第4話 本当の話


 呼び鈴を押して十数秒の後、玄関のドアが控えめに開かれた。そしてドアを開いた人物――ユーコの姉である高橋瑛子は、鹿島のその形相を見るなり慌てて閉じようとした。しかし鹿島の足の方が早かった。素早く左足をドアの隙間に差し込むと、ドアが閉じるのを阻止し、更に隙間へ両手を挿し込み、右足で壁を蹴ってこじ開けた。それから右拳を固く握りしめると、呆然として立ち尽くす瑛子の鼻柱に叩きこんだ。瑛子はよろめき、地面に倒れ込んだ。

「な、なにすんのよ」

 そんな瑛子の動揺もお構いなしに、鹿島は馬乗りになってその顔をもう一度殴った。瑛子は悲鳴をあげた。それでも構わず鹿島は殴った。

「あんたのせいでっ、ユーコはっ!」

 その殴打音といい、悲鳴といい、叫び声といい、聞かれてはいけない音がフロア中に響き渡っていたので、僕は中に入るなり急いでドアを閉める。

 最初の内は瑛子も何とか暴れて抵抗していた。しかし顔面へ拳が入る度に戦意が喪失していったようで、三度程殴られると大人しくなった。


「どうして……こんな仕打ちを受けなきゃいけないの?」

 瑛子は首を少しあげて、鹿島を睨みつけた。鼻血が唇を赤く染めていた。

「あんたが、ユーコを殺したんでしょ?」

「……わたしが犯人だって、誰がそんなデタラメなこと」

「あの場所はわたしとマサくんとあなたしか知らない。そしてユーコの亡骸をあのロッカーまで人目につかずに運ぶ手段は、車に限られてる。じゃああなたしかいないじゃない!」

「……仕方なかったのよ」やがて瑛子は悲痛な声で叫んだ。「わたしは悪くない!」

「仕方ないって何よ! 人を殺すのに、仕方ないも何もないじゃない!」

「だって……だって! 殺さなきゃわたしが殺されていたんだ! 襲いかかってきたのはアイツの方が先だから……本当の人殺しはユーコの方なんだ!」

「はあ? あんた、この期に及んで……」

 鹿島はそこで言葉を切った。瑛子はボロボロと大粒の涙を零して、両の手で顔を覆っていた。それからしゃくりあがる声を抑え、うわごとのように繰り返した。


「……わたしは……悪くない……わたしは……悪くない……」


 そこでどうも様子がおかしいことに気づいた鹿島は、声を少し震わせ始めた。

「どうしてユーコがあなたを殺そうとするのよ? だって、ユーコはずっとあんたに憧れていたんだよ? そりゃ、あんたが妊娠したから失望したのかもしれないけれど、でもそれにしたって殺そうとするわけが……」

 瑛子はピタリとうわごとを止めた。そしてヒステリックに、狂ったように、甲高い笑い声をあげ始めた。

「わたしが騙したから……偽薬を渡してやったの。ピルだと偽って。ユーコはいつも、わたしの言うことを疑わなかったからね、騙すのは本当に簡単だった。ユーコは何の疑問もなく偽薬を飲んで、彼氏と生でヤッた。あの男も大した悪人だよ。ヤリ逃げしろって言ったら本当に実行するんだから」

「はぁ? 何が『私は悪くない』なのよ! 殺されそうになったって、完全に自業自得じゃない!」

「確かに騙したのは悪いと思ってるけど、でもわたしも同じ目にあったんだよ? わたしだって親友に同じように騙されて、妊娠して、人生を台無しにした。わたしは許せなかった。でも、人は殺さなかった。妹を道連れにしても、人を殺すことはなかった。――あなたに聞くけどさ、ユーコってそんなに善良な人間だった? 人を殺してもいいほどの聖人で、わたしは殺されても仕方ない程の悪魔なの?」

「そんなの……」鹿島はどう答えればいいのか、わからないようだった。「知らないよ! そんなの、知らないわ! でも、ユーコはあなたに殺されていいような人間じゃなかった!」

 鹿島は上手い言葉が見つからないまま、自分の気持ちを無理やり言葉に直した。前後の文脈などお構いなしに、言いたいことだけを言った。言いたいことだけを言った言葉が、誰かに伝わるはずもなかった。

「話にならないわね」

 その点に関しては、僕と瑛子の意見は一致していた。

 そしてそれは事実上の敗北宣言だった。なぜなら話にならなかった時、負けるのはいつだって理性を残した方だから。

 瑛子は言葉を発することを諦め、口を真一文字に結んだ。それは賢明な判断だった。ここから逃げ出すのには、体力が必要なのだから。説得も出来ない相手に啖呵を切る程体力を消耗することはないだろう。


「ところでなんでコインロッカーにまで移動させたんだ? 放置していればいいものの」

 僕はだんまりを決め込む瑛子に一つの疑問をぶつけた。

「それは……そういうのを処理してくれる人がいたからよ。ほら、巷で騒ぎのコインロッ――」

 その時だった。ピンポーンと、部屋中に呼び鈴が鳴り響いた。

 瑛子は反射的に立ち上がろうとしたが、案の定鹿島に押さえつけられて、満足に動くことは出来ないようだった。


 ――しかし、誰が来たんだろう?

 ――警察だとしたら、まずいな。この惨状を警察に目撃されるのは避けたい。


 僕は鹿島の肩を掴んで、ゆっくりと諭した。

「行かしてやった方いいよ。インターフォンで、いつも通りの応対をしてもらった方がいい」

「どうして?」

「警察が来たのかもしれない」

「どうして、警察が来るの?」

「杜撰な犯行だし、警察だってもうじき特定できていてもおかしくはない。そうでなくても、被害者宅周辺の聞き込みくらいするだろうし。――あるいは、騒音を聞きつけたマンションの住民かもしれない。どちらにせよ、いつも通り自然に対応してもらって、不審を抱かせない方がいい」

「でもこいつ、自由にしたら逃げるかもしれないよ?」

 逃げるならそれでもいいと思った。このまま鹿島が何かのはずみで瑛子を殺してしまうよりはマシだった。鹿島は今まで感じたことの無い激情に囚われ、冷静さを失っていた。一度冷静にならなければならなかった。

「どうしても気になるなら、服でも腕でもずっと掴んでやればいい。鹿島さえしっかり掴んでいれば、逃げられることはない。来客は中に入れず、インターフォンで上手く追い返してもらう。それでいいよね?」

 鹿島はしばらく考えた後、小さく頷き、瑛子の腕を掴みながらゆっくりと身体を退けた。

 ピンポーン。

 二度目の呼び鈴が鳴った。

 二人は急いでインターフォンの前に立つと、瑛子が受話器を耳に当てて応対し始めた。僕は離れたところからそれを眺めていた。

「はい、はい、ええ」瑛子は受話器から耳を離すと、僕に問いかけた。「高橋雅史って君のこと?」

「そうだけど、それがどうした?」

「いや、なんでもないわ」

 瑛子はモニターに顔を向け、再び受話器を耳に当てた。鹿島は状況が呑み込めないと言った顔で、瑛子と僕の顔を見比べていた。

 瑛子は受話器に向かって「ええ、います」と言って、モニターの下のボタンを押した。

 それは、どう見ても解錠ボタンだった。

「ちょっと、どうして開けたの!?」

「ああ、ごめんごめん」瑛子は悪びれもせず、卑屈そうに笑いながら言ってのけた。「いつも通り対応しろって言ってたからさ、いつも通り対応して、いつも通り解錠ボタンを押しただけよ」

「さっきの話を聞いていなかったの!? 来客はインターフォンで追い返すって話だったでしょ!?」

「だって、宅急便なんて追い返せるわけないじゃん。在宅してるってことはバレてるのに」

「宅急便? そんなわけないだろ、どうして僕宛ての荷物がここに届くんだ」

 鹿島が困惑したように僕の顔を見つめ、消え入りそうな声で言った。

「見た感じ、宅急便の人みたいな格好はしてたと思う。帽子を目深に被ってたから、顔まではわからなかったけど……」

「それっぽい人が来たから、そういう嘘を吐いただけだろ」

「本当なんだってば!」

 瑛子が力強く主張する。

「仮に本当に宅急便だったとしても、僕が出ていって対応するだけだぞ」

 そんな意味のない嘘を吐いて一体何を企んでいるのか――


 ――


 


 


 僕の頭はホワイトアウトしたみたいに真っ白になり、それから恐怖が心を徐々に、徐々に蝕んでいった。

 ――一体どういうことなんだ? 一体何が起ころうとしているんだ?

 コツコツ、コツコツと誰かが階段を登る音が聞こえる。

 ピンポーン。

 そして、呼び鈴が鳴った。

「事情が変わった。絶対に誰も出るな」

 それから僕らはしばらく息を潜め、動かなかった。

 ピンポーン。ピンポーン。

 招かれざる客は痺れを切らしたように、また呼び鈴を鳴らした。狂ったように鳴らし続けた。

 ピンポンピンポンピンポンピンポンピンポンピンポンピンポン。

「ちょっと、何これ!? なんでこんなに何回も押すの!?」

 鹿島が泣きだしそうな顔でそう叫んだ。

 しかし、呼び鈴はまだ鳴りやまなかった。

 鹿島は思わず両手で耳を塞ぎ、しゃがみ込んだ。

 瑛子はその隙を見逃さなかった。瑛子は全速力で駆け出すと、あっという間に鹿島の目の前を突っ切って、玄関のドアを開けた。

「誰か助けて!」

 瑛子は配達員の格好をした来客に抱きつき、悲痛な声でそう叫んだ。

 突然の出来事にそいつは大きな瞳を丸くさせて、瑛子の顔を覗き込んだ。その間、瑛子はその眼差しに射竦められたように、微動だにともしなかった。それからそいつは場違いな程ゆったりとした動作でポケットに手を伸ばして、ハンカチを取り出した。それから瑛子の血に塗れた鼻をハンカチで拭った。

「すごい修羅場だったみたいだね」

 瑛子の鼻を拭い続けるそいつは女だった。透き通るような白い肌に、肩甲骨まで伸びた黒髪、そして幼い顔に比して大人びた口調。それは、どことなく病がちな少女を連想させた。

 瑛子の鼻を拭い終わると、そいつは命令するかのような口調で瑛子に告げた。

「わたしは別にあなたを助けるつもりはないけど、逃げたいのならどうぞ」

 それで十分だった。瑛子は奥歯を噛み締めると、急いで階段を下り、一目散に逃げて行った。逃げるのに必要な物を一切持たずに、一体どこへ逃げるつもりなのだろうか。僕には皆目見当もつかなかったし、きっと本人も見当がついていないに違いない。

 瑛子が姿を消すと、家主は誰一人としていないにもかかわらず、そいつは「おじゃまします」と呟いて玄関の中に入ってきた。僕も瑛子みたいに逃げ出したかったが、しかし僕にはそれをさせてはくれないようだった。

 そもそも僕は、あまりの出来事を前に動くことすら出来なかった。

「なんで……お前が……ここに……?」

「久しぶり。やっと会えたね」

 不格好なキャップを脱ぎながら、嬉しそうにそう言った。しかし、決して顔は笑ってなかった。

 配達員の格好をしたそいつの名は高橋由美子、僕の妹だった。

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