳を切り落とされたんだぞ。なぜか分かるか」

 おじさんが叫ぶ度に、大きなつばの塊がボンボン飛んで来る。

「知りませんよ」

 知っていたが僕はめんどくさかった。

「首はかさばるからだ。首がかさばるから、日本に持って行くのがめんどくさいから、たったそれだけの理由でなんの罪も無い純朴な朝鮮人は、片っ端から耳や鼻を削がれたんだ」

 そこで新たに運ばれてきた六杯目のチューハイをおじさんはぐいっと一息に飲み干すと、おじさんの鼻息はさらに激しく噴出した。

「関東大震災の時、在日朝鮮人が何人殺されたか知ってるか」

 あまりの勢いに、おじさんの口に残っていたチューハイのおつゆが霧のように飛び散った。

「うわっ、ちょっと」

「何人殺されたか知ってるか」

 しかし、そんなことにまったくかまわず、自分の話を押し進める。

「たしか、六千人でしたっけ」

「バカヤロー」

 おじさんは大声を上げると、テーブルを思いっきり拳で叩きつけ、その勢いでチューハイのジョッキを僕に思いっきり投げつけた。僕はすんでのところでそれをかわし、グラスはこの店のかべ兼高架橋の柱に当たって砕け散った。この店は高架橋の下の空間を利用して作られたつくり自体は簡素なものだった。入口に屋台があり、そこですべての料理が賄われ、後は奥のかんたんに壁と床の作られた高架橋下の空間に椅子とテーブルが並べられているだけだった。

「おじさん、今、マジだったでしょ」

 よけなければ確実に当たっていた。しかも、大けがするレベルの勢いだった。下手したら死んでいたかもしれない。

 ジョッキが割れると同時に、僕たちの隣りの席の、少し前に来ていた若いカップルが、頼んだばかりのビールを飲むのもそこそこに、静かに立ち上がると無言で店を出て行った。

「十万人だ。十万の同胞が無実の罪で殺されたんだ」

しかし、やはり、まったくおじさんの話す勢いは衰えない。というかその勢いは増している。

「二十万の同胞が、無残に鬼畜日本人に惨殺されたんだ」

「ちょっと、さっき十万て言ってたでしょ」 

「黙れ、三十万の同胞の魂が今もこの日本の地で浮かばれず彷徨っているんだぞ」

「また増えてますよ」

「だまれ、なんの罪もない同胞が、針金で縛られ、竹やりで、狂った日本人に寄ってたかってメッタ刺しに突き刺されて無残に殺されたんだぞ」

おじさんの目は恐ろしいほどに血走っていた。

「ただ普通にまじめに生きていた人間がある日突然、大勢の狂った人間に取り囲まれて無残に殺されるんだぞ。どんなに無念だったか。どんなに恐ろしかったか。俺は・・、俺は・・、かわいそうで、かわいそうで・・」

おじさんは、ねっとりとした鼻水を垂らして、今度は泣き出した。

「分かるか、腹を引き裂かれた妊婦の気持ちが、生きたまま焼かれた人間の恐怖が、竹槍をアソコに刺された女の痛みと恥辱が――」

おじさんは本気で泣いていた。

「俺たちは死体の首まで切られたんだぞ。日本刀の試し切りの道具にされたんだ。俺たちの命ってなんだ?俺たち朝鮮人の存在ってなんだ?なあ、おいっ、聞いてるか?」

「・・・」

 いつの間にか、朝鮮人虐殺の話と戦争時の話がごっちゃになっている。

「聞いているのか」

「・・・」

 その話を聞くのは三百万回目で、答えるのもバカらしく僕はキャベツ炒めに没頭した。

「強制連行の時だってそうだ。ちょっと、トラックの荷台に乗れって言われてそのままだぞ。そのまま家族からも故郷からも引き離されて日本に連れてかれたんだぞ。ちょっと、その辺に行く感じで、乗れって言われてそのままだぞ。そのまま二度と故郷や家族に会えずに過酷な地獄のような強制労働で――、その中で無残に死んでいったんだ」

 だが、僕の反応などまったく関係なく、おじさんは絶叫するように話を続け、その勢いでテーブルを思いっきり叩き、泣きながらまた怒りだした。

「慰安婦だってそうだ。まだ男も知らない子どもまで連れて行って、犯して犯して犯しまくったんだ。その子が性病になって使えなくなったら、今度は身代金を要求して金まで取ったんだぞ。家族はその金をどうやって工面したか知っているか?」

「家や土地を売ったんでしょ」 

「自分たちの大事な家や土地を売ったんだぞ」

 僕の話しなど聞いちゃいない。

「それでも足りない分は、親戚や友人知人に平身低頭、頭を下げ回ってやっと借りた金なんだ。それを・・、それを・・」

 おじさんはその後も、もはや誰も聞いていないにも拘らず、一人盛り上がりテーブルに上り一人仁王立ちで大演説を続けた。毎回そんなことするおじさんを出入り禁止にしないこの店の大将の心の大きさに僕はいつも感心する。

「お前ら日本人は鬼だ。東洋の鬼だ。お前ら日本人は全員鬼畜だ」

 おじさんは僕を激しく指差し罵った。おじさんの中では、朝鮮人はみんな仏様のように善良で、日本人は全員鬼畜で極悪人だった。

「日本に住めば差別されて、人間扱いもされない。近所のおばはんの俺を見る目のあの冷たさは一体何だ。あれは人間を見る目じゃないぞ。ゴキブリを見る時以下の目だ。パンに生えたカビを見つけた時の目だ」

 絶叫し激しく怒りにまかせ罵っていたおじさんは、今度はジェットコースターの如く感情を急降下させ、またさめざめと泣き出した。

「そして、俺が一番許せないのは自分たちがした事を日本人が知らない事だ。誰も知らない。知ろうともしない。誰も自分たちの過去に犯した犯罪を知らないんだ。いや、犯罪なんて言葉は生ぬるい、犯罪以上の決して人として許されない鬼畜行為。それを知らない。まったく欠片も知らない。そしてのうのうと生きている。それが許せない」

 かと思うと、すぐにやはりレール最頂上に一瞬で昇り上がるジェットコースターの如く、今度は、また激しく怒り出す。この感情の起伏の激しさに僕は完全について行けない。

「それが俺は許せないんだぁ~」

 おじさんは、体をのけぞらせ血管がブチ切れそうなほど、顔中に血管を浮き上がらせながら、天井に向かって絶叫した。と思うとテーブルの上に突っ伏しおいおいとテーブルを拳で叩きながら、再び大声で泣きに泣いた。感情の起伏が目で追えないほど目まぐるしい。

「日本に植民地にされたうえに祖国を分断されて・・」

 朝鮮戦争はアメリカとソ連、中国だろうと思ったが、また話が長くなるので黙っていた。

「しか~し、朝鮮民族がどれ程の辛酸を舐めようとも――」

 だが、また突然、不死鳥のごとく激しく立ち上がったおじさんは、いつも通り日本が戦争に負け、いかに清廉潔白な朝鮮人が無抵抗の慈悲で日本を退けたかの段で絶頂に達し、

「英傑キム・イルソンばんざ~い」

 と両手を高々と上げ、三回絶叫すると、ようやくつきものが落ちたみたいに大人しくなった。

「ふーっ」

 おじさんは疲れ果て、椅子にどかっと倒れ込むように座り、達成感と脱力感を噛みしめるように大きく息を吐くと、

「大将、肉!」

 と上機嫌におじさんはこの店で一番高い一皿二百円の焼き肉を大声で頼んだ。これもいつものことだ。

「こっちの人たちにもね」

 振り返ると、後ろのテーブルに常連の太ったソープ嬢と元殺人犯のおじいさんとその愛人の可愛らしいおばあさんがいつの間にか座っていた。

「ありがとう」

 太ったソープ嬢が言った。おじさんは金はないが気前はいいのだ。

 焼肉が来てからは常連さんたちとテーブルを一緒にして飲んだ。みんなこの飲み屋でしか会わない、名前も知らない人たちだったが、いつもこうして一緒に飲んでいると不思議と旧知の仲のような気がする。でも、それはこの店のこの時間限定の話だということにこの間僕は気づいた。ついこの間、町で太ったソープ嬢が歩いているのを偶然見かけたことがあったが、その時はまったく他人のような気がして、僕はまったく声をかけることができなかったのだ。

「人を殺すってどんな感じ?」

 太ったソープ嬢が元殺人犯のおじいさんに、明日の天気でも聞くように尋ねた。

「そりゃ、堪らなく嫌な感じのものさ」

 元殺人犯のおじいさんはニコニコと、明日の天気でも教えるかのように柔和な笑顔で答えた。

「やっぱり嫌なものなのね」

「人間ってのは、案外と重いんだよね。質感というかなんかそういうの感じちゃうとね。やっぱやだよね」

 昔を懐かしむように語るその姿は、好々爺以外の何ものでもなかった。

「やっぱ、暴れるの。最後って」

 太ったソープ嬢は遠慮なしに、興味深々に目を輝かして訊く。

「いや、泣いてたね。本当にどうしようもない奴でさ。酒にギャンブル、借金は山ほどあるし、組事務所の金は盗むし、挙句の果てに借金返すために奥さんと娘に体売らせるし、もう自分でも早く死にたがってたね」

「ろくでもない奴だったのね」

「娘はまだ中学生じゃなかったかなぁ」

「そんな奴は死んで当然ね」

 太ったソープ嬢は、きっぱりと言いきった。

「だけど、僕も含めて4人で首絞めたんだけど、やっぱロープを握る力はすごかったね。片方に2人ずつついて絞めたんだけど、一瞬持ってかれそうになったもの。人間の火事場の馬鹿力はすごいよ」

「へぇ~」 

 その場にいた全員が一斉に唸った。

「うぐぅげぇげぇげぇえって、なんかすごい声出して死んだよ」

「へぇ~」

 別に感心するような話の内容ではないのに、なんかみんな感心してしまう。

「その時の声は今でも耳に残っているよ」

 元殺人犯のおじいさんは話をしている間、笑顔が絶えることはなかった。その横で、お酒で少し頬をピンク色に染めた愛人の可愛らしいおばあさんも終始笑顔でニコニコと聞いていた。

「どの位刑務所にいたの?」

 太ったソープ嬢が訊く。

「まっ、五年位かな」

「えっ、そんなに短いの」

「そう、日本なんてそんなもんだよ。まあ、僕は主犯じゃなかったしね、初犯だったし、模範囚だったから」

「殺したい奴いるんだけど、五年ならいいかも」

 太ったソープ嬢は真顔で言った。

 ふと横を見ると大将も兄も隣りのテーブルに座り一緒に元殺人犯のおじいさんの話を聞いていた。時計を見るといつの間にか深夜十二時を回っていた。気づけば、もうお客は僕たちだけになっていた。在日のおじさんは一体何時間しゃべっていたのだろうか。酔っていたせいかまったく時間の感覚を失っていた。僕は店の入り口から外を見た。高架橋横の道路は暗く、走る車や歩く人もほとんどいなくなっていた。

「でも、人は絶対に殺さない方がいいよ」

 元殺人犯のおじいさんが太ったソープ嬢を見た。その目は、一般の普通の人の目ではなかった。多分、人殺しの人の目があるとしたら、これはそれなのだろう。そう思わせる目だった。

「人を殺すとさ」

「えっ」

 元殺人犯のおじいさんの声のトーンが急に変わった。その場の全員が元殺人犯のおじいさんを改めて見た。

「人を殺すとさ。別の世界に行くんだ」

「別の世界?」

 太ったソープ嬢が訊き返す。

「そう、別の世界」

 みんなおじいさんの言っている事の意味が分からなかったが、言わんとしている事はなんとなく分かったような気がした。

「僕はあの日から、別の世界に行ってしまった」

 おじいさんは、どこか遠くを見つめていた。元殺人犯のおじいさんは元殺人犯のおじいさんにしか見えない世界を見ているのだろう。

「その世界に行くと、もう普通の世界には戻ってこられないんだ」

 その時初めて、元殺人犯のおじいさんから笑顔が消えた。

「私、人殺しは嫌いだけど。おじいさんは好きよ」

 太ったソープ嬢が言った。

「ありがとう」

 元殺人犯のおじいさんは少し笑ってチューハイを飲んだ。

 その時、僕の携帯が鳴った。

「もしもし」

「僕は誰ですか?」

「たかし君だよ」

「わかりました。ガチャッ、プープー」

 統合失調症のたかし君からだ。たかし君は自分を見失うと僕に電話をかけてくる。そして、もう一度自分を取り戻すのだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る