―甲斐 七宝院―

「学園の皆様、お待ちしておりました」


 七宝院の僧兵が一人門にあって、甲斐甲斐しく一行を迎えた。


 長身の身を法衣に包む一方で、袈裟を上から覆う防弾仕様のチョッキを着込み、腰元のホルダーには拳銃が収められている。まさに、現世の僧兵である。


「こちらこそ、この時勢の中、しかも突然押しかけるようにしてしまってご迷惑をおかけします」


「何の。このような時勢ゆえ、学ぶべき事も多かろうと存じますよ、樹下教諭」


 にっこりと笑う僧兵と謝意を伝える引率の教諭の姿を後ろから眺めていた地学部の学生達は、肩からズレ落ちそうな荷物を掛け直して待っていた。湊は結局吐かずに済んだ。それでも「世話役」の綾香は気にして、荷物を一つ持ってやっている。「運転手」役の九戸晴政は、バスの預かりを頼む為、別の場所に車ごと移動していてここには居ない。


「それでは方々、甲斐は仏法に守られし地、存分に星学研究に励んで下さい」


 僧兵はにこやかにそう言うと、次に険しく顔を変え、門の裏に居る部下達に聞こえるように声を上げた。


「開門っ!」


 校門が開いて行く。大きな木製の門戸は軋んだ音を立てながら、ゆっくりと開いて行く。


 音を立てて開かれて行く門戸からは物々しい姿の僧兵達が踵を並べ、まるで来賓を出迎えるように、厳かな態度で一行を出迎えた。その奥の奥に、七宝院がある。


「なお、定時には皆で法華経の題目を行いますので、その際はお呼び致します」


 僧兵は僅かに一行の方へ振り向いて言った。


「…面倒、題目何かよりタロットの方が…」


「湊、ここは黙っておけ」


 ボソっと吐き出された危険な発言を椿は平静を装って制した。つい先程までの気分の悪さから少しずつ解放されて行ったからか、途端に鬱憤晴らしとばかりに毒付き出した湊の暴言に、案内の僧兵は気が付いていなかったようだが、傍らに居た亜紀と綾香は思わず肝を冷やされた。亜紀は溜息をつき、綾香は苦笑いを浮かべた。ただ思う所は同じである。


 時勢故なのか、閉ざされていた校門が完全に開かれ、一行は七宝院へと入場した。僧兵達が凡そ10余騎、肩にサブマシンガンを担いで一行をそれとなく見据えながら出迎えた。開かれ始めた頃と変わらず、厳かな態度を崩しはしなかった。


 「敷島人」である綾香にとって、寺社教会が武装している事を可笑しく思う事は特段ない。そもそも、自身が正しくその関係者である以上、これが普通である。しかし、雰囲気が少々おかしい。そして、僧兵達から少し「鉛」の匂いを感じた。どこかでやり合って来たのだろう。七宝院は「雇い主」から聞く所に拠れば、現在「日本人」勢力のいずれとも銃火を交わしてはいない筈である。八ヶ岳の麓に本山のある七宝院とぶつかりそうな近隣勢力と言えば、綾香には一つしか思い浮かばなかった。


 僧兵の閲兵を過ぎ、案内役を先頭に七宝院学園の受付まで向かう一行の内、素知らぬ顔で辺りを物色しつつ七宝院を付け狙う「敷島人」について思いを馳せていた綾香とは対照的に、興味深そうに辺りをキョロキョロと見廻していた星河亜紀は、随分と上機嫌な面持ちで、数歩先へ行く引率の樹下へ駆け寄るように歩を早め、その傍らに寄った。


「どうした?妙に嬉しそうじゃないか」


「ここにいれば、異世界の星空を見放題だわ。先生、『緊急特別合宿』を企画下さりありがとうございます!」


 亜紀は心の底から喜んでいるようであった。天変地異以来暫し、鬱屈とした雰囲気に飲み込まれ、流石の亜紀達もげんなりしていた。しかし、緑豊かなこの地で思いっきり部活動に興じられるのなら、何の問題もない。まして、渋谷から暫しある距離の為に、中々行く機会も得られなかった七宝院である。世の中は非常事態であるが、当の本人達にとって、自分達まで事態に呑まれる必要はないのだ。


 実に少女らしい笑顔で傍らの引率の教員の顔を見上げる亜紀に、樹下は少し顔を綻ばせた。


「それは良かった。こういうご時勢だと皆、必死に殻に篭ろうとしてしまうからね。実際、こういう時こそ学問をするには絶好の機会だ。こんな時に部屋に閉じ篭っていたとしても得られる物は無い。怯えるばかりでは何も得られはしないさ」


 ええ、その通りだと思います。亜紀はすぐに返して、亜紀はすぐに返して、盛大な賛意を示した。声に喜びが滲み、足取りも軽やかである。案内役の僧兵はそんな教師と生徒を見て、微笑みつつも、前を向いたまま声を掛けた。


「実に頼もしい、剛毅な方々だ。やはり、学問を志す者はそうでないといけませんな」


 僧兵も鬱屈していたのであろうか。先程より少し、明るい声である。


「ところで、この後どこかに行く予定は?」


 亜紀は何か気付いたように、引率へ声をかける。


「取り敢えず、ご挨拶と宿舎の案内を受けて」


「その後は?」


 〈定例行事〉の先について、亜紀は間髪入れずに問うた。思ってもいない答えを期待した目をしている傍らの女学生に、樹下は少し苦笑した。


「うむ、今日は夜一発目の観望を考えているから、別段…そうだな、皆の希望があれば周囲の野外活動とでも洒落込もうか?まあ、来たばかりで余りそう遠くへ、とはいかないが構わないかね、部長?」


「はい!有難う御座います、樹下先生!」


 樹下は正直、何も考えていなかった。合宿は比較的長いスパンで考えていた為、突然動き出す必要は考えていなかったのだが、「別段」のくだりで、途端にムッとした顔をした傍らの地学部部長殿の行動力を考えた時、せめてガス抜き程度に付き合ってやるには良いと考えていた。歩いている内に何をさせるかについても考えが及ぶだろう。そう思っていた。


「ワンダーフォーゲルですかな?」


 両名の会話を聞いていた僧兵は「野外活動」と聞いて思い付いた事を口に出した。


「いえ、それ程大それたものではありませんが」


「しかし、そのような御予定もあるのでしょう?」


「ええ、まあ」


 樹下は適当に話を合わせている。この場合の「野外活動」と言えば、時間も時間だ、そう大した物にはならない。しかし、この僧兵は言葉の意味を分かっているようだ。確かに、そういう案もあったが、しかし、具体的な事は考えてはいなかった。


「でしたら、我らの手の者を配しておきましょう。願わくば、後で計画をお聞かせ下さればと」


「…何か、出るのですか?やはり、この辺りにも」


「はい、残念ながら」


 綾香はそれとなく、僧兵の言葉に耳を傾けた。


「つい先日、本山の辺りで小競り合いがありましてね。七宝院は『敷島人』も分け隔てなく迎えておりますが、彼らの内には全てを己の物と言い張る者共もいるようでして」


「その連中は、先日、北武で星川とぶつかった〈坂東武者〉の類ですか?」


 ピクっ、と亜紀の身体が僅かに反応した。言葉を発した樹下は気付いていない様子だったが、亜紀の背後に居る綾香と椿はそれを見逃さなかった。


「はい、近しい者ですよ。割菱の幟を掲げて大泉の辺りまで出張って来ましたよ。僅かな兵でしたが、気性の荒い、腕っ節ばかりの連中でした」


 七宝院の僧兵が人の事言えるのか?と後ろで聞いていた椿は思わずにはいられなかったが、取り敢えず黙って聞く事にする。


「この辺りで割菱と聞くと…」


 樹下は右手で顎に僅か生えた無精髭を摩って、思い返すような仕草をした。


「ええ、ご想像の通りですよ、樹下教諭。…武田家です。そう名乗っていましたよ」


 やっぱりそうか。綾香は内心溜息をついた。


 出先の東京での「異端審問」の為、下調べに伺った教会で聞いた噂の通り。好意的なシスターからの気の良い勧めで購入した海洋深層水を手渡されながら聞いた敷島軍と悪僧の衝突は寡兵の敷島軍が不利を悟って一旦兵を引いた。しかし、七宝院も御坊に榴弾が撃ち込まれて「日本人」や「敷島人」の避難民諸共を多量に殺されたそうだ。それを小競り合いと敢えて言う所を見ると、七宝院、すねに傷が出来たか。綾香は顔に出さずに苦々しく思った。


 七宝院の本山がある八ヶ岳の甲州側は復古武田氏の兵舎がある所であり、恐らく七宝院目掛けて押し出して来たのは武川衆であろう。想像に難くない。特に、幕府陸軍の評定所総裁―「日本」で言えば、陸軍参謀総長である―を務めさえした甲斐国守護の武田信賢の性格からして、降って沸いたような僧兵集団―少なくとも、「敷島人」はそう考える―にやっと取り返した父祖の故地をかすめ取られては堪らない、という所だろう。腹から吐き出された熊の雄叫びにどやされて、武田の兵はきっと「お館様よりマシ」と踏んで、悪僧の集団に飛び込んで行ったのだ。勿論、降って沸いた武田の輩に七宝院も殺られるわけには行かないから、当然両者の衝突は必然となる。


「武田方には再三、話し合いを求めましたが、こちらに返されたのは『矢弾やだまの備えが足りぬなら、撃ち込んで融通してやる』との脅し文句のみ。こちらも、やるしかないでしょう?」


 僧兵は心底ウンザリした様子で語った。


 少なくとも、フィルターが掛かっているとは言え、神輿担いで請願をするのが当たり前となっている七宝院の悪僧達がこうまでウンザリするのだから、きっと輪を掛けて面倒なのだろう。その七宝院の面倒な連中が営む学校に通う瀬田椿は話を聞きながら、些か他人事のように考えていたが、しかし、面倒な連中、と思い返すと、嘗ての不忍池の赤々とした水面を思い出す。彼処で出会った光景の全てはまさに悪夢そのものであり、それが現実である事の始末の悪さ、後味の悪さはこれまで早々出会せるものではなかった。


 椿は取り敢えず、僅かに左右へ頭を振って意識したものを掻き消して、正面へ向き直った。


 途端、鼻柱が前方に立ち止まった綾香の背に押し付けられた。否、ぶつかった。


「ああ、すいません」


「うん?ああ、良いよ。大丈夫?」


 反射的に一歩下がり、鼻を押さえながら、同時進行で頭を垂れた椿に綾香は僅かに意識を払うが、気遣う言葉とは裏腹に、綾香はそれ以上の関心を寄せなかった。


 前の女が止まったのは、眼前を見据える為である。椿は頭を上げ、自らの背丈を優に超す、大きな門へたどり着いたのを確認した。


 甲府・七宝院学園。一行の通う渋谷七宝院の本校である。鬱蒼とした並木の通りを歩き抜け、一行は系列の兄弟校の門戸の前に立っていたのだ。


 門は既に開かれており、その先には本校の建物がある。


「さあ着きましたぞ、方々」


 僧兵は促すように門の内へと手の先を向け、一行の歩みを促した。


「それでは…点呼は、いらないな。…さ、行くぞ」


 樹下教諭が促し、一行は歩を進め、門戸を潜った。


 目的地に着くと点呼をしなければならないと思うのは、まず職業病だ。そして、私服を着ながらも部活動の一環でやって来ている部員達も、目的地に着くと一旦止まって、「何か」の指示を待ってしまう。慣れ親しんだ課外授業の行動様式は、こういう所でも無意識に顕在化する。集団を統率しているという前提の下、平等な教育を万民に受けさせる事が、近代以降の教育思想の根幹にはあるが、しかし、こういう統制は正直、病気染みた考えではないか?椿は漠然と、そう思索した。


 そう言えば、この世話役の女も足を止めて門に向き合っていた。学生達の行動に倣っただけか?それとも、この病気が治っていないのか?椿は促されて思い出したように歩みを始めた樹下と亜紀に釣られて歩く綾香を見て思った。


 七宝院の所有地の門をくぐり、案内されて歩んで凡そ10分。武田との交戦故か所々に分隊規模に纏まって警戒を怠らない小銃片手の僧兵達がうろついていたが、特に窮屈には今のところ感じてはいない。只、あのバスでの気分の悪さが僅かにも肉体へ疲労を溜め込んだようで、椿はさっさと荷物を下ろして一休み入れたかった。バスでぐったりとしていた湊なら尚更だろう。現に、湊の顔には疲れが見えている。前方の女が何やら気にして湊をしきりに見ていたのは、やはり背を摩った縁なのだろうか。


 学園の正門を全員が抜け終わり、校舎へと歩を進めて向かうと、そこでは紫色の法衣を纏った、高僧らしき男が出迎えていた。そして、高僧の後ろには別の色をした法衣を纏う幾人かの若い僧侶が横一列に並び、彼等の背後には校舎の中にも拘わらず、捧げ銃の姿勢で来賓を出迎える装備を身に纏う僧兵達13名が居た。


「ようこそ、仏法の学び舎へ。七宝院を代表して歓迎致しますぞ」


 数珠を懸けた手を合わせて一礼をする高僧と示し合わせたように、若き僧侶達も同様の所作を成し、その背後に立つ僧兵達は捧げ銃の態勢のままである。


「こちらこそ、突然も申し出にも関わらず」


「何をおっしゃいますか、樹下講師。講師が期待なされる気鋭の学生さん達なのですから、相応しい学問の場を提供するのが我ら七宝院の役目です」


 樹下の謙遜した態度を一笑に付したかのように快諾の弁を口にする高僧は高笑いでもしそうな顔であった。


「さて、そちらの方が学生さん達ですな」


 高僧は顔を樹下の後ろに控える亜紀達に向けた。樹下は僅かに後ろを向き、一瞥して合図した。


「はい、地学部部長の星河亜紀です。この度はお招き頂きまして誠にありがとうございます」


 一歩進み出て、名乗りを上げた亜紀に続き、


「部員の瀬田椿です、宜しくお願いします」


「部員、高瀬川湊、です。宜しくお願いします」


 と挨拶をした。


「こちらこそ。聡明さ、伺っておりますよ」


 高僧は微笑んで、亜紀達へ視線をやる。


「そして、背後にいるのは世話役の方だね…敷島人だったかな?」


「はい、敷島共和国国籍の世話役、中浦綾香です。この度はお世話になります、慧静えじょう僧正そうじょう


「これはこれは。敷島の方は耳が早い。もう名を知られてしまったようだね」


 乾いた笑いが口から漏れ出した僧正慧静を綾香は見据えている。


「もう一人、運転手がおりますが…」


 二人の空気を感じた樹下が敢えて口を出すと、ああ、と遮るように相槌した慧静は、


なら既に中におられますよ。ささ、皆様も一休み為されませ」


 と話を区切って、一行を招き入れた。



「どういうつもりですか、偽僧正?」


 一行を宿営に招き入れた慧静から悟られぬように招かれた綾香は僧正の部屋に入り、二人きりになると突然こう切り出した。


 僧正の部屋、と言うが、棚や寝具といった調度品の数々は高僧が用いるそれらへの印象とはかけ離れ、極めて西洋的なアンティークで占められていた。只、元々は和室であった名残か戸は皆ふすまである。


 綾香からの切り出しに対し、僧正は目を細めた。


「おや、言われようだね」


 ククッと喉を鳴らし、僧正の部屋におよそ相応しからぬ家具である椅子に慧静は腰掛け、椅子の背にもたれかかった。


 綾香は閉められた襖戸の前で、両手を腰に当てて怒ったような顔をしている。


「まだ、還俗はしていないのでね。こう見えても僧侶だよ?…もっとも、今の格好は正しく僧侶だが…!」


 綾香の右手が当てられていた腰から放され、紙状の固形物が僧正目掛けて下手で投げ付けられた。僧正はそれを顔の所まで反射的に挙げられた左手の中指と人差し指でしっかりと挟んだ。封筒であったが、これには見覚えがある。


「そういう芸当は正体を悟られるよ、従士殿?」


 ククッと再び声を漏らし、指で挟んだ封筒で口元を隠した。丁度、貴族が扇でするような、幾分人を喰った仕草だ。


 対する綾香は憮然とした顔で、入道を見据えている。


「もう、悟られたわよ。ってか、バレた。余一の馬鹿、勝手に口走って」


「あれは錯乱の徒。人様の計画なんて壊す事しか知らないのよ」


 僧正は封筒を掴み直し、再び扇のように用いて、もう一つの椅子を指し示し、綾香へ腰掛けるように促した。


 綾香は、僅かに会釈だけして、二三歩進んで椅子へ近付き、一瞥だけして、腰掛けようとした。入道は微笑んだ。


「安心してお座りなさい、御嬢様。…腰掛けた途端破瓜したりはしないから」


「っ!…や、やかましいわ!」


 この手の話題が大の苦手な綾香は突然真っ赤な顔をして、腰掛けた椅子から飛ぶように立ち上がった。


 尻を押さえて立ち上がった綾香を見て、僧正はニヤついた。


「安心しなさいって申したのに。それとも、お兄様を思い出しましたかな?」


「このっ!…あの子達と僧兵共の前でその格好、引っペがしてあげましょうか!?」


 紅潮する綾香を目にして、入道はわざとらしく問いかけ、案の定綾香は頭に血を登らせた。


「おやおや、学しか知らぬ少女達に男の裸体を晒そうだなんて。肉親愛趣向から更に悪化しましたね、綾香」


「っ!お、おのれぃっ!」


 脅しても跳ね返される綾香は猿声でも上げんばかりに頭を抱え、紅顔して悔しがった。それを見ていた僧正が実に愉しそうな表情を浮かべていた事で、綾香の怒りに火が付いた。


 右足で強く踏み鳴らし、両手を頭から振り下ろして、


「ああ、もうっ!いいわ、メンドくさい!一発でトバしてやる殺してやる!」


 怒った。


「ああ、待って!頭は割ってもいいから、その椅子は勘弁して頂戴!そのアガリだけはやめて頂戴!」


 怒った矢先、右手で椅子の背もたれを掴み、綾香はそれを振るい上げた。僧正は初めて恐怖し、平伏した。


 平伏する男と椅子を片手で掴んで振り上げている女の構図がここにはある。


 平伏した僧正を怒気の籠った眼で見下すように見ていた綾香は怒って高まった息を整え、終いに溜息一つついて椅子を静かに下ろした。


「…その高級志向に物質主義っぷり。確かに大河内御所の人間ですね、西蓮寺入道様」


 久方振りに聞かされた自分の呼び名を聞いて、入道はやや顔を上げた。若干不満気である。


「侍従様と一緒にしないで下さらないかしら?まして、高級志向に物質主義だなんて!腐れ三好の壺好きじゃあるまいし、私は蜜壷だって嫌いなのに」


「っ!」


 再び椅子を掴んだ綾香にまたしても土下座して「命乞い」する入道。綾香もいい加減疲れて来たのか、掴んだ椅子を入道から引きずるように離して、再び腰を掛けた。


「…そのオカマ口調、今の流行りなの?空が落ちてきたせいで性別までおかしくなったのかしらね?」


 綾香は腕を組み、脚を組み、怪訝な顔付きで、入道を見下ろしている。怒りの鎮まりを見た入道はそっと溜息をついて平伏から立ち直り、再び椅子に腰掛けながら答えた。


「ああ、これは面白いからそう使ってみただけだ。この西蓮寺入道統家、常に時代の先を読んで動かなくては」


「その割には、流行の粗方を外して、ご覧の有様じゃない。復古主義華やかな今時でさえ、ヴィクトリア様式なんて正直カビ生えてるわよ」


「…カビ生えてるのは大衆の目だ。あの雑色上がりのブルジョワ共が。何がマティスだ。国立美術館の目玉にあんな物!共和国のいい恥晒しよ!これだから、祖法に集って市民ヅラする奴婢上がりどもはっ!」


 さり気ない差別発言に眉を顰めつつ、綾香は取り敢えず、話を続けた。


「そんな入道様のご推薦の品は?」


「クリムトの『接吻』」


「馬鹿じゃないの!しかも、オーストリアから持ち出せもしなかったじゃない!どう見たって、マティス?のがいいじゃないの。高い金出して買ったんでしょ?目玉に出来なきゃ燃やしちゃうわよ」


「絵画を燃やす!?このナチ!」


「私からすれば、アップロードされた画像のコピー刷りで済む様な物何かにウン億も注ぎ込む方がどうかしてるわよ。徳川もヤキが回ったわね」


「ジャコバンにでもなったのか、貴様」


「違うわよ。只、この財政的余裕がない時に、わざわざブルジョワと結んでまであんな物作る価値があるのかって事よ。しかも、このご時勢にまだ建ててんでしょ?今度はブルジョワじゃなくて、畿内の豊臣?…っていう『日本人』と組んでだけど」


 綾香には美術館の存在理由もその政治的意味も問おうとする思考回路がない。西蓮寺は内心苦笑しつつ、また椅子が振り上げられないようにそれを隠していた。


「日本人はお嫌いかね、敷島の領袖一門の方は?」


「…嫌いも何も。敵じゃないなら、誰だっていい」


「何がいいんだい?」


 不明瞭な言葉を口にすると、この男はすぐに噛み付いて来る。面倒臭い、実に。綾香はこの男と関わると大抵そう思う。


「嫌いになんかならない、って言ってるの」


 言葉を聞いてすぐに、西蓮寺はニヤつき出した。


「おや、随分と博愛主義な事で。流石は、〈尊厳ある者〉の娘だ」


 冷やかすような口振りにムッとした顔付きの綾香は、顔を背けて吐き捨てた。


「別に。いちいち他人と自分を区分けして、蔑む方がどうかしてるわよ」


「〈愛人〉の九戸余一なら、きっとそうは言わないんでしょうな」


「あっ、愛人!?」


 ムッとした顔が一転、先程より紅潮させられた綾香は思わずたじろいだ。


「おやおや、実に初々しい限りだね。…まあ、冗談だよ。安心したまえ。誰もそんな風に思っちゃいないさ」


「くっ、くそぅ…」


 茶化され続けて紅潮しっ放しの綾香を笑って見据えていた西蓮寺だったが、思い付いたように腰を上げると、自身の椅子の後ろにある机へと向かい、その上に積まれた書物から一冊を取り出して、今度は綾香の方へと向かった。踵を返してこちらに来た西蓮寺を見て漸く落ち着きを取り戻した綾香は、西蓮寺が差し出して来る書物を手に取った。


「これが、例の物です?」


 綾香は書を手に取り、外装を訝しげに見ている。やや色褪せた装丁、幾度となく開かれた為か、一ページ毎に痛みが見受けられている。経年劣化の状態からして些か古い代物である。


「ああ、違いない。言之葉学園一期生の〈紳士録〉だ」


 西蓮寺はこれを直接渡す為に、綾香を呼び付けたのである。そして、九戸晴政も綾香と同じく、これに用があった。


「よくこんな物が見つけられましたね、入道殿?」


 綾香は実際舌を巻いており、それは苦笑い気味の顔からも良く分かる。対して西蓮寺は意にも介さず、再び机に戻ってもう一冊のファイルを持ち出した。ファイルは市販の物で、書類を入れるビニール状の袋が初めから綴じ込まれたタイプの物であり、そこには多くの書類がはち切れんばかりに仕舞われていた。西連寺は敢えて見た目汚らしく物を扱う癖がある。他人が面倒を避けて開こうとしなくする為だ。


「こっちは…畿内軍閥と、東京政府の関係物です?」


「全く、その通りだ」


 〈紳士録〉を手にしたままの綾香に見せる為、西蓮寺はファイルを開き、ページ複数枚を一度に掴んで開き、彼女へと見せた。確かに、開かれたページには東京政府や畿内軍閥の要人の調査情報らしき書類が封じられている。


 流石の綾香も驚くしかなかった。このファイルが綾香に惜しげもなく見せられているという事は、未だ敷島政府すら旗色を鮮明にできない混迷・情報錯綜状態の中(天変地異直後に武力衝突を起こした坂東武者や武田氏はこの際無視する)、南海の雄 伊勢北畠氏の一門では既に粗方調べられているという事だ。どうせ、一部しか開示しないに決まっているが、それでもこの一部は、マスコミに渡せば、容易にスクープ・一面レベルだ。いや、それどころではない。極めて貴重なシロモノだ。


 鎮西と丹波に一大基盤を築いている中浦家の娘である綾香でさえ、これ程の情報をこの短期間には得られなかった。北畠氏、特に西蓮寺が属する大河内御所は極めて情報戦に優れた能力を持つ。特に、陰謀に繋がるならば、どんな些細な事まで調べ上げる。それも、かなりの短期間で、だ。西蓮寺入道は大河内侍従具家の両翼の一つと見做されている人物であるから、特にこういう手合いには優れているのだ。


 天変地異から一ヶ月が過ぎ、偶発的な戦闘は漸く収まり出した。しかし、取り敢えず畿内軍閥の県令以下役人達を武力で追い出した紀州総督府と伊勢守護北畠氏はそれ以後、畿内軍閥と戦火を直接交える事はなく、使節を送り合って県令の復帰の如何を交渉する程度であった。畿内軍閥は対立する東京政府との対決の為に、敷島の西国諸勢力と手を取り合おうとしていたが、京・二条に政庁を構える敷島共和国徳川政権と近江一帯を軍国化している幕府総本営が健在である以上、無闇に勧誘をするわけにも行かず、盟約は難航していた。特に、大河内御所を擁する北畠氏は共和国の動向を伺いつつ、畿内軍閥の次の手を見据えていた為、畿内軍閥を率いる豊臣秀国もそう簡単に動けなかった。


 伊勢北畠氏の一門筆頭 大河内御所の親類である西蓮寺入道統家こと大河内九郎統家は大河内御所の家督争いにおいて大河内侍従具家に敗れて出家していたが、具家与党の重臣に才覚を惜しまれて登用され、以降は侍従の有力被官となり、「大河内の黒き翼」と名を知られた。


 その男が七宝院の高僧の一人として、本山の目の届く所に居る。


「実在する慧静僧正に成り済まそうだなんて、よく考えましたね。しかも、ご自身で」


 綾香は再び〈紳士録〉に目を通しながら呟くように言った。


「彼は現在出羽に座主と共に居て、戻ってくる事は暫く無い」


 それを利用した西蓮寺は浄土新教団「真教」の坊官としての立場で雇う僧兵20余りと侵入し、彼に暫し成り済ましているわけである。


「蝮殿が武田を上手く転がしてくれたものでね。騒ぎの間にも色々と調べられた。天恵を得たのだよ、我らは」


 西蓮寺は幾分調子に乗っているようであった。話を聞きつつ、綾香は〈紳士録〉に目を遣っているばかりだったが、幾分気になる点があったのか顔をムクっと上げて西蓮寺を見据えた。


「蝮殿って…矢津備が来ているの?」


「まさか。近場に揃えたのは坊官衆の選りすぐりと井上釈迦坊だけだ。他は侍従様に預けてある。それに、大抵の事は釈迦坊一人で何とかなろう」


 蝮殿こと大河内御所親類衆 魔虫谷景賦は兵を率いて来なかった。


 井上釈迦坊は「西蓮寺弁慶」と呼ばれた程の怪力無双の豪傑であり、「真教」門徒でないにも拘わらずその闘争に参じて転戦し、門徒中その悪僧振りを知らぬ者は居ない、とされる程であった。釈迦坊と西蓮寺入道との付き合いは長いが、まさかこんな所にまで連れて来ているとは。


 しかし、関心は他にある。七宝院しっぽういん座主ざすが居ぬ間に隙をつけて潜入して来た西蓮寺だが、彼がいつまでその姿で居るのか?綾香や晴政は東京で西蓮寺の使者と接触し、渋々七宝院へ侵入して来たわけだが、晴政の悪癖で色々と「日本人」に知られてしまっている。彼女達(以上に「大人」の男が一番信用できないのが世の常だが)との関わりはほどほどに、世話役としての役目を果たすだけ果たして、これ以上余計な尻尾を出したくはないのだが、その為には何処かで見切りを付けて出る必要がある。


 綾香は参考程度に西蓮寺に問うて見よう、と思った。


「それで、いつまで成り済ましているつもりなんです?」


「私の気分次第だね。先程は暫し、と言ったが、もう戻っては来れないだろうからね」


「‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥っ!?」


 この男は今何を言った?綾香は耳を疑いたかった。


 西蓮寺の言った事が、一体どういう意味か理解できない綾香ではない。対する西蓮寺は何かを謀るわけでもない、当然の事を言ったと言わんばかりの平然な面をしていた。


「…何をしたんです?」


 自然と語気が強まる。西蓮寺は綾香からの視線に強い意志が孕んでいるのに気が付き、敢えて視線を逸らした。


「私は何もしとらんよ。だがね、さっき言った筈だよ」


「さっき?」


「天恵を得たのだ、とね」


「…慧静は今何処に?」


 答えを急かすように先程より二三歩進み出て綾香は西連寺に迫ったが、彼は至極真面目な顔をして言った。


「羽黒山。出羽の『日本人』の大身清水氏に誘われて七宝院座主と共にね。そして、今出羽は…」


 と言い掛け、そこで西蓮寺は綾香の目をじっと見据えた。綾香の目はしっかりと見開かれ、西蓮寺の瞳をじっと見据えていた。答えを急かしているようにも見えた。


 西蓮寺はこれ以上、焦らす気はなくなった。


「さっさと答えを出そう。出羽は今火の海だ」


「何!?」


 驚嘆する綾香を見ないようにし、西連寺は更に続けた。


「君のお友達の南部家だよ。南部右馬御監殿率いる奥州探題軍が出羽を侵した。奥羽最北 津軽屯所に兵と篭っていた小野好文殿が『日本人』相手に挙兵し、右馬御監殿がそれに呼応した。清水側も遅滞戦術をとっているが、それが癪に触ったのかな、毛馬内の赤備と気田の切田衆が住民巻き添えに暴れているそうだ。出羽の村々は南部軍の略奪と放火にあって散々な有様、だそうだ」


「誰からそんな話を…?」


「君の友人シャルロッテからね。さっき君宛ての知らせにあったんだよ。彼女、この近辺にいるようだ」


「他人の手紙を勝手に見ないで頂けますっ!?」


 綾香は抗議した。心中は他所にあるものの。


 シャルロッテ―中浦家の盟友、「黒いドイツ人」の筆頭格、フォン ブルゲンバッハ家の才媛にして怪人、シャルロッテ マリア フォン ブルゲンバッハ―が七宝院に居る、つまり彼女の事だから近隣に潜伏しているという事か。そうなると、先日の武田の攻撃に一枚噛んでいる可能性がある。だが何ゆえに?綾香は考えようにもイマイチ混乱して上手く働かない頭へ無理に情況をじ込みつつ、頭の内で現状を整理しようと試みた。


 現在、七宝院勢力は甲斐守護 武田信賢と戦闘状態にある。


 自分達が七宝院に来る前に出羽の清水という「日本人」の富豪は七宝院の座主と慧静を羽黒山に招いている。


 何時から発生したかは不明―それでも、坂東惣一揆が星川軍と武力衝突したのよりかは後であるのは疑いようがなく、更に言えば教会で「異端審問」調査をした際にはそのような話は聞いていなかったから、本当につい最近であろう。


 しかし、それでいて、出羽側が襲われている事態とは如何なる事か?毛馬内信繁の赤備と気田義宣の切田衆が敢えて暴れ回る程の事態、とは思いも寄らなかった。両部隊が刈田狼藉にさえ及ぶという事は南部軍がなり振り構わなくなったという事だ。となると、晴政の居ない九戸勢や血気に逸る鹿角郡司勢は更に暴れ回っている事だろう。


 幾らなんでもやり過ぎだ。綾香はそう思わざるを得なかった。


「しかし、出羽とてただやられるばかりではない。本題はここからだよ、殿?」


「…どういう意味です?」


 問われ方に妙な気を感じた。と共に、僅かに背筋を悪寒が走った。


「出羽の清水しみず賢一郎けんいちろうという大身はビジネスマンとしては一流なんだが、戦の才能は凡人だ。故に、その指揮は神前寺しんぜんじ鳥海ちょうかいなる僧侶が行っている」


「それが?」


「まあ、聞け。聞き給えよ。その神前寺は中立を以て平穏を保つ事に長年腐心して来た事で東京政府とのパイプが太い。そこで、東京政府に頼んで、傭兵を頼んだわけだ。日ノ本にこれ程の実力ある傭兵は二人といない。そんな奴だ」


「毛馬内と気田の乱坊はそれが原因って事?」


「左様。だが、出羽側もそれを察知してね。気田にその傭兵と一団を差し向けてきた。すると、あの気田が白兵戦で退却を余儀なくされた。気田の手打ちの剣が叩き折られたそうだ。傭兵の剣は、関孫六だそうだよ」


 西連寺はそう言うと、暫し口を閉ざして綾香を見据えた。


 綾香は自分の背筋を通った悪寒の正体が分かって来た。


「まさか、よね?」


 綾香は念を押すように言葉を区切った。その顔は心無しか引きつってしまっている。


 綾香の表情を冷めた目付きで見据えていた西連寺は僅かに首を――横に振った。


「いいや、まさかにあらず。傭兵の名は―『ヤシマ』だ。『ヤシマセイシロウ』という、違う事無き八洲一族の男だよ。…、存在のね」


「――――――――――――――」


 綾香は耳疑い、言葉を失った。


「…やはり、忌名かな。は」


「・・・・・・・・・・・・・どうなっているのよ、これは」


 西連寺は呆けたような表情で呟いた綾香から僅かに顔を背けた。


「知らん。聞かれても困る。だが、…必ずしも彼『』が中浦の知る『』とは限らない」


「‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥はい?」


 理解が追い着かない。こういう事を言うのだろう。



 さて、どうしたものか。



 用意された部員3名用の部屋のあちらこちらに置き散らかされた少女達の手荷物を持ち上げ、一つ一つを部屋の隅に移して行く。



 私は、こんな所に散歩をしに来たのではないがね。しかし、厄介だ。まさかとは思うが…あの男、何故あのように呼んだ?誰が漏らした?



 幾分か顔を強張らせ、目を細める。手に持つ携帯電話の画面には馴染みの者よりの報せが届いている。



 クノへ ハルマサ…確かに奥州の男か。にしては訛りのない男だ。…なるほど、只の気狂いではあるまい。ならば、奴の正体は。奸物かんぶつとはこのような者を呼ぶのか。ジョゼフ フーシェのように潰し損なうととんでもない事態を招く者もいる。だが、あれは潰す手間を誤ったと言うべきか?暫しは様子を窺うとしよう。



 ナカウラ アヤカ…やはり、学生か。しかし、あのような女学生が居てたまるものか。いつの世も教会とは御し難い物だな。それにしても、あの脚、あの躰、あの腕、あの胸、あの態度。…なるほど、全てがカモフラージュか。ならば威力偵察でもしてやらねばならぬが…ルークRookめ、報せを受けておれば良いが。九戸は兎も角、あの女は今の情況では一番の目障りだ。十三宮を張らせておいて正解だった。知らずに動けば、私一人なら八つ裂きだ。しかし、ルークが居れば例え、〈従士〉と言えども如何様にでもやれるというもの。



 足音がする。ドタドタと聞こえて来る。



 …瀬田椿か。



 携帯をズボンのポケットに仕舞い、強張った顔を軽く右手で掴んで少し揉む。そして、やや大きめに溜息を突いて、元に戻った。



 さて、どうしてくれようか。…どうしてやろうか。



 部屋の隅、人影が僅かに震えた。

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