第2話 横浜のパンケーキ

 冷房の効いた銀色の車から降りると、駐車場は少し蒸し暑くて、ようやく不機嫌な自分を取り戻すことができた。


 「君から誘われるなんて、この真夏に雪でも降るのかな」


 松浦さんは車のドアを閉めながら、そんなことを言う。


 「…ほかに頼める人がいればそうしてます」

 「まあ、光栄なことだけどね」


 松浦さんが歩き出す。暑いなと言いつつ、シャツの上のボタンをひとつ外していた。そのあとを追いかけると、この日のために選んだ夏色のワンピースがふわりと揺れた。

 駐車場のビルからまぶしい外に出る。あかるい日差しがわさわさと包み込まれるように感じたら、ほんのり潮風のにおいがした。


 「おお、なんというかその、横浜だなあ」

 「…そうですね」


 目の前には山下公園の緑が広がり、奥にはきらめく海と大きな船が見える。


 実に横浜だ。文句のつけようがない横浜だ。



 松浦さんがお店に向かって歩く。僕はちょっとだけむっとした表情をしてついていく。なぜなら、姉さんを取られるから不機嫌で困ったことをしている弟、というのを演じなくてはいけないからだ。女の子の格好をして松浦さんを困らしているんだ。だけど…。ちょっぴりだけ姉さんに罪悪感がちらちらする。


 「なあ、ほのか君。これはデートなのかな?」


 …なっ。


 「…デートというのはもっと清純な物だと思います」

 「まあ、確かにもっとやさぐれた関係とも私も思うがね」

 「なんですか、それ」

 「君のお姉さんに頼まれているんだ。君を無下にできない事情がこちらにはある」

 「それは、やさぐれの意味が違います」

 「そうかな、そうかもしれないな。ははっ」


 松浦さんは少し笑った。僕はまだ不機嫌な表情のままでいられた。



 山下公園の目の前にあるパンケーキの有名なお店、そこを紹介してくれたのは松浦さんだった。なにかテレビで見たとか、女性の同僚からの紹介とか。その話を聞いて僕は、ずっとここに行ってみたかった。店名を聞いてネットで検索して、どんなところかなとあれこれ考えていた。その頃は、学校にも行けないくせに、横浜に行けると考えていたのが、自分でも訳がわからなかった。


 ある日松浦さんは、部屋に引きこもってばかりの僕を見かねて、外でパンケーキを食べに行こうと言い出した。そのときの僕は「何を言ってるんだ、この人は?」としか思わなかった。出かけようとしたその日は、姉さんの服を勝手に借りて女の子の格好をしてやった。はは、ざまあみろ、恥ずかしくて連れて行けないだろう! そうだ、このワンピースは反逆の証なんだ。



 店の前につくとお客さんが並んでいた。10人ぐらいだろうか。みんな女の人でちょっと安心する。


 「すんなり入れるとは思ってはなかったが…」

 「普段はもっと並んでいるらしいですよ」

 「ほのか君は暑くないかい?」

 「ええ、ちっとも」


 そう言いながら、僕はワンピースをチラチラとさせる。


 「涼しそうだな、確かに」

 「…それだけですか?」

 「ああ、それだけですよ」


 もっと困って欲しいのに。

 いつもそうだ。松浦さんを困らすのは、なかなかむずかしい。


 お客さんが4人ほど店内へ入っていく。列が少し進む。


 「あのとき買ったワンピースかい?」


 松浦さんがなんとなくたずねる。僕はむっとしながら答える。


 「そうです」

 「うれしいねえ。あの日は結局アウトレットモールをハシゴしていろいろ買いまくって…。はるかから電話が来て、あわてて帰ったっけ。ははっ」

 「…ひどいめにあいました」

 「まあ、いいじゃないか。かわいければ何でもよしだ」

 「ほんとにそう思ってます?」

 「ああ、そうとも。君はだいじなだいじな我が未来の弟じゃないか」

 「…はあ。弟ね」


 ワンピースの端を少しつまむ。その仕草を松浦さんがみつめている。


 「まあやっぱりデートぽい、な」

 「またそういうことを言う」

 「仕方ないだろう。君がそんな格好をしているのが悪い」

 「そもそも僕がこんな格好しているのは、心穏やかにご飯が食べたいからで…」

 「そんなにうれしそうに言われてもね」


 むう。むむう。


 「先頭をお待ちのお客様ー」


 いつものようにじゃれるように言い争っているとき、お店の人が僕たちを呼びに来た。



 アーリーアメリカンとかハワイアンとかいう言葉は知っていたけれど、店の中が全部そういうものでいっぱいなのは、初めての体験だった。白くて明るい壁、大きなお花が描かれたソファ、テーブルも椅子も南国ぽい良い感じ、お店の人の服にも大きな花柄があしらわれて、それはなんとも全体で圧倒してきて、「夏にハワイ気分、イイネ!」という気持ちになる。


 「いらっしゃいませ」


 メニューが渡される。パンケーキばかりかと思ったら、ステーキとかもある。ああなんてアメリカンだ。いやっはーとせいいっぱいアメリカの人に心の中でなりきる。

 松浦さんはメニューを見ながら悩んでる。


 「しょっぱいものも食べたいなあ」

 「わがままですよ。ここはパンケーキを食べなくては」

 「うーん、エッグベネディクト、という手もあるね」

 「むう」


 あいかわらず松浦さんは言うことを聞かない。僕は迷うことなくパンケーキにストロベリーのトッピングをつけることにした。

 声を人に聞かせたくない僕に代わって、松浦さんが注文してくれる。こういうとき、松浦さんは便利だ。


 ゆっくり店内を見渡したら、少し落ち着いてきた。軽く目をつぶる。隣のテーブルにいる女の人たちの会話が聞こえてくる。

 他愛もない話。誰が何を食べた。誰それさんが何をした。あれが好き、これが嫌い。食べ物の話、洋服の話、化粧品の話…。


 それを聞いてふと姉さんを思い出す。

 僕はパンケーキが食べたかった。家からちょっと遠い横浜だから松浦さんにお願いして一緒に来てもらった。よし、大丈夫…。僕の行動にやましいところはひとつもない…。


 「はるかは平気かい?」


 どうしてここで姉さんのことを口に出すのか。僕はむすっとして答える。


 「姉さんはいつも通りですよ。お店の方には行ってないんですか?」

 「最近は仕事が忙しくてね。なかなか夜の方には行けないんだ」

 「そうですか」


 いつものことだけど、あまり会話は続かない。

 この人は僕たちのことをどう思っているのだろうか…。両親が居ない姉弟だけで生活している者たちへの哀れみだろうか。それとも純真に姉を愛しているところから来る献身なのだろうか。そもそも僕のことを…。


 ああ、そうだ。

 この人も男の人なんだ。

 僕が嫌いな男の人。


 いろいろ聞いてみたいけれど、聞いたらすべてが終わる気がする。


 「お待たせしました。こちらがパンケーキ、こちらがエッグベネティクトになります」


 運ばれてきたものは、それはそれはすごくて、声が自然に出てしまった。


 「ほう」

 「こ、これが…、女の人を虜にする魔性のパンケーキ…」


 まず目をひくのがこのそびえ立つ山のようになってるホイップクリーム。パンケーキよりも何よりも、このホイップクリームが多い。パンケーキ自体は小さめだけれど、香ばしい香りがする。トッピングのイチゴはシロップで煮ていて、見るからに甘酸っぱそう。


 ひとくちを切り出す。たっぷりクリームをつけて、口に入れる。



 ひぎゅ~。くぅぅーんんっ!

 甘いのがっ、甘いのがたくさんっっ!

お口の中でいっぱいだよぉ!!


 おいしいっ、おいしい!



 パンケーキはふっわふわでもっちもちであたたかい。シロップも薫り高くてよい。それよりも、てんこもりになってるクリームがなんといってもおいしい。それほど甘くはなく、牧場で食べたソフトクリームのようなコクが感じられる。これならいくらでも食べられそう! そこにトッピングのいちごがぴったり!


 「おいしいですね、これ」

 「こっちもなかなかいいぞ」


 お皿にちょっともらう。ポーチドエッグとマフィン、それにチーズぽく見えるけれど、オランデーズソースというものらしい。一口にみんなまとまるように食べると、このソースのちょっぴりする酸味がおいしい。半熟の黄身とマフィンがからまって、ああ、あんまり食べたことがないおいしさ!


 「うまいものを食べると幸せだな」


 松浦さんがもぐもぐさせながら言う。そこには僕も同意だ。


 「僕もそう思います」

 「そしておいしいものを食べて喜んでいる顔を見るのもいいものだな」

 「…これはデートじゃありませんよ

 「食事は性的なことの代替行為ともいう」


 は、はあ?


 「なんですかそれ」

 「とすると、君とはもう、そういう関係というんじゃないのか」

 「…知りませんよ、そんなの」


 僕はぷいっとして、もくもくと食べる。

 いまの幸せは口の中にある。そう思い込む。



 それから15分後。



 …も、もう、らめえ。お口の中が…。

 …げふっ。

 

 もうひとつの別名「女性のジロー」と言われるのもわかった…。


 「なんでですか。なんなんですか。

  なんで、こんなにおなかにたまるんですか…」


 理不尽すぎて涙が出てくる…。


 「食べても食べても減らないよぉ…」


 おいしんだ。あと少しなんだ。でも、その一口がどうしても食べられない。


 「量ではないのかな」

 「いやたぶん、このたっぷりとしたクリームではないかと…」


 あっさりとしたホイップクリームなので、あんまりくどくはない。でも、これがじわりじわりとおなかに効いていく。クリームとシロップとパンケーキという三位一体攻撃に、僕は為す術もなかった。パンケーキを小さく何度も切り出しては、フォークに突き刺し、それをじっと見つめることを繰り返してる。


 「まあ、余すようなら私が食べるよ」

 「それはなんか悪い気がします」

 「そうかい?」


 そう言うなりフォークを伸ばして、僕が食べ残して細切れになったパンケーキを一口食べてしまった。


 「おいしいじゃないか」

 「そうなんですけどね…」

 「うん、クリームがいいな」

 「いいんですけどね…」

 「ふむ」


 松浦さんがおいしそうに僕があましたパンケーキを口に運ぶ。

 僕はコーヒーに救いを求めながら、そのようすをずっと眺めていた。


 お会計を松浦さんに押しつけて、僕は一足早く外に出る。冷房の効いてたお店から一転して夏の日差しを浴びる。少し気持ちいい。でも満腹すぎる。おなかをこっそりさすってると松浦さんが店から出てきた。


 「ごちそうさまでした」

 「来られてよかったな」


 店から出た松浦さんが頭をぽんぽん撫でる。


 「…なんか食べ過ぎましたね」

 「そうだな。最後の君の一口が効いた」

 「もう。食べなきゃいいのに」

 「君と同じものが食べたかったんだよ」


 何を言ってるんだ、この人は。

 ええい、さっきから頭を何度もぽんぽんするな。


 「腹ごなしにぶらぶらしますか」

 「あ、海が見たいです」


 素直にそう言えてしまった。


 山下公園を海沿いに歩いて行く。夏の日差しが海にきらめいている。潮風が心地いい。氷川丸を過ぎてすこし先にいくと、そこで公園は終わり。なんかちょっと残念な気持ちになった。もうこれで終わっちゃうのか…。帰るのが、ちょっとくやしい。


 「そうだ、ここを登ろう」

 「えー」

 「ほら、行くぞ」


 松浦さんは僕の手を引っぱる。目の前には山があり、その奥の森の中に続くような長い階段が見えた。ここを登るのは疲れそうでいやだったけれど、もう少し居られることがちょっとうれしくて、松浦さんに手を引かれるままにした。

 登り切るとそこは開けていて気持ちの良い場所だった。


 「どうだい。きれいだろ、ここ」


 すごい…。


 「…海ってなんだかいいですね。ずっと眺めていたくなる」


 コンテナがたくさんある埠頭。右側にはベイブリッジが見えて、大きな客船がぷかりと浮かんでる。海はきらきらとまぶしく光り、小さな船がその間をゆっくり動いている。海が見える丘公園というのは、ほんとに海が見える丘なんだなあ、とぼんやり思う。


 松浦さんが僕に近づく。


 「ほのか君、次は何食べたい?」

 「…パフェかなあ」

 「あんだけ食べたのに、君はほんとに甘いものが好きだな」

 「そうですか? ふつうです」

 「ふむ…。渋谷にあるフルーツパーラーがわりとおいしかった。今度行こう」

 「そう…」


 そのまま次の言葉が紡げなかった。松浦さんが横にいる。家族や友達ではないけれど恋人でもない近さ。ただ海を見つめる。潮風と一緒に松浦さんからすこし甘いタバコの香りがした。

 もう不機嫌な役ができなくなってた僕は、あのパンケーキの味を思い出していた。

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