第2話 在日朝鮮人のおじさん
部屋の中が薄暗くなり始めた。今日も意味のない一日が終わろうとしている。悲しいくらい何もない一日だった。普通の人たちは意味のある労働を終え、今の時分は気分よく家路に向かっているのだろう。だが、僕にはそんな、贅沢な時間はなかった。僕は、まったくの自業自得の無職のダメ人間だからだ。
ポロ~ン、ポロロ~ン♪
夕方5時になるとこの町では、夕焼け小焼けのメロディーが、どこに設置されているのか分からないが確実にどこかにあるであろうスピーカーから大音量で町中に鳴り響く。その物悲しいメロディーが、ただでさえ物悲しい夕暮れをさらに物悲しくする。そして、それは容赦なく僕の部屋の中に土足で流れ込んでくる。
「まったく」
僕は呆れるが、どうする事も出来ない。苛立ちながらの無抵抗な数分間が無力に流れていく。
なぜ、夕方の5時になると夕焼け小焼けを流すのかその意味は不明だが、これはもうこの町の一部になっていて誰も疑問にすら思わない。僕も最近このことについては考えなくなった。それはあるからあるのだ。それ以外の何ものでもない。
プルルルッ、プルルルッ
いつものこのメロディーが鳴り始める夕方五時きっかりに、アル中の在日朝鮮人のおじさんから電話が掛かってくる。もちろん、飲みに行く誘いだ。彼も孤独なのだ。
僕は電話に出る。
「おう」
「はい」
「行くか」
「はい」
ガチャン、プープープーッ、余計な言葉は一切なく、電話はいつも一方的にかかって来て、一方的に切られる。
僕はこの町に来て三人の人間に出会った。統合失調症のたかし君と、引きこもりのしおり、そして、このアル中の在日朝鮮人のおじさんだ。彼らだけが、僕が醜くても、気にしなかった。だから、僕たちはこの殺伐とした世の中で友だちになった。
おじさんはいつも中古の型の古いクラウンで僕の住む団地の前まで迎えに来る。知り合いからただでもらったものだ。その車で、多分、もう十分もしないうちにやってくるだろう。
在日朝鮮人のおじさんの仕事は警備員だ。毎日同じ町の同じ一角に毎日同じ警備会社の制服を着て、毎日同じ朝の八時から夕方五時まで立ち続ける。雨の日も風の日も真夏の殺人的直射日光の当たる日も休まず立ち続ける。そこは人も通らず、車も通らず、ただ白い大きな壁があるだけ。あとはただひたすら、畑と空き地が広がっている。
なぜ、その場所に警備員が立たなければならないのかはおじさん本人も分からないし、雇っている警備会社にも分からない。その警備会社に依頼している役所の人だって誰も知らないし、古くからこの土地に住んでいる人たちも誰も分からない。それになぜ田畑の広大に広がるこの土地にバカでかい白い壁だけがあるのかも誰も分からない。これも、夕方の夕焼け小焼け同様、もはや町の一部になっていて誰も疑問にすら思わない。だから、おじさんもある時からそのことについて考える事をやめた。あるものはある。ただそれだけだ。それにおじさんにしてみればそんなことはどうでもいい。ただ、そこに立っていればお金がもらえる。それだけだ。
日当六千円。そこから、その場所まで行く交通費とよく分からない諸経費を引かれて手取りで日当五千円。今日もおじさんは確実に何も起こらないであろう町の一角に意味も分からず立ち続ける。
「よお、おつかれ」
在日朝鮮人のおじさんが満面の笑みをたたえ、青春真っ盛りの部活動を終えた青年の二倍以上日焼けした真っ黒い顔をクラウンの窓からのぞかせる。仕事中ずっと帽子を被っているせいで、おでこの上半分だけが白く、そこだけが別の生き物のようで不気味だった。
僕がいつものように、あいさつもそこそこに助手席に乗り込むと、車内のカンホルダーにはまっている五百ミリリットルのビール缶はすでに空になっていた。おじさんは、後ろの席をごそごそやると、そこからコンビニの袋に入ったもう一本の五百ミリリットルのビール缶を取り出した。そして、僕を見て幸せそうにふふふっと笑うと、小気味よいプシュッという音を響かせ、プルトップをひねった。
「飲酒運転じゃないですか」
「ばかやろう。この車はオートマだぞ」
「ああ、そっか」
「ふふふっ」
おじさんはまた、本当に幸せそうに笑うと、新しく開けた缶ビールに愛おしそうに口をつけ、喉を鳴らしてさもうまそうに、その中身をゴクゴクと喉の奥に流し込んだ。
「プハァー」
おじさんは満足そうに息を吐くと、そのままいつも行く飲み屋へ向かって車を発進させた。
クラウンはいつもの道を、いつもの感じで走って行く。
「僕気づいたんですけど」
「なんだ?」
「オートマだって飲酒運転ダメでしょ」
「ふふふふっ」
僕がそう言っても、在日朝鮮人のおじさんはただ笑っているだけだった。おじさんにとって、そんなことはどうでもいい些細なことなのだろう。
飲み屋に向かう途中、二個目の交差点を過ぎた頃から、クラウンの真後ろにはパトカーがくっついて走っていた。
「パトカーですよ」
「大丈夫さ」
おじさんは平気だった。
僕は心配だったが、しかし、おじさんの言った通り、パトーカーはしばらく僕らの後ろを走った後、何も言わずどこかへ行ってしまった。フロント中央の缶ホルダーに入っているビール缶は後ろからでも丸見えだったはずだが、警察もやる気のある時ばかりではないようだ。
おじさんの運転するクラウンはいつものように、駅の近くのガード下にある元ヤクザの大将と、元ヤクザの大将の長男で元暴走族の特攻隊長の息子がやっている飲み屋に着いた。この店は千円もあれば脳みそがとろけるほど酔える、アル中専用の飲み屋だ。ちなみに次男は元AV男優だそうだ。
僕らは店に入り、いつも座る一番奥のテーブルに、向かい合い座った。今日も僕らが一番乗りだった。すると、直ぐに元特攻隊長の兄が大皿にこんもりと、てんこ盛りに盛られたキャベツ炒めをテーブルの真ん中に置いた。そして、その後すぐに、この店オリジナルの殺人級に濃い、一杯百二十円のアル中専用のチュウハイの入った、チュウハイを入れるにはバカでか過ぎるジョッキが、僕とおじさんの前にそれぞれ置かれた。いつもの時間に、いつもの席でこのメニューを頼むので、席に着けば頼まずともすぐに持ってきてくれるのだ。
おじさんは目の前にチュウハイが置かれると乾杯もそこそこに、すぐに飲み始めた。
「はぁ~、やっぱ、仕事の後の酒はうまいなぁ~」
おじさんはかなり濃いはずのチュウハイをぐびぐびと水のように飲むと、本当に至福の表情を浮かべて唸った。それは本当に至福の表情だった。辛い仕事終えての一杯は、やはり最高にうまいのだろう。働いていない僕にはまったく味わうことのできない幸せだった。
「大将おかわり」
あっという間に飲み干したおじさんが、元特攻隊長の兄の方にジョッキを掲げる。
「早過ぎませんか」
僕が驚くのも無視して、おじさんはツマミのキャベツ炒めをつつきながら、へへへっと幸せそうに笑っている。そして、すぐに運ばれてきた二杯目のチュウハイをまた、うまそうに飲み始めた。僕もチュウハイをちびちびと飲みながら、目の前にうず高く盛られたキャベツ炒めの山をおじさんの反対側の麓からつつく。かなり濃い目に味付けされたニンニクと化学調味料入り塩コショウのこれでもかとよく効いたキャベツ炒めは、舌の奥のうま味を感じる部分を刺激して、小さな快感をもたらす。これが、この濃いチュウハイによく合った。
チューハイを飲みながら、化学調味料は体によくないということが酔っぱらい始めた頭の片隅にぼんやりとあった。でも、そんなことを気にしている余裕は今の僕にはなかった。今は、目の前の小さな快感だけが、この人生の生きていてよかったと思える実感だった。
まだ日も残る夕方の六時前。店にはまだ僕たち二人だけだった。さして広くはない店内で僕たち二人は無言でキャベツ炒めをつつきつつ、しばらくチュウハイを飲む心地よさに没頭した。
店の入り口では元ヤクザの大将が何本か欠けた指で大きな金属製のヘラを持ち、バカでかい鉄板に向かい合ってカッカッと小気味のよい音を立てて休むことなくキャベツ炒めを炒めていた。それは本当に素晴らしく小気味のよいカッカッという音だった。その音は酔いが回って、とろけ始めた僕の頭の中に、まるで赤ちゃんが眠る前に聞く子守歌のように心地よく鳴り響いた。
「指が無いとキャベツを炒めるの大変じゃないですか」
僕はなぜかその時頭で考えていたこととはまったく別の、そんなことを口走っていた。
「あっしはこれでも器用な方なんです」
熱気で顔を真っ赤にした大将はなぜかうれしそうに、その顔にはその声しかないだろうというだみ声で言った。僕は強烈なチューハイで早くもとろけ始めた頭で、そんなものなのかと妙に納得した。
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