世界の果ての501号室

ロッドユール

第1話 けだるい寝起き

 善人町、僕の住んでいるこの町はとてもいいところだ。

 昼間、ひっきりなしに飛ぶ米軍の戦闘機の揺れるような轟音と、近くの畑からほのかに匂ってくる独特の肥料の臭いと、この町に昔から住んでいる人たちの僕を見る冷たい視線を除けば――。

 戦闘機の轟音は、次に日本がアメリカに戦争で勝つまで続き、肥料の臭いは近くに住む齢九十になるおじいさんが死ぬまで続き、冷たい視線は次の嫌いな新参者がこの町にやって来るまで続くのだそうだ。僕の一つ前にこの町に来た、嫌われ者の長髪のミュージシャンが僕に教えてくれた。

 この町の中心に東京ドームにしたら何個分になるのだろうか、広大に広がる団地の森がある。というか、この団地の森そのものがこの町とも言える。そして、その一番南東にある棟の南東の角部屋の最上階が僕の部屋だ。つまり、一番端っこの端っこのその上の端っこの部屋ということだ。

 築五十年の2LDK、南の窓からは、この団地群を囲むように生えているうっそうとした森が見え、北の窓からはまったく同じ形をしたお馴染の団地の棟が、きれいに規格通り並べられた将棋倒しのように、等間隔で並んでいるのが見える。

 この団地は他の団地同様、高度経済成長に合わせて造られ、当時は抽選まで行われる程の夢の住宅だった。だが、今では半分以上の部屋は空部屋となり、入居している部屋もほとんどが低所得の老人で溢れかえっている。それでも団地全体を見れば何千人という人間が住んでいるはずなのだが、子どもが少ないせいか昼間はゴーストタウンのように静まりかえり、古くから住む年老いた住人の死んだ魚のような目が冷たく彷徨っている。


 いつものように昼の少し前に起きた僕は、しばらくはっきりしない意識の中で布団の上に体を半分起こし、ぼーっと呆けていた。部屋はカーテンが閉め切られているせいで真昼間なのに不健全に薄暗い。いつものことだが、なんとなく気分が悪く、体も限りなくだるく重い。部屋にほのかに充満しているすえた匂いがさらに気分を悪くする。

 目が覚めてもいつも布団の中でしばらく動けず立ち上がれない。立ち上がろうというより、生きようという気力が湧いてこない。

「ふーっ」

 ため息まで無気力だ。

 日本の自殺者の数は年間三万人。ざっと計算すると一時間に四人が自殺している。十五分に一人だ。今こうしている間にも、今まさに自殺を遂行しようとしている人がいる。現実感はないがそれが今のこの社会の実際のことだ。

「かぽっ」

隣のダイニングで、水のはじける音が、のほほんと小さく鳴った。水槽の中でウーパールーパーが水中をふわふわと呑気に降りていく。ウーパールーパーは肺呼吸をするのだ。

 ウーパールーパーは水槽の底にふわっと着地すると、いつものつぶらな目のとぼけた顔で虚空を見つめ、固まった。ウーパールーパーは、そのまま悟ったが如く微動だにしない。いくら見てもいつまで見てもそれはいつも変わらなかった。

 ウーパールーパーを見飽きると、僕はもう一度布団に仰向けになった。

「ああ、孤独だ」

 僕は嘆息まじりにつぶやいた。

 寝起きの時はいつも言い知れぬ寂しさが、心の底からじわじわと湧き上がって来る。

 無気力な頭で天井を見つめていると、そのさらに上を一機の戦闘機が飛び去っていく大地を揺るがすような轟音が鳴り響いた。その音で部屋中のふすまがかたかたと大げさに震えてぶつかり合う。まったくいつものことだが凄まじい。

 日本は戦争に負けたんだな。戦争、戦争。なぜか東条英機に、ものすごく腹が立ってきた。

「せめて、自決くらいちゃんとしろ」

 東条英機は拳銃自殺に失敗し、蘇生させられると、裁判にかけられ死刑になった。

「まったく・・」

 なんだか僕の孤独が東条英機のせいのように思えて来た。いや、孤独だけでなく、僕の憂鬱から苦悩から人生の敗北から何から何まで、すべて東条英機のせいに思えてくる。

「世の中顔だよ」

 小学校五年生の時、同級生の花岡君が何かに勝ち誇ったように僕に言った。花岡君は、金持ちのボンボンで性格は悪かったが、女の子にはとてもよくモテた。

 僕の顔は確かに花岡君が暗に示すように醜かった。みんなにもよくそう言われた。直接言われた訳ではない。みんなの目がそう言っていた。それは冷たく、絶対的なものだった。相対的にも、顔のいい子が言われるその賛辞の言葉は僕には皆無だった。

母親はもっとはっきりしていた。顔のよい兄との扱いの違いで、はっきりと行動という言葉で語った。それは直接そう言われるよりも、身にしみて実感があった。

 高校の担任は国語の先生だけあって、言葉ではっきりと言った。

「その顔で」

 クラスのみんなが笑った。大爆笑だった。

 テレビでは当たり前に醜い人たちはバカにされ、虐められ、笑われている。それは自明的でさえあった。

 だから、僕は高校を辞めた。この定着した差別構造がある限り、その中でいくらがんばって努力しても、自分が幸せになれる気がまったくしなかったからだ。僕はどうしようもなく無力だった・・。

 今思うと僕の孤独はそこから始まった。いや、その前から僕はどうしようもなく孤独だった。ただその時、絶望的に孤独だということに気づいただけだった。はっきりと、目の前に突きつけられる形で――。

 人は一人では生きていけない。みんなそう言う。だから、僕は死ぬことにした。

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